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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ホルヘ・サンヒネスとの対話から――ラテンアメリカ特集に寄せて


山形国際ドキュメンタリー映画祭2015/映画祭公式ガイドブック「スプートニク」掲載

私たちが自主上映・共同制作活動でこの40年間付き合ってきているボリビアのウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネス監督は、狭い意味でのドキュメンタリー作家の枠内には収まらない。その作品は、現実に起きた出来事に素材を得ながらもフィクション化している場合が多いからである。だが、ドキュメンタリーやセミ・ドキュメンタリーの作品もあるから、ラテンアメリカや欧米で出版されている「現代ラテンアメリカ・ドキュメンタリ―映画」の研究書の中では必ず言及される存在だ。

ホルへ・サンヒネスたちと出会ったのは1975年のことだ。首都キトで偶然観たウカマウの映画『コンドルの血』(1969)に新鮮な驚きを感じてこの未知の監督のことを探っていたら、何と、軍事政権下のボリビアを逃れてキトに滞在中という。翌日には会っていた。話し合ってみて、歴史観・世界観に共通なものを感じた。旅の途上にあった私たち(連れ合いも一緒だった)と、亡命地を転々としていたホルヘたちとは、ラテンアメリカ各地で再会する機会があった。その度ごとに、ホルヘは自分たちの旧作や「これは!」と彼が思う同時代の作家たちの作品を見せてくれたり、ラテンアメリカ映画にまつわるさまざまな話をしてくれたりした。それ以来、私たちは映画人でもないのに、40年来の付き合いである。

今回の山形映画祭で上映される『チルカレス』(マルタ・ロドリゲス+ホルヘ・シルバ監督、コロンビア、1972)をホルヘ・サンヒネスは、確か、ボゴタのどこかで見せてくれた。ホルヘは、自分たちの初期の短篇『革命』(1962)と『落盤』(1965)が、民衆の貧窮の実態を描きながら、当の貧しい民衆からの批判に曝されていると語った。自分たちが日々生きている「貧しさ」が画面に映し出されていても、面白くもなんともない。知りたいのは、この現実がなぜ生まれているのか、だ。この批判を受けて、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画は変わり始める。その意味では、『チルカレス』も同じ問題を抱えている。しかし、信頼できる作家たちだ――ホルヘは、そう語ったと記憶している。今年は、『チルカレス』に加えてコロンビアのこの二人の映画作家のその後の作品も観られると知って、私の心は沸き立つ。

アルゼンチンのフェルナンド・ソラナスは、ホルヘ・サンヒネスがもっとも信頼し親しくしている映画作家のひとりだ。オクタビオ・ヘティノとの共同監督作品『燃えたぎる時』(1968)――私はかつて『坩堝の時』と訳していた――のことを熱く語ったホルヘの様子をよく覚えている。2000年頃だったか、日本での上映可能性はないがとの断り書き付きで、この名のみ高い作品が東京の某所で「クローズドで」上映される機会があった。その場に居合わせることができた私がどんな思いで画面に見入ったか――想像にお任せしたい。

チリのパトリシオ・グスマンの話が、ホルヘとの対話に出てきたか、よく覚えていない。だが、1970~73年9月のチリに成立していたアジェンデ社会主義政権の時代の一時期、軍事政権下のボリビアを逃れてホルヘたちはチリに亡命していた。アジェンデ政権下では文化政策が活性化し、ラテンアメリカ各地の軍事体制から逃れた多数の文化活動家がチリに赴いて、テレビや映画分野での仕事に携わったという。ホルヘ・サンヒネスもそうした一人だったから、おそらく、パトリシオ・グスマンと知り合う機会があったのではないか。ともかく、私は現地の新聞記事や研究書で彼の名と作品のことはよく見知っていたから、作品をひとつも観ないうちから、今回上映される『チリの闘い』3部作(1975~78)などの題名がくっきりと頭に刻み込まれている。数年前、彼の『光のノスタルジア』(2010)を観た時の思いは、だから、とても深いものがあった。

