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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(6)――コロンビアとメキシコで


1976年の半ばだったろうか、帰路北上する私たちを、ホルヘとベアトリスはコロンビアで待ち構えていた。往路もそうだったが、帰路でもまた、コロンビアには私たちに住居を無料で貸し与え、一定額の奨学金を供与してくれる日本人移住者がいた。経済的な成功を収めたその人は、大学や研究所の後ろ盾もないままに彼の地の旅を続けながら、歴史と文化を学んでいる人間だと私たちのことを捉えて、資金援助を申し出てくれたのだ。そのために、コロンビアでの滞在は長めにすることが可能だった。

私は、往路でも、コロンビアの在野の社会学者、ビクトル・ダニエル・ボニーヤ(Victor Daniel Bonilla)に何度も会って、彼の著書『神の下僕か、インディオの主人か』(”Siervos de Dios y Amos de Indios”)の理解できない箇所について質問していた。日本出発前に、私はこの本の英語訳を読んでいた。当時、ペリカン・ブックスが「ラテンアメリカン・スタディーズ」とでもいうようなシリーズを刊行していた。それはチェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』、ブラジルの都市ゲリラのカルロス・マリゲーラ、コロンビアのカトリック神父で反体制ゲリラに身を投じたカミーロ・トレス、従属理論のガンダー・フランクらの書物を揃えていて、そのラディカルな企画・編集の姿勢から私は多くを学んでいた。ボニーヤのその本は、20世紀に入ってからの時代になってなお、コロンビア南部の一先住民村落に、徹頭徹尾植民地主義を実践しながら浸透したキリスト教宣教会の姿を描いていて、私は大いなる関心を抱いていた。日本へ帰国したらこの本を翻訳して出版しようとすら考えていたので、帰路でも原著者に質問すべきことはたくさんあった。それを行なうためにも、加えて、ウカマウのホルヘたちとの再会を果たすためにも、コロンビア滞在が長引くことは大歓迎だった。【因みに、ボニーヤの著書は、前記のタイトルに「アマゾニアのカプチン宣教会」というサブタイトルを付して1987年に刊行できた(現代企画室)】。

コロンビアでは、ホルヘたちが懇意にしているこの国の映画作家の作品をいくつか見せてもらった。マルタ・ロドリゲス監督の『チルカレス13』などが記憶に残っている。レンガ職人の過酷な労働を描いたものだった。そのような労働現場を知らない「プチブル」のこころは打つ作品だ。敢えてそのように言うのは、わけがある。ホルヘたちの出発点は、『革命』(1962年、10分)と『落盤』(1964年、20分)という短篇2作品だ。ボリビアの底辺に生活する人びとの現実を描いた作品だが、ほどほど以上の暮らしはできる、「良心的な」人びとのこころは打った。だが、ホルヘたちがこの映像を最も見てもらいたいと考えていた、まさにそこに描かれている人びとに見せると、意想外な感想が戻ってきたという――自分たちが日々暮らしている生活のありのままが画面に出てきても、何よりも自分のこととして知っていることなのだから、別に面白くもない。私たちが知りたいのは、なぜ私たちはこんなに貧しいのか、なぜこんなことになってしまうのか――その原因を突き止めることだ。どうすればよいのかを考えるきっかけが欲しいのだ。

なるほど、言われてみれば、その通りだ。納得したホルヘたちは、その後作り始める長編作品では、人びとの貧困や貧窮の実態をリアリズム風に撮る方法を遠く離れて、事態が斯く斯く云々になっている原因を問いかける工夫を、物語展開の中に据えていくことになるのだ。

*           *         *

その後数ヵ月して、ホルヘたちと私たちは別々な行路を辿ってメキシコへ着き、そこで再度落ち合った。『第一の敵』を16ミリフィルムで見せてもらった。大きく言えば、1960年代のラテンアメリカにおける反帝ゲリラ闘争の総括を試みようとしているような作品であった。先住民の村の様子、人びとの関係のあり方、都市から来たゲリラと先住民農民の出会い方などが描かれるなどキメの細かい組み立てが工夫されているが、骨格を言えば、そうである。すでに触れたように、この映画が採用した物語は、1965年ペルーでのゲリラ闘争の経験に基づいていることは、キトで会ったときに聞いた。今回ホルヘが付け加えて言うには、同じくペルーのクスコ周辺のラ・コンベンシオン村における先住民農民の土地占拠闘争の経験もまた参照している、と。米国の第4インター系の出版社は、この闘争の指導者が第4インター系のウーゴ・ブランコであることを強調して、彼が書き表わした小さな本の英語版を複数冊出版していたので、私はそれらを取り寄せて、日本出発前に読んでいた(しかも、それはその後、私たちが日本を離れた翌年だったが、ウーゴ・ブランコ著『土地か死か――ペルー土地占拠闘争と南米革命』、山崎カヲル訳 柘植書房、1974年、となって翻訳・出版された)。

