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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[89]「一日だけの主権者」と「日常生活」批判


『反天皇制運動Alert』第16号(通巻398号、2017年10月10日発行)掲載

テレビのニュース番組を観なくなって久しいことは何度か触れてきた。もともとテレビを買ったのは1983年のことだったから、きわめて遅い。この年の10月、米帝国がカリブ海の島国、グレナダに海兵隊を侵攻させた。社会主義政権の誕生で彼の地の社会情勢が「不穏」となり、在留米国人の「安否」が気遣われたという口実での、海兵隊の侵攻だった。ひどい話だが、「建国」以来の米国史ではありふれたことではあった。悔しいのは、グレナダという国について何のイメージも浮かばないことだった。長崎県の福江島に等しい程度の広さの国だというが、どんな人が住んでいるのだろう、主な生業は何だろう、10万人の人口で成り立つ「国」とはどんなものだろう。そんな小さな国で、米国をして不安に陥れる社会的・政治的情勢とは、どんなものだろう――百科事典でわかることもあったが、土地とひとに関わる映像的なイメージがどうしても必要だと思った。

あれほど拘って「拒否」してきたテレビを買ったのは、その時だった。買ってみてわかったことだが、グレナダのような小さな国の出来事なぞ、何が起ころうと日本のテレビ局は何の関心も示さない。新聞は読んできたのだからわかりそうなものだったが、マスメディアにおける、「世界」から打ち捨てられた地域・国々の扱い方はそういうものなのだ、という当然の、興ざめした結論を改めて得ることとなった。だが、ニュースのほかにもさまざまなテレビ番組に触れるにつれ、現代人の心のありように及ぼすテレビの影響力の決定的な大きさを心底痛感することとなった。

そのことを実感する個人的な経験も1997年にあった。前年末に起こって長引いていた在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件をめぐって、某テレビのニュース番組に二度出演した。生放送ではない、録画撮りで、放映時間はそれぞれわずか一分程度のものだった。私としては、日本人人質の安否報道に純化している日ごろの番組ではまったく聞かれない意見を話したつもりだった。翌夕、事務所近くのラーメン屋へ行くと、顔見知りの兄さんが「夕べ、テレビに出ていましたね」と言って、何か小皿料理をサービスしてくれた。郵便局の局員も、見ましたよと言って、それがさも大変なことであるような話ぶりだった。話したことの内容ではなく、テレビに出たこと自体が、私に対する彼らの視線を変えたもののようだった。恐ろしい媒体だ、と心から思った。

1983年にテレビを買い、その後20年間ほどは、時間さえあれば、ニュース番組以外にもいろいろと観た。とりわけ2002年9月以降の半年くらいの間はテレビに浸った。日朝首脳会談以降の拉致問題報道によって社会がどのようにつくり変えられていくのか。それを見極めなくてはならない。そう考えたからだ。外にいたり電車に乗っていたりするときも、ワイドショー番組での人びとの発言を携帯ラジオの音声モードで聞いていた。恐るべき速度と深度で、この社会が民族排外主義と自己責任免罪主義によって席捲されていく様子が、手に取るように分かった。ワイドショーこそは諸悪の根源、と確信した。この作業を終えて以降、テレビ・ニュースを観ることをほぼ止めた。世界各国の最新のニュース番組を同時通訳で紹介するNHK・BSの「ワールド・ニュース」だけは観る。60年安保のころ、中国文学者・竹内好が「日本の新聞だけを読んでいても、何もわからない。英字新聞を読まなければ」と語った記憶が蘇える。今、テレビに関して、竹内に似た思いを抱く。

国会解散・総選挙・相次ぐ新党結成などの動きが打ち続くなかで、「禁」を破ってテレビのニュース番組やワイドショーをいくつか観た。テレビを重要な媒体だと考えている人びとの脳髄に日々染み渡ってゆく言論がどのような水準のものであるかを、司会者・コメンテーターの言動と番組全体の枠組みを検討して、理解した。15年前との比較においてすら、劣化は著しい。加えて、選挙制度は小選挙区制である。さらに加えて、極右が支配する「自民」「希望」は論外としても、これに対決しているかに見える新党「立憲民主党」の先頭に立つのは、震災・原発事故の際の〈為政者〉としての印象も生々しい政治家たちである。あっちを向いても地獄、こっちを向いても〈小〉地獄。選挙の一定の重要性は否定しないが、「一日だけの主権者」への埋没がこの事態を出来させたと考えれば、私たちが真に大切にしなければならないことは何かが見えてくる。それは、テレビ・ニュースに象徴される、己が「日常生活」への批判なのだ。(10月7日記)

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[88]過去・現在の世界的な文脈の中に東アジア危機を置く


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第15号(通巻397号、2017年9月12日発行)掲載

米韓及び日米合同軍事演習と朝鮮国の核・ミサイル開発をめぐって、朝鮮と米国の政治指導者間で激烈な言葉が飛び交っている。日本の首相や官房長官も、緊張状態を煽るような硬直した言葉のみを発している。

いくつもの過去と現在の事例が頭を過ぎる。1962年10月、キューバに配備されたソ連のミサイル基地をめぐって、米ソ関係が緊張した。若かった私も、新聞を読みながら、核戦争の「現実性」に恐れ戦いた。その時点での妥協は成ったが、それから30年近く経ったころ、米・ソ(のちに露)・キューバの当事者が一堂に会し、当時の問題点を互いに検証し合った。モスクワ再検討会議(1989年)、ハバナ再検討会議(1992年、2002年)である。二度に及ぶハバナ会議には、フィデル・カストロも出席している。当時の米国防長官マクナマラも、三度の会議すべてに出席した。二度目のハバナ会議の時はすでに「反テロ戦争」の真っただ中であり、ブッシュ大統領が主張していたイラクへの先制攻撃論をマクナマラが批判していたことは、思い起こすに値しよう。カストロも「ソ連のミサイル配備の過ち」を認めた。キューバ・ミサイル危機では、「敵」の出方を誤読して、まさに核戦争寸前の事態にまで立ち至っていたことが明らかになった。それが回避されたのは、僥倖に近い偶然の賜物だった。

マクナマラは、ベトナム戦争の一時期の国防長官でもあって、彼は後年のベトナムとの、ベトナム戦争検証会議にも出席している。そこでも彼は、米国の政策の過ちに言及している(『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社、 1997年)。対キューバ政策にせよ、ベトナム戦争にせよ、あれほどの大きな過ちだったのだから、「現役」の時にそれと気づけばよかったものを、そうはいかないらしい。「目覚め」はいつも遅れてやってくるもののようだ。

それにしても、人類の歴史を顧みると、同じ過ちを性懲りもなく繰り返している事実に嫌気がさすが、この種の「検証会議」はその中にあってか細い希望の証しのように思える。かつては真っ向から敵対していた者同士が、「時の経過」に助けられて一堂に会し、過ぎ去った危機の時代を検証し合うからである。そこからは、次代のための貴重な知恵が湧き出ている。それを生かすも殺すも、その証言を知り得ている時代を生きる者の責任だ。

南米コロンビアの現在進行中の例も挙げよう。キューバ革命に刺激を受けて1960年代初頭から武装闘争を続けていたFARC(コロンビア革命軍)が、昨年実現した政府との和平合意に基づいて武器を捨て、合法政党に移行した。略称はFARCのままだが、「人民革命代替勢力」と名を変えた。同党は自動的に、議会に10の議席を得た。彼らが初心を失い、後年は麻薬取引や無暗な暴力行為に走っていたことを思えば、この「妥協的」な条件には驚く。政治風土も違うのだろうが、困難な事態を解決するための、関係者の決然たる意志が感じられる。50年以上に及んだ内戦の経緯を思えば、この「和解・合意」の在り方が示唆するところは深い。朝鮮危機が報じられた9月1日の朝日新聞には「戦争は対話で解決できる/ポピュリズムは差別生む」と題されたコロンビアのサントス大統領との会見記が載っている。「ゲリラに譲歩し過ぎだ」との世論の批判を押し切ったブルジョワ政治家・サントスの思いは強靭だ。「双方の意志で対話し、明確な目標を持てば、武力紛争や戦争は終わらせることができる」。内戦で苦しんだ地方の人びとの多くが和平に賛成し、内戦の被害が少なかった都市部の住民が和平に否定的だったという文言にも頷く。当事者性が希薄な人が、妥協なき強硬路線を主張して、事態をいっそう紛糾させてしまうということは、人間社会にありふれた現象だからだ。

