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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(6)――コロンビアとメキシコで


1976年の半ばだったろうか、帰路北上する私たちを、ホルヘとベアトリスはコロンビアで待ち構えていた。往路もそうだったが、帰路でもまた、コロンビアには私たちに住居を無料で貸し与え、一定額の奨学金を供与してくれる日本人移住者がいた。経済的な成功を収めたその人は、大学や研究所の後ろ盾もないままに彼の地の旅を続けながら、歴史と文化を学んでいる人間だと私たちのことを捉えて、資金援助を申し出てくれたのだ。そのために、コロンビアでの滞在は長めにすることが可能だった。

私は、往路でも、コロンビアの在野の社会学者、ビクトル・ダニエル・ボニーヤ(Victor Daniel Bonilla)に何度も会って、彼の著書『神の下僕か、インディオの主人か』(”Siervos de Dios y Amos de Indios”)の理解できない箇所について質問していた。日本出発前に、私はこの本の英語訳を読んでいた。当時、ペリカン・ブックスが「ラテンアメリカン・スタディーズ」とでもいうようなシリーズを刊行していた。それはチェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』、ブラジルの都市ゲリラのカルロス・マリゲーラ、コロンビアのカトリック神父で反体制ゲリラに身を投じたカミーロ・トレス、従属理論のガンダー・フランクらの書物を揃えていて、そのラディカルな企画・編集の姿勢から私は多くを学んでいた。ボニーヤのその本は、20世紀に入ってからの時代になってなお、コロンビア南部の一先住民村落に、徹頭徹尾植民地主義を実践しながら浸透したキリスト教宣教会の姿を描いていて、私は大いなる関心を抱いていた。日本へ帰国したらこの本を翻訳して出版しようとすら考えていたので、帰路でも原著者に質問すべきことはたくさんあった。それを行なうためにも、加えて、ウカマウのホルヘたちとの再会を果たすためにも、コロンビア滞在が長引くことは大歓迎だった。【因みに、ボニーヤの著書は、前記のタイトルに「アマゾニアのカプチン宣教会」というサブタイトルを付して1987年に刊行できた(現代企画室)】。

コロンビアでは、ホルヘたちが懇意にしているこの国の映画作家の作品をいくつか見せてもらった。マルタ・ロドリゲス監督の『チルカレス13』などが記憶に残っている。レンガ職人の過酷な労働を描いたものだった。そのような労働現場を知らない「プチブル」のこころは打つ作品だ。敢えてそのように言うのは、わけがある。ホルヘたちの出発点は、『革命』(1962年、10分)と『落盤』(1964年、20分)という短篇2作品だ。ボリビアの底辺に生活する人びとの現実を描いた作品だが、ほどほど以上の暮らしはできる、「良心的な」人びとのこころは打った。だが、ホルヘたちがこの映像を最も見てもらいたいと考えていた、まさにそこに描かれている人びとに見せると、意想外な感想が戻ってきたという――自分たちが日々暮らしている生活のありのままが画面に出てきても、何よりも自分のこととして知っていることなのだから、別に面白くもない。私たちが知りたいのは、なぜ私たちはこんなに貧しいのか、なぜこんなことになってしまうのか――その原因を突き止めることだ。どうすればよいのかを考えるきっかけが欲しいのだ。

なるほど、言われてみれば、その通りだ。納得したホルヘたちは、その後作り始める長編作品では、人びとの貧困や貧窮の実態をリアリズム風に撮る方法を遠く離れて、事態が斯く斯く云々になっている原因を問いかける工夫を、物語展開の中に据えていくことになるのだ。

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その後数ヵ月して、ホルヘたちと私たちは別々な行路を辿ってメキシコへ着き、そこで再度落ち合った。『第一の敵』を16ミリフィルムで見せてもらった。大きく言えば、1960年代のラテンアメリカにおける反帝ゲリラ闘争の総括を試みようとしているような作品であった。先住民の村の様子、人びとの関係のあり方、都市から来たゲリラと先住民農民の出会い方などが描かれるなどキメの細かい組み立てが工夫されているが、骨格を言えば、そうである。すでに触れたように、この映画が採用した物語は、1965年ペルーでのゲリラ闘争の経験に基づいていることは、キトで会ったときに聞いた。今回ホルヘが付け加えて言うには、同じくペルーのクスコ周辺のラ・コンベンシオン村における先住民農民の土地占拠闘争の経験もまた参照している、と。米国の第4インター系の出版社は、この闘争の指導者が第4インター系のウーゴ・ブランコであることを強調して、彼が書き表わした小さな本の英語版を複数冊出版していたので、私はそれらを取り寄せて、日本出発前に読んでいた(しかも、それはその後、私たちが日本を離れた翌年だったが、ウーゴ・ブランコ著『土地か死か――ペルー土地占拠闘争と南米革命』、山崎カヲル訳 柘植書房、1974年、となって翻訳・出版された)。

こうして、この映画の背後には、特定されているわけではないにしても、60年代ラテンアメリカにおける具体的な闘争がさまざまにちりばめられている。時は1976年――チェ・ゲバラがボリビアで死んだのは1967年だから、それから9年後のことである。チェ・ゲバラの記憶は、日本でもまだ人びとの心に焼きついている。ホルヘたちとの別れのときも近づいていて、そろそろ、今後どんな協力体制が可能かを検討する話し合いも始まっていた。『第一の敵』なら、日本上映のきっかけになり得るかもしれない。私たちは次第に、そのような気持ちに傾いていた。

メキシコでは、ホルヘを媒介にして、いろいろな出会いがあった。ボリビアの社会学者のレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)に会った。最初にメキシコに住んでいた時だったと思うが、彼の著書『ラテンアメリカにおける二重権力――ボリビアとチリのケースの研究』( ”El poder dual en América Latina : estudio de los casos de Bolivia y Chile ”)などを読んでいて、注目していた。彼を私たちに紹介するとき、ベアトリスは「世が世なら、大統領になるべき人です」と言った。最新作『叛乱者たち』には、サバレタ・メルカードの言葉が引かれるシーンがある。字幕特有の、厳しい字数制限の関係上もあって、日本の観客が知る由もない彼の名前は字幕には登場しない。ボリビアとパラグアイとの間で戦われたチャコ戦争(1932~35年)は、膨大な死者数と領土喪失という結果で近代ボリビアにとって癒しがたい禍根を残したが、それをサバレタ・メルカードは「その結果、われわれは自分が何者であるかを知ったのだ」と表現した。こういう文脈で、彼の言葉は出てくるのである。

ホルヘ・サンヒネスは亡命の身ではあっても、制作・撮影・上映などの現場から離れるわけにはいかないという考えから、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビア、メキシコと転々としながら仕事を続けているが、家族はキューバにいた。メキシコは、久しぶりの合流には格好の場所である。4人の子どもたちにも会った。娘ふたり、息子ふたり。4,5歳から15,16歳。小さなパーティの場では、キューバの「革命教育」の成果だろう、長女がしっかりとした社会意識に基づいた挨拶をした。思えば、『コンドルの血』には、もっと幼かったこれら4人の子どもたちがブルジョワ家庭の子ども役で「出演」していたではないか。この作品の制作・撮影は1969年のボリビアで行なわれたから、それが可能だったのだ。そう言えば、『第一の敵』終幕近くの、ゲリラと政府軍の銃撃戦の場面では、あそこで銃を撃っているのはぼくだよ、とホルヘは言っていた。家内制手工業のような仕事ぶりに、思わず笑った。乏しい資金で賄う映画制作の現場とは、このようなものなのだろう。

(3月26日記)