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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[106]一国史が孕む文化的・歴史的歪みの克服を――改元騒ぎに思う


『反天皇制運動 Alert』第34号(通巻416号、2019年4月9日発行)掲載

「犬も食わない」改元騒ぎが続いた数日間、新聞・ラジオ・テレビ報道を読んだり見聞きしたりすることをほぼ絶った。それらに接したとて、偏狭なナショナリズムの毒がわが身に回ることはないくらいの確信はあるが、「生理的に」耐え難い水準で騒動が続いていたからである。こんな時には「一億人から離れて」立っていたいと思った。最小限の情報だけは吸収しながらも。

いま去り行こうとしている天皇は、およそ3年前に「生前退位」の意向表明を行なった。天皇の意を体した宮内庁長官が、内閣府には無断でNHKテレビを通じて天皇のビデオ・メッセージを流すよう画策した。去る3月23日放映されたNHKの特番「天皇 運命の物語 第3話 象徴 果てなき道」における元宮内庁参与で、日本政治外交史専攻の三谷太一郎の証言によれば、天皇は2010年7月22日の参与会議で「80歳までは象徴の務めを果たすが、その後は皇太子に譲位したい」と発言したという。三谷はこの発言に衝撃をうけて、「憲法が直面した最大の問題だ」と捉えた(同氏は、同じ趣旨のことを、3月29日付朝日新聞掲載のインタビューでも語っている)。憲法も皇室典範も想定していない「生前退位」の意向を天皇自身が示すことが明白な憲法違反に他ならないことを察知してこその、三谷の衝撃であったろう。メディアの改元騒ぎは、「生前退位」宣言が改めて露出させた、象徴天皇制を規定した憲法が根本的に孕むこの矛盾に目を向けることなく、昨今のハローウィンやクリスマスのような一過性のお祭りにするものだった。天皇と宮内庁が主導して始まった「生前退位」策動に怒った官邸は、宮内庁長官および次長を更迭し、政権の腹心を後釜に据えた。自らが持つ改憲の意図が、憲法の天皇条項や皇室典範改訂論議の影に霞むことを嫌ったのだろう。だが、3年弱を経てその「生前退位」が実現しつつあるさまを見れば、首相が主導して「この歴史的な決定がなされた」とのお祭り騒ぎがメディアを巧みに使って演出された。官邸が当初は激怒した天皇自身による「生前退位」表明を、最終的には自らを「アシスト」する形に転換し得た、彼らが持てる作戦上の狡知を侮るべきではないだろう。

首相の「主導性」なるものは、新たな元号が従来とは異なり、漢籍に依らず「日本由来」の国書、しかも「日本最古の歌集」万葉集に典拠を有する点で発揮されたとされている。「国民文化」「四季折々の美しい自然」「国柄」などの言葉が鏤められた首相談話は、多文化主義や多様性の尊重の精神から遠く離れた排外主義的なナショナリズムに溢れている。

私はこの改元騒動を脇に見ながら、いくつかの読書をした。いずれも再読である。多くの方々がそんな風にして過ごされたと思うが、さまざまな例が共有化されることが望ましいと思う。

藤間生大は、マルクス主義の立場に立つ古代史家として1950年代から60年代にかけて旺盛な執筆活動をした人物である。『埋もれた金印:女王卑弥呼と日本の黎明』『倭の五王』などの著作が記憶に残っている。昨年末、藤間の訃報に接したこともあって(享年105)、改元騒動のさなかに、彼の仕事の一つを思い出した。『東アジア世界の形成』(春秋社、1966年)である。コミンフォルムによる日本共産党批判や中ソ論争を契機にして民族問題を重要視する地点へ歩み出た藤間は、従来の一国史観を超えて、朝鮮・中国などを含めた東アジア地域総体の、古代から近世にかけての歴史的過程を描く試みを本書で行なっている。当然にも、そこでは「日本史」は相対化される。自民族中心主義から離脱するための、60年代にあっては意義深い仕事の一つであった。

在日朝鮮人歴史研究者、金靜美が1989年に書いた「東アジアにおける王制の廃絶について」(『民濤』七号、1989年6月)という文章も熟読に値する。「20世紀のはじめ、東アジア地域には4人の国王がいた」に始まる一節は示唆的だ。1911年、中国民衆は辛亥革命によって2千百余年続いた王制を打倒した。1917年、ロシア民衆はロシア革命を通して、300年近く続いたロマノフ王朝を打倒した。朝鮮民衆は王制支配の弱点を衝かれて日本帝国による植民地支配を強いられたが、31独立運動などの日帝支配に対する抵抗・独立闘争の過程で実質的に王制を廃絶した。しかるに、日本の民衆は? と金論文は問うのである。胸に迫る問いかけである。

かつてフランス共産党史など欧州左翼の研究者であった海原峻が、20世紀末以降行なっている『ヨーロッパがみた日本・アジア・アフリカ』(梨の木舎、1998年)などの一連の著作も興味深い。ここでは、東アジアを超えて、世界史に密接に関連した事象が語られるからである。

改元騒ぎを、一国史が本質的に孕む、文化的・歴史的な歪みを克服する契機に逆利用したいと思う。

(4月6日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[105]反グローバリズムとベネズエラの現在の事態


『反天皇制運動 Alert』第33号(通巻415号、2019年3月5日発行)掲載

2001年9月11日、米国でハイジャックされた民間航空機が、軍事・経済上の象徴的な建造物に突っ込むという衝撃的な出来事が起こった。他国への侵略や空爆、ミサイル攻撃は絶え間なくやってきているが、自国本土が戦場になったことのない米国は、この事件によって戦争の悲惨さを初めて味わったはずだ。だが、この痛ましくも貴重な体験を、自国の過去の所業を内省する道に生かすことなく、米国は1ヵ月後には「反テロ戦争」という愚かな戦争を、またもや他国を戦場にして開始した。それはアラブ世界のみならず、欧州各地、米国、アフリカ、アジアにまで広がったまま、18年目を迎えている。米国が主導するこの戦争の現実を見ながら、一貫してこみあげてくる感慨が私にはあった。「北の超大国」=米国にもっとも近く、かつて政治的・社会的に不安定な情勢が続いていたカリブ・ラテンアメリカ地域が、ずいぶんと静かに、安定しているな……と。

この地域は、1959年のキューバ革命以降、東西冷戦のもっとも熱い現場であった。キューバに続こうとする反政府武装闘争が各地で起こり、米国はこれに対抗して各国の軍部にテコ入れしてゲリラを潰し、次々と軍事政権を成立させた。その頂点が1973年9月11日に起きた南米チリの軍事クーデタであった。その3年前の1970年、世界史上初めて選挙を通じて成立した社会主義政権を、米国はチリ国内の富裕層、極右勢力、軍部内右派の力を利用して打倒したのだ。米国と国際金融機関は、第三世界諸国に新自由主義政策を押し付ける最初の実験場として、軍政下のチリを選んだ。以後、この地域全体が、世界に先駆けて新自由主義路線によって席捲された。私たちも、その後この政策路線がどんな社会を作り上げるものであるかを、身をもって経験することになる。

手酷い経験を積んだラテンアメリカ地域では、1990年代以降、新自由主義を批判する民衆運動が盛んになった。多くの国々で、有権者は、グローバリズムに懐疑的か批判的な政治家を政権の座に就けた。20世紀末から21世紀初頭にかけて、この地域は、政府レベルにおいても民衆レベルにおいても、「反新自由主義」「反グローバリズム」の一大潮流を形成していた。それまで、政治的・経済的・軍事的に圧倒的な影響力をこの地域全体に及ぼしていた米国は、当然にもその存在力を失った。そのぶん、この地域は安定したのだ。軍政時代の圧政に関して真実を明らかにする試みがなされた。いくつかの国々は、相互扶助・連帯・協働の精神に基づいて貿易圏をつくり、「南の銀行」をつくり、欧米メディアによる独占を打破する独自のテレビ局を国境を越えて創設するなどの試行錯誤にも着手した。身勝手なふるまいをする大国が影響力を失うと、その地域社会は相対的に安定する。この事実は、しっかりと胸に刻むに値する。