こうして、この映画の背後には、特定されているわけではないにしても、60年代ラテンアメリカにおける具体的な闘争がさまざまにちりばめられている。時は1976年――チェ・ゲバラがボリビアで死んだのは1967年だから、それから9年後のことである。チェ・ゲバラの記憶は、日本でもまだ人びとの心に焼きついている。ホルヘたちとの別れのときも近づいていて、そろそろ、今後どんな協力体制が可能かを検討する話し合いも始まっていた。『第一の敵』なら、日本上映のきっかけになり得るかもしれない。私たちは次第に、そのような気持ちに傾いていた。

メキシコでは、ホルヘを媒介にして、いろいろな出会いがあった。ボリビアの社会学者のレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)に会った。最初にメキシコに住んでいた時だったと思うが、彼の著書『ラテンアメリカにおける二重権力――ボリビアとチリのケースの研究』( ”El poder dual en América Latina : estudio de los casos de Bolivia y Chile ”)などを読んでいて、注目していた。彼を私たちに紹介するとき、ベアトリスは「世が世なら、大統領になるべき人です」と言った。最新作『叛乱者たち』には、サバレタ・メルカードの言葉が引かれるシーンがある。字幕特有の、厳しい字数制限の関係上もあって、日本の観客が知る由もない彼の名前は字幕には登場しない。ボリビアとパラグアイとの間で戦われたチャコ戦争(1932~35年)は、膨大な死者数と領土喪失という結果で近代ボリビアにとって癒しがたい禍根を残したが、それをサバレタ・メルカードは「その結果、われわれは自分が何者であるかを知ったのだ」と表現した。こういう文脈で、彼の言葉は出てくるのである。

ホルヘ・サンヒネスは亡命の身ではあっても、制作・撮影・上映などの現場から離れるわけにはいかないという考えから、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビア、メキシコと転々としながら仕事を続けているが、家族はキューバにいた。メキシコは、久しぶりの合流には格好の場所である。4人の子どもたちにも会った。娘ふたり、息子ふたり。4,5歳から15,16歳。小さなパーティの場では、キューバの「革命教育」の成果だろう、長女がしっかりとした社会意識に基づいた挨拶をした。思えば、『コンドルの血』には、もっと幼かったこれら4人の子どもたちがブルジョワ家庭の子ども役で「出演」していたではないか。この作品の制作・撮影は1969年のボリビアで行なわれたから、それが可能だったのだ。そう言えば、『第一の敵』終幕近くの、ゲリラと政府軍の銃撃戦の場面では、あそこで銃を撃っているのはぼくだよ、とホルヘは言っていた。家内制手工業のような仕事ぶりに、思わず笑った。乏しい資金で賄う映画制作の現場とは、このようなものなのだろう。

(3月26日記)

ウカマウ集団の長征(5)――チリで


アルゼンチン南部のネウケン経由で国境を超えると、テムコというチリの町に着く。1976年の2月のことだから、1973年9月11日の軍事クーデタから数えて2年半ほど過ぎたころである。ブエノスアイレスで親しく付き合った若夫婦の、妻のほうがチリ人だった。紹介された親戚の家を、テムコで訪ねた。軍事クーデタから10日後の1973年9月23日、その状況に絶望するかのようにして「憤死」した詩人、パブロ・ネルーダの縁者の家だった。ネルーダの自宅がそうされたように、この家もクーデタ直後に家宅捜査され、書物はほとんど焼かれてしまったと家人は言った。焼け残った書物が、わずかにあった。

秦の始皇帝による「焚書抗儒」以来、古今東西、時の権力者が気にくわぬ書物を焼き捨てるという所業のことは数多く聞いてきたが、ヘスス・ララの本のことといい、ここチリでの出来事といい、焼け残った現物を目にすると、いわく言い難い、不快な思いがこみ上げてきた。加えて言うと、「抗儒」にひとしい所業もまた、軍事政権下のあの時代には、ラテンアメリカのどこでも行なわれていて、ウカマウはのちに『地下の民』において、官憲に逮捕された反体制活動家が、自分が埋められることになる穴を自ら掘るよう強制されるシーンを挿入している。現実に起こった出来事から採った、痛ましい挿話だったのだろう。

