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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

表現が萎縮しない時代の証言-―天皇制に関する本6冊


『週刊金曜日』2019年1月11日号掲載

1、           坂口安吾『堕落論』『続堕落論』(ちくま日本文学、2008)

2、           深沢七郎『風流夢譚』(『中央公論』誌、1960年12月号)

3、           豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008)

4、           朴慶植ほか『天皇制と朝鮮』(神戸学生・青年センター出版部、1989)

5、           加納実紀代『天皇制とジェンダー』(インパクト出版会、2002)

6、           内野光子『現代短歌と天皇制』(風媒社、2001)

1 敗戦の翌年に書かれた掌編二つ。「天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言う」が、「常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手」である。軍部はこの奥の手を知っており、「我々国民またこの奥の手を本能的に待ちかまえて」いる。だから、「8・15」は日本社会全体の合作だった。「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ」。安吾独特の〈反語法〉が冴えわたる。

2 15年後に現われた安吾の継走者は、深沢七郎か。『風流夢譚』は、2019年にその座を去り行こうとしている現天皇・皇后の結婚の翌年に発表された夢物語である。つまり「絵空事」なのだが、そこでは、「左慾」の「革命」が起こり、実名の皇太子夫妻の首が斬られたり、昭憲皇太后が「この糞ッタレ婆ァ、てめえだちはヒトの稼いだゼニで栄養栄華をして」と怒鳴られたりする。その表現が右翼を刺激して不幸な事件が起こった。天皇制を前に表現が萎縮しない時代の証言として記憶したい。志木電子書籍のKindle 版あり。

3 絵空事を離れて現実に戻ると、昭和天皇は、世上信じられているのとは逆に、戦勝国による戦犯訴追を免れた後、戦後体制の形成に能動的な関与を行なった。宮内庁御用掛を通して、米軍が長期にわたって沖縄を軍事占領する希望をGHQ(連合国軍総司令部)および米国務省に進言したことはその典型例である。沖縄の現状は、敗戦直後のこの挿話を無視しては、正確に把握できない。

4 沖縄と言えば、朝鮮はどうか。「日韓併合」が天皇の名においてなされ、朝鮮総督府も天皇に直属していたことを思えば、植民地支配と天皇制の関連を問うことを避けてはならない。昭和天皇の死の直後になされたセミナーの記録が、その関係を多面的に明らかにする。

5 著者は、長い間「銃後史」、すなわち戦時下にあって「銃後の守り」を担わされた女性の在り方を研究してきた。「産む性」としての女性、「母性」が孕む問題を考え続けた著者は、文化的に形成された「ジェンダーとしての女性」という視点を得て、そこから天皇制とジェンダーの関わりを論じる独自の歴史観に至った。

6 年頭の「歌会始」は天皇家の文化的行事として定着し、歌を詠む人が社会の裾野に広がっている。皇族が詠む短歌も、「日本的抒情」表現としての短歌の世界も、奥深く侮りがたい。「一木一草に天皇制がある」(竹内好)社会に生きている以上は。

書評:萱野稔人『死刑 その哲学的考察』 


『出版ニュース』2017年12月中旬号掲載

国家や暴力に関わって刺激的な問題提起を行なってきている哲学者による死刑論である。

最初に目次を紹介しておくことが重要な意味を持つ本だと思う。死刑について考える道筋をつけながら、議論が核心に迫っていく方法を、著者が自覚的に選び取っているからである。第1章「死刑は日本の文化だとどこまでいえるか?」、第2章「死刑の限界をめぐって」、第3章「道徳の根源へ」、第4章「政治哲学的に考える」、第5章「処罰感情と死刑」。