ウカマウ作品の自主上映を始めたのは1980年だったが、それが大きな成功を収めたので持続的な活動にする展望が見えた1981年には、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画理論書『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』を翻訳・出版した(三一書房、絶版)。巻末には、ウカマウのみならずラテンアメリカ映画の作品年表を付した。その頃は同地の映画が上映される機会はほとんどなかったから、私が観たこともない作品も含めて、ホルヘ・サンヒネスから聞いた話や研究書に基づいて、監督名と題名を年表に付け加えていった。したがって、『チルカレス』も『燃えたぎる時』(は『坩堝の時』として)も『チリの闘い』3部作も、その年表に収められている。

上に見たようなエピソードに満ちた作品を、日本に居ながらにして観る機会が訪れようとは! 過ぎ去った40年間を思い、人生が続き、活動が持続している限りは、こんなことが起こり得るのだ、という思いが溢れ出てくる。(9月10日記)

日本でスペイン語書籍を出版するということ


メサ・レドンダ「日本文学のスペイン語への翻訳――モンセ・ワトキンス没後15周年記念」

(2015年10月4日、セルバンテス文化センター、『第2回日本スペイン語・スペイン語圏文化国際会議』の1プログラムとして)

私は、現代企画室という出版社で企画・編集の仕事に携わって30年になります。小さな出版社でありながら、多様なジャンルの人文書を刊行しています。とりわけ、私自身がスペイン語文化圏の歴史と文化に深い関心を抱いてきたことから、ラテンアメリカとスペインに関わる文学・歴史・哲学・思想・音楽・映画・美術・デザインなどの書物をすでに100冊以上刊行してきています。そこで、日本の読者に対してスペイン語文化圏の多様で、豊饒な文化表現を紹介するうえでは、ささやかながらも一定の役割を果たしてきたと自負しております。

しかし、あるべき文化交流とは、一方通行では成立しません。相互浸透・相互交通の回路を作ることが、どうしても必要です。私たちの出版活動が15年ほど経ち、スペイン語文化圏に関わる書籍もかなりの冊数を出版できていた1990年代の初頭に、私たちはモンセ・ワトキンスと知りあう機会に恵まれました。話し合ってみると、彼女は日本の文化に並々ならぬ関心を抱いていることがすぐわかりました。その入り口になったのは、彼女がスペインで観た小津安二郎の映画でしたが、念願かなって日本に住み始めて以降、驚くべきスピードと深さで、日本文化の中に浸っていることを実感できました。それは、とりわけ、ふたつの点で、際立っていました。ひとつには、日々の生活スタイルの中で、現代日本人がすでに忘れて放棄してしまったものをふんだんに取り入れていることでした、ふたつ目は、日本の近代・現代の文学をよく読み込んでいるということでした。私は出版活動を、連れ合いである唐澤秀子と共に行なっていましたが、モンセと唐澤は特別の友情関係を出会いの当初から結んだといえます。

モンセは、それまでに読んできていた日本人作家の文学作品のなかから、彼女が特に気に入っているものをスペイン語に翻訳して出版したいという希望を持っていることを、私たちは知りました。そして、すでに島崎藤村の『破戒』という作品をスペイン語に翻訳しているということも聞いたのです。『破戒』は、特定の出身階層・居住地・職業の人びとを差別し迫害するという、日本社会に根深く存在する深刻な社会問題を扱った作品です。読解が決してやさしくはないこの作品をすでに翻訳し終えているというモンセの話を聞いて、彼女がいかに深く日本社会を理解しているかと知って、私たちは驚きました。この人となら、固い信頼関係に基づいて仕事を一緒にできるのではないかと考えたのは、その時です。

スペイン語文化圏で出版された書物を翻訳して出版してきた私たちのそれまでの仕事のあり方は、いわば、輸入に偏していました。モンセが行なっている日本文学のスペイン語訳を私たちの出版社を通して提供・販売できるなら、文化の相互交流を実現したいという私たちの長年の夢も叶うのです。そこで、モンセと私たちの共通の夢を実現するプロジェクトが始まりました。モンセが選び出してきた、スペイン語に翻訳したい近代日本文学作家のリストを見ると、先に触れた島崎藤村に加えて、宮沢賢治、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、太宰治、小泉八雲、武者小路実篤など、私たちが心から納得できる選択でした。

