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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団との40年


『毎日新聞』2014年5月14日夕刊掲載

南米エクアドルで一本の映画を観て、40年近くが経った。1969年の『コンドルの血』というボリビア映画だ。製作はウカマウ集団、監督はホルヘ・サンヒネス。アンデスの先住民村に「後進国援助」の目的で診療所を造った米国の医療チームが、現地の若い女性たちに不妊手術を秘密裡に施していたことを暴露した作品だった。迫りくる食糧危機を前に、避妊をしない貧しい国々の人間には、強制的にでも子どもを産めない体にして人口爆発を防ぐしかないという身勝手な考えが、米国にはあったのだ。内容の衝撃性もさることながら、スクリーンに飛び交うアンデスの先住民言語=ケチュア語、慣れ親しんだ日本や欧米映画のそれとは違うカメラ・ワーク、過去と現在が複雑に行き交う時制感覚などが、強く印象に残った。

縁あって、監督と知り合った。白人エリートの出身だが、先住民が人口の60%以上を占めていながら、植民地時代から一貫して深刻なまでの差別構造の下に置かれていることに危機感を持つ人物だった。白人とメスティソ(混血層)は先住民差別を克服して初めて自己を解放できるし、社会は公平なものとなる、と彼は信じていた。それは、世界に普遍的な原理だ、と私たちは確認し合った。

帰国時に、フィルムを一本預かった。『第一の敵』と題された一九七四年の作品だ。ボリビアの軍事体制下から逃れた監督が、亡命地ペルーで撮った。地主の圧政に苦しむ先住民貧農とゲリラの出会いを描いた作品だ。1980年に日本で初公開した。13年前の、ボリビアにおけるチェ・ゲバラのたたかいと死を彷彿させる内容だ。評判となり、自主上映は全国各地に広がった。来場者の反応から、確かな手応えを感じ、旧作品も次々と輸入して上映した。上映収入を製作集団に送ると、それが次回作の資金になった。八九年の『地下の民』には、共同製作者として参加した。この作品はサンセバスティアン映画祭でグランプリを獲得した。

初公開以来34年が経った。ボリビアでは、軍事体制から民主化の過程を経て、驚くべきことには、2006年に左派の先住民大統領が誕生した。困難な諸問題を抱えつつも、米国の言いなりにはならず、新自由主義政策が遺したマイナスの要因とたたかい続けている。

私たちの手元にあるウカマウ集団の作品も、12作になった。半世紀に及ぶ期間に製作されたすべての作品だ。最新作『叛乱者たち』は、18世紀末の植民地期最大の先住民叛乱から、21世紀初頭の先住民大統領の誕生までをたどった歴史劇だ。「革命の映画/映画の革命の半世紀」と題して、全作品上映を開始している。チェ・ゲバラ、水の民営化に抵抗する反グローバリズム運動の高揚、ウカマウの映画――「ボリビアは、いつだって、世界を熱くする」。これが、私たちの合言葉だ。

ウカマウ集団の長征(10) 山口昌男氏の『第一の敵』評のこと


上映会を前にして、ぜひ観てほしい10数人の作家、詩人、研究者にチラシを送った。ほとんどは面識もない人たちだ。私のほうでは、顔を知っているからわかったが、けっこう多くの方が来てくれた。文化人類学者の、故・山口昌男氏もその一人だった。氏とは、見終わった後のロビーで言葉を交わした。読売新聞1980年7月16日付け夕刊文化欄に、氏は「中南米革命映画の広がりと厚み」と題して『第一の敵』評を書いてくれた。数年前ニューヨークの小劇場でも観た映画だが、東京の方は観客も多く、よかった、という言葉もあれば、アンデスの農民たちのコスモロジーの中軸である大地母神「パチャママ」に、ゲリラたちが酒を供えた時に、「彼らと農民たちが共有する世界は一挙に広がりと厚みを得た。この点を描くことによって作品は単線的な物語の水平性から派生する垂直構造を獲得する。知識人が製作する民衆映画で、このような類型的ではない出遭いが描かれたのは稀ではなかろうか」という評言もあった。総じて、好意的な評だった。ところが、末尾に次のような文章があった。「しかしながら、ゲリラが農民達に、世界帝国主義の重圧がアンデスの小さな村にまで直接及ぶような時代であると説明するときに使われる言葉に日本帝国主義というのがあったように記憶しているが、日本語字幕には現われなかったのはどういうわけだったのか。当否は別としてこの一語は作品の中におけるアンデスの農民と日本の観客の唯一のきずなであったはずなのに」。

山口氏がどのシーンのことを言っているかは、すぐに分かった。ゲリラと先住民農民が討論するシーンだ。ゲリラが、imperialismo hatun (強大な帝国主義/第一の帝国主義)という言葉を使って、説明する個所がある。ケチュア語に「帝国主義」という用語はないからスペイン語から借用し、それにhatun (強大な/第一の)というケチュア語をつけている。このhatun (ハトゥン)を山口氏は スペイン語のJapón(日本、発音はハポン)と聞き違えて、「日本帝国主義」という語が字幕に出なかった、と書いたのだ。ロビーで言葉も交わしているのだし、氏は私たちに電話の一本でもくれれば、こんな間違いを犯さずに済んだはずなのに。

当時は、私も若かった。山口氏の仕事を敬愛しているからこそ、上映会の案内も送ったのだが、こともあろうに「語られたはずの日本帝国主義という語が字幕に出なかった」と書かれては、黙ってはいられない。読売新聞は反論の掲載を認めず、小さな訂正記事だけを出した。そこで、日本読書新聞という書評紙に山口氏への公開質問状を書いた(1980年8月4日付け)。多言語使用者がその才に溺れると、どんな結果が生じるか――とまでは書かなかったが、「才気あふれる軽率さ」は指摘した。「保守的な」読売新聞に、『第一の敵』などという「政治的に」強烈な映画をめぐって基本的には好意あふれる評論を書いたのに、たったひとつの事実誤認を針小棒大に言挙げするとは――と、山口氏は思ったかもしれぬ。だが、「日本帝国主義の語が字幕になかった」とは、私たちにとって、小さな針ではなかった。すでに触れたように、ホルヘ・サンヒネスの「映像による帝国主義論」の試みへの共感から私たちは出発しているのだから、それは心外で、あまりに重大な、誤った指摘だった。2000人の観客に対する説明責任もある。その誤解は解かなければならなかった。批判の文章は、勢い、厳しい調子を帯びた。山口氏は翌週の同紙に弁明文を書いた。私の中で、一件は落着した。その後も、山口氏の著作は大事に読み続けて、すでに氏が亡くなった現在にまで至る。

したがって、山口氏の言辞をこれ以上云々することはないのだが、『第一の敵』製作時点での日本帝国主義の〈存在感〉については、もう少しふり返っておきたい。アジアでのそれは、すでに大きい時代であった。その経済的な進出の規模は拡大の一途をたどり、資源の収奪や労働条件の問題、水俣病などが大きな社会問題となり公害規制が厳しくなった日本を逃れて東南アジア諸国に向けて行なわれるようになった「公害輸出」などをめぐって反対運動が起こり、それは時に「反日暴動」の形を取る事態さえ起こっていた。だが、ラテンアメリカにおけるそれは、まだまだ影が薄い段階だった。アンデスの先住民村で、反体制ゲリラが政治・経済状況を説明する際に、日本帝国主義の浸透に触れなければならない状況ではなかった。一方、北アメリカ帝国主義の、経済的・軍事的・政治的・文化影響力的な〈存在感〉は圧倒的だ。まさに〈第一の敵〉なのだ。そこに映画『第一の敵』が、すでに説明したような内容をもって登場する必然性が生まれていたのだ。

