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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[84] 韓国大統領選挙を背景にした東アジアの情勢について


『反天皇制運動 Alert 』第11号(通巻393号、2017年5月9日発行)掲載

選挙は水物だ。下手に結果を予測しても、それが覆される可能性は常にある。しかし、現在の韓国大統領選挙の状況を複数のメディア報道を通してみる限り、「共に民主党」の文在寅の優位は動かないように思える。対立候補から「親北左派」とレッテル貼りされている文在寅が大統領になれば、現在の東アジアの政治状況は「劇的に」とまでは言わないが、ゆっくりとした変化を遂げていく可能性がある。朝鮮をめぐる日米中露首脳の言動が相次いで行なわれているいま、その文脈の中に「可能性としての文在寅大統領」の位置を定めてみる作業には、(慎重にも付言するなら、万一それが実現しなかった場合にも、東アジアの政治状況に関わる思考訓練として)何かしらの意味があるだろう。

文在寅は、廬武鉉大統領の側近として太陽政策を推進した経験をもつ。具体化したのは金剛山観光、開城工業団地、京義線と東海線の鉄道・道路連結、離散家族再会などの事業であった。それは、「無謀極まりない北」への融和策として、対立者からの厳しい批判にさらされてきた。あらためて大統領候補として名乗りを上げた文在寅は、ヨリ「現実的」になって、韓国軍の軍事力の強化を図ること、つまり、朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からの一定の離脱志向を伴っているということである。1950年代の朝鮮戦争以来、韓国軍の指揮は在韓米軍が掌握してきた。平時の指揮権こそ1994年に韓国政府に委譲されたものの、2012年に予定されていた有事の指揮権移譲は何度も延期されたまま、現在に至っている。

文在寅は、大統領に就任したならば早急に有事指揮権の韓国政府への委譲を実現すると表明した。それは対米交渉を伴うだろうが、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプには、世界のどこにあっても米国が軍事的・政治的・経済的に君臨し続けることへの執着がない。韓国の軍事力の強化を代償として、在韓米軍の撤収への道が開かれる可能性が生まれる。それは、朝鮮国指導部が要求していることと重なってくる。

朝鮮国・韓国の両国間では激烈な言葉が飛び交っている。とりわけ、朝鮮国からは、あの強固な独裁体制下での下部の人びとの「忠誠心競争」の表われであろう、ヨリ激しい言葉を競い合うような表現が繰り出されている。それでも、底流では、戦火勃発に至らせないための、「国家の面子」を賭けた駆け引きが行なわれていると見るべきだろう。

朝鮮半島をめぐって同時的に進行しているいくつかの事態も整理してみよう。4月27日に行なわれたプーチン+安倍晋三会談において、前者は「少しでも早く6者協議を再開させることだ」と強調した。後者は記者会見で「さらなる挑発行為を自制するよう(北に)働きかけていくことで一致した」ことに重点をおいて、語った。

4月29日、朝鮮は弾道ミサイルの発射実験を行なったが、失敗したと伝えられた。ロンドンにいた安倍首相は「対話のための対話は何の解決にもつながらない」、「挑発行動を繰り返し、非核化に向けた真摯な意思や具体的な行動を全く示していない現状に鑑みれば、(6者協議を)直ちに再開できる状況にない」と断言した。

4月30日、トランプは「若くして父親を亡くし権力を引き継いだ金正恩委員長は、かなりタフな相手とやり取りしながら、やってのけた。頭の切れる人物に違いない」と語った。翌5月1日にも「適切な条件の下でなら、金委員長に会う。名誉なことだ」とまで言った。

さて、5月3日付けの「夕刊フジ」ゴールデンウィーク特別号に載った首相インタビュー記事での発言は次のようなものだ。「トランプの北朝鮮への覚悟は本物か」と問われて「間違いない。すべての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ大統領の姿勢を高く評価する」。「軍事的対応もテーブルの上にあるか」との問いには「まさにすべての選択肢がテーブルの上にある。高度な警戒・監視行動を維持する」と答えている。その「成果」が、ミサイル発射時の東京メトロの一時運行停止や、内閣官房ポータルサイトに「核爆発時の対応の仕方」を注意事項として掲げることなのだろう。

これ以上わたしの言葉を詳しく重ねる必要はないだろう。当事国も超大国も、駆け引きはあっても、朝鮮半島の和平に向けて「暴発」や「偶発的衝突」を回避するための姿勢を一定は示している。その中にあって、平和に向けての姿勢をいっさい示さず、むしろ緊張を煽りたてているのは、2020年の改憲を公言した日本国首相ひとりである。 (5月5日記)

津島佑子さんの思い出に


『津島佑子――土地の記憶、いのちの海』(河出書房新社、2017年1月20日)掲載

津島佑子さんとの付き合いは、アイヌの人たちとの関わり合いから始まった。20世紀末も近づいた1990年代、私は民族・植民地問題に関わる発言と活動を集中的に行なっていた。人類が直面しながら、なかなかうまい解決策を見出し得ないでいる厄介な問題の一つが、そこに凝縮していると考えたからだ。1992年には、「コロンブスの大航海と地理上の発見」の時代(1492年)から数えて500年目という時代的符合に注目して、「500年後のコロンブス裁判」という討議の場をもった。異民族同士の「出会い」が、大量虐殺・征服・植民地支配の始まりを告げることになった、近代の歴史的な大事件だったからだ。(のちに知ったことだが、津島さんもこの年、メキシコの山間部で開かれた国際会議に招かれて出席していたが、そこには各地の先住民が参加していたという。知らずして、画期的ともいえる〈時代の息吹き〉を感じ取る場に、等しく立ち合っていたといえよう)。

翌年の1993年には、その国内的な応用問題として、東京にアイヌ料理店を作る活動をしていた。同じ郷里=北海道釧路の出身で、関東圏に住むアイヌの女性たち(小学校時代の同級生や、その年長者の世代の)から、好きな時に集まり、働くことで生活の糧にもなる同胞の寄り合いの場所を作りたいと相談を受けた。日本=単一民族国家論に固執する当時の日本政府も地方自治体も、アイヌ民族のために特別な予算措置を講じることを忌避していた。北海道なら、行政の手で「生活館」が作られるが、東京ではそうはいかない。業を煮やした彼女らは、草の根の力でそれを実現したいと相談してきたのだ。早速そのためのカンパ活動を開始するために、呼びかけ人をお願いする人の人選を始めた。私がその作品の多くを読んでいて、底流にある「北方志向性」を感じとっていた作家・津島佑子さんは筆頭に挙げたいくらいの方だった。しかも、そのしばらく前にフランスに滞在していた津島さんが、アイヌの神話「カムイ・ユカラ」をフランス語に翻訳する手助けをしたと記したエッセイも読んでいた。未知の人だったが、思い切って手紙を書いた。意外と、あっさりと受けて下さった。

