現代企画室

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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

男たちが消えて、女たちが動いた――アルピジェラ創造の原点


「記憶風景を縫う」実行委員会編『記憶風景を縫う-チリのアルピジェラと災禍の表現』所収、2017年

(ISBN978-4-9909618-0-0)

私がメキシコに暮らし始めて2ヵ月半が経った1973年9月11日、チリに軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、選挙によって誕生したサルバドール・アジェンデ大統領のもとで、「社会主義へのチリの道」がいかに展開するかに期待を込めた関心を持ち続けていた私には、大きな衝撃だった。やがて、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」迎え入れる歴史を積み重ねてきたメキシコには、軍事政権の弾圧を逃れたチリ人が続々やってきた。女性が多かった。新聞に載った一女性の語った言葉がこころに残った。愛する男(恋人か夫)が軍部によって虐殺されたか、逮捕されたのだろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このような直截な言葉で語られることが「新鮮」だった。メキシコでは、チリ民衆との連帯集会が頻繁に開かれて、私は何度もそこへ参加した。

ラテンアメリカを放浪中だった私は、クーデタから1年数ヵ月が経った75年2月、チリへ入った。アルゼンチンのパタゴニアの北部を抜けて、南部のテムコへ入った。リュックの荷物からは、税関で「怪しまれ」そうな本・新聞・資料をすべて抜き去った。

テムコは、世界的にも有名な詩人パブロ・ネルーダが幼年期を過ごした町だ。アルゼンチンで知り合ったチリ人が、テムコの実家に泊まってというので訪ねると、そこはネルーダの縁戚の家だった。アジェンデの盟友であり、自らも共産主義者であったネルーダは、73年クーデタの直後の9月23日に亡くなった。クーデタ当日はがんで入院していたが、政権を掌握した軍部の命令を受けた担当医によって毒殺されたという説が濃厚である。

私が訪ねた家も、ク-デタ後何回にもわたって家宅捜査を受けたという。大家族で、芸術・文化の愛好者が揃っていたが、書物は少なかった。軍部によって焚書されたのだという。焼けただれた本も幾冊か、あった。十全な形ではもう読めないのに、捨てるには忍びなかったのだろう。夜が更けると、家族みんなが集まって、大声では歌えないアジェンデ時代の民衆歌や革命歌を歌った。メキシコで私も親しんでいた歌だったので、小さな声で合わせることができた。

テムコは、先住民族マプーチェの土地だ。スペイン人征服者(コンキスタドール)を相手に展開した激しい抵抗闘争で、歴史に名を刻んでいる民族である。アジェンデ政権期には、その要求が全面的に認められたわけではなかったにしても、マプーチェへの土地返還が、従来に比べれば大幅に進んだ。軍政によってこの動きは断ち切られ、彼ら/彼女らは逆風にさらされていた。今は物を言う状況にはないマプーチェの人びとの小さな野外市場で、いくつかの民芸品を買った。チリでは他にも、首都サンティアゴ・デ・チレでの、人びととの忘れ難い出会いがあった。しかし、軍政下ゆえの不自由さは、隠しようもなかった。それだけに、テムコでの想い出が、いまもくっきりと脳裏にひらめく。

数年後、帰国して間もない私のもとに、チリから国際小荷物が届いた。そこに、一枚のタペストリーが入っていた。布の切れ端で作られたパッチワークだった。アンデスの山脈を背景にした家々の前で人びとが立ち働いている。10人全員が女性だが、それぞれが何かを持ち寄って、集まって来るような印象を受ける。この時代、現実にあった、貧しい人びとの「共同鍋」の試みなのかもしれぬ。テムコのあの家族からの贈り物だった。由緒の説明はなかったように思う。突起部分があって、ふつうの額には収まらないので、ラテンアメリカ各地で買い求めた民芸品と共に、大事に箱にしまい込んだ。

それからずいぶんと時間が経って、20世紀も末期のころ、私は編集者として一冊の翻訳書の仕事に関わった。「征服」期から現代にまで至る「ラテンアメリカの民衆文化」を研究した『記憶と近代』という書物である(ウィリアム・ロウ+ヴィヴィアン・シェリング=著、澤田眞治+向山恭一=訳、現代企画室、1999年刊)。そこでは、片方には軍政の抑圧、他方には革新政党のヒエラルキー構造や温情主義的な慣習をはびこらせた左翼の失敗の双方を乗り越えて、近隣の共同組織に依拠して日常生活や消費領域の問題を公的な政治領域に導入した動きとして、チリで行なわれてきた「アルピジェラ」と呼ばれるパッチワークの生産活動が挙げられていた。十数年前にテムコから送られてきたあの布地のことではないか!

同書は言う。「個人的な喪失や別離や極貧の経験を政治的事件の証言に変える試み」としてのアルピジェラは、「木綿や羊毛のぼろ布を使って日常生活のイメージを構成したものなのだが、その繊細で子供らしい形式とそこに描かれた内容とは衝撃的なくらい対照的である。それは大量収容センターのゲートの外で待っている身内の人々、軍事クーデタの日に軍のトラックに積まれた死亡した民間人、スラム街の無料食堂の場面、行方不明の身内との再会や、飢えや悲しみのない豊かな生活といった想像上の場面を描いている」。

軍政下での人権侵害を告発したカトリック教会は、「失踪者」家族支援委員会を運営しながら、アルピジェラのワークショップの開催、買い取りと販売を通して、生産者の経済的自立の手段を提供してきた、とも書かれていた。

アルピジェラの生産者が女性であることからどんな意義を読み取るか――同書はさらにその点をも書き進めるのだが、その後私たちに届けられたチリの表現をも援用しながら、この問題を考えてみたい。アジェンデ時代のチリを振り返るために決定的に重要なチリ映画が2016年にようやく日本でも公開された。パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作(1975~78年制作)である。この映画は、アジェンデ政権期の1970年から73年にかけての現実を、とりわけ73年の、クーデタに至る直前の半年間の状況をドキュメンタリーとして捉えている。そこには、当時のチリ階級闘争の攻防が生々しく描かれている。アジェンデ支持派の集会、デモ、討議の場で目立つのは男性である。米国CIAに扇動もされたブルジョアジーが日常必需品を隠匿して経済を麻痺させようとする策動を行なうのだが、地域住民がこれに抗して独自に生活物資を集め仕分けする場面に、辛うじて女性の姿が垣間見える。

このように『チリの闘い』が記録してしまった1970年代初頭の社会運動の状況と、アピルジェラをめぐる諸問題などを重ね合わせると、次のような課題が浮かび上がってくるように思われる。

1)チリ革命を推進していた社会運動は、政党にあっても労働組合運動にあっても、性別分業に特徴づけられた男性中心主義の色合いを強くもっていたことは否めないようだ。それは、世界的に見て、1970年代が持つ時代的な制約であったとも言えるのかもしれない。したがって、軍事クーデタ後の弾圧は、男性に集中的にかけられた。クーデタ直後に「デサパレシードス(行方不明者)」の写真を掲げて示威行動をしたり、グスマンの映画『光のノスタルジア』(2011年)が描いたような、クーデタから30年以上経ってなお強制収容所跡地で遺骨を探したりしている人びとがすべて女性であることによって、それは裏づけられている。

2)男性中心の諸運動は、こうして再起不能な打撃を受けたが、それは同時に、母、妻、娘として、親密な男性を失った女性たちが、その「喪失や別離」の体験を発条にして、新たな地平へ進み出ることを可能にした。男性優位の社会的な価値規範のもとで下位に退けられていた「女性的なもの」に根ざした表現として現われたのが、アルピジェラであった。それは、硬い男性原理から、柔らかな女性原理への転換が求められている時代を象徴していると言える。大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常生活に根ざした表現と運動が、支配への有効な抵抗の核となった時代――と表現してもよいだろう。

3)チリ革命では、もともと、文化革命的な要素が目立った。アリエル・ドルフマンなどは『ドナルド・ダックを読む』(晶文社、1984年)、『子どものメディアを読む』(晶文社、1992年)などの著作を通して、子どもの脳髄を支配する文化帝国主義の批判を行なった。また、女性を伝統的な価値観の枠組みの中に閉じ込めるいわゆる女性雑誌の編集姿勢を徹底的に批判・分析した一連の作業もあった。若い男性主体の価値意識の中では低く見なされがちな大衆、子ども、女性などの社会層に働きかける文化批判が実践されることで、単に、政治・社会・経済過程の変革に終わらぬ、草の根からの革命の事業が活性化する可能性が孕まれていたのではないか。それは、時代が激変し、軍事政権下に置かれた時に、庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたこととも関連してくるものだろうか?