他方で、次のことにも触れておかなければならない。『第一の敵』製作時の74年から数えてわずか4年後の1978年、中米エルサルバドルの反体制ゲリラ「民族抵抗軍」(Fuerzas Armadas de Resistencia Nacional)は、東レ、三井銀行、蝶理、岐染などが出資して同国で企業活動を行なっている日系繊維企業インシンカ社の社長を誘拐し、日本帝国主義が現地の独裁政権と癒着しこれを支援している現実を告発する声明文を公表した。このコミュニケは、当時、日本経済新聞の紙面2頁全部を埋めて掲載された。ゲリラが取引の条件として、それを求めたのだ。だから私はそれを熟読し翻訳もしたが、きわめて透徹した論理で、現地政権と帝国主義の相互癒着関係を分析していたことが印象に残っている。インシンカ社は、上記の日本企業4社が1967年に50・1%の出資比率をもって(残りの49・9%は現地の公営産業開発公社)設立した繊維織物の合弁会社であった。合繊の紡績、綿布、染色を行ない、中米各国に製品を輸出する同社は、首都郊外の工場に1200人前後の労働者を擁し、同国でも最大規模の企業であった。日本経済に占める対エルサルバドル貿易の比率は小さいが、後者のような経済規模の国にとっては、同国最大の2工場が日系であり、主要輸出品である綿花のほとんどを日本が買い付けているという関係は重大である。これに注目したゲリラは、それが日本に対する過度の経済的従属化を招いている、と分析したのであろう。ここからは、すでに進出している日本企業が、相手国の経済規模の中で占める比率の多寡によっては、現地の人びとが日本帝国主義の〈存在感〉を感じとる時代状況へと入りつつあったと言えるのだろう。

さらに付け加えるなら、私は当時、ニカラグアとエルサルバドルで高揚する中米解放闘争の行方に大いなる関心を抱いていた。ニカラグアには闘争に関わっている友人も多く、1979年に同地の解放勢力=サンディニスタ民族解放線戦線は勝利していた。それに勢いを得て、隣国エルサルバドルにおける解放闘争の高揚が見られた。『第一の敵』上映開始後2年目の1982年、私はメキシコへ行く機会に恵まれたが、そのとき Zero a la Izquierda (不要の人間集団)を名乗るエルサルバドルの映画グループのGuillermo Escalón (ギレェルモ・エスカロン)と知り合いになった。解放勢力は当時モラサン州を解放区として維持していたが、そこでの住民の日常生活を描いた『モラサン』(80年)と『勝利への決意』(81年)は、よい出来だった。ウカマウと同じく「連帯方式」での日本上映を取り決めた。これらふたつの作品は、ウカマウの『人民の勇気』を初上映した1983年夏に、同時に公開することになる。

エルサルバドルの2本の16ミリ・フィルムもまた、ウカマウのそれと同じように、前の上映場所から戻るとすぐに次の会場に送るという日々が続いた。未知の土地から届けられた映像作品が持つ力を、私たちはますます実感しつつあった。(4月30日記)

ウカマウ集団の長征(9) 『第一の敵』への反響


『第一の敵』を上映した全電通ホールのキャパは490人くらいだったと記憶する。そこで、全6回の上映を行ない、入場者は2000人に上った。68%の稼働率だから、以て瞑すべし、というべきだったろう。私の勝手な思い込みでは、もっと入るものかな、と思っていた。その道の人が言うには、自主上映でこんなに入るのは「奇跡」に近いことのようだった。私もその後経験を重ねることで、初回上映時の観客数のすごさを思うようになった。

当時わたしは30歳代後半だったが、来場者の過半は私と同じ世代か、もう少し上の世代の人びとだったと記憶している。何度も書くように「ボリビアにおけるゲバラの死」の記憶がはっきりと残っている世代である。アンデスの民俗音楽「フォルクローレ」の愛好者が多かったことも印象的だった。映画を公開するときには、スタッフとキャストをチラシに明記するのが当たり前のことだが、当時のウカマウはその種のデータにあまり頓着せず、私たちもそれを追求しなかった。だから、最初のチラシには「製作=ウカマウ集団、監督=ホルヘ・サンヒネス」と記してあるだけだ。だが、フォルクローレの愛好者は、映画で使われている曲がどの楽団の演奏なのか、すぐに理解できたようだった。中学生か高校生の制服姿も、ちらほら目についた。そのうちのひとりは、のちにわかったことからすれば、兒島峰さんだった。アンデス音楽に関心のあった彼女は当時中学生だったが、『第一の敵』上映の報がうまくアンテナに引っかかったようだ。その後も上映のたびにウカマウ作品を見続けたという。34年後のいまは、アンデス文化の研究者になっている【→『アンデスの都市祭礼――口承・無形文化財「オルロのカーニバル」の学際的研究』(明石書店、2014年)】。

東京上映が終わって、いくつかの問題が残った。まずは、ウカマウとの連絡である。上映報告を行なうべき80年7月、ボリビアでは凶暴なファシスト体制によるクーデタの時期と重なった。ウカマウとの連絡は途絶えた。死者1000人、逮捕者2000人……との報道が続いた。彼らからの返事がないまま、焦慮の時が半年に及んだ。私は、メキシコの出版社シグロ・ベインティウノ(21世紀出版社)を主宰するアルナルド・オルフィーラ・レイナルとホルヘが親密な友人であることを思い出し、前者にホルヘたちの安否を尋ねる手紙を送った【横道に逸れるが、チェ・ゲバラは1955年にメキシコで、亡命アルゼンチン人であったオルフィーラに出会っている。当時はフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカという出版社を主宰していたが、彼はその後前記の新しい出版社を興した。ラテンアメリカ全体を見渡して見ても、彼の出版事業が果たし得た役割は大きい。私たちが現地で買い求めた書物には、オルフィーラが時代を違えて関わったこの二つの出版社のものが多い。この点に関しては、チェ・ゲバラ=著『チェ・ゲバラ第2回AMERICA 放浪日記――ふたたび旅へ』(現代企画室、2004年)の「日本語版解題」に詳しく書いた。翌年の81年、私たちは、ホルヘがオルフィーラの出版社から刊行した本 ”Teoría y práctica de un cine junto al pueblo” の日本語版を出版することにもなる】。

