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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[98]「貧しい」現実を「豊かに」解き放つ想像力


『反天皇制運動Alert』第25号(通巻407号、2018年7月10日発行)掲載

10や50や100のように「数」として区切りのよい周年期を祝ったり、内省的に追憶したり、それに過剰に意味付与したりするのはおかしいと常々思ってはいる。だが、ロシア革命百年(1917~)、米騒動・シベリア干渉戦争百年(1918~)、三・一独立運動/五・四運動百年(1919~)、関東大震災・朝鮮人虐殺百年(1923~)という具合に、近代日本の歩みを顧みるうえで忘れ難い百周年期が打ち続くここ数年には、その歴史的な出来事自体はもとよりこれに続いた歴史過程の検証という視点に立つと、深く刺激される。百歳を超えて存命されている方を周辺にも見聞きするとき、ああこの歳月を生きてこられたのだ、と思いはさらに深まる。

厄介な「米国問題」を抱えて苦悶する近現代の世界を思えば、五年後の2023年は、米国は身勝手なふるまいをするぞと高らかに宣言したに等しいモンロー教義から二百周年期にも当たることが想起される。それに、現在のトランプ大統領の勝手気ままなふるまいを重ね合わせると、他地域への軍事侵攻と戦争に明け暮れている米国二百年史が重層的に見えてきて、嘆息するしかない(いまのところ、唯一、トランプ氏の対朝鮮外交だけは、伝統的な米外交政策顧問団が不在のままに大統領単独で突っ走ったことが、局面打開の上で有効であったと私は肯定的に判断しているが、この先たどるべき道は、なお遠い。紆余曲折はあろうとも、よい形で、朝鮮半島南北間の、そして朝米間の、相互友好関係が築かれることを熱望してはいるが……)。

さて足下に戻る。冒頭に記した百周年期を迎える一連の出来事を見ても一目瞭然、問題は、百年前の当時、日本が東アジアの周辺地域といかなる関係を築いていたのかとふり返ることこそが、私たちの視点である。先ごろ実現した南北首脳会談と朝米首脳会談に対して、日本の政府、マスメディア、そして「世論」なるものが示した反応を見ても、この社会は総体として、朝鮮に対する植民地主義的態度を維持し続けていることがわかる。民族的な和解に向けた着実な歩みを理解しようとせずに、そこには「ぼくがいない」(=拉致問題に触れていない)などと駄々をこねているからである。この腹立たしい現実を思うと、改めて、「日韓併合」から10年ほどを経た1920年前後の史実に、百年後の今いかに向き合うかが重要な課題としてせりあがってくる。

その意味で注目に値するのが、公開が始まったばかりの瀬々敬久監督の映画『菊とギロチン』である(2018年)。関東大震災前後に実在した、アナキスト系青年たちの拠点=ギロチン社に集う面々を描いた作品である。ギロチン社の実態をご存知の方は、そんなことに何の意味があろうと訝しく思われよう。大言壮語を駆使して資本家から「略奪」した資金を酒と「女郎屋」で使い果たしたり、震災後の大杉栄虐殺に怒り「テロ」を企てるも悉く惨めな失敗に終わったりと、ギロチン社に関しては情けなくも頼りない史実が目立つばかりである。映画はそこへ、当時盛んであった女相撲の興行という要素を絡ませた。姉の死後、姉の夫だった男の「後妻」に、こころ通わぬままになったが、夫の暴力に耐えかねて貧しい農村を出奔した花菊(木竜麻生)にまつわる物語は、当時の農村社会の縮図といえよう。元「遊女」の十勝川(韓英恵)は朝鮮出身の力士と設定されているが、彼女が経験してきたことがさまざまな形で挿入されることで、物語は一気に歴史的な現実に裏づけられた深みと広がりをもつものとなった。過去の、実態としては「貧しい」物語が、フィクションを導入することによって、現在の観客にも訴えかける、中身の濃い「豊かな」物語へと転成を遂げたのである。大言壮語型の典型と言うべき中濵鐵(東出昌大)も、思索家で、現金奪取のために銀行員を襲撃したときに心ならずも相手を殺害してしまったことに苦しむ古田大次郎(寛一郎)も、この物語の中では、いささか頼りないには違いないが、悩み苦しみつつ、「自由な世界」を求める人間として、生き生きとしてくる。大震災の直後の朝鮮人虐殺にまつわる挿話は、十勝川も、威張りちらす在郷軍人も、今は貧しい土地にへばりついて働いているが、自警団としての耐え難い経験を心底に秘めた元シベリア出兵兵士も、それぞれの場から語って、映画の骨格をなした。

現実は、ご存知のように、耐え難い。想像力が解き放つ映像空間を楽しみたい。

(7月6日記)