断続的な付き合いが始まったのは、それ以降のことである。私は、南米ボリビアの映画集団との付き合いがあり、その作品を自主上映したり共同制作したりする活動に取り組んできた。集団を主宰するホルヘ・サンヒネス監督は白人エリートの出身だが、アンデスの人種差別社会が自己変革を遂げるためには、先住民族の歴史哲学や自然観を学び、取り入れることが重要だと考えていた。彼が監督する映画では、先住民が主人公を演じ、スクリーンでは先住民の母語が飛び交っていた。物語も、先住民の生活・歴史意識・自然哲学を尊重して組み立てられていることが歴然としていた。それは今でこそ珍しくはないが、1960年代半ばから制作活動をしていた彼らがそうしていたことは、世界的に見ても先駆的なことだった。それは普遍的な問題提起でもあったから、日本での反響も大きかった。あるとき、津島さんならきっとこれらの作品に深い関心を持たれるだろうと思い、上映会にいらしていただいたり、ビデオをお送りしたりしていた。

まもなく、津島さんのエッセイでは、ボリビアの映画を観た感想が綴られるようになった。

2000年代に入って間もなく、福岡市の公的ホールがこのボリビア映画の上映会を企画してくれた。図書館が併設されている施設なので、どなたか作家と一緒に来福し、対談をしてくれないかという提案があった。津島さんに相談し、一泊しなければならないこの福岡行きに同行していただいた。この対談では、興味深い意見の違いが生まれた。知里幸恵編の『アイヌ神謡集』が岩波文庫に入ったのは1978年のことだった。同文庫独自の分類によって、外国文学のジャンルに属することを意味する赤帯が付けられたのだが、それはアイヌ語には日本語との類縁性がないからと編集部が考えたからだった。津島さんは、今までアイヌ民族を差別してきた日本社会が、アイヌ独自の口承文学を日本文学の枠組みから排除していることが、その差別構造の延長上にあると捉えて、心外のようだった。私は、言語上の区別に加えて、次のことを思った。人間(アイヌ)と動物・鳥・魚たちとの親和性を謳う『神謡集』の原形は、知里幸恵が「序」で言うような、「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の大地で」あり、「天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」時代に創造されたのだろう。それは、蝦夷地に松前藩の部分的な支配が及ぶ遙か以前から、ましてやそこが明治維新国家の版図に強制的に組み入れられる以前から、アイヌの人びとの間で語り継がれてきたことを意味しよう。そのような時代に原形が作られた口承文学を、事後的に形成された日本「国」の文学(古典は黄帯、近代以降は緑帯)の枠内に収める理由はない――私はそう考え、岩波文庫編集部の判断は適切だと思うと言った。アイヌ民族およびその文化と歴史を、日本国のそれに包摂することなく、独自のものとして捉える方法に私は荷担していた。

要は、「国」をどう捉えるか、そして「国家社会」の責任をどのような位相で捉えるか、という点に帰結することのように思えた。この意見の「食い違い」が孕む緊張感は、心地よかった。

同じころ、出版の分野でも津島さんと仕事を共にした。津島さんが、他の文学者と共に、海外の文学者との交流に力を入れていたことはよく知られている。とりわけ、女性の文学者との間で。その頃は、「日印作家キャラバン2002」を経た時期で、まず出版したいという希望が出されたのは、インドのベンガル語文学者、モハッシェタ・デビの作品『ドラウパディー』だった。ガヤトリ・チョクロボルティ・スピヴァクが彼女の作品を高く評価することで、世界的な注目を集めつつある作家だということを、私自身初めて知った。幸いにも、よき翻訳者にも恵まれて(臼田雅之+丹羽京子)、しかも津島さんに加えて、同じく文学交流を続けていた松浦理英子、星野智幸両氏の「解説」も付して、この作品を出版することができたのは2003年のことだった(現代企画室刊)。

後年、津島さんは「日本女流文学者会」の責任者を引き受けていたが、会員の合意を得て「女流文学者会」そのものを解散するに際して、それまで交流してきたアジアの女性文学者の中から3人を選び、翻訳書として刊行したいとの相談があった。それは、2011年に、姜英淑(韓国)の『リナ』(吉川凪=訳)、陳雪(台湾)の『橋の上の子ども』(白水紀子=訳)、ムリドゥラー・ガルグ(インドのヒンディー語作家)の『ウッドローズ』(肥塚美和子=訳、いずれも現代企画室刊)として実現できた。原著者との翻訳権契約・翻訳・編集・刊行・関係者への発送などの諸過程で、津島さんとは何度も連絡を取って、すすめた。東アジアから南アジアにかけての、女性作家を主軸とした文学的な鼓動が伝わってきて、私にとっても忘れがたい企画となった。

この同じ年の「3・11」には、東北で大地震とその結果としての福島原発事故が発生した。責任省庁としての経済産業省を包囲して、原発の全面的な即時停止を求める行動が何度も取り組まれた。或る夜、その包囲行動で、偶然にも、津島さんと隣同士になったことがあった。その夜語り合った「不安」を、津島さんは「半減期を祝って」(初出、「群像」2016年3月号)と題した、見事な掌編に形象化した。この作品は絶筆となった。

最後にお会いしたのは、2014年5月だった。連休を挟んだ2週間にわたって、私たちは、ボリビア映画集団の全作品(長編11作品、短編2作品)の回顧上映を、東京・新宿のミニシアターで行なった。一夜、上映後の対談に出ていただいた。先住民族の存在が問いかけてくる諸問題について、多面的な光を当てる内容になったと思う。津島さんが、突然のように亡くなってしばらくして、津島さんの作品の英語訳をいくつか担当されたというジェラルディン・ハーコートさんが連絡をくれた。ユーチューブには、ボリビア映画上映時の津島さんと私の対談映像が流れているが、そこには津島さんの思いが非常によく表われている、津島佑子という作家をヨリ広く世界に知らしめるために、対話の部分を英語訳して流したいという希望を言ってこられた。

数ヵ月後、それは実現した。→https://www.youtube.com/watch?v=83pIj8FL1RY

そのしばらく前に、津島さんの最後のエッセイ集『夢の歌から』(インスクリプト)と遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社)が私の元に届いた。津島さんの晩年の小説世界は、地球上のさまざまな先住民族の神話や生活に着目することで、時空を超えた広がりを見せていた。遺作『ジャッカ・ドフニ』はそれをさらに徹底させて、オホーツク海、日本海、南シナ海、ジャワ海を舞台に、17世紀から21世紀にかけての物語が雄大に展開されている。時間と空間の規範から解放された自由自在さを得たこの作品を読む私たちは、現実には、この21世紀に(!)狭くも〈国家〉と〈民族〉を拠り所にして〈排外〉と〈不寛容〉の精神を声高に叫ぶ者たちが広く社会に浸透した時代を生きている。

「マルスの歌」の高唱があちらこちらから聞こえてくる時代状況の中で、私は、類い稀なこの作家の「文学的抵抗」の証としての作品を繰り返し読み、自らの中でそれをさらに豊かなものに育てたいと思う。