この「反グローバリズム」潮流は、この間、逆流にさらされている。現在、問題がもっとも顕在化しているのはベネズエラだ。先に触れた、この地域における米国の存在感が薄れた時期にあっても、米国が石油大国=ベネズエラへの利害上の関心を失うことはなかった。2002年、反グローバリズムの推進者、前大統領チャベスを打倒しようとしたクーデタの試みの背後には、ブッシュ政権下の米国がいたことも明らかだ。現在、民衆を極限的な危機に追いやっている食糧と医薬品の欠乏は、米国による経済制裁によるところが大きい。過酷な経済制裁を科しながら、時至れば「人道支援」の名の下に救援物資を輸送するやり口も、常套手段だ。米国の罪は大きい。同時に、現マドゥーロ政権の反民衆的な政策を見逃すわけにもいかない。チャベス時代にはあった革命過程への大衆参加を欠いた独裁傾向、したがって集団的意思決定メカニズムの欠如、飢えた民衆の抗議行動に対する血の弾圧、重大な人権侵害を繰り返す治安部隊の放置、それゆえの軍関係者の重用、政治家の汚職――これらの現実を見れば、米国の介入と国内寡頭勢力の陰謀にだけ原因を帰していては、現在の事態を十全に把握できないことがわかる。これは、「革命」政権あるいは「改革派の」政権が基層の大衆から浮き上がるにつれて、世界のどこでも常に繰り返されてきたことだ。社会変革の過程の一つひとつが、独裁とも権威主義とも相容れない。それを譲ることの出来ない論理的根拠とした状況論が必要なのだ。               (3月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[104] 歌会始と天皇が詠む歌


『反天皇制運動 Alert 』第32号(通巻414号、2019年2月5日発行)掲載

自分で歌を詠むわけではないが、ひとが詠んだすぐれた(と私には思われる)歌には親しんできた。若いころは、岡井隆(1928~)の歌が身に染みた。岡井の作品に触れたのは、ほかでもない、1957年に「定型論争」を交わした吉本隆明によって岡井が口汚く罵られている文章を読んだからだった。マルクスがプルードンに、レーニンがカウツキーに、信じられない悪罵を投げつければ投げつけるほどに、後者の言い分への関心が掻き立てられるのに似ていた。

「軍略の深々として到らざるなき/アジア東北に生きて来にけり」「アメリカに対う思いのかくまでに/おだやかにして真夜中のジャズ」「病み痴れし老いを遺せる射殺死を/かれら端的に〈犠牲死〉と呼ぶ」「にんにく・牛の胃(せんまい)をうる灯が見えて/ここから俺は身構える、何故?」――「遅れてきた青年」としての私は、敗戦直後の1950年代を生きていた一世代上の人びとが、アジア・アメリカ・〈闘争死〉・朝鮮に対して抱いていたヒリヒリした感情に触れたと思った。小説の世界では、小林勝(1927~71)や初期・井上光晴(1926~92)の作品がそうであったように。

岡井にはこんな歌もあった。「天皇の居ぬ日本を唾(つばき)ためて想う、朝刊読みちらしつつ」「皇(すめら)また皇(すめらぎ)といふ暗黒が復(ま)た杉の間に低くわらへる」――これらの歌の背後には、「文学以前の行事」でしかない歌会始に関わる歌人に対して、「あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ」と迫る岡井の、1960年における確固たる天皇観と文学観があった。

その岡井が、33年後の1993年になって、宮中歌会始の選者となった。衝撃だった。少なからぬ人びとが行なった岡井批判の文章も、岡井自身の弁明の文章も読んだ。私は岡井の弁解に納得できず、ここに引いたと同じ歌に触れながら、批判の小さな文章を書いた。当時の岡井の歌が、その行き着いた地点を余すところなく語っていた。「歌会始選者の難も申し上ぐ/しずかに笑う勤皇者かれは」。

無残なものだと私は思った。それ以降、天皇と皇后の歌は、以前にもまして注意深く読むようにしてきた。また、内野光子の『短歌と天皇制』(風媒社、1988年)や『現代短歌と天皇制』(同、2001年)にも出会った。短歌には、〈私〉性に徹することで広く開かれてゆくであろう世界があるにもかかわらず、なぜ天皇制や国家に呪縛されて、そこに絡め取られてゆく者が絶えることがないのか。内野はそのことを精緻に分析していると思った。

今年の宮中歌会始は1月16日に開催された。天皇は「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」と詠んだ。阪神大震災で犠牲となった少女が、生前隣家の小鳥に与えていたヒマワリの種が翌年大輪の花を咲かせた。震災復興の象徴とされた種は全国に配られた。それは天皇・皇后にも贈られた。ふたりは皇居の庭に種を撒き、それがいま大輪の花を咲かせているという〈物語〉がメディアでは語られている。死亡した少女の姉も子どもを授かったばかりであることが強調されて、ヒマワリの開花と赤子の誕生は「生命賛歌」として完結していくのである。媒介者が震災で亡くなった少女である限りは、〈私〉的には、哀しみの中でのそんな喜びもあり得るだろう。それが、なぜ、「被災者に心を寄せる」天皇・皇后をも媒介者として語られなければならないのか。そのカラクリを見極めなければならぬ。

歌会始で詠われた皇族たちの作品を読みながら、そんなことを考えていたころ、内野には『天皇の短歌は何を語るのか――現代短歌と天皇制』と題する著書もあることを遅ればせながら知った(お茶の水書房、2013年)。この書には「天皇の短歌、環境・福祉・災害へのまなざし」と題する章がある。そこで内野は、「象徴天皇制における天皇の政治的立場は中立を標榜するが、その実態は、環境・福祉・災害対策などの余りにも貧弱な施策を、視察、見舞い、お言葉、会見時の質疑での回答、そして年間でわずかしか公表されない短歌という形で、厚く補完する役割を担っている」と結論づけている。もちろん、天皇・皇后が詠む短歌については、個別の作品に基づいての解釈と分析がなされるべきことではあろう。短歌作りを楽しむ人びとの裾野の広がりを思えば、わずか31文字の表現世界に凝縮しているものを侮ることはできない。

(2月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[103]精神的な葛藤や模索の過程を欠く「紋切型」の言葉


『反天皇制運動 Alert』第31号(通巻413号、2019年1月15日発行)掲載

1980代の半ば頃だったか、某紙のジャーナリストに「何かと言えば、第三世界、第三世界……という物言いに、私は最近ウンザリしてきているんです」と言われたことがある。私が「低開発国」ボリビアの映画集団ウカマウの、〈映像による帝国主義論〉というべき作品の何本目かを輸入し公開するので、試写会へ来てもらえないかと電話した時の答えが、それだった。私には心当たりがある。「日本の繁栄はアジアをはじめとする第三世界の貧困の上に築かれているということを忘れるわけにはいかない」――これは当時の〈第三世界主義者〉たちの「決まり文句」になり始めていた。「紋切型の言葉」は、いつも、発語する者の精神的な葛藤や模索の過程を欠いている。だから、虚しく響くことがある。私も何度か言っただろう。私自身がその物言いに違和感をおぼえ始めて、何とかしなければと考えていた頃だった。決め台詞を吐く以前に、もっと歴史的・論理的な展開をしなければならない、と。高度消費社会の只中で、ひとり覚めている感じの物言いもよくない。だから、私に限らず、この種の言論や集会をよく取材してくれていた彼女の、率直な言葉が胸に響いた。

同じ頃の次の挿話も覚えている。吉本隆明が、川久保玲のコム・デ・ギャルソンの〈高価な〉衣装をまとったモデルとして『アンアン』誌に登場した。それを埴谷雄高が次のように批判した。――「吾国の資本主義は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に『火事場泥棒』のボロ儲けを重ねに重ねたあげく、高度な技術と設備を整えて、つぎには、『ぶったくり商品』の『進出』によって『収奪』を積みあげに積みあげる高度成長なるもの」を遂げた。そして、「アメリカの世界核戦略のアジアにおける強力な支柱である吾国の『ぶったくり資本主義』のためにつくしているあなたのCM画像を眺めたタイの青年は、あなたを指して、『アメリカの仲間の日本の悪魔』と躊躇なくいうに違いありません」(『海燕』4巻4号、1985年、福武書店)。