アルピジェラという民衆の文化表現からは、この時代を考えるうえで避けることのできない重要な問いがいくつも生まれ出てくるようだ。

追記:「記憶風景を縫う」展覧会についての情報は、以下をご覧ください。

https://www.facebook.com/arpilleras.jp/

ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで


『ガルシア・ロルカ生誕祭119』(2017年6月4日、広島のcafé-teatro Abiertoで開催)における講演

1)米西戦争

さてもさても、お集まりの皆さん、私はこの4年間、ガルシア・ロルカが生まれたこの季節になると、この舞台の上で、ロルカが書いた詩を原語でふたつ三つと朗読してまいりました。今年は趣向変わって、彼が生きた時代を背景に、その短かく終わった人生の足跡を辿ることに相なった次第。題して「ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで」。わずか30分に彼の生涯を凝縮してお話しするのは至難の業ですが、ともかくそれを試みるゆえ、とくとお聞きあれ。

スペインといえば、だれもが知っている名前をいくつか挙げましょう。「ドン・キホーテ」という名は、この国では安売り雑貨屋の名としてまかり通ってしまった風情なれども、もともとは、16、7世紀スペインが生んだ文豪、セルバンテスが書いた長編小説のタイトルこそが『ドン・キホーテ』。世界的に見ても時空を超えた大傑作というべき小説のタイトルが、21世紀の日本国ではこんな店の名として「盗用」されていることを知ったならば、天国にいるのか地獄にいるのか、名付け親のセルバンテスはびっくり仰天しているに違いありません。

さらには、絵画の世界を覗けば、古くは18世紀のフランシスコ・ゴヤ、20世紀の現代に来れば、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなど、言い古された言葉なれども、まるで綺羅星のごとく天才的な画家たちが居並びます。あの奇怪にして魅力的な建築物を手掛けたアントニオ・ガウディ、その息遣いがチェロの音色と一緒になって聞こえてくるチェロ弾きのパブロ・カザルス、鬼才という形容がよく似合う、映画監督のルイス・ブニュエル、そして今日も、私たちの心を掴んで放さないカンテの歌やフラメンコの舞踏――ともかく、文化面からみれば、スペインという国は、妖しくも煌びやかな光を放っているのでございます。我らがガルシア・ロルカも、まぎれもなく、その中の一員だということをお忘れなく……。

さて、ロルカが生まれたのは1898年。今を去ること、120年前ということになります。ベン・シャーン、ジョージ・ガーシュイン、ルネ・マグリットなどが同じ年の生まれです。この年は、スペイン史においては忘れることのできない出来事が起きました。米西戦争、すなわち、スペインは、遠く大西洋を隔てた国、アメリカ合衆国との戦争を行なう破目に至ったのです。なぜか。

歴史を遡れば、スペインは世界史に植民地支配の時代を生み出した先駆けの国です。今から逆行すること5世紀ちょい、15世紀末に、スペイン女王の資金援助を得たコロンブスは大海原を西へ、西へと航海し、遂に現在のアメリカ大陸に到達しました。ヨーロッパには未知の土地であったこの大陸と周辺カリブ海の島々の大部分を、スペインは植民地としたのです。以来3世紀有余、スペインは、現在のメキシコからアルゼンチン、チリまでの広大な米大陸の支配者として君臨しました。ラテンアメリカの国々がスペインからの独立を遂げたのは19世紀初頭。したがって、いっときは海を伝って世界各地に植民地を築き上げたスペインは、米国との戦争が始まる19世紀末には、アジア太平洋のフィリピンとグアム、カリブ海のキューバとプエルトリコ、さらにはアフリカの一角のモロッコに植民地を遺すだけとなっていたのです。しかも、フィリピンとキューバでは、激しい独立闘争がたたかわれていました。

こうして、植民地帝国=スペインは追い込まれていた。一方、米国は1890年のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーにおける先住民族スーの大虐殺によって、長年続いたインディアンの抵抗を最終的に圧し潰し、国内を「平定」することに成功した。だから、この時期以降の米国は、対外的に膨張する道を選び、まずは近隣のカリブ海に注目し、どこかの国に付け入る隙を虎視眈々と狙っていたのでありました。スペインに対して独立闘争を戦っているキューバこそ、絶好の機会を提供する場所。首都ハバナ沖に軍艦を派遣したところ、これが爆発・沈没した。歴史的に見ても、米国はフレームアップ、でっち上げの嘘を口実に戦争を仕掛けることが得意。米軍艦爆破はスペイン軍の仕業だとして、スペインに宣戦を布告したのです。落ち目の植民地帝国=スペインと、日の出の勢いの新帝国=アメリカの軍事力の差は歴然。アメリカはいとも簡単にスペインを負かしてしまったというのが、事の次第でございました。

スペイン人から見れば、世界に先駆けて植民地帝国となった15世紀末以降しばらくは「黄金時代」、それが見る見るうちに後発のヨーロッパ列強に追いつかれ、追い越されてきたのがスペイン近代史の流れでしたが、「黄金時代」から4世紀を経て、とうとう「(18)98年の不幸」と自嘲する時代に突入したのでした。スペインがなお支配していた植民地は、北アフリカのモロッコだけになりました。モロッコは、この後の歴史でも重要な地名として再登場します。覚えておかれますように。

さて、しかし、歴史的な「逆行」の時こそ、個々人の精神の深部では、とりわけ芸術家にあっては自らの真の姿に真っ向から向き合う時――先に触れた、ガウディの建築を筆頭にした文化的ルネッサンスの動きは、まさにこの時期を前後して始まっていたのです。かの有名な「サグラダ・ファミリア=聖家族教会」や「グエル邸」関連などの建造物は、この時代の真っただ中の仕事です。アフリカの彫刻に深い関心を抱いたピカソが、キュビズム革命の発端となる「アビニヨンの娘たち」を描いたのも1907年ですから、この時代の文化的な凝縮のほどが知れます。早熟にして多面的な才能に恵まれていたロルカは、まさにこの文化的ルネッサンスを養分として育ったのでした。

さて、しばらくは、その後のスペインの歴史の流れを一瞥しておきましょう。1898年にフィリピンとキューバ民衆の独立闘争によって長年にわたるスペインの植民地支配が打倒されたならば、それは、いわば、歴史的な必然であった、と言えましょう。スペインはその運命を甘受し、祖国再生の道を歩んだことでしょう。だが、この独立闘争は、スペインの後釜としてこれらの地に君臨しようとするアメリカの奇襲作戦によって、性格を一変させたのでした。フィリピンとキューバの民衆にとっては、自らの解放を賭けた独立闘争が、スペインとアメリカの2大大国の戦争になってしまったのですから、たまったものではありません。いつ変わることのない、大国の身勝手さに悔しい思いをしたことでしょう。この事件は、実は、世界全体から見ても重大な意味を持っていました。アメリカという国は、この戦争を通して、他国に軍事介入さえすれば、新たな領土や資源や労働力や軍事基地を獲得できるのだという価値観をもってしまったのです。だから、あれから1世紀以上も経ったいまなお、アメリカはそのようにふるまい続けています。72年も前に戦争が終わった沖縄に、新しい軍事基地を作ろうとしているのを見れば、この言い方が的外れでないことがお分かりでしょう。

ただ、どんな国にも、大勢に流されず、ひとりになっても抵抗の言説をやめないひとはいる。それを知ることも大事です。この時代のアメリカの場合、それは作家、マーク・トウェインでした。そうです、あの『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作家です。米西戦争の結果、アメリカは敗戦国スペインからフィリピンを買い取りました。新たな植民地にしたのです。大国間の身勝手な取引きに抵抗・反対して、フィリピン民衆は、やってきた米軍にゲリラ戦で闘いを挑みました。米軍はすさまじい弾圧をこれに加えました。これを知って、マーク・トウェインは言ったのです。「われわれは、何千人もの島民を鎮定し、葬り去った。彼らの畑を破壊し、村々を焼き払い、夫を失った女や孤児たちを追い出した。こうして、神の摂理により……これは政府の言い回しであって、私のものではない……われわれは世界の大国となったわけだ」

20世紀初頭の、忘れることのできないエピソードです。どんな時代にあっても、このような人物が実在することは、私たちへの励ましです。どんな社会も「ファシズム一色」「侵略戦争賛美一色」に塗り込められるのではないのです。

2)スペイン内戦

さて19世紀末のスペインに戻りましょう。スペインにとっては、アメリカへの軍事的な敗北は屈辱でした。政治的・社会的には、混乱と混迷が続きました。政党政治は立ち行かなくなりました。残された唯一の植民地モロッコでは、反スペイン暴動が頻発し、これを鎮圧するために軍隊を派遣する事態が度重なりました。この状況の中で、もともとスペインの土地に根を張っていたアナキズムの思想と運動が急速に育っていきました。とりわけ、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方の工場労働者と、万年飢餓状態に置かれていたアンダルシーア地方の農民は、権力から遠く、「土地と自由」を愛するアナキズムの理念を、いわば身体的に受容したのです。「土地」とは、そこに種を蒔き、貴重な農産物を手にすることのできる場所です。「自由」とは、人が生きる上で譲ることのできない絶対的な価値です。「土地と自由」とは、人が生きるための物理的・精神的な根拠地なのです。アンダルシーアは、ロルカが生まれ育った地でもあることを思い出しておきましょう。

さて1920年代にも起こったモロッコでの反乱を鎮圧するために出動しこれに成功した軍部がその後政治の実権を握り、軍事独裁の時代が誕生します。1930年、8年間にわたって口を封じられてきた民衆は、王政か共和制かを問われた地方議会選挙で、共和制を選んだ。国王は逃亡し、第2共和国が誕生した。これが、世界史的に見ても忘れがたい1930年代スペインの幕開けでした。これ以降、左右両派の対立が激化します。1936年の国会議員選挙で人民戦線派が勝利すると、ファシストたちが暴動を引き起こす。人民戦線派の労働者は、ストライキをもって対抗する。