伝承民話に基づいたスペクタクル映像がもつ解放感


映画『いぬむこいり』劇場用パンフレット(ドッグシュガー、2017年2月24日発行)掲載

情報化社会のいま、ましてや、インターネットがここまで私たちの日常に入り込んでいる以上、事前情報をほとんどもたないままに一本の映画に出会うことは難しい。旧知の映画プロデューサー小林三四郎氏から連絡があり、氏の友人が4時間を超える大作を撮ったので、ぜひ観てほしい、という。失礼ながら、片嶋一貴という監督の名は私には初耳で、したがって、その旧作も一つとして観ていない。忙しい時期で、ネット検索をする時間もないままに、試写会場へ出かけた。

ロビーで監督に会い、すぐ紹介されたのは、内田春菊さん。『私たちは繁殖している』は愛読していたし、私が勤める出版社が『マッチョ』に関する本を出した時には、(別のスタッフから)解説をお願いしてもいる。だが、内田さんの「全体像」を知っているわけではないので、10人もいない試写会の観客の中に、内田さんという「特異な」人物がいることに、「フシギ・ワールド」に入り込むような胸騒ぎをおぼえる。

入り口で、簡潔な映画パンフレットを渡された。上映開始まで、それをちらちら眺める。いきなり、有森也実が主演の映画と知る。有森さんは、私が、その作品をわずかしか観ていないにもかかわらず、「秘かに」フアンだと自覚している女優だ。胸の鼓動が高まる。他にも、ベンガル、石橋蓮司、柄本明、韓英恵、そして、PANTA、緑魔子までもが出演しているらしい。これは、あやしい。こんな「怪優」ばかりを集めて、いったいどんな映画なんだと、あらためて胸は騒ぐのだった。

果たして結果は?――ストーリーについては、別な原稿が用意されているだろうから、ここでは触れない。誰もが知る伝承民話「犬婿入り」が全編を貫くモチーフとして設定され、荒唐無稽ともいうべき、破天荒な物語が展開する。途中休憩を挟む4時間の長尺だが、飽きも長さも感じさせないおもしろさだ。「荒唐無稽」とか「破天荒」とか書きながら、ふと立ち止まる。この表現でははみ出してしまう何かが、スクリーン上には蠢いているのだ。イモレ島を含めて舞台となっているいくつもの架空の土地で積み重ねられてきた重層的な歴史――それは、言ってみれば、人間がどの地域にあっても繰り広げてきた歴史ということなのだが――への眼差しによって裏打ちされているといえようか。「重層的な歴史」と書いたからといって、それは常に重々しいものとして立ち現れるのではない。それは、時にいかさまで、時にやくざで、時にエロティックで、時におふざけで、時に卑小で、時に暗鬱で、時にユーモラスで、時に権謀術策に満ちていて、要するに、人間の世界に〈あった〉、そして〈ある〉すべての要素が盛り込まれているのだ。その点を映画はよく描いていて、エンターテインメントとしても楽しめる作品として成立している、と言い切ってしまってよいだろうか?

私の考えでは、ただそれだけをこの映画に求めた者は裏切られよう。破天荒でいて、緻密な歴史意識に裏づけられたこの映画は、背景にちりばめられたいくつものエピソードを読み解いていけば、舞台は、地球上のどこであってもよいのではなく、東アジアに浮かぶ多島海社会〈ヤポネシア〉以外ではあり得ないことが知れよう。映画製作チームは、あらゆる意味で奇怪なこの社会で積み重ねられてきた歴史と現実に憤り、絶望し、それでも新たな夢かユートピアを信じて、この異数の物語を紡いでいったのだ。歴史過程や現実に無批判的な、凡百の映画との決定的な違いが、ここで生まれた。

映画に見入りながら頭に浮かんだのは、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だった。あるいは、もっと広く、彼と同世代のラテンアメリカの作家たちが切り開いた魔術的リアリズムの世界を思い起こした、といってもよい。それらもまた、想像力と歴史および現実認識の力とが、緊張感を孕みつつ拮抗した地点で生まれた優れた作品群だった。片嶋監督は大胆にも、スペクタクル映像によって、マルケスたちの小説世界に伍するつもりだったのだろうか? その壮大なる意図を聴いてみたい。

「犬婿入り」といういわば神話的な世界に始まり、波瀾万丈の人生を送ったヒロインが最後には犬の貌をもつ赤子を生んで終わることで、観る者の想像力は広く、深く、解き放たれるように思える。この解放感を手放す(=忘れる)ことなく、現実の歴史過程に相渉りたいものだと、あらためて私は思った。

その後わたしは、片嶋監督の旧作『アジアの純真』(2009年)と『たとえば檸檬』(2012年)をDVDで観る機会に恵まれた。これまで片嶋ワールドを知らなかったことを心底悔いた。「拉致」問題への発言を続けてきている私のアンテナが、『アジアの純真』をキャッチできていなかったことには、とりわけ〈屈辱〉をすら感じた。

かくして、「遅れてきた老年」である私は、今後は、片嶋監督の――否、映画は、異種の労働に従事する多様な人びとの協働作業によってはじめて成立する、集団的な総合芸術であるから――、〈片嶋組〉の作品の「追っかけ」になろうと心に決めた。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[83]現政権支持率の「高さ」の背景に、何があるのか


『反天皇制運動 Alert』第10号(通巻392号、2017年4月4日発行)掲載

私としたことが、少なからず驚いた。3月末に行なわれた世論調査の結果に対して、である。ふだんから、その結果に大幅に依拠した発言は控えてはいる。設問の仕方が明快ではなく、信頼に足る調査結果が果たして生まれるものなのか、との疑念が消えないからである。だが、例えば、内閣支持率の場合には、ある程度の「現実」がそこには反映されていて、時の政権も「20%を割ったら、もたない」などといってその数字を気にかけていることが、過去の事例からわかる。

現政権の支持率の「高さ」は、私の〈狭い〉人間関係の中での周辺を思えば不可思議で、同時に、後述するこの四半世紀の社会・政治状況を思えば、心ならずも得心が行くところはあった。しかし、今回は違うだろう。去る3月23日、いわゆる森友学園問題をめぐって、衆参両院の予算委員会で籠池学園理事長の証人喚問が行なわれたが、そこで発せられた証言を見聞きした直後の世論調査では、いくらなんでも、内閣支持率は急激に落ちるだろう。確かに「敵失」によってではあっても、この最悪の首相を早晩辞任に追い込む一里塚になるかもしれない――そんな思いが、ないではなかった。

もちろん事が終わったわけではなく継続中だから諦めるわけではないとしても、その段階での私の見立ては間違った。甘い読みだった。共同通信が、籠池証言の2日後に行なった世論調査での内閣支持率は確かに下がったが、それでもなお50%前後を維持している。森友学園問題についての首相の答弁が十分ではないと考えている人びとの率が70~80%であっても、内閣支持率になると「復調」するのだ。一昨年の戦争法案の時も同じだった。この政権に限っては、なぜ、このような現象が起こるのだろう? その人格・識見において「敵ながらあっぱれ」と思わせるどころか、歴代の保守政治家と並べてみても劣悪極まりない人物なのに。