第1章は、2002年、欧州評議会主催の国際会合に出席した当時の森山法相が、「死んでお詫びをする」という日本の慣用句を引きながら「死刑は日本の文化である」と発言し、死刑制度の存置に批判的な欧州各国で大きな波紋を呼んだ事実の指摘から始まる。EU(欧州連合)は、死刑制度を廃止していることを加盟条件としているほどだから、この死刑擁護論への驚きは大きかっただろう。著者によれば、問題はこの発言の当否そのものにあるのではなく、死刑に関わる考え方は、森山発言のような文化相対主義を脱し、普遍的なロジックに基づいて披歴されなければならない。

第2章のタイトルは、「自分の人生を幕引きするための道連れ」として大量殺人を行なう、つまり死刑になるために凶悪犯罪に走った実際の事件を前に、死刑の「限界」を論じるところから来ている。死刑になることを望んでいる加害者を死刑にしたところで、刑罰としてどんな意味があるのか、という問いである。「一生刑務所から出られない刑罰」としての終身刑の導入(論理的には、これには死刑の廃止が前提となる)が論じられるのは、このあとである。「死ぬつもりなら何をしてもよい」という挑戦を前に、道徳的な歯止めをいかにかけるか。次に来るのは、この問いである。

第3章は、「人を殺してはいけない」という究極的で根本的な道徳をめぐっての論議である。死刑とは、処罰のためとはいえ人の命を奪うことであり、前記の道徳に反する。それでも多くの人が死刑を肯定しているのは、「人を殺してはいけない」という道徳が、多くの人にとって絶対的なものではないことを明かしている。ここでは、道徳を絶対的で普遍的なものだと捉えた哲学者のカントが死刑を肯定した論理構造を詳しく論じながら、しかし、道徳的には死刑の是非を確定することができないという結論が導かれていく。

犯罪による死と応報としての刑死における死の「執行者」はまったく異なるのだから――後者には、国家(権力)が貌を出すのだから――、それに触れないままに応報論に多くの頁を割いた第3章の議論に苛立ちを覚えた評者を待ち受けたのは、第4章である。ここでは、死刑を執行する公権力の在り方が論じられている。「合法/違法を決定する権力が、処罰のために人の命を奪う権限を保持している」死刑制度の本質が分析される。公権力の存在を望ましいと考える著者は、「国家なき社会」や「政府なき世界」を夢想する知識人を批判したうえで、公権力が過剰に行使されて起こる冤罪の問題を次に論じる。「冤罪の可能性は、公権力が犯罪を取り締まり、刑罰をくだすという活動そのもののなかに構造的に含まれて」おり、「権力的なもの」に由来すると考える著者は、道徳的な議論では死刑の是非に決着をつけることはできない以上、冤罪こそが、その是非を考える上で最重要な論点だと強調する。死刑に反対する人でも、冤罪の危険性を廃止論の核にここまで据える場合は稀なだけに、この議論の展開方法に、私は注目した。

最後の第5章で著者が改めて論じるのは、「凶悪犯罪は厳しく罰するべきだ」とする人びとの処罰感情の強さが死刑肯定論を支えている現実について、である。冤罪による刑死を生み出す危険性をいかに声高に訴えたところで、広い関心は持たれない。凶悪犯罪の被害者家族の処罰感情は別として、社会を構成する圧倒的多数としての第三者の人びとが抱く処罰感情は、現在の日本にあっては、メディア(とりわけテレビ)の無責任な悪扇動によるところが大きいと評者は考えるが、それにしても、この処罰感情に応えることなくして、死刑廃止の目途は立たない。著者はここで、処罰感情を「無条件な赦し」(デリダ)によって、つまり寛容さで克服しようとする死刑廃止論の無力さを衝きつつ、哲学の歴史において初めて死刑反対論を展開した18世紀イタリアの法哲学者、チェ-ザレ・ベッカリーアを引用する。刑罰としての効果が薄い死刑に代えて、終身刑を課すほうが望ましいという考え方を、である。著者は、処罰感情に正面から向き合ってなお死刑否定論の根拠を形成し得る議論として、ベッカリーアの考え方に可能性を見出して、叙述を終える。

