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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

〈万人〉から離れて立つ表現


(「万人受けはあやしい 時代を戯画いた絵師、貝原浩」展の講演録 2017年11月22日)

人間のおもしろみや哀しみ、愚かさが滲み出る「三面記事美術館」

「万人受けはあやしい」という、いかにも貝原さんにふさわしいタイトルだと思いますが、それについて、お話ししたいと思います。

ぼく自身は生前の貝原浩さんとは知り合いで、仕事のつき合いはほとんどありませんでしたが、直接話をしたり、数は少なかったけれども一緒にお酒を飲んだりしたこともありました。個展にはよく行っていましたし、それなりに貝原ワールドは作品としては知っていたつもりですが、先日、この会場でゆっくりと時間をかけて展示作品を見、今回の図録もかなり丹念に見ました。

今回展示されている作品は、基本的には1980年代に入ってからのものですね。貝原さんの年齢としては30代後半から、亡くなった2005年ぎりぎりまでの作品、約25年間、四半世紀の作品が、主に並んでいます。

おもしろかったのは80年代の雑誌『ダカーポ』に貝原さんが連載していた「三面記事美術館」です。展示の数は少ないのですが、図録にはたくさん収録されています。

「三面記事」とは、みなさん、その言葉だけでイメージできると思いますが、新聞の社会面、三面に載っている、人間社会にある、ちょっとした出来事の記事です。出来事そのものとしては当人からすれば恥ずかしかったりすることで、どうしようもなさとか、いいかげんさとか救いのなさがあったりするし、それからユーモアもある。そうした記事が、社会面には載ることがあります。

ぼくも、絵を描くわけではないし小説を書くわけでもないけれども、なんとなく気になって切り抜いて、手帳に挟んでおいたり、スクラップ帖をつくるほどではないけれど、保存しておいたりした記事もあります。

貝原さんは1980年代、そうした三面記事を一枚の絵にして、『ダカーポ』に連載していました。これがおもしろい。もちろん、元の記事がおもしろいわけですが、図録ではその新聞記事自体は載っていませんが、ごくかんたんに出来事を説明しています。

例えば、有力企業のエリートサラリーマンが、酔っぱらって地下鉄に乗って目の前にいた女性、OLと書いてありますが、その女性に向けて放尿してしまったというような事件があって三面記事になったようです。それを絵にしちゃうんですね、貝原さんは(「満員電車内でOLに“用足し”」図録作品ナンバー12)。

事件そのものも、なんだろうと思いますけれども、これを絵にする人もなんなんだ、という感じがありますよね(笑)。

図録に掲載されている「三面記事美術館」をひとつひとつ見ていくと、ほんとに世の中にこんなことが起きていたのか、こんなバカバカしく愚かなことを人間がやってしまうのかと、ぼくもどこかでやっているのかもしれませんが、そう思います。

そして当事者、物語の中心人物が描けているのは当然なんだけれども、その周辺に野次馬としている、そこに居合わせた人間の描き方がまた、その表情などがおもしろい。そうやって、どうしようもない出来事の記事が、一枚の絵になると、なにかまた別の意味合いを持ってしまいます。

貝原さんがこれらを描いていた時期は、今日のテーマである風刺画的なものを書き始めていた時期と重なります。ある意味でシリアスな風刺画を描いている時期に、こういう、人間のおもしろみや哀しみや、愚かさが滲み出る絵を描く、そういう世界を貝原さんは持っていた。ぼくは、貝原さんの作品の中でも「三面記事美術館」についてはあまり記憶がなかったので、今回はほんとうにおもしろく見て、ときどき見返したいなと思っています。

さて、このような貝原浩の世界もあったわけですが、きょうお話ししたいことは、1980年代前半から21世紀に入ってはわずか5年間でしたが2005年まで、およそ四半世紀にわたって貝原さんが、時代に対する懐疑を、絵としてどのように描いていたのかということです。彼が亡くなって12年経つ今、我々はいったいどんな時代を生きているのか、というところまで話が及べばいいかなと思います。

80代前半、新自由主義経済政策で進行したこと

風刺画を描くとは、時代と向き合って、相渉って、それを絵に描くということであり、それは当然のことながら、世界および日本で、同時代的に進行している政治的なあるいは社会的な、あるいは思想的な動向に目を凝らし、それについて絵師が、画家が、どんなふうに表現するのかが問われます。

1980年代前半というのは、世界政治でいえば、米国にレーガン、イギリスにサッチャー、日本に中曽根という、それぞれ大統領・首相が現れて、それぞれ長期政権になっています。この時代、この3人の大統領・首相が、今、世界を席巻しているいわゆる新自由主義、ネオリベラリズムの先駆け的な政策を、「先進国」において採用した時期なわけです。

レーガン、サッチャーには触れませんが、中曽根政権――この政権も5年の長期政権となりましたが――の下、何が行なわれたか。みなさん記憶していると思いますが国鉄の解体作業です。国鉄を国営鉄道の枠から外して分割民営化を行なった。それから約30年経って、現在、かつての日本国有鉄道は、JR北海道は、JR四国はどうなっているか。本州の線路であるJR東海、あるいはJR東日本は「優良経営」を行なっているけれども、JR北海道は瀕死の状態であることは、みなさんご存知のとおりです。

この国には今1億2600万の人々が住んでいますが、国の政策とは本来、総人口がどんな地域に住んでいようと生活に必要な足は確保するというものです。それをそれぞれの国家の政策として、19世紀後半、鉄道が広範囲に展開し始めて以降、それぞれの国は鉄道事業を国営として成り立たせてきました。

ところが新自由主義の時代に入って、不採算部門は、資本主義社会で儲けにならない部門は、国家は予算が限られているから、そこはもう国家経営から外してしまうと。そして資本主義の本領である民間の競争力に委ねて競争させると。要するに民営化させて競争の原理に委ねれば、うまく活性化するのではないかという考え方を採用するわけです。

ですから鉄道事業の民営化は日本だけではなく、世界各国で最初に試みられた新自由主義経済政策のひとつのあり方です。ほかにも、採算がとれない、金にならない、つまり資本主義経済にとって最も大事なことである利潤、お金を回転させて利潤を増やすということを考えたら、医療というものもなかなかたいへんであるとなる。福祉はもとより、教育もたいへんだとなっていって、福祉切り捨て、教育予算のカットという、今現在日本で進行しているような事態が当たり前のように進行するわけです。

公共事業で言えば水道事業もそうです。地方自治体が管轄してやってきた水道事業は、これもなかなか採算が難しい。そこで、人間という生命体にとって、地球の生命の循環にとってどうしても必要な水というものを、公共の責任において管理するということから外して、これも民間の競争力に委ねる。こうした考え方が日本でも世界でも出てきて、水道事業の民営化が世界各地で、どんどん進もうとしています。

新自由主義経済政策とは資本主義を純化させた考え方であって、不採算部門を国家および地方自治体が責任をもって運営するというところから外して、民間の競争力に委ねるということを意味します。それが1980年代の前半、日本では中曽根政権によって試みられた。これは連綿として続きますが、より加速されるのが2001年から2006年までの小泉政権下です。小泉政権の下での郵政民営化を見れば、おわかりになると思います。

ある意味で社会にひたひたと浸透している公務員労働に対する反感、「親方日の丸で、あいつらはろくに働きもしないのに給料は安定している」と、「定年まで過ごすことができる」という、民間の労働者がどこかでもっている反感を利用しながら、公共事業をどんどん切り捨てて民間に委ねていく。小泉などは、そういう政策を意識的にとったわけです。

それが、どれほどの社会的な心理面における荒廃、それから経済のでたらめさをもたらしたのか。2006年以降、断続的ではありましたが、同じ政策を継いでいる安倍政権の下、さらに進行する事態の中で、私たちは否応なく気づいていることです。

貝原さんのこの展示の中で、1980年代前半の作品には中曽根がよく出てきて、表現されています。その中曽根がとった政策が、いったいどの方向を向いているものであるかということを、貝原さんは、うまく感じ取って、いくつかの表現をなしていたと思います。

「反テロ戦争」の出発点、米国は、なぜ憎悪に満ちた攻撃を受けたのか

政治的な面にかんして、ひとつの大きな節目は、世界的にはやはり、2001年9月11日の、ニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センター)やワシントンのペンタゴン(国防総省)が攻撃された、いわゆる同時多発の自爆攻撃があり、それ以降、報復として始まるブッシュの名づけた「反テロ戦争」があります。それがいったい、どういう事態を招いているのかを、この時代、貝原さんは描くことができたわけです。

2001年、あの攻撃の1か月後に、あの攻撃をやったとブッシュが断定したのが、アルカイーダです。当時、アルカイーダはアフガニスタンのタリバン政権によって、安住の地を与えられている、訓練の地を与えられているとブッシュは解釈し、その首領はオサマ・ビンラーディンであると断定したわけです。そしてこの許されざるテロ組織、アルカイーダを匿っているタリバン政権を攻撃するとして、アフガニスタン全土に対する一方的な攻撃を始めたのが2001年10月の事態でした。それから1年半後、2003年3月には大量破壊兵器を持ち、これを捨てようとしないということで、フセイン治世下のイラクに対する攻撃を始めた。これが「反テロ戦争」なるものの出発点の第一段階、第二段階でした。

2017年の現在、この「反テロ戦争」は終わりが見えないまま、もうすでに16年間続いているということになります。これには何十か国もの、いわゆる国際的な有志連合国が参加しているわけですが、もちろんその主力を担っているのは米軍です。

米国は戦争に次ぐ戦争で、どんな年表を作っても、常に海外において戦争を行なっています。それは18世紀後半の独立以来のアメリカ社会を貫くひとつの大きな戦略ですが、その米国をして、これだけ長く続いている戦争はないというくらいの16年間という長い歳月があって、いまだ収束の見込みがつきません。あの2001年の事態を見ていれば、このような戦争を始めてしまったら、もう泥沼だということは、わかる人にはわかることです。

ぼくはあの自爆攻撃にはきわめて批判的な人間です。けれども、しかしあのハイジャックした旅客機もろとも突っ込む、米国の経済的な繁栄の象徴としてのワールドトレードセンター、米国の世界における軍事的な象徴としてのペンタゴンに突っ込むということは、その突っ込んだ主体が、どれほどまでに米国の経済的な、および軍事的な行動に、ふるまい方に憎悪を抱いているかということの直接的な反映であって、それは手段が間違っているのではないかというのを超えたところで判断しなければならない、ひとつのあの事件の象徴的な性格だと思います。