世代交代によって自民党が変質したとか、民主党政権「失敗」の印象が強く代わり得る受け皿がないなどの意見を筆頭として、さまざまな見解が飛びかっている。それぞれ一理はあろうが、ここでは改めて、自分たちの足元に戻りたい。私たちが、戦後民主主義者であれ、リベラルであれ、左翼であれ、社会の在り方を変革しようとする、総体としての「私たち」の敗北状況のゆえにこそ「現在」があるのだという事実を噛み締めるために。

現首相の支持母体であり、森友学園問題の背後に見え隠れする「日本会議」についてこのかん刊行された複数の書物を読むと、彼らは周到な準備期間を経て、自らの潮流をこの社会の中に根づかせてきたことが知れる。結成されたのは1997年だが、これが胎動し始めた決定的な起点は、それを遡ること6~7年目の1990年前後だと振り返ることができよう。1989年から1991年にかけて、東欧・ソ連の社会主義圏一党独裁体制が次々と崩壊した。実感をもって思い起こすことができるが、あの時代、公然とあるいは暗黙の裡に、左翼からの転向現象が相次いだ。書店の棚からはマルクス主義の書物が、大学からはマルクス経済学の講座が消えた。ソ連圏の実態については、はるか以前から数多くの批判が、外部および内部から積み重ねられてきていたが、共産党が独占してきた非公開文書の流出によって、社会主義の悲惨な内実がいっそう明らかになった。「ナチズムは断罪されるのに、なぜ共産主義はされないのか」――この言葉が、端的に、時代状況を言い表していた。共産主義が掲げていた「理想主義」も「夢」も地に堕ちた。「反左翼」が「時代の潮流」となった。日本会議は、この「時を掴んだ」のだ。

この時期の東アジアの状況は特異だ。韓国では軍事独裁体制が倒れ、言論の自由を獲得した人びとの声が溢れ出たが、その一つは、日本帝国のかつての植民地支配が遺したままの傷跡を告発することに向かった。北朝鮮と中国からも、日本の植民地主義と侵略戦争をめぐる告発が次々と発せられた。これこそ、歴史修正主義潮流である日本会議の路線に真っ向から対立するものだった。日本ナショナリストたちの反応は捻じれたものとなった。「いつまで過去のことを言い募るのか」「左翼が負けたと思ったら、今度は植民地問題か」――この「気分」は、状況的にいって社会に広く浸透していた。「難癖をつける」隣国に負けるな、強く当たれ! それを政治面で表象するのが安倍晋三である。

安倍の時代は早晩終わるにしても、社会にはこの「気分」が根づいたままだ。いったん根を張ってしまったこれとのたたかいが現在進行中であり、今後も長く続くのだ。

(4月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[82]スキャンダルの背後で進行する事態に目を凝らす


『反天皇制運動 Alert』第9号(通巻391号、2017年3月7日発行)掲載

「ことばが壊れた」とか、「崩れゆくことば」などという表現を私が使ったのは、 21世紀に入って間もないころだった。世界的には、「9・11」に続く「反テロ戦争」の正当化を図る米国政府の言動の支離滅裂さと、にも拘わらず各国政府や主要メディアがこれに追随する状況が念頭にあった。国内的には、いわゆる「小泉語」の問題があった。首相に就任した小泉純一郎が、従来の保守政治家とまったく異質の断定口調の〈爽快さ〉によって支持率を上げてゆく事態が進行していた。論理に基づく説明はいっさいなく、その意味では支離滅裂さの極みというべきものが「小泉語」の本質には、あった。

それから十数年が経った。今や、政治の世界では「ポスト真実」などということばが大手を振って罷り通っている。「事実に基づかない政治」「政策路線や客観的な事実より個人的な感情に根差した政治家の物言いが重視され、それによって世論が形成される」時代を指しているのだという。「小泉語」はその典型ではないか、私たちはすでにそんな時代を体験してきたのだ、と言っておきたい思いがする。世界的に見て、この状況が加速されたのではあろう。インターネット上に「贋情報」や「贋ニュース」が蔓延し、それがひとつの「世論」を形成する場合もある現代の〈病〉が浮かび上がってくる用語である。

この状況をもっとも象徴的に代表し得る為政者として、世界に先駆けて二国間会談を行なった米日両国首脳を挙げることができよう。彼方米国では、さらに、「オルタナ・ファクト(もうひとつの事実)」なることばすら使われている。誰の目から見ても明らかな嘘を言い、それを指摘されると、「嘘じゃない、オルタナ・ファクトだ」と強弁するのである。裸の「王」ひとりが言うのではなく周りの者たちも直ちに唱和していく点に、〈政治〉の世界の恐ろしさが見られる。

だが、スキャンダラスなこの種の話題にのみ集中して、米国で進行する新旧支配層の闘争を見逃すわけにはいかない。2月下旬、米国と北朝鮮は、中国の協力を得て、核問題をめぐる非公式会談を行なう準備を進めていた。北朝鮮のミサイル発射、金正男殺害事件(その真相はまだ不明だ)によっても、会談のための準備は中絶されなかった。だが、最終段階で、米国は朝鮮代表団へのビザ発給を見送った。米朝対話から和平へと進むことを快く思わない軍産複合体が米国には存在する。政権内部の抗争があったのだろう。トランプ「人気」は、既存秩序の象徴たるオバマやヒラリー・クリントン(それらを支える軍産複合体も含まれている)と対決しているかに見える点にある。水面下で進行する両者のせめぎ合いにこそ注目すべきだと思う。権力政治家は、スキャンダルの一つや二つで消え去りゆくほどやわな者ではないことは、長年心ならずも自民党政治を見てきた私たちには自明のことだ。

さて、此方にも、米朝対話の挫折を喜ぶ者たちがいる。安倍政権が現在の対米軍協力強化・軍拡・武器輸出推進などの路線を追求するためには、北朝鮮とは恒久的に対立していることが望ましい。事実、対立関係が見た目に高まれば高まるほどに、時の政権の支持率も増す。「拉致問題の解決こそ自らの使命だ」と高言してきた安倍が、被害者家族会がようやくにして苛立ちを示すほどにその努力を怠ってきたことには、彼なりの理由がある。

その安倍も、いま、森友学園をめぐるスキャンダルに見舞われている。政治家と官僚、さらには日本会議に巣食う連中の本質が透けて見えてくる「醜聞」ではある。国有地売買の背景には、民主党鳩山政権から菅政権への移行期に財務省官僚が立案した『「新成長戦略」における国有財産の有効活用』(2010年6月18日、財務省)と『新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~』(同日、閣議決定)がある。新自由主義的な価値観に貫かれたこの官僚路線は、反官僚の姿勢をむき出しにした民主党政権の「失敗」を経て、2012年に第2次安倍政権が復活した段階で、利害の合致する政治家を見出したというべきだろう。この問題からは、どこから見ても、現代日本をまるごと象徴する腐臭が漂う。徹底した追及がなされるべきだが、同時に、私は思う。秘密保護法、戦争法案、南スーダンへの自衛隊の派兵などの政治路線における攻防で「勝利」できなかった私たちの現実を忘れまい、と。誰であろうとスキャンダルによる「窮地」や「失墜」は、いわばオウンゴールだ。そこで、私たちの力が、本質的に、増すわけではない。(3月4日記)