さて、このころスペインが保有していた唯一の植民地、アフリカのモロッコには、暴動鎮圧のためにスペイン軍兵士が多数派遣されていたことには、先にも触れました。このモロッコの地で軍がクーデタを引き起こしたのです。指導者はフランコ将軍でした。時は1936年7月18日。同時に、スペイン各地の主要都市でファシストの武装蜂起がいっせいに起こりました。そして共和国に対抗したのです。ここに、スペイン内戦、スペイン内乱、あるいはスペイン市民戦争とも呼ばれますが、それが始まったのです。

当時、ヨーロッパには、すでに二つの国で、ファシズム体制が成立していました。ヒトラーはドイツで全権を掌握し、ナチス党の独裁が始まっていました。イタリアでもムッソリーニが権力を握り、エチオピアへの侵略を開始していました。アジアにおいては、日本が「大東亜共栄圏」建設の美名の下で、近隣のアジア諸国侵略の道を突き進めておりました。日本、ドイツ、イタリアのファシズム3国が「日独伊防共協定」を結ぶのは1937年です。このような世界情勢を背景に展開されたスペイン内戦は、考えるべき大事なことがいっぱい詰まっています。きょうはとても時間がないので、かいつまんで、いくつかの重要な点にのみ触れます。

この内戦は、1939年3月までの3年間にわたって続きました。

ファシストは強固に結束していました。国際的にはドイツとイタリアの支援を受け、首都マドリーの攻防戦では、イタリア軍の地上軍派遣が大きな役割を果たしました。バスク地方を含む北部戦線にあっては、反乱軍を支援したドイツの空軍部隊がゲルニカという小さな村で無差別爆撃を行ない、それが引き起こした惨状に怒りと哀しみを押さえきれなかったピカソは、即座にあの大作「ゲルニカ」を描くに至るのです。スペイン人の精神生活上重要な役割を果たしているカトリック教会が、フランコ指揮下の反乱軍は「無神論と共産主義」から祖国を救う十字軍だと称賛したことも、人びとを結束させるうえで計り知れない助けとなりました。

これに対して、共和国側はどうだったでしょうか。共産党からトロツキスト、アナキストなど、さまざまな潮流がおりました。考え方や政治路線の違いはあって当然ですが、その違いを内部矛盾として上手に処理する知恵を欠いていた、と言えます。とりわけ、官僚主義的な共産党、これはモスクワのソ連共産党からの指示に基づいて行動するのですが、当時ソ連ではトロツキストをはじめとするスターリンの「政敵」対する粛清の嵐が吹きすさんでいた頃でした。スペインではトロツキズムやアナキズムの運動が根強い大衆的な基盤を持っているのに、モスクワの指示に従ってこれを弾圧すれば、どんな結果が生じるかは自明のことだったのです。すなわち、共和国側には、異なる集団間の路線上の違いを解決する術がなかったのです。とりわけ、ソ連共産党のスターリン主義的な路線が果たした役割は犯罪的であったと断言しても過言ではないでしょう。

スペイン内戦は、それが孕んでいた「希望」と「錯誤」ゆえに、あの時代に生きていた世界中の人びとに大きな影響を及ぼしました。これをテーマに小説、ルポルタージュが書かれ、映画にもなりました。イギリスの作家、ジョージ・オーウェルは『カタロニア賛歌』を、アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書きました。スペインでは、ホセ・ルイス・クエルダが『蝶の舌』を、ビクトル・エリセが『ミツバチの囁き』を制作し、イギリスの映画作家ケン・ローチも『土地と自由』と題した作品でこのテーマを描いています。

ここで私は、忘れることのできない一人の女性の発言を記録しておきたいと思います。フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの発言です。ヴェイユは、もちろん、その思想的・政治的な立場からしてファシストの敗北を願い、共和国側の勝利を願ったひとです。内戦が勃発した直後の1936年8月、共和国側に加担するためにスペインへ義勇兵として赴いてもいます。事故で火傷を負い、心ならずも2ヵ月で帰国することになったのですが、その彼女がスペイン戦争で現認したことは、「理性や信条を無意味化する戦争のメカニズムというものがある」ということでした。彼女は、共和国派の、とりわけ底辺の民衆の渇望や犠牲的精神に促された義勇兵への共感を決して放棄してはいない。同時に、味方の軍勢の中で吸い込んだ〈血と恐怖のにおい〉も記さずにはいられなかった。それは〈解放の主体〉であるはずの者が〈金で雇われた兵隊たちのするような戦争に落ち込んで〉いき、〈敵に残虐な行為の数々〉を加え、〈敵に対して示すべき思いやりの気持ち〉を喪失する過程であった。

スペインで内戦が勃発したことをパリで知ったヴェイユは、「勝利を願わずにはいられなかった」反ファシズムの側にも、このような現実があったことを知ったのです。私は、ファシズムとたたかった人びとの感動的なエピソードをいくつも知っていますが、同時に、この現実からも目を逸らすわけにはいかないのです。

スペイン内戦をめぐるこれらのエピソードから得られる教訓は明らかです。

ファシズムは、もうたくさんだ!

スターリン主義は、もううんざりだ!

ひとびとからモラル(倫理)を奪い取る戦争は、もうたくさんだ!

すべてが、現代を生きる私たち自身に関わってくる課題です。スペインを二分してたたかわれた内戦は、深い傷跡を残しました。独裁者フランコ将軍は1975年に死ぬのですが、実に35年近くその支配が続いたのです。共和国派の人びとは、そのかん一貫して、逮捕・投獄・拷問・軍事裁判による重刑判決・亡命などの運命を強いられました。30年もの間、自宅の「壁に隠れて」暮らしたひとの実話も残っているくらいです。スペイン内戦で問われた事柄は、遥か昔の話ではなく、過ぎ去った過去でもないのです。

3)ガルシア・ロルカの生死

さて、このような時代を駆け抜けたロルカの人生を簡潔に振り返っておきましょう。

120年前の6月5日、ロルカが生を享けたのは、グラナダ市に近いフエンテ・バケーロスという町でした。私は訪れたことがありませんが、広がる沃野の中に白壁の家々が立ち並ぶ、南スペインの典型的な小部落だと言われています。音楽と詩が好きだった母親の影響はよく言われるところですが、彼は、母、祖母、伯母、乳母たちに囲まれて、抱きかかえられるようにして大事に育てられたと言います。とりわけ、年寄りの召使ドローレスが語るアンダルシーアの伝説や、歌う土地の民謡を聞きながら眠ったようです。ロルカは、後年、アンダルシーアの民間伝承に深い関心を抱き、カンテ・ホンドや各地の子守歌を採集し始めるのには、この幼児体験が基盤にあるようです。

やがて、ロルカの一家はグラナダへ引っ越します。皆さんもご存じでしょう、グラナダは、アルハンブラ宮殿を初めとしてイスラーム文化の痕跡が数多く残る街です。ロルカは心から愛したこの町で大学へ通い、哲学・法律。・文学などを学びました。10代後半に熱中したのは音楽でしたが、師匠の突然の死に出会ってその道は挫折し、文学に方向を転換しました。ここで彼は詩作を始めます。

1919年、21歳になったロルカは、グラナダ大学の法律の教授で、社会主義者であったフェルナンド・デ・ロス・リーオスを敬愛していましたが、彼の勧めでマドリーの「学生館」

へ赴きます。若い芸術家や文学者のたまごが集まる場所です。ここで彼は、すでに名前を挙げたサルバドール・ダリやルイス・ブニュエルなどと知り合い、親友となったのです。およそ10年をここで過ごしました。土着的な詩的伝統に深い関心を抱いていたロルカは、ここで、友人たちが熱中するシュルレアリスムなどの近代的な感覚や表現に出会ったのでした。最初の詩集『詩の本』を先駆けとして、『カンテ・オンドの詩』『組曲集』『歌集』『ジプシー歌集』はすべてこの時代に書かれているのですから、充実した時期を過ごしていたことがわかります。戯曲も手掛けていましたし、遺されているデッサンの多くもこの時期に描かれたものです。

したがって、マドリーからグラナダに戻ったロルカの「名声」は高まっていた。だが、その名声にも疲れたのでしょう。リーオスと共にニューヨークへ発ったのが1929年でした。コロンビア大学に入り、一年間を過ごします。1929年とは、あの世界大恐慌の年です。資本主義市場が大混乱に陥るなかで、彼にはハーレムだけが落ち着く場所だったようです。そこではじめて聞いたジャズの向こう側に、故国のフラメンコのリズムの魅惑を再発見した、と言われています。ニューヨークの次には、キューバのハバナへ行きました。キューバはフィリピンと違って、米西戦争後独立は遂げていました。しかし、米国の海軍基地が強引に設けられ――驚くべきことに、そのグアンタナモ米軍基地は1世紀を超える115年が経った今もキューバに返還されることなく、米軍は居座り続けているのです!――、経済的にも米国企業の支配下に置かれていました。そのことへのロルカの反応は残されていませんが、ニューヨークのハーレムで会った黒人たちとジャズに深い印象を受けていたロルカは、キューバではまた別な黒人と出会ったことに心を動かされたと言います。つまり、アングロ・サクソンの文化ではなく、ラテン系の文化の中での黒人に出会ったのです。音楽好きであったロルカが、ハバナの街のあちらこちらから聞こえてくるキューバン・リズムに感興を掻き立てられたであろうことは、想像に難くありません。

