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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[108]文化財返還と、終わることなき植民地問題


『反天皇制運動 Alert』第36号(通巻418号、2019年6月4日発行)掲載

多面的な視点を失い一元化された情報で埋め尽くされた日の新聞を読むのは辛い。そんなことが、とみに多くなった。もちろん、テレビニュースは論外だ。そうなるときのテーマははっきりしている――天皇制、対米関係、近隣諸地域との間で継続している植民地支配をめぐる問題などだ。いずれも、深く考え、正面から向き合って論議し、解決のための歴史的かつ現実的な手立てを取ることを、社会全体として怠ってきた問題だ。その結果が、「2019年という現在」のあちらこちらにまぎれもなく表れている。ツケは大きいものだとつくづく思うが、時すでに遅し、の感がしないではない。

そんな日はできるだけ小さな記事を探す。大文字で埋め尽くされた新聞の一面や政治面はほぼ読むに堪えないからだ。最近では、5月中旬、ドイツが植民地支配への反省を強調し、ナミビアへ石柱を返還するという〔ベルリン=時事〕の小さな報道が胸に残った。石柱は高さ3・5メートル、重さ1トンで、ナミビアが持つ海岸線のどこかに建てられていたが、ドイツ統治下の1893年に持ち去られたという。そして、欧米諸国や日本のように植民地主義を実践した国ではそうであるように、この「略奪美術品」は旧宗主国の首都の歴史博物館に麗々しく飾られていたのである。独文化・メディア相は返還を発表した記者会見の場で、「植民地支配は、過去と向き合う中で盲点になってきた」と語ったという。

個人的にはナミビアを含めた南部アフリカに深い思いがある。1980年代後半から90年代初頭にかけて、南部アフリカ地域に続く人種差別体制の歴史と現実に迫るために「反アパルトヘイト国際美術展」に関わり、同時に「差別と叛逆の原点を知る」一連の書物を企画・刊行した。1994年にはアパルトヘイト体制が撤廃されるという現実の動きを伴ったこともあって、忘れ難い記憶だ。なかに『私たちのナミビア』(現代企画室、1990年)という書物があった。独立解放闘争をたたかうナミビアの人びとと、植民地支配の歴史を自己批判したドイツ人とが協働企画として実現した社会科テキストである。戦後史の中で「教科書問題」が常に争点になってきている日本の現実を思うとき、示唆に満ちた本である。

2018年8月には、独政府がナミビアを植民地支配していた1884から1915年にかけて、優生学上の資料として持ち帰った先住民19人分の頭蓋骨などをナミビア政府に返還したという報道もあった。だが、持ち去られた頭部は数千体に及ぶとする説もある。それは、1904~08年にかけてドイツ領南西アフリカ(ナミビアは当時こう称されていた)で植民地政府の暴政に対し蜂起したヘレロ人とナマ人が虐殺された出来事と深く関わっていよう。上記教科書によれば、ヘレロ人の80%、ナマ人の50%に当たる総計7万5千人が犠牲となった。その頭部が持ち去られたというのである。

その後のドイツの20世紀前半の歩みを私たちは知っている。第一次大戦で敗北したドイツは海外植民地の多くを失うが、ドイツ軍守備隊がアフリカ植民地で使用していた褐色の軍服をナチ党が買い入れて突撃隊(SA)の制服にしたこと、SAは1920年にバイエルン評議会共和国を押し潰した反革命軍事力の内部からこそ生まれたが、その指揮を執ったのは、ナミビアの植民地叛乱鎮圧の手腕を認められたフランツ・フォン・エップ将軍であったこと。そして、優生学研究が行き着いた地点も……。過去の植民地叛乱鎮圧と現代史との接点が、生々しくも見えてくるのである。

日本の遺骨返還問題をここで思い出さざるを得ない。1930年代、北大らの学者は、北海道各地・サハリン(樺太)・千島列島にあったアイヌ墓地から、人種特定のために遺骨を掘り出した。同じことは、同じ時期の琉球諸島でも行われた。返還訴訟を2012年に始めたアイヌの場合は、一定の「成果」をみている。琉球の場合は、遺骨を保存している京大が調査と返還を拒否したために係争中である。加害者側がしかるべき言動を行なわない限り、植民地支配問題に「終わり」(=真の解決)の時は来ないと知るべきだろう。(5月31日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[47]「真実究明・赦し・和解」の範例を遠くに見ながら


