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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[68]「魂の飢餓感」と「耐用年数二〇〇年」という言葉


『反天皇制運動カーニバル』第33号(通巻376号、2015年12月8日発行)掲載

翁長雄志沖縄県知事が発するメッセージには、じっくりと受け止めるべき論点が多い。権力中枢の東京では、論議を回避してひたすら思うがままに暴走する極右政治が跋扈する一方、本来の保守層の中から、それに抵抗する粘り腰の考えと行動が随所で生まれていることに注目したい。なかでも、辺野古問題をめぐる翁長知事の揺るぎない姿勢が際立つ。翁長知事は、日米安保体制そのものは「是」とする立場であることをたびたび表明しているが、この人となら私のような日米安保解消論者も、その「是非」をめぐって、まっとうな討論ができるような気がする。辺野古に限らず、高江のヘリコプター着陸帯計画や宮古島への陸上自衛隊配備構想なども含めて、日米両国の支配層が琉球諸島全域において共同であるいは個別に行ないつつある軍事的な再編の捉え方に関しても。

12月2日、辺野古の新基地建設計画に伴う埋め立て承認取り消し処分を違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟の第一回口頭弁論において、知事は10分間の意見陳述を行なった。訴訟で問われているのは、(大日本帝国憲法下で制定された)公有水面埋立法に基づく判断だが、その枠内での法律論は県側が提出した準備書面で十全に展開されている。そこでは、1999年の地方自治法改訂によって国と地方が対等な立場になったことをはじめ、憲法の規定に基づく人格権、環境権、地方自治の意義などをめぐる議論が主軸をなしている。そのためもあろうか、知事の陳述自体は法律論を離れて、過重な基地負担を強いられてきている沖縄の歴史と現状を語ることで、地方自治と民主主義の精神に照らして見た場合、沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常なのかと社会全体に問いかけた。とりわけ、2つの箇所が印象に残った。「(沖縄県民が)歴史的にも現在においても、自由・平等・平等・自己決定権を蔑ろにされてきた」ことを「魂の飢餓感」と表現している箇所である。この表現を知事は過去においても何度か口にしている。私には、どんなに厳しいヤマト批判の言葉よりもこの表現が堪える。1960年の日米安保条約改定を契機にしてこそ、ヤマトの米軍基地は減少し始め、逆に沖縄では増大する一方であった事実に無自覚なまま、私たちの多くは「60年安保闘争」を戦後最大の大衆闘争として語り続けてきた。それだけに、「魂の飢餓感」という言葉は、沖縄とヤマトの関係性の本質を言い表すものとして、支配層のみならず私たちをも撃つのである。

いまひとつは、「海上での銃剣とブルドーザーを彷彿させる行為」で辺野古の海を埋め立て、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わって機能強化される予定の新基地は「耐用年数200年ともいわれている」と述べた箇所である。耐用年数200年と聞いて、私が直ちに思い浮かべるのは、キューバにあるグアンタナモ米軍基地である。米国がこの海軍基地を建設したのは1903年だった。現在から見て112年前のことである。その後60年近く続いた米国支配が終わり革命が成っても(1959年)、米国がキューバの新政権を嫌い軍事侵攻(初期において)や経済封鎖(一貫して)を行なってきた半世紀以上もの間にも、米国はグアンタナモ基地を手離すことはなかった。革命後のキューバ政府がどんなに返還を求めても、である。現在進行中の両国間の国交正常化の交渉過程においても、米国にグアンタナモ返還の意志は微塵も見られない。

一世紀以上も前に行われた米国のキューバ支配の意志は、当時の支配層の戦略の中に位置づけられていた。南北戦争(1861年~65年)、ウーンディッドニーでのインディアン大虐殺(1890年)などの国内事情に加えて、モンロー宣言(1823年)、対メキシコ戦争とカリフォルニアなどメキシコ領土の併合(1848年)、ペリー艦隊の日本来航(1853年)、キューバとフィリピンにおける対スペイン独立戦争の高揚を機に軍事的陰謀を計らって、局面を米西戦争に転化(1898年)して以降カリブ海域支配を拡大、ハワイ併合(1898年)、コロンビアからのパナマ分離独立の画策(1903年)とパナマ運河建設(1914年)など、米国が当時展開していた対カリブ海・太平洋地域戦略を総合的に捉えると、グアンタナモを含めてそれぞれの「獲得物」が、世界支配を目論む米国にとっていかに重要かが、地図的にも見えてくる。戦後70年を迎えている沖縄をも、あの国は、いま生ある者がもはや誰一人として生きてもいない1世紀先や2世紀先の自国の利害を賭けて、その軍事・経済戦略地図に描き込んでいるのである。それに喜々として同伴するばかりの日本政府のあり方も見据えて発せられている「耐用年数200年」という翁長知事の発言に、現在はもとより未来の世代の時代への痛切な責任意識を感受する。

(12月5日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[66]国連で対照的な演説を行なったふたりの「日本人」


『反天皇制運動カーニバル』第31号(通巻374号、2015年10月6日発行)掲載

戦争法案の参議院「可決」が異常な形で演出されて間もない九月下旬、1週間ほどの間隔をおいて、ふたりの「日本人」が国連演説を行なった。21日に国連人権理事会(ジュネーブ)で演説したのは、戦争法案成立の脅威をどこよりもひしひしと感じざるを得ない沖縄県の、翁長知事である。与えられた時間はわずか2分間だった。知事は、軍事基地問題をめぐって日米両国政府から自己決定権と人権を蔑ろにされている沖縄の人びとの現状に的を絞って訴えた。短い発言とはいえ、大いなる関心を世界的に掻き立てたかに見える。

その論点は、同じ日にジュネーブで行なわれた国際シンポジウムおよび翌日の記者会見、さらには帰国した24日に日本外国特派員協会(東京)での会見における発言によって、ヨリ詳しく展開された。それらを総合すると、知事が依拠した主要な論点が見えてくる。私は特に、知事が「沖縄は136年前までは、人口数十万人の小さな独立国だった」と語った後、併合・戦争・占領・返還の歴史に簡潔に触れてから「私たちは琉球王国のように、アジアの懸け橋になりたいと望んでいる」と述べた箇所に注目した。1879年の「琉球処分」時までは沖縄が独立国であったことを主張することは、歴代日本政府の主張と真っ向から対立する。沖縄も他県と同じ日本民族に属するとするのが、政府の変わることのない考え方だからだ。独立国が他国に支配されることはすなわち植民地化であり、そこへ植民者(コロン)が入り込むことによって「先住民」が生み出されるのは、世界各地に共通に見られることだ。自民党沖縄県連は、出発前の知事に対して「先住民の権利として辺野古基地反対を言うな」と釘を刺した。近代化の「影」の存在であることを強いられてきた先住民族の権利を回復する動きが、国連に象徴される国際社会の水準では具体化しており、それが「日本国家の統合性」を危機に曝すことに彼らは気づいているのであろう。