ロルカがスペインに戻ったのは1930年でした。翌年の1931年には、国王が国外に逃亡し、共和制に移行したことはすでに触れました。政治的・社会的な激動は、一般的に言っても、文化・芸術表現の世界にも活況をもたらします。民衆文化を掘り起こし、これを再興しようとする機運が盛り上がったのです。それは、以前から、ロルカが求めていた道でもありました。ニューヨークへも同行した、敬愛するリーオスは、共和政府の教育相に任ぜられました。ロルカは古典劇の傑作を携えて、全国を巡回しました。移動劇団【La Barraca ラ・バラッカ=仮小屋、掛け小屋、バラック】プロジェクトです。演じるのは主として学生、トラックには簡素な舞台装置を積み込み、辺鄙な農村にまで出かける。「黄金世紀」の喜劇を即興的なセリフでアレンジし、ロルカの中に蓄積されていた古い民謡に関する知識を生かして編曲した音楽が盛り込まれる。自分の世界に近しい物語や音楽に触れることができた、観客となる農民たちの喜びが、目に浮かぶようです。

この時期、ロルカは、さすがに多作です。『血の婚礼』、『イェルマ』、『ベルナルダ・アルバの家』の代表的な戯曲の3部作を書き上げます。牛の角に刺されて死んだ親しい友人の闘牛士、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを哀悼する詩集も出版します。また、グラナダの地に似つかわしくも、アラビアの詩型を借りた一連の短い抒情詩を『タマリット詩集』と題して出版する準備も始めました。まさに、脂の乗り切った時代の活躍ぶりと言えましょう。

1936年7月13日、恒例の家族の集まりに顔を出すために、ロルカはマドリーからグラナダに向かいました。先にも触れましたが、この3日後に、モロッコでは軍部のクーデタが起こりました。スペイン全土で、ファシストの蜂起がいっせいに起こりました。ロルカが戻った故郷=グラナダも、右翼ファシストであるファランヘ党員による制圧下にありました。ロルカは、直接に政治に関与していたわけではありません。しかし、移動劇団「ラ・バラッカ」は明らかに共和政府の保護の下で行なわれていました。また、共和派の側に立つことを公言していた彼は、こうも言っています。「私はすべての人びとの兄弟であり、抽象的な国家主義的観念のために自分を犠牲にしようとする人びとを憎む」と。また、「芸術家はただひとつのもの、すなわち芸術家であらねばならない。芸術家、とりわけ詩人は常に、言葉の最良の意味においてアナキストでなければならない」「僕は絶対に政治家にはならない。僕は革命家なんだ。だって、革命家じゃない本物の詩人なんていないからだよ」という言葉も残しています。

ロルカの立場は鮮明でした。1936年8月18日早朝、ロルカは友人の家からファシストたちに連れ去られました。オリーブ畑に運ばれたロルカは、連行された他の共和主義者と共に、自らの墓穴を掘らされた挙句、その場で銃殺されたのです。

享年38歳でした。

さて、私はここまで25分間をかけて、ガルシア・ロルカの生涯とその時代を駆け足で語ってきました。1898年に生まれ、1936年に死んでいったひとりの人物。スペイン現代史を画する年が、その生年と没年に刻印されています。いかにも、象徴的なことです。ここで、私の話を止めるべきでしょうか。否、私は止めません。止めるわけにはいかないのです。ファシズムが勝利し、その過程で我らが愛するひとりの詩人が殺されたところで話しを止めるわけにはいかないのです。このままでは、人間の歴史があまりに哀しすぎる。

最後に、ロルカの詩を読むのも一つの方法です。でも、それは今までも読んできました。きょうは、小さな子どもが大好きであった詩人のひとつのエピソードに触れます。親友サルバドール・ダリの故郷を訪ねた時のエピソードです。子どもたちが海辺で遊んでいると、そばにいたロルカは突然風に吹かれて飛んできた紙を掴むふりをした。「あっ、小さなマルガリータの手紙だ」と言ったロルカは、次のように続けたのです。「愛する子どもたち。私は、たてがみを風になびかせて、星を探している白い馬だ。星を探すために、どんなに走っているか、見てほしい! でも、見つからないんだ。疲れた、これ以上、走れない。疲労が私を溶かして煙にしてしまう。形がどう変わるかみてごらん」。

子どもたちは、やがて、馬のたてがみやシッポや、星までをも幻視したと言います。石を読んでと言って、ロルカに石を渡した子がいました。すると、ロルカは「愛する子どもたちよ。私は何年も何年もここに住んでいます。その間、一番幸せだったのは、蟻たちの巣の屋根になれたことです。蟻たちは、私が空だと思っていたので、私もその通り空だと信じ込みました! でも、今、私は自分が石だと気づいたので、この思い出は、私の秘密です。誰にも、この秘密を話しては、だめだよ」

ここしばらくのあいだ、ロルカの詩に親しんで来られた聴衆のみなさんは、これらの即興表現には、ロルカの詩的世界が横溢していると思いませんか。登場する生き物にも、使われているメタファーにも……。

子どもたちにこのように接したロルカの、詩人の魂に乾杯! です。

そして、ロルカの、このような即興の小さな物語を柔らかな心で受け止め、理解し、自分の心の中で大きく育てていくであろう、過去・現在・未来の世界じゅうの子どもたちがもつ可能性に希望と期待を抱いていることをお伝えして、私の話を終わります。

ありがとうございました。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[56]朝鮮通信使を縁にして集う人びと


『反天皇制運動カーニバル』大21号(通巻364号、2014年12月9日発行)掲載

雨森芳洲の『交隣提醒』(平凡社・東洋文庫)を読んでいたせいもあって、今年こそは、例年11月に埼玉県川越市で開かれる「多文化共生・国際交流パレード/川越唐人揃い」へ行ってみたかった。由来をたどると、江戸時代の川越氷川祭礼では、朝鮮通信使の仮装行列が「唐人揃い」と呼ばれて、大人気の練り物だったという。「唐」は「中国」を指す呼称ではなく、外国を意味する言葉として使われていたようだ。

秀吉による朝鮮侵略(いわゆる文禄・慶長の役 1592~98年)の後、徳川家康と朝鮮王国との間で「戦後処理」が成り、1607年から1811年まで12回にわたって、友好親善の証しとして朝鮮通信使が招かれた。「通信」とは「よしみ(信)を通わす」の意である。雨森芳洲がいた対馬藩は対朝鮮外交の任に当たっていたから、多くの場合4、500人から成る通信使一行はまず対馬に立ち寄り、そこから瀬戸内海を抜けて大阪までは海路を行く。そこから江戸までは陸路だが、護行する者や荷物を運ぶ者を加えると4千人以上の大移動になったというから、旅の途上で宿泊することになったそれぞれの土地に住まう町衆の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。江戸にも店を持つ川越の一豪商が、或る日、日本橋を通った通信使一行の華やかな行列に目を奪われ、郷里の町民にもその感動を伝えたいと考えて、地元の祭りの機会に乗じた仮装行列を思いついたそうだ。通信使が川越を通ったことは一度もないというのに、金持ちの道楽がその後の民際交流の素地をこの土地につくり出したのだから、おもしろいものだ。

川越では、2005年の「日韓友情年」を契機に、この江戸時代の「唐人揃い」を「多文化共生・国際交流パレード」として復活させ、今年は10回目を迎えた。パレードの前日には、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会 川越大会」も開かれた。通信使ゆかりの16自治体と41の民間団体は1995年に「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を発足させ、毎年持ち回りで全国交流会を続けている。それが今年は川越で開かれたのだが、関東地域では初めての開催だったそうだ。

私は、対馬を初めとして主として九州・四国・中国・関西地域はもとより、韓国からの参加者の話を聞きながら、民際交流のひとつの具体的な成果を実感した。地域に住む人びとのなかに、このような催し物の積み重ねを通して浸透してゆく、開かれた国際感覚を感じ取った。対馬では、韓国人が盗んで持ち帰った仏像が返却されない問題で、名物行事の通信使行列が中止になったり、「何が通信使か」という誹謗中傷が島外から浴びせかけられたりする事態が起こっているが、それでも韓国の友好団体との交流は続けるべきだと語る「朝鮮通信使縁地連絡協議会理事長」松原一征氏の言葉(10月8日付け毎日新聞)を読んで、雨森芳洲の精神が対馬には生き続けていると思った。氏は、福岡と対馬を結ぶフェリーを運航している海運会社の経営者だという。

集いを司会したのは地元・川越の女性だったが、次のように語った――「外国」のものを楽しげに受け入れる、江戸以来の伝統が川越の町には根づき、1923年の関東大震災の時にも、朝鮮人虐殺が行なわれた他の関東各地と違って、川越にいた朝鮮人18人と中国人2人は町民と警察に保護されて無事だった、と。翌日のパレードには20以上の団体が、さまざまな衣装・言語・歌・踊り・パフォーマンスで参加し、その多様性は十分に楽しめるものだった。

思うに、映画・演劇・音楽・美術などの文化分野では、国境を超えた共同作業がごく自然なこととして行われて始めて、久しい。朝鮮通信使を媒介にした日韓および日本国内の草の根の交流も、その確かなひとつだろう。

中央の極右政権が行っている排外主義的ナショナリズムに純化した外交路線を批判しつつ、それと対極にある各地の理論と行動に注目したい。もちろん、自分自身がその実践者でもあり続けたい。(12月6日記)

死刑囚が描いた絵をみたことがありますか


『週刊金曜日』2014年9月19日号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が運営する死刑囚表現展の試みは、今年10年目を迎えた。現在、日本には130人ほどの死刑確定囚がいる。未決だが、審理のいずれかの段階で死刑判決を受けている人も十数人いる。外部との交通権を大幅に制限され、人間が生きていくうえで不可欠な〈社会性〉を制度的に剥奪されている死刑囚が、その心の奥底にあるものを、文章や絵画を通して表現する機会をつくりたい――それが、この試みを始めた私たちの初心である。

