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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

死刑囚が描いた絵をみたことがありますか


『週刊金曜日』2014年9月19日号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が運営する死刑囚表現展の試みは、今年10年目を迎えた。現在、日本には130人ほどの死刑確定囚がいる。未決だが、審理のいずれかの段階で死刑判決を受けている人も十数人いる。外部との交通権を大幅に制限され、人間が生きていくうえで不可欠な〈社会性〉を制度的に剥奪されている死刑囚が、その心の奥底にあるものを、文章や絵画を通して表現する機会をつくりたい――それが、この試みを始めた私たちの初心である。

死刑囚が選択する表現は、大きくふたつに分かれる。絵画と、俳句・短歌・詩・フィクション・ノンフィクション・エッセイなどの文章作品である。すぐれた文章作品は本にして刊行できる場合もあるが、絵画作品を一定の期間展示する機会は簡単にはつくれない。それでも、各地の人びとが手づくりの展示会を企画して、それぞれ少なくない反響を呼んできた。日本では、死刑制度の実態も死刑囚の存在も水面下に隠されており、いわんやそれらの人びとによる「表現」に市井の人が接する機会は、簡単には得られない。展示会に訪れる人はどこでも老若男女多様で、アンケート用紙には、その表現に接して感じた驚き・哀しみ・怖れ、罪と罰をめぐる思い、冤罪を訴える作品の迫力……などに関してさまざまな思いが書かれている。死刑制度の存否をめぐってなされる中央官庁の世論調査とは異なる位相で、人びとは落ち着いて、この制度とも死刑囚の表現とも向き合っていることが感じられる。

獄中で絵画を描くには、拘置所ごとに厳しい制限が課せられている。画材を自由に使えるわけではない。用紙の大きさと種類にも制約がある。表現展の試みがなされてきたこの10年間を通して見ると、応募者はこれらの限界をさまざまな工夫を施して突破してきた。コミュニケーションの手段を大きく奪われた獄中者の思いと、外部の私たちからの批評が、〈反発〉も含めて一定の相互作用を及ぼしてきたとの手応えも感じる。外部から運営・選考に当たったり、展示会に足を運んだりする人びとが、一方的な〈観察者〉なのではない。相互に変化する過程なのだ。社会の表層を流れる過剰な情報に私たちが否応なく翻弄されているいま、目に見えぬ地下で模索されている切実な表現に接する機会にしていただきたい。

(9月10日記)

付記:なお、記事では、12人の方々の絵が、残念ながらカラーではありませんが、紹介されています。

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[53]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その1)


『反天皇制運動カーニバル』18号(通巻361号、2014年9月9日発行)掲載

8月5日~6日付けの朝日新聞が、いわゆる「慰安婦」問題に関する32年前の記事に過ちがあったことを認め、これを取り消したことから、右派の政治家、メディア、口舌の煽動家たちが沸き立っている。大仰な「嫌韓・反中」報道で民衆を悪煽動することが習慣化している一部週刊誌編集部が言うように、この種の記事を載せると「売れる」のだから止められない、という時勢の只中での出来事である。

一部の連中から「サヨク」とか「進歩派」と呼ばれる朝日新聞の中にも、きわめて従順な体制派の記者もデスクも編集委員もいるだろう。同じように、〈非〉あるいは〈反〉の志を個人としては持つ人間の中にも、焦りなのか未熟なのか功名心なのか、はたまた素質的に適任者ではないのか、その個人的な思いのままに突っ走り、事実の裏づけに乏しい記事を書いてしまう記者も、稀にはいるのである。それは、どの人間世界にあってもあり得るような、自然の理(ことわり)と言うべきことがらである。

「済州島で慰安婦を強制連行した」ことを自らの体験として語った元山口県労務報国会下関支部動員部長・吉田清治の「証言」を朝日新聞が取り上げたのは、1982年9月2日付け大阪本社版において、であった。この「証言」に関しては、済州新聞の現地記者が追跡調査を行なった結果、それが事実無根であることを1989年8月14日付け同紙で報道し、日本では1992年4月30日付け産経新聞が歴史家・秦郁彦の調査に基づいて、吉田証言=虚偽説を提起した。だが、秦説の説得力がメディア全体に浸透するには時間がかかり、その後もなおしばらくの間は、産経、毎日、読売の各紙とも吉田証言に一定の重要性を認めて報道していたことは、想起しておくべきだろう。朝日新聞は1997年3月31日付けで「慰安婦」問題特集を行なっているが、その段階では、吉田証言を根拠に「慰安婦強制連行」説を主張する言説は、どこにあっても、ほぼ消えている。すでに信憑性を失っていたのである。吉田清治が「慰安婦強制連行」の証言者として初めて登場してから15年の間、確かにその証言はさまざまな波紋を投げかけてきたわけだが、証言の「売り込み」を掛けられたジャーナリストの中には、当初からその信憑性を疑った者もいた。したがって、事実に迫り得るかどうか――82年に「スクープ」をした朝日新聞の記者も含めて、ジャーナリストは例外なく、確かに篩にかけられたのである。

82年の朝日新聞大阪本社版の記事取り消しは、97年のこの段階で行なわれるべきであった。91年には、元「慰安婦」金学順さんが被害者として名乗り出て、日本国家の謝罪と賠償を求めて提訴していた。国内情勢としては戦後史を長く支配した軍事独裁体制から解放されて発言の自由を獲得し、国際的には最大矛盾であった東西冷戦構造が崩壊して個々の国が抱える内部矛盾が顕わになった状況の中で、ようやくにして被害当事者が発言を始めたのだ。それが、何よりも「慰安婦」が制度として存在したことを明かしており、その証言を通して国家犯罪の実態が暴かれようとしていた。

右派メディアと極右政治家はいきり立った。左翼は――と、彼らは言った――91年にソ連が崩壊して社会主義の夢が消えたと思ったら、今度は植民地の元娼婦を持ち出してきて、反日策動を試みている、と。公娼制度が存在した時代状況の中で、彼女たちは商売としてそれに従事しただけだ、金を稼いだではないか、と。植民地下にあったのだから、日本国民である彼女たちを使っただけだ、と。

こうして、「慰安婦」問題に関わる論議は97年段階で、国家責任を「追及」する側も、「防御」にまわる側も、すでにして吉田証言にはまったく依拠することなく、沸騰していたのである。その意味では、朝日新聞の今回の措置はあまりに遅きに失した。しかも、極右政権下で問題の「見直し」が叫ばれている時期であるという意味では、あまりにもまずいタイミングであったと言わなければならない。このことは、だが、次の事実をも物語っている。「慰安婦」問題の本質は、連行の様態それ自体に「強制性」があったか否かではないこと、制度それ自体が孕む問題の根源へと批判的分析の眼を向けるべきこと。これ、である。今は元気溌剌にふるまっている首相A・Sや右派メディアが、本来なら躓いているはずなのは、ここである。【この項、続く】

(9月6日記)