埴谷が、「国内の現実に依拠」した論理によってではなく、突然のように第三世界=タイの青年を持ち出して行なった吉本批判の在り方に危うさを感じた。私にとって思想的に最前線にいたはずの埴谷が、古めかしい〈社会主義者〉に見えた。吉本は独自のファッション論を展開した。「衣装のファッションの反対物は、すべての制服、画一的な事務服や作業服だ。ファッションが許されなかったあの戦争時代には、男性には二種類くらいの国民服が制定され、女性はモンペ姿が唯一の晴れ着であり、作業衣服であり、ふだん着だった。女性たちはわずかに生地の模様を変化させるくらいがファッション感覚の解放にあたっていた。統制と管理と、それにたいする絶対の服従が必要な権力にとっては、制服は服従の快い象徴にみえるし、ファッションはいわば秩序を乱す象徴として、いちばん忌み嫌われるものだった」(『アンアン』446号、1984年、マガジンハウス)。

ビートたけしがこの論争に介入し、ふたりを独特の方法で茶化した(筑紫哲也編集長時代の『朝日ジャーナル』誌上だったと思うが、いま手元にない。冴えていて、面白かった記憶だけが残っている)。埴谷-吉本論争は、ソ連体制が崩壊する6年前の1985年に展開された。これ以上の詳説や評価を行なう紙幅はないが、時代状況的にいってもいかにも示唆的なものを孕んでいた、と今にして思う。

韓国大法院が「徴用工」問題で日本企業に賠償を命じる判決を下して以降、植民地支配と侵略戦争をめぐる論議が日韓両国で改めて起こっている。このコラムでも繰り返し述べてきたが、20世紀末以降、植民地支配を「合法」としてきた従来の国際法解釈は、ヨーロッパ中心主義的偏向であるとして再審に付されている。植民地と被植民地の関係が非対称的であったことが問われているのである。日本政府、メディア、それに誘導された日本世論は、国際法の位置づけをめぐる捉え方の変化を認めず、「何を今さら」という反韓・感情論に流れるばかりである。しかも、安倍政権の持続が象徴するように、それを支える社会的な根っこは太く、根深い。私たちの議論が「決まり文句」や「紋切型」に終始せずに説得的なものであるためには、私たちもまた、その歴史観と論理性が問われていることを自覚したい。

(1月12日記)

表現が萎縮しない時代の証言-―天皇制に関する本6冊


『週刊金曜日』2019年1月11日号掲載

1、           坂口安吾『堕落論』『続堕落論』(ちくま日本文学、2008)

2、           深沢七郎『風流夢譚』(『中央公論』誌、1960年12月号)

3、           豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008)

4、           朴慶植ほか『天皇制と朝鮮』(神戸学生・青年センター出版部、1989)

5、           加納実紀代『天皇制とジェンダー』(インパクト出版会、2002)

6、           内野光子『現代短歌と天皇制』(風媒社、2001)

1 敗戦の翌年に書かれた掌編二つ。「天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言う」が、「常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手」である。軍部はこの奥の手を知っており、「我々国民またこの奥の手を本能的に待ちかまえて」いる。だから、「8・15」は日本社会全体の合作だった。「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ」。安吾独特の〈反語法〉が冴えわたる。

2 15年後に現われた安吾の継走者は、深沢七郎か。『風流夢譚』は、2019年にその座を去り行こうとしている現天皇・皇后の結婚の翌年に発表された夢物語である。つまり「絵空事」なのだが、そこでは、「左慾」の「革命」が起こり、実名の皇太子夫妻の首が斬られたり、昭憲皇太后が「この糞ッタレ婆ァ、てめえだちはヒトの稼いだゼニで栄養栄華をして」と怒鳴られたりする。その表現が右翼を刺激して不幸な事件が起こった。天皇制を前に表現が萎縮しない時代の証言として記憶したい。志木電子書籍のKindle 版あり。

3 絵空事を離れて現実に戻ると、昭和天皇は、世上信じられているのとは逆に、戦勝国による戦犯訴追を免れた後、戦後体制の形成に能動的な関与を行なった。宮内庁御用掛を通して、米軍が長期にわたって沖縄を軍事占領する希望をGHQ(連合国軍総司令部)および米国務省に進言したことはその典型例である。沖縄の現状は、敗戦直後のこの挿話を無視しては、正確に把握できない。

4 沖縄と言えば、朝鮮はどうか。「日韓併合」が天皇の名においてなされ、朝鮮総督府も天皇に直属していたことを思えば、植民地支配と天皇制の関連を問うことを避けてはならない。昭和天皇の死の直後になされたセミナーの記録が、その関係を多面的に明らかにする。

5 著者は、長い間「銃後史」、すなわち戦時下にあって「銃後の守り」を担わされた女性の在り方を研究してきた。「産む性」としての女性、「母性」が孕む問題を考え続けた著者は、文化的に形成された「ジェンダーとしての女性」という視点を得て、そこから天皇制とジェンダーの関わりを論じる独自の歴史観に至った。

6 年頭の「歌会始」は天皇家の文化的行事として定着し、歌を詠む人が社会の裾野に広がっている。皇族が詠む短歌も、「日本的抒情」表現としての短歌の世界も、奥深く侮りがたい。「一木一草に天皇制がある」(竹内好)社会に生きている以上は。

死刑囚の「表現」が異彩を放つ――第14回死刑囚表現展


『出版ニュース』第2497号(2018年11月上旬号)掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が、この14年来取り組んできている企画には二つある。一つ目は、再審請求を行なう死刑確定者に支援金を補助すること、二つ目は、自らの内面を表現する手段を容易には持たない死刑囚が、文章・詩歌・絵画・書などを通してそれを表現する機会を提供するために「死刑囚表現展」を一年に一回開催することである。毎年7月末に応募作品の受付を締切る。だから、基金の運営に携わる私たちは、例年7月になると、今年はだれがどんな作品を寄せてくるだろうか、と心待ちの心境になる。

その7月が、今年は別な意味で、重い記憶として刻まれるものとなった。6日に7人、26日には6人の確定死刑囚に対する死刑の執行が行なわれたからである。全員がオウム真理教の幹部であった。一人の法相が、7月の2日間で13人の死刑執行命令書に署名したことになる。上川陽子法相(当時)と、最高責任者・安倍晋三首相の名前は、日本の「死刑の歴史」の中に忘れ難く刻まれるだろう。1911年、冤罪事件として名高い「大逆」事件で、12人の人びとに対する死刑が執行された百年以上前の歴史的過去が蘇る思いがする。

オウム真理教は、犯行現場に証拠をたくさん残しても、警察の捜査の手が自らに及んでこないことで国家権力を見くびったのか、「国家権力とたたかう」ために省庁を設けて担当大臣や次官を任命した。軍隊と警察を有する国家が独占している殺人の権限を自らも獲得しようとして、他者を殺戮できる兵器や毒ガスの開発に全力を挙げた。最初の日に執行された七人はそれら省庁の「大臣」だった。悲劇的な形で「国家ごっこ」に興じた彼らは、「真正の」国家権力によって処断された。だが、創設からわずか10年程度の活動期間しか持たなかったオウム真理教から派生する問題を、今回の処刑にのみ収斂させるわけにはいかない。神奈川県警が、1989年11月の坂本弁護士一家殺害事件の捜査をサボタージュしていなければ、その後のオウム真理教の増長は実現しなかっただろう。人生上の模索や迷いの解決や救いを一新興宗教に求めた青年たちが、松本サリン事件と東京・地下鉄サリン事件で多くの人びとの命を奪い、負傷させ、後遺症で苦しめることになるむごい犯罪に走ることは避けられただろう。その意味で、オウム真理教に関しては、その生成から発展の全過程が今後も検証されなければならない。とりわけ、警察・検察・裁判所・拘置所、そして弁護団が関わった司法の分野では、究明されるべき課題が数多くあるだろう。