死刑囚が選択する表現は、大きくふたつに分かれる。絵画と、俳句・短歌・詩・フィクション・ノンフィクション・エッセイなどの文章作品である。すぐれた文章作品は本にして刊行できる場合もあるが、絵画作品を一定の期間展示する機会は簡単にはつくれない。それでも、各地の人びとが手づくりの展示会を企画して、それぞれ少なくない反響を呼んできた。日本では、死刑制度の実態も死刑囚の存在も水面下に隠されており、いわんやそれらの人びとによる「表現」に市井の人が接する機会は、簡単には得られない。展示会に訪れる人はどこでも老若男女多様で、アンケート用紙には、その表現に接して感じた驚き・哀しみ・怖れ、罪と罰をめぐる思い、冤罪を訴える作品の迫力……などに関してさまざまな思いが書かれている。死刑制度の存否をめぐってなされる中央官庁の世論調査とは異なる位相で、人びとは落ち着いて、この制度とも死刑囚の表現とも向き合っていることが感じられる。

獄中で絵画を描くには、拘置所ごとに厳しい制限が課せられている。画材を自由に使えるわけではない。用紙の大きさと種類にも制約がある。表現展の試みがなされてきたこの10年間を通して見ると、応募者はこれらの限界をさまざまな工夫を施して突破してきた。コミュニケーションの手段を大きく奪われた獄中者の思いと、外部の私たちからの批評が、〈反発〉も含めて一定の相互作用を及ぼしてきたとの手応えも感じる。外部から運営・選考に当たったり、展示会に足を運んだりする人びとが、一方的な〈観察者〉なのではない。相互に変化する過程なのだ。社会の表層を流れる過剰な情報に私たちが否応なく翻弄されているいま、目に見えぬ地下で模索されている切実な表現に接する機会にしていただきたい。

(9月10日記)

付記:なお、記事では、12人の方々の絵が、残念ながらカラーではありませんが、紹介されています。

太田昌国の夢は夜ふたたび開く[40]死刑囚の表現が社会にあふれ出て、表現者も社会も変わる


『反天皇制運動カーニバル』第5号(通巻348号、2013年8月6日発行)掲載

広島県福山市にあるアール・ブリュット専門の鞆の津ミュージアムで、去る4月から7月にかけての3ヵ月間にわたって、死刑囚が描いた絵画の展示会「極限芸術」が開催された。当初は2ヵ月間の予定だったが、好評であったために途中で会期が1ヵ月間延長された。総入場者数は5221人になった。ミュージアムのある鞆の浦は、北前船や朝鮮通信使の寄港地であったことでも名高く、歴史の逸話にあふれた町だが、福山駅からバスに乗って30分ほどかかる場所にある。今回の入場者には、町の外部から来た人が多かったようだが、その意味では、アクセスが容易だとは言えない。そのうえでの数字だから、いささかならず驚く。

展示された300点有余の作品を提供したのは、私も関わっている「死刑廃止のための大道寺幸子基金」死刑囚表現展運営会である。2005年に発足して以降、毎年「表現展」を実施してきたので、昨年までの8年間でそのくらいの絵画作品が応募されたのである(別途、詩・俳句・短歌・フィクション・ノンフィクションなどの文章作品の分野もある)。絵画作品全点の展示会は初めての試みだったが、これは当該ミュージアムのイニシアティブによるものである。会期中に、都築響一、北川フラム、茂木健一郎、田口ランディ各氏の講演会も開かれた。特に都築氏は精力的なネットユーザーで、発信力が高い。その伝播力は大きかったと推測される。

メディアの敏感な反応が目立った。「死刑囚の絵画」という、いわば「閉ざされた空間」への関心からか、テレビ・ラジオ・週刊誌などで芸能人や評論家が観に行ったと語り、やがて複数の美術批評家も「作品の衝撃性」を一般紙に書いた。私は2回訪れたが、今回の展示会を通して考えたことは、次のことである。

一、言わずもがなのことではあるが、「表現」の重要性を再確認した。死刑囚は、いわば、表現を奪われた存在である。社会的に、そして制度的に。その「表現」が社会化される(=社会との接点を持つ)と、これほどまでの反響が起こる。国家によって秘密のベールに覆われている死刑制度が孕む諸問題が、どんな契機によってでも明らかにされること。それが大事である。1997年に処刑された「連続射殺犯」永山則夫氏は、自らの再生のために「表現」に拘った人だが、氏の遺言を生かすためのコンサートは、今年10回目を迎えた。死刑制度廃止を掲げているEUは東京事務所で氏の遺品の展示会を開いて、日本の死刑制度の実態を周知させようとしている。俳句を詠み始めて17年ほどになる確定死刑囚・大道寺将司氏は昨年出版した句集『棺一基』(太田出版)で、今年の「日本一行詩大賞」を受賞することが、去る7月31日に決まった。どの例をみても、死刑囚自らが、自分の行為をふり返った、あるいは己が行為から離れた想像力の世界を「表現」したからこそ持ち得た社会との繋がりである。それによって死刑囚も変わるが、社会も変わるのである。

二、死刑囚の絵画を「作品」として尊重するミュージアム学芸員の仕事であったからこそ、今回の展示会は「成功」した。額装、展示方法、ライティング、築150年の伝統ある蔵を改造したミュージアムそのもののたたずまい――すべてが、それを示していた。

三、「地方」と言われる場合の多い「地域」社会のあり方について。死刑囚の絵画とは、一般社会からすれば、「異形」の存在である。鞆の浦の船着き場、歴史記念館などの公共施設にも、スーパー、喫茶店などの民間店舗にも、この展示会のポスターやチラシが貼られたり、置かれたりしていた。それは、この町の人びとの「懐の深さ」を思わせるに十分であった。特異な地勢の町だが、行きずりの旅行者の観察でしかないとはいえ、寂れているという感じはなかった。私は今年、山陽と道東の市町村をいくつか歩いたが、新自由主義的改革によって地域社会の疲弊が極限にまで行き着いている現実を見るにつけても、その中にあってなお活気を保っている町の例があるとすれば、その違いはどこからくるのだろうという課題として考えたいと思った。

(8月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[22]『方丈記』からベン・シャーンまで――この時代を生き抜く力の支え


反天皇制運動連絡会「モンスター」24号(2012年1月10日発行)掲載

3・11以後、鴨長明や、その小さな作品が触れた事態からほぼ8世紀の時間を超えた東京大空襲を重ね合せて書かれた堀田善衛の作品を読み耽ったと吐露する文章をいくつか見かけた。私も、あの3・11の衝撃的な津波映像をテレビで見たその夜、少しでもこころを落ち着かせたいと思って手を伸ばしたのは、『方丈記』と『方丈記私記』であった。それまでにいく度か読んできたはずのふたつの作品から、今までに感じたことのない感興を私はおぼえた。声高に言うことではないかもしれないが、文学の力とはこういうものか、と心に沁みた。

それは、直接的な被害者ではないことからくる、いくらかなりとも余裕のある、感傷的な態度であったかもしれない。だが翌日からは、もちろん、福島原発をめぐる深刻な事故状況が、東電と政府による恥じを知らない隠蔽工作を見透かすように、明らかになり始めていた。私の場合、『方丈記』は、安吾の『堕落論』にとって代わった。そして、つまらぬ歌手やスポーツ選手が現われて「日本は強い」とか「日本はひとつのチームなんです」とか声を張り上げるにつれて、今度は石川淳の『マルスの歌』に手が伸びるのであった。高見順の小説のタイトルそのままに「いやな感じ」を、そんな言葉が横行する時代風潮に見てとって。

人によっては、もちろん、別な文学作品を、あるいは音楽を、あるいは映画や芝居を、はたまた美術作品を挙げるであろう、3・11以後のこの10ヵ月間を生きるために、何を読み、何を聴き、何を観てきたか、と問われたならば。

事が自然災害と原発事故なる人災の結果にどう対応するかという緊急の課題である以上は、まずは社会や政治の局面で考え/行動すべき事態であることは自明のことだ――「個」から出発しながらも集団的な形で。同時に視野をいくらかでも拡大するならば、それが、私たちが築いてきた/依存してきた文明の根源に関わる問題でもあると気づけば、人は自らの存在そのものの根っこまで降りていこうとするほかはない。ふだんは「無用な」文化・芸術が、そのとき、集団から離れて「個」に立ち戻ったひとりひとりの人間に、かけがえのない価値を指し示す場合がある。示唆を与える場合がある。多くの人は、そのことを無意識の裡にも感じとって、たとえば『方丈記』に手に伸ばしたのではなかったか。

私は、昨年90歳を迎えた画家・富山妙子が、それまで百号のキャンバスに描いていたアフガニスタンに関わる作品を3・11以後はいったん中断し、津波と原発事故をテーマにした三部作を描く姿を身近に見ていたこともあって、この期間を生き延びるにあたって絵画に「頼る」ことが、ふだんに比べると多かった。戦後にあって、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任などを主要なテーマに作品を描き続けてきた富山は、私が知り合って以降の、この20年間ほどの時代幅でふり返ると、より広い文明論的な視野をもって、物語性のあるシリーズものの作品を創造してきた。年齢を重ねるにしたがって一気に色彩的な豊かさを増した作品群は、確かな歴史観に裏づけられて描かれていることによって、リアリティと同時に物語として神話的な広がりをもつという、不思議な雰囲気を湛えるようになった。今回完成した三部作「海からの黙示―津波」「フクシマ―春、セシウム137」「日本―原発」は、今春以降の列島各地を駆けめぐることになるだろう(因みに、彼女の作品シリーズは、http://imaginationwithoutborders.northwestern.edu/で見ることができる。米国ノースウエスタン大学のウェブサイトである)。