さて、以上の振り返りはすべて、今日の東アジア危機を乗り越えるための参照項として行なってきた。導くべき答は明快なのだが、惜しむらくは、朝鮮を見ても、米国を見ても、日本を見ても、政治・外交を司る者たちの思想と言動の愚かさを思えば、事態は予断を許さない。こんな者たちに政治を委ねてしまっている私たちは、渦中の「検証会議」を想像力で行なって、この状況下で「当事者」として行なうべき言動の質を見極めなければならぬ。

(9月8日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[87]「一帯一路」構想と「古代文明フォーラム」


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第14号(通巻396号、2017年8月8日発行)掲載

去る5月、北京で「一帯一路国際協力サミットフォーラム」が開催された。およそ130ヵ国の政府代表団が出席する大規模な国際会議だった。元来は、中国の習近平総書記が2013年に行なったふたつの演説で(カザフスタンのナザルバエフ大学とインドネシア議会)明らかにした構想の延長上で開かれた国際会議である。この構想で目論見られている世界地図は、当時の新聞でたびたび報道されて、私も注目していた。南北の中央部には、中国大陸がどっしりと構えている。その北に広がる「シルクロード経済ベルト」(=一帯)は、中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパに至るが、シベリアを含めた広大なロシアの全領土を覆い尽くしている。南に位置する「21世紀海上シルクロード」(=一路)は、中国沿岸部から東南アジア、インド亜大陸、アラビア半島を経て、アフリカ東海岸部へと至るものである。このふたつの地域で、インフラストラクチャー整備、貿易および資金の往来を促進しようとする計画である。習近平は、ふたつの演説地を周到に選んだと言うべきだろう。

ここに描かれる世界地図では、何事につけても口出しをする欧米諸国の影は薄い。だが、EUは「一帯一路」構想の支持を表明しており、日米両国も北京会議には閣僚級の代表団を派遣した。いずれも、構想が「オープンかつ公正、透明に」実施されるなら、積極的に協力する意思を表明している。

中国が交通インフラ整備の要としているのは高速鉄道網の建設だという。日本の新幹線の派生技術として始まった中国の高速鉄道は、国産技術の水準を急速に高め、自信をつけている。このことをひとつ取ってみても、「一帯一路」事業が孕み得る経済的な可能性(利潤の獲得、とはっきり言っておこう)を思えば、どの国の経済界もこれに参画することを欲して政府に働きかけたであろうことは疑うべくもない。

歴史論・文明論としての魅力は備えているかに見える「一帯一路」構想は、経済合理性に基づいて実施されるしかないから、世界各地の「近代化」が歴史に刻んだ負性を帯びざるを得ない。各国を支配するのが、強権政治を事も無げに行なう連中である限り(東アジアだけを見ても、中国・朝鮮・日本を例に挙げればわかる。新政権が誕生したばかりの韓国は、その行方を今しばらく見守るとしても)、「政経分離」による協力体制がもたらす未来像は、決して明るくはない。経済発展のために常に「フロンティア(辺境)」を必要としている資本主義体制にとって、今後2度とないビッグ・チャンスとすら言えよう。広大な各地に住まう「辺境の民」を蹴散らし、それはまさに、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」といった態をなすだろう。

もうひとつ、去る4月に、中国が主導し、ギリシャと語らってアテネで開催した閣僚級の国際会議にも注目したい。「古代文明フォーラム」である。参加国は、上記の両国に加えて、エジプト、イラン、イラク、イタリア、インド、メキシコ、ペルー、ボリビアの計10ヵ国である。古典的な「世界4大文明圏」に、5世紀有余前に世界史に「登場」した南北アメリカ大陸の、アステカ、マヤ、インカの古代文明圏を組み入れた国際会議であることが、見てとれる。描かれる世界地図からは、ここでも、従来はあまり見たこともない世界史像が浮かび上がってきて、その魅力がないではない。たかだか250年足らずの歴史をしか刻んでいない米国は、姿・形も見えない。ギリシャとイタリアを除くヨーロッパ諸地域も、古代にあっては「辺境」の地であったから、同じことだ。

発表されたアテネ宣言によれば 排外主義やテロなど不寛容な精神の広がりを防ぐために文明間の対話を進め、歴史の知恵を生かすことを唱っている。異論は、ない。だが、「古代文明フォーラム」にも、私は疑念をもつ。古代史研究は、自民族の文化と国家の起源を、「ヨリ古く」「ヨリ大きい」ものにすることに価値を置く方向ではたらくことがある。それが高じれば、異なる文明間に、「発展段階」による優劣をつける歴史観に流されてゆく。

習近平が次々と繰り出す外交方針は、人目を惹く。魅力もある。だが、「中華」の悠久の歴史を思う存分活用しようとするその方針には、検証と批判が不可欠だろう。(8月5日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[86]「現在は二〇年前の過去の裡にある」「過去は現在と重なっている」


『反天皇制運動 Alert 』第13号(通関395号、2017年7月6日発行)掲載

今からちょうど20年前の1997年12月、一冊の「歴史書」が刊行された。『歴史教科書への疑問』という(展転社)。編者は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」と名乗った。煩を厭わず、目次を掲げておきたい。

はじめに(中川昭一)

1 検定教科書の現状と問題点(高橋史朗、遠藤昭雄、高塩至)

2 教科書作成の問題点と採択の現状について(高塩至、丁子淳、漆原利男、長谷川潤)

3 いわゆる従軍慰安婦問題とその経緯(平林博、虎島和夫、武部勤、西岡力、東良信)

4 「慰安婦記述」をめぐって(吉見義明、藤岡信勝)

5 日韓両国にとっての真のパートナー・シップとは何か(呉善花)

6 河野官房長官談話に至る背景(石原信雄)

7 歴史教科書はいかに書かれるべきか(坂本多加雄)

8 我が国の戦後処理と慰安婦問題(鶴岡公二)

9 なぜ「官房長官談話」を発表したか(河野洋平)

当時わたしは『派兵チェック』誌に「チョー右派言論を読む」という連載をもっていて、『正論』(産経新聞社)や『諸君!』(文藝春秋)などの月刊誌を「愛読」していた。当時から見て一昔前なら、泡沫的な極右言論が集う場であったそれらの雑誌は、記述の中身をますます劣化させながら、にもかかわらず社会の前面に躍り出てくる感じがあった。「劣化ぶり」とは、まっとうな歴史的検証に堪えられず、論理としても倫理としても明らかに破綻した文章が「堂々と」掲載されているという意味である。右翼言論のあまりの劣化ぶりを「慨嘆」しながら、それでいてかつてない勢力を誇示しながらそれが露出しつつあることの「不気味さ」を、天野恵一と語り合った記憶が蘇える。この「歴史書」の執筆者には、それらの雑誌で馴染みの名も散見されるとはいえ、そうでもない名も多かった。右派言論界の「厚み」を感じたものである。

「若手議員の会」なるものの発足の経緯にも触れておこう。これは「1997年2月27日、中学校歴史教科書に従軍慰安婦の記述が載ることに疑問をもつ戦後世代を中心とした若手議員が集まり、日本の前途について考え、かつ、健全な青少年育成のため、歴史教育のあり方について真剣に研究・検討すると共に国民的議論を起こし、行動することを目的として設立」された。1997年に先立つ前史を振り返れば、彼らがもった「危機意識」が「理解」できる。以下、年表風に記述してみる。

1991年 元日本軍「慰安婦」金学順さん、その被害に関して日本政府を提訴。

1992年 全社の小学校教科書に「南京大虐殺」が記述される。/訪韓した宮澤首相、「慰安婦」問題でお詫びと反省。

1993年 河野洋平官房長官談話、「慰安婦」問題での強制性を認め、謝罪。/細川護煕首相「先の戦争は侵略戦争」と発言。

1994年 全社の高校日本史教科書に「従軍慰安婦」が記述される。

1995年 村山富市首相、侵略と植民地支配を謝罪する戦後50年談話発表。

これが、1990年代前半の一連の動きだが、これに危機感をもった「若手議員の会」の役員構成は次のようなものだった。代表=中川昭一/座長=白見庄三郎/幹事長=衛藤晟一/事務局長=安倍晋三。そして、衆議院議員84名、参議院議員23名で発足した。中川と安倍は自他ともに許す「盟友」だったが、両者の動きは2001年1月に顕著なものとなった。NHKの「戦争をどう裁くか」第2回「問われる戦時性暴力」の内容を、なぜか事前に知った中川・安倍の両議員がNHK幹部に圧力をかけて番組内容を改変させたからである。NHK側の当事者であった永田浩三の『NHK、鉄の沈黙はだれのために』(柏書房、2010年)などを読むと、NHK幹部は『歴史教科書への疑問』をかざしながら、この連中が圧力をかけてきているといいながら右往左往していた様子が描かれている。