『反天皇制運動カーニバル』12号(通巻355号、2014年3月11日発行)掲載

状況分析のために必要性を感じて、昨年12月上旬の特定秘密保護法案成立以後、14年3月上旬の現在にまで至る3ヵ月間の「東アジア日録」を整理してみた。東アジア諸国の多国間関係に深い影響を及ぼす事項に限定した。日付を入れて1行40字でまとめていくと、たちまちのうちに70行を超えた。もっと丁寧に拾うと、100行なぞ優に超えてしまいそうな勢いを感じた。上に述べた限定的な観点で事項を絞り込んでも、ほぼ連日のように、どこかで何事かが起きていることを、それは意味している。別に生業をもつ、市井の個人が整理するには、その能力を超えた情報量である。その意味では、そんな個人でもある程度まではまとめることができるという点で、パソコンの威力を想った。

日本で目立つのは、戦後最大の岐路というべき時期を自らが思うがままに突き進む現首相A・Sの言動、加えてその取り巻きの補佐官や議員と閣僚、さらにはNHK新会長+経営委員らのふるまいである。靖国神社参拝、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能にするための策動、旧日本軍「慰安婦」や南京虐殺をめぐって歴史を捏造する発言、学習指導要領解説書での「領土教育」の強化指針、巷にあふれ出るヘイトスピーチ――どれを取ってみても、すべてが周辺諸国民衆と為政者の神経を逆なでせずにはおかない方向性をもっている。それに反応するかのようにして、韓国・朝鮮・中国での動きが伝わってくる。私の考えからすれば、後者の言動のなかにも政府レベルであれ民衆レベルであれ、日本で噴出する醜悪なナショナリズムに対してその水準で対抗しようとするものも散見されないことはない。特に政府レベルでは、日本の場合と同じように、自らが生み出している国内矛盾から民衆の目を背けさせるために「外なる敵=日本」の存在を大いに利用している権力者の貌が見え隠れしている場合がある。それは、私の心を打たない。だが、まず変革されるべきは、日本の現為政者にみなぎる植民地支配と侵略を肯定する歴史観であり、同時にそれを陰に陽に肯定する社会全般の雰囲気であるという私の捉え方からすれば、他国のナショナリズムが「第一の敵」として登場することはあり得ない。言葉を換えるなら、国家間の歴史問題に関して、加害国側がその自覚を持たないふるまいを続ける、否むしろ現在の日本のように居直り、過去を肯定する態度を続ける限りにおいて、被害国側にそれを超える論理と倫理を求めることはできないというのが、「国家」に拘りそれを単位として行なわれている国際政治の変わることのない現実だ。ふたたび、別な観点から言うなら、だからこそ、A・Sを首班とする日本の「極右政権」はその政策路線を追求するうえで、緊張に満ちた現在の東アジア情勢(=国家間関係)から十分すぎる恩恵を受けているのである。どの国の民衆であれ、自国と隣国の国家指導者たちが興じる、この「ゲーム」の本質を見抜く賢さを獲得しなければならない。

主題は変わるが『現代思想』(青土社)三月臨時増刊号が総特集「ネルソン・マンデラ」を編んでいる。私も寄稿しているのだが、それを書き、そして出来上がったもので他者の論考を読んで、いちばん心に響くのは、アパルトヘイト(人種隔離体制)の廃絶後のマンデラ政権下で追求されている「真実究明・赦し・和解」への道を模索する姿勢である。「人道への犯罪」と呼ばれたアパルトヘイト体制の推進者――政治家、経営者、警察官、軍人、言論人、市井の人のどれであっても――の罪を告発し追及するのではなく、加害者が「真実」を告白し、被害者に「赦し」を乞い、それが受け入れられ、もって「和解」へと至るという、困難な道を彼の地の人びとは選んだのである。アパルトヘイト体制が内包していた、悪意に満ちた人種差別の本質を思うだに、それは渦中の人びとに(とりわけ被害者に)とって矛盾も葛藤もはなはだしい過程だったに違いない。だが、社会が「復讐」と「報復」の血の海に沈むことがないように、南アフリカの人びとはその道を選んだ。この範例の横に、加害者側からの「真実究明」がなされていない、否、それどころではない、「真実」を捻じ曲げ、隠蔽する動きが公然化している東アジアの実例をおいてみる。身が竦む。

