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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[36]「日本人の統一」を呼号するのではなく「論争ある分岐を」


『反天皇制運動 カーニバル』第1号(通巻345号、2013年4月16日発行)掲載

(反原発運動について)――「戦後ここまで日本人が統一したことはない」。

(会場の日の丸について)――「日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」

――3月11日、原発事故から2周年目の東京集会に、私は別件があって参加できなかった。その集会において、前者は大江健三郎によって、後者は澤地久枝によって、それぞれ語られた言葉であることを私が知ったのは、したがって、事後的なことである。二人のこの発言内容は、ネット上の複数の人たちのサイトを照合して、記した。そのうえでの引用だから、この部分に限ってはほぼ正確なものとして解釈することが許されると思う。だが、全体的な文脈を十分にはたどることができないので、壊滅的な批判は控えて、さしあたっての小さな疑義だけを呈しておくに留めたい。

私はふだんから、「私(たち)=日本人」を前提にして主語に据える文章を、滅多なことでは書かない。私が否応なく持たされている「日本人」であるという属性が、私のアイデンティティ(自己同一性)」を規定しているものとして積極的に援用すべき機会は、私にはないからである。止むを得ず、そのことを認めた地点から発言しなければならないことが、まま、あるとしても。ましてや、排外主義的な風潮がここまで社会全体を浸しているとき、「日本人が統一」していることを肯定的に語る原理を私はもたない。「統一された日本人」が「日の丸」によって象徴されていると呼号する人間が実在する社会に住んでいるからには、そんな場所からは明確に区別されたところにわが身をおいて、この社会の行く末を考え、発言する人間でありたいと思うからである。

私自身も、首相官邸付近をはじめとする各所での反原発行動には何度も参加してきているが、そこにいることの「苦痛」を感じた経験も、数回には留まらない。例を挙げてみる。ある夜、現場に遅く着いた私は、首相官邸に最も近い地点にはいるが、それ以上は行かせまいと阻止線を張る警官隊に封じ込まれている数十人の集団のところへ行こうとしていた。次第に近づくと、先頭でメガホンを口に当てた男が「野田内閣を打倒せよー」と、奇妙な抑揚をつけて唱和の音頭をとっていた。その発声は、明らかに、天皇記念日や閣僚の靖国参拝を批判するデモを行なう私たちに、黒塗りの街宣車から、高性能マイクを使って罵倒を浴びせる職業右翼のものにちがいなかった。奴らは、集会の発題者を察知している時には、その固有名を挙げて「打倒せよー」と叫び、「打倒したぞー」と唱和させ、「叩き出せー」「北朝鮮へ帰れー」と叫びたてるのだから、一度その標的にされた者には忘れようもない口調と発声なのだ。ファシズムの匂いがする声と抑揚とでも言おうか。そこに「日の丸」は翻ってはいなかったが、たとえ「反原発」であろうともこの発声には唱和すまいという私の感性は信じるに値するとだけ考えて、私はその集団に背を向けた。

「左右を超えた脱原発、そして君が代」(坂本龍一と鈴木邦男の対談企画に『週刊金曜日』誌2月8日号が付した名称)などという言い草が、論議も論争もないままに、「日本人」内部の了解事項となるとき、その外部にはじき出される者が、必ず存在する。「右」はその本質からして、「左」はその無自覚さにおいて、排除すべき「非日本人」を、このスローガンを通してつくり出すのである。このように「統一された」日本人こそ、恐ろしい。そこに翻る「日の丸」に恐怖を感じる「非日本人」が存在することを感受できない感性は、「日本人の内部」からこそ、疑うに値する。

「反原発」運動の内部には、「城内平和」は求めるが原発輸出には何の関心も示さない傾向が厳に存在する。「反戦・平和」運動の内部には戦後一貫して、「憲法9条」と「日米安保体制」を「共存」させる心性が消えることはなかった。沖縄の現状は、その延長上で担保されている。

「統一と団結」の呼号ではなく「論争ある分岐を!」――私たちが、いつでも、どこでも、依拠すべきはこの原則である。蛇足ながら、ここでいう「分岐」は「分裂」と同義ではない。

(4月13日記)

第2回死刑映画週間を終えて


死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90機関誌『FORUM90』128号

(2013年3月30日発行)掲載

昨年初めて「死刑映画週間」の開催を試みたが、それに手応えを感じた私たちは、去る2月2日から8日までの7日間、昨年と同じ東京渋谷・ユーロスペースで、第2回目を開催した。存在する死刑制度の実際に即して考え、問題提起を行ない、討論を深めることは、もちろん大事だ。同時に、ひとに備わっている想像力を駆使した映画・文学などの芸術表現は、ひとの心に意外なまでの作用を及ぼすことがあるから、その力を借りて、問題の領域を広げたり深めたりすることができる。昨年は、犯罪と死刑をテーマにした10本の映画を上映してみて、この思いをさらに深めることができた。だから、第2回目を開催することは当然の選択だった。