【追記】文中で触れた「成長戦略」文書のことは、ATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)のメーリングリストに投稿されたIさんの文章から教えてもらった。末尾に、リンク先を記します。

なお、ATTACのHPは以下です。

http://www.jca.apc.org/attac-jp/japanese/

◎「新成長戦略」における国有財産の有効活用

平成22年6月18日 財務省

http://www.mof.go.jp/national_property/topics/arikata/

◎新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~(平成22年6月18日)

http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[81]トランプ政権下の米国の「階級闘争」の行方


『反天皇制運動 Alert 』第8号(通巻390号、2017年2月7日発行)掲載

就任式から2週間、米国新大統領トランプが繰り出す矢継ぎ早の新たな政策路線に、世界じゅうの関心が集中している。この超大国の、経済・軍事・外交政策がどう展開されるかによって、世界の各地域は確かに大きな影響を受けざるを得ない側面を持つのだから、関心と賛否の論議が集中するのは、必然的とも言える。個人的には、私は、(とりわけ)米日首脳がまき散らす言葉に一喜一憂することなく、自らがなすべきことを日々こなしていきたいと思う者だが、それでも一定の注意は払わざるを得ない。

トランプは、米国の外に工場が流出したことで「取り残された米国人労働者」や「貧困の中に閉じ込められた母子たち」とは対照的に、ひとり栄えるものの象徴として「首都=ワシントン」を挙げた。そこに巣食う小さなエリート集団のみが政府からの恩恵にあずかっているとし、それを「既得権層」と呼んだ。就任演説を貫くトーンから判断するなら、現代資本主義の権化たる「不動産王」=トランプは、まるで、労働者階級のために身を粉にして働くと言っているかのようである。叩き上げの「新興成金」が、伝統的な支配構造に一矢を報いているかに見えるからこそ、この状況が生まれているという側面を念頭におかなければならないと思える。

具体的な政策をみてみよう。米国労働者第一主義(ファースト)の立場からすると、労働力コストなどが廉価であることからメキシコに製造業の生産拠点を奪われ、国内雇用を激減させる要因となった北米自由貿易協定(NAFTA、スペイン語略称TLC)も、トランプにとっては攻撃の的となる。協定相手国であるメキシコとカナダとの間での、離脱のための再交渉の日程も上がっている。思い起こしてもみよう。メキシコ南東部の先住民族解放組織=サパティスタ民族解放軍は、この協定は3国間の関税障壁をなくすことで、大規模集約農業で生産される米国産の農作物にメキシコ市場が席捲され、耕すべき土地も外資の意のままに切り売りされると主張して、その発効に抵抗・抗議する武装蜂起を、1994年1月1日に行なった。発効後15年目の2008年には3国間の関税が全面的に撤廃され、予想通りにメキシコ市場には米国産農産物が押し寄せ、メキシコ農業は荒廃し、農で生きる手立てを失った農民は、仕事があり得る首都メキシコ市へ、そこでもだめならリオ・グランデ河を超えて、米国へと「流れゆく」ほかはなくなった。

グローバリズムを批判し、これに反対するという意味では、トランプとサパティスタは、奇妙にも、一致点を持つかに見える。だが、子細に見るなら、他国の民衆をねじ伏せる経済力を持つ米国の利益第一主義を掲げるトランプと、一般的にいって多国籍企業の利益に基づいてこそ自由貿易協定の推進が企図され、それは経済的な弱小国に大きな不利益をもたらすという、事態の本質に注目したサパティスタとは、立脚点が根本的に異なっていると言わなければならない。

トランプの反グローバリズムの主張を色濃く彩る排外主義的本質は、メキシコとの国境線をすべて壁で塞ぐという方針にも如実に表れている。総距離3150キロ、うち1050キロにはすでにフェンスがつくられている。1000万人を超えるというメキシコからの「不法」移民に「米国人労働者の職が奪われて」おり、彼らは「犯罪者」や「麻薬密売人」だから国境を閉鎖して「不法」侵入を防ぐというトランプの方針は、米国白人が持つ排外主義的な感情を巧みにくすぐっている。今はご都合主義的にも反グローバリズムの立場に立つとはいえ、資本制社会の申し子というべきトランプは、米社会に麻薬の最大需要があるからこそ供給がなされているという「市場原理」を忘却して、メキシコにすべての罪をなすりつけようとしている。

歴史的経緯や論理を無視して「アメリカ・ファースト」という感情に基づく発想でよしとするトランプは、今後も「100日行動計画」を次々と打ち出してくるだろう。「予測が不能な」その路線如何では、世界は〈自滅〉の崖っぷちを歩むことになるのかもしれぬ。私は、米国の外交路線は「トランプ以前」とて決してよいものではなかったという立場から、新旧支配層の対立・矛盾が深まるであろう米国の「階級闘争」の行方を注視したい。

(2月5日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[80]何よりも肝要なことは「アジアとの和解」だ


『反天皇制運動 Alert』第7号(通巻389号、2017年1月10日発行)掲載

2012年に再登場して以降の安倍政権の官邸周辺には、よほどの知恵者がブレーンとしているように思える。世論なるものの気まぐれな動きを、蓄積された経験智に基づいて的確に察知でき、これに対処する方法に長け、同時にマスメディア対策もゆめゆめ怠ることなく、効果的に行ない得る複数の人物が……。このように言う場合、もちろん、働きかけられる「世論」と「メディア」の側にも、「自発的に隷従して」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)それを受け入れるという意味での、哀しい〈相互作用〉が生まれているのだという事実を大急ぎで付け加えておかなければならない。

2016年12月、ロシア大統領をわざわざ首相の地元の温泉に招いて会談するという宣伝がなされていた時期には、「北方諸島」の帰属問題で日本に有利な結果が生まれそうだとの観測がしきりになされた。例えば「二島返還」という具体的な形で。その「成果」の余勢を駆って、首相は年末あるいは年始の衆議院解散に踏み切るのでは、との予測すらなされていた。その前段において、この展望は甘かったという感触が得られてすぐ、日露首脳会談の展望をめぐる首相の口は、重くかつ慎重になった。間もなく、首相はロシア大統領との会談を終えた半月後の年末ギリギリにハワイの真珠湾を米国大統領ともども訪れるというニュースが大々的に報道された。官邸ブレーンは、「見事な」までの、首相スケジュール調整機能を発揮した。