テムコのその家では、夜、縁者がみんな集まってくると、みんなは声を潜めて、抵抗歌を歌った。「ベンセレーモス」はじめ、ビクトル・ハラなどが歌っていたそれらの歌は、私たちもよく知っていたので、その密かな声に唱和した。

*         *        *

これから書くことは、ホルヘ・サンヒネスたちとのつき合いが深まってから知ったことである。ホルヘは、ラパスの大学で哲学を学んでいたころ、チリのコンセプシオンという町の大学の夏季講座を受講した。政治・社会的な意味での進取性と戦闘性においてよく知られた町だという。1950年代半ばから後半にかけての、いずれかの年のことだったであろう。講義科目の中に、映画講座があった。ホルヘと同国人の建築技師、リシマコ・グティエレス(愛称マコ)が、一本の映画も撮ったこともないのに、ただ映画好きだというだけの理由で映画講座を担当していた。ホルヘのなかでの、映画への関心も、社会的な関心も、このマコとのつき合いによって生まれた、と彼は述懐している。付き合っている時には知らなかったが、彼は実は、チェ・ゲバラやインティ・ペレードと同じくボリビアのELN(民族解放軍)に属していて、その後ボリビアの官憲に殺害されている、という。

その講座では台本コンクールがあって、一番になるとその台本に基づいた映画を作るという特典が得られる。ホルヘがそれに当たった。そこで「たった二分間の映画を作った」。ホルヘは言う。

映画ではたった一分間でも多くのことが表現できる、とマコは言っていたけれど、実にそのとおりだった。その二分間で、ひとつの物語を作り上げた。一人の浮浪児が、禁止の立札だらけの公園を歩き回っている。「さわるべからず」「踏むべからず」「寝そべるべからず」「すわるべからず」。その子はしばらく前から何も食べていない。物乞いをするにも誰もくれはしないから、もう疲れた。新聞にくるまって門口で寝るのも、もう飽きた。公園の花を見るが、飾りとか自然の詩としてそれを見ることができない。彼にとっては、花さえもが、生きるか死ぬかの鍵を握っている。彼は何本かの花をもぎ取って逃げる。公園の管理人が追いかける。逃げおおせて、花を売る。それで得た金でパンを買い、小路に座って食べようとする。ところが、一部始終を見ていた二人の乞食がパンを奪って逃げる。子どもはまた公園へ戻って花を見つめる。さまざまな角度から撮ったその子の顔、花、立札、見張りの管理人が並置される。涙あふれる子どもの顔………これでおしまい。

ホルヘ・サンヒネス『革命映画の創造』(太田昌国訳、三一書房、1981年)

8ミリで作ったというこの小品で音楽を担当したのは、当時コンセプシオンに住んでいたビオレッタ・パラだった。彼女もマコらの仲間で、後年ほど有名ではなかったが、彼女に宿る、歌の天賦の才能は誰もが知るところだった。「彼女のギターから生まれたその曲を」ホルヘはとても気に入っていたが、事故のためにそのフィルムは失われて、今は存在しない、ということだ。【因みに、帰国してのち、唐澤は詩人の水野るり子さんお願いして、ビオレッタ・パラの『人生よ ありがとう――十行詩による自伝』を編集・刊行した(現代企画室、1987年)。この本に付した付録に、ホルヘ・サンヒネスは「ビオレッタの思い出」という文章を寄せてくれた。】