他方、モンセは、経済的には決して報われることがないであろうこの企画を実現するためには、公的な出版助成金を得ることがどうしても必要だと考えました。そこで、国際交流基金(Japan Foundation )が行なっていた出版助成プログラムに着目し、これに申請したのです。近代日本文学を広くスペイン語文化圏の読者に紹介したというモンセの熱心さは交流基金の担当者の胸を打ちました。基金の助成を得て、最初の仕事である宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』が出版されたのは、1994年のことでした。そして、モンセ・ワトキンスが無念にも亡くなる2000年までの6年間の間に、彼女は実に13冊もの日本文学作品を翻訳し、出版するという偉業を成し遂げたのです。

冒頭で述べたように、私たちはスペイン語文化圏の人びとの優れた著作を翻訳・紹介することで、精神的に実に大きなものを得てきました。いわば、輸入超過でした。モンセの仕事に協働することで、日本の側から皆さんに、ささやかなりとも「お返し」ができたのでは、と考えております。精神的な遺産の「輸入・輸出」がいくらかなりとも相互交通的なものになったのは、こうして、モンセ・ワトキンスの功績なのですが、その仲介者となり得た私たち現代企画室のスタッフにとっても深い喜びでした。

さて、次のテーマに移ります。モンセ・ワトキンスは、文学の翻訳・紹介者という顔と同時に、ジャーナリストとしての顔も持つ人でした。この分野の仕事として、1999年に

“El fin del sueño? : Latinoamericanos en Japón” とその日本語訳を、現代企画室から出版しております。これも、私たちにとっては必然的な仕事でした。

日本社会には、長らく、日本は古代以来異民族が混淆しながら形成された社会ではなく、単一民族国家であるという硬直した考え方があります。民族の純血性を尊いとする考えは、容易に、ゆがんだ自民族中心主義や排外主義に結びつきます。19世紀後半から20世紀半ばにかけて、日本はこのような考え方の基に、近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争を行なうという過ちを犯しました。敗戦後の社会でも、日本が単一民族国家であるとする考え方は生き延びています。少子高齢化社会を迎えている日本は、単純労働を担う若年労働力の不足に見舞われるようになりました。1990年代初頭、政府は、海外に住む日系人の子弟に限って、来日して単純労働に就くことを認めました。ラテンアメリカには、ブラジルの60万人を筆頭として巨大な日系人の社会があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、当時の日本政府は貧しい農村人口を減らすための棄民政策を取ったために、大量の移民をラテンアメリカ諸国に送り出したのです。それから1世紀が過ぎて、最初の移民の子弟たちが「豊かな」日本を目指して働きに来るようになりました。

そのような時代が来てしばらくして、CATLAという団体が結成されました。”Comité de Apoyo a los Trabajadores Latinoamericanos” です。遠くラテンアメリカからやって来た移住労働者たちは、厳しい労働条件・低賃金・労働中の怪我などの困難な問題を抱えるようになったので、彼ら・彼女たちを支える運動体が必要になったのです。もちろん、言葉の壁もあるので、日々の生活での細々したことでも問題が山積でした。ごみの出し方、子どもが通う学校のこと、外国人にはアパートを貸したくないと考える家主との交渉、人種差別――いくつもの問題があるので、よき仲介者を得て、じっくりと話し合ったり、交渉したりして、より良い相互関係をつくることが必要でした。私たちも、このCATLAの活動に協力していましたが、実はモンセ・ワトキンスとの初めての出会いは、このCATLAの会合の場だったのです。

經濟のグローバル化に伴って、ヨリ豊かな社会に向かって労働者が移動するのは、世界の趨勢です。移住労働者を待ち受ける苦難の物語はさまざまにあるでしょう。また、受け入れ国側が開かれた社会であって、遠来の働く人びとのために心を込めて、労働と生活、基本的人権の保証などの条件を整備する模範を示すなら、そこには異民族間の豊かな出会いの物語も生まれるでしょう。今はまだ、外国人労働者にとっての苦難の物語の方が多いのですが、ジャーナリストとしてのモンセがこのテーマに関心を持ったことは、彼女の根底にあるヒューマニズムの精神からして、十分理解できることです。この書物のスペイン語版は、ラテンアメリカから来ている移住労働者自身が自分たちの現状を歴史的な背景に基づいて知るために、また日本語版は、日本人が自分たちの社会は外国から来ている労働者をどのように処遇しているかを知るために、役立ったのです。