1980年代、沖縄も重要な拠点として『分権独立運動情報』という思想・運動誌が刊行されていた。近代国民国家の脆さを見抜いた、早すぎたのかもしれないその問題意識は、いま、スコットランドやカタルーニャなどにおける自立へ向けた胎動および沖縄の現在の中でこそ生きていると思える。同時に、9月末には、地主が米軍への貸与を拒否した軍用地の強制収容手続きをめぐり、沖縄県知事(大田昌秀)が国に求められた代理署名を拒否してから20年目を迎えたという報道に接すると、あのとき県を訴えて裁判にした国側を代表する首相は社会党の村山富市であったことを思い出す。そこからは、ヤマトにあって沖縄差別を実践している主体を「保守・革新」で明確に分けることはできず、「革新」派も含めた「ヌエ」的な実態であることをあらためて確認しなければならない、とも思う。

国連の場に登場したもうひとりは、29日の国連総会(ニューヨーク)で一般討論演説を行なった首相である。戦争法案をめぐる国会質疑で幾たびも答弁不能の醜態を曝しながら恬として恥じないという「特技」をもつこの男は、その演説で、どこからも要請されていない日本の「常任理事国入り」を力説したと知って、私は世界に向かって恥じた。シリアからの難民の一女性がわずかに手にしていた物の中に、日本政府がアラブ地域の女性たちに配布してきた「母子手帳」があったようだが、そのことを「わが援助の成果」として誇らしげ気に語るその姿に、〈殺意〉をすら感じた。首相の無恥な言動は、日本国に何らの責任も待たない私をすら恥じ入る気持ちにさせてしまう。加えて、記者会見で難民を受け入れるかどうかをロイター記者から問われた首相は、「人口問題で申し上げれば、移民を受け入れるよりも前にやるべきことがある。女性、高齢者の活躍だ」と答えたという。この呆れ果てた問答を、つまらぬ内閣改造のことは大々的に扱ったメディアがほとんど報道しないとは、はて面妖な、と私は思う。私が使う辞書にはない「国辱的」とか「売国奴」という表現は、首相のこの言動に対してなら使えるか、とすら思えてくる。

私が言いたいことは、こうである――2015年9月下旬、日本社会で進行する諸情勢を正確に反映した、このふたりの「日本人」国連発言に注目している外部世界の人が、もしいたならば、メトロポリス(東京)ではなくローカル(沖縄)にこそ、論理と倫理と歴史意識の担い手が実在していると考えるだろう。それも知らぬ気に生きているのは、「内国」に住む私たちだけなのだ。(10月2日記)

憲法より上位に立つ日米地位協定という問題意識を


『「反改憲」運動通信』6号(2014年11月26日発行)掲載

15年前の歳末の日々、やがて巡りくる新しい世紀に特別な思い入れや期待があったわけでもない。大晦日と元日が時間的な地続きで、何の変化も〈自然には〉期待できないように、世紀の変わり目にしたところで、同じことだ。ただ単に、何かが「革まる」期待感が心理的にないではなかった。言い出したのは誰だったのか、20世紀は「戦争と革命の世紀」と呼ばれていたが、その「戦争」は相も変わらず絶えることもなく、他方「革命」は「無惨な残骸」となり果てて終わろうとしている20世紀には、どこか深い感慨だけはあった。哀惜の念とでもいおうか。その分、新世紀になると何かが「革まる」期待感は、正直言えば、高かったのかもしれぬ。

15年が過ぎた。内外ともに、激動の日々が続いている。その中で、忘れ難くこころに残る出来事は何か、与えられた「反改憲」という主題との関連で、と考えてみる。いくつか思い浮かぶなかから、私の場合、ふたつのことを挙げてみる。ひとつ目は、「反テロ戦争」の餌食にされたアフガニスタンとイラクに対してなされた米軍の占領政策である。ふたつ目は、政権交代が実現して成立した鳩山政権が、米軍基地問題をめぐって日米関係にほんのわずかな変化をもたらそうとした途端に〈内外から〉反撃を食らい、極端な短命政権として終わった事実である。このふたつの出来事からは、現在の日本の姿が如実に浮かび上がってくる感じがしてならず、その折々にも論じた。あらためてそれをおさらいする価値は、いまも、ありそうだ。

2001年「9・11」の出来事をうけて、米国がアフガニスタン攻撃を始めた当初から、「国家の体をなさない国は植民地化したほうが安上がりだ」という言葉が、米国支配層内部からは聞こえてきていた。なるほど、帝国内指導部の本音とはこういうものかと、痛く感じていた。事実、相手を「植民地め!」と見下していて初めて可能になるような、残酷で一方的な攻撃を、アフガニスタンに対して米軍は繰り広げた。続けて「大量破壊兵器を持っている」イラクも攻撃の対象となった。米軍が現地の武装抵抗勢力を「平定」し、さていよいよ「占領統治」が始まるという段になって、迂闊にも私は初めて、これこそが1945年8月以降に日本を見舞った事態なのだと、時空をはるかに隔てたふたつのことが二重写しになって見えてきた。戦争の性格をいうなら、日米戦争には帝国主義間戦争の意味合いもあったから「反テロ戦争」とは違うのだが、「占領」という事態に関わっての思いである。日本占領について実体験が薄い私は、歴史書や証言で読み、ある程度は理解してきたつもりでいたが、アフガニスタンとイラクで進行する事態を見ながら、そこへ至る過程も含めてはるかにリアリティをもって迫ってきたのだった。

同時に、時代状況の変化によるものか、それともアフガニスタンとイラクの両政権の「抵抗力」によるものか、その後の米軍駐留をめぐっては、現在にまで至る戦後日本とは決定的な違いが生まれた。イラクは「米兵に対する完全な刑事免責を認めなければ、アメリカ側は一兵卒たりとも撤退させない」と米側に脅迫されたが、侵略と占領の過程で米兵が犯した無数の残虐行為に照らしてそれは不可能だとの立場を譲らず、また米国側が要求する巨大な米軍基地の維持にも反対したために、米軍は撤退せざるを得なかった。アフガニスタンの状況はなお流動的だが、犯罪を犯した駐留米兵の裁判権をめぐっては、これを免責すべきだとする米国側の居丈高な要求にアフガニスタン側が一貫して反対していることに変わりはない。占領体制が解かれて62年を経た日本において、単に米兵犯罪の一件に限らず、日米安保体制を保証している法体系が憲法の上位に立っている現状が、国際標準からいっていかに異常であるかが、ここに浮かび上がる。

ふたつ目の問題に移る。鳩山首相が提起したのは米軍・普天間基地の移設先を県外または国外とする、というだけのことだった。(問題の本質は「移設」ではないと私は考えるが、ここではこれ以上主張しない。)日米の外務・防衛官僚は「2+2」という名で定期的会合を開いているが、そこへ出席している日本側のふたりは、首相の意向をまったく無視し、むしろその「馬鹿げた考えを無視するよう」米側に進言していた。マスメディアの多くもまた、これに添うように、首相の「迷走」が「日米関係を危機に陥らせている」とする一大キャンペーンを展開した。追い詰められた首相は、「自爆」相手を間違えて、持論をもって米国大統領と合いまみえるのではなく、結局は沖縄民衆に辺野古への移設を迫って、失脚した。覚悟と展望の欠如は覆い難いが、問題の本質はそこには、ない。日米安保の根幹にわずかながら触れようとした者が、その体制の絶対的な擁護者たちによる日米共同作戦で葬られたこと――そこにこそ、問題の本質はある。