社会を構成する個人や集団には許されない「殺人」という権限が、ひとり国家という公権力のみに許されるという在り方は、死刑制度と戦争の発動を通して象徴的に炙り出されると評者は考えている。敗戦後の日本で新憲法が公布された当時、戦争を放棄した以上、人を殺すことを合法化する死刑も当然廃止すべきだという議論が沸き起こったという証言もあるように。その関連でいうと、第1章が触れる欧州の国々の中には、死刑の廃止は実現したが、現在も「反テロ戦争」には参戦していることで、戦争における「殺人」は容認している場合があることが見えてくる。日本の公権力は、現在、死刑制度を維持する一方、「放棄」したはずの戦争をも辞さない野心も秘めているようで、世界的にも特殊な位置にあろう。「公権力」の問題をそこまで拡張して論じてほしかったとするのは、無いのもねだりか。

死刑問題の核心に向き合おうとしない死刑廃止運動の言動に対する著者の苛立ちが、随所に見られる。当事者のひとりとして、その批判には大いに学ぶものがあった。

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)

この3冊 太田昌国・選 「テロ」


「毎日新聞」2015年9月13日読書欄掲載

(1)テロリズムと戦争(ハワード・ジン著/大月書店/1944円)

(2)テロルと映画(四方田犬彦著/中公新書/820円)

(3)新潮世界文学49 『カミュⅡ』(アルベール・カミュ著、渡辺守章ら訳/新潮社/品切れ)

14年前の「9・11」に遭遇して、米国は世界にまたとない悲劇の主人公のようにふるまった。確かに悲劇ではあった。同時に、私は世界の近現代史を思い、米国の理不尽な軍事・政治・経済的な介入が世界各地で多くの犠牲者を生み出してきた史実に目を瞑るわけにもいかなかった。それを省みず、テロに戦争で報いる「反テロ戦争」なるものは必ず失敗する、かえって世界を混乱の極地に陥れるに違いない、と確信した。

(1)の著者は、第二次大戦時には米軍の優秀な爆撃手だった。のちに歴史家となり60年代ベトナム反戦運動の強力な推進者だった。9・11以後の米国で、彼は考える。テロと戦争の因果関係を。口を極めてテロを非難する国家指導者が、それに対抗して発動する戦争とは何か。戦争とは最悪の「国家テロ」ではないのか。戦争をテロから切り離し国家の崇高な行為だと見せかけるのは、詐術である。テロに対抗する戦争を肯定するのではなく、テロと戦争の双方を廃絶する道はどこにあるのか。いつ/どこにあっても、ためらうことなく軍事力を行使する米国に果てしなく追従する政権下にある私たちが手離したくはない視点である。テロが起こりやすいのは、すぐに戦争を仕掛ける国が強い影響力を及ぼしている地域なのだ。

9・11事件は、大都会の通勤時間帯に起き、すぐテレビ中継されたことで、劇的に効果を増した。テロとは、すぐれて映像的な行為である。現場で多くの人に目撃され、映像で世界じゅうの人びとが見ることで、行為は完結する。いわば見世物である。世界の映画に通じた(2)の著者は、「スペクタクルとしての暴力」であるテロの本質に着眼して、本書を著した。ブニュエル、若松孝二、スピルバーグらの作品を通して、テロの問題が内包する、意外なまでの現代的な広がりと切実性が浮かび上がる。

啄木が「われは知る、テロリストのかなしき心を!」と謳いえた昔はよかったのだろうか? 啄木が書物で知った帝政ロシア下のナロードニキ(人民主義者)は、皇帝によって奪われた言葉の代わりにわが身や爆弾を投げつけた。それは後年、(3)の中の戯曲「正義の人びと」を著したカミュの心をも捉えた。無差別攻撃ではなかったテロの初源的なあり方は何を物語るのか。それが、どこで、どう間違えると、ドストエフスキーが『悪霊』(光文社古典新訳文庫など)で描いた隘路に至るのか。