すると、そのような攻撃を受けた側の為政者は、政治家は、大統領やその政権は、なぜ自分たちの国がこれほどまでの憎悪に満ちた攻撃を受けるのかということを、大国であればあるほど顧みて、出直しと言うか、顧みて次にとるべき方策を考えなければなりません。

しかもワールドトレードセンターの犠牲者は、当初は6000人くらいと言われましたが、最終的にはその半分の3000人くらいに減りはしました。とてつもない、たくさんの犠牲者が出たことの事実に変わりはありませんが。

ぼくがニューヨークやワシントンの出来事の報道を聞きながら思ったのは、米国の歴史であり責任です。

米国は、ほかの国の土地において、その社会が「不穏な状態」になったときに、米国公民の財産と生命の安全を確保するという理由ですぐに海兵隊を派遣して上陸させ、その土地で生まれてしまった不穏な社会情勢に対する一方的な介入を行なう、戦争という行為を行なうという歴史を繰り返してきたわけです。

それぞれの場所で、海兵隊の上陸によっても、そのひとつの作戦で数千人の人々を殺すことを当たり前のようにやってきた。戦争であれば、朝鮮戦争のようにベトナムのように、何十万人という人間を殺してきたのです。そうした責任をなんら問われたことがないのが米国です。圧倒的な政治的・経済的・軍事的な、および文化的な超大国であるがゆえに。文化的なというのは、ハリウッド映画やディズニーランドや、さまざまな文化浸透の力によって、世界に君臨していることです。それを含めた超大国であるがゆえに、あの国は、人を殺した責任を問われたことが一度としてありません。

広島・長崎での原爆投下の責任を問う姿勢が日本の歴代政権にはそもそもないけれども、そのことも、あの広島に行ったオバマの演説にわかるように、今に至るも、見事にその責任感のないところで彼らはものごとを考えています。

自分たちの国内では、さしあたっては先住民族のインディアンに対する殲滅戦争を皮切りに、その殲滅戦争が終わった後のインディアンをリザベーションに閉じ込めて以降、19世紀後半以降は、周辺のカリブ海に出ていって、その支配力を伸ばしていった。

そういったことを考えた場合に、自分たちの国が、国内で世界で行なってきた挑発的行動を顧みる、歴史を反省するよすがとして、あの9.11の攻撃をどうとらえるかと考え直せばよかったと思います。しかし、そうはしないで別な方向をとったわけです。

貝原さんは、この問題についても、きちんと取り上げ、「ベストセラー戯評」の中で、何回かにわたって描いていると思います。

民間人を殺傷する、国家テロ=「反テロ戦争」

もうひとつ、大きな問題としては、2002年9月17日、同時多発攻撃から、自爆攻撃から約1年後の「日朝首脳会談」があげられます。首相の小泉がピョンヤンを訪問して、日本と朝鮮の、日本では北朝鮮と呼んでいますが正式名称が長いので「朝鮮」と言いますが、日本と朝鮮の「首脳会談」が行なわれた。これによって国交正常化という本筋の目標を外したところで拉致問題だけが浮上し、日本社会はそこにだけ関心を集中させます。この問題についての関心も、貝原さんはうまく掬い取って、表現していると思います。

これら、「80年代前半の英国、米国、日本における新自由主義政策によって社会が席巻される」、「2001年、同時多発攻撃が起きる」、「日朝首脳会談が行なわれ、日本社会が拉致問題だけに関心を集中する」、このようなことが起きる時代に、引いたところで、少し客観的なところでこれを批判するというのは、なかなか「万人受け」しないことです。

例えば昨日、2017年11月20日、米国は朝鮮に対して「テロ支援国家指定」を再度行ないました。世界的なメディア報道では、これによって朝鮮の指導部の譲歩を導き出すことができるかという問題としてしか、とらえられていません。

しかし、この「テロ支援国家指定」はちゃんちゃらおかしいと思います。

もちろん、朝鮮国の現在の指導部の行なっている、核を担保とした瀬戸際政策、あるいはこの間度重なって行なわれているミサイル発射、こうした軍事的な方針によって、今彼らが抱えている苦境を打破しようとするやり方は、まったく間違っている。これはぼくの前提としてあります。

後で触れる拉致問題も含めて、あの国の指導部は社会主義を自称、あるいは僭称しているわけですが、とんでもない政権だと思っていますし、ぼくは今、あの政権を防衛したり擁護したりする気持ちは微塵もありません。しかし同時に言わなければならないのは、世界で最大の「テロ国家」は米国だということです。

彼らは「反テロ戦争」と言いますが、「戦争」とは国家テロの発動であるというのが、ぼくの基本的な考え方です。

この16年間続いている「反テロ戦争」、国家が発動している、米国が先頭になって発動している「反テロ戦争」は聖域に置いて、これはある意味で「当たり前の戦争」であると彼らは規定します。しかしパキスタンで、アフガニスタンで、イラクで、イエメンで、ほかの国々でもたくさんの民間人の死者が生まれました。

オバマ政権のときにいちばん重用されたのが、ドローンと無人機による爆撃です。彼らは本土の航空基地から、コンピュータ制御で、いわゆる「敵」、彼らが攻撃しようとする他国の「目標」を見ています。そして、「決まった」と。これがあの有名なテロリストの誰それだと。あるいは、彼らが武器を集めようとしていると。そういう目標を定めると、本土の空軍基地から命令が出されて、アメリカ兵はまったく傷つかない形で、ドローンあるいは無人機から爆弾を落とすわけです。

「目標」は、つまりアフガニスタンではパキスタンでは、イエメンにおいては、人々の居住区でもあるのだから、当然のことながら民間人を殺傷してしまう。しかしそれは、戦争に伴う、残念ではあるが避けがたいことだ、そういうことも起こりうると、彼らは自分たちの戦争行為を正当化するわけです。

このような戦争の在り方を、ある意味で、国家が発現する当然の「戦争」だと判断する。そして、いわゆるテロリストと名づけられた小集団、あるいは個人が行なう攻撃、パリで行なう、ニースで行なう、ブリュッセルで行なう、あるいはジャカルタで行なう、マドリードやバンドンでもありました。そうした攻撃をのみ、凶悪な「テロリストの活動」であると判断する。こうしたこと自体に、「万人受け」はするかもしれないけれども、ひとつの論理的な詐術と言いますか、ごまかしがある。

このことに世界の人々が気づかない限り、「戦争」と「テロ活動」をめぐる終わりのない連鎖は、なかなか終止符を打つことができないだろうと思います。

繰り返しますが、国家が発動する戦争を、やむを得ぬ「是」として、いわゆるテロリストが行なう活動のみを「否」とする、ダメだとする。それでは、「戦争」も「テロ」もなくならないというのがぼくの基本的な考え方です。国家が発動する「戦争」も、いわゆる「テロ」も、両方に終止符を打つ考え方と行動のあり方が、人間社会のひとつの基本にならないと、現状はなかなか打破できないだろうと思うわけです。

例えば朝鮮をめぐる情勢で言えば、朝鮮が行なう行動はすべて「挑発」と表現されます。日米、米韓合同軍が行なう軍事演習は「挑発」とは表現されません。

今年8月には、陸上自衛隊と米海兵隊の朝鮮半島をにらんだ軍事演習が北海道で行なわれましたし、日米韓の演習もしょっちゅう行なわれています。もし、朝鮮のミサイルや核を「挑発」と言うのであれば、日米韓の動きもまた「挑発」と言わなければならない。そういうまっとうな考え方を世界はしない。メディアの偏向した報道によって、そして世界の約200ある国々の政治指導部のきわめて妥当性を欠く表現によって、まっとうな考え方がなされないわけです。

ですから今のような報道が、万人によって受け入れられる表現になっていく。このようなときに、いったいこの事態をどう表現することができるのかというのが、大きな問題です。

先に見た新自由主義の問題で言えば、医療や福祉、教育、あるいは生活の重要な足である鉄道や通信の重要な手段である郵便、そうしたものはどんなに国家財政が苦しくなっても、国の責任において公共事業として行なわれ、その地域に住まう住民に等しく権利として享受されなければならないというのが本来の在り方です。それが、国のどこに住んでいるかによって格差が生まれない、社会的な公正さを少しでも経済的に保とうとするひとつの考え方であるわけです。ところが新自由主義経済政策というのは、国の責任をすべてかなぐり捨てて、資本の原理に基づいて、民間の競争力に委ねればそれでよいという、資本主義万々歳の考え方なわけです。

そうやって、ひとつの国の経済、あるいは予算の使い方が実現された場合に、その社会がどういうふうに荒廃していくものであるか、もうそれは現在の日本の労働状況、労働環境をみれば、誰の目にも明らかな事態になっています。

労働する人の権利が散々侵されて、企業はきわめて不安定な雇用形態しかとらなくなった。それは、この資本主義経済機構の中で企業が生き残るために必要な、競争原理に基づいた措置であると解釈されている。そうしたきわめて一方的な、雇う側に有利な考え方を、政府が言い、経団連が言い、メディアがそれに十分抵抗できないまま、ひとつの価値観として押し付けられていく。そういうときに、新自由主義経済政策が万人に受け入れられているわけではないという表現をどのように行なっていくか、そのことが問われてくると思うのです。

怒りと憎しみで一色になった日朝首脳会談後の日本社会

先に少し触れましたが、2002年の日朝首脳会談の問題に戻って、考えていきたいと思います。

2002年9月17日の日朝首脳会談で、金正日が、それまで否定してきた日本人の「拉致」を事実であったと認めて謝罪し、二度と繰り返すことはしないと述べた、ただ日本政府が拉致被害者として認定している13人のうち、8人の人はすでに死亡しており、5人のみ生存していると発表したという報道があったのが、あの日の夕方です。

この日の夜、テレビには、この間もよく登場されている横田さんご夫妻や、当時「家族会」の事務局長であった蓮池透さんなど「家族会」の人たちが前面に出ていました。そこで語られたのは、もちろん、悲しみもつらさもあっての、ある意味で当たり前な言葉であったわけですが、ぼくは夜、9時か10時ころ帰宅してテレビを見ながら、とんでもないことになるなと思いました。「とんでもない」というのは、日本社会が、朝鮮に対する、怒りと憎しみで一色になるだろう、そのようにメディアは機能し、人の心はそのように組織されるだろうということです。そして、この問題がはらんでいる本質はいったいどこにあるのかを、考えて明らかにしていくのは、たいへんなことだなと、ぼくは思ったわけです。