前泊博盛の『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社、2013年)は、多くの人が薄々にでも感じていながら信じたくないと思っていたこと、すなわち「日本は独立した主権国家なのか」「もしかしたら、(沖縄はもとより)日本全体がまだアメリカの占領下にあるんじゃないか」と読者に問いかけた。この問いかけに応える努力なしに、「反改憲」は私たちの課題として主体化され得ない、と思う。

(11月17日、沖縄知事選挙の結果を聴きながら記す)

太田昌国の夢は夜ひらく[33]ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけた琉球弧の運動


反天皇制運動『モンスター』第35号(2012年12月4日発行)掲載

「アメリカへ軍事基地に苦しむ沖縄の声を届ける会」は、2012年1月下旬に訪米団を派遣した。ささやかな旅費カンパを行なった私のもとに、10月30日付けで発行された「訪米団報告集」が届いた(インターネットをお使いの方は、会の名前を入力すると、いくつかの情報源に行き着くことができる)。

冒頭にある団長・山内徳信の文章はのっけから次のように始まる。「日本政府に訴えても聞いてもらえないならば、基地の運用者であるアメリカ政府や連邦議会、アメリカ市民へ訴えよう」と。ここで言う「日本政府」の背後には、これを支えてきた日本社会の「民意」か「世論」が存在しているわけだから、私たちも無傷では読むことのできない文言である。まず、二つの論点をここから引き出しておきたい。沖縄の民衆が持つ日本政府に対する絶望感が、歴代のそれに対して積み重ねられてきたものであることは、戦後史を顧みるなら当然理解できることだ。だが、時期に注目して直接的な要因を探れば、普天間基地に関して「最低でも県外」移設を掲げて挫折した鳩山元首相の一件に由来することは、見えやすい道理である。彼には確かに「政治力の不足」が見られたが、それと同時に見ておくべきは、彼の企図が「辺野古移設を既定路線とする米国側と日本の外務、防衛両省上層部からの反撃」に見舞われたことである(『文藝春秋オピニオン 二〇一三年の論点百』所収の鳩山論文)。この点は私も何度か指摘してきたが、メディアと多数派世論は鳩山の「公約違反」を論うばかりで、外務・防衛官僚上層部によって鳩山案に対する妨害工作が行なわれたことに触れる議論は極端に少ない。ここにこそ、あの事態の本質を見るべきであろう。

ふたつ目は、この事実を自覚したうえでなお、米国から見れば、日本の「国内問題」でしかないものをわざわざ米国まで出かけてきて訴えるのはお門違いではないか、という反応に見舞われるに違いないということである。事実、代表団メンバーの報告を読むと、応対した米国の議員からは、そうした趣旨の指摘が幾度も返ってきている。日本社会の中でそのケリがつけられていないという意味において、この指摘はヤマトの私たちにも痛覚をもたらす。代表団には、その時の居心地の悪さを予感するものがあったと思われるが、それでもなお訪米した意図は何か。参加した糸数慶子によれば「米国内で財政赤字削減計画の一環として国防費の大幅削減が計画され、そのため海外の米軍基地の大幅見直しの動きがあり、米国連邦議会の有力議員や有識者、シンクタンクの中からも沖縄の米軍基地の整理・縮小や在日米軍の再編を求める声が高まり、このタイミングでの訪米は千載一遇のチャンスであった」ということになる。事実、基地支配者である米国政府(国務省、国防省)や連邦議会の上下両院議員、補佐官、シンクタンク、駐米日本大使など62ヵ所にも及ぶ訴えは、かつてない「民衆による直訴行動」であったようだ。

結果は、もちろん、楽観的なものではあり得ない。しかし、真剣な議論もないままに、駐留米軍の「抑止力論」に終始する日本政府・官僚(何度でも書かねばならないが、その背後にあるヤマトの「民意」!)の「無感覚な対応」(山内徳信の言葉)に翻弄されてきた代表団にしてみれば、米国側のそれは「率直で、新鮮であった」という感想を一様に述べている点が注目される。問題提起がなされれば、最後の一線を譲る気持ちはさらさらないとしても、「議論を通してその提起を受け止める」という態度が見られたのであろう。それを「率直で、新鮮」と言わざるをえない心中を察したいと思う。

他方、「琉球弧の先住民族会」のメンバーである親川志奈子は、ジュネーブの国連人権理事会先住民族部会で「先住民族という視座」から、琉球の軍事化や基地被害についての訴えを行なった経験を報告している(『世界』12月号)。『世界』掲載の文章には珍しく、生活と文化に根差した豊かな視点から、「脱植民地化を実践し生きていく」展望を語っている。彼女の文章は「そして問い続ける、沖縄を目の前にして日本人はどう生きるのかと」という言葉で結ばれている。

沖縄での注目すべき動きが、期せずしてか、ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけ、世界からの包囲網の形成に向かっている現実に目を向けたい。  (12月1日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[28]オスプレイ配備は、事前協議によって拒否できる


反天皇制運動連絡会『モンスター』30号(2012年7月10日発行)掲載

米海兵隊御用達の航空機・オスプレイospreyは、「ミサゴ」の意である。「わしたか科の大形の鳥で、海岸の岩や入り江などに住み、するどい爪で魚をとらえて食べる」と簡便な辞書にはある。古代・中世の歴史を欠き、移民国家として高々二百数十年の歴史しか持たない米国は、開発する武器や展開する軍事作戦の名称に、征服した先住民族(インディアン)の母語に由来する名詞や、猛々しい鳥類の名称や、「不朽の自由作戦」や「トモダチ作戦」などという、米国以外の地域に住む人間なら顔も赤らむ名称を、臆面もなく付す伝統がある。オスプレイは、猛禽類から来る名称である。

「敵」ながら、言い得て妙な、名づけである。侵略部隊としての米海兵隊がオスプレイを重用するということは、従来なら上陸用舟艇に頼っていた上陸作戦(それは、当然にも、陸地に構える「敵」から丸見えである)の様態を一新する手段を得たことを意味している。水平線の彼方から突如として現われるオスプレイは、最大速力・時速520キロメートルで飛行できるのだが、その輸送能力は、兵員数24名と武器などの物資(15トン)である。持てるその獰猛な暴力によって「敵」を鷲掴みにするというのであろう。

オスプレイの日本配備(厳密にいうなら、沖縄配備)の道を掃き清めるために、日本国防衛省が「MV-22オスプレイ——米海兵隊の最新鋭の航空機」と題するA4で22頁の小冊子を関係各所に配布したのは、去る6月13日であった。同日夕刻(米国時間)、フロリダ州ナヴァレ北部のエグリン射撃場でCV-22オスプレイが墜落し、搭乗員5名が負傷した。4月11日にはMV機がモロッコでの軍事演習中に墜落したばかりだから、事故確率が高いという印象が否めない。冊子には翌14日に配布された分もあったが、それには事故発生だけを伝える素っ気ないビラが一枚挟み込まれた。

