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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

広がりゆく死刑囚の表現活動――第7回死刑囚表現展をふり返って


『出版ニュース』2011年11月上旬号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が行なう「死刑囚表現展」は、今年で7回目を迎えた。応募の締切りは7月末日だったが、この時点での死刑確定囚は120人、未決の人は39人だった。そのなかから、文章表現では12人から、絵画表現では14人からの応募があった。双方に応募したのは3人だったから、実質23人が応募したことになる。総数の中から1割5分程度の人びとの応募があるという数字が、比率的に高いのか低いのかは分からない。表現展を運営している立場から言えば、はじめての応募者があるのもうれしいが、毎年のように応募する人が複数存在していることに、この表現展の試みが根づきつつあることの証しを見るのは早計だろうか。また、毎年のように応募してきた人から作品が届かないと、それはそれで気になることでもある。運営に当たる私たちも、こんな風に、気持ちの微妙な揺らぎをおぼえながら、締切り日を迎えるのである。

文章作品は、原稿用紙に書く人もいれば、レポート用紙、便箋、はがきなど、さまざまな形で書かれて、届けられる。それらを複写して、選考委員(加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、坂上香の諸氏に、私・太田昌国)に送るのだが、今年はそれを積み重ねた厚みが40センチほどになった。たいへんな分量である。選考委員は9月初旬に開かれる選考会議までにそれらを読み込まなければならない。絵画作品は選考日当日に、壁に掛けたり机上においたりしておく。今回から、新しい風を吹き入れてもらうために、一度限りのゲスト審査員を迎えることにした。今年は、精神科医の香山リカさんにお願いした。

昨年の第6回目くらいからだろうか、公表時には匿名にしてほしいという希望が応募者から寄せられるようになった。加害者である自分が書いた文章が、万が一にも被害者の遺族の目に触れることを憚る気持ちから、また、犯行時および公判時にメディアと世間から非難と好奇の注視を浴びた加害者の家族が、自分の表現を通してふたたび世の中にさらされることを避けたい気持ちからくる要望だという。運営会としては、いまのところ、この希望に沿うことにしている。以下の文中で、筆名らしきものが散見されるのはそれ故であるが、この問題については後で触れる。

さて、今年の応募作品すべてについて万遍なく触れることは不可能だが、主として、誰にも共通の問題を引き出すことができると思われる作品に触れながら、中身に入っていこう。

初めて応募した方だと思うが、「人生記」(高橋義博氏)と題する作品があった。私は、死刑囚の作品だからといって、自らが起こした事件について必ず触れなければならないとは思わない。今までの選考過程での討論を思い出すなら、これは、選考委員に共通の考え方だと思う。しかし、「人生記」と銘打って、自分が歩んできた人生を確かにふりかえっているという調子で叙述を行ないながら、ついに最後まで事件そのものには触れないのでは、少なくとも他者に読ませるものとしては成立し得ないだろう。これは、実は、7回目を迎えた今回まで、異なる人びとの作品でありながら繰り返し現われる共通の性格のひとつである。もちろん、一般論としては、自らが手を染めてしまった犯罪や手酷い失敗、過ちを率直にふりかえり、その事実に向き合うことは、誰にとっても容易なことではない。だが、応募する人は、自らの内面を表現してそれを他者に読ませる(見せる)という場所に進み出てしまった。そこでなそうとする表現において肝心な部分に触れないのでは、自分は根本の問題から逃げていると自覚せざるを得ない時が、必ず来るだろう。従来も同じような指摘を行なった場合が幾度かあったが、その人が次回も同じテーマで応募してきたときには、表現内容に格段の違いが見受けられることがあった。その意味で、この作者の場合でも、ここを出発点にしてさらに深みのある作品に挑んでいただきたいと思う。

「デッドライン」(露雲宇流布氏)は、「荒唐無稽な」と形容したくなるような、これまた典型的な作品である。従来なら、主人公は男女を問わず腕っ節が桁外れに強く、主人公の周辺では法外な額のカネが常に出入りし、彼(女)らは飛び切り高額な酒や食べ物を日常的に飲食している――という形で、その「荒唐無稽さ」が表現される場合が目立った。男が主人公の場合には、その「マッチョ」ぶりも半端ではない。このような場合は、現実社会の中での価値意識としての「強欲資本主義」の姿が、自己批評もないままに、描かれているのだろう。「デッドライン」の場合は違う。或る死刑囚の死刑執行まで余すところ二四時間を切ってしまった段階で、物語が動き始める。時間的に切羽詰った状況の設定は、効果的な場合はもちろんあるが、ここではどうか。死刑囚の冤罪を確信した新聞記者が動き出す、妻や娘が死刑囚と面会する、そこに件の記者も同席する――それは、もちろん、すでに触れた執行前二四時間の時間幅の中で、である。現代日本の死刑囚処遇ではあり得ない設定が、こうして次々と出てくる。日本が不動の場所(舞台背景)である必要はないから、「どことも知れないどこか」の物語として成立するなら、それでもよいかもしれない。しかし、あまりにも無前提な条件設定は、読み手を白けさせる。どこにもない(あり得ない)物語を説得力ある形で作り上げるには、相当な力技が必要である。筆力のある作者だけに、次回はひと工夫もふた工夫もしてほしい。

「繋ぐ手」(風間博子氏)が孕む問題も根が深い。問題のひとつは、警察・検察の取り調べ状況を含めた司法のあり方に関わっている。作者は、この裁判では利害関係が相反する共犯者の供述が唯一の証拠となって、自分が故なく死刑判決を受けていると主張しているのだが、その主張の当否をとりあえず脇に置くとしても、その「証拠」自体を検察側は全面開示していないのである。このかん死刑囚の表現を読み続けてきて思うのは、「調書」の作られ方と「証拠」の限定的な開示方法に、いかに重大かつ深刻な問題があるか、ということである。「限定的」といえば聞こえはいいが、検察側に不利で、被告・弁護側には有利な証拠は隠して開示しないのだから、不当極まりない話である。「調書」と「証拠」に関わるこの現実が大きく改善されて、公正・公平なものになるだけで、死刑裁判に関わる部分冤罪はもとより、冤罪そのものをなくす道に繋がるのではないかと強く思う。もうひとつの問題は、当然のことだが、作者が書いた方法に関わっている。作者は、娘の視点から母である自分を描くという方法を採用している。端的に言って、これは自己内省の仕方を甘くしたと私は思う。地の文章との均衡を失するほどに、法廷文書や新聞記事がたびたび引用されているが、それは、娘の立場からはよく見えない事態を説明する道具として使われている。自分自身の内面との対話を避けて、公的文書に説明を委ねたところに、この作品の弱点が集中的に現われているのではないか。「共犯者」とされる元夫によって、過去ドメスティック・バイオレンス(DV)を受けていたことから追い詰められていく心理の切開も、そのぶんだけ弱まっていると思える。作者は、昨年は絵画数点を応募して、「博愛」「無実という希望・潔白の罪」の2点は優秀賞を獲得した。あの絵画作品に見られた凝視力を思い起せば、文章作品においても、その力を生かす方法は確実にあるだろうと思う。

以上で取り上げた3つの作品からは、作者が匿名を希望したか、実名で参加しているかは別として、冒頭で触れた匿名問題とも関わる事柄を取り出すことができるように思える。冤罪事件でない限り(部分冤罪であっても、全体的な行為の一部における罪を意識せざるを得ない限りにおいて)、加害者が、被害者遺族のふだんの思いや、自らが何らかの表現を行なった場合にそれに対する遺族の反応を意識するのは当然のことであろう。だからといって、自らの本名(正体)を隠して表現する道を選ぶ限りは、自らがなした過去の行為をふりかえるという意味では、自分の表現がいまだ被害者の視線に堪え得る段階には至っていないことを自己告白している場合もあると思える。私は、今後とも匿名での応募は認められるほうがよいと考えるが、こと被害者および被害者遺族との関係においては、上に述べたことを意識し続けることが、応募者には求められると思う。