このような視点からすると、死刑囚表現展は、応募する人の在り方(起こした事件とその後)や作品表現を通して、司法界の現状や社会の全体状況が浮き彫りになるような重要な役割を果たしつつあると改めて実感する。

今年の絵画応募者の中に、常連の宮前一明(旧姓、佐伯・岡崎)さんがいる。7月26日に処刑された6人のうちの1人である。彼は坂本弁護士一家殺害に関わった後に教団の在り方に疑問を抱き脱退した。事件の3ヵ月後(1990年2月)には神奈川県警に手紙を送り、遺体の埋葬場所を地図入りで教えるなど、客観的には自らがなした行為への「悔い」がなければあり得ない行動をとっている。右に述べた神奈川県警の捜査サボタージュとは、こんな「垂れ込み」情報を得ながら、同県警が真剣な捜査を怠ったために、オウム真理教によるそれ以降の悲劇的な事件が数多く起きたことを指している。その宮前さんは、表現展初回から、断続的にだが主として絵画作品を応募してきた。その表現の方法は変貌に変貌を重ねた。いつからか立体的な作品を寄せる人が出てきたが、宮前さんが2014年に「糞掃衣」と題して出品した作品は、着古しの作務衣だった。意想外な「表現」に、「まるでコム・デ・ギャルソンみたい」との感想すら出た。選考委員の北川フラム氏は、彼の作品の変貌過程を指して「美術の系統発生をひとりでやっている」と評したが、それは頷ける評言だった。

宮前さんが2016年に支援者を通じて送ろうとした作品は、東京拘置所当局の妨害にあって、運営会の手元には届かなかった。今年3月名古屋拘置所に移送された宮前さんは、6月5日には拘置所幹部3人に囲まれて、「マスコミを相手にするな」「マスコミに送った絵は返品させるか活用しない旨の約束を取り付けろ」「新作や近況をマスコミに知らせるな」「マスコミの質問には回答するな」などと申し渡されている。他の死刑囚からも、拘置所当局による通信妨害や作品送付妨害の報告が届いている。獄中者は、さまざまな嫌がらせと妨害に抗しながら作品を送ってくれていることを忘れたくない。同時に、死刑囚が「表現」することを、なぜこれほどまでに拘置所当局が恐れ、妨害するのか――「公務」に携わりながら、「死刑」制度にまつわることはすべて「秘密」にしておきたいという隠蔽体質が染み渡っている当局の在り方から、国家権力の本質を掴みたい。

絵画では、奥本章寛さんの作品が心に残った。12枚の絵が描かれ、カレンダーとなっている。村祭り、花火大会、村はずれの水車など、死刑囚である自分にはもはや見ることも叶わぬ風景がきちんと描かれている。子どもの時の情景を思い出したこの種の絵に、この表現展ではよく出会う。描いた人の気持ちを思うと、胸を衝かれる。

西口宗宏さんの作品は「郷愁」とは縁遠い。B5の紙を8枚組み合わせた「今夜は満月」は、トイレと掃除用具のそばに作者の名札を付けた人物が骸骨化して横たわっている。上部には満月が輝いているが、ルーバーに妨げられて、よくは見えない。獄の外と内のコントラストが目に染みる。「自画像」との但し書きのある「届かぬ光・阿鼻叫喚」も忘れ難い。自画像の頭部上方に広がる空間には、まがまがしい表情の幾人もの人物が居座り、その目の表情にすごみがある。全体の構図では「償いと赦し」の可能性と、「なお続く憎しみ」の現実が描かれているのか。左右の吹き出しには般若心経が書かれているが、その間に記されたローマ字表現が切ない。「OKAACHAN DAKISHIMETE」「SHIKEI WA KOWAI」「HONMANI GOMENNASAI!?」

風間博子さんの絵画表現に変化が露わになったのは、数年前からだったか。冤罪を訴える彼女は、光を求めてなお闇の中に閉じ込められる自分の姿を描き続けた。今や明暗のはっきりした構図は消え、テーマは多面化した。「命―弐〇壱八の壱〈面会の母は深めの夏帽子〉」もよいが、私は「同・参」に深い印象を受けた。空を飛ぶ鳥や蝶、地上を駆ける動物たち、地面に生えるキノコ、海を泳ぐ魚たち――空と地と海は渾然一体化して、境界はなく、創世神話のような世界が繰り広げられている。描き方の細密さは深みを増している。裁判の現状には絶望を深めているに違いない彼女の表現は、想像力でどこへ向かうのか、注目したい。

文章表現では、加藤智大さんから選考委員が挑戦を受けた。「言論で僕を殺した貴方には死刑廃止を説く資格なし」と大書された1枚を表紙に、「やはり表現展さえ居場所なし」と続く。それでも、応募を続けてくる彼の気持ちを受け止めたい。いくつもの作品があるが、「人生ファイナルラップ」が読ませた。おそらく自分の半生をたどったものだろう。韻を踏み、表現力も豊かだ。私が現実のラップを聞いたのは数少ないが、加藤さんのこの作品をいつしか音楽にのせて口ずさむ自分に気づいた。彼は絵画作品も応募していて、「何力リスペクト―言葉遊びは楽しいよね!」=「君の縄」は、他の応募者にエールを送りつつ、社会の流行現象ともなったアニメ「君の名は」を生かした巧みな表現だ。言葉遊びのようでいて、底は浅くない。

時事川柳と時事短歌に特化したかのような兼岩幸男さんは、毎年ほんとうによく「時事」を見つめている。制限の多い獄中という狭い空間に身はありながら、精神的にはこの限界を突破しようとして、精いっぱいに世相を詠んでいる。

菜の花や月は東に日は西に 基地は南に火種は北に

10年ほど前の作品だったが、「時事漫画」も人物がよく描けていて、風刺も効いている。不思議な才を持つ人だ。

檜あすなろさんも時事に迫ろうとしている。戦争が露出してきた日本の情勢を視野に収めた「三つの選択し」(2016年応募)は、「どうせ殺される」死刑囚が国家によってひそかに戦場に駆り出される物語であり、筆力次第では、大げさかもしれないが星新一や筒井康隆の世界に迫るかと注目した。今回はその「補訂」版の他にも、働き方改革や裁判員裁判の導入などの「時事」を取り込んだ作品を応募している。だが、作品化の内面的根拠は薄弱だ。檜さんは当初、自分が起こした事件をモデルにしたと思われる作品を書いていた。その事件との向き合い方、被害者の女性の描き方――それが他人事のようで、胸に迫ってこないと厳しく批判した記憶がある。テーマは変わった今回の作品についても、同じことを言いたい。十分な表現意欲の持ち主なのだから、必ず壁を突破できよう。

俳句と短歌の響野湾子さんの作品に今年も心惹かれた。殺めた人、死刑囚としての自分、処刑された死刑囚をめぐる重苦しい作品が打ち続く。なかには、例年のように、

柔らかき物に触れたく、この独房(へや)を くまなく探がす 無きを悟(し)るまで

などの秀作が散見される。そんな中で、私には他の二種類の作品が印象的だった。一つは看守を謳った作品。

狂(ふ)れおりし心無き人 処刑せる 朝より担当 言葉雫さず

「星」軽き看守のままで定年す 囚徒に優しき 背の広き人

日常的に接する看守のなかに、作者がこのような想いを抱く人物がいることに救われる思いがする。二つ目は、シュールな形で情景が目に浮かぶ作品。

誰れからも声掛けられぬ 日が続き 月の駱駝が 呼ぶ声がする

執行のありし日の昼 不思議なる蝶の群れに 格子の隙間

色彩もなく、自然の風景が奪われている獄中で、色とイメージとが目にありありと浮かんでくる歌を謳うことは、こころを奮い立たせることだろう。

保見克成さんの「川柳小唄かつを節」には、作者に対して失礼ではないと思うが、笑った。

入浴日、女医が裸で、バタフライ。貴方は下で、平泳ぎ

妄想か、ブーツを履いて、尻出して、女医が息子と、カーニバル

着替え中、カメラに見られ、乳隠す、パンツを脱いで、ポーズとる

これらの歌の「壊れぶり」はどうだろう。無意味なようでいて、情景は目に浮かぶ。そして、クスッと笑わせる。30年間を獄中で暮らしたマルキ・ド・サド侯爵は、幽閉の中でどんなに妄想を逞しゅうして、『ソドム百二十日』『悪徳の栄え』などの世界を創り出したことか、などと連想する。すると、1789年のフランス革命下、バスチーユ監獄に囚われていたサドおよび執筆中の原稿をめぐるエピソードも思い出され、他方、獄中における「性」の問題にも思いは及ぶ。受刑者には男が多いが、恋人や妻が監獄を訪れて、一夜を共に過ごすという実例も、国によっては見聞きする。死刑囚の場合でもこんな例があるかどうかは知らないが、作品を介して、こうして開かれてゆく視野をこそ大事にしたいと思う。

