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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

司馬遼太郎の「日本明治国家」論の呪縛――アニメ『風立ちぬ』が孕む問題


『映画芸術』第445号(2013年10月末刊行予定)掲載

子ども向けのアニメーション映画では、夢を追い、理想を語り、現存する価値観や秩序の外へ出て、新しいものをつくりあげていいんだよ、と呼びかけてきた宮崎駿監督が、大人のアニメーション映画をつくったときに、どんな作品が出来あがったか。『風立ちぬ』が問いかけるのは、この問題だと思う。

この映画の原作・脚本・監督のすべてに関わった宮崎は、戦争を糾弾したり、ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞したり、主人公は実は戦闘機ではなく民間機を作りたかったのだと庇ったり――それらを描くことは意図しない、と語る(「企画書・飛行機は美しい夢」、映画パンフレット『風立ちぬ』所収)。続けて、言う。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間を描きたいのである。夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」。

「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間」とは、この映画の主人公で、実在の人物であった堀越二郎である。戦闘機・ゼロ戦の設計者として知られる。1941年生まれの宮崎は、自他共に認める兵器愛好者であり、会議中でも雑談中でも、白い紙に思わず兵器や戦闘機をスケッチしているという挿話の持ち主である。設計物としてのゼロ戦の「美しさ」を思い、同時に、日本は愚かな戦争で「負けただけじゃなかった」と言える数少ない存在が優秀な機能をもったゼロ戦であると確信している(『朝日新聞』2013年7月20日「零戦設計者の夢」)。戦争を嫌い、武器を愛するのは「矛盾の塊」だが、「兵器が好きというのは、幼児性の発露」と自己分析する。

脚本では堀越二郎の人物像には、具体的な接点はまったくなかった同時代の作家・堀辰雄の像がフィクションとして重ね合されていることだけを付け加えておくなら、この作品にかけた宮崎の意図の説明としては、これで十分だろう。大急ぎで言っておくなら、「狂気や毒をすらはらむ夢」が描かれることになるなら、芸術作品の企図としては十全だ、とも。

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『風立ちぬ』において、宮崎の意図はどのように実現しているだろうか?

1910年代、北関東の片田舎に生を受けた二郎は、近代化以前の時代を生きていた美しい日本の風土の中で育ち、いつしか大空を風のように飛ぶ飛行機への憧れを抱く。手本として夢の中で出会うのは、同時代のイタリア航空機業の創業者、ジャンニ・カプローニ伯爵である。ユニークな型の航空機を次々と開発していたカプローニへの傾倒は、少年時代の二郎の夢の大きさを物語る。彼はその夢を実現し、大学では航空学科に学び、就職も三菱内燃機(現・三菱重工)に決まり、航空宇宙システムの分野で働く。視察・研修のためにドイツへも長期間にわたって赴く――二郎の前半生をこのように設定することには、もちろん、実在した堀越二郎の経歴が反映されていよう。同時に観客は、明治維新以降の50~60年の日本国家の歩みをそこに重ね合せることになる。二郎の人生は、欧米諸国をモデルに、富国強兵・殖産興業に邁進した歳月の国家的なあり方の縮図でしかないからである。

映画は、「自分の夢に忠実にまっすぐに生きた」二郎が開発した戦闘機・ゼロ戦が、どのように使われたかを明示しない。終盤に登場するカプリーニとの間で、「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは」という会話が――それは、ゼロ戦の残骸の山を前に交わされる――すべてを暗示するだけである。

冒頭で紹介した宮崎の意図からすれば、ここまで描けば十分となるのだろう。だが、映画では夢の中で出てくる爆撃シーンの先には、現実には異邦の人びとの生死があったのだという事実を無視することは、宮崎においてどのように可能になったのだろうか? この映画が主題としているのは別なことだという説明は可能だろうか? 二郎の夢にはらまれていた「狂気や毒」は、この描き方で十分だったのだろうか?