しかし、ジャーナリストの顔を持つモンセは、同時に、やはり文学愛好者でもあり続けていました。ラテンアメリカからの移住労働者が書いた短編の文学作品のアンソロジーを、彼女が編者になって、1997年に出版しています。タイトルは” Encuentro : Colectánea de autores latinos en Japón”です。”Encuentro”というタイトルには、彼女の祈りが込められているように思えます。

まとめます。モンセ・ワトキンスは、このように、日本文学をスペイン語に翻訳・紹介するうえでも、ラテンアメリカ諸国と日系移民の関わりを振り返るうえでも、先駆的で、重要な仕事を果たしました。もちろん、彼女はさまざまな協働者・協力者にも恵まれたとは言えますが、あの発動機のような彼女の働き・活動がなければ、どれ一つとして実現したものはなかったでしょう。その意味で、モンセ・ワトキンスの人格と仕事は、スペイン語文化圏と日本語文化圏の間に架けられた見事な懸け橋として、永遠に不滅なのです。

彼女の早すぎた死から15年を迎えるいま、「ありがとう、モンセ!」の言葉を、あらためておくります。

ご清聴、ありがとうございました。

Publicar en español en Japón


Ponencia en la Mesa Redonda “ Traducción al español de la Literatura Japonesa : 15 años despues de la muerte de Montse Watkins” ( Instituto Cervantes, 4 de octubre del 2015 )

Hace treinta años fundé la Editorial Gendaikikakusitsu que sigo dirigiendo hasta el día de hoy. Es una editorial pequeña pero publica libros de diversos temas del área de las humanidades. Destacaré que en estos años hemos publicado más de cien títulos de literatura, historia, filosofía, pensamiento, música, cine, bellas artes, diseño, etc. relacionados con Latinoamérica y España porque yo mismo he tenido un gran interés en la historia y cultura del mundo hispánico. En ese sentido puedo presumir de haber contribuido de alguna manera a la divulgación de la diversidad y la riqueza de las diferentes expresiones culturales del mundo hispánico entre los lectores japoneses.

Sin embargo, el intercambio cultural no ha de ser unilateral. Es absolutamente necesario establecer el vínculo de integración y comunicación recíprocas. Tuvimos la oportunidad de conocer a Montse Watkins a principios de los años 90 cuando nuestra editorial llevaba quince años de actividad y ya habíamos publicado bastantes libros sobre el mundo hispánico. Tan pronto nos pusimos a conversar con Montse Watkins nos dimos cuenta del profundo interés que tenía por la cultura japonesa. El motivo había sido el arte tradicional y las películas de Yasujiro OZU que vio en España, y pudimos percibir enseguida la rapidez y la profundidad sorprendente con que se había sumergido en la cultura japonesa desde que empezó a vivir en Japón.

Destacaré especialmente dos aspectos: En primer lugar ella había incorporado en su estilo de vida abundantes costumbres que los japoneses contemporáneos habían olvidado y abandonado. En segundo lugar, había leído, investigado y asimilado obras literarias de las épocas moderna y contemporánea de Japón. Yo trabajaba en la publicación con esposa Hideko Karasawa. Y diría que un lazo muy especial de amistad unió a Montse y a Hideko desde el primer momento.

Montse nos comunicó que deseaba traducir las obras literarias de los autores japoneses más famosos al español y publicarlas. Asimismo, que ella ya tenía traducida al español la obra “Hakai” El precepto roto, de Toson SHIMAZAKI. Es una obra que trata sobre un problema social grave arraigado en la sociedad japonesa: discriminación y persecución de las personas de determinada clase social, lugar de residencia y profesión. Nos quedamos muy asombrados al enterarnos la profundidad con la que ella había comprendido la sociedad japonesa cuando nos contó que había terminado de traducir esta obra que no es nada fácil de interpretar.

Y desde ese preciso instante supimos que podríamos trabajar juntos con ella con una profunda relación basada en la confianza mutua.