この問題が、端的かつ直截に表現されるのは、ことばをぎりぎりの地点にまで刻み込んだ短詩型の分野である。今年も、常連の、西山省三氏の俳句、響野湾子こと庄子幸一氏の俳句・短歌・雑感に、それが見られた。前者は寡作だが、後者は量産である。響野氏からは、短歌三六五首、俳句百句、雑感一二編が、巧みな筆さばきの原稿で送られてきた。自らが為したことについての響野氏の悔恨の念は深い。だが、判決文にある、被告についての断定的表現は厳しいものであったようだ。

改悛も矯正も不可能と 言われたる 判決書面 日に一度読む

寝る前に今日得た悔を 積み置きぬ 矯正不能 と言われし身なれど

それでも、作者は、悔い改めの「努力」を続ける。

言霊はあると信じて殺めたる 女を想いて 西向きて祈る

殺めたる帰りに乗りし 電車には 顔無き人の 瞳が照りてゐた

しかし、どんなに「努力」しても、その思いが、被害者に、その遺族に、ましてや野次馬でしかない「世間」にどう届くものであるかは、覚束ない。そのことを思い知った作者を、虚無感が襲う。

贖罪てふ知的努力に 疲れきて 獄舎の闇に 馴染みゆく虚刻

「贖罪」を「知的努力」と称したのは、作者の自己韜晦であろう。一年間に詠まれた短歌を、こうして任意に取り出してみると、万言を費やす文章とは別な方法で到達できる次元があるのだと確信できるように思える。「次元」は、この場合、「高み」といってもよいかもしれない。この人の作品には、例年のように寺山修司との「交感」関係が見られるように思うが、他にも幾人かの文学者・芸術家・反逆者との、想像上の「交感」が繰り広げられていく。このような人が、獄舎の闇にいて、時折り「虚刻」に陥っていくのは、そして次第にその境遇に馴染み親しんでいっているのは、〈外部〉にある社会との相関関係において、である。その地点で、〈外部社会〉の責任が生まれるのだと私は考える。

先だって、死刑制度廃止運動を共に担うひとりの友人が、病を得て獄中の病舎に収容されたまま十分な医療的措置も受けられずにいる死刑囚に関して、獄中に閉じこめておくのは「もう、ほんとうに、これ以上は必要ない」から獄外で十分な治療を受けさせよ、という趣旨のことを書いていた。「もう、ほんとうに、これ以上は……」という表現にはこころがこもっていて、私の胸をうった。獄中者を日常的処遇の厳しさにおいて痛めつけたうえで、長期拘留者の釈放など論外といった日本社会の刑罰制度の現状は、決して世界に普遍的なものではない。さしあたっては、政治囚の領域のことになるが、軍事政権下の韓国で死刑判決を受けたこともあった金大中氏は、民政移管後の選挙において大統領に選出された。アパルトヘイトという名の人種差別制度に叛逆して終身刑の獄にあった南アフリカのネルソン・マンデラ氏は、アパルトヘイト廃絶後の選挙で大統領に選ばれた。現在のウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカ氏は、一九六〇年代には都市ゲリラ活動で逮捕されて獄中にあったが、獄に向けて外部から掘られたトンネルを伝って脱獄した経験の持ち主である。その彼が、およそ四〇年後には選挙によって大統領に選ばれたのである。ある時代状況の中で「罪」を犯し、「刑罰」に服している人も、価値観の変化によっては、これほどまでに劇的に、担う役割を変えることができる。むしろ、それが世界に普遍的なあり方である。一般刑事犯の場合にも、犯した犯罪をめぐっての内省的な捉え返しがどこまでできているかを基本的な基準として、刑罰のあり方に関しての再検討がなされるべきであろう。私たちの社会のあり方がそこまで成熟するには、なお長い時間を要するだろう。死刑囚が行なう表現が、「罪と罰」をめぐる一般社会の把握の仕方に変革を迫るだけの訴求力を持つよう、私はこころから望んでいる。

「贖罪」の問題を糸口に話が逸れたが、ことは表現展の根幹にも関わることがらだと思えたので、あえて触れてみた。文章ジャンルでの今回の受賞者は、以下の人びとに決まった。星彩氏の「メモリーず」に奨励賞。河村啓三氏の「落伍者」に優秀賞。西山省三氏の俳句2句「汗かきて 我れも少し蒸発す」「雪消えて 元の太さの鉄格子」に努力賞。響野湾子氏の表現全体に持続賞。

最後に、絵画部門の作品に簡潔に触れよう。毎年のように、発想の自在さと表現方法上の工夫で楽しませてくれる松田康敏氏の「生死の境」が、変わらず、おもしろかった。A4用紙を20枚貼りあわせた大きさである。観る者が解釈する余地をいっぱい残してくれている作品からは、対話が生まれる。その意味でも、今年も随一の作品だった。北村孝紘氏の絵画3点は、いずれも「無題」だが、一つ目のテルテル坊主の首に縄が掛けられ、吊るされている作品には、観る者をしてギグッとさせる迫力、怖さがあった。謝依悌氏が描く世界にはますます深みが増していることが感じられた。

絵画部門の受賞者は以下の通りである。松田康敏氏の「生死の境」に奨励賞。北村孝紘氏の「無題」2点に努力賞。常連となっている謝依悌氏の3点の作品には奨励賞である。

絵画をめぐっては、10月8日に開かれた死刑廃止デー企画の一プログラムとして行なわれた表現展シンポジウムにおいて、選考委員の北川フラム氏から印象的な発言があった。応募者が、制約の多いなかでギリギリの表現を行なおうとしていることはわかるが、次の段階へと飛躍するためには、粘土を使ったり料理をしたりする手仕事が重要だ、粘土を差し入れすることはできないだろうか――という趣旨の発言である。これを実現するために、獄外からどんな働きかけができるのか。それは、今後の私たちの課題となろうが、ここでも日本との対比ですぐに思い出すのは、外国での受刑者処遇のあり方である。私がかつて調べたのは、1970年代軍事政権下にあった南米ウルグアイと、民政下ではあったが同じ時期のペルーにおける政治犯処遇の実態に関してであった。以下の説明は、両国に共通するものと理解していただいてよい。収容されていた人自身の報告によるものだから、信頼はできよう。それによると、政治犯は獄中での集団的生活が許可されている。演劇集団をつくり、集団的討論を通してシナリオを創作することも、獄内公演に際しては楽器を持ち込んで伴奏し、大きな壁画を描いて背景とすることも認められている。党派によっては、獄壁に大きな字でスローガンを描いている場合もある。集団で料理をつくることも認められているから、誰かの誕生日にはパーティ料理をつくり、みんなで楽器演奏や歌を楽しみながら、祝うことも可能だ。

これが、過酷な独裁政治が行なわれていた時代の、一部の国々での獄中の現実だった。もちろん、厳しい獄中処遇を行ない、政治犯に対する死刑執行を次々と行なっていた国家体制もあった。しかし、少なくとも、右にあげたような実例も存在した。ここには、人間存在に対する基本的な肯定感情があるように思える。仮に「罪」を犯した人がいたとして、その人が「自己回復」を図ることができるのは、どんな条件の下においてなのかと考えるうえでのおおらかさが感じられる。軍事独裁下にあってすら――という点が大事だ。

寄せられた死刑囚の作品に触発されて、何ごとかを思いついても、この国=日本では、即座に高く厚い壁に突き当たる。閉ざされた集団主義と強制力のある同調主義が支配するこの国で、この閉鎖性と同調圧力をどのように打破できるのか。課題は遠大だ。

「壁の高さ」に触れたので、唐突のようだが、「廃炉アクション福島原発四十年実行委員会」の武藤類子さんが、去る9月19日の「さよなら原発」6万人集会で行なった訴えの末尾の文言を引用して、この文章を終えたい。それは、この年が「3・11」の悲劇を迎えた年でもあって、私たちは否応なく、生命を見つめなおしながら「震災と死刑」(『年報・死刑廃止2011』総タイトル。インパクト出版会)が孕む問題の再考を迫られているからである。武藤さんは、相手側の高い壁に対抗する道に触れて、こう語った。