これが、ホルヘの映画的な出発点だった。チリは、したがって、彼にとって忘れがたい土地だった。チリはその後も、ホルヘにとって重要な土地となる。キトで初めて出会ったとき、1971年以後の亡命による「放浪」か「流浪」の旅のことを語った時、彼はペルー、エクアドルの前にはチリにいた、と語った。アジェンデ社会主義政権の成立は1970年だった。それ以降、軍事クーデタでそれが倒される73年9月までの3年間、軍事体制から逃れたラテンアメリカ各国の革命家と反体制活動家が、数多くチリに庇護を求めた。ホルヘもそのひとりであった。ホルヘだけではない、知り合ったラテンアメリカの知識人、作家、映画人などの証言によると、アジェンデ政権下の文化活動はこれらの亡命者の参加なくしては考えられないくらいに重要な役割を担ったという。広い意味で考えても、私も従来から強調してきたように、チリ革命の重要な性格のひとつとして、その文化革命的な要素を挙げることができる。アリエル・ドルフマンらが学生の協力を得て行なった、ディズニー漫画に見られる支配的な表現に対する批判(『ドナルド・ダックを読む』、晶文社、1984年)や、いわゆる女性雑誌が読者に植え付ける常識的な価値観と固定観念(それこそが、読者から批判的な主体性を奪い、支配的な文化に奉仕するものとなる)についての批判的な分析など、見るべき成果があった。その仕事を囲い込むように、チリに亡命していた大勢の文化活動家たちの働きがあったのだろう。

キトでは多くを語らなかったが、ホルヘはその活動が目立った人物のひとりだったのかもしれない。73年9月11日のクーデタの直後、実権を握った軍事体制は多数の外国人亡命者の逮捕命令を下した。ホルヘもそのひとりだった。彼の場合は「見つけ次第、射殺するも可」との命令が下されたようだ。クーデタの準備は時間をかけて企てられていて、その間に「要注意人物」リストも出来上がっていたのであろう。「アンデス越えをした」とホルヘは語った。あまりに生々しい体験だろうから、その詳細を聞き出す「勇気」が、その時の私たちには、なかった。

「アンデスを越えて」73年末か74年初頭にペルーに行き着いた彼は、その74年にペルーで『第一の敵』を撮影・制作するのである。

(2014年3月19日記)

ウカマウ集団の長征(4)


ボリビアの書店へ行ってボリビア関係の書物を見ていると、Editorial “Los Amigos del Libro” (本の友社)という名前の出版社のものが目立った。Enciclopedia Bolivianaと総称して、ボリビアに関するさまざまなテーマの書物を出版していた。いくつもの本を束ねて、「ボリビア百科事典」的な叢書になることを目指しているのだろう、と思えた。ケチュア語やアイマラ語の辞書もあって、当然にもラパスで購入した。これらも、のちにウカマウ映画の字幕翻訳作業を行なう際には大いに役立つことになる。その後、コチャバンバという都市へ行く機会があった。(因みに、永井龍男に「コチャバンバ行き」という短篇がある。1972年の作品だが、行く前に読んだのか帰国してから読んだのか、今となっては定かではない。)それはともかく、コチャバンバには「本の友社」の本社がおかれていることを思い出し、寄ってみた。社長自ら応対してくれた。Werner Guttentag T. という、ドイツ系移民の末裔だった。南米各国にはドイツ系移民がけっこう多い。

いろいろと話しているうちに、すでに幾冊かの本を購入していた作家、ヘスス・ララ(Jesús Lara)の話題になった。メキシコに滞在していた時に、”Guerrillero Inti Peredo”(『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』)と題する彼の本を読んでいた。インティとココのペレード兄弟は、チェ・ゲバラ指揮下のELN(ボリビア民族解放軍)に属していた。インティは、1967年ゲバラ隊が壊滅されたときにも生き延びて、その後「われわれは山へ帰る」と題する声明を発表したこともあったが、1969年にラパス市内の隠れ家で見つかって、結局は殺されてしまった。ヘスス・ララはインティの義父に当たるが、コチャバンバに住んでいるという。グーテンターク氏は、その場で作家に電話して、日本からの旅人が会いたがっているよ、と伝えてくれた。すぐ訪ねてみた。ここでも話はずいぶんと弾んだが、作家は、官憲の手入れのあとで焚書された自分の本、『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』の焼け焦がれた残骸写真を見せてくれたうえで、焼増しを一枚贈ってくれた。その写真は、前回触れたドミティーラの『私にも話させて』を刊行する際、関連する記述があったので収録した(焼かれたのは、他ならぬ「本の友社」版である。私がメキシコで読んだ版は、メキシコの出版社から出ているものであった)。