オルフィーラが媒介してくれて、ホルヘから手紙が届いたのは80年12月も末日近くだった。クーデタ後の半年間、彼らは。逮捕・射殺命令・家宅捜査・検閲の重包囲下で潜行を余儀なくされていたのであった。彼らが再び国外へ場を移したことで、私たちは連絡網を回復できた。半年間にわたって蓄積されていた、日本における上映運動の精神的・物質的支援は直ちに彼らに送り届けられた。日本地図を描き、いつ、どこで上映会が開かれたか、その土地はどんな特徴をもつ町か、来場者数、上映収入などを記した。「日本の同志たちにこれほど熱心に観てもらって、われわれは、自らの映画をもって、民衆の解放にささやかなりとも寄与する決意を新たにしている」と、彼らは書き送ってきた。

「東京上映以降の半年間」と、ホルヘたちが潜行していたために連絡が取れなかった時期は重なっていた。その半年間は、私たちにとっても、めまぐるしいほどに忙しかった。東京上映の「評判」は全国各地に急速に広がった。名古屋、仙台、札幌、京都、大阪、広島、福岡などの自主上映団体から、上映したいとの申し出があった。9月、名古屋シネアスト主催の名古屋上映を終えた後の80年秋、私は『第一の敵』のフィルムを背に、1ヵ月間の行脚の旅に出た。京都と大阪で試写会を行ない、秋以降の本上映の可能性を探った。

アカデミーにラテンアメリカ専門の研究者が多い京都では、試写会でのいくつかの反応が、奇妙なものとして記憶に残っている。「われわれ専門的な研究者が怠っているから、素人が(と、言いたげだった)こんな動きをしている」という某氏の言葉は、自らの「怠惰」を鞭打つものであったのかもしれないが、「専門家」の防衛意識が感じられた。その「専門家意識」を打倒するためにこそ1960年代後半のたたかいはあったのだと確信している私には、異様なものに響いた。あの時代の闘争からまだ10年程度しか経っていないのに、同世代の、しかも自己認識としてはおそらく「左翼」を自認しているであろう人の口から、こんな言葉が出てきたことに私は驚いた。

「僕が知っているアンデスのインディオはこんなおしゃべりじゃないな。連中は黙りこくっていて、何も喋らんよ。この映画は作りものだね」と言い放った専門家もいた。アンデスの先住民の村で、フィールドワークを積み重ねている人のようだった。「専門知」に安住する人びとが陥りやすいこの陥穽について、私は1989年に「支配しない〈知〉のほうへ――ウカマウ映画論」を書いた(太田=編『アンデスで先住民の映画を撮る』、現代企画室、2000年に所収)。しかし、その後の34年間、こうした「専門知」の側からの「排他的な」言葉を聞くことは、幸いにしてきわめて少なかったことには触れておきたい。上映運動初期における、ごく稀な反応だったのだろう。

大阪試写会を終えて、沖縄へ飛んだ。那覇市はもちろん、金武湾、沖縄市など各地で上映会を開いた。その後も長く続くことになる、人との得難い出会いがいくつもあった。現地の上映スタッフのひとりの娘さんは、当時は5歳と幼かったが、その後彫刻と版画を専攻しスペインで学んでいた。彼女は2008年、彼の地でやまいを得て急逝した。32歳だった。遺作は、彼女の才能が並々ならぬものであることを示していた。作品集『すべてのもののつながり――下地秋緒作品集』(現代企画室、2011年)を刊行し、東京でも遺作展を開いた。こうして、ウカマウ集団を媒介にして、さまざまな方向へ「補助線」が伸びていくというのが、私たちの実感である。

沖縄から長崎へ飛び、その後、長崎、佐世保、水俣、福岡、小郡などで上映会を開いている。それは、資料として残っているチラシ類から確認できるのだが、短期日でのスケジュール調整をどうやって、こうもうまく出来たのか――は、今となっては、まったく思い出すことができない。いずれにせよ、各地の人びとの働きと協力で、『第一の敵』自主上映運動が、半年間で急速に広がりと厚みを獲得し始めていた時に、ウカマウ集団との連絡を再開できたのだった。

(4月29日記)

ウカマウ集団の長征(8)1980年、『第一の敵』自主上映へ


さて、これからは、1980年に始まる、日本におけるウカマウ集団作品の自主上映運動に本題は移るのだが、これを書いているのは2014年――34年後の今も上映運動は続いており、全作品を回顧上映する「レトロスペクティブ」が各地で実施されようとしている。途中でのいくつかの作品は「共同制作」となって実現したことも含めて、思いもかけない展開となった、というのが偽らざる実感である。

ウカマウ集団の最高作だと私が考えている『地下の民』に登場する村の長老は、山の神々に供物を捧げながら「われらが過去は現在の内にあり、過去は現在そのものです。私たちはいつも、過去を生きつつ同時に現在を生きています。われらが古き神々よ。イリマニ山の神よ。古のワイナポトシの神よ。われらが未来を予見することを許したまえ」と語る。過去→現在→未来へと、時制が直線的に移行するのではなく、その時間概念は循環的・円環的で、時制は自在に入り混じるのが先住民の精神世界の特徴だとは、ホルヘ・サンヒネスがよく強調するところである。文学を読んでいても、私はそのような時制の世界に魅力を感じるが、上映運動開始以降の34年間の経緯を綴る以下の文章において、果たして私にそのような記述が可能かどうか、覚束ないままに書き始めてみる。

帰国当初は生活に追われた。3年半も不在にしていたのだから、生活の基盤作りが必要だった。部屋の片隅にある『第一の敵』16ミリ・フィルムのことは常に頭にあり、目にも入っていたが、手つかずのままだった。数年して、ある程度生活の目途がついてくると、やはり何とかしなければ、とあらためて思った。唐澤秀子が学生時代、オーケストラ部の先輩であった柴田駿氏がフランス映画社を運営していた。相談してみたが、この映画がもつ「政治性」ゆえに、日本では商業公開に向いていない、「敵」という言葉がタイトルに入るだけでアウトだが、自主上映という道があるよ、と教えてくれた。昔の仲間20人ほどに集まってもらって、字幕なしのまま『第一の敵』を観てもらった。いけるよ、おもしろい――そんな意見が多数を占めた。これで心が決まった――自主上映でいこう。1980年のことである。

まず紹介してもらったのは、テトラという名の字幕入れ会社である。東京の下町にあって、面倒見のよい、個性的な社長、神島きみさんがいた。私たちのように、配給会社を興す気持ちもなく、素人のまま「小国」の無名監督の作品を自主配給しようとする個人にも信頼を寄せてくれた。彼女はのちに『字幕仕掛人一代記』(発行=パンドラ、発売=現代書館、1995年)という本を出すが、この世界に関心のある方にはおもしろい本だ。作業手順を教えられる。映画フィルムの上に、字幕を書き込んだフィルムを焼き付けること(スーパーインポーズと呼ばれる)で、字幕スーパーは完成する。まず、フィルムの横に記録されている、光学変調された音声トラック部分、すなわちオプチカルを拠り所に、演技者が話している台詞の秒数を割り出し、日本語字幕に使用できる文字数を決めていく。この作業は「スポッティング」と呼ばれる。その際、フィルムには「ここからここまで字幕を入れる」というマーキングを、ターマトグラフを用いて施す。『第一の敵』の場合、このオプチカルを聞き取ることに高い障壁がある。ウカマウ集団からはスペイン語の台詞リストが送られてきている。画面で話されているのがスペイン語の場合は問題ない。字面と音声は合致する。ところが、先住民農民はケチュア語を話すが、台本ではその部分もスペイン語訳されている。字面と音声は合致しないから、その一致点を見出すのが一苦労である。ここに、アヤクーチョで求めた『アメリカニスモ辞典』やラパスで入手した『ケチュア語・スペイン語辞典』の出番がくる。たとえば台詞の中に「風」とか「石」とかの名詞が含まれているなら、そのケチュア語を調べ、その音が聞こえる一続きの台詞を特定していくのである。職人さんが持つ独特の勘に助けられながら、作業を進めた。ふつうは一日で終わる仕事が、二日も三日もかかったりする。