テロが投げかける問題は、かくも深く、広い。

『絶歌』を読んで


『出版ニュース』2015年8月下旬号掲載

死刑囚がなす文章と絵画による「表現」を読み、観て、評価も行なうという作業をこの10年間続けてきた。「死刑廃止のための死刑囚表現展」という試みに関わっているからである。冤罪のひとの場合には、もちろん、いま強いられている無念を晴らすために、自分が嵌められた事件について「表現」する強烈な動機がある。実際にひとを殺める行為をしてしまった人の場合には、「表現」は多様化する。子ども時代に実現できなかった夢を追い求めるような作品、獄中での日々を描く作品、いまや手の届かぬものとなった自然や事物に関わる作品など、少なくとも表面的には自分の犯罪とは無関係な主題を扱う表現もある。そして自らが手を染めた犯罪に関わる表現。この場合が、客観的に見ても、もっとも難しい表現の領域だ。率直、悔悟、懺悔、怯懦、逃げ、見栄、ごまかし、嘘、自尊心――およそ、人間がもつあらゆる心の動きが如実にあらわれてしまう。その一つひとつを、読むものは否応なく感受する。己の無様な姿をさらけ出してでもその壁に立ち向かう死刑囚の表現は、読む者の心を打つ。

だが、犯行の様態をつぶさに記した箇所を読みとおすことは辛い。むごい記述が多い。

理不尽な運命に見舞われた被害者のことも思う。だが、ひとを殺めた人間が再生するためには、自らがなした行為を正確にふりかえるこの作業が必要だったのだろうと考え、つらくとも読みとおす。

遅ればせながら、「元少年A」が著した『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』を読んだ。刊行されたこと自体がメディア上でさまざまな観点から取り上げられてから、すでに数ヵ月経っていた。実に興味深い内容で、読むに値する本だと思う。彼は本書の冒頭において、中学時代の自分を「教室の片隅」にいる「勉強も、運動もできない」「スクールカーストの最下層に属する”カオナシ”のひとりだった」と表現している。本人によるその自己批評を信じるとして、しかし、その後展開する物語を読めば、幼い時代を回想するときの克明な記憶力、とりわけ映像的な喚起力には並々ならぬ力を感じる。精神病理学上の症例を参照するまでもなく、誰もが小中学校のクラスには、一般的な意味ではいわゆる「優秀な」子ではないが、きわめて狭く何事かに集中し、それに向かって一途に突き進んでゆく子がひとりくらいはいたことを思い出すのではないか。彼の場合、小学五年の時に経験した、敬愛した祖母の死によって受ける衝撃から、その〈偏り〉が速度を急速に上げてゆく。

それは、二つの方向へと向かった。一つには、祖母が愛用していた電気按摩器を祖母恋しさのあまり動かしていたところ、それが偶然ペニスに当たり、やがて勃起と射精に至ったことから始まった性的嗜好・性衝動の問題である。二つ目は、性衝動の問題とも絡むが、祖母の〈死〉の不可解性から生まれた下意識が小動物=猫の虐殺という形で、〈暴力〉へと向かった問題である。しかもそれ以前には、「不完全で、貧弱で、醜悪で、万人から忌み嫌われる」という意味で自分に模し、愛玩さえしていたナメクジを、もっと精密に見て知りたいと思ってかまぼこ板の手術台に乗せた挙句に、解剖してしまうという「事件」を起こしている。思春期にあっては(私に経験に照らしても)、性衝動と小動物虐待は、誰にでも起こるありふれたことがらである。それが、元少年Aの場合には、なぜあれほどまでの〈偏り〉へ至ったのか。それは、残念ながら本書ではまったく触れられていない、医療少年院での「治療」過程・方法が明らかになることによって、わかるのかもしれない。今後のためには必要な情報開示だと思う。