世論とメディアは、首脳会談なるものにも弱い、あるいは、甘い。会談の無内容さは、世界の二大超大国、ロシアと米国の大統領と次々と渉り合っている「われらが宰相」――というパフォーマンス効果によって打ち消される。16年5月の米国大統領の広島訪問を思い起せばよい。主眼は、大統領が広島訪問の直前に行なった岩国の米軍海兵隊基地での兵士激励であり、その付け足しのように行なわれた、一時間にも満たない広島行きではなかった。せめても、岩国米軍基地と広島への訪問が「セット」で行なわれた事実の意味を問う報道や発言がもっと多くなされるべきだったが、それは極端に少なかった。にもかかわらず、大統領の広島訪問とあの空疎なメッセージは、大きな効果を発揮した。日本国首相にとっても。大統領が苦心して折った折り鶴を持参して原爆資料館に贈呈したなどという無意味な行為が、感傷的に報道されたりもした。8年間の任期中にこの大統領が、核廃絶のために行なった具体的な政策の質と総量が同時に検証報道されたなら、広島行きのパフォーマンスの偽善性が明らかになっただろう。この点に関しては、在日の米国詩人アーサー・ビナードも、峠三吉『原爆詩集』(岩波文庫、2016年)に付された解説で的確に論じている。

16年末、真珠湾を訪れた日本の首相も、「不戦の誓い」と「日米の和解の力」を強調する演説を行なった。これを大々的に報道した主要メディアの中には、訪問を一定評価しつつも、「アジアへの視点」の欠如を指摘するものもあった。だが、「不戦の誓い」は、この政権が続けている諸政策と沖縄への態度に照らせば、化けの皮がすぐに剝れる性質のものであり、「日米和解」に至っては、戦後日本の米国への「自発的隷従」が続けられたことで夙に実現しているというのが、冷めた一般的な見方であろう。したがって、後者の「アジアへの視点」の欠如こそが強調されなければならなかった。例えば、12月8日(日本時間)真珠湾攻撃の一時間前には、日本陸軍がマレー半島への上陸作戦を開始していた、という史実への言及がなされるだけで、「日米戦争」という狭い枠組みは崩れ、短く見ても1931年の日本軍の中国侵略に始まるアジア・太平洋戦争の全体像に迫る視点が生まれるだろう。中国侵略戦争が行き詰まることで、日本はフランス、英国、オランダなどの植民地が居並ぶ東南アジアへの侵攻を国策の中心に据えていたのだから、真珠湾攻撃に先立って行なわれたマレー侵攻の意図は、明らかなのだ。アジアと向き合うことを、歴史的にも現在的にも無視する常習犯=現日本国首相は、にもかかわらず「地球儀を俯瞰する外交」などとしたり顔で語っている。首相の真珠湾訪問と同じ日、韓国は釜山の日本総領事館前に「慰安婦」を象徴する少女像が設置されたことは(これには論ずべき多様な問題が孕まれているとはいえ)、日本がもっとも肝要な「アジアとの和解」を実現できていないことを示している。この事実を改めて心に刻んで、一年を送りたい。(1月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)

死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も12回目――第12回「大道寺幸子・赤堀政夫基金 死刑囚表現展」応募作品に触れて


『出版ニュース』2016年11月中旬号掲載

刊行されたばかりの『年報・死刑廃止2016』(インパクト出版会)の「編集後記」の末尾には「本誌も通巻20号、死刑が廃止にできず続刊することが悔しい。」とある。これに倣えば、「死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も第12回目。世界に存在する国家社会のおよそ3分の2に当たる140ヵ国近くでは死刑が廃止されているのに、私たちはいつまでこれを続けることになるのだろうかと慨嘆する」とでもいうことになるだろうか。同時に、次のことも思い出す。2014年秋、東京・渋谷で開いた「死刑囚絵画展」を観に来てくれた友人が言った。「ここまでの作品が寄せられているのだから、もう、辞められないね」。そう、死刑制度は無くしたい。同時に、実際に存在している死刑囚の人びとがここまで「表現」に懸けている現実がつくり出されている以上、少なくとも制度が続いている間は、表現展を辞めるわけにもいかない。私たちの多くもずいぶんと高齢になってしまい、どう継続できるかが大きな問題なのだが――そんな思いを抱きながら、去る9月中旬に開かれた選考会議に臨んだ。

加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、香山リカ、坂上香、そして私、の七人の選考委員全員が出席した。運営会のスタッフも10人ほどが傍聴している。

すでに私の頭に沁み込んでいた句があった。作品としてとりわけよいとは言えないが、死刑囚が外部に向かってさまざまな形で表現している現実を、ずばり(少しユーモラスな形で)言い当てていると思えたのである。

〇番区まるで作家の養成所

拘置所で収用者番号の末尾にゼロがつくのは重罪被告で、死刑囚が多い。そこから、それらの人びとが収容されている番区を「〇番区」と呼ぶことになったようだ。思えば、選考委員の加賀さんには『ゼロ番区の囚人』と題した作品がある。加賀さんは東京拘置所の医官を勤めていた時期があるから、その時の経験を作品化したのである。確かに、死刑囚表現展がなされる以前から、ゼロ番区からは、多くの表現者が生まれ出た。正田昭、島秋人、平沢貞通、永山則夫……。この句の作者は、そのことの「意味」を、あらためて確かめているように思える。

作者とは、兼岩幸男さんである。常連の応募者だが、昨年時事川柳というジャンルを開拓して以来、その表現に新しい風が吹き込んできた感じがする。掲句同様、ユーモアを交えて、死刑囚である自分自身をも対象化している句が印象に残る。

死刑囚それでも続けるこのやる気

就活と婚活してる死刑囚

拘置所へ拉致に来るのをじっと待つ

もちろん、昨年同様、社会の現実に向き合った作品にもみるべきものはある。

マスメディア不倫で騒ぐ下世話ぶり

選挙前基地の和解で厚化粧

日々の情報源は、半日遅れの新聞とラジオ・ニュースのみ、それでも、見える人には、事態の本質が見える。溢れかえる情報に呑み込まれて、情報の軽重を見失いがちな一般社会に生きる私たちに内省を迫る。ただし、他の選者の評にもあったが、直截的な社会句には、俗情に阿る雰囲気の句もあって、それは私も採らない。この人独自の世界を、さらに未知の領域に向けて切り拓いていくことを、切に望みたい。

高井空さんの「三つの選択し」は、ショートショートの創作。確定死刑囚が突然理由も知らされることもなく、航空機でどこかへ移送される。着いたところは、海外の戦場だった。自衛隊も含めて憲法9条の縛りで戦争には参加できない。その点「働きもせず、税金も納めず、ただで飯を食って、どうせ殺す死刑囚であれば」戦力になり得る、しかも「奴らは、既に、人を殺した経験がある」。国内的には、死刑囚・某の死刑が執行された、ということにしておけばよい――動員した側の言い分はこうだ。そんな世界に抛り込まれた死刑囚の心象がクールに描かれてゆく。確定死刑囚ならではの、迫りくる「戦争の時代への危機感」が吐露されていて、緊張した。後述する響野湾子さんの短歌にも、こんなものがあった。