その後、帰途ペルーのリマに滞在していた時、ヘスス・ララ原作の演劇『アタワルパ』がリマ郊外で上演されるというニュースを新聞で知った。アタワルパは、スペイン人征服者によって処刑された、実質的なインカ帝国最後の皇帝である。その夜、リマ郊外へ出て山あいに入ると、両側のかがり火が迎えてくれる。野外という雰囲気も手伝ったのだろうが、内容的にもなかなかに感動的な舞台であった。コチャバンバの作家に、舞台を観た感想を書き送った。彼も、自作が上演される機会に私たちが偶然にも居合わせたことを心から喜んでくれた。ホルヘたちに再会した時、このことも話題にした。彼らも作家とは知り合いのようだが、長引いている亡命生活の中で音信も途絶えていたので、私たちから氏の元気な様子を聞いてうれしいようだった。こうして、これもまた、どこかでウカマウに繋がっていく物語ではある。

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ボリビアの南の端と国境を接する国のひとつはアルゼンチンである。そこへ移った。白人国と呼ばれることが多い。さまざまな先住民族が住まう土地に、征服者としてヨーロッパ人が侵入し、そこを植民地化し、植民地経営のために西アフリカから膨大な数の黒人奴隷を強制連行し、しかもこれらの諸民族の血が複雑に交じり合い――という過程を経たのだから、現在あるラテンアメリカの国々は、複合的な多民族社会を形成している場合が多い。ウカマウ集団の出身国であるボリビアは、2006年のエボ・モラレス大統領誕生を契機に行なわれてきた改革政策のなかで、国名も「ボリビア多民族共和国」と改めた。それでも、国によって、その民族構成には大きな差が見られるから、人口構成に占める白人の率によっては「白人社会」という呼称が成立してしまうのである。そうであれば、ウカマウに即して先住民族の存在を重視するという観点から見るなら、アルゼンチンには見るべきことはないのか。

日本を出る前、この地域に関する多くの書物を読んだ。中でも印象的な1冊は、ダーウィンの『ビーグル号航海記』だった。チャールズ・ダーウィンは、1831年から5年間、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗って、南米大陸沿岸からガラパゴス島へ、さらに南太平洋地域をめぐりながら、航海記を記録する。記述されるのは主として地質や動植物の観察記録だが、時代はまさしくラテンアメリカ各国がスペインからの独立を遂げた直後のこと、陸地内部の社会・政治状況に触れる個所もないではない。独立直後のアルゼンチンが、ローサス将軍の下、先住民族の徹底的な「殲滅作戦」を展開したことは、当時日本でも読める一般的な歴史書でも書かれていたから、まさしくそれと同時代にアルゼンチン沿岸を通ったダーウィンの反応を知りたかったのだ。

記述によれば、ダーウィンはローサス将軍にいちど出会っている。率いる軍隊が「下等な、強盗のような」本質をもつことに気がつきつつ、将軍の、非凡で熱情あふれる性格を肯定的に述べている。過酷な運命を強いられる先住民への「同情」を示す記述もあるが、その「掃討戦」は無理からぬことというのが、彼が行き着いている結論である。ひとつ関心を引くエピソードがある。先住民「殲滅戦争」に参加したスペイン人から、その戦いぶりを聞いたダーウィンは、その非人道性に抗議する。答えは、次のようなものだった。「でも止むを得ません。どんどん産みますからね」。これこそ、まさしく、本連載1回目で触れたウカマウ集団の作品『コンドルの血』に登場する、20世紀米国の「後進国開発援助」グループの意識でもあった。

さて、アルゼンチンの先住民人口は、総人口の0.5%を占めるにすぎないが、そこにも「動き」はあった。首都ブエノスアイレスにいたとき、新聞で知ったのだろう、先住民の集まりがあるという告知があり、そこへ出かけた。会場はバスク会館といった。スペインのバスク地方からの移住者たちが独自に持っている会館なのだろう。その集まりがどんなものであったかは、もはや覚えてはいない。それでも、そこでの出会いから始まって、対権力との関係上から公にはできない集まりへも誘われた。それは、なんと、ウカマウの『コンドルの血』の上映会であった。どこからともなく現われた50人近くの、主として先住民系の人びとが、スクリーンに見入った。

ボリビアは、米国「平和部隊」の恣意的な「援助計画」に翻弄された当事国だった。対象とされた先住民人口も総人口の過半を占めており、問題はあまりに深刻で、政府も「平和部隊」の追放まで行なうだけの、社会的・政治的基盤はあった。翻って、きわめて少数の先住民人口しかいないアルゼンチンにおいては、先住民は、また別な困難さに直面しているのだろうと、私は考えていた。

(2014年3月19日記)

ウカマウの長征(3)


キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。

だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。

とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。関心をもって、声をかけた。ケチュア人であった。この人物については、私の新刊『【極私的】60年代追憶――精神のリレーのために』(インパクト出版会、2014年)の第8章「近代への懐疑、先住民族集団の理想化」で詳しく触れた。ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。ここでは最小限のみ言及しておきたい。

ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。

誰にしても、この世に生を享けたときの諸条件が絶対化され、生きていく中で、活動していく中で、思考していく中で――「変わる」ことの可能性が否定されるなら、それはすなわち、人間の〈可変性〉を否定されることを意味する。私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。

のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。私もその意見には同感だった。ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。ここに白人は要らない。マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。その行動のなかで、ひとは変わり得る。そのことへの確信とでも言えようか。民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。

あとになっての、もう一つの間接的な「繋がり」――それは、ボリビアと言えば忘れるわけにはいかない鉱山地帯への旅から生まれた。ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。ボリビアの一作家は次のように表現したという。「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。

私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。

帰国後しばらくして、唐澤秀子は、このドミティーラの聞き書き『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人々の物語』を翻訳した(現代企画室、1984年)。炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8403-6

(3月14日記)

ウカマウ集団の長征(2)


エクアドルの次にはペルーへ行った。ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。だから、ペルーに滞在している間は、この映画が基となる史実を借用したという、ペルーのゲリラ・民族解放軍(ELN)指導者、エクトル・ベハール(Hector Bejar)が獄中で書いた証言記録( ”Las Guerrillas de 1965 : balance y perspectiva“ 『1965年のゲリラ――その結果と展望』)を読むに努めた。この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。「アヤクチョ」については、後に触れる。

ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。→http://www.hectorbejar.com/ ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカも、元は都市ゲリラ・トゥパマロスの活動家で脱獄経験もあるし、ブラジルの大統領ジルマ・ルセフも軍事政権下では非合法の左翼組織に属して武装闘争にも関わっていた、という。このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。

リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。21歳だった。日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。

40年前に話を戻す。首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。

途中にアヤクチョという町があった。スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。

翌日、アヤクチョの町を歩いた。さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。ちっぽけな書店に入ると、『アメリカニスモ』辞典があった(”Diccionario de Americanismos “, Alfred N. Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。

こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。これは、ベハールの時代のそれとはまったく異なる性格を持つ運動で、その性格に深い衝撃を受けた私は、カルロス・I・デグレゴリ他著『センデロ・ルミノソ――ペルーの〈輝ける道〉』と題する翻訳書を出版して、長文の解説を付した(現代企画室、1993年)。それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。

(3月13日記)

ウカマウ集団の長征(1)――出会い


私たちが、ボリビアの映画制作集団ウカマウの作品の自主上映を始めたのは1980年のことだった。早や34年が経っている。上映に加えて、その作品のシナリオ集や映画理論書も刊行してきたし、幾人もの論者によってウカマウ論もずいぶんと書かれてきた。だが、34年と言えば、その間には幾世代もの移り変わりがある。2014年5月、全作品回顧上映を企画している機会に、主としてウカマウを知らない若い世代に向けて、ウカマウの映画のことや私たちの活動のことをあらためて書いておこうと思う。

いまから40年近く前の1975年、私たち(私と唐澤秀子)はエクアドルの首都キトにいた。メキシコを皮切りにラテンアメリカの歴史と文化、現在の状況を知るための現地での生活はすでに3年目に入っていた。人びととの交流こそがいちばん大事とはいえ、新聞や本を読み、ラジオを聞き、映画・芝居・音楽・講演などの催し物に足を運ぶことも、重要なことだ。キトに着いて間もなく、その魅力的な街を散歩していた。とある街角で壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。映画上映の告知のようだ。銃を握りしめたインディオの一青年の切羽詰った表情がポスター全体を覆っている。Yawar Mallku という、私たちにとっては未知の言語でタイトルが書かれている。近寄ってみると、Sangre de Condor というスペイン語でのタイトルも付されている。『コンドルの血』という意味だ。ボリビア映画であること、エクアドルではすでに何十万もの人びとが観たことなども書かれてある。見るからに先住民の顔立ちの人が映画の前面に出ているようだ。そんなことなど、あり得ない時代だった。加えて、アンデス先住民にとってコンドルが象徴する世界は深くて、広い。これこそ、メキシコで名のみ聞いていた、あのグループの映画ではないのか。どうしても観なければ、と思った。たまたま、その日が上映日だ。

