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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、みたび夢は夜ひらく[75]「beautiful Japan !!!!!」に、何との因果関係を見るのか


『反天皇制運動 Alert』2号(通巻384号、2016年8月9日発行)掲載

現代世界において、とりわけ、21世紀に入って以降、世界各地で頻発する「テロリズム」の行動について、私は、それが「反テロ戦争」と因果の関係にあると一貫して主張してきた。2001年「9・11」の事件が、いかに悲劇なものであったとしても、攻撃されたのが超大国の経済と軍事を象徴する建造物であったことを思えば、それが強欲な資本主義に対する底知れぬ憎悪を示す行動であったことは、誰の目にも明らかであった。ならば、超大国には、この憎悪が映し出した現代世界の「病」の依って来る由縁をこそ見つけ出し、それを除去する方策を模索することこそが求められていた。それは、自らが抱える「病根」を抉り出す手術になるはずだった。だが、周知のように、ブッシュ政権下の米国は、その内省の道を選ぶことなく、「反テロ戦争」という報復の道を選んだ。

『カンダハール』などの作品を創ったイランの優れた映画監督、モフセン・マフマルバフの優れたメタファーを借りるなら、貧しさに喘ぐ人びとが住まう土地に超大国が落としたのは、住民が切実に求めているパンや本ではなく、忌み嫌われている爆弾だったのである。それから 15年、アフガニスタンの乾き切った大地の一部は、戦乱の中にあっても止めなかったペシャワール会などが行なう灌漑用水路を備えた農業事業で緑の大地と化している。他方、反テロ戦争の標的となった土地では数知れぬ人びとが殺され、爆弾その他の近代兵器によって大地は荒廃し、住まう条件を奪われた多数の人びとが難民となって異邦の地を流浪することを余儀なくされている。

「反テロ戦争」はアフガニスタンに留まることなく、〈世界性〉を帯びた。「反テロ戦争」が作り出した諸状況に憤激し、これへの絶望的な反抗を、憎悪に満ちた暴力で発動する「テロリズム」もまた同様に〈世界性〉を帯びて、今日に至っている。両者の因果の関係を見据えなければ、その双方を止揚する道は見つからないのだ。

因果の関係といえば、ここで、去る7月26日早暁、相模原で起こった障害者施設襲撃・19人刺殺事件を取り上げたい。すべての報道に接しているわけではないが(特に、テレビニュースは、その低劣さに辟易しているので、ほとんど見ない)、この事件をこの間の日本の社会・思想状況と重ね合わせて論じる視点が少ないように思える。容疑者が事件に先立つ五ヵ月前に衆院議長(大森理森)に宛てた「障害者を殺害する」とする書簡では、「障害者総勢470人を抹殺する」計画が述べられているが、中段の「革命を行い、全人類のために必要不可欠であるつらい決断」に対する衆院議長の理解を求める文面の次には「ぜひ、安倍晋三様のお耳に伝えていただければと思います」とある。末尾は、「安倍晋三様にご相談いただけることを切に願っております」という文章で締め括られている(「要旨」しか掲載しなかった新聞では、安倍に言及した箇所は省かれている。省くべき箇所ではないだろう。「異常」にも思える容疑者の心情は、この箇所において、政治の最高責任者という公人への訴えを通して社会性を獲得していると読むべきなのだから。ここでの引用は、7月27日付東京新聞朝刊による)。

しかも、犯行後現場を離れた容疑者は、5分後にはツイッターに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!」と書き込んでいると報道されている。安倍晋三には『美しい国へ』と題した本がある(2006年、文春新書)ことは周知の通りである。容疑者が、安倍に対して大いなる親近感か共感をもっているらしいことをここから推察することは、不当なことではない。首相になって以降の安倍には、政治状況を配慮しながら言葉を「慎む」場合もあるとはいえ、その歴史修正主義者の本質には、いささかの疑念もない。自国が犯した歴史上の過ちと正面から向き合ってそれを克服するのではなく、姑息な方法でごまかしては、自国を「美しい」と言い募るのである。「美しい日本」という言葉の背後には、ナチスの優生学的な民族主義的なスローガンにも似た響きがある。

容疑者の背後にちらつく社会的な影は、ひとり安倍晋三だけではない。石原、猪瀬、舛添、小池を選び続けている都民も、橋下を選んでいた府民・市民も、信じ難いことに実在していることを考えれば、歴史修正主義の考え方および雰囲気が、ここまで社会を覆い尽してしまったことを認めざるを得ない。恐るべき相模原事件の依って来る由縁を、容疑者の個人史と資質に還元せずに、この社会を覆う政治思想、すなわち、経済的・身体的・歴史的な強者のためのスローガンが大手を振って罷り通る現実との因果関係で捉えなければならない。

(8月3日記)

――天皇「生前退位」を考える|「主権」も、民主主義もない|もう、たくさんだ!