翌日から、実際そうなりました。新聞も一色でした。1か月後に5人の生存者が帰ってきて、それから2年近くたって子どもさんたちが帰ってくる。その間、日本のメディアは、この問題一色に染まったわけですね。

こういうときに、どういう観点から発言するか。これもなかなか、万人の、誰もがやることではない。

あえて「安易」と言っていいと思いますが、いちばん安易なのは、この風潮に同調することです。「もちろん亡くなった方は気の毒だ」、そして、その8人の家族を亡くした「『家族会』の人たちは気の毒だ」、「こんなことをやった朝鮮は許せない」、「金正日はけしからん」、「金日成の時代までさかのぼることじゃないか」と。

そして、その感情から「日本は今まで植民地支配云々で、後ろ指を指されてきたけれど、これでようやく我々は犠牲者になった。もう植民地支配の加害者として謝罪を要求されたりすることはない。これでおあいこだ。犠牲者として、被害者として何を言ってもいいんだ」という空気が生まれ、この社会に充満しました。

この中で、じゃあいったい、何をどのように異論として言うのか。これも万人受けのしない作業です。この問題についても、先に触れましたが貝原さんが仕事をしていた時代の中にあって、ぼくの考えでは皇室問題を除いた中での最も大きな問題のひとつと言える。繰り返しますが、新自由主義経済政策の問題と、同時多発攻撃と「反テロ戦争」の問題、それからこの日朝首脳会談以降の日本社会の問題に、今につながる問題が象徴されると思うのです。

ここでも貝原さんは、正面から取り組んだ形で作品を残しているということに触れておきたいと思います。

天皇制批判をどう表現するか――貝原浩と深沢七郎の「きわどい」表現

もうひとつは天皇問題です。反天皇制運動連絡会という組織が1984年でしたか、結成されて、今に至る活動が続いています。この、略称「反天連」の機関誌や様々なパンフレットに皇室関係の風刺画を描くというのも、80年代後半以降の、貝原さんの重要な仕事のひとつでした。

ひとつひとつの作品を紹介はしませんが、実際に今回の展示作品、図録をご覧になっていただけば、けっこうきわどい表現があることがおわかりいただけます。

昭和天皇裕仁が死んだのは、1989年。ですから貝原さんが、反天連の様々なことにかかわり始めた、わりあい初期のころですね。

裕仁については、彼が最期まで認めない、「文学上のアヤの問題は私は知らん」と言って、とうとう逃れてしまいましたが、戦争責任の問題が当然あります。しかし戦争責任については、それなりに描きやすいということはないかもしれないけれども、批判的な問題提起をしようというときには、問題の立て方としては、すっきりできると思います。

難しいのが、その後に天皇になり皇后になった、現在の、1989年以降のいわゆる、あえて元号を使えば、「平成」天皇と「平成」皇后のあり方をどのように表現するのかということだと思います。これはけっこう難しい問題です。

この間の日本の政治社会状況の中でも、例えば安倍晋三との対比において、天皇が繰り返し言う、平和への強いメッセージ、あるいは戦争犠牲者に対する海外を含めた慰霊訪問、そうしたことをひとつの象徴ととらえ、「これは安倍の戦争路線に対する内に秘めたる批判である」というような解釈をする人たちがいます。大衆運動の中にもいるし、いわゆる文化人的な人たちの中にもいないこともない。「ああ、戦争と平和の問題について、このような発言をする天皇や皇后をもって幸せだ」という、そのようなことさえ言う人たちがいる。

ぼくは、そのような考え方には反対の立場ですが、この問題はしかし難しい。

反天連の機関誌にはぼくも、この間、8年くらいでしょうか、もう90回くらいになる連載のコラムを持っています。それは貝原さんが、反天連に挿絵や風刺画を提供していた時代とは彼の死を挟んで、ずれてしまうので、機関誌の中で一緒にやったことはないんですけれども。

その機関誌の中でもよく問題にされることですが、現在の天皇皇后のあり方について、どのような言葉で、どのようなアプローチの仕方で、うまく批判できるか。昭和天皇のときと違って、ちょっと難しい。ここに、貝原さんがいない、亡くなって、今に至るこの12年間の空白ができてしまったのが、ぼくは非常に残念なことだと思っています。

貝原さんの表現は「きわどい」と言いましたけれども、しかし天皇制についての表現が、これほどまでにみんながびくびくしたり、ちょっとこれはやばいんじゃないかと思ったりするというのは、それほどずっと続いているわけではありません。

ぼくの記憶する中で、2つの例を挙げますが、これはいずれも、作家の深沢七郎の表現にかかわる問題です。

深沢七郎は『楢山節考』でデビューした、ぼくは優れた作家のひとり、忘れがたい作家のひとりだと思っています。彼が1960年12月の『中央公論』というあの、今や読売新聞社の傘下にある出版社、中央公論社の出している月刊誌ですが、そこに、『風流夢譚』という小説を書きます。

現在はインターネットの時代なので、いろいろな形で読むことができますが、「夢譚」という、つまり夢のお話です。掲載が11月発売の12月号で、いわば年末から正月にかけてのちょっとした夢物語として書かれたものです。しかし60年安保の年であり、現在の天皇と皇后が結婚した翌年ですから、そうしたことを反映しています。実際の当時の天皇皇后、現在の天皇皇后も実名で出てきますが、首都でサヨクの革命のようなことが起こったというので、見に行くと天皇の首が切られた胴体があったりする。「革命」といい、「サヨク」といっても、そのサヨクのヨクが慾望の慾の「左慾」ですからね。ウソ物語、夢物語です。しかし皇太子の首が斬られ、美智子の首が斬られて「首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった」というような表現を含めてある、そういう作品です。

作品の評価は別個行なうべきだとして、そんな作品が1960年に、『中央公論』という総合雑誌に載っていたわけです。その結果、これを怒った右翼の人間が版元の中央公論社の社長宅を襲って、お手伝いさんが亡くなるという事件が起こってしまいました。

日本の出版界が、天皇表現について委縮し始めたのがこれ以降です。ですから57年間、せいぜい半世紀ちょっとです。

この深沢七郎という人はもうひとつ、1959年の講談社の文芸雑誌『群像』に「これがおいらの祖国だナ日記」というエッセイを書いています。これは、天皇家に、民間の血が入ったことに対する残念な思いを書いたものです。

つまり、天皇家というのは「血族結婚」を続けていって、「ムカデの様な」、「皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様で、くねくねと動いている」一家になって、その一家の写真を、「国民は『これがおいらの祖国だナ』と、国賓の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるのだ。(それが、すつかりダメになつちゃつたんだよ)」「僕は御成婚の日にテレビを見ながらガッカリして眺めていた」というのですから、これはちょっとすごい表現でしょう。

今だったら、まず『群像』が載せるはずがない。載せたら何が起こるかわからないというような表現です。しかし、半世紀ちょっと前には、その手の自由さはあったんです。

深沢七郎はほんとうにおもしろい人で、余談ですが、米国大統領のケネディが殺されたとき、赤飯を炊いて隣近所に分けたという。みんな怪訝な顔をするわけですが、「いやあ、戦争をする奴が亡くなったからめでたいでしょう」と言ったとか。彼は、そういうことを、正直にできる人だったんですね。

この社会にそういう人がいてよかったなと思うんですけども、そういう、ある意味まっとうな発想で、そのとおりのことを言っていた文学者だったと思います。

つまり、天皇制に対する批判的な言辞に臆病になってしまう、委縮してしまうというのは、ごくごく最近だということ。深沢氏の表現に対する右翼テロがあって、それに大きなメディアが怖気づいて、やがてこれほどに無抵抗な、批判的な言論が一切ないような時代が来てしまった。これがこの半世紀の問題ですし、少しでもこの天皇制という余計なものに対する批判の空間、言論空間を広げていかなければならないと思います。

しかし残念ながら、やはり違うベクトルから天皇一家を表現するものが、この社会では圧倒的に受ける、万人受けするわけです。それになんら疑問を抱かない。批判的な言論はものすごくマイナーな反天連の機関誌でしかなされていないということは、ほとんどの人の目には触れないわけです。批判のないのが当たり前になってしまう。そして天皇がらみのことでは反射的に、なにか、丁寧な言葉を使って崇め奉ってしまう。それが、どれほどこの社会を不自由にしているかということを指摘したいと思います。

犯罪への反応からみる、万人に受け入れられる考え方の恐ろしさ

もうひとつ、万人に受け入れられないものには、たとえば犯罪報道があります。

社会的な関心を呼び起こす凶悪な事件を含めた犯罪事件が起こったとき、その事件によって殺された犠牲者に成り代わる、あるいは犠牲者の遺族に成り代わって犯人をつるし上げる。これが、なぜかわからないけれども、社会にいちばん浸透している人々の心の在り方です。

貝原さんが生きた時代の中では、「ロス疑惑」と呼ばれた三浦和義さんの事件があって、それを扱った絵も展示されています。あの事件のころ、ぼくはテレビを買ったばかりだったということもあって、珍しくてニュースショーなどを見ていました。レポーターというんですか、みんなマイクを持ってワーッと三浦さんのところに押しかけていく。

最初は『週刊文春』がスクープして、「ロス疑惑」というのを暴き始めたわけですが、そしてテレビが犯人に仕立て上げてしまい、後追いで警察が介入する。もう三浦和義という人に対する、罵倒と憎悪、それが満載の社会になっていました。

現在はなおさらです。先だっても、おそろしい事件がありました。パーキングでの駐車の仕方を注意された若者が、その注意した人の車を高速で追いかけて、走行を妨害して、結果、後ろから来たトラックに追突されて注意した側のご夫婦が亡くなるという悲惨な事件があった。

この事件について、20代の若者の名前が出ました。どこに住んでいるか、地名も出ました。そうするとなぜかわざわざその名前を調べて、「この店のバカ息子がやったに違いない、こいつがオヤジだ」というように、だれかがインターネットに上げた。するとそのネット情報に基づいてどんどん嫌がらせ電話が、間違えられた人のところに入って、仕事にならないと。そういうことが報道されていました。