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現実の宮崎駿は、日本がアジア諸地域に対して行なった植民地支配や侵略戦争の問題について、また従軍「慰安婦」問題について、的確な批判的発言を行なってきた。その彼が『風立ちぬ』で行なった、アジア無視という歴史把握の方法には、次の問題がはらまれているのだと思える。

宮崎には、堀田善衛および司馬遼太郎と語り合った『時代の風音』という著書がある(朝日文庫、1997年。初版はユー・ピー・ユー、1992年)。若いころからの堀田の影響は大きかった、とは宮崎の言である。司馬に関しても、『明治という国家』やテレビ番組『太郎の国の物語』に非常に感動した、と述べている。『歴史の風音』の座談会自体は、堀田と司馬のふたりを軸に行なわれていくので、宮崎の発言は目立たない。私自身も、堀田独自の、歴史の重層的な把握方法には多くを学んできた。他方、司馬の『明治という国家』や『坂の上の雲』などに見られる「明るい明治」と「暗い昭和」を対比させ、両者の間に断絶をもうけて前者を称揚する方法には、あまりにご都合主義的で、歴史の見方としては成立し得ないとの批判をいだいてきた。

任意に、いくつかの司馬の発言を引いてみる。「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいはない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追い詰められた者が生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない」(『坂の上の雲』)。

「私は軍国主義者でも何でもありません。(中略)日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だということは非常に小児病的なことです。私は彼らはほんとうによくやったと思うのです。彼らがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう」(『「明治」という国家』)

『この国のかたち』と題された、司馬の文明批評的な評論集の随所に見られるのは、「昭和はだめだが、明治の国家はよかった。そこまではよかった」という独特の史観である。明治国家はすでに述べたように、欧米に追随し富国強兵の道を歩み、そのことで近隣のアジア諸地域を植民地支配と侵略戦争で踏みつけにした。その延長上に、堀越二郎が生きた「大正」「昭和」の時代はくるのだから、それは連続性によって捉えるべき歴史事象であり、個人の恣意で断絶をもうけることはできない。また、歴史事象には「オモテ」と「ウラ」があり、この場合は「オモテ」だけを主題としているから、「ウラ」からの批判を免れることができるということもない。司馬の不透明な文章と物言いは、その点を曖昧模糊とさせて、ひとを幻惑する。司馬の近代日本国家論に親しむという宮崎は、『風立ちぬ』において、その轍を踏んでしまったように思える。

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最後に、次のことに触れておきたい。20年ほど前、歴史教科書において、植民地支配・侵略戦争・「慰安婦」問題などをめぐる従来の記述方法に異議を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が活発化した時期があった。漫画家・小林よしのりもその流れに参与し、独自にたくさんの漫画作品を描き始めた。それが、若者を中心としたおおぜいの読者を獲得していることを知った私は、どんな漫画なのかと思い、いくつかを眺めてみた。絵柄は好みではなく、物語の展開にも呆れる個所が多かったが、目を逸らすようにして、吹き出しの文句だけを読み急いだ。時代はすでに、左翼をはじめとする反体制の思想と運動の退潮期に入っていた。小林は、戦後進歩派や左翼が従来展開してきた戦争論や「慰安婦」問題に関わる論議のうちから、「弱点」を衝きやすい論点を誇大かつ一面的に描いては、それに反駁するという方法を駆使する場合が多かった。当時は、今なら実現しているようなネット社会ではなかった。だが、小林漫画の扇情的で独断に満ちた情報の切り出し方といい、受け手の多くがそれを唯一の解釈として受け入れ、他の情報との照合を行なって真偽を確かめるという作業を行なわない流儀といい、現在のネット空間の貧相なあり方を先取りしたような世界であった。私は、小林漫画が展開している非歴史的な「論理」(「非論理」と言うべきか)は批判したが、どこか痒いところに手が届いていない欠落感を抱えていた。

ちょうどその頃、美術史家の故・若桑みどりが行なった小林漫画についての講演を聴く機会に恵まれた。彼女もまた、あの漫画は嫌だけれども読まなければならぬといい、図像学的な分析から言えば、彼の漫画はうまく、読み手がどこに反応するかのツボを心得て描いている、と語った。物語の要所に登場しては問題を提起し、叫び、怒り、悲しむ人物には漫画家自身が投影されているが、クライマックスにおけるこの人物とその周辺の描き方は際立っており、読み手が主人公に一体化する仕掛けが施されている、というように。

アニメーション映画としての『風立ちぬ』論においても、また、このような図像的な視点からの分析・批判が必要なのだろう。現在の私にその任は担いきれないが、しかるべき方がその作業を担ってほしいと希望して、この稿を終えたい。小林と宮崎の同一性を主張したいのではない。ジブリ・グループの画の魅力を十分に弁えたうえで、物語の展開への批判を深めたいのだ。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[42]ボー・グェン・ザップとシモーヌ・ヴェーユは同時代人であった