『週刊金曜日』2016年7月29日号掲載

知る人ぞ知る、敗戦直後の年代記から始めよう。

1946年4月29日 東條英機らA級戦犯容疑者二八人起訴

1946年5月3日 連合国による極東国際軍事裁判開廷。

1946年11月3日 新しい「日本国憲法」公布。

1947年5月3日 日本国憲法および新皇室典範施行。

1948年12月23日 東條英機ら七人の死刑執行。

敗戦国・日本の占領統治の主導権を握ろうとした米国は、1945年8月30日マッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に降り立ってから、翌年46年4月5日に第一回連合国対日理事会が開かれるまでの7ヵ月有余の間に、日本国支配のための「暦的な」イメージをほぼ固めていたと思われる。たかが暦、という勿れ。上に挙げた事項の月日が何に符合しているかを見れば、米国の意図は明快だ。戦犯としての訴追は辛くも免れ得た昭和天皇はもちろん、48年当時は15歳でしかなかった皇太子・明仁にも、父親の「戦争責任」を一生涯意識させ続けるという、米国の揺るぎない意思が、これらの日付の選択からは窺われる。

戦中から敗戦直後にかけての時期を奥日光や小金井で過ごし、父親の処刑と占領軍による自らの拘束および米国への強制埒という「悪夢」をさえ幻視したであろう皇太子(現天皇)が生きた苛烈な戦後史を思う。82歳の現在、「疲れた」でもあろう。米国が仕掛けた「罠」にも無自覚に、戦争責任を忘失したまま皇室への崇拝を止めないありがたい「国民」は、同時に、現憲法からの脱却を謳う極右政権を支えていることに、もしかしたら、天皇は「危うさ」も感じているかもしれぬ。だが、天皇という地位に留まったままで、彼が何を言おうと何をしようと、それは、真の民主主義に悖る天皇制を護持し延命させるための口実としてしか機能しない。「生前退位」の意向とて、その例外ではない。

何事にせよ、ある問題をどう考えるか――選択肢は多様にあろう。だが、マスメディアでそれが取り上げられる時、本来なら10件あるかもしれない可能性の回答例は、往々にして、3つか4つに絞られて、提起される。しあも、巧妙に排除される選択肢がある。天皇制に関わる問題は、その最たる一例である。天皇制廃絶という意見と立場があり得ること――この選択肢はあらかじめ除外されて、メディア上での議論は踊る。

しかも情報は確たるものでもないのに、錯綜している。そもそも、生前退位の「意向」が、いつ、誰に、どのような形で伝えられたのか、それが、まずNHK を通して報道されてよいとしたのは誰か。皇室報道につきものの「情報源のあいまいさ」が消えないままに、あれこれの言動が飛び交っている。私はいやだ。民主主義の根幹に関わる天皇制をめぐる問題なのに、情報源が不明なまま、解釈や論議を強いられることが。この状況を創り出している張本人が、極右の首相との対比で「善意のひと」と見なされる風潮が。

外に向かっては、この国は米国に首根っこを掴まされたままだ。皇族も、政治家、官僚も、ウチナンチュー以外の「国民」も、その支配からの離脱など夢見ることすらせずに、日米「同盟」にしがみついている。内にあっても、この体たらくだ。「主権」もない、民主主義もない。もう、たくさんだ! と叫びたい。(7月25日記)

太田昌国の、みたび、夢は夜ひらく[74]グローバリゼーションの時代の只中での、英国のEU 離脱


『反天皇制運動 Alert』1号(通巻383号、2016年7月12日発行)掲載

1991年12月、ソ連体制が崩壊した時、理念としての社会主義とその現実形態の一つとしてのソ連に対する思いとは別に、たいへんな激動の時代を生きているものだ、と思った。そして、この政治・社会の激動と併行して進行していた技術革新の重大な意味に突き動かされて、この分野には決して明るくはない私でさえもが身を投じたのが、それから数年後に急速に普及したインターネットの世界だった。メキシコ南東部の叛乱者たち=サパティスタが、自分たちがいるチアパスの山深い密林ではインターネットが使えないのに、媒介者さえいるなら、彼ら/彼女らが発したメッセージがその日のうちにでも世界中で受信されてしまうという事実に、心底、驚いた。この驚きが、大げさのようだが、私を変えた。1997年以降の私の発言の多くは(おそらく90パーセント近くは)、いつでもインターネット空間で読むことが可能だ。同時に、この言論がそこに、いつまで「浮遊」し続けるのか? と思うと、実のところ、こころ穏やかではない。

この新しい時代を意味づけている決定的な要素は、新自由主義的グローバリゼーションである。それが始まった契機に関しては、ソ連崩壊に2年先立つ、1989年11月のベルリンの壁の崩壊も付け加えたほうがよいだろう。私は、人類史の中で「地理上の発見」や「植民地化」の史実に、異なる地域に住まう人間同士の関係性を歪める画期的な意味を読みこんできたが、いま私たちを取り巻いている「グローバリゼーション」という状況も、それに匹敵する意味を持たざるを得ないだろうと考えてきた。いずれの現象もが、もっとも重要な要素としてもっているのは、異世界の「征服」という動機である。かつてなら、それを主導したのは国家であった。領土の拡大という、明快な目標もあった。今回のそれを主導するのは国家ではなく、米国・ヨーロッパ・日本の三極に根拠をもつ多国籍企業、複合企業、金融グループである(もちろん、そのなかでも米国が圧倒的なシェアを誇っている)。征服する側が国家ではないと同じく、征服される側も国家単位ではない。いわば、地球そのものである。技術革新が、生命操作のための遺伝子工学の分野でも驚くべき展開を遂げていることを見ても、「征服」の対象は、生命体としての人間そのものであり、それを取り巻く自然環境にまで及んでいることがわかる。