1997年には、日本会議と「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成されている。振り返ってみて、この年が、日本社会の「現在」を作る原点的な意味を持つことが知れよう。最後に、「若手議員の会」の役員以外の主なメンバーを一瞥しておこう。下村博文、菅義偉、高市早苗、中山成彬、平沢勝栄、森田健作、八代英太などの名前が見える。森田は、もちろん、現千葉県知事である。何よりも冒頭のふたりの名前に注目すれば、「現在は20年前の過去の裡にあり」「過去は現在と重なっている」ことがわかる。(7月1日記)

男たちが消えて、女たちが動いた――アルピジェラ創造の原点


「記憶風景を縫う」実行委員会編『記憶風景を縫う-チリのアルピジェラと災禍の表現』所収、2017年

(ISBN978-4-9909618-0-0)

私がメキシコに暮らし始めて2ヵ月半が経った1973年9月11日、チリに軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、選挙によって誕生したサルバドール・アジェンデ大統領のもとで、「社会主義へのチリの道」がいかに展開するかに期待を込めた関心を持ち続けていた私には、大きな衝撃だった。やがて、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」迎え入れる歴史を積み重ねてきたメキシコには、軍事政権の弾圧を逃れたチリ人が続々やってきた。女性が多かった。新聞に載った一女性の語った言葉がこころに残った。愛する男(恋人か夫)が軍部によって虐殺されたか、逮捕されたのだろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このような直截な言葉で語られることが「新鮮」だった。メキシコでは、チリ民衆との連帯集会が頻繁に開かれて、私は何度もそこへ参加した。

ラテンアメリカを放浪中だった私は、クーデタから1年数ヵ月が経った75年2月、チリへ入った。アルゼンチンのパタゴニアの北部を抜けて、南部のテムコへ入った。リュックの荷物からは、税関で「怪しまれ」そうな本・新聞・資料をすべて抜き去った。

テムコは、世界的にも有名な詩人パブロ・ネルーダが幼年期を過ごした町だ。アルゼンチンで知り合ったチリ人が、テムコの実家に泊まってというので訪ねると、そこはネルーダの縁戚の家だった。アジェンデの盟友であり、自らも共産主義者であったネルーダは、73年クーデタの直後の9月23日に亡くなった。クーデタ当日はがんで入院していたが、政権を掌握した軍部の命令を受けた担当医によって毒殺されたという説が濃厚である。

私が訪ねた家も、ク-デタ後何回にもわたって家宅捜査を受けたという。大家族で、芸術・文化の愛好者が揃っていたが、書物は少なかった。軍部によって焚書されたのだという。焼けただれた本も幾冊か、あった。十全な形ではもう読めないのに、捨てるには忍びなかったのだろう。夜が更けると、家族みんなが集まって、大声では歌えないアジェンデ時代の民衆歌や革命歌を歌った。メキシコで私も親しんでいた歌だったので、小さな声で合わせることができた。

テムコは、先住民族マプーチェの土地だ。スペイン人征服者(コンキスタドール)を相手に展開した激しい抵抗闘争で、歴史に名を刻んでいる民族である。アジェンデ政権期には、その要求が全面的に認められたわけではなかったにしても、マプーチェへの土地返還が、従来に比べれば大幅に進んだ。軍政によってこの動きは断ち切られ、彼ら/彼女らは逆風にさらされていた。今は物を言う状況にはないマプーチェの人びとの小さな野外市場で、いくつかの民芸品を買った。チリでは他にも、首都サンティアゴ・デ・チレでの、人びととの忘れ難い出会いがあった。しかし、軍政下ゆえの不自由さは、隠しようもなかった。それだけに、テムコでの想い出が、いまもくっきりと脳裏にひらめく。

数年後、帰国して間もない私のもとに、チリから国際小荷物が届いた。そこに、一枚のタペストリーが入っていた。布の切れ端で作られたパッチワークだった。アンデスの山脈を背景にした家々の前で人びとが立ち働いている。10人全員が女性だが、それぞれが何かを持ち寄って、集まって来るような印象を受ける。この時代、現実にあった、貧しい人びとの「共同鍋」の試みなのかもしれぬ。テムコのあの家族からの贈り物だった。由緒の説明はなかったように思う。突起部分があって、ふつうの額には収まらないので、ラテンアメリカ各地で買い求めた民芸品と共に、大事に箱にしまい込んだ。

それからずいぶんと時間が経って、20世紀も末期のころ、私は編集者として一冊の翻訳書の仕事に関わった。「征服」期から現代にまで至る「ラテンアメリカの民衆文化」を研究した『記憶と近代』という書物である(ウィリアム・ロウ+ヴィヴィアン・シェリング=著、澤田眞治+向山恭一=訳、現代企画室、1999年刊)。そこでは、片方には軍政の抑圧、他方には革新政党のヒエラルキー構造や温情主義的な慣習をはびこらせた左翼の失敗の双方を乗り越えて、近隣の共同組織に依拠して日常生活や消費領域の問題を公的な政治領域に導入した動きとして、チリで行なわれてきた「アルピジェラ」と呼ばれるパッチワークの生産活動が挙げられていた。十数年前にテムコから送られてきたあの布地のことではないか!

同書は言う。「個人的な喪失や別離や極貧の経験を政治的事件の証言に変える試み」としてのアルピジェラは、「木綿や羊毛のぼろ布を使って日常生活のイメージを構成したものなのだが、その繊細で子供らしい形式とそこに描かれた内容とは衝撃的なくらい対照的である。それは大量収容センターのゲートの外で待っている身内の人々、軍事クーデタの日に軍のトラックに積まれた死亡した民間人、スラム街の無料食堂の場面、行方不明の身内との再会や、飢えや悲しみのない豊かな生活といった想像上の場面を描いている」。

軍政下での人権侵害を告発したカトリック教会は、「失踪者」家族支援委員会を運営しながら、アルピジェラのワークショップの開催、買い取りと販売を通して、生産者の経済的自立の手段を提供してきた、とも書かれていた。

アルピジェラの生産者が女性であることからどんな意義を読み取るか――同書はさらにその点をも書き進めるのだが、その後私たちに届けられたチリの表現をも援用しながら、この問題を考えてみたい。アジェンデ時代のチリを振り返るために決定的に重要なチリ映画が2016年にようやく日本でも公開された。パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作(1975~78年制作)である。この映画は、アジェンデ政権期の1970年から73年にかけての現実を、とりわけ73年の、クーデタに至る直前の半年間の状況をドキュメンタリーとして捉えている。そこには、当時のチリ階級闘争の攻防が生々しく描かれている。アジェンデ支持派の集会、デモ、討議の場で目立つのは男性である。米国CIAに扇動もされたブルジョアジーが日常必需品を隠匿して経済を麻痺させようとする策動を行なうのだが、地域住民がこれに抗して独自に生活物資を集め仕分けする場面に、辛うじて女性の姿が垣間見える。

このように『チリの闘い』が記録してしまった1970年代初頭の社会運動の状況と、アピルジェラをめぐる諸問題などを重ね合わせると、次のような課題が浮かび上がってくるように思われる。

1)チリ革命を推進していた社会運動は、政党にあっても労働組合運動にあっても、性別分業に特徴づけられた男性中心主義の色合いを強くもっていたことは否めないようだ。それは、世界的に見て、1970年代が持つ時代的な制約であったとも言えるのかもしれない。したがって、軍事クーデタ後の弾圧は、男性に集中的にかけられた。クーデタ直後に「デサパレシードス(行方不明者)」の写真を掲げて示威行動をしたり、グスマンの映画『光のノスタルジア』(2011年)が描いたような、クーデタから30年以上経ってなお強制収容所跡地で遺骨を探したりしている人びとがすべて女性であることによって、それは裏づけられている。

2)男性中心の諸運動は、こうして再起不能な打撃を受けたが、それは同時に、母、妻、娘として、親密な男性を失った女性たちが、その「喪失や別離」の体験を発条にして、新たな地平へ進み出ることを可能にした。男性優位の社会的な価値規範のもとで下位に退けられていた「女性的なもの」に根ざした表現として現われたのが、アルピジェラであった。それは、硬い男性原理から、柔らかな女性原理への転換が求められている時代を象徴していると言える。大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常生活に根ざした表現と運動が、支配への有効な抵抗の核となった時代――と表現してもよいだろう。

3)チリ革命では、もともと、文化革命的な要素が目立った。アリエル・ドルフマンなどは『ドナルド・ダックを読む』(晶文社、1984年)、『子どものメディアを読む』(晶文社、1992年)などの著作を通して、子どもの脳髄を支配する文化帝国主義の批判を行なった。また、女性を伝統的な価値観の枠組みの中に閉じ込めるいわゆる女性雑誌の編集姿勢を徹底的に批判・分析した一連の作業もあった。若い男性主体の価値意識の中では低く見なされがちな大衆、子ども、女性などの社会層に働きかける文化批判が実践されることで、単に、政治・社会・経済過程の変革に終わらぬ、草の根からの革命の事業が活性化する可能性が孕まれていたのではないか。それは、時代が激変し、軍事政権下に置かれた時に、庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたこととも関連してくるものだろうか?