その点でふり返ると、34年間の時の流れは長い。『第一の敵』のフィルムは一本しかないままあまりに酷使されたので、20年近く経つと劣化も著しかった。一番貸し出しの多いフィルムなので、2000年には思い切って新フィルムを輸入した。その時点では、東京にケチュア語を解する人が生まれていたのである。ペルー・ケチュア語アカデミー日本支部のマリオ・ホセ・アタパウカル氏とお連れ合いの矢島千恵子さんである。新しいフィルムの字幕入れの際には、お二人の協力を得た。マリオさんはクスコ生まれだが、驚いたことには、『第一の敵』に出演している人物をふたりも知っていたのである。『第一の敵』がクスコ周辺で撮影されたことには、すでに何度も触れたが、そのことに由来する偶然のなせる業である。この貴重なエピソードに関しては、マリオさんに一つの文章を書いていただいた→「『第一の敵』で旧知の人びとに出会う――サトゥルニーノ・ウィルカとファウスト・エスピノサの想い出」(太田編『アンデスで先住民の映画を撮る』、現代企画室、2000年、所収)。

最初の長編『ウカマウ』に加えて、1989年の『地下の民』以降はアイマラ語を用いる作品が増えていくが、長いこと、私たちは『第一の敵』の最初の字幕入れと同じ作業を繰り返してきた。ところが、2014年の『叛乱者たち』の字幕入れの時には、アイマラ語を解する藤田護氏が助けてくれた。同氏はボリビアでの研究生活が長い。ケチュア語、アイマラ語などの先住民族言語も研究対象である。知人であるラパス在住の日本人青年たちが2005年に、在ボリビア日本人・日系人に向けてウカマウ映画の上映会を開いたことがあったが、藤田氏はその時のスタッフでもあった。私たちにとっての34年という歳月は、遥か彼方のアンデス地域の先住民族言語を解する人びとがこの地にも生まれた、ということを意味していて感慨深い。

さて、定められた字数に基づいて、翻訳する。推敲を繰り返し、訳稿を完成する。テトラに字幕は入れてもらった。独特のタッチで文字を書く字幕ライター「カキヤ」の仕事である――1980年春。続けて、チラシの作成、本上映の会場予約、試写会の開催など一連の準備が続く。お金がない。友人たちから100万円を借りた。会場は御茶ノ水の全電通ホールを予約した。6月末の2週連続で金曜日夜と土曜日の午後~夜である。1980年当時はまだ、大労組は自前の会館を一等地にもち、ホールをけっこうな高額で貸し出していた。試写会は順調に進んだ。当時大きな影響力を発揮し始めていた『ぴあ』『シティロード』『小型映画』などの情報誌の編集者も、一般紙の映画担当記者も、取り上げてくれた。イメージフォーラムが四谷三丁目にあったころ、そこも試写会場に使った。知人の松本昌次氏(当時、未来社編集者、その後影書房主宰)は、試写会場から出てくるなり「ブレヒトだ!」と叫んだ。演劇好き、ブレヒト好きの松本氏らしい感想だった。この言葉が意味する的確さについては、あとであらためて触れたい。朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞も、映画欄でそれなりの大きさで取り上げてくれた。ボリビア映画、ゲリラと農民の共同闘争――そんな説明がなされていれば、人びとはまだ、13年前のことでしかない、1967年ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死を否応なく思い出す時代であった。記事の末尾に記された自宅の電話がひっきりなしに鳴り響いた。

前年の1979年、中米のニカラグアでは、サンディニスタ民族解放戦線が、1930年代から続いていたソモサ一族の独裁体制を打倒する革命に勝利していた。その過程で先住民族が果たした重要な役割に注目した私は、それを『第一の敵』に登場する先住民族像と重ね合せて論じた文章を『日本読書新聞』にペンネームで寄稿した。それは「反乱するインディオ――ニカラグア革命一周年に寄せて」と題して、上映日直前の同紙に掲載された。

このような反応をみているうちに、私は確かな手応えを感じ始めていた。友人、知人はもとより、観てほしいと思った作家、詩人、文化人類学研究者などにチラシと当日清算券を送る作業を重ねているうちに、上映当日が近づいてきていた。(4月25日記)

ウカマウ集団の長征(7)――映像による「帝国主義論」の試み


作家の船戸与一は、ホルヘ・サンヒネスのことを「人種的逆越境を試みる殉教志願者」と名づけたことがある(船戸稿「ホルヘ・サンヒネスの苦悩」、『第一の敵』上映委員会編『ただひとつの拳のごとく――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』所収、インパクト出版会、1985年)。白人エリートの出自でありながら、先住民インディオの解放をこそ第一義的に重要なことと考え、そのような価値意識の転換を通してメスティソ(混血)と白人もまた、その多くが陥っている精神的な疎外状況の克服に至るのだ――とするホルヘ・サンヒネスの立ち位置は、「果敢な試み」でありながら、同時にきわめて困難な問題も孕んでいることを率直に指摘した言葉であろう。

その観点から見ると興味深いのだが、ウカマウ集団の初期の長編『ウカマウ』と『コンドルの血』に対して先住民が示した反応の形がある。それは、私たちがメキシコで別れる前の最後の話し合いの中で、ホルヘが教えてくれたものである。『ウカマウ』は、仲買人のメスティソに妻が暴行・殺害された先住民の青年が、こと切れる直前の妻の言葉から犯人をすぐに突き止めるが、仲買人がひとりになる機会をじっくりと待ち、一年後についに決闘によって復讐を遂げるまでの物語である。アイマラ文化圏に属する、チチカカ湖上の太陽の島で撮影された。静かな緊迫感に満ちた映画で、先住民とメスティソの間に横たわる文化的相違や価値観の違いも的確に描かれていて、私は好きな作品だが、アイマラ先住民からの批評は散々なものだったそうだ。被害者の青年が、あんな風に孤独に、ひとりで引きこもって苦しみ、悩み、その挙句に復讐を遂げるなどということは、私たちの生活様式からは考えられない、と。「個」と「全体」の問題は繰り返し現われることになるから、あとで詳しく触れる機会があるだろう。

ホルヘは、また、こうも言う。ぼくが白人だからなのか、先住民の人たちはどうにも打ち解けてくれない。警戒心を解こうとしない。ところが、プロデューサーのベアトリスがいくと、彼女はメスティサだし、先住民の母語を話すことができるから、直ちに心をゆるして、迎え入れてくれるんだ――ホルヘが抱え込んだこの葛藤が描かれるさまを、私たちはやがて『鳥の歌』(1995年)で観ることになるだろう。