日本国の現首相は、「企業がもっとも活動しやすい国にする」と世界に向けて常々アピールしている。彼の本音には常に、内向きの偏狭な国家主義があるが、その一方、国民国家・主権・国境・独立・民主主義など、「国家」が成り立つにあたって根源をなしているはずの諸「価値」を、大企業や大金融資本の利益の前になら惜し気もなく差し出すことを公言し、それを実行しているのである。グローバリゼーションの時代とは、こんな風に引き裂かれた人間を悲喜劇的にも生み出してしまうのだが、「引き裂かれた」とはいっても、国家主義的なポーズは国内基盤を固めるのに役立ち、後者の開国主義は、グローバリゼーションを推進する勢力によって歓迎されているのだから、本人は自己矛盾も感じることなく、心は安らいでいるのかもしれぬ。

英国のEU(欧州連合)離脱をめぐる国民投票の結果を見つめながら、グローバリゼーションの暴力的な力に翻弄されて〈ゆらぐ〉人びとの心に触れた思いがした。ここでいう「人びと」とは、もちろん、ロンドン金融街の「シティ」で活躍している人びとを指してはいない。労働党が明確に「残留」方針を示したにもかかわらず、その支持層の相当部分が離脱に投票したという報道に接して、たとえばケン・ローチが好んで描く普通の、あるいは下層の労働者が現実にはどんな選択をしたのか、と気にかかったのである。2015年度の英国の移民純増数は33万人、その半数以上が、英国で労働ビザを取得することなく就業できるEU加盟国出身者だ。とりわけ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなどからの新規移民に対して、英国人の雇用を奪うとか公共サービスを圧迫するなどという警戒心が広がっている現在、この生活保守主義的な傾向が、あの階級社会に生きるふつうの労働者や家族の間でどう機能したのか。一定の「理」がないではない生活保守への傾斜を、極右・排外主義と結合させない担保をどこに求めるのか。問題は、鋭角的に提起されている。

ドーバー海峡のむこうの「島国」でのみ燃え盛っている対岸の火事ではない。フランスでも、ドイツでも、米国でも、そしてこの日本でも――グローバリゼーションの時代を生きる地球上のすべての者が逃れることのできない問いに対して、英国人が最初の回答を出したのだ、と捉える視点が必要だ。(7月9日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[73]先住民族と、ひとりの作家の死


『反天皇制運動カーニバル』38号(通巻381号、2016年5月10日発行)掲載

去る2月に急逝した作家・津島佑子の作品には、初期のころから親しんでいた。ある時、某紙に載った彼女のエッセイを読むと、しばらくのフランス滞在中に、アイヌの神話・ユーカラのフランス語訳出版に協力していたという。彼女の作品には、北方、ひいてはそこに住まう先住民族と、山への関心が深まっていく様子を見て取ることができるようになった。父親が青森県、母親が山梨県の出身だから、「北」と「山」の文化への興味がわいた、とどこかで語ったことがあったようだ。20数年前、先住民族=アイヌの権利獲得の一環として、アイヌの人びとが働き、集うことができる料理店「レラ・チセ(風の家)」建設のための活動をしていた私たちは、この未知の作家に手紙を書き、レラ・チセ建設活動の呼びかけ人となってくれることを依頼した。快い承諾を得て、彼女はさらに身近な存在になった。

『アイヌの神話 トーキナ・ト ふくろうのかみの いもうとのおはなし』という絵本がある(福音館書店、2008年)。翻案された文は津島、挿画に使用されているアイヌ刺繍は宇梶静江の手になる。アイヌ文化活動家の宇梶も、レラ・チセ初期の担い手のひとりであり、現在にまで至るその活動は目覚ましい(存在感のある俳優、宇梶剛士は。彼女の長男である)。レラ・チセは十数年間に及ぶ営業ののち事情あって閉店したが、当時の若い担い手が数年前から、東京・新大久保で「北海道・アイヌ料理店/ハルコロ」(アイヌ語で、おなかいっぱい、の意)を運営している。朝鮮、中国、ベトナム、タイなどの料理店や食材店が林立し、東南アジアの人びとで賑わう「イスラーム横丁」もある新大久保に、ハルコロがあるのは似つかわしい。数年前、恥ずべき「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」のデモ行進現場ともされた新大久保界隈は、外部から悪煽動のためにやって来る者たちがいない限りは、日常的にはほんとうは、多民族共生・多文化表現の場所である。

津島佑子急逝の衝撃から書き始めたので、思わず、回顧的な書き方となったが、もう少しそれを続ける。その後、彼女の知遇を得た私は、アンデスの先住民族の世界を描いたボリビア映画上映時の対談相手をお願いしたり、彼女が高く評価するアジア女性作家の小説を翻訳・紹介する出版企画で協働したりしてきた。「3・11」後には、経産省包囲行動の現場で偶然出くわしたこともあった。その作品には、時代への危機意識が顕わになっていた。

津島の死後、早くも、遺作と最後のエッセイ集が刊行された。前者は『ジャッカ・ドフニ―海の記憶の物語』(集英社)、後者は『夢の歌から』(インスクリプト)である。時空を超えて展開する壮大な物語『ジャッカ・ドフニ』は、もちろん、興味深いが、ここでは、後者に「母の声が聞こえる人々とともに」と題した後書きを寄せている津島香以の文章で描かれている作家の晩年の姿に触れたい。2015年4月、通院治療の段階に入っていた津島は、中学校の一歴史教科書に文科省が行なった検定結果を報道した小さな新聞記事を、怒ったようにして、娘に示す。そこには「政府は、1899年に北海道旧土人保護法を制定し、狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」となっていた記述が、「誤解を生む」との文科省の指摘で、「アイヌの人々に土地をあたえて」と変更されたと記されていた。土地を「取り上げた」を「与えた」と変えさせるような詐術を、文科省に巣食う歴史修正主義官僚は事もなげに行なうのである。保護法には、確かに、アイヌ家族一戸当たり一定の土地を「無償下付」するとの規定があったが、それが農地に適さないものであったという事実や、それ以前の段階での土地収奪などをも無視した教科書の記述は、「歴史を偽造する」ものでしかない、と作家は怒りをもったのだろう。