後半は、社会復帰後の人生遍歴をかたっている。「素性」は明かされていなくても、罪を犯した青年を待ち受ける住まいや仕事上の困難な問題が、想定できる範囲で書かれている。驚くのは、社会復帰した青年をそっと見守るチーム(監察官と呼ばれている)や身元引受人となる民間の篤志家夫婦の存在だ。「更生」や福祉に関わるこの社会の制度的な貧弱さを知る者の心をも打つエピソードだ。

元少年が起こした事件の犠牲者遺族から、この本の出版それ自体に対して厳しい批判が出ていることは知っている。それを否定できる場所に、私はいない。そのことを自覚したうえで言うなら、生来の悪者などではなく、衝動の制御が利かないほどに〈偏った〉人間と社会全体がどう向き合っていくかを考えるヒントが、本書にはいっぱい詰まっている。そのような本書の本質を見ずに、犠牲者遺族の言い分を不可侵の聖域において、出版それ自体を論難した一部メディア・書店・図書館・読者の反応ぶりに、大きな違和感を覚える。

(2015年8月10日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[55]四、五世紀の時間を越えて語りかけてくる、小さな本


『反天皇制運動カーニバル』第20号(通巻363号、2014年11月11日発行)掲載

現在のように、あまりに虚偽に満ちた言説が大手を振って罷り通る時代には、これを批判するためには目を背けたくなる言動とも付き合わなければならない。「慰安婦」問題はその最たるものだ。だが、それだけでは心が塞がれる。いしいひさいちの『存在と無知』『フラダンスの犬』『老人と梅』『麦と変態』『垢と風呂』(挙げていくと、きりがない)などの漫画本で気を晴らしたりもするが、気晴らしではない小さな文庫本を幾冊も手元に置いて、落ち着いて読みたくなる。そのうちの数冊からは、拾い読みでも、この耐え難い「現在」を生き抜くうえでの智慧と力を与えられる。歴史の見通し方を教えられる。いずれも幾世紀も前に書かれ、本文だけなら文庫本で百頁にも満たないか、せいぜい200頁程度の小さな書物だ。誰でもそんな本をお持ちだろうが、最近の私の場合について書いてみる。

1冊目は、今までも何回も触れてきた書だが、スペインのカトリック僧、ラス・カサス(1484~1566)の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著は1552年刊、岩波文庫。A5版の単行本だが現代企画室版もある)である。彼はコロンブスの米大陸到達後に行なわれ始めた「征服」の事業に参加し、その行賞で先住民の「分配」にも与かった人物だが、やがて同胞が行なう先住民虐殺や奴隷化の実態に気づき、先住民が強いられている悲惨きわまりない状況を目撃することで、「征服」の批判と告発に晩年を捧げた。ヨーロッパの植民地主義を内部から批判した古典的な書物である。1960年代、米軍がベトナムで繰り広げる虐殺を見ながら、ドイツの作家、エンツェンスベルガーはラス・カサスのこの書を想起した。私たちも刊行から460年近くを経たいま、アフガニスタンやイラク、そして無人爆撃機による攻撃に晒される土地と人びとの現実と二重写しにしながら本書を読むことができる。強者にとっては、昔も今も「植民地は美味しい」のだ。

2冊目は、フランスの思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530~63)の『自発的隷従論』(執筆は1546年あるいは48年と推定、ちくま文庫)である。モンテーニュの友人として知られるラ・ボエシは、16歳か18歳のころの著作と言われる本書で、いつ、どこの世にも圧政がはびこるのに、その下で生きる人びとが忍従に甘んじているのかなぜか、と問い、人間の集団的心理がもたらす倒錯をするどく考察する。これまた、現代日本社会を活写しているかのような生々しい印象を受ける。翻訳版で特筆すべきは、ラ・ボエシの著作に深い示唆を受けていた思想家、シモーヌ・ヴェイユと、南米パラグアイの先住民族社会の在り方を深く研究した政治人類学者、ピエール・クラストル(『国家に抗する社会』水声社、『グアヤキ年代記』現代企画室などの翻訳がある)の掌編が収められていることである。いずれも30歳代の若さで生涯を終えた3人の論考の前に頭を垂れる。