ここまでこの社会はひどくなっている。いわゆる「テロ」事件でも、「拉致」事件でも、凶悪事件でもそうですが、圧倒的多数の新聞、報道記者、テレビ視聴者は第三者です。その事件の犠牲者でもなければ犠牲者の遺族でもない、加害者の側にいるわけでもない。99.9パーセントの人たちはその事件の当事者ではありません。第三者だからこそ、冷静に、なぜこんな悲劇が起こるのかを考え、こうした悲劇が起こらない社会にするために必要なことは何か、どんな考え方が、どんな行動が必要なのかを冷静に考える、そういうことができる位置に本来はいるわけです。

ところが、この社会ではそうならない、いたずらに、ひとり興奮してしまって、その犠牲者に成り代わり、遺族に成り代わって加害者をバッシングする側になる、それをテレビメディアは先頭に立って、週刊誌メディアがそれを追い、場合によっては新聞メディアも加わって、それがいかにも、社会の万人に通用する考え方であるかのように検証してしまうわけです。

万人に受け入れられる考え方というのは、これほどまでに恐ろしい、そういう時代になっていると思います。

それはインターネットによって加速した。パソコンが普及し始め、インターネットが普及し始めた元年は1995年だと思いますが、貝原さんはネット社会がだんだんと人々の心の中に浸透していく、その初期の段階の10年間を、彼は並走したわけです。それから12年経って、このネット社会というものが、どれほどまでにひどい状態になっているのか、貝原さんが体験できたならば、いったいどういう風刺を描いていただろうか。これも彼の作品を、見ながら考えたことでした。

劣化した社会の中でこそ、「万人」の表現になびかず、抵抗の表現を

もうひとつ重ねて終わりにします。

ぼくは先ほど触れた、2001年に小泉政権が成立した以降、小泉の時代に書いた文章の中で何回か、「言葉が死んだ」といいますか、そういう表現を使ったことがあります。

小泉純一郎というのは、人が発する言葉からその本質的な意味を奪い取ってしまう政治家の典型です。言葉で、論争をするとか論戦をするとか、そうしたことが不可能なところに、そういう劣化した状態に社会を追いやってしまったと思います。

どういうことかというと、例えば2003年、自衛隊の「イラク派兵」が問題になったときに、「非戦闘地域にしか自衛隊は派遣しない」と当時の小泉政権は言っていて、それなら、そのときのイラクの戦闘地域と非戦闘地域をどういうふうに分けて判断しているんだと野党が質問すると、小泉は何と答えたか。「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと、いま永田町にいるこの私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか」と答えた。質問に対するとてつもない居直りです。

野党の質問の仕方にも問題はありましたが、しかし戦闘地域と非戦闘地域がわけがわからない人間が、最高責任者として自衛隊を派遣しているという、そういうことになってしまうわけです。

そんな派遣の無責任性を批判していく展開が必要ですが、「わかるわけがないでしょう」と言って、情けないことに野党の追及はそこでストップしてしまうわけです。

あるいはまた、2004年、年金の問題のときに、小泉自身の厚生年金加入疑惑を質されると、島倉千代子の歌にかけて「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」などと言って、まともに質問に答えない。言葉に向き合うのではなくて、ずらしたところで、答えたつもりにさせてしまう。ある意味、ものすごく巧みな人間でした。あらゆることから人間の発する言葉の意味を奪い、論争するという機会をずるずると奪ってしまいました。

小泉という、ほんとうに口の軽い、言葉の軽い、とんでもない人間が5年間、あれだけの人気を誇って首相の座にいた。あのときから、ぼくは、日本社会が、日本の政治が、それまでもとんでもない政治が行なわれていたけれども、もう一段階、国会論戦のあり方を含めて、とんでもない時代が来てしまったのだと思います。

その小泉の後継指名を受けたのが安倍晋三です。せっかく1年間で辞めてくださいましたが、残念ながら自民党内の勢力的な問題があって、2012年にまた復活し、とうとう5年間の長期政権が続いてしまいました。彼の下で言葉がさらに意味を失ったことはみなさん、日々、実感されていると思います。

とにかく話にならない、論争にならない。あれだけはぐらかし、まともに答えないで、しかし、野党の力不足で、あるいは質問時間がなくて、どんどん既成事実として進んでいく。これほどまでに風刺も効かない、言葉が本来の意味を持たず、風刺も効かなくなった時代に、貝原浩が生きていたらいったいどんな風刺画を描けたんだろうというのが、たいへん興味のある問題です。

ぼくはほんとうに、小泉政権以降のこの16年間、こういう時代に、社会や政治のあり方に対して批判的な文章を書くということの意味はいったい何なんだと、いったいどこに手ごたえを感じたらいいのだろうということを、つくづく思うようになりました。

しかも、社会は大きく転換して、いくら選挙制度に不備があろうと、社会全体はここまでこう、抵抗力を失って、劣化して現在に来てしまったわけです。

いろいろな問題点を指摘することはできるけれども、しかし小泉的なもの、安倍的なもの、米国であればトランプ的なもの、そうしたものを支える社会層が、それなりに厚みを帯びて、この社会を形成してしまっている。それが「万人」であることのように装って、この社会を仕切っている。そういう時代を迎えてしまったわけです。

こういうときに、この「万人」の表現になびかず、こんな表現が、こんな政治家が受けるのはあやしいというふうに踏みとどまって、考え、行動する。踏みとどまって文章として、絵として、演劇として、映画として、様々な表現を行なう、そういう人間が途絶えてはいけない。そのことを十分思いつつ、同時にその難しさも思うわけです。

繰り返しになりますが、こんな、なんと名づけていいのかわからないへんてこな時代に貝原浩が生きていたら、いったい彼は、これに抗う、どんな抵抗の表現をしていただろうかということを考えながら、なんとかこの時代を乗り切っていきたいなということを考えています。

(2018年2月13日発行 発行責任:貝原浩の仕事の会)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[93]ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助の下で実施されたという「発見」


『反天皇制運動Alert』第20号(通巻402号、2018年2月6日発行)掲載

1945年2月、米英ソ首脳によるヤルタ会談で、ソ連の対日参戦が決定された。同年8月9日、米軍による長崎への原爆投下と同じ日、ソ連軍は樺太南部と千島列島に投入された。さらに8月28日からは、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島占領作戦が展開された。各島で日本兵の武装解除が行なわれ、9月5日、ソ連軍は四島を制圧した。

ここまでは、従来もよく知られた歴史である。8月15日直後の状況下で、スターリンが北海道占領計画なるものを提示し、これをトルーマンが拒否したことも知られている。いつ頃のことだったか、スターリンが夢想した北海道占領案を地図上で知ったことがあった。それによると、釧路と留萌を結ぶ線を引き、その北東部分をソ連が占領することになっていた。そのとき2歳で、釧路に住んでいた私は、ソ連占領下に生きることにもなり得たのだった。権謀術数の駆け引きに拠って成立している国際政治の在り方如何によっては、所与の地域に生きる(とりわけ、敗戦国や勝者に占領された国の)民草の行く末などはいかようにも翻弄され得るのだという、世界政治に対する私の基本的な視点は、この段階で定まった。21世紀に入って4半世紀、このことが、アフガニスタン、イラク、シリア……などアラブ地域の国々で繰り返されているさまを、私たちは目撃し続けている。背後で蠢いているのが、米国とロシア(旧ソ連)であることにも変わりはない。これが、人間の歴史に対する諦観をわれらが裡に育てるものなのか、もっと深く絶望を植えつけるものなのか、それとも?――ここでは、問うまい。

さて、上に触れた歴史を受けて、北方4島問題を国家帰属に関わるそれとして捉えて角逐し合っているのが日露の両国家だが、そこは、近代国家成立以前には先住民族の土地であったことを考えるなら、歴史哲学的にはこの契機を挟むことなく、ことを「領土問題」に凝縮して解決を図ることの「不可能性」が浮かび上がる。この点を指摘したうえで、次へ進もう。日本が敗戦した1945年以降73年間ものあいだ揺るぐことのなかった「ソ連対日参戦」の事実に、新たな視点が付け加えられたのは昨年末のことだった。ソ連の北方4島占領を「米国が援助し、極秘に艦船を貸与し訓練も施していた」事実が明らかになったのだ(『北海道新聞』17年12月30日朝刊)。冒頭に触れたヤルタ会談の直後から、共に連合国であった米ソは「プロジェクト・フラ」(Project Hula)と呼ばれる合同の極秘作戦を開始した。内容は以下のごとくであった。米国は45年5~9月、掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与し、4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイ基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行なった。これら一連の訓練は、45年8~9月の「実践」で役立てられた。4島占領作戦に参加したソ連側の艦船数は17隻だったが、そのうち10隻が米国から貸与されたものだった。

つまり、ソ連の勝手なふるまいと考えられてきた北方4島の電撃的な占領作戦は、米ソをトップとする連合国の作戦であった、ということになる。こんなこともあるのか、と思えるほどの、歴史的な「一大発見」ということになる。発見者は2015年来北方四島の遺産発掘・継承事業を行なっている根室振興局である。各国の資料に当たる中で、サハリン及びクリール諸島上陸作戦に参加した軍艦リストを調査した一ロシア人学者の2011年度の研究が糸口になったようだ。調べてみると、米の元軍人リチャード・ラッセルが2003年に『プロジェクト・フラ』を書いて、この極秘プランの内実を著してもいる。これが最初の研究だとすれば、やはり真相は60年近くも秘されてきたということになる。

この場合は、国際関係の微妙さを口実とした「隠蔽」だったのか、よくわからぬ。時代の制約の中に生きる人間の問題意識・歴史認識の水準に帰すべき場合もあろう。近着の『極東書店ニュース』643号電子版を見るにつけても、学生時代以降半世紀間見続けて読書の指針にしてきたこの学術洋書案内に見られる内容の変化は著しい。ジェンダー研究、女性史、移民史、移民問題、少数民族、人種問題、環境問題などという書目分類は昔ならあり得なかったが、昨今は際立って冊数も多い。国際政治ゆえの「隠蔽」の力が作用しているのか、それともわが認識水準が及ばないのか、いずれにせよ、歴史にはこんなことが起こり得るのだ。

まだ真相に行き着いてはいないのではないかという恐れをもって、歴史に向き合いたいものだ。(2月3日記)