会場はキト中央大学講堂だった。70分間、私はスクリーンに釘づけになった。話されている言語はスペイン語、ケチュア語、英語。ケチュア語はまったく理解できないが、演技者の表情を伴って話されるし、物語の展開を追うのにそれほど障害にはならない。物語はこうだ――とあるアンデスの先住民村。若いカップルの結婚が続いたのに、なぜか、子どもが生まれない。そのことに不審を抱いた村長(むらおさ)は、数年前から「低開発国援助」の名目で村に来て、診療所を開設している米国人グループがいることを思い出す。ある日、診療所の壁の隙間から内部を覗くと、村の若い女性に対する手術が行われているのだが……。それは、本人の同意を得ないで行なわれている強制的な不妊手術であることを知った先住民たちは米国の青年たちの住まいに押しかけて告発する――。他にもいくつもの伏線が張られている物語は、内容的に豊かに展開するが、説明はこれくらいに留めておこう。

それにしても、「強制的な不妊手術」とは穏やかではないが、この主題には既視感があった。1970年前後の日本において、ボリビアやペルーなどのアンデス諸国から、米国が派遣している「平和部隊」が追放されたというニュースが報道されていたからである。「産児制限をしないことによる人口爆発→来るべき食糧危機」という図式を唱える学者が「先進国」にはいて、その考えを信じた平和部隊員が『コンドルの血』に描かれたような行為に及んだのである。また、この「平和部隊」は、1959年のキューバ革命の勝利に驚いた当時の米国大統領ケネディが、それまでは等閑視してきた「後進国」の貧困問題などを解決するための援助政策として立案したものであった。ラテンアメリカでは、それは「進歩のための同盟政策」と呼ばれた。それが、一面ではこんな実態をもつのが現実だったのだ。

描かれている事実もさることながら、欧米と日本の映画文法に慣れ親しんできた者としては、カメラワークをはじめとする映画技法が新鮮だった。スクリーン上にケチュア語がとびかうことも刺激的だった。厳然と存在する差別ゆえに、インディオは公の場では自らの母語を話すことさえ憚られるという証言を、この時代のそれとしていくつも読んできたからである。

上映会場には、チラシ一枚すらなかった。単に上映が行なわれ、観客はそのまま帰って行った。制作者や監督のことを知りたいと思った私たちは、大学の事務局によって、この映画のチラシを一枚でも欲しいと言った。監督はいまキトにいるよ、あなたたちのことを伝えておくよ。

翌日、監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスが私たちの宿泊しているホテルへ訪ねてきた。ふたりは、ボリビアに軍事政権が成立した1971年以来国外へ亡命し、チリ、ペルーなどを経て、エクアドルに来ているということだった。ロビーで長いこと話し合った。この映画に詰め込まれているたくさんのことどもから派生して、いつしか世界観や歴史観をめぐる話となったが、物の見方や考え方において共通なものを随分と感じた。ホルヘたちもそうだったであろう。「先進国」から先住民を見る視線にも、ほかならぬボリビア内部で多数派住民である先住民を見る視線にも、拭いがたい構造的な差別がある。左翼ですら、この弊を免れている者は少ないんだということを、いくつかの実例を挙げながらホルヘは説明してくれた。

彼らの作品は初期から、カンヌ映画祭などで夙に注目されていたようだが(ゴダールが『コンドルの血』を評して「人びとを行動に動員する要因になり得るもの」と言ったことは、ずっと後になって知った)、とある映画祭で出会ったフランス映画社の柴田駿氏からは、この種の映画は日本では商業公開は無理ですと断られたとも言っていた。映画の内容から配給事情まで、初対面での話題は広範に広がった。

亡命の身であるが、エクアドルでは新作制作の企画もあり、彼らのエクアドル滞在はしばらく続く、という。私たちは、このあとさらに南へ向かい、アルゼンチンとチリまで行き着いてから再度陸路で北へ戻る。連絡を取り合っていれば、ふたたび落ち合うことはできよう。その時には、いままで作ってきたウカマウの作品をすべて観る機会をつくろう、とホルヘたちは言った(1975年のその段階では、『ウカマウ』『コンドルの血』『人民の勇気』『第一の敵』の4作品があった)。

そんな約束を交わして、私たちはキトでいったん別れた。最少限の記録は残っているが、それにしてももはや40年近くも前のこと――おぼろげになった記憶も少なくないなかで、いまも消え去ることなく鮮明な「出会い」の一つが、これである。