*         *       *

メキシコにおけるホルヘ・サンヒネスとの討論の中でもっとも印象に残った言葉は「映像による帝国主義論」をぼくらは試みている、というものだった。確かに、『コンドルの血』(1969年)→或る事故によって永遠に失われた映画『死の道』(1970年)→『人民の勇気』(1971年)→『第一の敵』(1974年)→『ここから出ていけ!』(1977年)→『ただひとつの拳のごとく』(1983年)と並べていくと、60年代末から80年代初頭にかけてのウカマウ集団の映画は、それぞれの時代の国内支配体制の背後にあって、これを支えている世界的な帝国のあり方を浮かび上がらせることに心を砕いていることに気づくだろう。

『コンドルの血』は、富める国による「低開発国援助」という「慈善」の事業が、大国の利害計算に基づいた巧妙な意図を秘めている場合もあることを暴露した。

『死の道』は、1950年代後半、鉱山労働者の強力な組合運動の進展を危惧した米国が、地域に住まう二つの民族の一方を扇動し、争いごとを起こさせ、その平定を口実に介入しようとした史実を描いた。文化人類学的研究を利用しながら或る民族の特徴を捉え、それを政治・軍事の局面に生かすというのは、米国が一貫して行なってきた異世界統治の方法であった。それを暴いたこの作品は、西ドイツ(当時)の現像所に持ち込まれたネガに細工が施され(技術者が買収され、露出時間が引き延ばされたせいだと、ウカマウ側は考えている)、誰の目にも触れられぬまま、永遠に失われた。この話を思い出すたびに、ホルヘが「従来の映画からの質的飛躍であり、過去との決別を意味する映画」と自負する作品の喪失が、彼らにとってどれほど悔しいことであろうか、と思う。もちろん、私たち観客にとっても。

『人民の勇気』は、ボリビアでチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ闘争がたたかわれていたとき、これに連帯しようとした鉱山労働者や都市部の学生の動きが実在したが、それが一段階の飛躍を遂げようとした時点を定めて、これを事前に察知した政府軍が武力によって鎮圧した史実を描いた。キューバ革命の出現を不覚にも「許して」しまった米国が、「第二のキューバ」の登場を阻止するために、当時ラテンアメリカ各国で行なっていた「軍事顧問」的な動きを見れば、この作戦の背景が浮かび上がろう。

『第一の敵』は、帝国の利害がかかっている地域/国での民衆の闘争が、国内的な秩序をめぐる攻防の段階を越えたときに、帝国の軍事顧問団はより具体的な指示を当該国の政府軍に与えるようになる姿を描いている。

『ここから出ていけ!』は、『コンドルの血』で描かれた「低開発国医療援助」グループが、その犯罪的な行為のせいで追放されてからしばらくのち、今度は宗教布教グループの外皮をまとって潜り込み、一部の住民を精神的に解体して住民間の対立を煽る一方、多国籍企業の尖兵になって、その国の鉱物資源などの探査を行なう姿を描いている。

『ただひとつの拳のごとく』は、1970年代以降、地域全体がほぼ軍事体制によって覆い尽くされることによって世界に先駆けて新自由主義経済秩序に席捲されたラテンアメリカの姿を描いている。それは、やがて、グローバリゼーションという名の、市場経済原理を唯一神とする現代資本主義の台頭の時代に繋がっていくのである。

こうして、帝国主義には、さまざまな貌がある――援助の貌、軍事の貌、経済の貌、宗教の貌、政治的介入の貌、文化浸透の貌――などである。それはすべて、他を圧するほどの力を持つ、総合的な支配体制である。

幸徳秋水、ホブスン、レーニン――書物による帝国主義論は、それまでにもいくつか読んできた。そこへ跳び込んできた「映像による帝国主義論」を志すというホルヘ・サンヒネスの言葉。そこには、きわめて魅力的な響きがあった。日本もまた、帝国主義の側に位置している以上、別な視線でこれを対象化する映画作品には、独自の意味があるだろう。日本へ帰国したら、ぜひとも、ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネス監督の映画が上映される条件をつくるために努力しよう――ホルヘたちにそう約束して、私たちは別れた。私の手には、ホルヘに託された『第一の敵』の16ミリ・フィルムがあった。

(3月31日記)

追記:これ以降は、1980年、日本における自主上映運動の開始の段階に入ります。少しの時間をおいて、書き続けます。

ウカマウ集団の長征(6)――コロンビアとメキシコで


1976年の半ばだったろうか、帰路北上する私たちを、ホルヘとベアトリスはコロンビアで待ち構えていた。往路もそうだったが、帰路でもまた、コロンビアには私たちに住居を無料で貸し与え、一定額の奨学金を供与してくれる日本人移住者がいた。経済的な成功を収めたその人は、大学や研究所の後ろ盾もないままに彼の地の旅を続けながら、歴史と文化を学んでいる人間だと私たちのことを捉えて、資金援助を申し出てくれたのだ。そのために、コロンビアでの滞在は長めにすることが可能だった。

私は、往路でも、コロンビアの在野の社会学者、ビクトル・ダニエル・ボニーヤ(Victor Daniel Bonilla)に何度も会って、彼の著書『神の下僕か、インディオの主人か』(”Siervos de Dios y Amos de Indios”)の理解できない箇所について質問していた。日本出発前に、私はこの本の英語訳を読んでいた。当時、ペリカン・ブックスが「ラテンアメリカン・スタディーズ」とでもいうようなシリーズを刊行していた。それはチェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』、ブラジルの都市ゲリラのカルロス・マリゲーラ、コロンビアのカトリック神父で反体制ゲリラに身を投じたカミーロ・トレス、従属理論のガンダー・フランクらの書物を揃えていて、そのラディカルな企画・編集の姿勢から私は多くを学んでいた。ボニーヤのその本は、20世紀に入ってからの時代になってなお、コロンビア南部の一先住民村落に、徹頭徹尾植民地主義を実践しながら浸透したキリスト教宣教会の姿を描いていて、私は大いなる関心を抱いていた。日本へ帰国したらこの本を翻訳して出版しようとすら考えていたので、帰路でも原著者に質問すべきことはたくさんあった。それを行なうためにも、加えて、ウカマウのホルヘたちとの再会を果たすためにも、コロンビア滞在が長引くことは大歓迎だった。【因みに、ボニーヤの著書は、前記のタイトルに「アマゾニアのカプチン宣教会」というサブタイトルを付して1987年に刊行できた(現代企画室)】。

コロンビアでは、ホルヘたちが懇意にしているこの国の映画作家の作品をいくつか見せてもらった。マルタ・ロドリゲス監督の『チルカレス13』などが記憶に残っている。レンガ職人の過酷な労働を描いたものだった。そのような労働現場を知らない「プチブル」のこころは打つ作品だ。敢えてそのように言うのは、わけがある。ホルヘたちの出発点は、『革命』(1962年、10分)と『落盤』(1964年、20分)という短篇2作品だ。ボリビアの底辺に生活する人びとの現実を描いた作品だが、ほどほど以上の暮らしはできる、「良心的な」人びとのこころは打った。だが、ホルヘたちがこの映像を最も見てもらいたいと考えていた、まさにそこに描かれている人びとに見せると、意想外な感想が戻ってきたという――自分たちが日々暮らしている生活のありのままが画面に出てきても、何よりも自分のこととして知っていることなのだから、別に面白くもない。私たちが知りたいのは、なぜ私たちはこんなに貧しいのか、なぜこんなことになってしまうのか――その原因を突き止めることだ。どうすればよいのかを考えるきっかけが欲しいのだ。