3冊目は、対馬藩で対朝鮮外交に携わった雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』(執筆は1728年と推定。平凡社東洋文庫)である。私は先年、芳洲の故郷=琵琶湖北東岸の町・高月で記念館を訪れた時に、私家版で出ていた本書を入手し読んでいたが、平凡社版は「解読編(読み下し文)」「原文編」及び長文の「解説」から成っていて、読み応えがある。二度にわたる秀吉の朝鮮侵略の傷跡深い17世紀から18世紀にかけて、対朝鮮外交(=交隣)の先頭に立った芳洲が、どんな考えに基づいて何を行なったか、が明らかにされている。芳洲の考えの真髄は、「誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」とする点にある。日朝ともに、ことさらに相手側の非を鳴らすことなく、互いの実態をよく知ったうえで交わるべきだとの論理だが、主観的な国内向けの論理を振り回すのではなく、客観的な国際常識に則った行動をと訴える主要な相手は、もちろん、藩主であり対馬藩全体の人びとだ。朝鮮通信使の受け入れをめぐって起こる困難な事態にもいくつも触れている。秀吉の戦役の際に切り取った朝鮮人の耳鼻を収めた耳塚を「日本の武威を示す」ために通信使に見せようとする役人を厳しく批判する。現在、対韓・対朝外交に当たる者にこの識見あらば! とつくづく思う。

重厚な大著にも大河小説にも、もちろん、よいものはあるが、掌編と言うべきこの3冊の小さな文庫本に漲る歴史意識・論理・倫理に、目を瞠る。(11月8日記)

【追記】エンツェンスベルガ―論文は「ラス・カサス あるいは未来への回顧」といい、現代企画室版『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳=訳)に、田中克彦訳で収められている。

ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』はこちらで。

クラストルの翻訳には、もうひとつ『大いなる誇り』(松籟社刊)がある。「グアラニーの神話と聖歌」についての著作で、私は刊行直後の1997年4月に書評をしているが、このブログに記録されているのは同年後半以降に書いたものなので、ネット上では読めない。『日本ナショナリズム解体新書』(現代企画室、2000年)には収録されている。

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

[書評]寺尾隆吉=著『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』(水声社)


「日本ラテンアメリカ学会会報」2013年7月31日号掲載

1960年代以降、いわゆる「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引しながら、現代世界文学の最前線に立っていた同地の作家たちのうち、ある者はすでに幽冥境を異にし、ある者は高齢化して筆が滞り始めた。代わって、次世代の作家たちが台頭し、日本での紹介も進み始めている。このような変革期を迎えたいま、ブームを担った巨匠たちの遺産=「魔術的リアリズム」の概念をあいまいなままに放置しておくべきではない。そう考えた著者は、「魔術的リアリズム」という概念の、錯綜した道を踏み分けて進む。

中心的に取り上げているのは、アストゥリアス、カルペンティエール、ルルフォ、ガルシア=マルケス、ドノソの5人の作家たちである。まず、先行する世代のアストゥリアスとカルペンティエールが、それまでは「野蛮」という眼差しで見られる対象でしかなかった先住民族インディオとアフリカ系黒人が持つ文化に、それぞれ注目した過程がたどられる。1920年代から30年代にかけてのパリには、のちにラテンアメリカ文学の興隆を担うことになる作家たちが続々と集まっていたが、その中に、グアテマラとキューバを出身地とする前述のふたりの作家もいた。ヨーロッパの芸術家の中では20世紀初頭から、非西欧世界の文化に対する評価(「崇拝」と表現してもいいような)が高まっていた。加えて、シュルレアリスムの芸術思想・運動も展開されていた。その思潮に揉まれて、アストゥリアスは『グアテマラ伝説集』の、カルペンティエールは『この世の王国』の創造へと至る。いずれも「魔術的リアリズム」の出発点を告知するような秀作だ。だがその後は、二人ともその道を突き進むことができない。西欧的教養を身につけた知識人が、「他者として」インディオや黒人の世界に精神的な越境を試みて作品を創造し続けることの困難性が立ちはだかるからである。先駆者の「栄光」に敬意をはらいつつ、他の論者の論考も参照しながら、二人の「限界」を容赦なく指摘する筆致に惹きつけられる。