この冊子によれば、オスプレイは「ヘリコプターのような垂直離着陸機能と、固定翼機の長所である速さや長い航続距離という両者の利点を持ち合わせた航空機」とされている。「回転翼を上へ向けた状態ではホバリングが可能となり、前方へ向けた状態では高速で飛行することができ」、「MV-22は、現在配備されているCH-46と比較して、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍になる」という。ヘリコプター機能を持つことで滑走路を必要としない点が、一層の効果的な運用を可能にするのだろう。冊子には、飛行高度と騒音の関係表もあるが、下限は500フィート(150メートル)だから、超低空飛行も行なうのである。その他「運用・任務」「安全性」「騒音」「沖縄での運用」などの項目ごとに、ごく簡単な説明がなされている。

全体としてみれば、事故率を低く見せかけ、騒音は「前機より軽減」され、環境への影響なども「特段なし」とみなすなど、米軍が提供した資料をそのまま翻訳しただけの代物であることが透けて見える。危険性が高いこのオスプレイ配備が発表されるや、沖縄はもとより低空飛行訓練が予定されている全国各地から、厳しい批判の動きが高まっている。無視できなくなった政府は、一応、せめて「配備延期」要請を行なう程度の対米交渉は行なったらしいことを明らかにしている。官房長官は「米国と何度も交渉したが、押し返せなかった。米国は日米安保条約上の権利だと主張した」と語った。防衛相は「日本政府に条約上のマンダート(権限)はない」と述べている。1960年の条約改定時に「安保条約六条の実施に関する交換公文」が交わされ、米政府は、在日米軍に関する①重要な配置の変更、②重要な装備の変更、③日本国内の基地から行われる戦闘作戦行動——の3項目については、事前協議することが規定されている。協議があれば、日本政府が自主的に諾否を判断するというのが政府の立場であるが、事前協議は一度として行なわれていない。自民党時代はもとより、民主党政権になっても、日米安保を容認することが、そのまま、占領時代さながらに米軍の特権を容認し続けることに直結している。米軍の140機のオスプレイは、今年3月現在、東はノースカロライナ、西はカリフォルニアとハワイの米国内に配備されている。米国本土を初めて離れて、オスプレイは日本→沖縄へ向かっている。日米軍事協力体制は、こうして、世界にも稀な「異常な」性格を有している。(7月7日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[26]米日「主従」関係を自己暴露する、耐え難い言葉について


『反天皇制運動モンスター』第28号(2012年5月15日発行)掲載

一、「TPP(環太平洋経済連携協定)をビートルズに喩えれば、日本はポール・マッカートニーのようなもの。ポールなしのビートルズは考えられない。ジョン・レノンはもちろんアメリカです。この二人がきっちりハーモニーしなければならない」

二、「自分はバスケットボールのポイントガード。チームワークを重んじる。目立つ選手ではないが、結果を残していく」

前者は、3月24日、日本の現首相がTPP加盟を推進する意向を強調して行なった、東京における講演の一節である。私は、この日、いつものながらでテレビのニュースをつけていて、喩えの出鱈目さに驚倒して耳をそばだてた。全体を聞き取った自信はなかったが、事後的に調べると発言の内容は確かにこうであった。

後者は、4月30日、ワシントンを訪れた日本首相が、米国大統領との会談時に行なった発言だ。これも、いくつかのルートで確認した。バスケットボールに詳しくはないが、ポイントガードとは、知る人が言うところでは、ドリブルして主役にいい球をパスする役割だという。スポーツ競技での役割分担として見るなら麗しいことだが、政治の場で使うべき喩えとは言えない。バスケット好きのオバマの気を惹くために、外務官僚が思いついて首相に焚きつけた文句なのだろう。「主役」は、もちろん、米国大統領であり、共同会見時には首相はその人物を「相手守備に切り込んで得点を稼ぐパワーフォワードだ」とまで持ち上げたという。これに対して大統領は「首相は柔道の専門家、黒帯だ。記者団から不適切な質問が出たら、守ってくれるだろう」と応じたという挿話さえ付け足されている。

私は、民族的義憤とも国民的憤怒とも無縁な人間なので、その種の思いはない。しかし、人間としての、譬えようもない恥じの感覚が、この一連の言葉を聞いて生まれる。自虐的な、あまりに自虐的な! ウィットからも、文学的・芸能的なセンスからも限りなく遠い、おべっかとへつらい。他人事ながら、恥じらいのあまり身悶えるほどである。他人事とはいっても、私が否応なく所属させられている国家社会にあって、政治的代表であることを表象する人物の言動が、これなのである。

その恥じらいは、翌日には憤怒と化す。5月1日付け読売新聞は言う。「大統領選挙まで半年となり、活動の多くを全米各地の遊説に費やしている大統領が野田首相がらみで約3時間の時間を割くのは、首相への期待度の高さを物語る」。同じ記事が、加えて言うには、リチャード・アーミテージ元国務副長官は、仙石由人などの超党派議員訪米団と会見し、歴代首相で誰を評価しているかと問われて(そんな頓馬な質問をする議員がいることも驚きであり、恥じでもあるが)「一に中曽根、二に小泉。その二人に野田は匹敵する。日米同盟の意義を理解しており、消費税やTPPも一生懸命やっている」と答えたという(ワシントン支局・中島健太郎記者)。

どのエピソードからも、「主人と下僕」という関係を内面化している政治家とジャーナリストが記した言葉であることが、否定しようもなく立ち上ってくる。これらは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が、不可分の一セットで発効した1952年4月28日から、60年目を迎える日々に吐かれた言葉である。

『続 重光葵手記』(中央公論社、1988年)によれば、60年前の日々対米交渉に当たっていた外相の同氏は、那須で天皇裕仁から「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」との「下賜」を受けた(55年8月20日)。駐留米軍全面撤退構想すら持っていた重光は、なぜかそれを取り下げ、今日まで続く「主従」としての米日関係が固定化し始めた。それは、沖縄を切り捨て、日米一体となってそこへの植民地主義的支配を貫徹してゆくことになる節目の日々であった。

沖縄の「役割」を軸にした、自民党政権時にも不可能であった水準の米日主従関係の固定化――私たちが直面している事態は、これである。これへの反発を反米民族主義として表現しないためには、1952年(講和条約+日米安保)→1972年(「復帰」=再併合)→2012年(現在)より射程を伸ばし、1879年(琉球の武力併合)以来の植民地主義史として捉え返すことで、ようやく主体的な問題設定となると思う。(5月12日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[14]ビンラディン殺害作戦と「継続する植民地主義」