(3月8日記)

マンデラと第三世界 


『現代思想』(青土社)2014年3月臨時増刊号「総特集 ネルソン・マンデラ」掲載

1、武装闘争

ネルソン・マンデラの死が報じられた日、この国では「特定秘密保護法」なる、驚くべき時代錯誤の法案が参議院で強行採決された。これを主導した首相A・Sは、マンデラ逝去への思いを記者団に問われ、「アパルトヘイト撤廃のため強い意志を持って闘い抜き、国民和解を中心に大きな成果をあげた偉大な指導者だった。心からご冥福をお祈りしたい」と述べた。この発言に限らないが、自らが発する言葉の〈白々しさ〉にこれほどまでに無自覚かつ無神経な人間も珍しい。米国大統領をはじめ欧米諸国の政治指導者からも、マンデラ賛歌の言葉が途切れることなく溢れ出た。それは、あたかも、ネルソン・マンデラを27年間ものあいだ、ロベン島の独房やケープタウン郊外のポルスモア刑務所に閉じこめたアパルトヘイト体制を支え続けていたのが、自らが属する日欧米の20世紀資本主義列強であったことなど知らぬ気の、何の痛痒も感じられない、あっけらかんとした言葉遣いでなされた。

マンデラの全体像のうち、自分に都合のよい一部分だけを切り取った過剰な賛辞が氾濫する中で、各国首脳の弔辞においてもメディア報道においても、徹底して無視されているいくつかの史実に注目すること自体が意味をもつだろう。

ひとつ目は、マンデラの初期の出発点を「非暴力主義」の殿堂に封印するのではなく、結果的には未完に終わりはしたが、同時代のフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ベン・ベラ、クワメ・エンクルマ、アミルカル・カブラル、そしてチェ・ゲバラなどが、個別にではあったが多様な形で構想していた「アフリカ革命」へと向かう、解放の思想と運動の大きなうねりの中に位置づけることである。同時に、彼が生涯もち続けた「非暴力主義」の信念にもかかわらず、次のような一時期をもったことを、その閲歴の中に刻印することである。

1961年12月16日、南アフリカはジョハネスバーグとポート・エリザベスの発電所、郵便局、官庁など10ヵ所で同時爆発事件が起こった。それと同時に、各地で武装抵抗組織「ウムコント・ウェ・シズエ(民族の槍)」の創設を宣言するビラが貼り出された。前年の1960年3月21日、ジョハネスバーグ南の工業都市フェレニギア郊外のシャープビルでは、アパルトヘイトを支えるパス法の廃止と最低賃金を要求する5000人ほどの人びとが集まっていた。そこへ、警備の警官隊が突然発砲した。発砲は複数回続き、最後は狙い撃ちで、69名が即死、186名が負傷した。平和裡に行なわれていた示威行動が、このような仕打ちを受けたことが、伝統的に非暴力主義を堅持してきたアフリカ民族会議(ANC)が武力闘争に転換した大きなきっかけとなった。武力闘争が行なわれた日の声明は述べている。「われわれは、流血と内戦なしに解放を達成しようと終始努力してきた」が「人民の忍耐には、かぎりがある。いかなる国民の生活にも、ただ二つの選択――屈服か戦いか――以外にない秋がくる」。

マンデラは、のちの法廷で陳述するように「ウムコント・ウェ・シズエの創設を手伝った一人であり、1962年8月に逮捕されるまでは、そこで指導的役割を果たしていた」。

しかも、マンデラは、ウムコントの活動開始から1ヵ月足らずの1962年1月、南アフリカを密出国し、エチオピアのアジス・アベバで開催された「中央・東・南方アフリカのパン・アフリカ解放運動(PAFMECA)」会議に地下のアフリカ民族会議を代表して出席している。1960年の西アフリカ地域での旧フランス領植民地17ヵ国の独立、アルジェリア解放闘争の進展などを具体的な背景として、確かにこの時期には、「アフリカ革命」が「後退不可能な状況」を創り出している(これは、フランツ・ファノンが『革命の社会学』で用いた表現である)という状況認識が、解放・革命のために活動する人びとの中でひろく共有されていたことが分かる。会議への出席以外にも、マンデラはいくつかの任務を果たしている。アフリカ諸国を回りゲリラ兵の訓練基地をつくること、闘争資金を獲得すること、解放後に行政任務を担う若者の留学を要請すること、などである。マンデラがこのような構想を共に担う、総体としてのアフリカ解放運動の枠内にいたこと、この事実を確認することが、1960年代初頭の時代認識として決定的に重要だと思われる。