(3月10日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[47]「真実究明・赦し・和解」の範例を遠くに見ながら


『反天皇制運動カーニバル』12号(通巻355号、2014年3月11日発行)掲載

状況分析のために必要性を感じて、昨年12月上旬の特定秘密保護法案成立以後、14年3月上旬の現在にまで至る3ヵ月間の「東アジア日録」を整理してみた。東アジア諸国の多国間関係に深い影響を及ぼす事項に限定した。日付を入れて1行40字でまとめていくと、たちまちのうちに70行を超えた。もっと丁寧に拾うと、100行なぞ優に超えてしまいそうな勢いを感じた。上に述べた限定的な観点で事項を絞り込んでも、ほぼ連日のように、どこかで何事かが起きていることを、それは意味している。別に生業をもつ、市井の個人が整理するには、その能力を超えた情報量である。その意味では、そんな個人でもある程度まではまとめることができるという点で、パソコンの威力を想った。

日本で目立つのは、戦後最大の岐路というべき時期を自らが思うがままに突き進む現首相A・Sの言動、加えてその取り巻きの補佐官や議員と閣僚、さらにはNHK新会長+経営委員らのふるまいである。靖国神社参拝、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能にするための策動、旧日本軍「慰安婦」や南京虐殺をめぐって歴史を捏造する発言、学習指導要領解説書での「領土教育」の強化指針、巷にあふれ出るヘイトスピーチ――どれを取ってみても、すべてが周辺諸国民衆と為政者の神経を逆なでせずにはおかない方向性をもっている。それに反応するかのようにして、韓国・朝鮮・中国での動きが伝わってくる。私の考えからすれば、後者の言動のなかにも政府レベルであれ民衆レベルであれ、日本で噴出する醜悪なナショナリズムに対してその水準で対抗しようとするものも散見されないことはない。特に政府レベルでは、日本の場合と同じように、自らが生み出している国内矛盾から民衆の目を背けさせるために「外なる敵=日本」の存在を大いに利用している権力者の貌が見え隠れしている場合がある。それは、私の心を打たない。だが、まず変革されるべきは、日本の現為政者にみなぎる植民地支配と侵略を肯定する歴史観であり、同時にそれを陰に陽に肯定する社会全般の雰囲気であるという私の捉え方からすれば、他国のナショナリズムが「第一の敵」として登場することはあり得ない。言葉を換えるなら、国家間の歴史問題に関して、加害国側がその自覚を持たないふるまいを続ける、否むしろ現在の日本のように居直り、過去を肯定する態度を続ける限りにおいて、被害国側にそれを超える論理と倫理を求めることはできないというのが、「国家」に拘りそれを単位として行なわれている国際政治の変わることのない現実だ。ふたたび、別な観点から言うなら、だからこそ、A・Sを首班とする日本の「極右政権」はその政策路線を追求するうえで、緊張に満ちた現在の東アジア情勢(=国家間関係)から十分すぎる恩恵を受けているのである。どの国の民衆であれ、自国と隣国の国家指導者たちが興じる、この「ゲーム」の本質を見抜く賢さを獲得しなければならない。

主題は変わるが『現代思想』(青土社)三月臨時増刊号が総特集「ネルソン・マンデラ」を編んでいる。私も寄稿しているのだが、それを書き、そして出来上がったもので他者の論考を読んで、いちばん心に響くのは、アパルトヘイト(人種隔離体制)の廃絶後のマンデラ政権下で追求されている「真実究明・赦し・和解」への道を模索する姿勢である。「人道への犯罪」と呼ばれたアパルトヘイト体制の推進者――政治家、経営者、警察官、軍人、言論人、市井の人のどれであっても――の罪を告発し追及するのではなく、加害者が「真実」を告白し、被害者に「赦し」を乞い、それが受け入れられ、もって「和解」へと至るという、困難な道を彼の地の人びとは選んだのである。アパルトヘイト体制が内包していた、悪意に満ちた人種差別の本質を思うだに、それは渦中の人びとに(とりわけ被害者に)とって矛盾も葛藤もはなはだしい過程だったに違いない。だが、社会が「復讐」と「報復」の血の海に沈むことがないように、南アフリカの人びとはその道を選んだ。この範例の横に、加害者側からの「真実究明」がなされていない、否、それどころではない、「真実」を捻じ曲げ、隠蔽する動きが公然化している東アジアの実例をおいてみる。身が竦む。

(3月8日記)