Nuestra forma de trabajar como editorial hasta entonces consistía en traducir los libros del mundo hispánico al japonés, publicarlos y distribuírlos en Japón, es decir, nos limitábamos a la importación de la cultura hispánica. Si nuestra editorial pudiera proporcionar y vender las traducciones al español de la literatura japonesa realizadas por Montse conseguiríamos un intercambio cultural realmente recíproco, y haríamos realidad nuestro sueño de muchos años. Estimulados por esta idea pusimos en marcha el proyecto encaminado a realizar el sueño compartido de Montse y nosotros.

Entre la selección de escritores de literatura de los siglos XIX y XX cuya traducción al español deseaba publicar, figuraba, además de Toson SHIMAZAKI, Kenji MIYAZAWA, Soseki NATSUME, Ogai MORI, Osamu DAZAI, Ryunosuke AKUTAGAWA, Yakumo KOIZUMI y Saneatsu MUSHANOKOJI. Nos pareció perfecta esta selección de los mejores y más representativos escritores japoneses.

Por otro lado, Montse pensó que era imprescindible obtener una financiación para sus publicaciones y así poder materializar este proyecto que nunca gozaría de recompensa económica. Pensó en el programa de subvención a las publicaciones de la Fundación Japón, Kokusai koryu kikin y presentó la solicitud correspondiente. Su entusiasmo también conmovió a todo el personal encargado de dicha Institución. En 1994 fue publicado la colección de relatos titulada Tren Nocturno de la Vía Láctea, obra de Kenji MIYAZAWA, nuestro primer trabajo con la subvención de la Fundación. Montse Watkins llevó a cabo una gran obra traduciendo y publicando trece obras literarias japonesas durante los seis años transcurridos desde ese año de 1994 hasta 2000, cuando tristemente falleció.

Como he dicho anteriormente, recogimos en nuestra alma unos frutos culturales realmente grandiosos traduciendo y dando a conocer obras excelentes del mundo hispánico en Japón. Pero podríamos decir que teníamos un déficit en la difusión de la cultura de Japón. Pienso que, en cuanto al mundo literario japonés pudimos corresponder a Uds., aunque de forma modesta, trabajando junto con Montse. Si la presentación y difusión del patrimonio espiritual japonés llegó a ser un intercambio realmente recíproco fue gracias a Montse, promotora de este gran proyecto, quien contribuyó con su estusiasmo inagotable, lo cual significó una profunda alegría para nosotros, el personal responsable de Gendaikikakushitsu, que felizmente actuamos como intermediarios.

Siguiendo con otro tema, Montse tenía, además de su faceta de traductora y difusora de la literatura, su faceta de periodista. Su trabajo periodístico ¿El fin del sueño?: Latinoamericanos en Japón y la traducción al japonés del mismo, titulada 夢のゆくえy realizada por Mitsuko Ido, lo publicamos también en Gendaikikakushitsu y fue una labor absolutamente necesaria para nosotros.

La sociedad japonesa se ha aferrado desde épocas antiguas a la idea de que es un país monoétnico, es decir, que los japoneses provienen de una sola etnia homogénea de pura raza. Estas teorías sobre la pureza racial se vinculan fácilmente con el etnocentrismo extremo o la xenofobia. Japón cometió el error de someter al colonialismo e invasión a los países vecinos basándose en esa teoría desde fines del Siglo XIX hasta la mitad del XX. Y la noción de que Japón es un país de raza homogénea perdura en la sociedad aún después de la derrota en la guerra.

La sociedad actual en el proceso de envejecimiento y la baja tasa de natalidad ha empezado a sufrir de escasez de fuerza laboral joven para realizar trabajos no cualificados. A comienzos de los años noventa, el gobierno japonés abrió el mercado laboral y reconoció el derecho a la residencia y empleo de los NIKKEI o descendientes de los japoneses que emigraron a ultramar en el pasado, para dedicarse a ese tipo de trabajo. En América Latina hay una colonia muy numerosa de japoneses, el primer lugar lo ocupa Brasil, con 600.000 personas. En Japón desde finales del siglo XIX hasta principios del siglo XX el gobierno de la época adoptó la política de abandonar a la gente haciéndola exiliarse con el objetivo de reducir la población pobre en las zonas agrícolas, lo cual llevó a un gran número de japoneses a emigrar a varios países latinoamericanos como Perú, Argentina, etc. Transcurrido un siglo empezaron a venir a trabajar al Japón enriquecido económicamente los descendientes de estos primeros emigrantes.