先住民族は、歴史上のどこかの時点で植民地主義支配を実践した欧米日諸国によって必然的に生み出された存在である。歴史的にも、国際法上も「不法な」ところ一点の曇りもない洗練された国家であることを誇りたい欧米日諸国にとっては、国家成立の根源を問い質す存在である。国際的には、先住民族と規定された人びとに対して各国政府が特別な権利を保障しなければならないとする動きが加速している。当該の政府は、それを拒絶したい。そのせめぎ合いが、いま世界的に進行している。日本では、アイヌと琉球の地で。

「近代」が孕む問題と真正面から向き合って、文学的な格闘を続けた作家の、早すぎる死を悼む。(5月4日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[72]米大統領のキューバ訪問から見える世界状況


『反天皇制運動カーニバル』37号(通巻390号、2016年4月5日発行)掲載

私が鶴見俊輔の仕事に初めて触れたのは、高校生のころに翻訳書を通してだった。米国の社会学者、ライト・ミルズの『キューバの声』の翻訳者が鶴見だった(みすず書房、1961年)。表紙カバーには、原題 “Listen , Yankee” (『聴け、ヤンキー』)の文字が浮かび上がっていた。1960年夏まで(ということは、キューバ革命が勝利した1959年1月からおよそ1年半の間は)ミルズはキューバについて考えたこともなかった、という。だが60年8月、キューバの声は「空腹民族ブロックを代表する」(原語はどうだったのか、「空腹民族」とは言い得て妙な、「面白い」表現だ)ひとつの声だと悟ったミルズは、急遽キューバを訪れ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラはもとより市井の多くの人びとと会って話を聞き、それを「代弁」するような書物を直ちにまとめた。米国は「空腹世界のどのひとつの声にも耳をかたむけることをしないということが許されないほどに強大で」あることに気づいたからである。原書は60年末までに刊行されたのであろうが、61年3月には日本語版が発行されている。改訂日米安保条約強行採決に抗議して東工大教官を辞したばかりの翻訳者・鶴見をも巻き込んでいた「時代」の熱気を感じる。

オバマ米大統領のキューバ訪問についての報道を見聞きしながら思い出したことのひとつは、ミルズのような米国人も存在していたのだということである。当時のケネディ大統領も含めた米国の歴代為政者が、もしミルズのような見識(他民族・他国の独自の歩み方を尊重し、米国がこの国に揮ってきた政治・経済の強大な支配力を反省する)の持ち主であったならば、半世紀以上にもわたって両国間の関係が断絶することはなかったであろう。軍事侵攻によってキューバ革命の圧殺を図った過去を持つ米国の大統領としてキューバを訪れたオバマは、人権問題をめぐってキューバに懸念を示す前に、言うべき謝罪の言葉があったであろう。キューバが深刻な人権侵害問題を抱えているというのは、私の観点からしても、事実だと思う。だが、自国の過誤には言及せず、サウジアラビアやイスラエルによる人権侵害状況にも目を瞑り、むしろこれを強力に支えている米国が、選択的に他国の人権問題を批判することは、二重基準である。米韓合同軍事演習は、通常の何気ない言葉で表現し、朝鮮が行なう核実験やミサイル発射のみを「挑発」というのと同じように――大国とメディアが好んで行なうこの言語操作が、いつまでも(本当に、いつまでも!)人びとの心を幻惑しているという事実に嘆息する。

1903年以来米国がキューバに持つグアンタナモ海軍基地を返還するとオバマが語ってはじめて、キューバと米国は対等の立場に立つ。グアンタナモとは、裁判もなく米軍に囚われて虐待されているアルカイーダやタリバーンなどの捕虜の収容所だけなのではない。1世紀以上の長きにわたって、米軍に占領されているキューバの土地なのだ。他国にこんな不平等な関係を強いて恥じない大国の傲慢さを徹底して疑い、批判するまでに、世界の倫理基準は高まらなければならない。

オバマはキューバからアルゼンチンへ向かった。後者には、十数年ぶりに右派政権が成立したからである。各国が軒並み軍事独裁政権であった時代に、米国主導の新自由主義経済政策によって社会に大混乱をもたらされたラテンアメリカ諸国には、20世紀末から次々と、米国の全的支配に抵抗する政権が生まれた。二十数年間続いてきたこの流れは、この間、一定の逆流に見舞われている。だが、全体を見渡すと、この地域に、いま戦乱はない。軍事的緊張もない。1962年のキューバ・ミサイル危機を思い起こせば、感慨は深い。東アジア、アラブ、ヨーロッパ、北部アフリカなどの地域と比較すると、それがよくわかる。かつてと違って、米国の軍事的・経済的・政治的なプレゼンス(存在)が影をひそめたことによって、社会の安定性が高まったからである。巨大麻薬市場=米国と、悲劇的にも国境を接するメキシコが、10万人にも上る死者を生み出した麻薬戦争の只中にある事実を除けば。