何力さんの日本語理解力の向上はめざましい。

終戦日お詫びの言葉消えにけり 我は死ぬまでお詫びが続く

参加賞一回分の爆買い額

任意に、興味深いいろいろな歌や句を挙げることができる。掲句は、表現展への応募者には参加賞としていくばくかの現金が差し入れされることを詠んだ作品。「爆買い」するには少額だろうが、獄中のつましい日常がうかがわれよう。何力さんが、逮捕後の取り調べ・調書づくり・裁判の過程などに大いなる不満を抱いていることも、作品から知れる。外国からの労働者の受け入れがますます進行する情勢の下で、外国人といかに共生するかが問われる。「外国人=犯罪者」などと公然と主張する者たちが現実に存在している。彼らは、移民や難民を排斥する動きが世界各地で噴出している情勢に、彼らなりの自信を深めている。入管収容所における外国人への不当極まりない虐待も明るみに出ている。このような社会にあって、不幸にして犯罪に手を染めた外国人がどのような取り調べ・裁判・拘置所や刑務所での処遇を受けているかは、軽視できない問題である。数は少ないが、外国人の死刑確定囚の表現から汲み取るべき課題は重層的である。

西山省三さんの短歌と俳句には、いつもしみじみとした思いが沸くが、今年は「(怒・怒・怒・怒・怒)」と題して、怒りの歌が多い。

豪雨禍に何がカジノじゃ馬鹿たれが 被災地域の怒る声聴け。

鏡を磨いて磨いてと心うらはら 一度に七名をばあさんは吊る。

他方、こんな川柳も詠む「余裕」を持つ人でもある。

耳遠くなるが小便近くなる。

晴耕は怠け雨読は眠くなり。

生真面目な怒りをぶつける歌の背後に、こんなにもとぼけた世界を合わせ持っている作者への共感の念は深い。

小泉毅さんの「特殊相対性理論」に関する論文は、選考委員のだれ一人として理解できなかった。ご本人もそう予想して、これを理解できる専門家に読んでほしいとの添え書きがある。奇特な方からのお申し出を待ちたい。

絵画の応募者は17人、文章作品の応募者は18人だったので、ここで触れることのできなかった作品も多々ある。紙幅の制限ゆえお許し願いたい。今年の受賞者は、以下のようになった(敬称略)。

【絵画部門】細密賞=風間博子/発明賞=加藤智大/カオス賞=西口宗宏/エターナル賞=宮前一明
【文章部門】優秀賞(短歌)=響野湾子/キラキラ賞(「人生ファイナルラップ」)=加藤智大/ユーモア賞=兼岩幸男/敢闘賞=西山省三

*        *        *

先に、保見さんの作品を評して「壊れぶり」という言葉を用いた。それは、想像力上の「壊れぶり」だから、笑えたり、刺激を受けたりもする。他方、日本と世界の政治・社会・メディアなどの「壊れぶり」はどうだ。それは「超劣化」と同義語だ。人びとの日常生活に否応なく大きな影響力を及ぼす政治的権力者が、論理も倫理も失って愚劣な政策を推し進める。同じく劣化した社会には、無念なことには、それへの批判力も抵抗力も喪われている。批判する自由も、抵抗する自由も存在しているのに。

憤怒を抱えてそんな日常を生きる中で、今年も死刑囚の表現に触れた。自由を奪われて、ネット社会の猥雑さと利便性の「恩恵」とも無縁に生きる死刑囚の「表現」が、異彩を放って見えた。自分以外の誰からも生まれない、唯一無二の「表現」を生み出すための試行錯誤が試みられている。総人口との対比で言えば、およそ百万人に一人に相当する死刑囚から生まれてくる「表現」に目を凝らし続けたい。

(10月16日記)

状況批評(思想・状況・批評) 米国へ向かう移民の群に何を見るべきか――日本への警告


『反天皇制運動 Alert』第30号(通巻412号、2018年12月4日発行)掲載

今から40年以上も前、私は当時放浪していたラテンアメリカ地域で幾度も陸路の国境を越えた。多くの場合、或る国の出国手続きを税関で終えると、次の国の入国税関までは、牧歌的な野山の風景の中を何百メートルか歩くと、目的の建物へ着いた。大都市に直結する国際空港と違って、陸続きの国境はどの国にとっても「辺境」にあって、税関にも必要最小限の人員しか配置されておらず、出入国手続きを管理してさえいればいいのさ、という印象を受けた。税関職員も、その国が厳格な軍事政権下にない限りは人懐っこく、あれこれ冗談を言いながら、ゆったりと「職務」を果たすのだった。国境付近に住む人たちは、お互いに旅券なしで自由往来しながら、お互いの田畑で収穫した物の売り買いや物々交換をしていた。それは、「国境」なるものの人為性を思わせられる光景であって、したがって、大げさに言えば、国境なき/国家なき「類的共同体」の未来像を幻視できる現場でもあった。

だが、最初に越えた国境は違った。ロサンゼルスでしばらく過ごした後、本来の目的地であるメキシコへ陸路で向かった。サン・ディエゴでグレイハウンド・バスを降りて、何車線もの広い車道の脇を通って、米国の出国税関に入る。メキシコへ向かう米国人の車はぎっしりだが、旅人以外に歩いている者はいない。無機質というかビジネスライクというか、およそ人間味のない応対を受けて後、しばらく歩いてメキシコ側へ着く。饒舌な税関職員とのやり取りを終えて、税関の外に一足歩み出ると、そこはカオスだ。荷物を持ってあげる、ホテルに案内するよ、タクシ―に乗らないか、ピーナツは要らないか、マンゴーだよ――ありとあらゆる声が掛かってくる。幼い子どもたちも多い。大丈夫、自分でやるし、今は要らない――と遮りつつ、こころは、なぜか、浮き立つ。人間臭いその雰囲気は、数週間過ごしたロサンゼルスのそれとはまったく違うのだ。メキシコ側の国境沿いのその町は、ティファナといった。見える景色、建物の様子、ひとの顔立ちも振舞い方も一変した。米国との貧富の差は、もちろん、歴然だ。メキシコを舞台にしたサム・ペキンパーの映画のシーンがいくつも目に浮かぶようだ。

それから45年、今この町には、主として中米ホンジュラスを出て米国への入国を目指す人びとが続々と詰めかけている。米国のトランプ大統領は、移住希望者の〈長征〉が始まるや否や、国境に軍隊を配備して入国を阻止すると豪語したが、数千キロの道を歩き続ける人びとは一様に「故国ではギャングによる殺人事件が多く、とても生きてはいられない」と語っている。他方、9千人もの移住希望者が一気に押し寄せてきて、治安・衛生管理などの面で不安を抱えたティファナの住民が「移民反対」の集会を開いたとか、国境の強行突破を試みた一部の人びとに対して、配備されている米国軍が催涙ガスを発射して撃退したとかのニュースも流れた。とうとうここまで来たか、と私は思った。