アルピジェラという民衆の文化表現からは、この時代を考えるうえで避けることのできない重要な問いがいくつも生まれ出てくるようだ。

追記:「記憶風景を縫う」展覧会についての情報は、以下をご覧ください。

https://www.facebook.com/arpilleras.jp/

ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで


『ガルシア・ロルカ生誕祭119』(2017年6月4日、広島のcafé-teatro Abiertoで開催)における講演

1)米西戦争

さてもさても、お集まりの皆さん、私はこの4年間、ガルシア・ロルカが生まれたこの季節になると、この舞台の上で、ロルカが書いた詩を原語でふたつ三つと朗読してまいりました。今年は趣向変わって、彼が生きた時代を背景に、その短かく終わった人生の足跡を辿ることに相なった次第。題して「ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで」。わずか30分に彼の生涯を凝縮してお話しするのは至難の業ですが、ともかくそれを試みるゆえ、とくとお聞きあれ。

スペインといえば、だれもが知っている名前をいくつか挙げましょう。「ドン・キホーテ」という名は、この国では安売り雑貨屋の名としてまかり通ってしまった風情なれども、もともとは、16、7世紀スペインが生んだ文豪、セルバンテスが書いた長編小説のタイトルこそが『ドン・キホーテ』。世界的に見ても時空を超えた大傑作というべき小説のタイトルが、21世紀の日本国ではこんな店の名として「盗用」されていることを知ったならば、天国にいるのか地獄にいるのか、名付け親のセルバンテスはびっくり仰天しているに違いありません。

さらには、絵画の世界を覗けば、古くは18世紀のフランシスコ・ゴヤ、20世紀の現代に来れば、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなど、言い古された言葉なれども、まるで綺羅星のごとく天才的な画家たちが居並びます。あの奇怪にして魅力的な建築物を手掛けたアントニオ・ガウディ、その息遣いがチェロの音色と一緒になって聞こえてくるチェロ弾きのパブロ・カザルス、鬼才という形容がよく似合う、映画監督のルイス・ブニュエル、そして今日も、私たちの心を掴んで放さないカンテの歌やフラメンコの舞踏――ともかく、文化面からみれば、スペインという国は、妖しくも煌びやかな光を放っているのでございます。我らがガルシア・ロルカも、まぎれもなく、その中の一員だということをお忘れなく……。

さて、ロルカが生まれたのは1898年。今を去ること、120年前ということになります。ベン・シャーン、ジョージ・ガーシュイン、ルネ・マグリットなどが同じ年の生まれです。この年は、スペイン史においては忘れることのできない出来事が起きました。米西戦争、すなわち、スペインは、遠く大西洋を隔てた国、アメリカ合衆国との戦争を行なう破目に至ったのです。なぜか。

歴史を遡れば、スペインは世界史に植民地支配の時代を生み出した先駆けの国です。今から逆行すること5世紀ちょい、15世紀末に、スペイン女王の資金援助を得たコロンブスは大海原を西へ、西へと航海し、遂に現在のアメリカ大陸に到達しました。ヨーロッパには未知の土地であったこの大陸と周辺カリブ海の島々の大部分を、スペインは植民地としたのです。以来3世紀有余、スペインは、現在のメキシコからアルゼンチン、チリまでの広大な米大陸の支配者として君臨しました。ラテンアメリカの国々がスペインからの独立を遂げたのは19世紀初頭。したがって、いっときは海を伝って世界各地に植民地を築き上げたスペインは、米国との戦争が始まる19世紀末には、アジア太平洋のフィリピンとグアム、カリブ海のキューバとプエルトリコ、さらにはアフリカの一角のモロッコに植民地を遺すだけとなっていたのです。しかも、フィリピンとキューバでは、激しい独立闘争がたたかわれていました。

こうして、植民地帝国=スペインは追い込まれていた。一方、米国は1890年のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーにおける先住民族スーの大虐殺によって、長年続いたインディアンの抵抗を最終的に圧し潰し、国内を「平定」することに成功した。だから、この時期以降の米国は、対外的に膨張する道を選び、まずは近隣のカリブ海に注目し、どこかの国に付け入る隙を虎視眈々と狙っていたのでありました。スペインに対して独立闘争を戦っているキューバこそ、絶好の機会を提供する場所。首都ハバナ沖に軍艦を派遣したところ、これが爆発・沈没した。歴史的に見ても、米国はフレームアップ、でっち上げの嘘を口実に戦争を仕掛けることが得意。米軍艦爆破はスペイン軍の仕業だとして、スペインに宣戦を布告したのです。落ち目の植民地帝国=スペインと、日の出の勢いの新帝国=アメリカの軍事力の差は歴然。アメリカはいとも簡単にスペインを負かしてしまったというのが、事の次第でございました。

スペイン人から見れば、世界に先駆けて植民地帝国となった15世紀末以降しばらくは「黄金時代」、それが見る見るうちに後発のヨーロッパ列強に追いつかれ、追い越されてきたのがスペイン近代史の流れでしたが、「黄金時代」から4世紀を経て、とうとう「(18)98年の不幸」と自嘲する時代に突入したのでした。スペインがなお支配していた植民地は、北アフリカのモロッコだけになりました。モロッコは、この後の歴史でも重要な地名として再登場します。覚えておかれますように。

さて、しかし、歴史的な「逆行」の時こそ、個々人の精神の深部では、とりわけ芸術家にあっては自らの真の姿に真っ向から向き合う時――先に触れた、ガウディの建築を筆頭にした文化的ルネッサンスの動きは、まさにこの時期を前後して始まっていたのです。かの有名な「サグラダ・ファミリア=聖家族教会」や「グエル邸」関連などの建造物は、この時代の真っただ中の仕事です。アフリカの彫刻に深い関心を抱いたピカソが、キュビズム革命の発端となる「アビニヨンの娘たち」を描いたのも1907年ですから、この時代の文化的な凝縮のほどが知れます。早熟にして多面的な才能に恵まれていたロルカは、まさにこの文化的ルネッサンスを養分として育ったのでした。

さて、しばらくは、その後のスペインの歴史の流れを一瞥しておきましょう。1898年にフィリピンとキューバ民衆の独立闘争によって長年にわたるスペインの植民地支配が打倒されたならば、それは、いわば、歴史的な必然であった、と言えましょう。スペインはその運命を甘受し、祖国再生の道を歩んだことでしょう。だが、この独立闘争は、スペインの後釜としてこれらの地に君臨しようとするアメリカの奇襲作戦によって、性格を一変させたのでした。フィリピンとキューバの民衆にとっては、自らの解放を賭けた独立闘争が、スペインとアメリカの2大大国の戦争になってしまったのですから、たまったものではありません。いつ変わることのない、大国の身勝手さに悔しい思いをしたことでしょう。この事件は、実は、世界全体から見ても重大な意味を持っていました。アメリカという国は、この戦争を通して、他国に軍事介入さえすれば、新たな領土や資源や労働力や軍事基地を獲得できるのだという価値観をもってしまったのです。だから、あれから1世紀以上も経ったいまなお、アメリカはそのようにふるまい続けています。72年も前に戦争が終わった沖縄に、新しい軍事基地を作ろうとしているのを見れば、この言い方が的外れでないことがお分かりでしょう。

ただ、どんな国にも、大勢に流されず、ひとりになっても抵抗の言説をやめないひとはいる。それを知ることも大事です。この時代のアメリカの場合、それは作家、マーク・トウェインでした。そうです、あの『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作家です。米西戦争の結果、アメリカは敗戦国スペインからフィリピンを買い取りました。新たな植民地にしたのです。大国間の身勝手な取引きに抵抗・反対して、フィリピン民衆は、やってきた米軍にゲリラ戦で闘いを挑みました。米軍はすさまじい弾圧をこれに加えました。これを知って、マーク・トウェインは言ったのです。「われわれは、何千人もの島民を鎮定し、葬り去った。彼らの畑を破壊し、村々を焼き払い、夫を失った女や孤児たちを追い出した。こうして、神の摂理により……これは政府の言い回しであって、私のものではない……われわれは世界の大国となったわけだ」

20世紀初頭の、忘れることのできないエピソードです。どんな時代にあっても、このような人物が実在することは、私たちへの励ましです。どんな社会も「ファシズム一色」「侵略戦争賛美一色」に塗り込められるのではないのです。