ふたつ目は、マンデラがキューバやパレスチナに対して抱いていた思いを浮かび上がらせることである。マンデラは監獄から釈放されて間もない1991年、革命記念日の7月26日にキューバを訪れている。キューバは1975年から91年にかけて総計42万5000人に及ぶ兵士を、南アフリカ共和国の近隣国・アンゴラに派兵している。長い闘争の果てにポルトガル領植民地から独立を遂げた社会主義国・アンゴラに、まだアパルトヘイト体制下にあった南アフリカ共和国政府は兵を送り込み、体制の転覆を企てた。近隣国における革命的な高揚は、自国のアパルトヘイト体制をも揺るがす可能性を秘めていることを、彼らは敏感に察知したのである。内戦も激化し、アンゴラ政府は友好国・キューバに派兵を依頼し、これにキューバ政府が応えて支援部隊を派兵した。この派兵問題については多角的な観点から検討したい重要課題がいくつもあるが(そのための萌芽的な問題提起を、私は1998年に書いた「第三世界主義は死んだ、第三世界主義万歳!」で行なった。『チェ・ゲバラ プレイバック』所収、現代企画室、2009年)、それは別な機会に譲り、ここではマンデラの観点からのみ書くに留めたい。

マンデラは、キューバ革命が帝国主義による度重なる妨害を克服して、とりわけ医療、教育などの分野で重要な成果を上げていることを強調した後で、キューバが一貫して国際主義的な任務を果たしていることに注目している。とりわけチェ・ゲバラの革命的な遺訓に触れて、「他ならぬ我が大陸における活動も含めて、あまりにも力強いものだったので、検閲に勤しむ獄吏といえどもすべてをわれわれから覆い隠すことはできなかった」。

「にわかには信じられないような規模のキューバの国際主義者たちが、アンゴラ人民支援のために派遣されたと最初に聞いたとき、私は獄中にいた。アフリカにすむわれわれは、いつも、われらが領土を侵略したり主権を転覆しようとしたりする国々の犠牲にさらされてきた。われわれを擁護しようとする、他地域の人びとがいたなどとは、アフリカ史上初めてのことである」。アパルトヘイト体制がアンゴラに派遣した軍隊をキューバの部隊が打ち破ったキート・クアナバールの戦闘が、アンゴラの勝利とナミビアの独立にとっての決定的な要素であったことを強調した後で、同時にそれは「白人抑圧者の不敗の神話を打ち砕く」ものであり、「南アフリカの内部でたたかう人びとを鼓舞した。あそこで人種差別の軍隊が敗北したからこそ、われわれは、今日、こうしてここにいるのだ」。キューバ兵のアンゴラ派兵に関しては 先に述べたように、私には総合的に分析したい問題が残っている。しかし、マンデラからすれば、それは、南アフリカ民衆がアパルトヘイト体制から解放される道を、速度を速めて用意したのである。

パレスチナ解放闘争に寄せた支援も含めて、マンデラの思想と実践には、このように、日欧米諸国の首脳には本質的に受け入れがたい性格のものが確固として貫いている。それを明確に押し出し、彼らによる囲い込みからマンデラを救い出すこと。それが、ここでの第一義的な課題となる。

2、真実究明・赦し・和解

20世紀に現実に存在した社会主義体制(あるいは、社会主義を自称しないとしても、第三世界のいずれかの国がいわゆる民族解放なり独裁体制打倒を成し遂げた後の体制)下で生じて、私の関心を惹く問題のひとつは、それが旧体制の指導部をいかに処遇したかということである。とりわけ、民衆および反体制活動家に対する弾圧を指示・命令した大統領や首相、弾圧の先頭に立った軍隊と警察の治安部隊員に対して。

作家・埴谷雄高は、政治の本質を考察した文章で次のように述べている。

これまでの政治の意志もまた最も単純で簡明な悪しき箴言として示すことができるのであって、その内容は、これまでの数十年のあいだつねに同じであった。

やつは敵である。敵を殺せ。

いかなる指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった。

「政治のなかの死」(『中央公論』1958年11月号)