ホンジュラスといえば、20世紀初頭から半世紀、米国のユナイテッド・フルーツ社が思うがままに支配した「バナナ共和国」の先駆けだ。対米輸出に圧倒的に頼らざるを得ないホンジュラスの歪な経済構造は、そこから生まれた。20世紀後半の現代になっても、ラテンアメリカ地域は、大国と国際金融機関が主導するネオリベラリズム(新自由主義)の政策路線によって世界に先駆けて席捲されてきた。それは、貧しい第三世界諸国が、資産・所得の公平な再分配や福祉に重点を置いた社会改革政策を行なわないまま、市場原理を軸にした経済の自由化や規制緩和を押しつけられる路線だ。ネオリベラリズム路線は、その後先進国にも逆流して、日本でもとりわけ小泉・安倍政権下で推進され続けられてきているから、私たちも、企業に有利な労働条件・雇用形態の改定、福祉切り捨て、公共部門の廃止と民間「活力」の採用などの政策を通して、その破壊的な「猛威」を知っていよう。

この路線の下では、第三世界諸国の場合は、融資と引き換えに、国際収支の改善と債務返済を優先させられる。バナナやコーヒーの輸出で外貨を稼いでも、それは国内民衆に還元される以前に債務返済に充てられるのが条件だから、先進国に還流してしまう。その繰り返しだ。ホンジュラスでも、1990~94年のラファエル・カジェーハス政権がこの路線を推進した。それ以外の時期でも、例えば、隣国のニカラグアやエルサルバドルが革命的な激動の時代を迎えていた70年代後半から80年代初頭においても、米国は自らに忠実なホンジュラス政権を都合よく利用した。ニカラグアに革命政権が成立した1979年以降は、ホンジュラスの米軍基地を強化し、北部国境から反革命部隊(「コントラ」と呼ばれた)を侵入させて、革命を潰そうとした(これは、ケン・ローチ監督が1996年に制作した映画『カルラの歌』に描かれているから、ご覧になった方もおられよう)。2006年、ホンジュラスには珍しくも、マヌエル・セラヤを大統領とする中道左派政権が成立すると、米国は右翼を支援して、2009年のクーデタでこれを倒してしまった。その後いかなる性格の政権が出来て現在に至っているかは、推して知るべし、だろう。総人口920万人のうち貧困ライン以下の生活者は600万人を超えているという。対人口比の殺人事件発生率も世界一高い。それが、「移民キャラバン」に加わる人びとがいう暴力の根源なのだろう。

ジャーナリスト・工藤律子に、『マラス―暴力に支配される少年たち』と題するすぐれたルポルタージュがある(集英社、2016年。現在、集英社文庫)。ホンジュラスの若者ギャング団「マラス」を取材した本書は、今回の事態を予見したかのような好著だ。工藤によれば、ホンジュラスでマラスの存在が表面化したのは1990年代初頭である。新自由主義路線に忠実な、前記ラファエル・カジェーハス政権期に重なり合う。当時、米国はカリフォルニア州知事が、犯罪歴のある中米出身の若者たちを本国へ送還する追放策を実施していた。ホンジュラスにも3千人の若者が戻ってきた。

ラテン系住民がもともと多いカリフォルニア州では、1929年の世界恐慌以来、極貧状態・家庭崩壊・失業・雇用機会の欠如・低い教育水準・差別などの社会問題を背景に生まれた若者ギャグ団が「脈々と」受け継がれている。米国の移民政策には、レタスの収穫期のような繁忙期になれば「不法」入国者であっても雇用し、閑散期になると国外追放するという一貫した路線がある。これでは、右に挙げた社会問題が一向に解決され得ないことは、容易に見てとれよう。故国に追放された3千人の若者の、ホンジュラス→米国→ホンジュラスという往還をめぐる物語は個別にあるには違いないが、背景には共通のものがあろう。追放された1990年以降の時期にそれら若者の年齢が20代から30代であったと推定するなら、時代的には以下の共通の背景が考えられる。(1)米国政府と多国籍企業によるホンジュラスの政治・経済・社会の全的支配、それは同国の「国家主権」を侵すほどの水準だろうが、国内には米国に癒着してこそ利益が得られる一部寡頭階級が伝統的に形成されていよう。(2)若者たちは、その体制の下では仕事がないからこそいったん米国へ出たのだが、故国に戻っても、政権が追従している、社会的格差を是正する政策を欠いた新自由主義路線の下にあっては、働き口は容易には見つからなかっただろう。(3)社会の最下層に押し込まれた人びとが掴まされている、底辺に澱のように、しかも重層的に積み重なった「マイナスのカード」をひっくり返すのは容易なことではない。(4)ニカラグア革命を潰す「コントラ」戦争への加担を強いられる中で、圧倒的な軍事力を誇る超大国の「価値観」を多かれ少なかれ刷り込まれただろう。米国が、自分の国(ホンジュラス)に設置した軍事基地を最大限に活用して、他民族(ニカラグア)の土地で発動する「低強度戦争」を見て育った彼らは、超大国が「敵」にふるう有無を言わせぬ暴力の「価値」を、哀しくも、身体化せざるを得なかったかもしれない。

他にも共通の背景を挙げることはできようが、これで十分だろう。政治の任に当たる国内政治家とそれを支える外部勢力が、そこに生きる人びとがまっとうに生きることのできる条件を整備するどころか真逆の政策を採用し、それによって一部の者たち(外部の超大国と国際金融機関、および国内の少数支配層とその取り巻き連中)の手に富を集中させ、その路線を実現するために必要とあらば躊躇うことなく暴力(戦争)をふるう――これこそが、幼かった/少年だった/青年になりかけていた彼らが見せつけられ、身に染みて体験した世の中の現実だった。彼らが仕事を求めて行き着いたロサンゼルスで、またホンジュラスは首都のテグシガルパに送還されて、個人や集団(マラス)のレベルで、かの国家に似せたふるまいをしたところで、いったい誰がそれを非難できよう?

歴史的に見て、古今東西南北、「国家(=政府)」の側がこのような自らの所業について反省し、生き直すことはきわめて稀だ。ホンジュラスに対して一世紀以上にもわたって、右に見たような不正常な関係を一方的に押しつけてきた米国の現大統領の発言は、そのことを一点の曇りもなく証明している。だが、工藤の書『マラス』は、かつてこの集団に属して乱暴狼藉の限りを尽くしていた元若者が、その後送っている別な人生の在り方を、最終章「変革」で描いている。その前の章では「マラスの悲しみ」も描かれていて、「生まれつきのマラス」ではあり得ない人間の変革可能性が暗示されている。

ホンジュラスを出発した「移民キャラバン」の因果の関係をいくらか長く述べてきたのは、ほかでもない、「移民問題」に関わって日本の現状を対象化するために、である。排外主義的な本質を陰に陽に見せつけてきた安倍政権は、2018年6月、いわゆる「骨太の方針2018」を閣議決定し、新たな外国人労働者受入れ制度の創設を表明した。外国人労働者の導入は、安倍政権の支持基盤である排外主義的右翼層の離反を招きかねない「危険な」政策である。法務省が「出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案の骨子について」を公表したのは10月12日のことだった。衆議院での審議入りは11月13日、それから2週間有余の現在(12月1日)、政府はろくな答弁もできないままに衆議院を強行通過させ、審議は参議院に回されている。審議が深まって、いろいろな現実があからさまになっては困るのだろう。外国人労働者を「雇用の調整弁」としか考えていない政府・企業・社会の現状では、移民受け入れの長い歴史の果てに現在がある米国とも違う深刻な問題を私たちは抱えることになるだろう。今ですら、食い物にされてきた実習生や性産業に働く女性たちの怨嗟の叫び声が、この社会の片隅には充満しているのだ。「偏見」が商売になり、政治家の嘘なぞには誰も関心を寄せなくなったこの社会には……。

(12月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[102]東アジアにおける変革の動きと、停滞を続ける歴史認識