「死刑映画」と一口にいっても、上映可能な作品が次から次へと湧き出てくるわけではない。10本前後の作品を上映するとなると、借出し料金も相当な額に上る。加えて、旧い作品の場合、配給会社が消えていることもあるし、もはや上映権が切れている場合も多い。新作でも、制作側はロードショーを終えてしまうとDVDソフトの販売に力を入れるから、劇場でのスクリーン上映にはあまり拘らないケースが昨今は出てきているようだ。昨年来、この映画をぜひ、という推薦をくださった方もいる。「この作品をこそ」と多くの人が思う作品で、昨年と今年のリストに上がっていない作品があれば、そんなケースに該当するだろう。したがって、「犯罪」は扱われているが「死刑」そのものが必ずしも主題とはいえない作品も(もちろん、それが「犯罪映画」として、また「時代と人間」の描き方としてすぐれた作品であることを前提として)上映リストに入れることになる。今年の場合、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』がそれである。

今年は、9本の作品を27回上映した(『ヘヴンズストーリー』が長尺なので、2回枠を使った)。観客総数は1308人だった。昨年より数十人少なかった。当日券の観客が6割を占めて、前売り券を持った人より多いのは昨年と同じ傾向だった。私たちがふだんは接していない人がけっこう多く来場していることの証左だろう。

総じていえば、『少年死刑囚』や『真昼の暗黒』のように、観る機会が少ない、旧い日本映画への関心が深いことがうかがわれた。実際にあったことを素材にしている作品の場合は、それを通して、自分が知らない過去の出来事、時代背景、警察・検察・裁判所のあり方、人びとの暮らしの様子、さらには名のみ知る過去の名優たち(その多くは、いわゆるバイプレイヤーである)の姿などを知るという魅力がある。『略称・連続射殺魔』は、永山則夫が生まれ育ち生活した場所や、彼が見たであろう風景をひたすら写し撮るだけで、登場人物も物語もあるわけではない。こんな喩えは監督の足立正生氏には申し訳ないが、私は、グーグルの「ストリート・ビュー」の先駆けのように思える瞬間があった。ともかく、そこにはまぎれもなく「1969年」の日本各地の風景があって、知る者には懐かしく、知らない者には新鮮だ。戸惑いを感じた人もいたようだが、制作当時「風景論」なる熱心な論議を巻き起こしたこの作品から、ある出来事(犯罪)の背後に広がる「風景」を知ることが、どれほど大事なことかを実感できた人が多かったという印象を受けた。

『ヘヴンズストーリー』は、本来なら、この作品だけを論じる機会を得たいほどの長編力作で、4時間38分のあいだ立ちっぱなしの人が10人以上も出るほどの盛況だった(椅子席は92席)。実際に起きた事件をモデルにして描かれてはいるが、それに土俗性も重層的な物語性も注ぎ込まれているので、豊かな膨らみを持つ作品となった。犯罪と被害、被害者遺族が辿らなければならない後半生の生き方、報復、暴力の「連鎖」――などの諸問題をめぐって深いところで考えるよう、観客を誘う作品だった。テレビ・新聞の事件報道では、複数の視線が絡み合うことなく〈単一の〉同調主義的な視点が作り出されてしまうが、この映画は違った。その違いが際立ってもいた。その意味でも「罪と罰と赦しと」という今年の副題にもっともよく見合った内容だった。

観客数という意味で苦戦したのは、韓国の『ハーモニー』と中国の『再生の朝に』だった。収支はトントンにしたいし、上映する以上はできるだけ多くの人に観てもらいたいから、「数」はこだわりの対象である。なぜだったのか、作品論(これが大事だ、ということを私たちは自覚している)を含めて、今後の私たちの検討課題としたい。韓国は、死刑が連発された軍事政権時代とうって変って、この15年間死刑が執行されず、実質的な死刑廃止国となっている。中国は、日本・北朝鮮と並び、国内統治の重要な手段として死刑制度を利用し続けている東アジアの一国である。どちらの国の経験も、いまだに死刑制度を廃絶できていない日本の私たちに示唆を与えよう。東アジアには、なぜか、世界的には20数年前に消滅したはずの「東西冷戦構造」が継続しており、国内矛盾を隠蔽しながら対外的に強硬路線を取る支配層が存在する。ここに生きる私たちは、他のどこよりもまず日本社会のあり方の問題として、このことを分析しなければならない。自らを省みることのない排外的なナショナリズムの煽動において、国内の厳格な刑罰制度としての「死刑」はどんな役割を果たしているのか。両者の間には関係があるのか、無関係なのか。死刑制度廃止が加盟条件になっているEU諸国の場合には、あり得ない課題の設定である。「死刑映画週間」もまた、この社会に強まる「見ず知らずして、隣国に対する理由なき嫌悪感」が現われる一例にならないこと――そのことを私たちは心がけたい。

今年は来場者にアンケートへの記入をお願いした。予想以上に多くの方が寄せてくれた。希望上映作品も、幾人かの方が挙げてくれた。前述のような理由で、すべての希望を叶えることはできないが、今後も示唆と助言はいただきたい。上映期間の延長を希望される方もいるが、現状の私たちの力量では一週間がギリギリの限度である。資金面とスタッフの仕事量の双方の意味から考えて。さらに作品の内容に関して、また死刑制度に関して、ご自分の見解を披歴するいくつもの意見をいただいた。糧としたい。

さて、スタッフは、来春の第3回の実現に向けて準備に入っている。今回来場された方が下さったDVDで候補作品を観たり、各劇場を回ってめぼしい作品を観たりしている。どんなプログラムができるかはまったくの未知数だが、どうか、今後とも批判的なご支援をいただきたい。