反天皇制運動『モンスター』16号(2011年5月10日発行)掲載

ある国家の軍隊が、別な国に秘密裡に押し入って軍事作戦を展開し、武器を持たない或る人物を殺害した――軍を派遣した国の政治指導部は、大統領府の作戦司令部室にある大型スクリーンに映し出されるこの作戦の生中継映像を見つめていた。作戦開始から40分後、「9・11テロの首謀者」と断定した人物の殺害をもって大統領は「われわれは、ついにやり遂げた」と語った。この国の同盟国であると自らを規定している世界各国の首脳は、この作戦の「成功」が「反テロ戦争の勝利」であるとして祝福した。そのなかには、この間、放射性物質を故意に大気中と海洋に撒き散らしているために、当人は知らぬ気だが、事態の本質を見抜いた人びとが「放射能テロ」あるいは「核物質テロ」、さらには「3・11テロ」という形容句をその国の国名に冠し始めている国の首相も含まれていた。その男は、この殺人行為を指してこう述べたのである。「テロ対策の顕著な前進を歓迎する」(!)。

5月2日、パキスタン北部アボタバードで、米海軍特殊部隊と中央諜報局の部隊がヘリコプター4機を駆使して(加えて、「スーパードッグ」という特殊訓練を施した犬も動員して)展開した軍事作戦によって、ビンラディンほか4人の人びとが殺害された事件と、報道されている限りでの一部諸国の支配層におけるその肯定的な反響は、あまりに異常である。内外ともにメディア報道の在り方が意外なまでに冷静で、作戦それ自体への控えめだが疑問か批判を提起し、せめて刑事裁判で裁くべきだったとする主張が少なくないことに「救い」が感じられるほどだ。超大国=米国の横暴なふるまいに対する私たちの批判と怒りの感情は、またしても、沸点に達しそうだ。私は、伝え聞いてきたビンラディンの思想と行動の指針には共感を覚えず、そこからは相対的に自立した地点に立って、以下の諸点を述べておきたい。

2001年「9・11」以降、米国がアフガニスタンとイラクにおいて行なってきた殺戮・占領の行為と、そこで捕えた虜囚を、1世紀以上もの長い間手放そうともしないでキューバに保持し続けている米軍基地に強制収容している事実から、私は、米国において「継続する植民地主義」の腐臭を嗅ぎ取ってきた。パキスタンから「主権侵害」との憤激の声が上がっている今回の行為も、まぎれもなく、その延長上にある。他国との良好な関係を大事に思うならば、決して選択できない行為で米国の近現代史は満ち溢れている。それに新たな1頁を付け加えたのが、今回の行為だ。

いわゆる大国にとって都合の良い世界秩序が作られてきた歴史過程について、私は最近いく度かこういう表現を使った。「植民地支配・奴隷制度・侵略戦争など〈人類に対する犯罪〉を積み重ねてきた諸大国こそが、現存する世界秩序を主導的に作り上げてきた」と。近年になって、これらの行為の犯罪性はようやく問い質される時代がきたが、そのたびに当該行為の主体国からは「植民地支配も奴隷制度も戦争も、それを当為と見なす価値観があった時代の出来事だ。現在の価値観で過去を裁くとすれば、世界は大混乱に陥るだろう」とする悲鳴が上がる。だが、〈人類に対する犯罪〉的な行為が行われた時点で、その行為の対象とされた地域は「大混乱に陥り」、そのとき受けた傷跡を引きずりながら現在に至っているのだ。それゆえに、相互間の対等と自由を尊ぶ民衆および小国の観点から見るなら、今ある秩序は抑圧的なものでしかなく、それは抵抗し、反抗し、覆すべき歴史観なのだ。

「3・11」事態の直前、われらが足元にも「継続する植民地主義」そのものの発言があった。米国務省日本部長ケビン・メアが行なった「沖縄はごまかしとゆすりの名人で、怠惰でゴーヤーも栽培できない」という発言である。欧米日の植民地主義者の「懐かしのメロディ」とも言うべきこの発言は、津波と原発危機以降のヤマトでは忘却の彼方に追いやられている。逆に、米軍が行なった被災者救援作戦の重要性のみが喧伝され、図に乗った米軍海兵隊司令官からは「普天間基地は重要」との発言もなされている。内外でなお続く、植民地主義を実践する言葉と行動の衝撃性と犯罪性を忘れないことが、私たちの課題だ。

(5月6日記)

憲法9条と日米安保・沖縄の基地を共存させている「民意」


『支援連ニュース』第332号(2011年1月26日発行)掲載

政治家が吐く言葉が虚しいというのは、世界のどこにあっても、多くの人びとの共通の思いだ。代議制の政治において、「選ばれたい」と好んで選挙に群がってくるのは、権力や金力や世襲制などにとても近しい感情を持つ連中が大多数である以上、そしてそれが選挙権を持つ大衆によって許容されている以上、これと同調できない者が持つ虚しさの感情は、世界のどこかしこで、際限なく続いてきた。私は思うのだが、選挙とは、有権者のなかでもっとも奢り昂ぶっている人物を、つまり金の力と、権力と、親の威光とを最悪の形でかざす人物を、わざわざ選びだす儀式と化しているのではないだろうか。

最近の日本でいえば、小泉という男が首相であった時代――それは、2001年から2006年までの時期のことだったから、現代的な時間の流れの速度でいえば、「もはや昔」の話に属する――に、つくづくそのことを痛感した。大した苦労もなく育ったことによって屈託もない笑顔を常に浮かべていることができた時期の加山雄三のような男とでもいおうか、歴史や思想を背景に深く考えるという訓練を積んでこなかった小泉は、(時に苦しまぎれにでも)即興で口にした短い言葉が、けっこう「世間」的には通用する、否、むしろ「受ける」ことを知って、5年ものあいだ徹底してその場所に居座った。居直った、と言ってもよい。思い出したくもない、無惨な言葉の数々をこの男は遺した。

この時期の私の思いは、単純に政治家個人の言葉に対する虚しさというのではなく、その虚しい言葉を連発する男に「世論」の共感が集まっているという意味で、もっと複雑で、にがいものだった。ある社会が、他地域の植民地化・侵略戦争へと向かって、雪崩を打って巻き込まれていった過去の歴史的な時代を回顧したときに否応なく生まれる思い――人間っていうものは、どうしようもないものだなあ、という感慨を持たざるを得なかった。この時期、政治全般で、とりわけ経済と軍事の領域で、日本社会のあり方を大転換させる政策が次々と採用されていった。弱肉強食の新自由主義経済秩序の浸透によって社会がずたずたに切り裂かれ、同時に、世界第一・第二の経済大国である米日二国が軍事的協力体制を強化しているという、経済と軍事の「現在」は、あの小泉時代の政治の直接的な延長上にある。

そのころ、小泉は、おそらく、政治の虚しさを実感させる頂点のような言動を弄する人物だろうと私は思っていた。ところが――これと同等の、いや見方によっては、はるかに上手、がいたのだ。

(1) 「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示する事を約束する」(2001年7月21日)。