年末から年始にかけては、映画『ブリューゲルの動く絵』(レフ・マイェフスキ監督、ポーランド+スウェーデン、2011年)と展覧会「ベン・シャーン展」(神奈川県立近代美術館 葉山。以後、名古屋・岡山・福島を巡回)に深く心を動かされた。時代に相渉り、それと格闘する芸術家の姿が、そこには立ち上っているからである。シャーンには、第五福竜丸事件に触発された連作がある。久保山愛吉さんを描いた「ラッキー・ドラゴン」と題された作品の前に立つとき、そして福竜が「ラッキー・ドラゴン」なら福島は「ラッキー・アイランド」だと書かれたカタログ内の文章を読むとき、私はあらためて、今回の事態にまで至る過程を、内省的に捉え返すよう促されていることを自覚する。(1月6日記)

広がりゆく死刑囚の表現活動――第7回死刑囚表現展をふり返って


『出版ニュース』2011年11月上旬号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が行なう「死刑囚表現展」は、今年で7回目を迎えた。応募の締切りは7月末日だったが、この時点での死刑確定囚は120人、未決の人は39人だった。そのなかから、文章表現では12人から、絵画表現では14人からの応募があった。双方に応募したのは3人だったから、実質23人が応募したことになる。総数の中から1割5分程度の人びとの応募があるという数字が、比率的に高いのか低いのかは分からない。表現展を運営している立場から言えば、はじめての応募者があるのもうれしいが、毎年のように応募する人が複数存在していることに、この表現展の試みが根づきつつあることの証しを見るのは早計だろうか。また、毎年のように応募してきた人から作品が届かないと、それはそれで気になることでもある。運営に当たる私たちも、こんな風に、気持ちの微妙な揺らぎをおぼえながら、締切り日を迎えるのである。

文章作品は、原稿用紙に書く人もいれば、レポート用紙、便箋、はがきなど、さまざまな形で書かれて、届けられる。それらを複写して、選考委員(加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、坂上香の諸氏に、私・太田昌国)に送るのだが、今年はそれを積み重ねた厚みが40センチほどになった。たいへんな分量である。選考委員は9月初旬に開かれる選考会議までにそれらを読み込まなければならない。絵画作品は選考日当日に、壁に掛けたり机上においたりしておく。今回から、新しい風を吹き入れてもらうために、一度限りのゲスト審査員を迎えることにした。今年は、精神科医の香山リカさんにお願いした。

昨年の第6回目くらいからだろうか、公表時には匿名にしてほしいという希望が応募者から寄せられるようになった。加害者である自分が書いた文章が、万が一にも被害者の遺族の目に触れることを憚る気持ちから、また、犯行時および公判時にメディアと世間から非難と好奇の注視を浴びた加害者の家族が、自分の表現を通してふたたび世の中にさらされることを避けたい気持ちからくる要望だという。運営会としては、いまのところ、この希望に沿うことにしている。以下の文中で、筆名らしきものが散見されるのはそれ故であるが、この問題については後で触れる。

さて、今年の応募作品すべてについて万遍なく触れることは不可能だが、主として、誰にも共通の問題を引き出すことができると思われる作品に触れながら、中身に入っていこう。

初めて応募した方だと思うが、「人生記」(高橋義博氏)と題する作品があった。私は、死刑囚の作品だからといって、自らが起こした事件について必ず触れなければならないとは思わない。今までの選考過程での討論を思い出すなら、これは、選考委員に共通の考え方だと思う。しかし、「人生記」と銘打って、自分が歩んできた人生を確かにふりかえっているという調子で叙述を行ないながら、ついに最後まで事件そのものには触れないのでは、少なくとも他者に読ませるものとしては成立し得ないだろう。これは、実は、7回目を迎えた今回まで、異なる人びとの作品でありながら繰り返し現われる共通の性格のひとつである。もちろん、一般論としては、自らが手を染めてしまった犯罪や手酷い失敗、過ちを率直にふりかえり、その事実に向き合うことは、誰にとっても容易なことではない。だが、応募する人は、自らの内面を表現してそれを他者に読ませる(見せる)という場所に進み出てしまった。そこでなそうとする表現において肝心な部分に触れないのでは、自分は根本の問題から逃げていると自覚せざるを得ない時が、必ず来るだろう。従来も同じような指摘を行なった場合が幾度かあったが、その人が次回も同じテーマで応募してきたときには、表現内容に格段の違いが見受けられることがあった。その意味で、この作者の場合でも、ここを出発点にしてさらに深みのある作品に挑んでいただきたいと思う。

「デッドライン」(露雲宇流布氏)は、「荒唐無稽な」と形容したくなるような、これまた典型的な作品である。従来なら、主人公は男女を問わず腕っ節が桁外れに強く、主人公の周辺では法外な額のカネが常に出入りし、彼(女)らは飛び切り高額な酒や食べ物を日常的に飲食している――という形で、その「荒唐無稽さ」が表現される場合が目立った。男が主人公の場合には、その「マッチョ」ぶりも半端ではない。このような場合は、現実社会の中での価値意識としての「強欲資本主義」の姿が、自己批評もないままに、描かれているのだろう。「デッドライン」の場合は違う。或る死刑囚の死刑執行まで余すところ二四時間を切ってしまった段階で、物語が動き始める。時間的に切羽詰った状況の設定は、効果的な場合はもちろんあるが、ここではどうか。死刑囚の冤罪を確信した新聞記者が動き出す、妻や娘が死刑囚と面会する、そこに件の記者も同席する――それは、もちろん、すでに触れた執行前二四時間の時間幅の中で、である。現代日本の死刑囚処遇ではあり得ない設定が、こうして次々と出てくる。日本が不動の場所(舞台背景)である必要はないから、「どことも知れないどこか」の物語として成立するなら、それでもよいかもしれない。しかし、あまりにも無前提な条件設定は、読み手を白けさせる。どこにもない(あり得ない)物語を説得力ある形で作り上げるには、相当な力技が必要である。筆力のある作者だけに、次回はひと工夫もふた工夫もしてほしい。

「繋ぐ手」(風間博子氏)が孕む問題も根が深い。問題のひとつは、警察・検察の取り調べ状況を含めた司法のあり方に関わっている。作者は、この裁判では利害関係が相反する共犯者の供述が唯一の証拠となって、自分が故なく死刑判決を受けていると主張しているのだが、その主張の当否をとりあえず脇に置くとしても、その「証拠」自体を検察側は全面開示していないのである。このかん死刑囚の表現を読み続けてきて思うのは、「調書」の作られ方と「証拠」の限定的な開示方法に、いかに重大かつ深刻な問題があるか、ということである。「限定的」といえば聞こえはいいが、検察側に不利で、被告・弁護側には有利な証拠は隠して開示しないのだから、不当極まりない話である。「調書」と「証拠」に関わるこの現実が大きく改善されて、公正・公平なものになるだけで、死刑裁判に関わる部分冤罪はもとより、冤罪そのものをなくす道に繋がるのではないかと強く思う。もうひとつの問題は、当然のことだが、作者が書いた方法に関わっている。作者は、娘の視点から母である自分を描くという方法を採用している。端的に言って、これは自己内省の仕方を甘くしたと私は思う。地の文章との均衡を失するほどに、法廷文書や新聞記事がたびたび引用されているが、それは、娘の立場からはよく見えない事態を説明する道具として使われている。自分自身の内面との対話を避けて、公的文書に説明を委ねたところに、この作品の弱点が集中的に現われているのではないか。「共犯者」とされる元夫によって、過去ドメスティック・バイオレンス(DV)を受けていたことから追い詰められていく心理の切開も、そのぶんだけ弱まっていると思える。作者は、昨年は絵画数点を応募して、「博愛」「無実という希望・潔白の罪」の2点は優秀賞を獲得した。あの絵画作品に見られた凝視力を思い起せば、文章作品においても、その力を生かす方法は確実にあるだろうと思う。

以上で取り上げた3つの作品からは、作者が匿名を希望したか、実名で参加しているかは別として、冒頭で触れた匿名問題とも関わる事柄を取り出すことができるように思える。冤罪事件でない限り(部分冤罪であっても、全体的な行為の一部における罪を意識せざるを得ない限りにおいて)、加害者が、被害者遺族のふだんの思いや、自らが何らかの表現を行なった場合にそれに対する遺族の反応を意識するのは当然のことであろう。だからといって、自らの本名(正体)を隠して表現する道を選ぶ限りは、自らがなした過去の行為をふりかえるという意味では、自分の表現がいまだ被害者の視線に堪え得る段階には至っていないことを自己告白している場合もあると思える。私は、今後とも匿名での応募は認められるほうがよいと考えるが、こと被害者および被害者遺族との関係においては、上に述べたことを意識し続けることが、応募者には求められると思う。