なるほど、言われてみれば、その通りだ。納得したホルヘたちは、その後作り始める長編作品では、人びとの貧困や貧窮の実態をリアリズム風に撮る方法を遠く離れて、事態が斯く斯く云々になっている原因を問いかける工夫を、物語展開の中に据えていくことになるのだ。

*           *         *

その後数ヵ月して、ホルヘたちと私たちは別々な行路を辿ってメキシコへ着き、そこで再度落ち合った。『第一の敵』を16ミリフィルムで見せてもらった。大きく言えば、1960年代のラテンアメリカにおける反帝ゲリラ闘争の総括を試みようとしているような作品であった。先住民の村の様子、人びとの関係のあり方、都市から来たゲリラと先住民農民の出会い方などが描かれるなどキメの細かい組み立てが工夫されているが、骨格を言えば、そうである。すでに触れたように、この映画が採用した物語は、1965年ペルーでのゲリラ闘争の経験に基づいていることは、キトで会ったときに聞いた。今回ホルヘが付け加えて言うには、同じくペルーのクスコ周辺のラ・コンベンシオン村における先住民農民の土地占拠闘争の経験もまた参照している、と。米国の第4インター系の出版社は、この闘争の指導者が第4インター系のウーゴ・ブランコであることを強調して、彼が書き表わした小さな本の英語版を複数冊出版していたので、私はそれらを取り寄せて、日本出発前に読んでいた(しかも、それはその後、私たちが日本を離れた翌年だったが、ウーゴ・ブランコ著『土地か死か――ペルー土地占拠闘争と南米革命』、山崎カヲル訳 柘植書房、1974年、となって翻訳・出版された)。

こうして、この映画の背後には、特定されているわけではないにしても、60年代ラテンアメリカにおける具体的な闘争がさまざまにちりばめられている。時は1976年――チェ・ゲバラがボリビアで死んだのは1967年だから、それから9年後のことである。チェ・ゲバラの記憶は、日本でもまだ人びとの心に焼きついている。ホルヘたちとの別れのときも近づいていて、そろそろ、今後どんな協力体制が可能かを検討する話し合いも始まっていた。『第一の敵』なら、日本上映のきっかけになり得るかもしれない。私たちは次第に、そのような気持ちに傾いていた。

メキシコでは、ホルヘを媒介にして、いろいろな出会いがあった。ボリビアの社会学者のレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)に会った。最初にメキシコに住んでいた時だったと思うが、彼の著書『ラテンアメリカにおける二重権力――ボリビアとチリのケースの研究』( ”El poder dual en América Latina : estudio de los casos de Bolivia y Chile ”)などを読んでいて、注目していた。彼を私たちに紹介するとき、ベアトリスは「世が世なら、大統領になるべき人です」と言った。最新作『叛乱者たち』には、サバレタ・メルカードの言葉が引かれるシーンがある。字幕特有の、厳しい字数制限の関係上もあって、日本の観客が知る由もない彼の名前は字幕には登場しない。ボリビアとパラグアイとの間で戦われたチャコ戦争(1932~35年)は、膨大な死者数と領土喪失という結果で近代ボリビアにとって癒しがたい禍根を残したが、それをサバレタ・メルカードは「その結果、われわれは自分が何者であるかを知ったのだ」と表現した。こういう文脈で、彼の言葉は出てくるのである。

ホルヘ・サンヒネスは亡命の身ではあっても、制作・撮影・上映などの現場から離れるわけにはいかないという考えから、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビア、メキシコと転々としながら仕事を続けているが、家族はキューバにいた。メキシコは、久しぶりの合流には格好の場所である。4人の子どもたちにも会った。娘ふたり、息子ふたり。4,5歳から15,16歳。小さなパーティの場では、キューバの「革命教育」の成果だろう、長女がしっかりとした社会意識に基づいた挨拶をした。思えば、『コンドルの血』には、もっと幼かったこれら4人の子どもたちがブルジョワ家庭の子ども役で「出演」していたではないか。この作品の制作・撮影は1969年のボリビアで行なわれたから、それが可能だったのだ。そう言えば、『第一の敵』終幕近くの、ゲリラと政府軍の銃撃戦の場面では、あそこで銃を撃っているのはぼくだよ、とホルヘは言っていた。家内制手工業のような仕事ぶりに、思わず笑った。乏しい資金で賄う映画制作の現場とは、このようなものなのだろう。

(3月26日記)

ウカマウ集団の長征(5)――チリで


アルゼンチン南部のネウケン経由で国境を超えると、テムコというチリの町に着く。1976年の2月のことだから、1973年9月11日の軍事クーデタから数えて2年半ほど過ぎたころである。ブエノスアイレスで親しく付き合った若夫婦の、妻のほうがチリ人だった。紹介された親戚の家を、テムコで訪ねた。軍事クーデタから10日後の1973年9月23日、その状況に絶望するかのようにして「憤死」した詩人、パブロ・ネルーダの縁者の家だった。ネルーダの自宅がそうされたように、この家もクーデタ直後に家宅捜査され、書物はほとんど焼かれてしまったと家人は言った。焼け残った書物が、わずかにあった。

秦の始皇帝による「焚書抗儒」以来、古今東西、時の権力者が気にくわぬ書物を焼き捨てるという所業のことは数多く聞いてきたが、ヘスス・ララの本のことといい、ここチリでの出来事といい、焼け残った現物を目にすると、いわく言い難い、不快な思いがこみ上げてきた。加えて言うと、「抗儒」にひとしい所業もまた、軍事政権下のあの時代には、ラテンアメリカのどこでも行なわれていて、ウカマウはのちに『地下の民』において、官憲に逮捕された反体制活動家が、自分が埋められることになる穴を自ら掘るよう強制されるシーンを挿入している。現実に起こった出来事から採った、痛ましい挿話だったのだろう。

テムコのその家では、夜、縁者がみんな集まってくると、みんなは声を潜めて、抵抗歌を歌った。「ベンセレーモス」はじめ、ビクトル・ハラなどが歌っていたそれらの歌は、私たちもよく知っていたので、その密かな声に唱和した。

*         *        *

これから書くことは、ホルヘ・サンヒネスたちとのつき合いが深まってから知ったことである。ホルヘは、ラパスの大学で哲学を学んでいたころ、チリのコンセプシオンという町の大学の夏季講座を受講した。政治・社会的な意味での進取性と戦闘性においてよく知られた町だという。1950年代半ばから後半にかけての、いずれかの年のことだったであろう。講義科目の中に、映画講座があった。ホルヘと同国人の建築技師、リシマコ・グティエレス(愛称マコ)が、一本の映画も撮ったこともないのに、ただ映画好きだというだけの理由で映画講座を担当していた。ホルヘのなかでの、映画への関心も、社会的な関心も、このマコとのつき合いによって生まれた、と彼は述懐している。付き合っている時には知らなかったが、彼は実は、チェ・ゲバラやインティ・ペレードと同じくボリビアのELN(民族解放軍)に属していて、その後ボリビアの官憲に殺害されている、という。