『反天皇制運動カーニバル』第7号(通巻350号、2013年10月15日発行)掲載

ベトナムのボー・グェン・ザップ将軍の死(10月4日)を聞いて、連鎖的にいくつかの思いが浮かんだ。彼の生年は、日本で幸徳秋水ら12名が大逆事件で処刑された1911年であったから、享年102歳であった。太宰や埴谷雄高などと同世代か、と咄嗟に思った(太宰は09年、埴谷は10年の生まれである)。まず、書棚から彼の著作『人民の戦争・人民の軍隊:ベトナム解放戦争の戦略戦術』(弘文堂新書、1965年)とジュール・ロア『ディエンビエンフー陥落:ベトナムの勝者と敗者』(至誠堂新書、1965年)を取り出して、ぱらぱらと頁を繰った。彼は軍人として訓練を受けた人ではなかった。『孫子』やナポレオン戦役記を読んで軍事知識を身につけたとは、有名な逸話だ。ザップ自身の本に関しては、刊行当時も、ソ連や中国の経験の絶対化やマルクス・レーニン主義理論をベトナム的な現実に当て嵌める生硬な論理展開には納得できない気持ちを私は抱えていたには違いない。同時に、1960年代半ば、眼前で展開されている抗米闘争のめざましさを思えば、不可避的にたたかわれていたあの戦争の「正しさ」を、信じるほかはなかった。準備時期を経て1944年にフランス植民地軍とたたかうために結成された人民軍の萌芽が、翌年には占領した日本軍との戦いも強いられていく過程を読めば、(読んでいた60年代半ばの時点で言えば)20年間も絶えることなく続けられてきた武装闘争の必然性が見えてくる感じがした。「ベトナムは勝つにさえ値しない戦争に勝つより米国による占領体制を進んで選択し、日本のような戦後復興を図るほうが賢明だ」とする磯田光一(磯田『左翼がサヨクになるとき』、集英社、1986年)の考えや、「自前で武器を作る能力も持たないベトナムが他国から武器の補給を受けて戦い続けていることのばかばかしさを人類の名において鞭打つべきだ」とした司馬遼太郎(司馬『人間の集団について――ベトナムから考える』、中公文庫、1974年)の意見などは、私には論外であった。

次に思い出したのは、10月9日が46回目の命日だったこともあって、チェ・ゲバラのことである(1928~1067)。彼には、サップの『人民の戦争・人民の軍隊』キューバ版に寄せた序文「ベトナムの指標」という文章がある(1964年)。それも再読した。当時のチェ・ゲバラの発言と行動が私(たち)を惹きつけるものがあったとすれば、それは、さまざまな領域にわたる彼の言動が常に、旧来のソ連型社会主義の枠組みに疑問を呈し、それを乗り越えようとする、あるいは克服しようとする新たな観点を提起していた点にあった、と思える。その彼にして、この小さな論文では、前衛としての革命党と人民解放軍に対する無限定的な信頼は揺るぎない。「党と軍隊の親密な関係」や「軍隊と人民の間の固い絆」に対する確信も、同様である。後代に生きていることで、20世紀型革命の、悲惨な行く末を見届けることになった私たちが、今さら踏みとどまっていてよい地点だとは思えない。

最後に、ふと思いついたことは、自分でも意外だった。シモーヌ・ヴェーユの生年と没年を確かめたくなったのだ。1909~1943年であった。ボー・グェン・ザップより二歳だけ年上である。ヴェーユは極端な短命だったが、第一次世界大戦からロシア革命へ、世界恐慌からファシズムの台頭へと向かう20世紀初頭の30年有余を、ザップとヴェーユのふたりは、直接的な交流はなかったとしても、まぎれもない同時代人として生きたのであった。

1933年末、スターリン体制へと進みゆくロシア革命の過程をすでに同時代的に目撃していたヴェーユは書いている。「ロシアにおける干渉戦争は、真の防衛戦であり、我々はその戦士をたたえるべきだが、それでもロシア革命の進展にとっては越え難い障害となった。恒久的な軍隊、警察、官僚政治の廃止が革命のプログラムであったのに、革命がこの戦争のお蔭で背負わされたものは、帝政派将校を幹部とする赤軍や、反革命派よりもっときびしく共産主義者を殴打するようになる警察や、世界の他の国に類を見ない官僚政治組織なのである。これらの組織はすべて一時的な必要にこたえるはずのものであったが、それがこの必要ののちまで生きのびることは避けられなかった。一般に戦争はつねに人民の犠牲において中央権力を強化する。」(「革命戦争についての断片」、伊藤晃訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』、春秋社、1968年)。

ヴェーユが、例外として挙げる史実は、パリ・コミューンだけである。同時代人ではあったが、異なる条件下の社会に生きて、社会変革の道を探り続けた三人の言動から何を学び取るかは、現在を生きる私たちに委ねられている。(10月12日記)