「真実は隠され、県民は核の実験材料にされ、棄てられたのだ。私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼。どうか福島を忘れないで。原発推進が垂直の壁ならば、限りなく横に広がり繋がり続けていくことが、私たちの力。その手のぬくもりを広げていきましょう。」

(10月18日記)

民族問題の発信支えた「フチ」たち――チャランケ:聞く・語る・考える


『北海道新聞』2011年10月11日夕刊道東(釧路・根室)版掲載

来年になると、釧路を離れて50年目だ。この50年間関東圏に暮らしながら、異なる民族同士がどんな関係で生きていくことができるかが大事な問題だと考えてきた。釧路時代に同じ小学校で学んだアイヌの友人と30年ぶりに再会したのは1980年代半ば、昨年亡くなったチカップ美恵子さんが起こした肖像権裁判を支援する集まりの場であった。その友人は、関東圏に住むアイヌ女性たちの「レラの会」に属しており、それ以来たびたび、文化伝承と親睦のために集まる彼女たちの場に同席させてもらった。

1992年は、植民地支配や先住民族という存在を作り出す世界的なきっかけとなったコロンブスの大航海から500年目を迎えた年だった。国連は翌年を国際先住民年と決め、日本でも先住者と植民者が従来の垣根を越えて出会う機会がさらに増えた。シャモ(和人)である私も、そのために自分なりに力を尽くした。その過程で、レラの会の人たちは、経済的自立のための、またいつでも自由に集うための場所を作りたいと思うようになった。協力を乞われた私も、他の和人の友人たちと共に拠点づくりに参加した。アイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)が東京・早稲田にできたのは1994年のことだった

外国のメディアは、日本よりも民族問題に敏感だ。いくつもの海外メディアがこの店の誕生を報じた。研修旅行で来日した米国の教師数十人(全員が黒人だった)が昼食を食べにきた。民族問題に関わっている人が来日すると、私はその人を必ずこの店に招いた。歌や踊り、楽器演奏の交歓が、客とお店のスタッフの間で頻繁に行なわれた。もちろん、関東圏のアイヌウタリ(同胞)が、足繁く通う店でもあった。

いくつかの事情が重なって、レラ・チセは営業16年間で閉店した。創業メンバーの一人であった宇佐タミエさん(文字通りの働き者であった彼女も今夏亡くなった)の娘、照代さんはこの閉店を悲しみ、今春、新大久保に自力でアイヌ料理の店「ハルコロ」を開店した(9月13日付本欄)。ハルコロの席に座って、キトピロ(ギョウジャニンニク)やイモシト(イモ団子)などを食べていると、春採湖、チャランケチャシ、月見坂など釧路のいくつもの風景が目に浮かぶ。これはすべて、小学校時代のアイヌの旧友(因みに、彼女は宇佐タミエさんの妹、田中きよみさんだ)と30年ぶりに再会したことから始まったのだと思うと、人と人の出会いの大切さが身に染みる。

私は編集者として、また物書きとして、民族や植民地支配に関わる書物をたくさん作り、自らも発言してきた。それを支える現実感はどこにあったのかと問われるなら、レラの会の年長や同輩のフチ(おばさん、おばあさん)たちとの会話にあった、としか言いようがない。アイヌの人たちが働き、発言する場が増えることによって、和人の認識が変わり、両者の関係のあり方も変わる。それが確信できた歳月だった。出会いの力は捨てたものではない。

おおた・まさくに 1943年釧路市生まれ。62年に釧路湖陵高校卒業後、東京外語大ロシア科に進学。編集者の傍ら、自らも民族問題・南北問題をはじめ内外の政治・社会・歴史・文化の諸問題についての執筆・発言を続けている。著書に「日本ナショナリズム解体新書」(現代企画室)「拉致異論」(河出文庫)「暴力批判論」(太田出版)などがある。

太田昌国の夢は夜ひらく[19]「占拠せよ」(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか


反天皇制運動『モンスター』21号(2011年10月11日発行)掲載

「ウォール街を占拠せよ!」のスローガンの下、ニューヨークで「格差NO」の動きが始まったのは9月17日のことだった。それは10年目の「9・11」から間もないころだったので、私の関心はどうしても、次の点に集中した。すなわち、経済格差や高い失業率に異議を唱えてウォール街に集まっている人びとは、米国のこの現状と、自国が10年間にわたって続けてきているアフガニスタンとイラクに対する戦争とを、いかに結びつけているのだろうか。

10月6日になって、ワシントンのホワイトハウスの近くで開かれた反戦集会には、「反ウォール街」を掲げる人びとも参加して、「アフガニスタンではなくウォール街を占拠せよ!」とのスローガンを叫んだという。当然のことながら、「強欲なウォール街」の論理に基づく戦争に対して「反戦」の課題を立てる一群の人びとが存在しているのであろう。

では「占拠せよ!」はどうだろう? それは、もうひとつのスローガン「われわれは99%だ」と共に、わかりやすく、人目を惹きつける語句である。しかし、私のように生活する言語としてではなく、文学や歴史を解釈する言語として一定の範囲内で英語に触れてきた立場からすると、occupy やoccupationには、どこか心騒ぐものがある。繰り返し言うが、生活言語として英語を使っているわけではない私にとっては、この単語は、米国が近現代史のなかで、世界中で行なってきた「軍隊による占領」をしか意味しないからである。侵略戦争を仕掛けて勝利した後の数々の「占領」。日本との帝国主義間戦争に勝利した後の「占領」。21世紀の現在なおアフガニスタンとイラクで行なってきている「占領」。この単語にも孕まれているのであろう豊富な語感を感じとることができない私は、そのゆえにであろうか、小さなこだわりを感じてきた。

その違和感を共有している文章に出会った。カナダで “rabble.ca” と題したウェブマガジンが出ている(http://rabble.ca)。「無秩序な群衆、やじうま連、暴徒」と「撹拌棒」の二つの意味がある単語だが、前者の意味で使われているのだろうか。2001年4月、ケベック市で開かれる米州サミットに抗議して、「進歩的なジャーナリスト、作家、芸術家、アクティビスト」が集まって「他では容易に入手できない」情報の伝達のために創刊したという。読み応えがあって、ときどき目を通している。その10月1日号に、ジェシカ・イェーという人物が「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」と題する文章を寄せている。彼女が冒頭で端的に言うのは以下のことである。「合州国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領はもう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はHaudenosaunee 民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことが言及されることを、私たちは待ち望んでいるのだ。」

北米先住民族の末裔であるらしいジェシカと、蝦夷地に対するコロン(植民者)の末裔である私とでは、歴史的に位置している立場が異なる。だが、私はジェシカの問題意識を共有する。彼女は「アメリカを民衆のもとに取り戻せ」とデモ参加者が叫ぶとき、その「民衆」とは誰なのか、先住民族はあらかじめ排除されているのではないか、愛国的な帝国主義言語に絡め捕られて先住民族の存在を忘却しているのではないか、と問うている。歴代の進歩主義者や左翼が、先住民族の「同意」を得ることもないままに「解放の戦略」を提示し続けてきたことに対する、抜きがたい不信を抱いている。彼女も資本主義とグローバリゼーションに終止符を打つことには賛成だが、ウォール街で立ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するばかりで、植民地主義に関する自らの「共犯性と責任」に無自覚であることに(しかも、それがあまりにも長いあいだ続いていることに)苛立っている。

これは、ウォール街での新たな胎動に冷水を浴びせる言動ではない。歴史的な過去の累積の上に現在がある以上、そこで不可避的に生まれた異なる民族同士の、支配・被支配の関係性に目を瞑るな、という呼びかけである。「継続する植民地主義」という問題意識がそこから生まれるのである。(10月8日記)