(2) 自民党政権下では「政権が変わるたびに新しい首相は真っ先に首相官邸のホットラインで米国大統領に電話し、日米首脳会談の予定を入れるという『現代の参勤交代』とも言うべき慣行が続いている」(2002年9月)。

(3) 「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(2006年6月1日)。

野党の政治家なら、この程度は言って当然というべきこれらは、いずれも、菅直人という名の政治家がかつて行なった発言である。(1)と(2)は、民主党幹事長時代のもの、とくに(1)は参議院選挙のさなかに那覇市で行なった演説の一節である。(3)は、民主党代表代行時代の発言だ。

その菅は、前任者・鳩山が自滅して後任の首相に就いた2010年6月6日、米国大統領に真っ先に電話し、「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」と語りかけた。さらに、6月14日の衆院本会議で「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」とも語った。そして、新しい年が明けて開かれた通常国会では、1月24日の施政方針演説で「日米同盟はわが国の外交・安全保障の基軸であり、今年前半に予定されている訪米時に21世紀の日米同盟のビジョンを示したい」と断言した。

大きな信頼感を抱いているわけでもなかった政治家だが、これらの発言の間に横たわる「落差」と「矛盾」には、頭がくらくらする。小泉の場合には、以前と後の言動が大きく食い違っているという問題ではない。非歴史的かつ非論理的な発言をしておいて、恬として恥じないという(これはこれで困った特質だが)ところから派生する問題である。菅の場合は、右に掲げた野党時代の意見と、首相になって以降のこの間の言動を比較対象されたなら、人間としてナイーブな存在を想定するなら、身もだえして我が身の置き所がなくなるような矛盾である。結果的にはとても脆いものではあったが、鳩山由紀夫が最初に持っていた程度の「逡巡」や「迷い」すらも、首相に就任した菅は当初から示すことはなかった。ひとは誰でも、時に矛盾に満ちた言動をしがちである、という一般論に流し去ることはできない。政治的・社会的責任を伴う立場の人間の、底知れぬ暗闇をもった「転向」なのだから。

だが同時に、菅のこの転向が、他ならぬ「世論」によって支えられているという点を見逃すわけにはいかない。菅政権は、世論調査によれば、支持率は低い。昨今の世論調査では、設問の設定にも依るのであろうが、いかようにも浮遊する気まぐれな世論の傾向が浮かび上がるだけだから、どこまで信をおくに値するか、という疑問があるにしても。しかし、こと外交政策の問題としては、アジア諸海域への中国の軍事的台頭や北朝鮮の軍事冒険主義に大きな脅威を感じて、日米同盟の強化と自衛隊の装備増強を容認しているのが、世論なるものの大方の流れであることは、無念ながら、認めざるを得ないようだ。それがはっきりと表われたのは、昨年5月、民主党政権が鳩山から菅へと移行した際の、社会の動向だった。マスメディアの報道傾向も大きく影響したと思われるが、普天間基地の「移設先」(移設先という発想が、そもそも、おかしいのだが)を最低でも県外と公約していた鳩山が為すすべもなく対米追随へと落ち込んでいったとき、世論の大勢は、確かに、公約違反の鳩山を批判し、沖縄の民意に「同情的」だった。その鳩山が行き詰って退陣し、菅が首相に就任し、先に触れたように「日米合意厳守」の方針を明らかにしたときに、世論は急速に菅支持の傾向を示した。すなわち、社会の大勢は、公約違反の限りにおいて鳩山を批判したが、沖縄に米軍基地の過重負担を強いている現行の日米安保体制そのものには無関心であること――したがって、現状を肯定していることを自己暴露したのだった。

私たちは現在、このような社会状況のなかに位置している。沖縄のジャーナリスト、新川明は5年前に次のように語った。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた」(『世界』2005年6月号)。これを換言すると、「戦争は嫌だが、中国や北朝鮮の脅威に向けて日米安保と沖縄の基地は必要だ」というのが、日本社会に住む者の多数派の意見だということになる。ここをいかに突き崩すか。今後の課題は、ここにある。

いま植民地責任をどう考えるか


ピープルズ・プラン研究所『季刊ピープルズ・プラン』第52号(2010年12月発行)掲載

世界で

1、継続する植民者意識

今世紀が明けて一年目の2001年、米国が「反テロ戦争」なる名目の下に、アフガニスタンに対する一方的な攻撃を開始して間もないころ、「国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が聞こえてきた。米国の政治・軍事指導部から出てきた言葉だ、と当時のメディアは伝えていた。大国の政治指導者が「無意識に」抱え込んでいる本音がむき出しになったこの言葉を聞いて、植民地主義を肯定する植民者の意識の根深さを思った。

このような意識が根拠づけられる素材は、日常性のいたるところに転がっているように思える。これはアフガニスタンをめぐって吐かれた言葉であっただけに、私はすぐ、コナン・ドイルの第1作『緋色の研究』(1887年)を思い出した。この作品の冒頭では、やがてシャーロック・ホームズに出会うことになるワトソン博士は、イギリスがすでに植民地化していたインドに派遣されたのだが、イギリスはアフガニスタンの植民地化をめざして第2次アフガニスタン戦争(1878〜80年)を開始していたためにその戦争に従軍し、そこで負傷して帰国した、という設定になっていたことが頭に浮かんだのである。久しぶりにこれを再読してみると、負傷したワトソンは、「献身的で勇敢な部下」が「私を駄馬に荷物のように乗せて、ぶじに英軍の戦線まで連れ帰ってくれたから助かったようなものの」、そうでなければ「残虐きわまりない回教徒戦士の手におちてしまっていただろう」という表現も出てくるのだった(創元推理文庫、1960年、阿部知二訳)。侵略行為の罪は不問に付して、相手側の「残虐」性を言うこの倒錯!

この作品には、カンダハルやペシャワールなどの地名も出ており、19世紀後半当時7つの海を制覇していたイギリス帝国の内部における世界認識が、植民地支配を通していかに広がりをもっていたかを、言外に語るものでもあった。このあと書き続けられることになるシャーロック・ホームズの一連の作品においても重要な脇役を演じるワトソンの履歴に、「植民地獲得戦争で負傷して帰国した」という味付けを施すことで、同時代に生きるイギリス人読者から「国民」としての一体感が得られるだろうという計算を、巧妙にも、コナン・ドイルはしたのであろうか。

他方、同じ事態を異なる視点から捉える人物も、同時代的に存在する。ドイツに生まれたカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスはコナン・ドイルとほぼ同時代人であったと言えようが(三者の生年はそれぞれ順に、1818年、1820年、1859年)、エンゲルスには、1857年8月頃に執筆したとされる「アフガニスタン」と題する論文がある(大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第14巻所収)。