他者に先駆けて「魔術的リアリズム」を実践した二人の作家は、やがてその道から外れた。それに続く作家が登場するうえでの条件を用意したのは、メキシコである。1910年のメキシコ革命以降の文化政策の積み重ねの上に、50年代に入って作家の卵への奨学金給付制度ができたことの意義が強調される。ルルフォが『ペドロ・パラモ』を執筆したのは、この制度の下であった。一見は両立が不能に思える「制度」と「文学創造」を、密接に結びつけて論じる著者の観点が刺激的だ。今後は、1959年キューバ革命後に設けられた「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関がその後持ち得た意義とも合わせて論じられることになるだろう。

この後も著者は、『ペドロ・パラモ』の内在的な作品分析を行ない、さらにマルケス『百年の孤独』、ドノソ『夜のみだらな鳥』へと説き及ぶ。終章に向けては、魔術的リアリズムの「闘い」とそれが「大衆化」していくさまが具体的な作品に即して論じられていく。

異質な作家たちへの目配りも利いていて、さながら、「時代の精神史」を読むような充実感を味わった。(7月2日記)

書評:佐野誠『99%のための経済学〈教養編〉―誰もが共生できる社会へ』(新評論)


『新潟日報』2013年3月3日掲載

景気さえよくなるなら何でも許される、という気分がこの社会に充満している。多数の自殺者、非正規労働従事者の激増などが象徴しているように、経済的な苦境にあえぐ人びとが多い現実を正直に反映した気分とも言える。この閉塞した状況から抜け出すには、どうすればよいのか。本書の著者が徹底してこだわるのは、この問題である。

処方箋を出すためには、的確な診断が必要だ。時代の特徴をどう捉えるのか。米国のウォール街占拠運動が掲げた「1 %対99%」というスローガンに著者は共感する。1%とは少数の富裕層、99%は圧倒的多数の一般庶民を意味する。すなわち、世界と日本の現状を分析する際に著者が鍵とするのは、「格差社会」の到来という捉え方である。

なぜ、こんな時代が到来したのか。自由化・規制緩和・「小さな政府」等の政策を通じて市場競争にすべてを委ねた新自由主義サイクルが世界を席捲したからである。それは、世界的に見れば、1970年代半ばにラテンアメリカ諸国で始まった。日本では、1980年代半ば過ぎに中曽根政権時代に始まった。遠い他国ばかりではない、自国においても、それがどんな結果をもたらしたか。それがいくつもの例を示しながら、解き明かされていく。読者は、自分自身に、また周囲に起こっている身近な現実に照らしながら、著者の分析の正否を確かめていくことができる。

では、どうするのか。著者が打ち出すのは「共生」という考え方である。人間には、損得勘定のような利己主義に動機づけられた発想もあるが、同時に、連帯感に基づく共生を求める心もある。前者がこの格差社会を生み出したのだから、後者の精神と実践によって変革する。これもまた、内外のさまざまな実例を挙げて、論じられていく。

新潟出身の著者は、思いがけない仕掛けを工夫している。非戦を思いながらも「連合艦隊司令長官」として真珠湾攻撃を指揮する立場に立たされた同郷の山本五十六に関する映画を論じる場所から転じて、やはり同郷で、同時代の経済学者、猪俣津南雄に繋げていく箇所である。それは、五十六が「日本の社会についてどのような見識をもっていたか」を知りたいという著者の思いからきている。経済学者である著者が狭い専門分野を抜け出し、一般読者に向けて工夫を凝らして著した好著である。