米国の「反テロ戦争」を発端とするアラブ世界の戦乱が北アフリカ地域にも飛び火している、悲しむべき状況を見よ。60年以上も続く、朝鮮との休戦協定を平和協定に変える意思を米国が示さぬために、米韓合同軍事演習と朝鮮の「先軍路線」の狭間で、「(金正恩の)斬首作戦」とか「ソウルを火の海にする」とか、熱戦寸前の言葉が飛びかう東アジア情勢を見よ。

米国の「存在」と「非在」が世界各地の状況をこれほどまでに左右すること自体が不条理なことだが、その影響力を減じさせると、当該の地域には「平和」が訪れるという事実に、私たちはもっと自覚的でありたい。(4月1日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[71]「世界戦争」の現状をどう捉えるか


『反天皇制運動カーニバル』第36号(通巻379号、2016年3月8日発行)掲載

アラブ地域の現情勢を指して、「世界戦争」とか「第三次世界大戦の始まり」と呼ぶ人びとが目立つようになった。いわゆるイスラーム国には、欧米を含む世界各地から数多くの義勇兵が駆けつけている。シリアに対する空襲は、国連安保理常任理事国を構成する5ヵ国のうち中国を除く米英仏露の4ヵ国によってなされている。この構図を見るにつけても、「世界戦争」という呼称は、あながち、大げさとは思えなくなる。その社会的・政治的メッセージの鮮烈さにおいて群を抜く現ローマ教皇フランシスコは、2015年11月13日パリで起きた同時多発攻撃事件を指して「まとまりを欠く第三次世界大戦の一部である」と表現した。国家単位の戦闘集団ではないイスラーム国が、世界各地に自在に軍事作戦を拡大する一方、これに対して「反テロ戦争」の名目で諸大国が(あくまでも表面的には)「連携している」という意味で、第一次とも第二次とも決定的に異なる、現下の「世界戦争」の性格を巧みに言い当てているように思われる。

この「世界戦争」という構図の枠外に位置しているかのように見える、残りの安保理常任理事国=中国も自らの版図内に、北京政府から見れば「獅子身中の虫」たる新疆ウイグル自治区を抱えている。多数のイスラーム信徒が住まうこの自治区は、世界的な「反テロ戦争」のはるか以前から、中国内部に極限された「反テロ戦争」の中心地であった。北京政府の強権的な政策(ウイグル人の土地の強制収用、漢民族の大量移住計画、ウイグル人に対する漢民族への徹底した同化政策、信仰の自由に対する抑圧など)に反対する人びとによる爆弾闘争が散発的に繰り返され、これに対する弾圧も厳しかったからである。圧政を逃れて、トルコなどへ亡命しているウイグル人も多い。その人びとの心の奥底に、イスラーム国に馳せ参じる若者たちに共通の心情が流れていても、おかしくはない。事実、2013年10月には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ車で天安門に突入し自爆する事件も起こっている。北京政府を標的にした軍事攻撃は、イスラーム国のそれにも似て、すでにして辺境=新疆ウイグルに留まることなく、首都中枢にまで拡散しているのだといえる。

私は、今年1月に行なわれた中国の習近平主席のサウジアラビア、エジプト、イラン訪問に(訪問先の選び方も含めて)注目したが、各紙報道にも見られたように、これは明らかに、ユーラシアをシルクロードで結ぶ「一帯一路」の経済圏構想を具体化するための布石であった。これを実現するためには、新疆ウイグル自治区の「安定」が不可欠である。だが、同時に、習近平は知っていよう――新疆ウイグル自治区は、イスラーム国の浸透が顕著なカザフスタン、キルギス、タジクなどのイスラーム圏共和国と天山山脈を境にして接する同一文化圏にあることを。中国政府は、現在、チベットや新疆ウイグル自治区に対する政策を人権侵害だとする欧米諸国からの批判は「二重基準(ダブル・スタンダード)」だとして反発している。だが、この地域での蠢動を続けるイスラーム国の軍事攻撃が、さらに国境を超えていくならば、現在は別個に行なわれている欧米諸国と中国の「反テロ戦争」が、共通の「敵」を見出して合体するときがくるかもしれない。そのとき、ローマ教皇がすでに始まっているとみなしている「第三次世界大戦」はいっそうの「世界性」を帯びざるを得ない。

他方、中国は、中央アジアを離れて、東アジア地域においても重要な位置をもっている。去る3月2日、国連安保理事会は、朝鮮民主主義人民共和国が行なった核実験と「衛星打ち上げ」に対して、同国に出入りするすべての貨物の検査を国連加盟国に義務づけ、同国への航空燃料の輸入禁止を含む大幅な制裁決議を採択した。制裁強化を躊躇っていた中国も、最終的にはこれに賛成した。中国の四大国有商業銀行は、従来は米ドルに限っていた朝鮮国への送金停止措置を、人民元にまで拡大している。

3月7日には、朝鮮が激しく反発している米韓合同軍事演習が始まる。朝鮮半島は、残念なことに、「第三次世界大戦」の一翼を担う潜在的な可能性をもち続けている。

ここでは、否定的な現実ばかりを述べたように見える。もちろん、たゆまぬ反戦・非戦の活動を続ける人びとが世界的に実在している(いた)からこそ、世界はこの程度でもち堪えている(きた)ことを、私たちは忘れたくない。(3月5日記)