「死刑囚表現展」の13年間を振り返って


『創』2017年12月号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が運営する「死刑囚表現展」は今年で13回目を迎えた。始めたのは2005年。その前年に、東京拘置所に在監する確定死刑囚、大道寺将司氏の母親・幸子さんが亡くなった。遺された一定額の預金があった。近親者および親しい付き合いのあった人びとが集い、使い道を考えた。筆者もそのひとりである。幸子さんは、息子が逮捕されて以降の後半生(それは、54歳から83歳までの歳月だった)の時間の多くを、死刑制度廃止という目的のために費やした。

息子たちが行なったいわゆる「連続企業爆破」事件、とりわけ1974年8月30日の三菱重工ビル前に設置した爆弾が、死者8名・重軽傷者385名を出したことは、もちろん、彼女の胸に重く圧し掛かっていた。本人たちが意図せずして生じさせてしまったこの重苦しい結果が彼女の頭を離れることはなかったが、息子たちは、マスメディアがいうような「狂気の爆弾魔」ではないという確信が揺ぐことはなかった。この確信を支えとして、彼女は「罪と償い」の問題に拘りつつ、同時に死刑廃止活動への関わりを徐々に深めていった。息子以外の死刑囚とも、面会・文通・差し入れ・裁判傍聴などを通して、交流した。人前で話すことなど、およそ想像もつかない内気な人柄だったが、乞われるとどこへでも出かけて、息子たちが起こした事件とその結果に対する自らの思いを話すようになった。死刑囚のなかには、自らが犯した事件・犯罪について内省を深め、罪の償いを考えているひとが多いこと、また、国家の名の下に命を最終的に絶たれる死刑事件においても冤罪の場合があることなどを彼女は知った。

幸子さんは、晩年の30年間を、獄外における死刑廃止運動の欠くことのできない担い手のひとりとして、死刑囚と共に「生きて、償う」道を模索した。この辺りの経緯は、幸子さんへの直接の取材が大きな支えとなっているノンフィクション作品、松下竜一の『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(初出「文藝」1986年冬号、河出書房新社。現在は、単行本も同社刊)に詳しい。

彼女の遺産の使い道を検討した私たちは、そのような彼女の晩年を知っていた。遺されたお金は、「死刑廃止」という目標のために使うのが彼女の思いにもっとも叶った道だろうという結論はすぐに生まれた。さて、どのように使おうか。討論の結果、次のように決まった。

死刑囚の多くは、判決内容に異議をもち再審請求を希望する場合でも、経済的に困窮していて、それが叶わないこともある。一人ひとりにとってはささやかな額ではあろうが、「基金」は一定の金額を希望者に提供し、再審請求のための補助金として使ってもらうことにした。毎年、5人前後の人びとの弁護人の手にそれは渡っている。

もうひとつは、死刑囚表現展を開催することである。死刑囚は、多くの場合、外部の人びとと接触する機会を失うか、ごく限られたものになるしか、ない。「凶悪な」事件を引き起こして死刑囚となる人とは、身内ですら連絡を絶つこともある。ひとは、自分が死刑囚になるとか、その身内になるとかの可能性を思うことは、ほとんどないだろう。だが、振り返れば、死刑囚がなした表現に深い思いを抱いたり衝撃を覚えたりした経験を、ひとはそれぞれにもっているのではないか。永山則夫氏の自己史と文学、永田洋子および坂口弘両氏が著した連合赤軍事件に関わる証言や短歌、苦闘の末に冤罪を晴らした免田栄氏や赤堀政夫氏の証言、そして、いまなお冤罪を晴らすための闘いの渦中にある袴田巌氏の獄中書簡やドキュメンタリ―映画、当基金の当事者である大道寺将司氏の書簡と俳句など、実例は次々と浮かぶ。世界的に考えても、すべてが死刑囚ではないが、マルキ・ド・サド、ドストエフスキー、金芝河、金大中、ネルソン・マンデラなど、時空を超えて思いつくままに挙げてみても、獄中にあって「死」に直面しながらなした表現を、私たちはそれぞれの時代のもっとも切実で、先鋭なものとして受け止めてきたことを知るだろう。それらに共感を寄せるにせよ批判的に読むにせよ、同時代や後世の人びとのこころに迫るものが、そこには確実に存在している。

日本では、死刑制度の実態が厚いヴェールに覆われているにもかかわらず、死刑を「是」とする暗黙の「国民的な合意」があると信じられている。刑罰の「妥当性」とは別に、死刑囚といえども有する基本的な人権や表現の自由についての認識は低い。「罪と罰」「犯罪と償い」をめぐっては冷静な議論が必要だが、「死刑囚の人権をいうなら、殺されたひとの人権はどうなるのだ」という感情論が突出してしまうのが、日本社会の現状だ。死刑囚が、フィクション、ノンフィクション、詩、俳句、短歌、漫画、絵画、イラスト、書など多様な形で、自らの内面を表現する機会があれば、そのような社会の現状に一石を投じることになるだろう。死刑囚にとって、それは、徹底した隔離の中で人間としての社会性を奪われてしまわないための根拠とできるかもしれない。

そのような考えから表現展を実施することにしたが、死刑囚の表現に対してきちんと応答するために、作品の選考会を開くこととして、次の方々に選考委員をお願いした。加賀乙彦氏(作家)、池田浩士氏(ドイツ文学者)、川村湊氏(文芸評論家)、北川フラム氏(アートディレクター)、坂上香氏(映像作家)。基金の運営会からは私・太田昌国(評論家)が加わった。第7回目を迎えた2011年には、ゲスト審査員として香山リカ氏(精神科医)を迎えたが、香山さんにはその後常任の選考委員をお願いして現在に至っている。

「死刑囚表現展」と銘打つ以上、応募資格を持つのは、当然にも死刑囚のみである。この企画が発足した2005年ころの死刑囚の数は、確定者と未決者(地裁か高裁かで死刑判決を受けているが、最高裁での最終判決はこれからの人)合わせて百人程度だった。それから12年を経た昨今では、125人から130人くらいになっている。このうち、表現展に作品を応募する人は、平均15%から20%くらいの人たちである。

例年の流れは、以下のとおりである。7月末応募締め切り。文字作品はすべてをコピーして、選考委員に送る。その厚みはだいたい30センチほどになるのが普通だ。9月選考会。絵画作品はその場で見て、討議して選考する。10月には「死刑廃止集会」という公開の場で、改めて講評を行なう。

「基金」のお金は、参加賞や各賞の形で応募者に送られる。「賞」の名称(名づけ)には、いつも苦労する。「優秀賞、努力賞、持続賞、技能賞、敢闘賞」などはありふれているが、獄中にありながら現代的な言葉遣いに長けた人には「新波賞」(文字通り、「ニュー・ウェーブ」の意味である)が、また周囲の雑音に惑わされず独自の道を歩む人には「独歩賞」とか「オンリー・ワン賞」が与えられた。肯定・否定の論議が激しかった作品には、「賛否両論賞」が授与されたこともある。この「賞金」がどのように使われているかは、外部の私たちは、詳しくは知る由もない。少なからぬ人びとが、来年度の応募用のボールペン、色鉛筆、原稿用紙、ノート、封筒、切手などの購入に充てているようだ。お金に困らない死刑囚など存在しているはずはないし、物品制限も厳しい中で、なにかしらの糧になっているならば、「基金」の趣旨に叶うことだ。

応募者には、選考会での各委員の発言内容をすべて記録した冊子が送られる。公開の講評会の様子も、死刑廃止のための「フォーラム90」の機関誌に掲載されるので、それが差し入れられる死刑囚のみならず、希望するだれの目にも触れる。これは、精神的な交流を、一方通行にせずに相互交通的なものにするうえで大事なことであると痛感している。選考委員の率直な批判の言葉に、応募者が憤激したり、反論してきたりすることも、ときどき起こる。ユーモアや諧謔をもって応答する応募者もいる。常連の応募者の場合には、明らかに、前年度の作品への選考委員の批評を読み込んで次回作に生かしたと思われる場合も見られる。

この13年間に触れてきた膨大な作品群を通して考えるところを、以下に記しておきたい。自らが犯してしまった出来事を、俳句・短歌などの短詩型やノンフィクションの長編で表現する作品が目立つ。前者の場合、短い字数ゆえに、本人の心境をごまかしての表現などはそもそもあり得ないもののようだ。自己批評的な作品は、ずっしりと心に残る。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり  (響野湾子)

振り捨てて埋めて忘れた悲しみを思い出させる裁判記録 (石川恵子)

一読後、その人が辿ってきた半生がくっきりと見えたような感じがして、ドキリとする作品も散見される。作品の「質」を離れた訴求力をもって、こころに呼びかけてくる作品群である。

父無し子祖母の子として育てらる吊るされて逝きて母と会えるや (畠山鐵男)

弟の出所まで残8年お互い元気で生きて会いたし        (後藤良次)

両親を知らずして育ち、高齢を迎えたいま、獄中に死刑囚としてあること。2人、3人の兄弟が全員刑務所に入っていること――そんなことを読み取ることができる表現に、掲句に限らず、ときどき出会う。ここからは、経済的な意味合いだけには還元できない現代社会の「底辺」に澱のように沈殿している何事かを感受せざるを得ない。ひとが残酷な事件を犯すに至る過程には、社会的な生成根拠があろう。貧困、無知、自分が取るに足らぬ存在と蔑まされること、社会全体の中での孤独感、根っことなるものをことごとく引き抜かれていること――それらすべてが、一人の人間の中に凝縮して現われた時に、人間はどうなり得るか。永山則夫氏の前半生は、まさにそのことを明かしている。同時に、永山氏は自らが犯した過ちを自覚したこと、それがなぜ生まれたかについて「個人と社会」の両面から深く追求する表現を獲得しえたこと、それが書物となって印税が生じたとき、自らが殺めた犠牲者の遺族に、そして最後には「貧しいペルーの、路上で働く子どもたち」に金子を託すという形で、彼独自の方法で「償い」を果たそうとしたこと――などが想起されてよいだろう。

ノンフィクションの長編で自らの犯罪に触れた作品からも,時に同じことが読み取れる。同時に、「凶悪な犯罪」というものは、たいがい、絵に描いたように「計画的に」行なわれるものではないようだ、ということにも気づかされる。作品が真偽そのものをどこまで表現し得ているかという問題は残る。だが、文章そのものから、物語の展開方法から、事実が語られているか、ごまかしがあるかは、分かるように思う。その前提に立てば、実際の犯行に至る過程のどこかで、複数の人物の「偶然の」出会いがなかったり、車や犯行用具が一つでも欠けていたりしたならば、ここまでの「凶行」は起こらなかったのではないか、と思われる場合が多い。逆の方向から言えば、「偶然」の出会いに見えるすべての要素が、たがが外れて合体してしまうと、あとは歯止めが利かなくなるということでもある。その過程を思い起こして綴る死刑囚の表現からは、ひたすらに深い悔いと哀しみが感じられる。