「コロンブス500年」史観への道 


ルネサンス研究所基幹研究会(2011年9月28日、東京・文京区)で行なった報告

Ⅰ 1960年前後の政治・社会・思想状況――極私的に

社会主義、その最初の「祖国」としてのソ連に対する牧歌的な憧れ。19世紀ロシア文学の圧倒的な存在感と20世紀社会革命の先駆性――この二つが実現している社会。

それに引き続く中国革命に対する、同じくロマンチックな思い入れ。

1953 スターリンの死の報道から、何となく感じ取ったソ連社会の「暗さ」

釧路に住んでいたので、根室沖でときどき起こる、ソ連監視船による日本の零細漁民の船舶の拿捕・抑留・銃撃事件の「重さ」

社会主義に感じる「暗さ」や疑問をかき消してくれた要素

1)在日アメリカ帝国軍の横暴なふるまい――沖縄。基地拡張。薬莢を拾う農婦を米兵が面白半分に射殺する事件など

2)言論――清水幾太郎、野々村一雄、岡倉古志郎、江口朴郎、井上清、蝋山芳郎、甲斐静馬、大内兵衛、上原専禄、坂本徳松、五味川純平、安部公房、野間宏、開高健、大江健三郎、エドガー・スノー、アンナ・ルイーズ・ストロング、アンリ・リケット、そのほか大勢の左翼あるいは進歩的文化人・知識人。

もっとも悲劇的かつ戯画的な形で現われた北朝鮮に関する礼賛的な報道ルポルタージュ→それが、ソ連・東欧論や中国論(後者の場合は、文革期の特異な受容のされ方も考慮しなければならないが)とも異なって特徴的なことは、無批判的な礼賛傾向が寺尾五郎(1959~61)の時代に限られるのではなく、安江良介(留保付き)+美濃部亮吉(1971)、松本昌次(1975)、小田実(1977~78)、よど号(70~現在)の時代まで続いていることである。

私は、すべてが見えてしまった後世に生きる者の特権的な立場から、これらの人びとの言動を一方的に批判する立場を取るつもりはないが、同時代的にどの程度の「情報」に接することができたかどうかの問題は残るにせよ、

ソ連でいえば、1956年の「スターリン批判」と「ハンガリー革命」「ポーランド反乱」、中国でいえば、1956年の「百花斉放・百家争鳴」から、翌年に一転して発動される「反右派闘争」

北朝鮮でいえば、在日朝鮮人・関貴星の訪朝記『楽園の夢破れて』(1961)で綴られている内容およびその後漏れ伝えられてきてはいた金日成独裁体制の確立の過程、在日朝鮮総聯の動向にまつわるさまざまな情報――――――――――――――――

などの事実を、自らの論理と倫理の中に組み入れることなく牧歌的な社会主義賛美論を展開していた論者の場合には、状況論的には、その言論責任が問われると考える。同時代にも、劇作家・三好十郎のように、I・F・ストーンの『秘史朝鮮戦争』(新評論社、1952)の帯に寄せた清水幾太郎の推薦文「朝鮮戦争の勃発について、最初に仕掛けたのが北朝鮮だと言われていることについて何かが隠されていると考えてきたが、この本で目が覚めた。やはり思った通りだった。仕掛けたのは、米国側、南朝鮮側である」(との趣旨)に対して疑問を発した人物は存在していた。三好は、戦争が起こった時に、調査・検討・論議する以前に悪いのは資本主義国だとする予断からは自由な人であった。ストーンは、この戦争は米国側が仕掛けたことを恣意的な資料操作によって論じているが、事実は逆かもしれない、少なくともこの本は米国有罪の立証として十分ではないと三好は考えたのである。井上清が1966年になっても、「アメリカが日本を基地として朝鮮戦争を開始した」(『日本の歴史』下、岩波新書)と書いていたのとは好対照である。因みに、三好はこの時、「日本を占領したのがソ連軍だったならば、ソ連が設ける軍事基地にも、要請する再軍備にも、発動する戦争にも、清水は反対しなかったのではないか」と問うていること、この問いに対して清水は沈黙を守ったが、小田切秀雄、大西巨人、武井昭夫、中野重治が代行して三好批判を展開したこと、北朝鮮による武力侵攻であったことを前提としてこれをマルクス主義の原義に基づいて批判したのは荒畑寒村であったこと、には触れておきたい。特に第1項については、スターリンの北海道占領計画では私の生地:釧路はソ連軍占領地域に入っており、実際にそうであったならば、という想定がきわめてリアルであったことにも【私が三好の論に接したのは同時代的にではなかった。80~90年代になってからであるが】。

そのほか、フルシチョフによるスターリン批判を深めた埴谷雄高、(左翼)文学者の戦争責任論を展開した吉本隆明、60年安保闘争の総括をめぐる吉本・谷川雁・黒田寛一・藤田省三などの言論に触れる過程で、ソ連社会及びこの社会について無批判的な礼賛を続けてきていた内外の人びとが指し示している先に「未来」を見る思考は、ほぼ消えていたと思える。それでも、60年代前半から紹介され始めたトロツキー文献、菊池昌典のスターリン時代研究、ダニエルズの『ロシア共産党党内闘争史』、レーニン文献などを読み漁る気力はあったが、それは、いわば私にとっては「ロシア革命敗北の過程」を追認するような作業であったような気がする。したがって、「反帝反スタ」は指針にはなり得ず、レーニンとトロツキーの援用によってスターリンを批判する方法にも、諸悪の根源は「党」の絶対化にあったのだから、違うのではないかという違和感を持ち続けた。党派性に縛られていないロシア革命論として、松田道雄『ロシアの革命』(河出書房、1970)に親しんだ。

Ⅱ ソ連が唯一絶対の道だとは思えなくなった同時代に、世界では何が起こっていたか

現実の政治過程が喚起したものとして

1959 キューバ革命

1960 フランス領を中心にアフリカ諸国17ヵ国の独立。韓国4月革命。トルコ激動

1961 コンゴでルムンバ虐殺→背後にいたベルギー国家権力。キューバに反革命軍侵攻

1962 キューバ・ミサイル危機。アルジェリア独立革命

1964 米州機構、キューバ制裁決議。トンキン湾事件。ブラジルで軍事クーデタ→「第2のキューバ」を許さないとする米帝国の意志の現われ

1965 米軍、北ベトナム爆撃(北爆)開始。マルコムX暗殺。南ベトナム民族解放戦線が全世界に「軍事援助・物質的援助・義勇軍派遣」を要請。インドネシア9・30。アルジェリア・クーデタでベン・ベラ失脚

1966 中国文化大革命始まる

思想・文学からの提起として

1960 ヒューバーマン+スウィージー『キューバ:一つの革命の解剖』(岩波新書)

1964 堀田善衛+鈴木道彦「アジア。アフリカにおける文化の問題」(岩波講座『現代』10所収)→フランツ・ファノン『飢えたる者』を初紹介

1964 サルトル「黒いオルフェ」(原テキスト1948、人文書院『シチュアシオンⅢ』所収)→レオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』序文。マルチニックのエメ・セゼールにも触れて、ネグリチュード(黒人性)の問題に言及

1965 サルトル「飢えたる者」序文(人文書院『シチュアシオンⅤ』所収)→ファノン

論、「パトリス・ルムンバの政治思想」も収録

1966 堀田善衛『キューバ紀行』(岩波新書)

1967 チェ・ゲバラ4・16メッセージ「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」

1967 エンツェンスベルガー「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」(原書1967、晶文社『何よりだめなドイツ』所収)→ベトナムの現実に、5世紀弱前のスペインによるアメリカ大陸征服を弾劾したカトリック僧ラス・カサスの言動を重ねる

1968 堀田善衛「第三世界の栄光と悲惨について」(平凡社・現代人の思想17『民族の独立』解説)→ラス・カサス論

1968 エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』刊行(原書1944、理論社)

1969~70 フランツ・ファノン『黒い皮膚、白い仮面』(原書1952)『地に呪われたる者』(原書1961)『アフリカ革命に向かって』(原書1964、いずれも、みすず書房)

1971 クワメ・エンクルマ『新植民地主義』(原書1964、理論社)

1976 ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』刊行(原書1552、岩波文庫)