袴田巖さんが、「死刑囚表現展」に応募してきた


金聖雄監督『袴田巖:夢の間の世の中』パンフレット(2016年2月27日発行、Kimoon Film )

死刑制度の廃止を目指して死刑囚表現展を始めて、11年が経った。死刑囚は社会との接点をギリギリまで断ち切られて、存在している。冤罪の身であれば、身を切るような叫びがあろう。人を殺めたならば、顧みて言うべき言葉があるかもしれない。事件を離れて、想像力の世界に浸る表現もあろう。毎年、心に迫る作品が寄せられる。その表現に出会うことで、隔離されている死刑囚と、私たち外部社会との間に接点が生まれる。私たちはその時、犯罪と刑罰について、死刑について、冤罪について、あらかじめわかったような顔をせずに、深く向き合う契機にできるかもしれない。

映画『袴田巖――夢の間の世の中』のスクリーンに浮かび上がる袴田さんの獄中書簡のいくつかを目で追いながら、袴田さんが死刑囚表現展に応募してきたのだ、と幻想した。「さて、私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつつ、生きなければならない。」などという表現に触れて、私は思わず、居ずまいを正した。若い日々に、ボクシングという激しいスポーツに身を投じていた袴田青年は、内面に、このように静謐で、文学的ともいえる世界を持つ人でもあったのだ。

映画が映し出すのは、だが、2014年3月27日、静岡地裁が死刑および拘置の執行停止を決定して48年ぶりに袴田さんが釈放されて以降の日常である。拘禁症状の下で、独特の幻想世界に生きる袴田さんの姿と言葉が私たちの耳目に飛び込んでくる。それは、獄中の孤独を彷彿させるものだが、その姿を描いているのが総合芸術としての映画である以上、袴田さんがここを抜け出る方向性も示唆されている。

金聖雄監督をはじめスタッフ、出演者、そして私たち観客との協働性の中でこそ、袴田さんは新たな生を生き始めている ということである。この映画の中での袴田さんの立ち居振る舞いと言葉に触れて、これは死刑囚表現展への見事な応募作品ではないか――あらためて私は独断的に、そう思う。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[70]国際政治のリアリズム――表面的な対立と裏面での結託


『反天皇制運動カーニバル』第35号(通巻378号、2016年2月9日発行)掲載

朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)が予告した「衛星打ち上げ」についての報道状況を知るために、久しぶりにNHKのテレビニュースを点けた。たまに観るだけだが、ちょうど桜島噴火報道と重なったために、朝鮮報道と災害報道に懸けるNHKの「熱意」は半端なものではない、とあらためて思う機会ともなった。いずれも、視聴者の危機感を煽りたてるためには、この上ない材料なのであろう。神戸大震災と「3・11」を経験したいま、万一の場合に備えて、時々刻々の災害報道が必要なことは言を俟たない。そのことを認めたうえで、NHK的な危機煽りの報道によって「組織」される人びとの心の動きを注視することも、止めるわけにはいかない。

朝鮮の「衛星打ち上げ」についても、飛行経路に近い地域の自治体の対応ぶりが事細かに報道されている。ミサイルの2段目ロケットが上空を超えることになる沖縄県宮古市、同じ先島諸島の石垣市、地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)が配備されている航空自衛隊基地のある那覇市などの動きに加えて、「部品が落下する恐れがある」航行危険区域を示す漁業安全情報が各漁協に徹底周知されたなどという文言に接すると、ひとは当然にも、「今、ここにある危機」を持つよう、精神的に駆り立てられる。ひとというものは、ときに哀しい存在だとつくづく思う。情緒に巻き込まれ、自らすすんで「危機」を択びとってしまうのだ。

しかも、この情景には既視感がある。日米防衛協力のために新ガイドライン(指針)を実施に移すための、周辺事態法などの関連法案が国会で審議されていた小渕政権下の1998-99年の時期である。ソ連体制はすでに崩壊し、旧ソ連の日本侵攻を想定して作られていた旧ガイドラインは実質的に失効した。今や朝鮮半島有事などの「周辺事態」に際しての物資の輸送や補給など米軍への後方支援や、米軍に民間の空港・港湾を使用させることなどおよそ40項目を盛り込んだ対米支援策が論議されていた。

そのさなかの1998年8月、金正日指導下の朝鮮はいわゆるテポドンを発射した。それは東北諸県を横切って、三陸沖に落下した。翌99年3月、朝鮮の高速艇が能登半島沖に現われた。これを「不審船」による領海侵犯と見た海上自衛隊と海上保安庁が追跡し、威嚇射撃も行なった。この段階で、「朝鮮有事」は実際にあり得ることだとの実感が、人びとの心に浸透した。ガイドライン法案は国会を通過した。

このころ、元陸上自衛隊人事部長・志方俊之はいみじくも述懐している――日本人には、太平洋戦争の経験に基づく本能的な恐怖がふたつある。空襲とシーレーン喪失の恐怖である。テポドン発射と不審船の横行は、まさにこの恐怖心の核心を衝くものだった。民心は大きく動き、自民党政権が何十年もかかってもできなかった新段階の防衛政策の採用へと大きく前進することができた、と(『諸君!』1998年12月号)。彼が言外に語っていることは、以下のように解釈できよう。表面的には激しく対立しているかに見える日米の軍産複合体支配層と朝鮮の独裁体制は、その軍事優先政策を国内的に納得させるためには、裏面で手を結び合っている、と。国家の枠組みの中での駆け引きとして行われる国際政治に貫かれているこのリアリズムを、私たちは頭に入れておかなくてはならないと私は思う。