問題は、さらにある。被疑者は逮捕後に警察・検察による取り調べを受ける訳だが、死刑囚が書くノンフィクション作品においては、その取り調べ状況や調書の作り方への不満が充満しているということである。冤罪事件の実相に触れたことがある人は、取り調べ側がいかに恣意的に物語を作り上げるものであるかを知っておられよう。「物語」とは、ここでは、「犯行様態」である。捜査側の思い込みに基づいて、現場の状況と数少ない証拠品に合わせるように「自白」を誘導する手口も、犯人をでっち上げることで初動捜査の失敗を覆い隠すやり口も、根本的にご法度なのだ。だが、実際には、それがなされている。このようなシーンが、十分に納得のいく筆致で書かれていると、死刑囚にされている表現者がもつ怒りと悔しさが伝わってくる。

絵画作品の応募も活発だ。選考会でよく話題になることだが、幼子の時代を思い起こしてみれば分かるように、文章を書くことに比して、絵を描くことは、ひとをしてヨリ自由で解放的な空間に導いてくれるようだ。人を不自由にすることに「喜び」を見出しているのかとすら思われる、拘置所の官僚的な規則によって、獄中で使用できる画材には厳しい制限がある。だが、その壁を突破しようとする死刑囚の「工夫の仕方」には、舌を巻くものもある。常連の応募者の画風に次第に変化が見られる場合があることも、楽しみのひとつだ。最近は、立体的な作品が生まれている。着古した作務衣を出品するという意想外な発想をする人も現われた。或るひとが漏らした「まるでコム・デ・ギャルソンだ」とは、言い得て妙な感想だった。極限的に狭い空間の中から、ここまで想像力を伸ばし切った作品が生まれるとは――と思うことも、しばしばだ。

この企画を始めて13年――11年目には、1980年代に冤罪を晴らした元死刑囚の赤堀政夫さんが、自分もこの企画に協働したいと申し出られて、一定の基金を寄せられた。以後、「基金」の名称には赤堀さんの名も加わることとなった。初心を言えば、当初は10年間の企画と捉えており、その間にこの日本においても「死刑廃止」が実現できればよいと展望していた。残念ながら、政治・社会状況は悪化の一途を辿り、それは実現できなかったからこそ、現在も活動は続いている。この間には、無念にも、かつての応募者が処刑されてしまったこともある。獄死した死刑囚もいる。このように、私たちには力及ばないことも多いが、この表現展は、死刑囚と外部社会を繋ぐ重要な役割を果たしていると実感している。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[92]願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん


『反天皇制運動Alert』第19号(通巻401号、2018年1月9日発行)掲載

今年は明治維新(1868年)から150年に当たる年なので、政府や地方自治体がそれを記念する行事を企画し始めているようだ。年頭の新聞各紙でも、その種の記事が目立った。ただし、この言い出しっ屁が現首相であると私が知ったのは、年頭1月6日付け毎日新聞掲載の編集委員・伊藤智永のコラム「時の在りか」によってである。

戦後70年に当たる2015年に山口県に里帰りした首相は、明治50周年(1918年)は長州軍閥を代表する寺内正毅、同100周年(1968年)は叔父の佐藤栄作が首相だったと紹介したうえで、「私は県出身8人目の首相。頑張って平成30年までいけば、明治維新150年も山口県の安倍晋三が首相ということになる」と語ったという。地元有権者の心をくすぐるリップサービスだったのだろうこの発言から、長期政権への野心を忖度した現官房長官が国の記念行事に位置づけた、と伊藤記者は言う。

現首相は、元来、まっとうな歴史意識や歴史認識の持ち主であることを期待しようもない人物ではあるが(首相の在り方として、ほんとうに、これは哀しく、情けなく、恥ずべき事実として私は言っている)、彼が肯定的に例示した寺内正毅は、「元帥陸軍大将」位をはじめとしていくつもの勲章を胸中に付けた肖像写真で有名な人物である。[勲章をぶら下げた人間を見たら、「軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう」と『侏儒の言葉』に記した芥川龍之介の言葉を思い起こすくらいの心を持ち続けていたい。それは、「革命軍」や「人民軍」や「解放軍」の兵士や司令であっても、変わることはない。躊躇いもなく人びとを殺す残虐な行為の果てに、胸を勲章で埋めるのが「軍人」、とりわけ「将軍」だからだ]。

ともかく、寺内正毅という軍人政治家の在り方を近代日本の歴史の中に位置づけておくことは、現首相の立場とは正反対の意味で、私たちにとっても必要なことに違いない。

1852年生まれ(ペリー艦隊「来襲」の前年である)の寺内は、明治維新の年=1868年に御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦したことで、軍人としての生涯を始めている。わずか16歳であったことに注目したい。その後の西南戦争でも、とりわけ田原坂の戦いで負傷して右手の自由を失うわけだから、いわば明治維新前後の政治的・社会的激動の中で生きたという背景がくっきりと刻印されている人物である。その負傷によって以後実戦の場を離れたとはいえ、日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を、日露戦争時には陸相を務めていた事実に当たれば、いかにも「坂の上の雲」を目指して明治期前半の時代を生きた典型的な人物と知れよう。だが、その天を目指す群像を肯定的に描いた司馬遼太郎ですらが、寺内は自らの無能さを押し隠すように愚にもつかぬ形式主義に陥り、軍規にやかましく、偏執的なまでに些事に拘泥して部下を叱責した人物として描いている。その寺内が、1910年の「韓国併合」と共に陸相兼任のまま初代朝鮮総督となり、一般歴史書でも「武断政治」と称されるような苛烈な朝鮮統治の方法を編み出し、あまつさえ1916年には首相にまで「上りつめた」のである。

中国北宋代の政治家、詩人にして書家・蘇東坡の、有名な一句を思い出す。

「願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん」

日本国の現首相は言うに及ばず、世界中の現役宰相を眺めて思うに、「政治」「政治家」の本質は、やんぬるかな、古今(11世紀も、21世紀も)東西を貫いて、この一語に尽きるのかもしれぬ。

さて、寺内に戻る。彼は「韓国併合」の「祝宴」で次のように詠った。

「小早川 加藤 小西が世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」

固有名詞の3人はいずれも、16世紀末、秀吉の朝鮮出兵に参画し「武勲」を挙げた武将たちである。「歴史の評価は歴史家に委ねる」と公言する現首相が、心底に秘めている歴史観に共通する心情が謳われていることは自明のことと言えよう。

かくして、今年一年を通じて、明治維新150周年の解釈をめぐる歴史論争が展開されよう。ここ数年来、産経新聞はこの種の論争に敢えて「歴史戦」と名づけたキャンペーンを繰り広げている。『諸君!』『正論』などの右翼誌には1980年代後半以降とみに劣化した言論が載るようになったが、30年近くを経てみれば、その水準の言論が社会全体を覆い尽くすようになった。偽り、ごまかし、居直りに満ちたこの種の言論の浸透力を侮った報いを、私たちはいま引き受けている。「愚鈍な」宰相の言葉とて、甘く見るわけにはいかない。

(1月7日記)

書評:萱野稔人『死刑 その哲学的考察』 


『出版ニュース』2017年12月中旬号掲載

国家や暴力に関わって刺激的な問題提起を行なってきている哲学者による死刑論である。

最初に目次を紹介しておくことが重要な意味を持つ本だと思う。死刑について考える道筋をつけながら、議論が核心に迫っていく方法を、著者が自覚的に選び取っているからである。第1章「死刑は日本の文化だとどこまでいえるか?」、第2章「死刑の限界をめぐって」、第3章「道徳の根源へ」、第4章「政治哲学的に考える」、第5章「処罰感情と死刑」。

第1章は、2002年、欧州評議会主催の国際会合に出席した当時の森山法相が、「死んでお詫びをする」という日本の慣用句を引きながら「死刑は日本の文化である」と発言し、死刑制度の存置に批判的な欧州各国で大きな波紋を呼んだ事実の指摘から始まる。EU(欧州連合)は、死刑制度を廃止していることを加盟条件としているほどだから、この死刑擁護論への驚きは大きかっただろう。著者によれば、問題はこの発言の当否そのものにあるのではなく、死刑に関わる考え方は、森山発言のような文化相対主義を脱し、普遍的なロジックに基づいて披歴されなければならない。

第2章のタイトルは、「自分の人生を幕引きするための道連れ」として大量殺人を行なう、つまり死刑になるために凶悪犯罪に走った実際の事件を前に、死刑の「限界」を論じるところから来ている。死刑になることを望んでいる加害者を死刑にしたところで、刑罰としてどんな意味があるのか、という問いである。「一生刑務所から出られない刑罰」としての終身刑の導入(論理的には、これには死刑の廃止が前提となる)が論じられるのは、このあとである。「死ぬつもりなら何をしてもよい」という挑戦を前に、道徳的な歯止めをいかにかけるか。次に来るのは、この問いである。

第3章は、「人を殺してはいけない」という究極的で根本的な道徳をめぐっての論議である。死刑とは、処罰のためとはいえ人の命を奪うことであり、前記の道徳に反する。それでも多くの人が死刑を肯定しているのは、「人を殺してはいけない」という道徳が、多くの人にとって絶対的なものではないことを明かしている。ここでは、道徳を絶対的で普遍的なものだと捉えた哲学者のカントが死刑を肯定した論理構造を詳しく論じながら、しかし、道徳的には死刑の是非を確定することができないという結論が導かれていく。

犯罪による死と応報としての刑死における死の「執行者」はまったく異なるのだから――後者には、国家(権力)が貌を出すのだから――、それに触れないままに応報論に多くの頁を割いた第3章の議論に苛立ちを覚えた評者を待ち受けたのは、第4章である。ここでは、死刑を執行する公権力の在り方が論じられている。「合法/違法を決定する権力が、処罰のために人の命を奪う権限を保持している」死刑制度の本質が分析される。公権力の存在を望ましいと考える著者は、「国家なき社会」や「政府なき世界」を夢想する知識人を批判したうえで、公権力が過剰に行使されて起こる冤罪の問題を次に論じる。「冤罪の可能性は、公権力が犯罪を取り締まり、刑罰をくだすという活動そのもののなかに構造的に含まれて」おり、「権力的なもの」に由来すると考える著者は、道徳的な議論では死刑の是非に決着をつけることはできない以上、冤罪こそが、その是非を考える上で最重要な論点だと強調する。死刑に反対する人でも、冤罪の危険性を廃止論の核にここまで据える場合は稀なだけに、この議論の展開方法に、私は注目した。