1978 エリック・ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史1492~1969』ⅠⅡ刊行(原書1970、岩波書店)

1986 エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地――ラテンアメリカ五百年』(原書1971、新評論、現在藤原書店)

そこから浮かび上がってきたこと

1)世界近現代史においてカリブ海域が強いられた歴史的特殊性

15世紀末、キューバ島の100万人をはじめ一定数の先住者が暮らしていたが、コロンブス以降に行なわれたヨーロッパ人による「征服事業」(=虐殺・強姦・強制労働・奴隷化・暴行・土地の簒奪など)のために、そこは一世紀後には「死の島」と化した。すなわち、先住民は、ほぼ死に絶えた←ラス・カサスの内部告発。それに対する4世紀半後のエンツェンスベルガーや堀田善衛の応答。

そこへ、アフリカ西海岸地域からの、黒人青年の強制連行が始まった←ラス・カサスの加担。奴隷貿易(「黒い積荷」)によるメトロポリスの繁栄←エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』が被植民地(トリニダ・トバゴ)の留学生によって書かれ、それを英国史学会が長年無視した根拠。

三角貿易の成立→「奴隷貿易は本源的蓄積のリヴァプール的方法をなすものである。」「一般に、ヨーロッパでの賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での見え見えの奴隷制を脚台として必要とした。」(マルクス)

2)外部に強いられてきた歴史的役割を、自らのものに奪還していく過程としてのキューバ革命

19世紀前半、スペインとポルトガルから独立を遂げた後の米州地域。それは、米州に位置する特殊性をモンロー宣言で身勝手に活用し、もともと大西洋に面し、19世紀半ばの米・メキシコ戦争によってカリフォルニアを奪って太平洋への出口を獲得することで、地理的優位性を備えた、稀に見る世界帝国として成り上がっていく米国の支配権拡大に直面することになる。

19世紀前半に独立した他の米州地域に比較して、キューバの独立は遅れた。19世紀末に遅れてやってきた独立戦争はフィリピンと同時期に高揚したが、機に乗じた米国の参入により、キューバとフィリピン民衆の独立の戦いは米西戦争へと性格を変えた。1898→1902年の経緯。グアンタナモ米軍基地の存在。

それからおよそ半世紀後に起きたキューバ革命。

「党なき」革命=キューバの道

収奪された大地=「第三世界」復権の象徴

ソ連型ではない、新しい社会主義の模索(1961.4 社会主義宣言)→ソ連型の強制・導入を画する勢力と、それに抵抗するチェ・ゲバラらの論争。

結果的に、1960年代のキューバは、それが持つ本来の力量以上の課題を自ら担い、また、外部世界もそれを期待した。

3)ラテンアメリカとアフリカの歴史的・現代的交錯

ネグリチュードを介しての、文学的な交錯。

ファノンやエンクルマがもった「アフリカ革命」の展望。

チェ・ゲバラが企図したアフリカ解放闘争への加担。

4)民族・植民地問題に関する同時代的感覚

M・N・ロイ→コミンテルン第2回(1920)、第3回(21)、第4回(22)大会での演説

ホー・チミン→コミンテルン第5回(24)大会演説

(いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義』(社会評論社、1980)

スルタン・ガリエフ→ヨーロッパへの革命の波及に期待をかけたボリシェヴィキ指導部に対し、東方での革命に希望をもち、植民地インターナショナルの結成を呼びかけた。

(山内昌之編訳『史料 スルタンガリエフの夢と現実』(東京大学出版会、1998)

ホセ・カルロス・マリアテギ→先住民の隷属状態に注目して、先駆的な中枢・周辺理論を展開。

(『ペルーの現実解釈のための七試論』、柘植書房、1988。『インディアスと西洋の狭間で』、現代企画室、1999)

Ⅲ 1992年=コロンブス500年を迎えて

1989~1991 ソ連・東欧圏社会主義体制の崩壊→「グローバリゼーションの時代へ」

と資本主義礼賛者たちは呼号。市場原理に基づいた地球の「一体化」「全球化」の時代→「アメリカの発見、アフリカの回航は、頭をもたげてきたブルジョア階級に新しい領域を作りだした。東インドとシナの市場、アメリカへの植民、諸植民地との貿易、交換手段やまた総じて商品の増大は、商業、航海、工業にこれまで知られなかったような飛躍をもたらし、」「大工業は、すでにアメリカの発見によって準備されていた世界市場を作りあげた。」(『共産主義者宣言』第一章)

1992 「コロンブスの五百年めが1962年だったなら、その記念は、コロンブスのアメリカ大陸「解放」を祝うものにみであったろう。1992年には、「解放」を祝う反応一色というわけにはいかなかった。」(ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』、1994、現代企画室)

スペインによる祝賀ムードを警戒し、これに対抗するために、米州の民衆運動は「先住民、黒人の民衆的抵抗の五百年」運動を展開した。この動きは、期せずして、全世界に波及し、さまざまな地域で、コロンブスの大航海とアメリカ大陸到達の時代に始まった近代(それは、植民地主義の始まり、を意味した)を問い直す契機となった。(東京では2日間にわたって「500年後のコロンブス裁判」開催)

1994 メキシコ先住民族「サパティスタ民族解放軍」の蜂起→北米自由貿易協定の発効に抗議した蜂起であったことから、その後の反グローバリズム運動の世界的な高揚に多大な影響を与え続けている。また、都市から最貧地域への工作(山村工作隊)に赴いた都市インテリゲンツィアのマルクス主義と、農村部先住民族がもつ独自の歴史哲学・人間観・自然観が融合した地点に生まれた独特の言葉遣い、情宣のためのインターネットの駆使、武装蜂起であったにもかかわらず軍事至上主義に陥らず政府との交渉でみせた成熟した政治思想など、従来の政治・社会運動の内省を促す示唆に満ちている。(サパティスタ民族解放軍『もう、たくさんだ!』、現代企画室、1995。マルコス副指令『ここは世界の片隅なのか』、現代企画室、2002 など多数)

2001 「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」開催(南アフリカ・ダーバン、8月31日~9月8日)(永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』、青木書店、2009)

2001.9.11 絶頂のグローバリゼーションへの絶望的な抵抗

2001.10  米軍、アフガニスタンへ一方的な攻撃開始

米国政府・軍部で囁かれた「アフガニスタンのような、国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまった方がやりやすい」。

同時期の日本の政治・社会状況を見ても

「継続する植民地主義」という問題意識の重要性

「どう向き合う? 原発・震災・安保・沖縄」


「9条改憲阻止の会」合宿での講演(2011年8月27日、東京・本郷にて)

『情況』2011年10・11月合併号(2011年10月1日発行、情況社)に掲載

いただいたタイトルは「どう向き合う? 原発・震災・安保・沖縄」ということでした。3・11からまもなくまる6カ月が経つわけですけれども、その間に、心に残る様々な言葉とかあるいは忘れることのできない現実とか、そういうものをたくさん目にしたり耳にしたりしてきました。その中から、ごく最近の、二つのことがら、すなわち一つの言葉と一つの現実をきっかけにして今日の問題を考えたいと思います。一つ目は、8月10日付けの毎日新聞夕刊に出たアンゲロプロス監督の言葉です。彼は「旅芸人の記録」など非常にすぐれた映画を作ってきているギリシャの映画監督ですが、毎日新聞記者のインタビューを受けていました。短いものだったのですが、そこでは、三陸の震災と福島の原発事故の現実を目撃した後の気持を語っておりました。ご存知のように、現在ギリシャはEUの経済危機を引き起こしている一つの要因として、国際金融市場によって低い格付けをされています。それは、イタリアやスペインも抱えている問題ですから、ドイツのメルケルなどに言わせれば、地中海の人間はもう少ししっかり働けという、そういうふうに名指しされている国であるわけですけども、アンゲロプロスはそのギリシャの現実に関わって、こう言うのです。自分たちはあの60年代から70年代にかけての軍事政権のもとにあってさえ、なにか、いつかはもっとよい時代を迎えることができるということを確信することができた。ところが、今は、次の物語が全く見えない。未来が見えない分、最悪の時代だという、そういうことを語っていたわけですね。これは、あえて言えば、私自身がこの間感じていることと重なります。私の場合は、10年前の9・11以降の10年間の世界情勢、それに随伴した日本の情勢を見ながら感じてきたことで、そのような意味では非常に共鳴するものを感じました。ですから、あえて、まず触れておきたい言葉です。かつての武装闘争とは異なる形を取るだろうが、何かが爆発せずにはおかないだろう、という気持ちも私はアンゲロプロスと共有しています。