朝鮮といえば、蓮池透著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社、2015年)と題する本を読んだ。同氏と私が『拉致対論』(太田出版)を刊行したのは2009年だった。民主党政権成立時に重なり、対朝鮮外交への提言的な要素も盛り込んだ。だが、それまで自民党政権を支えてきた外務官僚が急に発想の転換を行なうはずもなく、それを促す力量が政権に備わっているわけでもなかった。民主党政権の3年間は無為に過ぎた。そのあとには、何かといえば拉致問題解決のために「あらゆる手段を尽くす」と見栄を切る安倍晋三が再登場したが、対朝鮮外交における無為無策は一目瞭然である。しびれを切らした蓮池は、「拉致問題を利用して首相にまで上り詰めた」人物に過ぎない安倍の姿を描いている。この問題の裏面を知り尽くしているだけに、視界が開ける。同時に蓮池は、拉致被害者家族会事務局長を任じていた時期の自分が、政府を対朝鮮強硬路線に駆り立てた過去にも、自己批判をこめて触れる。

朝鮮と日本の関係性をめぐる問題は、さまざまな顔貌をして、私たちの眼前にある。情緒に溺れることなく、歴史的な視点を手放さずに、冷静に向き合い続けたい。(2月6日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[69]朝鮮の「水爆実験」と「慰安婦」問題での日韓政府間合意


『反天皇制運動カーニバル』第34号(通巻377号、2016年1月12日発行)掲載

国連の安保理事会構成国である五大国が独占してきた核兵器を、他の国が(しかも小国が!)持つことは許さないとするのが、核不拡散条約の本質である。この条約の制定とそれ以降の過程を詳述する紙幅は、今はない。また、イスラエル、インド、パキスタンなどの「小国」も核を保有するに至った現実を、ときどきの国際情勢の下にあって「容認」するか否か、あるいは確認せぬままに目を瞑るかなどの駆け引きも、これを機に利を得ようとする大国がマリオネットの操り師になって、誰の目にも明らかな形で行なわれてきた。したがって、国際政治における「核不拡散」なるスローガンの欺瞞性を批判することは重要だ。国際政治では、つまるところ、「力」を誇示したものが勝つのさ――身も蓋もない「教訓」をそこから得て、核開発に膨大な国家予算を費やしてしまう、「敵」に包囲された貧しい国の若年の国家指導者がいたところで、「軍事を通した政治」に関して同等のレベルで物事を考え、ふるまっているひとつ穴の貉が、どうして、それを嗤い、非難することできようか。

また、自らは核を持たずとも、安保条約なる軍事同盟によって「米国の核の傘」の下にあることを積極的に選んでいるこの国で、そしてその米国はといえば、1953年以来、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)との間で結んでいるのは休戦協定でしかなく、韓米両軍は朝鮮に対する挑発的な合同軍事演習を一貫して行なっている事実を思えば、ここでも自らを省みずに他国を非難するだけでは、事態を根本的に解決する道筋は見えてこないと指摘しなければならない。

1月6日、朝鮮が行なった「水爆実験」に関して、各国政府やマスメディアが組織する一方的な朝鮮非難の合唱隊に加わらず、せめてこの程度の相対的な視点をもって、事態を見つめることは重要なことだ。彼の国の科学技術水準に軽侮の表情を浮かべながら「水爆開発はまだ不可能」と(おそらくは)正確に事態を捉えていながら、「今、ここにある危機」を演出する政府とメディアの宣伝攻勢も鵜呑みにはせずに、冷静な分析を心がけることも重要だ。そうすれば、多くの専門家が言うように「朝鮮の核開発の段階は実用化には程遠く、実戦用の核兵器の小型化に努めている時期だろう」との判断も生まれよう。事態の把握の仕方は、対処すべき方法を規定することに繋がるのだから、大事なことだ。

さて、これらのことは自明の前提としたうえで、同時に、次のことも言わなければならないと私は思う。朝鮮が行なった「水爆実験」は、疑いもなく、東アジアおよび世界各地に生まれるかもしれない戦争の火種を一所懸命に探し求め、あわよくばそこへ戦争当事国として参加しようと企てている安倍政権にとって、この上ない、新春のプレゼントとなった、と。戦争法の施行を目前に控えているいま、この「水爆実験」は安倍の背なかを押すものとなった、と。

朝鮮の「水爆実験」に理があるものなら、私はこのような批判はしない。「安重根による伊藤博文暗殺が、日本が朝鮮を併合するのに有利な環境を作り出した」という俗論を、日本は当時すでに十数年をかけて朝鮮植民地化の準備を積み重ねていたという歴史的な事実に反するがゆえに、かつ時代状況的には安重根に「理」があったと思うがゆえに、私は受け入れないように。だが、朝鮮の核実験には理がない。若い指導者がしがみついているのであろう「核抑止論」は、どの国の誰が主張しようと、深刻な過ちであると考えるからである。

今回の事態を、昨年末に日韓政府間レベルだけでの急転直下の「解決」をみた「慰安婦」問題と併せて総体的に分析する視点が必要だと思われる。昨年12月16日、「慰安婦」問題を話し合っていた日韓局長協議は結論に至らず越年する、との発表があった。その9日後の25日には、28日の日韓外相会談が公式に発表された。この間に何があったのか。米国政府からの圧力があったことを仄めかす記事は散見される。米国の外交政策を仕切るといわれる外交問題評議会(CFR)が12月20日に出した討議資料 ”Managing Japan-South Korea Tensions” (日韓の緊張を何とか切り抜ける)もネット上には出回り始めた。