2)スペイン内戦

さて19世紀末のスペインに戻りましょう。スペインにとっては、アメリカへの軍事的な敗北は屈辱でした。政治的・社会的には、混乱と混迷が続きました。政党政治は立ち行かなくなりました。残された唯一の植民地モロッコでは、反スペイン暴動が頻発し、これを鎮圧するために軍隊を派遣する事態が度重なりました。この状況の中で、もともとスペインの土地に根を張っていたアナキズムの思想と運動が急速に育っていきました。とりわけ、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方の工場労働者と、万年飢餓状態に置かれていたアンダルシーア地方の農民は、権力から遠く、「土地と自由」を愛するアナキズムの理念を、いわば身体的に受容したのです。「土地」とは、そこに種を蒔き、貴重な農産物を手にすることのできる場所です。「自由」とは、人が生きる上で譲ることのできない絶対的な価値です。「土地と自由」とは、人が生きるための物理的・精神的な根拠地なのです。アンダルシーアは、ロルカが生まれ育った地でもあることを思い出しておきましょう。

さて1920年代にも起こったモロッコでの反乱を鎮圧するために出動しこれに成功した軍部がその後政治の実権を握り、軍事独裁の時代が誕生します。1930年、8年間にわたって口を封じられてきた民衆は、王政か共和制かを問われた地方議会選挙で、共和制を選んだ。国王は逃亡し、第2共和国が誕生した。これが、世界史的に見ても忘れがたい1930年代スペインの幕開けでした。これ以降、左右両派の対立が激化します。1936年の国会議員選挙で人民戦線派が勝利すると、ファシストたちが暴動を引き起こす。人民戦線派の労働者は、ストライキをもって対抗する。

さて、このころスペインが保有していた唯一の植民地、アフリカのモロッコには、暴動鎮圧のためにスペイン軍兵士が多数派遣されていたことには、先にも触れました。このモロッコの地で軍がクーデタを引き起こしたのです。指導者はフランコ将軍でした。時は1936年7月18日。同時に、スペイン各地の主要都市でファシストの武装蜂起がいっせいに起こりました。そして共和国に対抗したのです。ここに、スペイン内戦、スペイン内乱、あるいはスペイン市民戦争とも呼ばれますが、それが始まったのです。

当時、ヨーロッパには、すでに二つの国で、ファシズム体制が成立していました。ヒトラーはドイツで全権を掌握し、ナチス党の独裁が始まっていました。イタリアでもムッソリーニが権力を握り、エチオピアへの侵略を開始していました。アジアにおいては、日本が「大東亜共栄圏」建設の美名の下で、近隣のアジア諸国侵略の道を突き進めておりました。日本、ドイツ、イタリアのファシズム3国が「日独伊防共協定」を結ぶのは1937年です。このような世界情勢を背景に展開されたスペイン内戦は、考えるべき大事なことがいっぱい詰まっています。きょうはとても時間がないので、かいつまんで、いくつかの重要な点にのみ触れます。

この内戦は、1939年3月までの3年間にわたって続きました。

ファシストは強固に結束していました。国際的にはドイツとイタリアの支援を受け、首都マドリーの攻防戦では、イタリア軍の地上軍派遣が大きな役割を果たしました。バスク地方を含む北部戦線にあっては、反乱軍を支援したドイツの空軍部隊がゲルニカという小さな村で無差別爆撃を行ない、それが引き起こした惨状に怒りと哀しみを押さえきれなかったピカソは、即座にあの大作「ゲルニカ」を描くに至るのです。スペイン人の精神生活上重要な役割を果たしているカトリック教会が、フランコ指揮下の反乱軍は「無神論と共産主義」から祖国を救う十字軍だと称賛したことも、人びとを結束させるうえで計り知れない助けとなりました。

これに対して、共和国側はどうだったでしょうか。共産党からトロツキスト、アナキストなど、さまざまな潮流がおりました。考え方や政治路線の違いはあって当然ですが、その違いを内部矛盾として上手に処理する知恵を欠いていた、と言えます。とりわけ、官僚主義的な共産党、これはモスクワのソ連共産党からの指示に基づいて行動するのですが、当時ソ連ではトロツキストをはじめとするスターリンの「政敵」対する粛清の嵐が吹きすさんでいた頃でした。スペインではトロツキズムやアナキズムの運動が根強い大衆的な基盤を持っているのに、モスクワの指示に従ってこれを弾圧すれば、どんな結果が生じるかは自明のことだったのです。すなわち、共和国側には、異なる集団間の路線上の違いを解決する術がなかったのです。とりわけ、ソ連共産党のスターリン主義的な路線が果たした役割は犯罪的であったと断言しても過言ではないでしょう。

スペイン内戦は、それが孕んでいた「希望」と「錯誤」ゆえに、あの時代に生きていた世界中の人びとに大きな影響を及ぼしました。これをテーマに小説、ルポルタージュが書かれ、映画にもなりました。イギリスの作家、ジョージ・オーウェルは『カタロニア賛歌』を、アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書きました。スペインでは、ホセ・ルイス・クエルダが『蝶の舌』を、ビクトル・エリセが『ミツバチの囁き』を制作し、イギリスの映画作家ケン・ローチも『土地と自由』と題した作品でこのテーマを描いています。

ここで私は、忘れることのできない一人の女性の発言を記録しておきたいと思います。フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの発言です。ヴェイユは、もちろん、その思想的・政治的な立場からしてファシストの敗北を願い、共和国側の勝利を願ったひとです。内戦が勃発した直後の1936年8月、共和国側に加担するためにスペインへ義勇兵として赴いてもいます。事故で火傷を負い、心ならずも2ヵ月で帰国することになったのですが、その彼女がスペイン戦争で現認したことは、「理性や信条を無意味化する戦争のメカニズムというものがある」ということでした。彼女は、共和国派の、とりわけ底辺の民衆の渇望や犠牲的精神に促された義勇兵への共感を決して放棄してはいない。同時に、味方の軍勢の中で吸い込んだ〈血と恐怖のにおい〉も記さずにはいられなかった。それは〈解放の主体〉であるはずの者が〈金で雇われた兵隊たちのするような戦争に落ち込んで〉いき、〈敵に残虐な行為の数々〉を加え、〈敵に対して示すべき思いやりの気持ち〉を喪失する過程であった。

スペインで内戦が勃発したことをパリで知ったヴェイユは、「勝利を願わずにはいられなかった」反ファシズムの側にも、このような現実があったことを知ったのです。私は、ファシズムとたたかった人びとの感動的なエピソードをいくつも知っていますが、同時に、この現実からも目を逸らすわけにはいかないのです。

スペイン内戦をめぐるこれらのエピソードから得られる教訓は明らかです。

ファシズムは、もうたくさんだ!

スターリン主義は、もううんざりだ!

ひとびとからモラル(倫理)を奪い取る戦争は、もうたくさんだ!

すべてが、現代を生きる私たち自身に関わってくる課題です。スペインを二分してたたかわれた内戦は、深い傷跡を残しました。独裁者フランコ将軍は1975年に死ぬのですが、実に35年近くその支配が続いたのです。共和国派の人びとは、そのかん一貫して、逮捕・投獄・拷問・軍事裁判による重刑判決・亡命などの運命を強いられました。30年もの間、自宅の「壁に隠れて」暮らしたひとの実話も残っているくらいです。スペイン内戦で問われた事柄は、遥か昔の話ではなく、過ぎ去った過去でもないのです。

3)ガルシア・ロルカの生死

さて、このような時代を駆け抜けたロルカの人生を簡潔に振り返っておきましょう。

120年前の6月5日、ロルカが生を享けたのは、グラナダ市に近いフエンテ・バケーロスという町でした。私は訪れたことがありませんが、広がる沃野の中に白壁の家々が立ち並ぶ、南スペインの典型的な小部落だと言われています。音楽と詩が好きだった母親の影響はよく言われるところですが、彼は、母、祖母、伯母、乳母たちに囲まれて、抱きかかえられるようにして大事に育てられたと言います。とりわけ、年寄りの召使ドローレスが語るアンダルシーアの伝説や、歌う土地の民謡を聞きながら眠ったようです。ロルカは、後年、アンダルシーアの民間伝承に深い関心を抱き、カンテ・ホンドや各地の子守歌を採集し始めるのには、この幼児体験が基盤にあるようです。

やがて、ロルカの一家はグラナダへ引っ越します。皆さんもご存じでしょう、グラナダは、アルハンブラ宮殿を初めとしてイスラーム文化の痕跡が数多く残る街です。ロルカは心から愛したこの町で大学へ通い、哲学・法律。・文学などを学びました。10代後半に熱中したのは音楽でしたが、師匠の突然の死に出会ってその道は挫折し、文学に方向を転換しました。ここで彼は詩作を始めます。