もう一つは、福島県南相馬市小高区にある、埴谷雄高と島尾敏雄の名前をとった記念文学資料館のことです。埴谷さんが生まれたのは台湾ですし、島尾さんは横浜ですから、生地という意味では違うわけですが、二人とも本籍地をここに持っています。二人は、生前仲がよかったから、一緒に相馬を訪ねたりしているわけですね。ですから、その後、現在に至るまで、二人の名前をとった記念文学資料館が作られていて、埴谷さんの書き込みがある蔵書などもそこに収められているわけです。しかし、そこは、南相馬市小高区ですから、原発事故のために立ち入り禁止区域になっています。震災の影響もありますし、中にある様々な展示物を持ち出すことが出来ない状態になっているわけですね。私は埴谷さんにはいろいろな意味で、直接知りあうというかたちではなくて、本を通して文学的にして思想的な影響を受けた人間だと自覚しています。ついにボルシェヴィズムの道に足を踏み入れず、思想的にアナキズムに親しい感情を持ち続けてきたのは、埴谷さんの影響だと思っています。島尾さんも戦後文学の中では不可欠な人物ですし、歴史・文化論的には「ヤポネシア」論の提起が忘れ難い仕事でした。ですから、震災と原発事故の一つの結果として、彼らの記念館がこういう状況になっているということに関わっては、いろいろと思いが深いものがあるわけですね。今月末まで池袋のジュンク堂書店では、この文学館を原発事故から救うために小さな展示即売会が行なわれています。その企画をした書店員の企図を代弁するなら、福島県の一部地域は行政によって立ち入り禁止区域とされ、今後さらに拡大されるだろう状況にあるわけですけれども。思想や文学の問題領域には「立ち入り禁止区域」というのはないだろう、あるべきではないだろうという立場から、どこまで物を言い続けることができるのか。そういう課題を考えている次第です。

以上を前置きにして中身に入っていきます。世界が大きく変わった、自分たちが生きている現代世界が大きく変わったという指標は、時期的にいくつか取り出すことが出来ると思いますが、時間的に間近な過去を振り返れば、あと2週間たらずで10周年を迎える9・11、ニューヨークのワールド・トレード・センターとワシントン郊外のペンタゴンに対して、ハイジャック機が突入していった、あの事件以降の10年間ということで、いろいろな問題を考えることが出来るだろうと思います。3・11とあえて対比的に9・11が私たちに持った意味を考えてみましょう。

そのちょうど10年前に、つまり1991年の12月、ソ連邦は解体しました。そして、当時は、父親ブッシュが米国大統領であった時代ですが、これで、ソ連、すなわち悪魔のようなソ連共産主義が敗北した。いよいよ資本主義というシステムが唯一、人間の理性にも本能にもかなった社会システムであることが実証された――この言葉をきっかけにして、グローバリゼーションという言葉が世界的に深く浸透していきました。市場原理が唯一絶対の真理である。その中で競争し合って敗北するものは仕方がない。勝利するものの繁栄によって世界全体の生活水準が上がっていけばそれでよい――そういう考え方が全面的に非常に大きな浸透力をもって、世界に及び始めた。そのような時代が約10年間続いた後、2001年9月11日にあの事件が起ったわけです。私は、あの作戦それ自体について共感をもつとか賛成するとかいう気持ちは、当時も今もありません。様々な疑問と批判を持つわけですけれども、しかし、一方で考えることは、資本主義、現代資本主義がグローバリゼーションというかたちで勝利を謳歌する中で、いったいこの世界の中にどんなマイナスの現実をもたらしているかということに関して、その担い手たちはまったく無頓着であった。なんら顧みることはなかった。そういうことに対する一つの絶望的な抵抗の表現であったとは思うわけです。ですから、もし、当時の米国社会が、あるいは米国の為政者が、あの9・11に至る悲劇を一人占めにするのではなくて、ほかならぬ米国自身が20世紀の1世紀を通じて世界各地で行って来た政治的・経済的・軍事的な振る舞いが、様々な9・11を世界各地に生みだしてきたこと、つまり、3千人規模の死者を生みだすような軍事作戦は、米国社会の近現代史を振り返ると枚挙にいとまがないぐらいあるわけです。そういう意味では、あの悲劇を、かれらが独占するわけにはいかない。歴史を冷静に振り返る視線があれば、このようなことは出来ないというふうに考えました。あの時代に戻れば、ソ連の崩壊によってグローバリゼーションの勝利を謳歌してきた過去10年間を振り返ると、別な道を探すことはできた。しかし、ブッシュはそうしなかったわけですね。それを支える米国世論も別な道を選ばなかった。そして、アフガニスタン・イラクに対する攻撃が始まり、10年後の現在、今のような惨憺たる状況があるわけです。米国の立場から見た戦争のあり方としても散々なものであるし、もちろんアフガニスタンやイラクの民衆の側からすれば、それはあまりにもひどい殺戮であるという現実があるわけです。

私は、この10年間の事態を見ながら、先程の問題意識に戻れば、それでもなおかつ、このような悲劇的な現実を見た上でもなおかつ、それは人間がなしていることである。現実的な自分の意思で選んでいる道であるから、それを阻止する、あるいは、正す、変革する、そういう方法はある。そういう意味では、この現実は、社会運動あるいは政治運動の中で、我々の場所から言えば、我々が展開しうる社会運動・政治運動の中で、このような悲劇的なあり方を変革することは十分出来るだろうという確信は捨てていない、あるいは捨てたくないなと思ってきました。

それとの対比で言えば、今年3月11日に三陸沖で発生した震災とその大津波、それにともなって起き、今なお終息の見通しがまったく誰にもついていない福島原発事故を見ながら、これはまた、ちょっと違うな。9・11で起きた社会的・政治的レベルで変革が可能である対象、そのような事件とは違った性格を帯びていると思うわけです。これは、私たちが、あるいは個人としての私がもってきた自然観に関わっての自己反省とか自己批判をも迫られるような事態であるわけです。地震や津波という、そういう現象を含めて、自然の現象であるという、そのことを前提とした自然との付き合い方を再考しなければならない。そういう契機に今回の悲劇的事態はなっていかなければと思います。そして原発について言えば、事故が起きた場合それがもたらす結果について人の力ではなすすべがないことが明らかになった。それは、武器としての核兵器に関しても、あるいは原子力の平和利用というふうに謳われてきた原子力発電所に関しても、そのような恐るべき結果をもたらすものであるということが明らかになった。そのことの警鐘を鳴らす人と運動は以前からありましたが、不幸にして、それが現実となったということです。もちろん、地震や津波は自然そのものによるものであり、兵器としての核や原子力発電所というのは人工物ですから、生まれてくるレベルは違いますけれども、いずれも、とにかく、人が、人為によって、自分たちの力によって制御しうる範囲をこえたものであるということが歴然としている。