私は、1969年に始まり70年代じゅう続いた、いわゆる新左翼党派間の陰惨きわまりない「内ゲバ」の実態をメディア報道で見たり、当該党派の機関紙でその「赫々たる戦果」が高揚した調子の文章(それは、革命軍の「軍報」と呼ばれていた)で書かれていたりするのを読んで、胸も潰れる思いを抱えていた。私は、それらの党派の発想や行動に共感を覚える立場にはなかったが、それにしても、「社会革命」の初心から始まったはずの活動がそんな地点へ行き着いていることへの絶望感は感じていた。

だが、同じころ、たとえば、ボリビアの小さな村の農民、オノラト・ロハスの死の報を知って、「それは当然だろう」という思いを私が抱いていたことを隠すつもりはない。1967年、オノラト・ロハスは、自分が住む村の周辺に見かける「怪しい人間たち」の存在を政府軍に通報した。それは、チェ・ゲバラ指揮下のゲリラ隊員であった。これをきっかけにボリビア政府軍はゲリラ隊への包囲網を狭め、次第に彼らを「敗北」へと追い込んでいった。のちに、残存していたゲリラ隊員たちがオノラト・ロハスに対する報復的な処刑作戦を実行した報に接して、当時の若い私は上記の感想を抱いたのである。

だが、考えてみれば、オノラト・ロハスは、ひとりの貧しい農民であった。遠く離れた国に住む私が、その生活の実態も知らずに、イデオロギー的な立場から「やられたら、やりかえせ」とばかりに断罪できるようなことがらではなかった。私がこのような陥穽から抜け出るきっかけとなった理由はいくつかあるが、わけても、1979年以降、革命のニカラグアから届いたひとつのニュースは印象的だった。政権に就いたサンディニスタが、旧独裁政権時代の弾圧や拷問の実行者たちを前に、死刑を廃止するという宣言を行なったというのだ。古参のゲリラ兵で、革命後は内相の座にあったトマス・ボルヘの言葉によって説明してみる。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。君らに対する私の最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだ。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということだ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。ニカラグアではさらに、もっとも長い刑期は30年、受刑者によっては塀も鉄格子もない解放農園に「収容」される者もいるという行刑制度の改革が行なわれたのである。

私は、旧体制の指導者と内部の反対派の粛清の物語に満ち溢れたソ連および中国型の社会主義に対する、深い疑問と批判を抱いてきた。それだけに、1974年、ソモサ独裁体制下での訪問以来深い関心を持ち続けてきたニカラグアにおける革命が、このような新しい次元を切り拓いていることに感銘を受けた。

それから20年後、アパルトヘイト体制を廃絶して新しい社会への歩みを開始した南アフリカからも、瞠目すべきニュースが届いた。民主化後、同国では「真実和解委員会」が結成された。目的は、アパルトヘイト時代の「重大な人権侵害」に関して、これを裁判で「裁く」ことではなかった。加害者・被害者双方の証言を基に事実を解明すること、それを公に承認して記録すること、犠牲者に補償を行なうこと――これを通して、長いあいだ続いた人種差別主義の歴史に終止符を打ち、もって全社会的な和解を実現すること。これである。注目すべきことには、免責規定もあった。加害者が出頭して、自らが犯した犯罪と、組織的な背景を告白するならば、刑事責任を免れることができるというのである。

真実和解委員会の構想が初めて生まれたのは、白人政府によって長いこと非合法化されてきたアフリカ民族会議(ANC)が合法化され、白人政府との間で新たな政治体制に向けての交渉を行なう準備過程においてだった。ANCは、公の組織として登場できるようになった段階において、自らが反アパルトヘイト闘争を展開するために国外に維持してきた軍事キャンプにおいて拷問や虐待が行なわれていたという告発にさらされた。マンデラを引き継いで、のちに大統領に就任するターボ・ムベキの証言によれば、ANC内部には、もちろん、「(アパルトヘイト体制の中枢にいた)極悪非道な奴らを一刻も早く捕まえて死刑にしろ」との声が渦巻いていた。だが「もしそのようなことを行なったなら、平和で民主的な社会へと生まれ変わろうとすることなど到底出来ないことにわれわれは気がついたのだ。もしアパルトヘイト体制の責任者たちをニュールンベルグ裁判の形で裁くようなことをしていたら、我々は平和的な国家へと移り変わる経験をすることは出来なかっただろう」。