1919年、21歳になったロルカは、グラナダ大学の法律の教授で、社会主義者であったフェルナンド・デ・ロス・リーオスを敬愛していましたが、彼の勧めでマドリーの「学生館」

へ赴きます。若い芸術家や文学者のたまごが集まる場所です。ここで彼は、すでに名前を挙げたサルバドール・ダリやルイス・ブニュエルなどと知り合い、親友となったのです。およそ10年をここで過ごしました。土着的な詩的伝統に深い関心を抱いていたロルカは、ここで、友人たちが熱中するシュルレアリスムなどの近代的な感覚や表現に出会ったのでした。最初の詩集『詩の本』を先駆けとして、『カンテ・オンドの詩』『組曲集』『歌集』『ジプシー歌集』はすべてこの時代に書かれているのですから、充実した時期を過ごしていたことがわかります。戯曲も手掛けていましたし、遺されているデッサンの多くもこの時期に描かれたものです。

したがって、マドリーからグラナダに戻ったロルカの「名声」は高まっていた。だが、その名声にも疲れたのでしょう。リーオスと共にニューヨークへ発ったのが1929年でした。コロンビア大学に入り、一年間を過ごします。1929年とは、あの世界大恐慌の年です。資本主義市場が大混乱に陥るなかで、彼にはハーレムだけが落ち着く場所だったようです。そこではじめて聞いたジャズの向こう側に、故国のフラメンコのリズムの魅惑を再発見した、と言われています。ニューヨークの次には、キューバのハバナへ行きました。キューバはフィリピンと違って、米西戦争後独立は遂げていました。しかし、米国の海軍基地が強引に設けられ――驚くべきことに、そのグアンタナモ米軍基地は1世紀を超える115年が経った今もキューバに返還されることなく、米軍は居座り続けているのです!――、経済的にも米国企業の支配下に置かれていました。そのことへのロルカの反応は残されていませんが、ニューヨークのハーレムで会った黒人たちとジャズに深い印象を受けていたロルカは、キューバではまた別な黒人と出会ったことに心を動かされたと言います。つまり、アングロ・サクソンの文化ではなく、ラテン系の文化の中での黒人に出会ったのです。音楽好きであったロルカが、ハバナの街のあちらこちらから聞こえてくるキューバン・リズムに感興を掻き立てられたであろうことは、想像に難くありません。

ロルカがスペインに戻ったのは1930年でした。翌年の1931年には、国王が国外に逃亡し、共和制に移行したことはすでに触れました。政治的・社会的な激動は、一般的に言っても、文化・芸術表現の世界にも活況をもたらします。民衆文化を掘り起こし、これを再興しようとする機運が盛り上がったのです。それは、以前から、ロルカが求めていた道でもありました。ニューヨークへも同行した、敬愛するリーオスは、共和政府の教育相に任ぜられました。ロルカは古典劇の傑作を携えて、全国を巡回しました。移動劇団【La Barraca ラ・バラッカ=仮小屋、掛け小屋、バラック】プロジェクトです。演じるのは主として学生、トラックには簡素な舞台装置を積み込み、辺鄙な農村にまで出かける。「黄金世紀」の喜劇を即興的なセリフでアレンジし、ロルカの中に蓄積されていた古い民謡に関する知識を生かして編曲した音楽が盛り込まれる。自分の世界に近しい物語や音楽に触れることができた、観客となる農民たちの喜びが、目に浮かぶようです。

この時期、ロルカは、さすがに多作です。『血の婚礼』、『イェルマ』、『ベルナルダ・アルバの家』の代表的な戯曲の3部作を書き上げます。牛の角に刺されて死んだ親しい友人の闘牛士、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを哀悼する詩集も出版します。また、グラナダの地に似つかわしくも、アラビアの詩型を借りた一連の短い抒情詩を『タマリット詩集』と題して出版する準備も始めました。まさに、脂の乗り切った時代の活躍ぶりと言えましょう。

1936年7月13日、恒例の家族の集まりに顔を出すために、ロルカはマドリーからグラナダに向かいました。先にも触れましたが、この3日後に、モロッコでは軍部のクーデタが起こりました。スペイン全土で、ファシストの蜂起がいっせいに起こりました。ロルカが戻った故郷=グラナダも、右翼ファシストであるファランヘ党員による制圧下にありました。ロルカは、直接に政治に関与していたわけではありません。しかし、移動劇団「ラ・バラッカ」は明らかに共和政府の保護の下で行なわれていました。また、共和派の側に立つことを公言していた彼は、こうも言っています。「私はすべての人びとの兄弟であり、抽象的な国家主義的観念のために自分を犠牲にしようとする人びとを憎む」と。また、「芸術家はただひとつのもの、すなわち芸術家であらねばならない。芸術家、とりわけ詩人は常に、言葉の最良の意味においてアナキストでなければならない」「僕は絶対に政治家にはならない。僕は革命家なんだ。だって、革命家じゃない本物の詩人なんていないからだよ」という言葉も残しています。

ロルカの立場は鮮明でした。1936年8月18日早朝、ロルカは友人の家からファシストたちに連れ去られました。オリーブ畑に運ばれたロルカは、連行された他の共和主義者と共に、自らの墓穴を掘らされた挙句、その場で銃殺されたのです。

享年38歳でした。

さて、私はここまで25分間をかけて、ガルシア・ロルカの生涯とその時代を駆け足で語ってきました。1898年に生まれ、1936年に死んでいったひとりの人物。スペイン現代史を画する年が、その生年と没年に刻印されています。いかにも、象徴的なことです。ここで、私の話を止めるべきでしょうか。否、私は止めません。止めるわけにはいかないのです。ファシズムが勝利し、その過程で我らが愛するひとりの詩人が殺されたところで話しを止めるわけにはいかないのです。このままでは、人間の歴史があまりに哀しすぎる。

最後に、ロルカの詩を読むのも一つの方法です。でも、それは今までも読んできました。きょうは、小さな子どもが大好きであった詩人のひとつのエピソードに触れます。親友サルバドール・ダリの故郷を訪ねた時のエピソードです。子どもたちが海辺で遊んでいると、そばにいたロルカは突然風に吹かれて飛んできた紙を掴むふりをした。「あっ、小さなマルガリータの手紙だ」と言ったロルカは、次のように続けたのです。「愛する子どもたち。私は、たてがみを風になびかせて、星を探している白い馬だ。星を探すために、どんなに走っているか、見てほしい! でも、見つからないんだ。疲れた、これ以上、走れない。疲労が私を溶かして煙にしてしまう。形がどう変わるかみてごらん」。

子どもたちは、やがて、馬のたてがみやシッポや、星までをも幻視したと言います。石を読んでと言って、ロルカに石を渡した子がいました。すると、ロルカは「愛する子どもたちよ。私は何年も何年もここに住んでいます。その間、一番幸せだったのは、蟻たちの巣の屋根になれたことです。蟻たちは、私が空だと思っていたので、私もその通り空だと信じ込みました! でも、今、私は自分が石だと気づいたので、この思い出は、私の秘密です。誰にも、この秘密を話しては、だめだよ」

ここしばらくのあいだ、ロルカの詩に親しんで来られた聴衆のみなさんは、これらの即興表現には、ロルカの詩的世界が横溢していると思いませんか。登場する生き物にも、使われているメタファーにも……。

子どもたちにこのように接したロルカの、詩人の魂に乾杯! です。

そして、ロルカの、このような即興の小さな物語を柔らかな心で受け止め、理解し、自分の心の中で大きく育てていくであろう、過去・現在・未来の世界じゅうの子どもたちがもつ可能性に希望と期待を抱いていることをお伝えして、私の話を終わります。

ありがとうございました。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[85]PKO法成立から25年目の機会に


『反天皇制運動 Alert』第12号(通巻394号、2017年6月13日発行)掲載

1992年6月、PKO(国連平和維持作戦)法案が成立した。今から、ちょうど、25年前のことである。法案審議が大詰めを迎えた攻防の日々には、ほぼ連日、国会の議員面会所なるところへみんなで出かけていた。野党議員の報告を聞き、「激励」するのである。私は、ソ連の体制崩壊と同時期に進行したペルシャ湾岸戦争(1990~91年)の過程でこの社会に台頭した「国際貢献論」(クウェートに軍事侵攻したイラクの独裁者フセインに対して、世界が挙げて戦おうとしている時に、この地域で産出する石油への依存度が高い日本が憲法9条に縛られて軍事的に国際貢献ができないのはおかしい、とする考え方)を批判的に検討しながら、戦後期は新しい時期に入りつつあると実感した。「反戦・平和」の意識を強固にもつ人は少数派になった、と思わざるを得なかったのである。