この6ヵ月間の事態の中で、私が何度も思い浮かべたのは、ブリューゲルの有名な絵です。怪魚というべき顔をもつ、口を開けた大きな魚の中に、小さな魚がどんどん呑みこまれていっているあの絵を思い出すわけですね。つまり、自然や原子力というものの関係で言えば、私たち人間の社会というのは、自然という大きな魚、原子力という大きな魚になすすべもなく呑みこまれている。そういう図といいますか、構造を思い浮かべるしかなかった。それは、場合によっては、ある種の無力感というものが、そのままでいけば忍び込みうる、そういう要素もあるわけですけれども、必ずしも私自身が無力感に打ちひしがれているという意味ではなくて、どうしてもそのような側面も含めて考えなければ今のこの事態に立ちうちすることが出来ないのではないか。ヒューマンスケールを超えてしまった、制御できなくなってしまった自然や人工物としての原子力エネルギーのすさまじさというものをそのようなかたちで感じるということです。この時、それでは、いったい今後どうすればいいのだろうかという、そういう問題につながっていくのだろうと思います。ですから、これは、9・11のように、なかなか、今までの論理的な枠組みの中で、社会的なあるいは政治的な運動領域の中で、なんとか変革対象である、この現実を変えることが出来るというふうに主張するには、少し違った局面の問題がある。この自然の猛威、原子力エネルギーの制御不可能な事態の中からは、自分たち人間との関係ではこのように見えてしまうところがあるということです。ですから、だから、諦めるという結論ではもちろんなくて、そのように人の心を追い込んでしまうものとの関係の中で、今後、その二つの問題、自然と原子力エネルギー・核という問題に関して、それでもなお対していく道がいかにあるのか、そういうこととして考えなければならないだろうという問題意識です。

次に設定されましたのは、「何が明らかになっているか」という問題でした。これは、国家の冷酷さ・非情さが露出してきたという、端的に言って、こういう問題だと思います。「国家」というのは必ずしもその時々の政府とイコールというふうにはなりませんが、この場合は一応現政府というふうに考えた上で、なお最終的には、どんな政府であろうと、国家という権力を成り立たせていること自体が抱えてしまう必然的な問題だというところまで、射程は最終的には伸ばしていかないといけないと思います。政府の冷酷さは、今回の様々な震災報道・原発報道の中でも、露呈しているわけが、それでもなお、圧倒的多数の人々は、なぜか国民国家なるものへのゆるぎない信頼を持って生きているというのが普通です。この日本社会をとってみても、何に価値を置いて生きていくかということに関わって、非和解的な対立がある人間同士が生きているわけですし、どうしようもないナショナリストもいるし、エセ左翼もいるし、いろいろな存在があるわけですね。それらをまとめて、国家社会の中でひとまとめにして、社会が大事である、国家が大事である、日本国家はすばらしいなどということが言えるはずがないというのが、常日頃の私の基本的な考え方です。国家を強調したり、日本社会をことさらにほめそやしたりする言動には警戒する。どんな国家であろうと常に違和感を持つし批判を持つわけですけども。今回もまた、世界の人々は、この大震災を前にした日本人の冷静・沈着なことに賞賛の言葉を送っているというようなことが、震災直後には、メディア上に溢れ出ました。われわれは、そのことを誇りにしていいというようなことをわざわざ言うようなニュースキャスターや評論家たちも大勢いました。しかし、よく言われるように、個別具体的にいくつかの地震でもハリケーンでもいいのですが、様々な震災に襲われている世界各地の人々がいて、その直後の状況を少しでも知っていれば、民衆的な知恵としては、そのような大多数を襲う不幸があった時に、相互扶助の精神が出てきたり、連帯・協働の精神で或る地域社会の復興が企てられるということは、世界のどこをとってもごく自然なあり方としてことであるわけであって、ことさら日本の国民なるものが、落ち着いたり、沈着であって、助け合いの精神に富んでいるわけではないですね。それは、世界のどこをとっても等価である。そういう基本的な考え方からすれば、そのような言論操作そのものが非常に不愉快であったわけです。それはそれとして、ともかく、この5ヵ月半目立つのは、政府というものが、いかに被災地に対して、また福島原発の事故に対する対応においていかにこれもまた無為無策であるか、ということです。そして、意図的な安全情報を垂れ流すことによって、人々の生命を脅かす危機を永続化させている。こういう現実が、この5ヵ月半の政府および企業としての東電、それから専門家たち、米倉を先頭とする経団連の連中たちの言葉、そういうのに全て現われているということだと思います。これほど冷たくて非情な言葉を、こいつらは今にいたっても吐き続けることが出来るのかというぐらいに、今回の事態を前になんら心も動かされていない様子に満ちた言葉が、居直りに満ちた言葉が、この連中からは聞かれました。私は日ごろから、この連中の言動はそれなりに冷静に見聞してきたつもりで、何の幻想も抱いてこなかったのですけれども、それでもここまでひどいか、ということを痛感しました。国家というものは、64年前までの日本国家がそうであったように、必要とあれば、他民族の地を侵略してでも戦争を行い、他国民衆・兵士の殺戮を自国兵士に命じ、帰ってきたら軍人恩給を与えて手厚く保護する、そのような意思を示すものであるということはわかっていましたが、このような日常的な空間の中で――被災と原発事故というのは極めて異常な事態ですけども――日本で起こっている一つの事態に対して、冷酷・非情な政策しか展開できないものなのか。国家という問題を考える上で、私は、今回改めて付け加えざるを得なくなった一つの認識であると思います。国家というものは、普通、例えば、私個人では、あるいはオウム真理教を含めた宗教集団には、あるいは様々な政治的な小集団にも、認められていない殺人の権利を独占しているところがあります。それは先程ふれた戦争という行為を発動することによって自国兵士に他国での兵士と民衆の殺戮を命ずることが出来る。「出来る」というのは括弧つきです。日本のように死刑制度が存在している国では、担当の検事や刑務官を通じて、死刑囚の絞首刑を命ずることが「出来る」。なぜ国家がこのようなかたちで殺人行為を犯しながら、個人や小集団のようには処罰されないのかというのが、国家というものが持つ秘密の鍵だというふうに思ってきており、国家なる存在への批判の鍵はその点だというふうにこの間考えてきました。しかし、先程から言っているように、日常的なこの時間・空間の中でも、国家は無為無策によって人を死に追いやることができる。それが今の震災対策や原発事故対策における無能性だというふうに思うわけです。そのことを痛感することによって、国家というもの、それを時々において代行する形で成立している政府なるものが持つ政治権力の問題、それについてもう少し深めたところで考えなければならないのだということを痛感しました。

国家なるものへの無前提な信頼、それは、異論を持つ者の意図的な排除という形で機能してきました。日本社会は、同調性、同調への強制力が強い社会です。しかし、今度こそそれとは異なる社会へ向かっての転機にしたい。震災被災者と原発事故被害者に対する迅速かつ的確な政策を放棄し、犠牲を拡大しつつあるという現実に、国家=政府の本質を見い出すという思考・態度が、今度こそ生まれるのではないか、と夢想するのです。

今まで述べてきたのは、主に国内における被災地と放射能汚染地域に対する政策の問題ですが、これと表裏一体の関係で、対外政策においてもまた、この日本国家の冷酷さ・非情さが現われる事態が、この5ヵ月半の間にも次々と起りました。一つは、日本政府も企業体としての東芝も計画を推進中ですが、米国との共同計画で核処分場をモンゴルに建設する計画があります。これは、去年の秋に始まったのですが、モンゴルに20年前まで駐屯していたソ連軍の駐屯跡地が核処分場として絶好の場所であるとするものです。この間にも、いったい何万年・何十万年ものあいだ密封保管しておけば安全なのかという論議が絶えることのない核処分場をモンゴルに作ろうとしている。東京には作れない原発を福島につくる、という構造とまったく同じです。これが一つです。もう一つは、民主党政権が「原子力ルネッサンス」の政策を当初から推進してきましたから、菅首相自らが乗り込んで、ベトナムとの原発建設交渉をまとめたり、ヨルダン、トルコ、その他いくつかの国々との原発協定を結んでいます。菅は、自分の国内においては脱原発だと語りつつ、国外に対する輸出に関しては一切態度を明らかにしなかった。その程度の脱原発方針であったということを見ておかなければならないだろうと思います。昨日の国会では、ヨルダンの原発協定推進が決議される寸前までいっていますが、社民党が招請した参考人の意見が、議員たちに強い印象を遺したといいます。つまり、ヨルダンがいかに原発建設に危険な場所であるかということを諄々と説くことによって今議会での議決は見送られました。そういう一定の揺り戻しもありますけれども、政府の方針としては見送っておらず、ここ数日中に成立するであろう民主党新総裁には、菅以上によい線が出るとはまったく思われない人間たちが立候補していますから、その問題はさらに今後とも続くと思います。