『反天皇制運動 Alert』第29号(通巻411号、2018年11月6日発行)掲載

『JSA』と題された韓国映画が日本で公開されたのは2001年だった(パク・チャヌク監督、イ・ビョンホン、ソン・ガンホ主演。製作は前年の2000年)。板門店の「共同警備区域」(Joint Security Area)で朝鮮人民軍の兵士が韓国軍兵士に射殺される事件を起点に、「許されざる」友情を育む南北の兵士たちの姿を描いた力作だった。見直さないと詳論はできないが、朝鮮国の兵士を独裁者の傀儡としてではなく「人格をもつ」人間として描いたことから、映画は退役軍人を主とする韓国保守層から厳しい批判を受ける一方、若年層が朝鮮への親近感を深めるきっかけとなったという挿話が印象的だった。

そのJSAの非武装化が、去る10月25日までに実現した。すべての武器と弾薬の撤収が完了したことを、南北の軍事当局と国連軍司令部が共同検証した。今後は、南北それぞれ35人ほどの人員が武器を持たずに警備に当たるという。これらはすべて、去る9月19日に当事者間で締結された「軍事分野合意書」に基づく措置だが、この全文は一読に値する。

→https://www.thekoreanpolitics.com/news/articleView.html?idxno=2683

4月27日の板門店宣言以降の5月間のうちに、軍事上の実務当事者同士が重ねた討議の質的な内容と速度とに驚くからである。それは、「無為に過ぎた」と敢えて言うべき以下の期間と対照させた時にはっきりする。JSAが設けられたのは、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定によってだから、そこから数えると65年が経っている。朝鮮人民軍の兵士が米軍将校2人を殺害した1976年8月の事件以降、それまで非武装だった警備兵士たちが武装するようになった時から数えると、42年ぶりの非武装化ということになる。最後に、映画『JSA』の製作年度との関連で言うなら、四半世紀有余を経て進行している事態である。いずれにせよ、人類が刻む歴史では無念にも、これだけの時間を費やさなければ根源的な変化は起こらない。それを繰り返して現在があるのだが、いったん事態が動き始めた時の速度には目を見張るものがある。11月1日からは、陸・海・空の敵対行為も停止された。今後も困難を克服して、東アジア地域の平和安定化のための努力が実りをもたらすことを願う。

こう語る私の居心地の悪さは、どこから来るのか? 翻って私の住まう日本社会は、この平和安定化にいかに寄与しているかという問いに向き合わねばならず、現状では官民双方のレベルで、肯定的な答え方ができないからである。これまでも何度も指摘してきたが、2018年度になって和平に向かって急速に流動化している朝鮮半島情勢に関して、日本政府や(時に)マスメディアが、この動きに警戒心を示し、ひどい時にはこれを妨害するかのごとき言動を行なってきていることは、誰の目にも明らかであろう。軍事力整備の強大化、自衛隊および在日米軍の基地新設・強化を推進している日本政府の政策路線からすれば、東アジア世界で進行する平和安定化傾向は「不都合な真実」に他ならないからである。

そこへ、新たな難題が生まれた。韓国最高裁が、1939年国家総動員法に基づく国民徴用令によって日本の工場に動員され働かせられた韓国人の元徴用工4人が新日鉄住金を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、同社に賠償命令を下したからである。西欧起源の「国際法」なるものは西洋が実践した植民地主義を肯定する性格を持つとの捉え返しが世界的に行われている現状を理解しているはずもない日本国首相が「判決は国際法に照らして、あり得ない」と言えば、メディアとそこに登場する「識者」の多くも「国と国との約束である請求権協定を覆すなら」国家間関係の前提が壊れると悲鳴を上げている。敗戦後の日本社会が、東アジアに対する加害の事実に正面から向き合い、まっとうな謝罪・賠償・補償を行なってきたならば、そうも言えよう。現実には、加害の事実を「低く」見積り、あわよくばそれを否定しようとする勢力が官民を牛耳ってきた。その象徴というべき人物が首相の座に6年間も就いたままなのである。植民地支配をめぐる歴史認識の変化を主体的に受け止めるための努力を止めるわけにはいかない。

(11月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[101]日米首脳会談共同声明から見抜くべきこと


『反天皇制運動Alert』第28号(通巻410号、2018年10月9日発行)掲載

移民や難民の入国規制や禁止を求めて欧州各国に台頭しつつある排外主義的な政治勢力を、正しくも「極右政党」と表現するメディアは、日本に成立した今次安倍政権を「極右政権」と名づけて報道しなければならないのではないか。「日本会議」と「神道政治連盟」に加入している政治屋たちが居並ぶ閣僚名簿を見て、かつ彼(女)らのこれまでの発言を思い起こして、つくづくそう思うのだが、こんな問題提起をしても、虚しさが募るばかりの、政治・社会・メディアの状況が続いている。だが、これが偽りのない日本社会の現状なのだ。私たちは、ここで考え、発言し、叫び、跳び、転がり、駆け、座り込み、動き回るしかないのだと覚悟して、久しい。

衝くべき問題は、いくつもある。ここでは、去る9月27日に行なわれた日米首脳会談が孕む問題に触れよう。共同声明の発表を受けて、日本での報道では「日米物品協定交渉入り合意」(9月27日毎日新聞)、「日米、関税交渉入り合意」(同日朝日新聞夕刊)などの見出しが躍った。詳しく読むと、記者会見で日本国首相は、「今回のTAG(物品貿易協定)は、これまで日本が結んできた包括的なFTA(自由貿易協定)とは全く異なる」と強調している。これは、従来から、日米二国間のFTA交渉を行なうことはあり得ないと否定してきた首相の立場に即せば当然のことだが、しかし、交渉翌日の新聞は「事実上のFTA」(毎日新聞)、「実態 FTAに近い」(朝日新聞)との見出しを付したように、マスメディアによっても問題の本質は疾うに見抜かれていたのである。

10月4日、東京新聞が共同声明のホワイトハウス発表の英語版および、在日米国大使館による仮翻訳と日本政府訳を並列し、食い違っている問題点を指摘した。私自身も原資料に当たって、検討してみた。すると、東京紙も指摘しているところだが、日本政府が公表した声明文で「日米物品貿易協定(TAG)」となっている個所は、Unitesd States-Japan Trade Agreement on goods となっており、使用されている大文字と小文字の関係性から言えば、goods はTrade Agreementと同格の位置にはないから、「物品貿易協定」と熟語的に翻訳することには無理があることがわかる。英語本文では「TAG」の略称も用いられてはいない。しかも、on goods の後には ,as well as on other key areas including services, と続いており、「物品」と「サービスを含めた他の重要な分野」を同格と捉えた表現になっていることがわかる。ここをごまかして、首相の従来の言動にぎりぎり合わせた翻訳文にするのだから、政府と官僚たちは、森友・加計問題で駆使した文書捏造技術にさらに磨きをかけるつもりなのだろう。

だが、この翻訳「技術」には既視感がある。1999年、新たな国際情勢の下で日米両政府が「防衛協力のための新ガイドライン」について協議していた。まとめられたガイドラインの正文(英語)と、政府から発表された日本語訳を読み合わせすると、微妙だが、明らかなズレが見られる。ふたつの文章は実際には厳密な対応関係にはなく、日本語文は、語る内容から「軍事色」を消すことに腐心していると私には思えた。いざ「周辺事態」が発生した時に自衛隊は米軍に「物品および役務を提供」する「後方支援」に従事することになるにもかかわらず、日本語文からは「戦争の匂い」が消えているのだ。この日米協議の場に出席していた防衛庁・陸幕調査部一等陸佐、山口昇氏(現在は防衛大学校教授で、「軍人スカラー」と呼ばれている)が公開の場で講演するというので、当時聞きに行った。氏の話を直接聞いても、ふたつのテキストを読んだ時と同じ感想を持ったので、私は「ガイドラインがまぎれもない戦争マニュアルであること」を隠そうとしているのではないか、と質問した。見解の相違で、そんなつもりはないと氏は断言した。だが、日本語文は英語正文からの翻訳ではなく、討論を経てふたつの言語で同時に起草したことは認めた。2国間の共同声明や協定が、こんな風に処理される場合もあるようだ。現在の権力者たち(政府+高級官僚)の論理と倫理の水準に照らして、今回の日米共同声明を厳しく解読すべきだろう。  (10月6日記)