この変化には、ANCが内部調査委員会を設立して、まずは自組織内部で起きた人権侵害事件の調査を被害者からの聞き取りを通して行なったことが大きな役割を果たしたと思われる。証言者たちが望んだのは復讐ではなかった。むしろ、真実を明かし、犠牲となった愛する者の思い出が傷つけられたり忘れ去られたりすることがないこと、悲惨な出来事が二度と起こらないこと――これであった。軍事独裁政権が長く続き、その下での深刻な人権侵害事件が多発したチリ、アルゼンチン、グアテマラ、エルサルバドルなどでは、すでに真実究明の努力が始まっていた。隠されていた真実には「社会を浄化する力」があることを、南アフリカの人びとは、これらの具体的な例から学んだ。

真実和解委員会における被害者の、とりわけ女性たちの証言には、内容的には深刻だが、ひろく人間社会全体に通じる、無視しがたいものが孕まれている。「女性が自らの状況を語るというよりは、夫、父、兄弟や息子などの家族や友人に起こった出来事を語ることが多く、社会全体がジェンダー規範により女性を第二次的存在としてとらえていたことを示している」「家父長制のもとで男性が公的領域の活動、つまり政治活動をし、女性は私的領域である家庭で責任を負い、男性を支え、自らを主張しないという〈沈黙の文化〉が内在化している」「反アパルトヘイト運動を担った男性指導者からも性暴力を受けていた実態が明らかになった」(楠瀬佳子)。これらは痛切な思いを引き起こす証言だが、ここまで踏み込んだ、内在的な証言が生まれたことによって、南アフリカにおける「真実和解」の道は地に足のついたものになり得たのだと言える。

ここには、人間の社会が無縁のままでいるわけにはいかない「罪と罰」という問題をめぐって、従来のように加害者を「裁く」のではなく、被害者の傷を「修復」することに重きを置いた、真剣な取り組みが見られる。試行錯誤には違いない。だが、これが果てしのない「復讐」と「報復」の連鎖を断ち切る、一つの方法であることは否定できない。

本稿の冒頭で、私は日欧米各国の政治指導者たちが口にしたマンデラ追悼の美辞麗句の〈白々しさ〉に触れたが、この文脈においてみると、事態ははっきりする。被害者が寛大にも「裁き」を求めず「免責」の手を差し伸べている一方、アパルトヘイト時代の加害者がそれをよいことに、自らの罪を「自白」せず、「赦し」も乞わず――すなわち、「修復」のための努力をいっさいすることもなく、マンデラの「聖人化」に励むばかりであったというのが、あの言葉の本質であったのだ。これは、真実和解委員会が調査の対象を、もっぱら南アフリカ国内で行なわれた人種差別的な犯罪行為に限定したことからも、きているように思われる。「アパルトヘイトが植民地主義の極端な形態であり、その歴史的起源がはるか以前にあるにもかかわらず、委員会は、広く植民地主義のもとでの暴力や不正義を扱うことはしなかった。今日の南アフリカ国家は、イギリスの植民地支配の歴史を根本から問うことにつながる調査を避けたのである」(永原陽子)。後者の課題を追求するためには「国際法廷」的なものが当然にも必要となり、おのずと、真実和解委員会とは性格を異にした組織を必要としただろう。それがなかったために、アパルトヘイトの犯罪に南アフリカの国境の外から加担した「先進諸国」の首脳たちは、自らを問うことなく、安心して「穏健主義者」マンデラへ賛辞を浴びせたのである。

国内での「和解」を優先課題に据えて始まった、新しい社会の建設過程においては、問題の本質からして、それは一国では担いきれない課題であったのだろう。この課題は、その後、国際的な場において取り上げられることになる。2001年8月~9月、他ならぬ南アフリカのダーバンで開かれた「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」において、である。私はここに、南アフリカの真実和解委員会の経験に学びながら、植民地支配・奴隷制度・人種差別主義などの諸問題を、避けることのできない人類普遍のそれとして設定しようとする、国境を超えた努力の成果を見る。私たちは、歴史の鼓動をここに確かに聞き取っているのである。この課題は、何よりも当事国(民族)間同士での「対話→真実追求→謝罪→赦し→和解」の過程をたどらなければならないが、それを側面から援助する国際的な普遍的原理の確立が求められるのだろう。