最後の第5章で著者が改めて論じるのは、「凶悪犯罪は厳しく罰するべきだ」とする人びとの処罰感情の強さが死刑肯定論を支えている現実について、である。冤罪による刑死を生み出す危険性をいかに声高に訴えたところで、広い関心は持たれない。凶悪犯罪の被害者家族の処罰感情は別として、社会を構成する圧倒的多数としての第三者の人びとが抱く処罰感情は、現在の日本にあっては、メディア(とりわけテレビ)の無責任な悪扇動によるところが大きいと評者は考えるが、それにしても、この処罰感情に応えることなくして、死刑廃止の目途は立たない。著者はここで、処罰感情を「無条件な赦し」(デリダ)によって、つまり寛容さで克服しようとする死刑廃止論の無力さを衝きつつ、哲学の歴史において初めて死刑反対論を展開した18世紀イタリアの法哲学者、チェ-ザレ・ベッカリーアを引用する。刑罰としての効果が薄い死刑に代えて、終身刑を課すほうが望ましいという考え方を、である。著者は、処罰感情に正面から向き合ってなお死刑否定論の根拠を形成し得る議論として、ベッカリーアの考え方に可能性を見出して、叙述を終える。

社会を構成する個人や集団には許されない「殺人」という権限が、ひとり国家という公権力のみに許されるという在り方は、死刑制度と戦争の発動を通して象徴的に炙り出されると評者は考えている。敗戦後の日本で新憲法が公布された当時、戦争を放棄した以上、人を殺すことを合法化する死刑も当然廃止すべきだという議論が沸き起こったという証言もあるように。その関連でいうと、第1章が触れる欧州の国々の中には、死刑の廃止は実現したが、現在も「反テロ戦争」には参戦していることで、戦争における「殺人」は容認している場合があることが見えてくる。日本の公権力は、現在、死刑制度を維持する一方、「放棄」したはずの戦争をも辞さない野心も秘めているようで、世界的にも特殊な位置にあろう。「公権力」の問題をそこまで拡張して論じてほしかったとするのは、無いのもねだりか。

死刑問題の核心に向き合おうとしない死刑廃止運動の言動に対する著者の苛立ちが、随所に見られる。当事者のひとりとして、その批判には大いに学ぶものがあった。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[91]代議制に絶望して、おろおろ歩き……


『反天皇詠運動Alert』第18号(通巻400号、2017年12月6日発行)掲載

かつて必要があって、1965年当時の日韓条約締結に関わる国会審議の様子を新聞記事に基づいて調べたことがある。不明なことが多く、議事録を取り寄せたら、質疑内容に関する印象は一変した。戦後「反戦・平和勢力」の、国会における重要な担い手であった社会党議員が、対韓植民地支配責任を問う形での「戦後処理」を求めるのではなく、敗戦時に在韓していた日本人植民者が混乱の最中で彼の地に放置せざるを得なかった「財産」の回復・確保が、締結すべき条約に関わっての主要な関心であったことに一驚した。これに関しては、植民者を動員した日本国家が負うべき責任はあるだろうが、対韓請求の問題ではないだろう。

時代は下って1990年代後半、オウム真理教教祖の公判での弁護側と検察側のやり取りを、某紙一面の全面を使う記事で読んだ。全面を使っているのだから、さぞ詳しく、的確にまとめられているのだろうと思い込んでいた節が我ながらあった。後日、その応酬を引用するために公判記録を読むと、新聞に掲載されていた要旨とはまったく異なる印象を受けた。同紙の要約記事は、法廷における教祖の、「異様」かつ「不真面目な」ふるまいに関するト書き的な叙述が多く、弁護人の重要な発言を軽視ないしは無視していたようだった。

当然のことながら、国会や裁判で交わされた当事者間の問答・論議を検証するには原資料に当たることの重要性を学んだ。その意味では、テレビやラジオの中継は、質疑・問答のありようをじかに確認できて、本来ならよいのだが、時間の関係上それはできない場合が多く、加えて、昨今の国会審議の惨状を思うと、そもそも見聞きするに堪えられないという思いが先に立つ。機会あって稀に見聞きしたりすると、両者の言動に対する賛否以前に、「言葉を交わす」こと自体が不可能な人間がここまで大量に登場している事実を知って、こころが塞ぐ。だが、ネット上のツイッターやフェイスブックでは、忍耐力のある人が、あまりにひどいケースを動画入りで報告してくれる場合が、昨今はある。今次臨時国会での「討論」に関しても、それを通して、いくつかの「シーン」を垣間見た。野党議員の持ち時間を大幅に削ってまで質問をしたいと望んだ与党議員と閣僚たちが、驚くべき「醜態」をさらしていた。

青山繁晴や山本一太などが行なった質問はここに引用するのも憚られる内容(正しくは、無内容)なので、それはしない。したくない。この間、私自身もそう思い、何度か書いたこともあったが、連中の狙い目は、有権者が国会審議のひどさに呆れ、もはや、今まで以上に政治への、国会への関心を喪失し、政府・与党のやりたい放題でこの国の運営ができる状態を出来させたいのではないかと呟く人を、今回はちらほらと見かけた。さもありなん。

「ひどさに呆れ」と言えば、否応なく思い出すひとつの文章がある。テーマが若干変わるが、以下に引用してみる。「天皇というものは本来純粋培養で、貴族同士の結婚によって段々痩せ衰えてゆき、ひとつの生物の標本となる。ジガ蜂のようにグロテスクになってしまい、国民がそれを見て、なるほど俺たちの象徴というのはこんなんなんだナというふうに眺めるようになってほしかった。ところが、民間の女性と結婚することになった。これは困ったことである。なぜならたいへん健康な子どもが生まれるであろうから」

これを書いたのは、作家・深沢七郎。時期は、現天皇夫妻が結婚して間もない1960年。掲載誌は、講談社が現在も刊行を続けている文芸誌『群像』。深沢が書いた高級落語(吉本隆明による命名)「風流夢譚」とほぼ同じ時期に書かれたエッセイだったと知れよう。深沢の、この暗喩的な表現は何を語ったのか。この国では、自覚的な意識化作業による精神革命を経ての天皇制の廃絶も、他国ではありふれた歴史的事象であった物理的な処断=「王」の処刑による王政廃絶も、いずれも不可能なのではないかという、いかにも彼らしいニヒリズムの表現であったように思われる。

私はここで天皇制のことを書こうとしているのではない。あまりにひどい代議制に対する私たちの絶望の度合いは、天皇制に関わる深沢のこの吐露に近いものに達していると考えている私は、この先どうしたものかとおろおろ歩いているさまを、そのまま記しておきたかったのである。(12月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[90]山本作兵衛原画展を見に来たふたり


『反天皇制運動Alert』第17号(通巻399号、2017年11月7日発行)掲載

数年前のことだった。東京タワーの展示室で「山本作兵衛原画展」が開かれた。筑豊の炭鉱で自らが従事した鉱山労働の様子や、労働を終えた後の一時のくつろぎの仕方までを絵筆をふるって描き、深い印象を残す人物である。筑豊は谷川雁、上野英信、森崎和江などの忘れ難い物書き(関連して、後述する水俣の石牟礼道子も)を生んだ土地であり、私はそれらの人びとへの関心の延長上で作兵衛の作品にも画集では出会っていた。

原画にはやはり独特の趣があって、来てよかったと思った。原画展の会場を去る時、ひとりの友人とすれ違った。その彼女が深夜になってメールをくれた。あのあと会場で作品を見ていると、今日は緊急に閉場しますというアナウンスがあったので、そんなことは展覧会案内のホームページにも書いていない、まだ見終えていない、と抗議していると、どこからともなくわらわらと大勢の黒い服の男たちが現われ、見る見るうちに会場を制圧した。そしてその奥から、天皇・皇后の姿が現われた……と。

作兵衛画の鑑賞を突然断ち切られた友人の怒りは当然として、同時に、作兵衛展を見に行くとは、皇后もなかなかやるな――と私は思った。この展覧会の少し前に、ユネスコは作兵衛の作品を世界記憶遺産に指定していた。この年には、チェ・ゲバラが遺した文書(日記、旅行記、ゲリラ戦記など)も、キューバ・ボリビア両政府からの申請で同じ遺産に指定されており、それぞれの国では自国に縁のある文物が記憶遺産に指定されることに〈自民族至上主義的に〉大騒ぎする。日本社会も、描いている主題からして日頃はさして注目もしていない山本作兵衛の作品が、世界的な認知を受けたといって盛り上がっていたとはいえ、このような社会的「底辺」に関わる表現にまで目配りするとは、さすが皇后、と思ったのである。(この展覧会に来るという「見識」を持ち得るのは天皇ではなく皇后だろうという判断には、大方の賛同が得られよう。)

こんなことを思い出したのは、去る10月20日、83歳の誕生日を迎えた皇后の文書が公表されたからである。2ヵ月早く今年の回顧を行なった感のある同文書を読むと、神羅万象に関わる皇后の関心の広さ(あるいは、目配りのよさ)がわかる。震災の被災者や原爆の被害者への言及を見て、「弱者に寄り添う」という表現もメディア上では定番化した。今回は特に、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞したことにも触れており、これには明らかに、核廃絶への取り組みに熱心ではない安倍政権への批判が込められているとの解釈もネット上では散見された。学生時代の彼女は(1934年生まれの世代には珍しいことではないが)、ソ連の詩人、マヤコフスキーやエセーニンの作品を愛読していたという挿話もあって、〈個人としては〉時代精神の優れた体現者なのだろう。