裁判員制度のやふに 赤紙がいつか来るはず確定囚にも

獄にある確定死刑囚は、独特の嗅覚をもって、獄外で――つまり自らの手が及ばぬ世界で――進行する政治・社会状況を読み取っているのかもしれぬ。時代に対するこの危機意識には、獄壁を超えて連帯したいと、心から思った。高井さんが、別な名で応募された従来の作品については(とりわけ、自らがなした行為を振り返った作品については、読む者の胸に響くものが少ないがゆえに)ずいぶんと酷評した記憶があるが、この作品からは、今までになかった地点に踏み出そうとしている心意気を感じ取った。書き続けてほしい。

さて、常連の響野湾子さんである。短歌「蒼きオブジェ」575首、俳句「花リンゴ」250句、書き散ら詩「透明な一部」から成っていて、今年も多作である(「透明な一部」は、本名の庄子幸一名も連記した応募である)。短歌の冒頭に曰く「執行の歌が八割を占めています 意識的に詠んでいます 死刑囚徒だから 死刑囚の歌を詠わねば 誰れが?」。選者である私たちが、死刑執行をテーマにした作品が多く、重いとか息苦しいとかいう感想を漏らしたことへの応答だろうか。そう、言われる通りです、というしかない。この作品を読む前に、私は拘置所で或る死刑囚と面会した。彼はぽつりといった。「他人を殺めた者でなければ分からないことがある」。ふたりは、死刑囚としての同じ心境を、別々のことばで語っているように思える。そこで生まれるのは、贖罪の歌(句)である。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり

痛みなくばひと日たりとも生きられぬ壁に頭を打ちて耐えをり

生活と言へぬ暗さの中に生き贖罪(ルビ:つみ)てふ見へぬものと闘ふ

贖罪記書けず閉ず日や有時雨

短歌集の表題「蒼きオブジェ」に見られるように、「蒼」をモチーフとした作品に佳作が

目立った。

溜息は一夜で満ちる独房は 海より蒼し 私は海月

海月より蒼き体を持つ我れは 独房(ルビ:へや)で発光しつつ狂(ルビ:ふ)れゆく

絵心の無き性なれど この部屋を歌で染めあぐ 蒼瑞々しく

主題を絞り込んだ時の、表現の凝縮度・密度の高さを感じた。他に、私には以下の歌が強く印象に残った。

いつからか夜に知らぬ人現われて 一刷毛闇を我に塗りゆく

責任を被る狂気の無き人の 筆名の文学に色見えてこず

井上孝紘、北村孝、北村真美さんの作品は、もちろん、個別に独立したものとして読まなければならないのだが、関わりを問われた共通の事件が表現の背後に色濃く漂っていて、関連づけて読むよう誘われる。弟(孝紘さん)は兄(孝さん)と母親(真美さん)の無実を主張する文章を寄せており、孝さんは無実を訴える。真美さんはその点には触れることなく、10年の歳月、同じ拘置所の「同じ空間に居た」女性死刑囚が処刑された日のことを書く。「死刑囚が、空気に消える時、そこに涙は無い。死刑囚が、消える時、何も変わらない一日となる」。弟は、捜査員の誘導で、罪なき兄と母を「共犯」に仕立て上げる調書を取られたことを悔やむ。その心境を、こう詠む。

西仰ぎ 見えろと雲に 兄の笑顔(ルビ:かお)

各人の「表現」が今後いかにして事件の「闇」に肉迫してゆけるか。刮目して、待ちたい。

昨年、初の応募で「期待賞」を受賞した高田和三郎さんが、詩・詞編とエッセイ「若き日の回想」を寄せられた。詩篇もまた、利根川の支流に近い故郷を思う慕情に溢れている。エッセイの末尾には「この拙文は自分が少年であった当事に経験した非生産的な生活状況について、恥を忍びながら書かせていただいた」とある。身体的な障がいをもつことによって「非生産的」と見なした世間の目のことを言っているのだろうが、それは、今回の相模原事件と二重写しになって見える。その意味で、社会の変わらなさに心が塞ぐ。ただ、もっと書き込んでいただきたい。今回で言えば、郷里が近い石川三四郎に触れた一節があるが、思想史上に独自で重要な位置を占めるこのアナキスト思想家に、名前だけ触れて済ませるのは惜しい。なぜ、名前が心に残っているのか。郷里の大人たちがどんな言葉遣いで石川三四郎のことを語っていたから、高田少年の頭にその名が刻み込まれたのか。掘り下げるべき点は、多々あるように思われる。

さて、数年前、もやしや大根の姿を、黒地を背景に絶妙に描いた絵が忘れられない高橋和利さんは、今回は大長編『凸凹三人組』を応募された。自らの少年時代の思い出の記である。几帳面な方なのだろう、幼い頃からつけていた膨大な日記を、いったん差し入れてもらい、それを基にしながらこの回想記を記したもののようだ。だから、戦時中の焼夷弾の作り方など、記述は詳細を極めて、面白い。戦後も、子どもたちの要求によって男女共学が実現する過程など、今は何かと分が悪い「戦後民主主義」が生き生きと機能していた時代の息吹を伝えて、貴重だ。いささか冗漫にすぎる箇所はあり、唐突に幼い少女の腐乱死体が出てきて終わるエンディングにも不満は残る。推敲を重ねれば、戦中・戦後の一時代の貴重な証言文学足り得よう。添えられた挿絵がよい。あのもやしや大根を描いた才は、高橋さんの中に根づいている。

若い千葉祐太郎さんは、無題の作品を寄せた。四行か五行を一区切りとする詩文のような文章が続く。難解な言葉を使い、メタファーも一筋縄ではいかない。自らが裁かれた裁判の様子と処刑のシーンを描いているらしいことはわかる。供述調書の作られ方に納得できないものを感じ、自らがなしたことへの悔悟の気持ちも綴られている。本人も難解すぎると思ったのか、後日かみ砕いた解説文が送られてきた。こんなにわかりやすい文章も書ける人が、あえて選んだ「詩的難解さ」は、若さゆえの不敵な挑戦か。悪くはない。

いつも味わい深い作品を寄せる西山省三さんは、「天敵の死」という詩と川柳10首。「人の死を笑ったり喜んだりしてはいけませんよ」と幼い作者を諭した母に謝りながら歓喜するのは鳩山邦夫が死んだから。法相時代13人の死刑囚の執行を命じた人。母の教えを大事に思いつつも、ベルトコンベアー方式での死刑執行を口走った、「一生使いきれないお金を持った」人の早逝をめぐる詩を、作者は「天敵鳩山邦夫が死んだとさ」という、突き放したような語句で締め括る。論理も倫理も超えて溢れ出る心情。半世紀以上も前のこと、戦争をするケネディが死んだのはめでたいといって赤飯を炊いて近所に配ったら隣人に怪訝な顔をされたといって戸惑っていた故・深沢七郎を、ゆくりなくも、思い起こした。この種の表現は面白い、という心を抑えることはできない。だが、これは、やはり、おもしろうて、やがて、哀しき……か。