南アフリカに戻るなら、重要なことは、この問題の追究の過程において、ネルソン・マンデラがひとり屹立して主導しているわけではない、ということである。むしろ、ANC指導者としての彼は、デズモンド・ツツ大主教から、一般市民の死傷者が生じたANCによる南アフリカ空軍本部爆破事件の現場で公式に償いをするよう求められもしている。「真実和解」のこの過程は、多くの人びとと組織の協働によって担われた。そこに最も注目すべき性格があるように思える。

3、新自由主義への拝跪

本稿では、まず、1960年代初頭におけるネルソン・マンデラたちの闘争が、アフリカ大陸南端部に孤立したものではなく、「アフリカ革命」という、闘争の担い手たちによって当時は共有されていたリアリティに基づいて展開されていたことを見た。次に、アパルトヘイトを廃絶したのちに、多くの疑問や批判も受けながら試みられている「和解」のための努力の意義を、その「限界」も見据えながら確認した。紙数は尽きたが、残るのは、「解放」後の社会・政治・経済過程をいかに見るか、という問題である。私が今回参照できたのは、資料としてはわずかなものでしかないが、ここには当然にも、解放後・革命後の第三世界諸国のいずれにしてもが、決して免れることのできなかった問題が立ちはだかっている。南アフリカは、旧宗主国、多国籍企業、国際金融機関、「先進」諸国によって経済的に包囲されているという現実である。世界有数の投資家、ジョージ・ソロスは2001年のダボス経済フォーラムにおいて「南アフリカは国際資本の手中にある」と語った。人種アパルトヘイトは終わったが、いまや南アフリカは「経済アパルトヘイト」の下におかれていると皮肉って、一向に改善されない経済格差を指摘する声もある。もちろん、これらは、南アフリカ一国が背負うには過重な重荷である。世界の貿易秩序と国際的な経済秩序の対等性、多くは第三世界に存する天然資源の開発をめぐる公正な関係――その確立に向けた協働の努力が実ってこそ、の課題である。多国籍企業や国際金融機関や「先進」諸国の側から、従来の不平等性を「修復」する動きが起こってはじめて、この問題は解決の端緒につく。「修復」という問題は、ここでも重要なものとして浮上してくるのだ。

最後に、マンデラの、既存のありふれた政治家と変わらぬ姿も確認しておこう。1994年、首相就任間もないマンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された直後に、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。国有兵器公社アームスコールが「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛した(「赤旗」1995年1月7日付)。7万人の雇用を生み出す、同国最大の機械輸出産業である南アの軍需生産を簡単に縮小できるものでないことは、誰にでもわかる。だが、マンデラのこの「現実主義」的な側面が、日欧米諸国の首脳にとっては安心できる場所であるという「構造」は、同時に見据えておく必要があるだろう。その意味でも、マンデラを彼らの空虚な賛辞の網から解き放ち、現代世界が直面する困難な課題を共に考え、その解決を模索する場所へと招き入れる必要があるのだ。

【付記】本稿で引用しているマンデラの言葉は、野間寛二郎『差別と叛逆の原点――アパルトヘイトの国』(理論社、1969年)と、1991年キューバ訪問時の演説内容を伝える複数のインターネットサイトなどに拠っている。ニカラグアについては、現地を取材した野々山真輝帆「サンディニスタ――革命と殉教のはざまで」(『世界』1986年6月号)、「ニカラグア――二つの到達点から見た現実」(『朝日ジャーナル』1987年4月10日~同17日)に拠っている。他にも、峯陽一『南アフリカ――「虹の国」への歩み』(岩波新書、1996年)、楠瀬佳子「女たちの声をどのように記憶し、記録するか――真実和解委員会と女たちの証言」(宮本+松田編『現代アフリカの社会変動』、人文書院、2002年、所収)、アレックス・ボレイン『国家の仮面がはがされるとき――南アフリカ「真実和解委員会」の記録』(第三書館、2008年)、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会mの再生のために』(岩波書店、2008年)、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年)、アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩』(現代企画室、2010年)などを参照し、一部を引用した。