自衛隊の「海外派兵」の時代を迎えて、これを監視し、包囲するメディアとして『派兵チェック』が創刊されたのは1992年10月だった(2009年12月、200号目が終刊号となった)。このかん実施されたPKOへの自衛隊の参加実態は以下の通りである。

カンボジア(92年9月~93年9月)

モザンビーク(93年5月~95年1月)

ゴラン高原(96年2月~13年1月)

東ティモール(02年3月^04年6月)

ネパール(07年3月~11年1月)

スーダン(08年10月~11年9月)

ハイチ(10年2月~13年1月)

東ティモール(10年9月~12年9月)

南スーダン(12年1月~17年5月)

去る5月27日、南スーダンに派遣されていた陸自施設部隊第11次隊40人が帰国した。国連南スーダン派遣団司令部への派遣は来年2月末まで続けられるが、部隊派遣は現状ではゼロとなった。当初は、自衛隊が軍事紛争に関与することなく「中立性」を保つための5原則が定められた。「紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者のPKO受け入れ同意、中立性の維持、上記の減速が満たされない場合の撤収、武器の使用は必要最小限度」である。前記年表からわかるように、南スーダン派兵が開始されたのは、民主党・野田政権時代である。民主党も海外派兵の流れに乗るだけだという政治状況を示しているのだが、当時はまだしも、道路建設などに従事し、紛争当事者間の停戦合意が成立した治安情勢が安定している国であることが、派兵の前提になっていた。だが、まもなく、安倍晋三が政権に復帰した。2015年9月に制定された安保法制=戦争法によって、自衛隊は任務遂行のためには武器使用が可能となって、「交戦主体」へと変貌した。

陸自の「日報隠し」にもかかわらず、南スーダン派遣部隊の任地=ジュバでは、2016年7月、「対戦車ヘリが旋回」したり、「150人の死者が発生」したりする事態が生まれていた。この時の状況を詳しく検証したNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」(5月28日放映)によれば、次のことがわかっている。(1)政府軍と反政府勢力との銃撃戦は自衛隊宿営地を挟んで行なわれた。砲撃の衝撃波で自衛隊員はパニックに陥り、「今日が私の命日になるかもしれない」と手帳に記した者もいた。(2)近くの宿営地のルワンダ軍は銃撃戦からの避難民を受け入れた。政府軍はそこを砲撃し、バングラデシュ軍が応戦した。避難民は自衛隊宿営地にも流れ込み、警備隊員には「身を守るために必要なら撃て」との指示が下されていた。帰国した派遣隊員の言葉を通して、「宿営地内のコンテナ型シェルターに何度も避難した」こと、「平穏になっても1ヵ月以上も宿営地外で活動しなかった」ことがわかる。

安倍政権は、南スーダン派遣部隊が「現地の住民生活の向上」に寄与した、とその成果を誇っている。だが、昨年11月、南スーダン自衛隊部隊は、戦争法に基づいて、「宿営地の共同防衛」や「駆け付け警護」(救助のために武器をもって現場に駆け付ける)任務を付与されていた。これが実際には行なわれなかったことは、上に見た状況からいって、「不幸中の幸い」でしかなかった。

「反戦・平和」派が一見して少数派になっているとしても、軍隊(国軍)の存在と戦争(国家テロ)の発動に馴致されないこと――そこを揺るぎない場所に定めたい。 (6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[84] 韓国大統領選挙を背景にした東アジアの情勢について


『反天皇制運動 Alert 』第11号(通巻393号、2017年5月9日発行)掲載

選挙は水物だ。下手に結果を予測しても、それが覆される可能性は常にある。しかし、現在の韓国大統領選挙の状況を複数のメディア報道を通してみる限り、「共に民主党」の文在寅の優位は動かないように思える。対立候補から「親北左派」とレッテル貼りされている文在寅が大統領になれば、現在の東アジアの政治状況は「劇的に」とまでは言わないが、ゆっくりとした変化を遂げていく可能性がある。朝鮮をめぐる日米中露首脳の言動が相次いで行なわれているいま、その文脈の中に「可能性としての文在寅大統領」の位置を定めてみる作業には、(慎重にも付言するなら、万一それが実現しなかった場合にも、東アジアの政治状況に関わる思考訓練として)何かしらの意味があるだろう。

文在寅は、廬武鉉大統領の側近として太陽政策を推進した経験をもつ。具体化したのは金剛山観光、開城工業団地、京義線と東海線の鉄道・道路連結、離散家族再会などの事業であった。それは、「無謀極まりない北」への融和策として、対立者からの厳しい批判にさらされてきた。あらためて大統領候補として名乗りを上げた文在寅は、ヨリ「現実的」になって、韓国軍の軍事力の強化を図ること、つまり、朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からの一定の離脱志向を伴っているということである。1950年代の朝鮮戦争以来、韓国軍の指揮は在韓米軍が掌握してきた。平時の指揮権こそ1994年に韓国政府に委譲されたものの、2012年に予定されていた有事の指揮権移譲は何度も延期されたまま、現在に至っている。

文在寅は、大統領に就任したならば早急に有事指揮権の韓国政府への委譲を実現すると表明した。それは対米交渉を伴うだろうが、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプには、世界のどこにあっても米国が軍事的・政治的・経済的に君臨し続けることへの執着がない。韓国の軍事力の強化を代償として、在韓米軍の撤収への道が開かれる可能性が生まれる。それは、朝鮮国指導部が要求していることと重なってくる。

朝鮮国・韓国の両国間では激烈な言葉が飛び交っている。とりわけ、朝鮮国からは、あの強固な独裁体制下での下部の人びとの「忠誠心競争」の表われであろう、ヨリ激しい言葉を競い合うような表現が繰り出されている。それでも、底流では、戦火勃発に至らせないための、「国家の面子」を賭けた駆け引きが行なわれていると見るべきだろう。

朝鮮半島をめぐって同時的に進行しているいくつかの事態も整理してみよう。4月27日に行なわれたプーチン+安倍晋三会談において、前者は「少しでも早く6者協議を再開させることだ」と強調した。後者は記者会見で「さらなる挑発行為を自制するよう(北に)働きかけていくことで一致した」ことに重点をおいて、語った。

4月29日、朝鮮は弾道ミサイルの発射実験を行なったが、失敗したと伝えられた。ロンドンにいた安倍首相は「対話のための対話は何の解決にもつながらない」、「挑発行動を繰り返し、非核化に向けた真摯な意思や具体的な行動を全く示していない現状に鑑みれば、(6者協議を)直ちに再開できる状況にない」と断言した。

4月30日、トランプは「若くして父親を亡くし権力を引き継いだ金正恩委員長は、かなりタフな相手とやり取りしながら、やってのけた。頭の切れる人物に違いない」と語った。翌5月1日にも「適切な条件の下でなら、金委員長に会う。名誉なことだ」とまで言った。

さて、5月3日付けの「夕刊フジ」ゴールデンウィーク特別号に載った首相インタビュー記事での発言は次のようなものだ。「トランプの北朝鮮への覚悟は本物か」と問われて「間違いない。すべての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ大統領の姿勢を高く評価する」。「軍事的対応もテーブルの上にあるか」との問いには「まさにすべての選択肢がテーブルの上にある。高度な警戒・監視行動を維持する」と答えている。その「成果」が、ミサイル発射時の東京メトロの一時運行停止や、内閣官房ポータルサイトに「核爆発時の対応の仕方」を注意事項として掲げることなのだろう。

これ以上わたしの言葉を詳しく重ねる必要はないだろう。当事国も超大国も、駆け引きはあっても、朝鮮半島の和平に向けて「暴発」や「偶発的衝突」を回避するための姿勢を一定は示している。その中にあって、平和に向けての姿勢をいっさい示さず、むしろ緊張を煽りたてているのは、2020年の改憲を公言した日本国首相ひとりである。 (5月5日記)

津島佑子さんの思い出に


『津島佑子――土地の記憶、いのちの海』(河出書房新社、2017年1月20日)掲載

津島佑子さんとの付き合いは、アイヌの人たちとの関わり合いから始まった。20世紀末も近づいた1990年代、私は民族・植民地問題に関わる発言と活動を集中的に行なっていた。人類が直面しながら、なかなかうまい解決策を見出し得ないでいる厄介な問題の一つが、そこに凝縮していると考えたからだ。1992年には、「コロンブスの大航海と地理上の発見」の時代(1492年)から数えて500年目という時代的符合に注目して、「500年後のコロンブス裁判」という討議の場をもった。異民族同士の「出会い」が、大量虐殺・征服・植民地支配の始まりを告げることになった、近代の歴史的な大事件だったからだ。(のちに知ったことだが、津島さんもこの年、メキシコの山間部で開かれた国際会議に招かれて出席していたが、そこには各地の先住民が参加していたという。知らずして、画期的ともいえる〈時代の息吹き〉を感じ取る場に、等しく立ち合っていたといえよう)。