林眞須美さんは、その名もずばり「眞須美」と題したルポを応募。粗削りな文章だが、大阪拘置所で彼女がいかにひどい処遇を受けているかという実情は伝わる。日本の監獄がどんなところであるかを暴露するに、気の毒にも彼女はもっとも「適した」場所に――苛め抜かれているという意味で。しかも彼女はそれに負けないで、さまざまな方法を駆使して闘い続けているという意味も込めて――置かれているのかもしれない。

俳句・短歌・川柳を寄せる何力さんの表現に変化が見られる。「短歌(うた)不評俳句の方が無難かな」には、選者として苦笑する。広辞苑と大辞泉を「良友」として日本語を懸命に勉強している感じが伝わってくる。「死刑支持・中国嫌い同率だ 我の運命二重奏かな」は、日本社会に浸透している不穏な「空気」を、自己批評を込めて詠んでいて、忘れ難い。

音音(ねおん)さんからは、101までの番号を付した歌が送られてきた。言葉の使い方は、相変わらず軽妙だし、獄の外で進む新たな現象への関心も旺盛だが、例年ほどの「冴え」が見られないのはなぜだろうか。末尾に置かれた歌

被害者らの未来のすべて黒く塗り 何が表現ズルいと思う

にうたわれた思いが、作者の心に重い影を落としているのだろうか。これは、2014年の死刑囚絵画展(渋谷)の際のアンケートに一来場者が残した言葉からの一部引用歌だ。私がこの年の表現展の講評で、この批評に触れた。この問いかけから逃げることはできない。だが、向き合って、さらに「表現」を深めてほしいと望むばかりだ。

なお、河村啓三さんの長編「ほたるいか」は第7章まで届きながら未完に終わったので、選考対象外とした。ただし、娘の視点から父親である「自分」を語らせるという方法は、興味深いながらも、娘の感情を自分に都合よく処理している箇所があって、綻びが目立つ。

もっと深く書けるはずの人だという声があがったことを、来期には完成させて応募されるであろう作者のために書き留めておきたい。

絵画作品に移ろう。

伊藤和史さんの昨年の応募作品には、驚かされた。白い色紙に、凹凸の彫りが施されているだけだ。裸眼には、よく見えない。今年も同じ趣向だ。表現展運営会スタッフが、工夫してダンボール箱に作品を掛け、対面には紙製暖簾を掛けた。観る者は、用意されたライトを点灯して、暖簾をかき分けて暗い内部に入る。色紙に斜めからライトを当てると、凹凸が浮き彫りになって見える。この工夫と丁寧な作業ぶりに、あらためて驚く。

井上孝絋さんは、いつもの入れ墨用の彫りもの作品に加え、「独裁暴権」現首相の顔に「こいつが……ニクイ!」と書き込んだ。何を描いても、基本があるので、巧みだ。

加藤智大さんの「艦これ――イラストロジック65問▼パズル201問」は、昨年同様、私にはお手上げだ。だが、この集中力は何なのだろう。コミュニケーションの可能性や方法について、あれこれ考えさせられる、独自の密度をもった「表現」なのだ。

金川一さんの作品には、表現展のごく初期から惹かれてきた。「点描の美しさ」と題して、しゃくやくの花などを描いた今回の3点の作品にも、うまい、と思わず唸る。

奥本章寛さんは、初めての応募だ。「お地蔵さま」など5作品が、観る者のこころに安らぎを与えてくれるようなたたずまいで並んでいる。「せんこうはなび」の描き方には、とりわけ、感心した。

北村孝さんの「ハッピー」は、作者がおかれている状況を知っていると、胸に迫る。絵の中にある「再審」「証人」「支援」「新証拠」などの文字は、冤罪を訴える作者の切なる叫びだ。それぞれ星形に入れられてはいるが「希」と「望」の文字の間には大きな隔たりがある。このように表現した時の作者の思いを、及ばずながら、想像したい。

西口宗宏さんは、20点もの作品を応募。何らかのモデルがあって、それを真似しているのだろうが、「月見(懺悔)」のように、自らの内面の描写か、と思われる作品もちらほら。北川フラム氏が言うようにに、本来「グジャグジャな、本人の生理」が前面に出てくれば、化けるのだろうと思わせるうまさを感じとった。

風間博子さんは昨年、作家・蜷川泰司氏の『迷宮の飛翔』(河出書房新社)に挿絵を提供した。物語だけを読んで、想像力を「飛翔」させて描いた16枚の作品の豊かさに私は注目した。表現展への従来の応募作品に見られた「定型化」を打ち破るエネルギーが溢れる「命――2016の弐」の行方を注視したい。

紙幅が尽きてきた。高尾康司さん、豊田義己さん、原正志さん、北村真美さんからも、それぞれに個性的で、心のこもった作品が寄せられた。年数を積み重ねている人の作品には、素人目にも明らかな「変化」(「進歩」とは言いたくない)が見られて、うれしい。自らへの戒めを込めて言う、日々書く(描く)、これが肝心なのだ、と。

最後に、受賞者は以下の方たちに決まった。文字作品部門では、響野湾子さんに「表現賞」、兼岩幸男さんに「努力賞」、高橋和利さんに「敢闘賞」。絵画部門では、西口宗宏さんに「新人賞」、金川一さんに「新境地賞」、風間博子さんに「光と闇の賞」。

そして、さらに記しておかなければならないことがある。東京拘置所在監の宮前一明さんは、絵画作品を応募しようとしたが、拘置所側から内容にクレームがつけられ、とうとう出品できなかった。また、名古屋拘置所在監の堀慶末さんは、応募しようとした長編作品が、拘置所側に3ヵ月間も留め置かれ、9月3日になってようやく発信されたが、選考会の日までには届かなかった。拘置所が採った措置については、何らかの方法によって、その責任を追及していきたい。

以前にも触れたことのある人物だが、ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が今春来日した。1960年代~70年代に活動していた同国の都市ゲリラ組織トゥパマロスに属していた人物だ。長期にわたって投獄され、2度脱獄もしている。民主化の過程で釈放され、同組織も合法政党となって、国会議員となった。やがてその政策と人格が認められ、一般選挙で大統領にまで選出された。「市場は万能ではない」「質素に生きれば自由でいられる」などの端的な言葉で、世界全体を支配している新自由主義的な市場原理に「否!」を唱え、その発言は世界的な注目を集めている。日本を支配する、死刑制度を含めた行刑制度の頑迷さに嘆息をつくたびに、「元武装ゲリラ+獄中者+脱獄者」を大統領に選ぶ有権者が住まう社会の豊かさと奥行きの深さを思う。刑罰を受けて「獄」にある人びとの表現は、どの時代・どの地域にあっても、私たちが住む社会の〈現実の姿〉を映し出す鏡なのだ。

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。