この問題が、端的かつ直截に表現されるのは、ことばをぎりぎりの地点にまで刻み込んだ短詩型の分野である。今年も、常連の、西山省三氏の俳句、響野湾子こと庄子幸一氏の俳句・短歌・雑感に、それが見られた。前者は寡作だが、後者は量産である。響野氏からは、短歌三六五首、俳句百句、雑感一二編が、巧みな筆さばきの原稿で送られてきた。自らが為したことについての響野氏の悔恨の念は深い。だが、判決文にある、被告についての断定的表現は厳しいものであったようだ。

改悛も矯正も不可能と 言われたる 判決書面 日に一度読む

寝る前に今日得た悔を 積み置きぬ 矯正不能 と言われし身なれど

それでも、作者は、悔い改めの「努力」を続ける。

言霊はあると信じて殺めたる 女を想いて 西向きて祈る

殺めたる帰りに乗りし 電車には 顔無き人の 瞳が照りてゐた

しかし、どんなに「努力」しても、その思いが、被害者に、その遺族に、ましてや野次馬でしかない「世間」にどう届くものであるかは、覚束ない。そのことを思い知った作者を、虚無感が襲う。

贖罪てふ知的努力に 疲れきて 獄舎の闇に 馴染みゆく虚刻

「贖罪」を「知的努力」と称したのは、作者の自己韜晦であろう。一年間に詠まれた短歌を、こうして任意に取り出してみると、万言を費やす文章とは別な方法で到達できる次元があるのだと確信できるように思える。「次元」は、この場合、「高み」といってもよいかもしれない。この人の作品には、例年のように寺山修司との「交感」関係が見られるように思うが、他にも幾人かの文学者・芸術家・反逆者との、想像上の「交感」が繰り広げられていく。このような人が、獄舎の闇にいて、時折り「虚刻」に陥っていくのは、そして次第にその境遇に馴染み親しんでいっているのは、〈外部〉にある社会との相関関係において、である。その地点で、〈外部社会〉の責任が生まれるのだと私は考える。

先だって、死刑制度廃止運動を共に担うひとりの友人が、病を得て獄中の病舎に収容されたまま十分な医療的措置も受けられずにいる死刑囚に関して、獄中に閉じこめておくのは「もう、ほんとうに、これ以上は必要ない」から獄外で十分な治療を受けさせよ、という趣旨のことを書いていた。「もう、ほんとうに、これ以上は……」という表現にはこころがこもっていて、私の胸をうった。獄中者を日常的処遇の厳しさにおいて痛めつけたうえで、長期拘留者の釈放など論外といった日本社会の刑罰制度の現状は、決して世界に普遍的なものではない。さしあたっては、政治囚の領域のことになるが、軍事政権下の韓国で死刑判決を受けたこともあった金大中氏は、民政移管後の選挙において大統領に選出された。アパルトヘイトという名の人種差別制度に叛逆して終身刑の獄にあった南アフリカのネルソン・マンデラ氏は、アパルトヘイト廃絶後の選挙で大統領に選ばれた。現在のウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカ氏は、一九六〇年代には都市ゲリラ活動で逮捕されて獄中にあったが、獄に向けて外部から掘られたトンネルを伝って脱獄した経験の持ち主である。その彼が、およそ四〇年後には選挙によって大統領に選ばれたのである。ある時代状況の中で「罪」を犯し、「刑罰」に服している人も、価値観の変化によっては、これほどまでに劇的に、担う役割を変えることができる。むしろ、それが世界に普遍的なあり方である。一般刑事犯の場合にも、犯した犯罪をめぐっての内省的な捉え返しがどこまでできているかを基本的な基準として、刑罰のあり方に関しての再検討がなされるべきであろう。私たちの社会のあり方がそこまで成熟するには、なお長い時間を要するだろう。死刑囚が行なう表現が、「罪と罰」をめぐる一般社会の把握の仕方に変革を迫るだけの訴求力を持つよう、私はこころから望んでいる。

「贖罪」の問題を糸口に話が逸れたが、ことは表現展の根幹にも関わることがらだと思えたので、あえて触れてみた。文章ジャンルでの今回の受賞者は、以下の人びとに決まった。星彩氏の「メモリーず」に奨励賞。河村啓三氏の「落伍者」に優秀賞。西山省三氏の俳句2句「汗かきて 我れも少し蒸発す」「雪消えて 元の太さの鉄格子」に努力賞。響野湾子氏の表現全体に持続賞。

最後に、絵画部門の作品に簡潔に触れよう。毎年のように、発想の自在さと表現方法上の工夫で楽しませてくれる松田康敏氏の「生死の境」が、変わらず、おもしろかった。A4用紙を20枚貼りあわせた大きさである。観る者が解釈する余地をいっぱい残してくれている作品からは、対話が生まれる。その意味でも、今年も随一の作品だった。北村孝紘氏の絵画3点は、いずれも「無題」だが、一つ目のテルテル坊主の首に縄が掛けられ、吊るされている作品には、観る者をしてギグッとさせる迫力、怖さがあった。謝依悌氏が描く世界にはますます深みが増していることが感じられた。

絵画部門の受賞者は以下の通りである。松田康敏氏の「生死の境」に奨励賞。北村孝紘氏の「無題」2点に努力賞。常連となっている謝依悌氏の3点の作品には奨励賞である。

絵画をめぐっては、10月8日に開かれた死刑廃止デー企画の一プログラムとして行なわれた表現展シンポジウムにおいて、選考委員の北川フラム氏から印象的な発言があった。応募者が、制約の多いなかでギリギリの表現を行なおうとしていることはわかるが、次の段階へと飛躍するためには、粘土を使ったり料理をしたりする手仕事が重要だ、粘土を差し入れすることはできないだろうか――という趣旨の発言である。これを実現するために、獄外からどんな働きかけができるのか。それは、今後の私たちの課題となろうが、ここでも日本との対比ですぐに思い出すのは、外国での受刑者処遇のあり方である。私がかつて調べたのは、1970年代軍事政権下にあった南米ウルグアイと、民政下ではあったが同じ時期のペルーにおける政治犯処遇の実態に関してであった。以下の説明は、両国に共通するものと理解していただいてよい。収容されていた人自身の報告によるものだから、信頼はできよう。それによると、政治犯は獄中での集団的生活が許可されている。演劇集団をつくり、集団的討論を通してシナリオを創作することも、獄内公演に際しては楽器を持ち込んで伴奏し、大きな壁画を描いて背景とすることも認められている。党派によっては、獄壁に大きな字でスローガンを描いている場合もある。集団で料理をつくることも認められているから、誰かの誕生日にはパーティ料理をつくり、みんなで楽器演奏や歌を楽しみながら、祝うことも可能だ。

これが、過酷な独裁政治が行なわれていた時代の、一部の国々での獄中の現実だった。もちろん、厳しい獄中処遇を行ない、政治犯に対する死刑執行を次々と行なっていた国家体制もあった。しかし、少なくとも、右にあげたような実例も存在した。ここには、人間存在に対する基本的な肯定感情があるように思える。仮に「罪」を犯した人がいたとして、その人が「自己回復」を図ることができるのは、どんな条件の下においてなのかと考えるうえでのおおらかさが感じられる。軍事独裁下にあってすら――という点が大事だ。

寄せられた死刑囚の作品に触発されて、何ごとかを思いついても、この国=日本では、即座に高く厚い壁に突き当たる。閉ざされた集団主義と強制力のある同調主義が支配するこの国で、この閉鎖性と同調圧力をどのように打破できるのか。課題は遠大だ。

「壁の高さ」に触れたので、唐突のようだが、「廃炉アクション福島原発四十年実行委員会」の武藤類子さんが、去る9月19日の「さよなら原発」6万人集会で行なった訴えの末尾の文言を引用して、この文章を終えたい。それは、この年が「3・11」の悲劇を迎えた年でもあって、私たちは否応なく、生命を見つめなおしながら「震災と死刑」(『年報・死刑廃止2011』総タイトル。インパクト出版会)が孕む問題の再考を迫られているからである。武藤さんは、相手側の高い壁に対抗する道に触れて、こう語った。

「真実は隠され、県民は核の実験材料にされ、棄てられたのだ。私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼。どうか福島を忘れないで。原発推進が垂直の壁ならば、限りなく横に広がり繋がり続けていくことが、私たちの力。その手のぬくもりを広げていきましょう。」

(10月18日記)

「抵抗の布――チリのキルトにおける触覚の物語」ラウンドテーブルにおける発言


2010年10月16日(土)大阪大学豊中校舎

去る10月16日午後、大阪大学で開かれたシンポジウム「抵抗の布――チリのキルトにおける触覚の物語」のシンポジウムに出席した。キルトの一種であるarpillera(アルピジェラ)は、ピノチェト軍事政権下での弾圧と抵抗の経験を表現した芸術作品であり、同時に社会運動としての機能も果たして、世界的な注目を集めてきた。

チリ出身の研究者であり人権活動家でもあり、現在は北アイルランドに住むロベルタ・バシック(Roberta Bacic)さんが来日し、40点のアルピジェラ作品を展示するとともに、「アルピジェラにおけるコンテクストの物語」と題したラウンドテーブルの講師を務めた。これに対し、大阪大学の北原恵さんと私がコメントした。作品の一部と開催趣旨は、以下で見ることができる。

http://gcoe.hus.osaka-u.ac.jp Stitching Resistance

私のコメントは以下のようなものであった。

1)アルピジェラに即して

(私の家にあった一枚のアルピジェラを示しながら)これは、私の家にあったアルピジェラです。きょうテーマになっているのは、1973年の軍事クーデタに始まって18年間続したチリ軍事政権の時代を背景としてもつ時代のことですが、私は軍事クーデタの一年半後にチリに入り、一ヵ月ほど滞在しました。