だが、ひとりの人間として――というためには、他の人びととの在り方と隔絶された特権を制度的に享受する立場に立たない、という絶対条件が課せられよう。作兵衛展に出かけるにしても、一般人の鑑賞時間を突然に蹴散らしてでも自分たちの来場が保証されるという特権性に、彼女が聡明で優れた感度の持ち主であれば、気づかぬはずはない。自分たちが外出すれば、厳格極まりない警備体制によって「一般人」が被る多大な迷惑を何千回も現認しているだろうことも、言うを俟たない。「弱者」に対していかに「慈愛に満ちた」言葉を吐こうとも、己の日常は、このように、前者には叶うはずもない、そして人間間の対等・平等な関係性に心を砕くならば自ら持ちたいとも思わないはずの特権に彩られている。その特権は「国家」権力によって担保されている。この「特権」と、自らが放つ温情主義的な「言葉」の落差に、気が狂れるほどの矛盾を感じない秘密を、どう解くか。

凶暴なる国家意志から、まるで切り離されてでもいるかのように浮遊している「慈愛」があるとすれば、それには独特の「役割」が与えられていよう。彼女が幾度も失語症に陥りながらも、皇太子妃と皇后の座を降りようとしなかったのは、自らの特権的な在り方が「日本国家」と「日本民族」に必要だという確信の現われであろう。

高山文彦に『ふたり』と題した著書がある(講談社、2015年)。副題は「皇后美智子と石牟礼道子」である。そのふるまいと「言霊」の力に拠って、後者の「みちこ」及び水俣病患者をして心理的にねじ伏せてしまう、前者の「みちこ」のしたたかさをこそ読み取らなければならない、と私は思った。「国民」の自発的隷従(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)こそが、〈寄生〉階級たる古今東西の君主制が依拠してきている存立根拠に違いない。

(11月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[89]「一日だけの主権者」と「日常生活」批判


『反天皇制運動Alert』第16号(通巻398号、2017年10月10日発行)掲載

テレビのニュース番組を観なくなって久しいことは何度か触れてきた。もともとテレビを買ったのは1983年のことだったから、きわめて遅い。この年の10月、米帝国がカリブ海の島国、グレナダに海兵隊を侵攻させた。社会主義政権の誕生で彼の地の社会情勢が「不穏」となり、在留米国人の「安否」が気遣われたという口実での、海兵隊の侵攻だった。ひどい話だが、「建国」以来の米国史ではありふれたことではあった。悔しいのは、グレナダという国について何のイメージも浮かばないことだった。長崎県の福江島に等しい程度の広さの国だというが、どんな人が住んでいるのだろう、主な生業は何だろう、10万人の人口で成り立つ「国」とはどんなものだろう。そんな小さな国で、米国をして不安に陥れる社会的・政治的情勢とは、どんなものだろう――百科事典でわかることもあったが、土地とひとに関わる映像的なイメージがどうしても必要だと思った。

あれほど拘って「拒否」してきたテレビを買ったのは、その時だった。買ってみてわかったことだが、グレナダのような小さな国の出来事なぞ、何が起ころうと日本のテレビ局は何の関心も示さない。新聞は読んできたのだからわかりそうなものだったが、マスメディアにおける、「世界」から打ち捨てられた地域・国々の扱い方はそういうものなのだ、という当然の、興ざめした結論を改めて得ることとなった。だが、ニュースのほかにもさまざまなテレビ番組に触れるにつれ、現代人の心のありように及ぼすテレビの影響力の決定的な大きさを心底痛感することとなった。

そのことを実感する個人的な経験も1997年にあった。前年末に起こって長引いていた在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件をめぐって、某テレビのニュース番組に二度出演した。生放送ではない、録画撮りで、放映時間はそれぞれわずか一分程度のものだった。私としては、日本人人質の安否報道に純化している日ごろの番組ではまったく聞かれない意見を話したつもりだった。翌夕、事務所近くのラーメン屋へ行くと、顔見知りの兄さんが「夕べ、テレビに出ていましたね」と言って、何か小皿料理をサービスしてくれた。郵便局の局員も、見ましたよと言って、それがさも大変なことであるような話ぶりだった。話したことの内容ではなく、テレビに出たこと自体が、私に対する彼らの視線を変えたもののようだった。恐ろしい媒体だ、と心から思った。

1983年にテレビを買い、その後20年間ほどは、時間さえあれば、ニュース番組以外にもいろいろと観た。とりわけ2002年9月以降の半年くらいの間はテレビに浸った。日朝首脳会談以降の拉致問題報道によって社会がどのようにつくり変えられていくのか。それを見極めなくてはならない。そう考えたからだ。外にいたり電車に乗っていたりするときも、ワイドショー番組での人びとの発言を携帯ラジオの音声モードで聞いていた。恐るべき速度と深度で、この社会が民族排外主義と自己責任免罪主義によって席捲されていく様子が、手に取るように分かった。ワイドショーこそは諸悪の根源、と確信した。この作業を終えて以降、テレビ・ニュースを観ることをほぼ止めた。世界各国の最新のニュース番組を同時通訳で紹介するNHK・BSの「ワールド・ニュース」だけは観る。60年安保のころ、中国文学者・竹内好が「日本の新聞だけを読んでいても、何もわからない。英字新聞を読まなければ」と語った記憶が蘇える。今、テレビに関して、竹内に似た思いを抱く。

国会解散・総選挙・相次ぐ新党結成などの動きが打ち続くなかで、「禁」を破ってテレビのニュース番組やワイドショーをいくつか観た。テレビを重要な媒体だと考えている人びとの脳髄に日々染み渡ってゆく言論がどのような水準のものであるかを、司会者・コメンテーターの言動と番組全体の枠組みを検討して、理解した。15年前との比較においてすら、劣化は著しい。加えて、選挙制度は小選挙区制である。さらに加えて、極右が支配する「自民」「希望」は論外としても、これに対決しているかに見える新党「立憲民主党」の先頭に立つのは、震災・原発事故の際の〈為政者〉としての印象も生々しい政治家たちである。あっちを向いても地獄、こっちを向いても〈小〉地獄。選挙の一定の重要性は否定しないが、「一日だけの主権者」への埋没がこの事態を出来させたと考えれば、私たちが真に大切にしなければならないことは何かが見えてくる。それは、テレビ・ニュースに象徴される、己が「日常生活」への批判なのだ。(10月7日記)

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[88]過去・現在の世界的な文脈の中に東アジア危機を置く


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第15号(通巻397号、2017年9月12日発行)掲載

米韓及び日米合同軍事演習と朝鮮国の核・ミサイル開発をめぐって、朝鮮と米国の政治指導者間で激烈な言葉が飛び交っている。日本の首相や官房長官も、緊張状態を煽るような硬直した言葉のみを発している。

いくつもの過去と現在の事例が頭を過ぎる。1962年10月、キューバに配備されたソ連のミサイル基地をめぐって、米ソ関係が緊張した。若かった私も、新聞を読みながら、核戦争の「現実性」に恐れ戦いた。その時点での妥協は成ったが、それから30年近く経ったころ、米・ソ(のちに露)・キューバの当事者が一堂に会し、当時の問題点を互いに検証し合った。モスクワ再検討会議(1989年)、ハバナ再検討会議(1992年、2002年)である。二度に及ぶハバナ会議には、フィデル・カストロも出席している。当時の米国防長官マクナマラも、三度の会議すべてに出席した。二度目のハバナ会議の時はすでに「反テロ戦争」の真っただ中であり、ブッシュ大統領が主張していたイラクへの先制攻撃論をマクナマラが批判していたことは、思い起こすに値しよう。カストロも「ソ連のミサイル配備の過ち」を認めた。キューバ・ミサイル危機では、「敵」の出方を誤読して、まさに核戦争寸前の事態にまで立ち至っていたことが明らかになった。それが回避されたのは、僥倖に近い偶然の賜物だった。

マクナマラは、ベトナム戦争の一時期の国防長官でもあって、彼は後年のベトナムとの、ベトナム戦争検証会議にも出席している。そこでも彼は、米国の政策の過ちに言及している(『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社、 1997年)。対キューバ政策にせよ、ベトナム戦争にせよ、あれほどの大きな過ちだったのだから、「現役」の時にそれと気づけばよかったものを、そうはいかないらしい。「目覚め」はいつも遅れてやってくるもののようだ。

それにしても、人類の歴史を顧みると、同じ過ちを性懲りもなく繰り返している事実に嫌気がさすが、この種の「検証会議」はその中にあってか細い希望の証しのように思える。かつては真っ向から敵対していた者同士が、「時の経過」に助けられて一堂に会し、過ぎ去った危機の時代を検証し合うからである。そこからは、次代のための貴重な知恵が湧き出ている。それを生かすも殺すも、その証言を知り得ている時代を生きる者の責任だ。

南米コロンビアの現在進行中の例も挙げよう。キューバ革命に刺激を受けて1960年代初頭から武装闘争を続けていたFARC(コロンビア革命軍)が、昨年実現した政府との和平合意に基づいて武器を捨て、合法政党に移行した。略称はFARCのままだが、「人民革命代替勢力」と名を変えた。同党は自動的に、議会に10の議席を得た。彼らが初心を失い、後年は麻薬取引や無暗な暴力行為に走っていたことを思えば、この「妥協的」な条件には驚く。政治風土も違うのだろうが、困難な事態を解決するための、関係者の決然たる意志が感じられる。50年以上に及んだ内戦の経緯を思えば、この「和解・合意」の在り方が示唆するところは深い。朝鮮危機が報じられた9月1日の朝日新聞には「戦争は対話で解決できる/ポピュリズムは差別生む」と題されたコロンビアのサントス大統領との会見記が載っている。「ゲリラに譲歩し過ぎだ」との世論の批判を押し切ったブルジョワ政治家・サントスの思いは強靭だ。「双方の意志で対話し、明確な目標を持てば、武力紛争や戦争は終わらせることができる」。内戦で苦しんだ地方の人びとの多くが和平に賛成し、内戦の被害が少なかった都市部の住民が和平に否定的だったという文言にも頷く。当事者性が希薄な人が、妥協なき強硬路線を主張して、事態をいっそう紛糾させてしまうということは、人間社会にありふれた現象だからだ。

さて、以上の振り返りはすべて、今日の東アジア危機を乗り越えるための参照項として行なってきた。導くべき答は明快なのだが、惜しむらくは、朝鮮を見ても、米国を見ても、日本を見ても、政治・外交を司る者たちの思想と言動の愚かさを思えば、事態は予断を許さない。こんな者たちに政治を委ねてしまっている私たちは、渦中の「検証会議」を想像力で行なって、この状況下で「当事者」として行なうべき言動の質を見極めなければならぬ。

(9月8日記)