その講座では台本コンクールがあって、一番になるとその台本に基づいた映画を作るという特典が得られる。ホルヘがそれに当たった。そこで「たった二分間の映画を作った」。ホルヘは言う。

映画ではたった一分間でも多くのことが表現できる、とマコは言っていたけれど、実にそのとおりだった。その二分間で、ひとつの物語を作り上げた。一人の浮浪児が、禁止の立札だらけの公園を歩き回っている。「さわるべからず」「踏むべからず」「寝そべるべからず」「すわるべからず」。その子はしばらく前から何も食べていない。物乞いをするにも誰もくれはしないから、もう疲れた。新聞にくるまって門口で寝るのも、もう飽きた。公園の花を見るが、飾りとか自然の詩としてそれを見ることができない。彼にとっては、花さえもが、生きるか死ぬかの鍵を握っている。彼は何本かの花をもぎ取って逃げる。公園の管理人が追いかける。逃げおおせて、花を売る。それで得た金でパンを買い、小路に座って食べようとする。ところが、一部始終を見ていた二人の乞食がパンを奪って逃げる。子どもはまた公園へ戻って花を見つめる。さまざまな角度から撮ったその子の顔、花、立札、見張りの管理人が並置される。涙あふれる子どもの顔………これでおしまい。

ホルヘ・サンヒネス『革命映画の創造』(太田昌国訳、三一書房、1981年)

8ミリで作ったというこの小品で音楽を担当したのは、当時コンセプシオンに住んでいたビオレッタ・パラだった。彼女もマコらの仲間で、後年ほど有名ではなかったが、彼女に宿る、歌の天賦の才能は誰もが知るところだった。「彼女のギターから生まれたその曲を」ホルヘはとても気に入っていたが、事故のためにそのフィルムは失われて、今は存在しない、ということだ。【因みに、帰国してのち、唐澤は詩人の水野るり子さんお願いして、ビオレッタ・パラの『人生よ ありがとう――十行詩による自伝』を編集・刊行した(現代企画室、1987年)。この本に付した付録に、ホルヘ・サンヒネスは「ビオレッタの思い出」という文章を寄せてくれた。】

これが、ホルヘの映画的な出発点だった。チリは、したがって、彼にとって忘れがたい土地だった。チリはその後も、ホルヘにとって重要な土地となる。キトで初めて出会ったとき、1971年以後の亡命による「放浪」か「流浪」の旅のことを語った時、彼はペルー、エクアドルの前にはチリにいた、と語った。アジェンデ社会主義政権の成立は1970年だった。それ以降、軍事クーデタでそれが倒される73年9月までの3年間、軍事体制から逃れたラテンアメリカ各国の革命家と反体制活動家が、数多くチリに庇護を求めた。ホルヘもそのひとりであった。ホルヘだけではない、知り合ったラテンアメリカの知識人、作家、映画人などの証言によると、アジェンデ政権下の文化活動はこれらの亡命者の参加なくしては考えられないくらいに重要な役割を担ったという。広い意味で考えても、私も従来から強調してきたように、チリ革命の重要な性格のひとつとして、その文化革命的な要素を挙げることができる。アリエル・ドルフマンらが学生の協力を得て行なった、ディズニー漫画に見られる支配的な表現に対する批判(『ドナルド・ダックを読む』、晶文社、1984年)や、いわゆる女性雑誌が読者に植え付ける常識的な価値観と固定観念(それこそが、読者から批判的な主体性を奪い、支配的な文化に奉仕するものとなる)についての批判的な分析など、見るべき成果があった。その仕事を囲い込むように、チリに亡命していた大勢の文化活動家たちの働きがあったのだろう。

キトでは多くを語らなかったが、ホルヘはその活動が目立った人物のひとりだったのかもしれない。73年9月11日のクーデタの直後、実権を握った軍事体制は多数の外国人亡命者の逮捕命令を下した。ホルヘもそのひとりだった。彼の場合は「見つけ次第、射殺するも可」との命令が下されたようだ。クーデタの準備は時間をかけて企てられていて、その間に「要注意人物」リストも出来上がっていたのであろう。「アンデス越えをした」とホルヘは語った。あまりに生々しい体験だろうから、その詳細を聞き出す「勇気」が、その時の私たちには、なかった。

「アンデスを越えて」73年末か74年初頭にペルーに行き着いた彼は、その74年にペルーで『第一の敵』を撮影・制作するのである。

(2014年3月19日記)

ウカマウ集団の長征(4)


ボリビアの書店へ行ってボリビア関係の書物を見ていると、Editorial “Los Amigos del Libro” (本の友社)という名前の出版社のものが目立った。Enciclopedia Bolivianaと総称して、ボリビアに関するさまざまなテーマの書物を出版していた。いくつもの本を束ねて、「ボリビア百科事典」的な叢書になることを目指しているのだろう、と思えた。ケチュア語やアイマラ語の辞書もあって、当然にもラパスで購入した。これらも、のちにウカマウ映画の字幕翻訳作業を行なう際には大いに役立つことになる。その後、コチャバンバという都市へ行く機会があった。(因みに、永井龍男に「コチャバンバ行き」という短篇がある。1972年の作品だが、行く前に読んだのか帰国してから読んだのか、今となっては定かではない。)それはともかく、コチャバンバには「本の友社」の本社がおかれていることを思い出し、寄ってみた。社長自ら応対してくれた。Werner Guttentag T. という、ドイツ系移民の末裔だった。南米各国にはドイツ系移民がけっこう多い。

いろいろと話しているうちに、すでに幾冊かの本を購入していた作家、ヘスス・ララ(Jesús Lara)の話題になった。メキシコに滞在していた時に、”Guerrillero Inti Peredo”(『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』)と題する彼の本を読んでいた。インティとココのペレード兄弟は、チェ・ゲバラ指揮下のELN(ボリビア民族解放軍)に属していた。インティは、1967年ゲバラ隊が壊滅されたときにも生き延びて、その後「われわれは山へ帰る」と題する声明を発表したこともあったが、1969年にラパス市内の隠れ家で見つかって、結局は殺されてしまった。ヘスス・ララはインティの義父に当たるが、コチャバンバに住んでいるという。グーテンターク氏は、その場で作家に電話して、日本からの旅人が会いたがっているよ、と伝えてくれた。すぐ訪ねてみた。ここでも話はずいぶんと弾んだが、作家は、官憲の手入れのあとで焚書された自分の本、『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』の焼け焦がれた残骸写真を見せてくれたうえで、焼増しを一枚贈ってくれた。その写真は、前回触れたドミティーラの『私にも話させて』を刊行する際、関連する記述があったので収録した(焼かれたのは、他ならぬ「本の友社」版である。私がメキシコで読んだ版は、メキシコの出版社から出ているものであった)。