翌年『ザ・ニュー・アメリカン・サイクロペディア』に発表されたものであるが、それは当時の米国の進歩的ブルジョアジーが企画した百科全書的な媒体であったから、またその原稿を書くことは当時のエンゲルスにとって(マルクスにとっても)重要な生計手段であったから、目的に即した客観的な地誌・民族・宗教・歴史の叙述となっている。19世紀に入って、この地を支配しようとした帝政ロシアとイギリスの角逐にも当然触れているが、すでにインド大陸を植民地支配していたイギリスがインダス河を越えてアフガニスタンに軍事的展開をする段(1839~42年の第1次アフガニスタン戦争のこと)の記述に至ってもエンゲルスは場を弁えて客観的な立場に徹してはいるが、イギリスのアフガニスタン征服の策動が(エンゲルスがこの論文を執筆した時点では)失敗に終わっていく過程を鋭く分析して、記述を終えている。

後世の目で見れば、当時のマルクスとエンゲルスには、イギリス資本主義による、たとえばインドに対する植民地支配の「非道なやり口」という批判的な分析はあっても、頑迷なインドの共同体構造をイギリスが破壊することによって、インド近代化の道が開けるという「資本の文明化作用」に期待を寄せていた点が、批判の対象となっている。私も、この批判的な捉え方に部分的には共感する者だが、それでもなお、19世紀後半のアフガニスタンにわずかなりとも触れた世界的に著名な著作として、コナン・ドイルとエンゲルスのそれを対照的に取り上げること、そこから、当時すでに相当な程度まで世界に進出していたヨーロッパ地域の人間たちが、意識的にか無意識的にか抱えていた「進出対象」の異境に対する捉え方を導き出すこと――「帝国」内の意識は継続していると考えられる以上、それは重要な、過去へのふり返りの方法だと思える。

2、植民者と被植民者

2001年の「反テロ戦争」を「植民地主義の継続」(註1)という問題意識で思い起こすとき、触れるべきもうひとつの課題がある。それは過去に遡及するものではなく、まさに同じ年の2001年8月31日から9月8日まで、南アフリカのダーバンで開かれていた国連主催の国際会議について、である。「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(以下、ダーバン会議と略称)がその会議の呼称なのだが、「人道に対する罪」というべき奴隷制、奴隷貿易、植民地主義に対する歴史的な評価を下す場であった。

この会議については、日ごろは国際的に重要な課題に対するアンテナの精度が高くはないと私が考えている日本の新聞各紙でも、一定のスペースを割いた報道が連日なされていた。この会議が開催されることを事前には知らなかった私は、事態はここまで進んだのか、と感慨深いものがあった。

思えば、この種の課題に関して、世界的にみて潮目が変わったのは、1992年だというのが私の考えである。それは、1492年の「コロンブス航海」から500年目の年であった。500年前のこの出来事を決定的な契機として、ヨーロッパによる異世界征服の「事業」が開始された。先駆けて進出したのは、ヨーロッパの「辺境」に位置し、大西洋に面するイベリア半島のスペイン・ポルトガルの両国で、差し当たっての具体的な征服対象はアメリカ大陸諸地域であったが、やがて、ヨーロッパ全域がアメリカ、アフリカ、アジアに対する植民地支配を拡大していくことに繋がっていく。常に勝者によって書き綴られてきた世界史は、この出来事を「大航海時代」とか「新大陸の発見」と名づけてきた。いわば、それが偉大なる「事業」だとするヨーロッパ的な視点で解釈されてきたのである。

だが、「コロンブス航海」から500年目を迎えた1992年――世界じゅうで、人びとの歴史意識は現実から大きな挑戦を受けていた。前年末、74年間続けられてきたソ連型社会主義体制は崩壊した。20世紀を生きた人びとの価値意識を大きく規定してきた「資本主義 vs 社会主義」の対立構造は、この段階でいったん終わりを告げた。資本主義の担い手たちは、当然にも、資本主義システムの勝利を謳歌した。あらゆるものを商品化し、それらを単一市場での自由競争の試練に曝し、すべての欲望を解き放つことへの、手放しの賛歌! 合唱隊に加わる者も多かったが、その価値観を懐疑し、批判し、疑問を提起する者が絶えたわけでもなかった。解消できない南北格差、全地球的な環境問題の深刻化――その根源を追求しようとする「南」の世界の人びとが声を挙げ始めた。ソ連の崩壊によって「東西冷戦」構造が消滅したことで、いままで隠蔽されてきた矛盾が誰の目にも明らかになった、とも言える。

他方、欲望のおもむくままに人びとを消費に駆り立ててきた高度産業社会の中心部に広がる空虚な疲弊感――「北」の世界でも、産業社会そのものに対する懐疑が広範に生まれていた。それは、資本主義的発展が可能になった根拠までをも問い直す懐疑であった。

「南」と「北」は、20世紀末に人類が直面している諸問題の根源にまで行き着く共通の問いかけを持った。資本主義が世界を制覇するきっかけとなった「コロンブス航海」の時代にまで遡って歴史過程を総括すること、これである。アメリカ大陸の民衆は、この期間を「インディオ・黒人・民衆の抵抗の500年」と捉えて、ヨーロッパによって剥奪されてきた権利を奪い返す運動を開始した。欧米諸国や日本などの産業社会では、私たちが東京で開催した「500年後のコロンブス裁判」のように、植民地支配・奴隷の強制連行と奴隷制などを通して実現された資本主義近代を問い直す催し物が開催された。それは、世界に共時的な動きであった。「潮目が変わった」と私が表現したのは、このことを指している。

この延長上で注目されるべき2001年ダーバン会議の成果は、閉幕3日後に起きた「9・11」事件とそれに引き続く「反テロ戦争」の衝撃によって、世界じゅうに十分には浸透しないままに終わった。植民地支配や奴隷貿易などの「人道に対する罪」が、初めて世界的な規模の会議で討議されてから間もないころに、いまなお植民地主義的ふるまいを続けている超大国の為政者内部では、自国が無慈悲な一方的爆撃を実施しているアフガニスタンを指して、「いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が吐かれていたのである。

こうして、植民地主義を歴史的根源に遡って批判することを通してその理論と実践を廃絶しようとする動きと、なおそれを延命させ継続させようとする動きとは、21世紀初頭の世界的現実の中で対峙している。しかし、時代状況は、もはや揺り戻しの効かない地点にまで来たのではないだろうか。今年10月には、名古屋で国連生物多様性条約第10回締約国会議が開かれたが、そこでの討議においても、「大航海時代」以降と植民地時代に行なわれてきた動植物資源収奪に対する賠償・補償の必要性をアフリカ諸国の代表は主張した。先進諸国は、そんな過去にまで遡って賠償だ、補償だ、と言い出したら、世界は大混乱に陥る、と悲鳴を挙げている。だが、列強が異境を植民地化し、奴隷を強制連行した時点で、それらの現地は大混乱に陥ったことを忘れるわけにはいかない。

解決の方法は、私たちの/そして今後来るべき人びとの知恵に委ねるほかはないが、植民地支配がもたらしたものをめぐる問題設定は、揺るぎなくなされるに至った、と言える。それは、「人類」という意味での私たちが獲得している、決して小さくはない歴史的成果のひとつである。