それから、今まで加盟していなかった原発事故賠償条約に参加することを政府は検討し始めました。これは、事故による外国からの「巨額」請求を防ぐためというのが魂胆ですから、今後もなお原発輸出を続行するという前提で、日本製品が国外の原発において事故を起こした場合に、その過大な、括弧つきの「過大な」請求をどのように防止するかという、そういう観点からの国際条約への加盟を考えているという、そういう体たらくですね。最後に、これは一番最初に生じた問題なのですが、東電は福島原発の集中廃棄物処理施設にたまった、かれらの言う「低レベル」汚染水を4月4日に海洋に投棄しました。その際、放射性物質の海洋投棄というのを禁止したロンドン条約という国際条約があるわけですが、これとの整合性を聞かれた時に、政府関係者は次のように答えたわけですね。ロンドン条約というものも、核実験を大っぴらに行い、あるいは原発をやめようとはしていない国々が集まって、国際的な妥協として出来ているものですから、それが出来のよい条約であるとは言えないわけですけれども、その妥協の産物としての条約は、もちろん、原発を肯定する立場からすれば、何らかの事故が起って陸上から海洋に汚染水を流すようなことはあり得ないものとして想定しているわけです。ですから、船から放射性物質を海に棄てる、飛行機から棄てる、そういうことを想定とした国際条約なものですから、陸上から汚染水を海洋に投棄すること自体は禁止していないというのが、その時の日本政府の詭弁でした。その程度の「非論理」によって、なにかやり過ごすことが出来るんだと思っているわけです。大気汚染にしても海洋汚染にしても、これは地球的な規模の問題ですから、それを、4月4日段階でどうしても迫られたとすれば、それは、近隣諸国と世界の人々に対する事態の詳細な説明なり謝罪なりを伴わなければならない、そのような大変な事態であったと、私は当時も考えました。ですから、このようなことを行なっておきながら、ロンドン条約に違反はしていない、陸上からの投棄は規制していないなどというふうに語るのは、まさに、法務省や外務省の官僚たちが考えそうな詭弁にほかならない。一体こういうもので通用すると信じてるんだろうかという不信感を持つわけです。

悲劇的な事故を前にして、生命体の安全確保という優先課題に取り組まない国家=政府が存在している。国内に対しても、国外に対しても、そうである。これが、私のいう、国家の冷酷さ・非情さの証しです。

主催者から最後の問いとして出されたのは、「今後何が問われるか」という問題でした。例えば、今回の事態と日米安保を重ね合わせて、沖縄の観点から考えた場合にどうなるのか。私は4月に仕事の関係から一週間ほど沖縄にいましたが、その時、例えば、「沖縄タイムス」なり「琉球新報」で読者からの投書欄とか、様々な新聞記事の中で目立ったのは、ヤマト、特に東京の人間たちが、いかに福島原発の事故の深刻さに右往左往しているか、という受け止め方でした。これは別に、冷ややかな目で見ている、冷たく見ているというのではなくて、自分たちの身近であのような事故が起ることによって、ようやく東京の人間たちは、このような事故の大変さを痛感し始めているようだ。そういう、ある意味で冷静な観察です。それは、福島を沖縄に置き換えた時に、はっきりします。ヤマトの人間、東京の人間、霞ヶ関、国会、あるいは私たちのような住民を含めて、東京の人間、ヤマトの人間たちは、沖縄にこれほどの米軍基地を押し付けておいて、そして、それでよしとしてきた。自分の場所から遠くにあるから、本当は存在しているのに見て見ぬふりをしていた。しかし、さすが、今回は、軍事基地の問題ではないけれども、福島原発はあまりにもかれらの身近で起こっているから、見て見ぬふりができなくて慌てふためいている、そういう意味での、ある種の冷静な観察です。このような観点があることを、私自身がそうですが、ここにおられるのが主に東京及び東京周辺にお住まいの方たちだということを前提として言いますけども、捉えておかなければならないのではないか。この問いの先にある問題を引き出し解決を図るのは、もっぱらヤマトの人間の課題です。

別な観点からも考えます。鳩山元首相は、かれらが言う普天間基地の「移転先」の問題をめぐって、辺野古という案が日米合意であったところへ、少なくても県外へ、できれば国外へというような案をもって登場しました。しかし、外務官僚とも防衛官僚とも、つまり「二プラス二」の日米会議に出ているような官僚たちと闘うことが出来ずに、昨年5月末に自滅していった。それに代わった菅は、野党時代の言い方、つまり地位協定を見直す、首相に就任したらすぐワシントンに詣でるようなことはしない、そのような言い方を一切やめて、日米合意を前提とした安保条約、安保同盟の強化を就任直後に語った。辺野古案も推し進めようとした。鳩山と菅のこの二つの態度を見ながら、それからそれに関わっての世論の動向を見ながら、ああ、戦後66年間の多数世論の動向はついに今回も変わらないまま来てしまったということを痛感しました。

つまり、鳩山の迷走に関しては世論は非常に厳しかった。鳩山は沖縄に対する同情の素振りをみせながら、なぜ言ったことを実行しないのかというかたちで、鳩山は不人気になった。辞める時の支持率は20パーセントを切っていた。しかし、それに代わって菅が日米同盟強化を謳いながら新しい首相に就任した時に、彼の支持率は60パーセントに上がっていた。鳩山と菅の態度は論外です。深刻なのは、二人を批判したり支えたりしている日本=ヤマト世論の大多数にとっても、沖縄に存在する米軍基地によってもたらされている現実はどうでもよくて、ただただその時のムードで鳩山をけなしたり菅を支持したりしているに過ぎないのだ、ということです。つまり、戦争は嫌だけども、中国や北朝鮮のような軍事的脅威となる存在が周辺にある以上、われわれは止むを得ず日米安保の枠組みの中で生きて行くしかないのだという基本的な日本世論の戦後の動向は、ここに至っても、変わっていないのです。55年体制下でも、社会党はついに3分の1以上の議席を獲得することが出来なかった。自民党が、世界でもまれなことに、選挙を通じての一党独裁を続けているような不思議な日本社会が出来てきた。そのことを改めて考えざるを得なかったわけです。

新川明さんは10年程前のインタビューで、憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ、それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国もよしとしてきた、というかたちでヤマトのあり方を批判して、政治のあり方とそれを支える世論の在り方を批判しています。この構造に改めて想いを及ぼさなければならないだろうと思います。先程から言っているように、原発事故にあわてる中枢部=東京を見つめる沖縄の視点ということを考えた場合に、それは、地方と中央ということになり、それはそのまま今回の原発事故に現われている福島と東京となり、あるいは三陸と東京となる。そういう視点を導入して、この問題の本質に迫らなければならないと思います。

最後に、まとめの言葉です。ここで出てくるのは、「継続する植民地主義」という問題意識であると思います。日本の近代の歴史を考える場合に、日清戦争による一つの「戦果」としての台湾領有、そこに近代日本最初の植民地支配の出発点を見るというのが左翼を含めた今までの公認の歴史観ですけども、私自身は、明治維新直後の1869年の蝦夷地の北海道としての糾合、その10年後の1879年のいわゆる「琉球処分」、この二つを近代日本の植民地支配の出発点として考えるべきであると考えてきました。その考え方は変わりませんが、例えば、戦後史の過程の中でも、あるいは近代化の過程の中での、「非」東京、今回は福島および三陸というかたちで、それが顕在化したわけですが、そのような本州内の地域との関係を、植民地構造分析そのものをそのままスライドさせるわけにはいきませんけれども、捉え返す必要があるだろう、と思います。そのような問題意識で分析することによって、中央=東京に権力が集中して、それが思うがままに社会構造全体が作られているという、日本社会の存立構造そのものに対する批判的な分析を行なわなければならないのではないか。この視点を、今回の悲劇的事態の中から得た感じがしています。終わります。