スペイン語圏文学の翻訳と普及をいかに推進するか


以下は、2018年10月5日、「第3回日本 スペイン語・スペイン語圏文化国際会議」(市ヶ谷、セルバンテス文化センター)のラウンド・テーブル「編集・出版について――スペイン語文学の翻訳と普及をいかに推進するか」において、私が行なった発言の内容です。

この30年有余、私は人文書の企画・編集・営業に携わってきました。特に力を入れてきたのは、スペイン語圏の文化・歴史に関わる仕事です。出版の仕事に関わり始めたのは1980年代半ばでしたが、間もなく来る1992年に、世界の歴史の捉え方が大きく変化するだろうと予感していました。この年こそ、あのクリストファー・コロンの大航海とアメリカ到達からちょうど5世紀が経つからです。人類史の中でのこの5世紀には、重大な出来事がたくさん詰まっています。征服・植民地化・植民地から資源を獲得した欧州における資本主義の発展・産業革命・繁栄した地域への労働力移動・ひとと物の行き来――いわば、グローバリゼーションがこの過程で進行したのです。その主要な舞台となったラテンアメリカとイベリア半島が5世紀をかけて刻んだ歴史と、そこで育くまれた文化を紹介することを、私たちの出版活動の軸の一つにしようと考えたのです。日本は、アジアで唯一植民地主義を実践した国ですから、この作業は私たちの足元を見つめ直す機会にもなると考えました。

しかし、スペインもラテンアメリカも、日本からは遠い。それらの国と文化に強烈な関心を持つ人は確かにいますが、それはあくまでも少数です。どう工夫して、少しでも多くの読者を獲得するか。人間は多様です。スペイン語圏を深く理解するためには、人間の多様性に見合うように、数多くの入り口を用意してはどうか。一つのジャンルに固執しない。文学、映画、美術、音楽、デザイン、建築、歴史、考古学、文化人類学、社会思想、社会運動、社会的な証言、革命、哲学、サッカー――さまざまな分野の書物を企画し、刊行してきました。30年有余で、その数は150冊に達しつつあります。すると、私たちが刊行する書物は、次第に、スペイン語文化圏全体を小宇宙として表現するような形を成していったのです。

私たちは小さな出版社でしかありませんから、映画や音楽や美術など他のジャンルのひとたちの仕事も積極的に活用します。アルモドバルの映画がよいから、彼の本『オール・アバウト・マイ・マザー』を出す。フランコの時代末期に、その政治活動ゆえに死刑囚となり鐵環処刑された青年を描いた映画『サルバドールの朝』が評判になれば、その原作、フランセスク・エスクリバノの『カウントダウン――サルバドール・プッチ・アンチックの物語』(Francesc Escribano “Cuenta Atrás: La historia de Salvador Puig Antich”)を出版する。私たちが数多くの装丁をお願いしたデザイナーは、アントニオ・ガウディの創造性に惚れ込んで映画まで作ってしまいました。そこで、私たちもガウディに関する本を数冊出して、上映会場で売る。すると、映画という入り口からスペイン語文化圏に入った人は、そこに映し出された土地の風景や人びとのたたずまい、展開される物語に刺激されて、次は別な入り口を探し求めて、例えば文学や歴史の書物の読者になるのです。

たくさんの窓や入り口を持つことは、民族の問題を考えるうえでも重要です。スペインもラテンアメリカも、単一民族ではなく多民族によって構成されている社会です。その意味では歴史過程には重大な悲劇も孕まれており、その調査と分析も必要です。バルトロメー・デ・ラス・カサスの『インディアス破壊に関する簡潔な報告』(Bartolomé de las Casas,”Brevíssima relación de la destruyción de las Indias”)を初期の段階で出版したのは、そのためです。また現代にあっても民族差別は残っていますが、逆に、民族的な多様性が極めて寛容な社会をそこに生み出していることにも注目したいのです。日本には、日本が単一民族社会であることを利点として強調する意見があります。それは事実としても間違いであり、民族排外主義に通じる危険な考えでもあります。このような日本社会が、寛容性や異文化・異民族交流をめぐって、多民族社会から学ぶべきことはたくさんあるのです。ですから、私たちは、民族・植民地問題に関する本、覗き見主義ではない文化人類学の本などを意識的に企画・刊行してきました。

いくつか、想い出の深い出版物に触れます。

ガルリエル・ガルシア=マルケスは、日本でもよく読まれている作家です。重要な文学作品は、すでに他の大きな出版社によって刊行されていました。そこで、私たちは、彼が新聞記者時代に書いた社会面や芸能欄の記事がスペイン語で集成されていることに着目し、それを読んでみました。すると、それらの記事が、とても読ませるのです。1950年代にコロンビアで起きたちょっとした事件や出来事を扱ったその記事が、まるで、よくできた「ショートショート」の創作のように思えてくるのでした。ローマ特派員の時代には、映画好きのマルケスらしく、イタリア映画や女優たち、そしてもちろんローマ法王に関する記事があって、それも面白かった。そこで、私たちは、それを『ジャーナリズム作品集』(“ Obra Periodistica”)として刊行しました。意外な観点からの出版でしたが、かなりの読者に好感をもって迎えられたと思います。

ディエゴ・マラドーナの本も出版しました。彼はサッカーの歴史を塗りかえた不世出の天才レフティでしたが、メディアを通して実に数々の名言を放っています。いわば、「言葉のファンタジスタ」でもあります。そこで、アルゼンチンのジャーナリストがまとめた本(Diego dijo :Las mejores 1000 frases del “10 ″de toda su carrera” )を、『マラドーナ!――永遠のサッカー少年「ディエゴ」が話すのを聞いた』を出版しました。期待したほどは売れませんでしたが、スペイン語文化圏でとても人気のあるスポーツに関わる仕事ができたという満足感が得られました。

1980年代末、バルセロナを訪れた私は、或る人に紹介されて、漫画家セスク氏に会いました。ユーモアとウィット、風刺に満ち溢れた氏の漫画は、フランコ治世下でたくさん発禁になりました。彼の漫画を時代順に並べてみると、それは、さながら「カタルーニャ現代史」となるのでした。発禁作品には、上から×印を付けて『発禁・カタルーニャ現代史』を名づけて出版しました。解説は、モンセラー・ローチさんに会って、お願いしました。たぐい稀なコラボレーションによる出版でした。日本語版が世界に先駆けて出版され、カタルーニャ語版はそのあとで出たのです。

以上簡潔に述べてきたように、出版企画・編集・営業・販売などの点で、私たちなりの努力は続けてまいりました。力不足は否めませんが、小さいながらもある程度の手応えを感じていることも事実です。しかし、インターンット時代に突入して早や4半世紀――人人は指でタブレットを圧す作業に熱中するばかりで、落ち着いて書物を読むという習慣は急速に失われつつあります。当初から限定的な数の読者に向けての出版活動であった私たちは、読者のいっそうの減少、書物の売り上げの低下傾向に苦しんでいます。この傾向は、世界のどこでも起こっていることだと思います。私たちなりの工夫をさらに重ねて、この現実に立ち向かっていこうと思います。

そんな中にあって21世紀に入って以降、スペイン語圏の現代作家の作品を紹介する「セルバンテス賞コレクション」を14冊、スペイン語圏の読者にながいあいだ読み継がれてきた作品を紹介する「ロス・クラシコス」シリーズが12冊まで出版できたのは、スペイン文化省をはじめとして、メキシコ、アルゼンチン、チリなどの文化省からの出版助成があったからこそでした。「ロス・クラシコス」シリーズの12冊目、最新刊は、ここにありますパブロ・ネルーダの『大いなる歌』です。このような重要な詩集を出版できたことは、私たちのささやかな誇りです。

私たちをここまで熱中させるような文化表現を生み出してこられたスペイン語文化園の皆さまに対する深い尊敬と感謝の気持ちをお伝えして、私の話を終わります。

Muchas gracias por su atención.