慌ただしい年末ギリギリの三国政府間の「圧力」と「談合」の実態を見極め、朝鮮半島全体で何が進行しているのか、その中で日本はどこに位置しているのか、を探る必要がある――敗戦後70年めの昨年にも「最終的かつ不可逆的に解決」されることのなかった課題が、私たちの眼前に広がっている。

(1月9日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[68]「魂の飢餓感」と「耐用年数二〇〇年」という言葉


『反天皇制運動カーニバル』第33号(通巻376号、2015年12月8日発行)掲載

翁長雄志沖縄県知事が発するメッセージには、じっくりと受け止めるべき論点が多い。権力中枢の東京では、論議を回避してひたすら思うがままに暴走する極右政治が跋扈する一方、本来の保守層の中から、それに抵抗する粘り腰の考えと行動が随所で生まれていることに注目したい。なかでも、辺野古問題をめぐる翁長知事の揺るぎない姿勢が際立つ。翁長知事は、日米安保体制そのものは「是」とする立場であることをたびたび表明しているが、この人となら私のような日米安保解消論者も、その「是非」をめぐって、まっとうな討論ができるような気がする。辺野古に限らず、高江のヘリコプター着陸帯計画や宮古島への陸上自衛隊配備構想なども含めて、日米両国の支配層が琉球諸島全域において共同であるいは個別に行ないつつある軍事的な再編の捉え方に関しても。

12月2日、辺野古の新基地建設計画に伴う埋め立て承認取り消し処分を違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟の第一回口頭弁論において、知事は10分間の意見陳述を行なった。訴訟で問われているのは、(大日本帝国憲法下で制定された)公有水面埋立法に基づく判断だが、その枠内での法律論は県側が提出した準備書面で十全に展開されている。そこでは、1999年の地方自治法改訂によって国と地方が対等な立場になったことをはじめ、憲法の規定に基づく人格権、環境権、地方自治の意義などをめぐる議論が主軸をなしている。そのためもあろうか、知事の陳述自体は法律論を離れて、過重な基地負担を強いられてきている沖縄の歴史と現状を語ることで、地方自治と民主主義の精神に照らして見た場合、沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常なのかと社会全体に問いかけた。とりわけ、2つの箇所が印象に残った。「(沖縄県民が)歴史的にも現在においても、自由・平等・平等・自己決定権を蔑ろにされてきた」ことを「魂の飢餓感」と表現している箇所である。この表現を知事は過去においても何度か口にしている。私には、どんなに厳しいヤマト批判の言葉よりもこの表現が堪える。1960年の日米安保条約改定を契機にしてこそ、ヤマトの米軍基地は減少し始め、逆に沖縄では増大する一方であった事実に無自覚なまま、私たちの多くは「60年安保闘争」を戦後最大の大衆闘争として語り続けてきた。それだけに、「魂の飢餓感」という言葉は、沖縄とヤマトの関係性の本質を言い表すものとして、支配層のみならず私たちをも撃つのである。

いまひとつは、「海上での銃剣とブルドーザーを彷彿させる行為」で辺野古の海を埋め立て、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わって機能強化される予定の新基地は「耐用年数200年ともいわれている」と述べた箇所である。耐用年数200年と聞いて、私が直ちに思い浮かべるのは、キューバにあるグアンタナモ米軍基地である。米国がこの海軍基地を建設したのは1903年だった。現在から見て112年前のことである。その後60年近く続いた米国支配が終わり革命が成っても(1959年)、米国がキューバの新政権を嫌い軍事侵攻(初期において)や経済封鎖(一貫して)を行なってきた半世紀以上もの間にも、米国はグアンタナモ基地を手離すことはなかった。革命後のキューバ政府がどんなに返還を求めても、である。現在進行中の両国間の国交正常化の交渉過程においても、米国にグアンタナモ返還の意志は微塵も見られない。

一世紀以上も前に行われた米国のキューバ支配の意志は、当時の支配層の戦略の中に位置づけられていた。南北戦争(1861年~65年)、ウーンディッドニーでのインディアン大虐殺(1890年)などの国内事情に加えて、モンロー宣言(1823年)、対メキシコ戦争とカリフォルニアなどメキシコ領土の併合(1848年)、ペリー艦隊の日本来航(1853年)、キューバとフィリピンにおける対スペイン独立戦争の高揚を機に軍事的陰謀を計らって、局面を米西戦争に転化(1898年)して以降カリブ海域支配を拡大、ハワイ併合(1898年)、コロンビアからのパナマ分離独立の画策(1903年)とパナマ運河建設(1914年)など、米国が当時展開していた対カリブ海・太平洋地域戦略を総合的に捉えると、グアンタナモを含めてそれぞれの「獲得物」が、世界支配を目論む米国にとっていかに重要かが、地図的にも見えてくる。戦後70年を迎えている沖縄をも、あの国は、いま生ある者がもはや誰一人として生きてもいない1世紀先や2世紀先の自国の利害を賭けて、その軍事・経済戦略地図に描き込んでいるのである。それに喜々として同伴するばかりの日本政府のあり方も見据えて発せられている「耐用年数200年」という翁長知事の発言に、現在はもとより未来の世代の時代への痛切な責任意識を感受する。

(12月5日記)