私が出会った人びとのなかで、軍事政権に反対している人びとは、声を潜めて自分たちの気持ちを語り、またビクトル・ハラやビオレッタ・パラなどの歌を、これまた声を潜めて歌っていました。そこで知り合った人が、後にこのアルピジェラを送ってくれたのです。

(会場には40枚ものアルピジェラが展示されていたので)これほどのアルピジェラを見たのは初めてですが、ある感慨をおぼえました。

(来日したキュレーターの)ロベルタ・バシックさんは、先ほど行なわれたガイド・ツアーで「連帯ビカリオ」という作品の説明のときに、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレに触れました。

上位下達ではない作品構成のあり方が何をヒントとしているかという点に関して、ロベルタさんはフレイレに触れたのでした。

私も、一連の作品を先ほど見ながら、これらが観る者に対話を求めてくるという印象を強く持ちました。

相互主体性、相互対話性、相互浸透性などの言葉で表現してもよいのですが、それはいずれも、フレイレの概念から導き出されるものです。

とはいっても、チリから遠い日本にいて、これらの作品に込められた含意を理解するのは、容易なことではありません。

特に現在は、歴史的な記憶や経験を伝達すること、それを引き継ぐことがきわめて困難な時代です。観る側には、これを理解するための一定の努力が求められるでしょう。

ピノチェト軍事政権は、左翼政治運動・政党運動・労働運動などの諸運動を徹底的に弾圧し、これを壊滅させました。

これらの運動は、男性を主軸とし、思想・文化的にも、支配層が作り上げている男性原理に基づいた価値観に貫かれていたと、いまでこそ言えますが、弾圧された者も、したがって、男性が多数でした。

男性中心の諸運動が、再起不能な打撃を受けている一方、男性優位の社会的価値意識のもとで下位に退けられてきていた「女性的なもの」に根ざした表現が、人をも驚かせる力を発揮することとなったのです。

一般的に信じられている「女性的なもの」とは、「硬い」ものではない感情レベルのもの、すなわち、弱さ、控え目、ためらい、従属と依存、傷つきやすさ、などの要素です。

同じく、女性の活動領域は、思想よりも身体、公共よりも個人、社会よりも家庭である、と捉えられてきました。

これらの条件が重なり合った地点で、女性を表現主体としたアルピジェラは生まれた、と言えます。

このことは、硬い男性原理から、柔らかい女性原理への転換が求められている時代を象徴している事柄であったのではないでしょうか。

また、大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常的な生活に根ざした運動と表現こそが、支配への抵抗の核になっている現代を、先駆け的に暗示したものでもあった、と言えないでしょうか。
2)軍事政権前の「チリ革命」の文化革命的側面について

ピノチェト軍事クーデタが起こる以前の「チリ革命」は、その文化革命的な側面において、見るべきものがあったと思います。

それまでのチリにおいては、流布されるテレビ番組、映画、コミックなどのほとんどが米国製であったから、文化的な従属ははなはだしいものでした。

アジェンデ政権は、この現状を改め、民族的な自律性を高め、現実を批判的に分析・解釈できるような「新しい文化の創造」に重点をおいたのです。

作家アリエル・ドルフマン、ベルギー人社会学者アルマン・マテラール等を中心に、文化帝国主義の浸透に関する批判的な検討が積み重ねられました。

それらは『ドナルド・ダックを読む』『子どものメディアを読む』『多国籍企業としての文化』などの理論的な成果を生みました。ディズニーのコミックや写真小説(フォト・ノベラ)が子どもたちや大衆の脳髄を完全に支配している現状に鑑みて、それらの作品を貫いているイデオロギーを容赦なく批判する作業に力が注がれた、のです。

また、やせる/美しくなる/男性に気に入られる/セックスなどのテーマに純化している、いわゆる女性向け雑誌の批判的な分析も行なわれました。それは、その種の雑誌が溢れかえっている日本の現状に対しても、深い示唆に富むものです。

大衆、子ども、女性など、旧社会の価値意識のなかでは低く見なされてきた社会層にはたらきかけるような、文化批判の活動が「チリ革命」の過程で活発化していた事実が、果たして、軍事政権下の庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたことと関連してくるものなのか。

外部社会の私たちにはよく理解できない(見えてこない)この点が、ロベルタさんへの問いとして残るように思えます。

(以上、発言終わり) ロベルタさんからは、アルピジェラに、チリ革命の課程での文化批判の理論と実践が深く関係しているという視点は、とても刺激的だった、という感想を得ることができた。
(10月23日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[8]検察特捜部の「巨悪」の陰に見え隠れする、日常不断の検察の「悪行」


『反天皇制運動モンスター』9号(2010年10月5日発行)掲載

この六年間、死刑囚が獄中で行なう「表現」に触れている。

「死刑囚表現展」の運営と選考に私自身が携わっているからである。

書、絵画、俳句、短歌、詩、エッセイ、フィクションおよびノンフィクションの中長編――何かにつけて制限の多い獄中にあって、さまざまに工夫を凝らした表現が届けられる。ここでは、ノンフィクションの作品に孕まれている問題に限って、いう。

自らが関わった事件をふり返り、犯罪の様態を含めて詳しく書き込んだ作品が送られてくることがある。

なぜ、あのような残虐な行為に、自分が手を染めたのか。悔恨は深い――そのような作品もある。

書かれてあることの「真実性」如何は、肝心な箇所での表現方法や全体的な筆致から判断するしかないが、それにしても、犯行の構成要素のひとつでも欠けていたなら!、と思わせられることがある。

犯罪の多くは、「必然性」によってではなく「偶然性」によって引き起こされると思われるほどに、あれか/これかの要件をひとつでも欠いていたなら、この人があの、目を背けずにはいられないような犯罪に走ることはなかったろうに、と思われるのである。

さらに印象的なことは、多くの死刑囚が「部分冤罪」を訴えていることである。

被害者は当然にも身を避けたり抵抗したりするわけだから行為それ自体の順序、絞殺などの手による行為の場合の被害者との位置関係、凶器の用い方、共犯者がいる場合にはそれぞれの「役割分担」、主導性と随伴性――いくつもの問題をめぐって、死刑囚は、警察・検察の取調べ段階で取られた調書では、自分の行為・役割・意図などが捻じ曲げられて表現されているという不満をもっている。

結果的に被害者を死に至らしめたとしても、それがいかなる経緯でなされたかということは「情状」問題に大きく関わってくることであり、また誰にせよ、自分がなした行為が曲げて解釈されることには耐えがたいものを感じるだろう。

加害者が自らの罪を軽減するために自分に都合のよい形で自己主張している、という捉え方は当然にもあり得る。

その点は、けっこう、用いられている言葉や文体によって推し量ることができるものだという感想はあるが、いずれにせよ、決定的な根拠にはなり得ない。

このことを前提にしたうえで、警察・検察段階での取調べの様態と調書の作られ方には、あまりにも深刻な問題が孕まれているということは強調しておきたい。

自分が関わった事件を記述する死刑囚の多くは、取調べ段階で、警察・検察が描いた通りのシナリオに嫌々ながら引きずり込まれていく心理を語っている。

そのシナリオをどんなに否定しても、怒鳴られ、こずかれ、蹴られ、殴打され、彼らのシナリオを認めなければ長時間の取調べが続いて、自暴自棄になるのだ。

あるいは、これを認めれば罪が軽くなるという甘言を信じたり、裁判で真実を話せば分かってくれるだろうと絶望感の底で思ったりしてしまうのだ。

このことは、警察・検察が犯し、それに無批判的に追随した裁判所によって引き起こされたいくつもの冤罪事件によって、夙に明らかになっていたことだ。

最近の例でいえば、足利事件の菅谷さんに過酷な半生を強いた責任は、警察・検察・裁判所の「共犯」にあったという、隠しようもない事実を思い起こせば十分だろう。

加えて、警察・検察は持てる権限と人員を最大限に活用していくつもの証拠物件を得ていくが、仮にそのうちのひとつが、自らが描いたシナリオを覆す場合には隠蔽してしまい、被告も弁護人もその存在を知らないままに裁判が進行して判決にまで至ってしまうというのが、日本の刑事司法の現実なのだ。

大阪地検特捜部の主任検事による押収物改竄事件は大きく報道され、当然にも、世間の関心を集めている。それ自体は、もちろん、許しがたいことだが、「正義の味方」=検察内部に、突然のように、異形の者が立ち現われたわけではない。

国家権力を背景にしてその権限を行使することに――巷の「愚民」からは隔絶した特権的なその地位に――「蜜の味」を感じてきた検察が、「国策捜査」ではない一般事犯においても日常普段に行なってきたことが、誰の目にも明白な形で明るみに出た、に過ぎない。

「大阪地検のエース」「割り屋」の前田某には、吉田修一の『悪人』が小説でも映画でも評判になっていることに因んで、このさい洗いざらい検察内部の悪行のすべてを暴露してせめてもの罪償いをしてもらいたいものだが、他方「愚民」である私たちには、検察「トップ」の巨悪だけに目くらましされることなく、警察・検察・裁判所が抱える構造的な問題にこそ目を向けるべきだという課題が課せられているのだと言える。(10月2日記)