Algún tiempo después se fundó CATLA, el “Comité de Apoyo a los Trabajadores Latinoamericanos”. Y estos emigrantes que vinieron de lejanas regiones empezaron a hacer frente a numerosas dificultades tales como las duras condiciones laborales, bajos sueldos o lesiones o accidentes durante la jornada laboral, por lo cual surgió la necesidad de contar con alguna entidad que les asistiera. No hace falta insistir en que el idioma era una barrera, y que se habían acumulado numerosos problemas concernientes a la vida cotidiana. La manera de dividir la basura, la escuela en que estudian sus hijos, la negociación con dueños de casas que no desean inquilinos extranjeros, discriminación racial – había un sinfin de problemas y la necesidad de establecer relaciones positivas conversando con calma y negociando a través de intermediario adecuado para conseguir un verdadero entendimiento cultural. Nosotros colaborábamos en las actividades de CATLA. De hecho, conocimos a Montse Watkins justamente en una reunión de esa entidad porque ella ayudó a muchos inmigrantes en todo tipo de problemas.

La tendencia general del mundo actual, a medida que avanza la globalización, es que los trabajadores se trasladan a una sociedad más “rica”, económicamente hablando y, por tanto, los emigrantes tendrán que hacer frente a diversas dificultades.

Deben de existir muchas historias de sufrimientos que soportan los trabajadores inmigrantes. De la misma manera, deben de nacer historias de felices encuentros entre diferentes culturas en una sociedad abierta donde se muestra la iniciativa sincera de proponer y mejorar las condiciones para la garantía de los derechos humanos fundamentales, la vida y el trabajo de los que vienen de lejanas tierras.

Por eso comprendo muy bien que la periodista Montse Watkins tuviera tanto interés en estos problemas dada su profunda empatía y su espíritu humanista.

La edición en español de su libro sirvió para que los trabajadores emigrantes provenientes de la América Latina conocieran su situación actual en base a los antecedentes y el contexto histórico. Por otro lado, la traducción al japonés ha sido muy útil para que los japoneses sepamos cómo trata su sociedad a los trabajadores que vienen del exterior.

Pese a todo, Montse, con su afán investigador de periodista, siguió siendo amante de la literatura. En 1997 publicamos la antología de cuentos cortos escritos por los trabajadores de origen latinoamericano y editada por ella, algunos de los cuales siguen viviendo en Japón. Se titula Encuentro: Colectánea de autores latinos en Japón. Tengo la sensación de que la palabra “encuentro” representa su más profundo deseo a modo de plegaria.

En resumen, y como hemos visto, Montse Watkins fue pionera en numerosas áreas y realizó un gran trabajo traduciendo al español la literatura japonesa y divulgándola así como reflexionando sobre el vínculo que une a los países latinoamericanos y a los inmigrantes japoneses. Es verdad que tuvo la suerte de contar con varias personas que trabajaron y colaboraron con ella. No obstante, nada de todo esto hubiera sido posible sin la fuerza motriz de su acción, ilusión y actividad. En ese sentido la personalidad y la labor cultural de Montse Watkins son el magnífico puente inmortal que une el mundo hispánico con el japonés.

Transcurridos quince años desde su prematuro fallecimiento, le reitero una vez más mis palabras de agradecimiento: ¡Gracias, Montse!