その後、帰途ペルーのリマに滞在していた時、ヘスス・ララ原作の演劇『アタワルパ』がリマ郊外で上演されるというニュースを新聞で知った。アタワルパは、スペイン人征服者によって処刑された、実質的なインカ帝国最後の皇帝である。その夜、リマ郊外へ出て山あいに入ると、両側のかがり火が迎えてくれる。野外という雰囲気も手伝ったのだろうが、内容的にもなかなかに感動的な舞台であった。コチャバンバの作家に、舞台を観た感想を書き送った。彼も、自作が上演される機会に私たちが偶然にも居合わせたことを心から喜んでくれた。ホルヘたちに再会した時、このことも話題にした。彼らも作家とは知り合いのようだが、長引いている亡命生活の中で音信も途絶えていたので、私たちから氏の元気な様子を聞いてうれしいようだった。こうして、これもまた、どこかでウカマウに繋がっていく物語ではある。

*           *         *

ボリビアの南の端と国境を接する国のひとつはアルゼンチンである。そこへ移った。白人国と呼ばれることが多い。さまざまな先住民族が住まう土地に、征服者としてヨーロッパ人が侵入し、そこを植民地化し、植民地経営のために西アフリカから膨大な数の黒人奴隷を強制連行し、しかもこれらの諸民族の血が複雑に交じり合い――という過程を経たのだから、現在あるラテンアメリカの国々は、複合的な多民族社会を形成している場合が多い。ウカマウ集団の出身国であるボリビアは、2006年のエボ・モラレス大統領誕生を契機に行なわれてきた改革政策のなかで、国名も「ボリビア多民族共和国」と改めた。それでも、国によって、その民族構成には大きな差が見られるから、人口構成に占める白人の率によっては「白人社会」という呼称が成立してしまうのである。そうであれば、ウカマウに即して先住民族の存在を重視するという観点から見るなら、アルゼンチンには見るべきことはないのか。

日本を出る前、この地域に関する多くの書物を読んだ。中でも印象的な1冊は、ダーウィンの『ビーグル号航海記』だった。チャールズ・ダーウィンは、1831年から5年間、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗って、南米大陸沿岸からガラパゴス島へ、さらに南太平洋地域をめぐりながら、航海記を記録する。記述されるのは主として地質や動植物の観察記録だが、時代はまさしくラテンアメリカ各国がスペインからの独立を遂げた直後のこと、陸地内部の社会・政治状況に触れる個所もないではない。独立直後のアルゼンチンが、ローサス将軍の下、先住民族の徹底的な「殲滅作戦」を展開したことは、当時日本でも読める一般的な歴史書でも書かれていたから、まさしくそれと同時代にアルゼンチン沿岸を通ったダーウィンの反応を知りたかったのだ。

記述によれば、ダーウィンはローサス将軍にいちど出会っている。率いる軍隊が「下等な、強盗のような」本質をもつことに気がつきつつ、将軍の、非凡で熱情あふれる性格を肯定的に述べている。過酷な運命を強いられる先住民への「同情」を示す記述もあるが、その「掃討戦」は無理からぬことというのが、彼が行き着いている結論である。ひとつ関心を引くエピソードがある。先住民「殲滅戦争」に参加したスペイン人から、その戦いぶりを聞いたダーウィンは、その非人道性に抗議する。答えは、次のようなものだった。「でも止むを得ません。どんどん産みますからね」。これこそ、まさしく、本連載1回目で触れたウカマウ集団の作品『コンドルの血』に登場する、20世紀米国の「後進国開発援助」グループの意識でもあった。

さて、アルゼンチンの先住民人口は、総人口の0.5%を占めるにすぎないが、そこにも「動き」はあった。首都ブエノスアイレスにいたとき、新聞で知ったのだろう、先住民の集まりがあるという告知があり、そこへ出かけた。会場はバスク会館といった。スペインのバスク地方からの移住者たちが独自に持っている会館なのだろう。その集まりがどんなものであったかは、もはや覚えてはいない。それでも、そこでの出会いから始まって、対権力との関係上から公にはできない集まりへも誘われた。それは、なんと、ウカマウの『コンドルの血』の上映会であった。どこからともなく現われた50人近くの、主として先住民系の人びとが、スクリーンに見入った。

ボリビアは、米国「平和部隊」の恣意的な「援助計画」に翻弄された当事国だった。対象とされた先住民人口も総人口の過半を占めており、問題はあまりに深刻で、政府も「平和部隊」の追放まで行なうだけの、社会的・政治的基盤はあった。翻って、きわめて少数の先住民人口しかいないアルゼンチンにおいては、先住民は、また別な困難さに直面しているのだろうと、私は考えていた。

(2014年3月19日記)

ウカマウの長征(3)


キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。

だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。

とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。関心をもって、声をかけた。ケチュア人であった。この人物については、私の新刊『【極私的】60年代追憶――精神のリレーのために』(インパクト出版会、2014年)の第8章「近代への懐疑、先住民族集団の理想化」で詳しく触れた。ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。ここでは最小限のみ言及しておきたい。

ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。

誰にしても、この世に生を享けたときの諸条件が絶対化され、生きていく中で、活動していく中で、思考していく中で――「変わる」ことの可能性が否定されるなら、それはすなわち、人間の〈可変性〉を否定されることを意味する。私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。

のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。私もその意見には同感だった。ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。ここに白人は要らない。マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。その行動のなかで、ひとは変わり得る。そのことへの確信とでも言えようか。民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。

あとになっての、もう一つの間接的な「繋がり」――それは、ボリビアと言えば忘れるわけにはいかない鉱山地帯への旅から生まれた。ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。ボリビアの一作家は次のように表現したという。「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。

私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。

帰国後しばらくして、唐澤秀子は、このドミティーラの聞き書き『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人々の物語』を翻訳した(現代企画室、1984年)。炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8403-6

(3月14日記)

ウカマウ集団の長征(2)


エクアドルの次にはペルーへ行った。ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。だから、ペルーに滞在している間は、この映画が基となる史実を借用したという、ペルーのゲリラ・民族解放軍(ELN)指導者、エクトル・ベハール(Hector Bejar)が獄中で書いた証言記録( ”Las Guerrillas de 1965 : balance y perspectiva“ 『1965年のゲリラ――その結果と展望』)を読むに努めた。この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。「アヤクチョ」については、後に触れる。

ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。→http://www.hectorbejar.com/ ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカも、元は都市ゲリラ・トゥパマロスの活動家で脱獄経験もあるし、ブラジルの大統領ジルマ・ルセフも軍事政権下では非合法の左翼組織に属して武装闘争にも関わっていた、という。このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。

リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。21歳だった。日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。

40年前に話を戻す。首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。

途中にアヤクチョという町があった。スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。

翌日、アヤクチョの町を歩いた。さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。ちっぽけな書店に入ると、『アメリカニスモ』辞典があった(”Diccionario de Americanismos “, Alfred N. Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。

こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。これは、ベハールの時代のそれとはまったく異なる性格を持つ運動で、その性格に深い衝撃を受けた私は、カルロス・I・デグレゴリ他著『センデロ・ルミノソ――ペルーの〈輝ける道〉』と題する翻訳書を出版して、長文の解説を付した(現代企画室、1993年)。それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。

(3月13日記)