翌年の1993年には、その国内的な応用問題として、東京にアイヌ料理店を作る活動をしていた。同じ郷里=北海道釧路の出身で、関東圏に住むアイヌの女性たち(小学校時代の同級生や、その年長者の世代の)から、好きな時に集まり、働くことで生活の糧にもなる同胞の寄り合いの場所を作りたいと相談を受けた。日本=単一民族国家論に固執する当時の日本政府も地方自治体も、アイヌ民族のために特別な予算措置を講じることを忌避していた。北海道なら、行政の手で「生活館」が作られるが、東京ではそうはいかない。業を煮やした彼女らは、草の根の力でそれを実現したいと相談してきたのだ。早速そのためのカンパ活動を開始するために、呼びかけ人をお願いする人の人選を始めた。私がその作品の多くを読んでいて、底流にある「北方志向性」を感じとっていた作家・津島佑子さんは筆頭に挙げたいくらいの方だった。しかも、そのしばらく前にフランスに滞在していた津島さんが、アイヌの神話「カムイ・ユカラ」をフランス語に翻訳する手助けをしたと記したエッセイも読んでいた。未知の人だったが、思い切って手紙を書いた。意外と、あっさりと受けて下さった。

断続的な付き合いが始まったのは、それ以降のことである。私は、南米ボリビアの映画集団との付き合いがあり、その作品を自主上映したり共同制作したりする活動に取り組んできた。集団を主宰するホルヘ・サンヒネス監督は白人エリートの出身だが、アンデスの人種差別社会が自己変革を遂げるためには、先住民族の歴史哲学や自然観を学び、取り入れることが重要だと考えていた。彼が監督する映画では、先住民が主人公を演じ、スクリーンでは先住民の母語が飛び交っていた。物語も、先住民の生活・歴史意識・自然哲学を尊重して組み立てられていることが歴然としていた。それは今でこそ珍しくはないが、1960年代半ばから制作活動をしていた彼らがそうしていたことは、世界的に見ても先駆的なことだった。それは普遍的な問題提起でもあったから、日本での反響も大きかった。あるとき、津島さんならきっとこれらの作品に深い関心を持たれるだろうと思い、上映会にいらしていただいたり、ビデオをお送りしたりしていた。

まもなく、津島さんのエッセイでは、ボリビアの映画を観た感想が綴られるようになった。

2000年代に入って間もなく、福岡市の公的ホールがこのボリビア映画の上映会を企画してくれた。図書館が併設されている施設なので、どなたか作家と一緒に来福し、対談をしてくれないかという提案があった。津島さんに相談し、一泊しなければならないこの福岡行きに同行していただいた。この対談では、興味深い意見の違いが生まれた。知里幸恵編の『アイヌ神謡集』が岩波文庫に入ったのは1978年のことだった。同文庫独自の分類によって、外国文学のジャンルに属することを意味する赤帯が付けられたのだが、それはアイヌ語には日本語との類縁性がないからと編集部が考えたからだった。津島さんは、今までアイヌ民族を差別してきた日本社会が、アイヌ独自の口承文学を日本文学の枠組みから排除していることが、その差別構造の延長上にあると捉えて、心外のようだった。私は、言語上の区別に加えて、次のことを思った。人間(アイヌ)と動物・鳥・魚たちとの親和性を謳う『神謡集』の原形は、知里幸恵が「序」で言うような、「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の大地で」あり、「天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」時代に創造されたのだろう。それは、蝦夷地に松前藩の部分的な支配が及ぶ遙か以前から、ましてやそこが明治維新国家の版図に強制的に組み入れられる以前から、アイヌの人びとの間で語り継がれてきたことを意味しよう。そのような時代に原形が作られた口承文学を、事後的に形成された日本「国」の文学(古典は黄帯、近代以降は緑帯)の枠内に収める理由はない――私はそう考え、岩波文庫編集部の判断は適切だと思うと言った。アイヌ民族およびその文化と歴史を、日本国のそれに包摂することなく、独自のものとして捉える方法に私は荷担していた。

要は、「国」をどう捉えるか、そして「国家社会」の責任をどのような位相で捉えるか、という点に帰結することのように思えた。この意見の「食い違い」が孕む緊張感は、心地よかった。

同じころ、出版の分野でも津島さんと仕事を共にした。津島さんが、他の文学者と共に、海外の文学者との交流に力を入れていたことはよく知られている。とりわけ、女性の文学者との間で。その頃は、「日印作家キャラバン2002」を経た時期で、まず出版したいという希望が出されたのは、インドのベンガル語文学者、モハッシェタ・デビの作品『ドラウパディー』だった。ガヤトリ・チョクロボルティ・スピヴァクが彼女の作品を高く評価することで、世界的な注目を集めつつある作家だということを、私自身初めて知った。幸いにも、よき翻訳者にも恵まれて(臼田雅之+丹羽京子)、しかも津島さんに加えて、同じく文学交流を続けていた松浦理英子、星野智幸両氏の「解説」も付して、この作品を出版することができたのは2003年のことだった(現代企画室刊)。

後年、津島さんは「日本女流文学者会」の責任者を引き受けていたが、会員の合意を得て「女流文学者会」そのものを解散するに際して、それまで交流してきたアジアの女性文学者の中から3人を選び、翻訳書として刊行したいとの相談があった。それは、2011年に、姜英淑(韓国)の『リナ』(吉川凪=訳)、陳雪(台湾)の『橋の上の子ども』(白水紀子=訳)、ムリドゥラー・ガルグ(インドのヒンディー語作家)の『ウッドローズ』(肥塚美和子=訳、いずれも現代企画室刊)として実現できた。原著者との翻訳権契約・翻訳・編集・刊行・関係者への発送などの諸過程で、津島さんとは何度も連絡を取って、すすめた。東アジアから南アジアにかけての、女性作家を主軸とした文学的な鼓動が伝わってきて、私にとっても忘れがたい企画となった。

この同じ年の「3・11」には、東北で大地震とその結果としての福島原発事故が発生した。責任省庁としての経済産業省を包囲して、原発の全面的な即時停止を求める行動が何度も取り組まれた。或る夜、その包囲行動で、偶然にも、津島さんと隣同士になったことがあった。その夜語り合った「不安」を、津島さんは「半減期を祝って」(初出、「群像」2016年3月号)と題した、見事な掌編に形象化した。この作品は絶筆となった。

最後にお会いしたのは、2014年5月だった。連休を挟んだ2週間にわたって、私たちは、ボリビア映画集団の全作品(長編11作品、短編2作品)の回顧上映を、東京・新宿のミニシアターで行なった。一夜、上映後の対談に出ていただいた。先住民族の存在が問いかけてくる諸問題について、多面的な光を当てる内容になったと思う。津島さんが、突然のように亡くなってしばらくして、津島さんの作品の英語訳をいくつか担当されたというジェラルディン・ハーコートさんが連絡をくれた。ユーチューブには、ボリビア映画上映時の津島さんと私の対談映像が流れているが、そこには津島さんの思いが非常によく表われている、津島佑子という作家をヨリ広く世界に知らしめるために、対話の部分を英語訳して流したいという希望を言ってこられた。

数ヵ月後、それは実現した。→https://www.youtube.com/watch?v=83pIj8FL1RY

そのしばらく前に、津島さんの最後のエッセイ集『夢の歌から』(インスクリプト)と遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社)が私の元に届いた。津島さんの晩年の小説世界は、地球上のさまざまな先住民族の神話や生活に着目することで、時空を超えた広がりを見せていた。遺作『ジャッカ・ドフニ』はそれをさらに徹底させて、オホーツク海、日本海、南シナ海、ジャワ海を舞台に、17世紀から21世紀にかけての物語が雄大に展開されている。時間と空間の規範から解放された自由自在さを得たこの作品を読む私たちは、現実には、この21世紀に(!)狭くも〈国家〉と〈民族〉を拠り所にして〈排外〉と〈不寛容〉の精神を声高に叫ぶ者たちが広く社会に浸透した時代を生きている。

「マルスの歌」の高唱があちらこちらから聞こえてくる時代状況の中で、私は、類い稀なこの作家の「文学的抵抗」の証としての作品を繰り返し読み、自らの中でそれをさらに豊かなものに育てたいと思う。