Muchas gracias por su atención.(traducido al español por Elena Gallego )

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[66]国連で対照的な演説を行なったふたりの「日本人」


『反天皇制運動カーニバル』第31号(通巻374号、2015年10月6日発行)掲載

戦争法案の参議院「可決」が異常な形で演出されて間もない九月下旬、1週間ほどの間隔をおいて、ふたりの「日本人」が国連演説を行なった。21日に国連人権理事会(ジュネーブ)で演説したのは、戦争法案成立の脅威をどこよりもひしひしと感じざるを得ない沖縄県の、翁長知事である。与えられた時間はわずか2分間だった。知事は、軍事基地問題をめぐって日米両国政府から自己決定権と人権を蔑ろにされている沖縄の人びとの現状に的を絞って訴えた。短い発言とはいえ、大いなる関心を世界的に掻き立てたかに見える。

その論点は、同じ日にジュネーブで行なわれた国際シンポジウムおよび翌日の記者会見、さらには帰国した24日に日本外国特派員協会(東京)での会見における発言によって、ヨリ詳しく展開された。それらを総合すると、知事が依拠した主要な論点が見えてくる。私は特に、知事が「沖縄は136年前までは、人口数十万人の小さな独立国だった」と語った後、併合・戦争・占領・返還の歴史に簡潔に触れてから「私たちは琉球王国のように、アジアの懸け橋になりたいと望んでいる」と述べた箇所に注目した。1879年の「琉球処分」時までは沖縄が独立国であったことを主張することは、歴代日本政府の主張と真っ向から対立する。沖縄も他県と同じ日本民族に属するとするのが、政府の変わることのない考え方だからだ。独立国が他国に支配されることはすなわち植民地化であり、そこへ植民者(コロン)が入り込むことによって「先住民」が生み出されるのは、世界各地に共通に見られることだ。自民党沖縄県連は、出発前の知事に対して「先住民の権利として辺野古基地反対を言うな」と釘を刺した。近代化の「影」の存在であることを強いられてきた先住民族の権利を回復する動きが、国連に象徴される国際社会の水準では具体化しており、それが「日本国家の統合性」を危機に曝すことに彼らは気づいているのであろう。

1980年代、沖縄も重要な拠点として『分権独立運動情報』という思想・運動誌が刊行されていた。近代国民国家の脆さを見抜いた、早すぎたのかもしれないその問題意識は、いま、スコットランドやカタルーニャなどにおける自立へ向けた胎動および沖縄の現在の中でこそ生きていると思える。同時に、9月末には、地主が米軍への貸与を拒否した軍用地の強制収容手続きをめぐり、沖縄県知事(大田昌秀)が国に求められた代理署名を拒否してから20年目を迎えたという報道に接すると、あのとき県を訴えて裁判にした国側を代表する首相は社会党の村山富市であったことを思い出す。そこからは、ヤマトにあって沖縄差別を実践している主体を「保守・革新」で明確に分けることはできず、「革新」派も含めた「ヌエ」的な実態であることをあらためて確認しなければならない、とも思う。

国連の場に登場したもうひとりは、29日の国連総会(ニューヨーク)で一般討論演説を行なった首相である。戦争法案をめぐる国会質疑で幾たびも答弁不能の醜態を曝しながら恬として恥じないという「特技」をもつこの男は、その演説で、どこからも要請されていない日本の「常任理事国入り」を力説したと知って、私は世界に向かって恥じた。シリアからの難民の一女性がわずかに手にしていた物の中に、日本政府がアラブ地域の女性たちに配布してきた「母子手帳」があったようだが、そのことを「わが援助の成果」として誇らしげ気に語るその姿に、〈殺意〉をすら感じた。首相の無恥な言動は、日本国に何らの責任も待たない私をすら恥じ入る気持ちにさせてしまう。加えて、記者会見で難民を受け入れるかどうかをロイター記者から問われた首相は、「人口問題で申し上げれば、移民を受け入れるよりも前にやるべきことがある。女性、高齢者の活躍だ」と答えたという。この呆れ果てた問答を、つまらぬ内閣改造のことは大々的に扱ったメディアがほとんど報道しないとは、はて面妖な、と私は思う。私が使う辞書にはない「国辱的」とか「売国奴」という表現は、首相のこの言動に対してなら使えるか、とすら思えてくる。

私が言いたいことは、こうである――2015年9月下旬、日本社会で進行する諸情勢を正確に反映した、このふたりの「日本人」国連発言に注目している外部世界の人が、もしいたならば、メトロポリス(東京)ではなくローカル(沖縄)にこそ、論理と倫理と歴史意識の担い手が実在していると考えるだろう。それも知らぬ気に生きているのは、「内国」に住む私たちだけなのだ。(10月2日記)