東アジアで

1、秀吉の朝鮮侵攻を引き継ぐ意識

「韓国併合」から100年目の年を迎えた今年、過去をふりかえるためのさまざまな文献を参照した。その時どきの、さまざまな社会層の象徴的な発言をいくつもメモしたが、紙幅の制約上から傾向を2,3に絞って挙げると、16世紀末の1592年と1597年に行なわれた豊臣秀吉による朝鮮侵攻と結びつけて、自らがなした行為の意義を浮かび上がらせる表現が、近代日本の軍人あるいは軍人兼政治家の中に目立った。

有名な逸話だが、併合した際の「祝宴」の場で、朝鮮総督・寺内正毅は詠んだ。

小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ

小早川、加藤、小西はいずれも秀吉が朝鮮侵攻のために動員した巨万の軍勢を率いた大名たちの名前である。寺内は、その後1916年には首相に就任し、成立したばかりのロシア革命に干渉するシベリア出兵を1918年に強行した。それを引き継いだ宇垣一成は、職業軍人としてやがて国家総動員体制の確立に努めることになる人物だが、シベリア撤兵の日(1922年10月25日)の日記に書き記した。

「大正十一年十月二十五日午後二時十五分は之れ浦潮(ウラジオストック)派遣軍が愈々西伯利(シベリア)撤兵最後の幕切れでありた。神后以来朝鮮に占拠せし任那の日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を聯想して実に感慨無量、殊に渾身の努力を以って西伯利出兵に尽したる余に於ては一層痛切なり。(……)捲土重来の種子は此間に蒔かれてある。必ずや更に新装して大発展を策するの機到来すべきを信じて疑わぬ。又斯くすべきことが吾人の一大責務である!!

偉人英傑の偉大なる力にて捲起さるる風雲は、人間生活を沈滞より活気の中に導き、弛緩より緊張の世界に躍進させ得る。」(『宇垣一成日記』1、みすず書房、1968年。原文ママ。括弧内のみ引用者)。

宇垣の場合には、神功皇后→任那日本府→太閤秀吉→シベリアの諸経験を時空を超えて結びつけ、すべてに共通する「撤退」への無念の思いを吐露している。

これと対照的な表現をなした同時代の人物を挙げるなら、芥川龍之介だろう。「金将軍」(1924年)はわずか数頁の小品だが、小西行長が「征韓の役」の陣中に命を落したという朝鮮での虚偽の言い伝えに示唆を得て、緊張感にあふれた伝説の世界を作り出している。言わずもがな、のことだろうが、そこからは寺内や宇垣とは対極にある歴史意識を感じとることができる。芥川はまた、日露戦争の「英雄」にして日本軍国主義の「軍神」=乃木希典を「将軍」(1922年)で取り上げ、残酷な行為の果てに勲章に埋まる人間に対する懐疑を表明した。芥川が、寺内や宇垣などの政治・軍事指導者が表明する価値観に強く同調しながら形成されてゆく当時の「世論」と一線を画し得た事実から、私たちが学ぶべきことは多いだろう。文学者で言えば、夏目漱石の朝鮮観については、すでにいくつもの重要な分析を行なった書が出ているが(註2)、漱石は一時期、1895年日本軍兵士と壮士が韓国王妃を殺害したことを「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」(1895年11月13日付正岡子規宛て書簡)とまで述べて、やがて韓国を植民地していく日本社会の風潮にしっかりと同調していた。隣国の王宮に押し入った日本の兵士が王妃を虐殺するという驚くべき事件を、漱石がこのように受けとめたという帝国内部の「意識の日常性」は、現在にも引き続くものとして問い直すべきだろう。同時に、その漱石の価値観は、日露戦争を経て揺らぎ始め、晩年には戦争や侵略をめぐって別な世界に歩み出ようとしていたと思われる表現もあって、その「可能性としての」変貌の過程は、漱石が近代文学史上でもつ重要性に鑑みて、再検討されるに値すると思われる(註3)。

2、領土抗争をめぐって急浮上する植民地主義の継続

寺内正毅が秀吉軍の大将たちが抱いた朝鮮征服の夢を思い浮かべた歌を詠んでから百年後の今年、日本社会は改めて、自らの植民地主義を継続するのか否か、の問いに向かい合っている。だが、問われているのがそのような問題であるという自覚は、私たちの間に広く浸透しているとは言えない。それは、かつて植民地を保持した「帝国」が、それをはるか以前に失ってからも、例外なく抱え続けている問題である。

この年、日本ではまず、日米安保条約と憲法九条の関係性如何という問いが、沖縄の米軍基地問題をめぐって提起された。この課題に関わっての民主党政権の迷走と、それに随伴した「民意」を分析してみると、平たい言葉で表現するなら「戦争は厭だが、中国や北朝鮮の脅威があるから日米安保で守られているほうがよい」となるほかはない。

憲法9条が成立し得る根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた――という趣旨のことを語ったのは、2005年の新川明だった(「世界」20045年6月号、岩波書店)。新川はさらに言う、沖縄は戦後60年間ずっと「国内植民地」だったのだ、と。私は「植民地」の前に「国内」を付することだけは留保して、新川の分析方法に基本的に納得するが、そうだとすれば、問題はここでも「植民地主義の継続」なのだ(註4)。

さらに今年九月に入って、中国との間で尖閣諸島(釣魚島)領有権問題まで発生することで、「植民地主義」という問題性を帯びた問いはいっそう切実感を増している。なぜなら、民主党政権は「尖閣は明白に日本に帰属」と主張しているが、日本国が尖閣の領有権を主張したのは日清戦争後の1895年で、それは下関条約に基づいて台湾を植民地化した時期に重なっていることが明らかになるからだ。さらに、沖縄の人びとの生活圏の一部として尖閣を位置づける場合には、今度は、1879年に明治国家が行なった「琉球処分」という名の沖縄植民地化の過程を問い質す課題が必然的に生まれてくるからだ。

こうして、すでに60年前に終焉の時を迎えたはずの植民地主義支配の遺制は、「帝国」を、抜け出ることのできない蜘蛛の巣に絡め取っている。その遺制が、旧植民地主義支配国と被支配国との間の、現在における力関係(政治・経済・文化的影響・開発と低開発などの面で)の落差を規定している以上、支配された側はその遺制の撤廃と解決を求めるのが当然だからである。最近の国際会議の場における「南」の諸国の主張は、その線に添ってなされていると解釈できる。問いかけが発せられたからには、植民地主義が生み出した諸問題を解決するためのボールは、いまは、支配した側の手中に握られている。

(註1) この表現をそのまま表題としている著書に、次のものがある。岩崎稔ほか編著『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社、2005年)。また同じ問題意識に貫かれた著書に、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青き書店、2009年)がある。

(註2) 最近でも、小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)、同『漱石――21世紀を生き抜くために』(同、2010年)、金正勲『漱石と朝鮮』(中央大学出版部、2010年)などがある。

(註3) 松尾尊兊「漱石の朝鮮観 手紙から探る」(朝日新聞2010年9月17日付け)に示唆を受けて、未読だった漱石書簡集に目を通した。

(註4) この問題を多面的に深く分析したのが、中野敏男編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社、2006年)である。