【追記】『菊とギロチン』の公式サイトは以下です。

http://kiku-guillo.com/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[94]戦争を放棄したのだから死刑も……という戦後初期の雰囲気


『反天皇制運動 Alert』第21号(通巻403号、2018年3月6日発行)掲載

死刑廃止のためには、犯罪に対する刑罰のあり方、死刑という制度が人類社会でどんな役割を果たしてきたのか、国家による「合法的な殺人」が人びとの在り方にどう影響してきたのか、犠牲者遺族の癒しや処罰感情をどう考えるか――など多面的な角度からの検討が必要だ。死刑に関わっての世界各地における経験と実情に学び、日本の現実に舞い戻るという往還作業を行なううえで、2時間程度の時間幅で、それぞれの社会的・文化的な背景も描きながら「犯罪と刑罰」を扱う映画をまとめて上映すれば、大いに参考になるだろう――そう考えて始めた死刑映画週間も、今年で7回目を迎えた。死刑廃止の目標が達成されたならやめればよい、将来的には消えてなくなるべき活動だと思うから、持続性は誇ることではない。だが残念ながら、情勢的にはまだ、やめる条件は整っていないようだ。

7年間で56本の映画を上映してきた。思いがけない出会いが、ときどき、ある。外国の映画を観れば、映画とは、それぞれの文化・社会の扉を開く重要な表現媒体だということがわかる。韓国映画が、死刑をテーマにしながら奇想天外なファンタジーにしてしまったり、あからさまなお涙頂戴の作品に仕上げたりするのを見ると、ある意味「自由闊達な」その精神の在り方に感心する。加えて、軍事政権時代の死刑判決と執行の多さに胸が塞がれた世代としては、制度的には存続しつつも執行がなされぬ歳月が20年も続いているというかの国の在り方に心惹かれる。社会が前向きに、確実に変化するという手応えのない社会に(それは自らの責任でもあると痛感しつつも)生きている身としては。

日本映画、とりわけ1950年代から60年代にかけての、映画の「黄金時代」の作品に触れると、冤罪事件の多かった時代だから、それがテーマの映画だと驚き呆れ、憤怒がこみ上げてくると同時に、骨太な物語構成・俳優陣の達者さと厚み、そして何よりも高度経済成長以前の街のたたずまいや人びとの生活のつましさに打たれる。深作欣二監督の『軍規はためく下に』(1972年)には驚いた。私も、周囲の映画好きですらもが、未見だった。敵前逃亡ゆえに戦地で処刑された軍人の妻が遺族年金を受給できないという事実から、軍人恩給制度・戦没者追悼式・天皇の戦争責任・帝国軍隊を支配した上意下達的な秩序と戦犯級の軍人の安穏とした戦後の生活ぶり――などの戦後史の重要項目に孕まれる問題点が、スクリーン上で語られ、描かれてゆく。1960年前後の深沢七郎による天皇制に関わる複数の作品(創作とエッセイ)もそうだが、表現者がタブーをつくらずに、自由かつ大胆に己が思うところを表現する時代はあったのだ。

今年の上映作品では『白と黒』(堀川弘通監督、橋本忍脚本、1963年)が面白かった。妻を殺害された死刑廃止論者の弁護士が、被告とされた者の弁護を引き受けるという仕掛けを軸に展開する、重層的な物語の構造が見事だった。証拠なき、自白のみに依拠する捜査が綻びを見せる過程もサスペンスに満ちていて、映画としての面白さが堪能できる。

死刑反対の弁護士の妻が殺された事件は実際にあったと教えられて、調べてみた。1956年、磯部常治弁護士の妻と娘が強盗に殺害された事件が確かにあった。明らかな冤罪事件である帝銀事件の平沢貞通被告の弁護団長も務めた人だ。事件直後にも氏は、「犯人が過去を反省して誤りを生かすこと」が真の裁判だと語り、心から済まぬと反省して、依頼されるなら弁護するとすら言った。氏は、56年3月に参議院に提出された死刑廃止法案の公聴会へ公述人として出ている。曰く「自分の事件についていえば、犯人は悪い。だが、あの行為をなさねば生きてはいけぬという犯人を作り上げたのは何か。10年前、彼が17、8歳のころ日本が戦争をして、彼に殺すことを一生懸命に教育し、ほんとうに生きる道を教育しなかったことに過ちがある」。この言葉は、作家・加賀乙彦氏が語ってくれる「新憲法で軍隊保持と戦争を放棄した以上、人殺しとしての死刑を廃止しようという気運が戦後初期には漲っていた」という証言と呼応し合っている。残念ながら法案は廃案になったが、その経緯を詳説している『年報・死刑廃止2003』(インパクト出版会)を読むと、時代状況の中でのこの法案のリアリティが実感できる。諦めることなく、「時を掴む」機会をうかがうのだ、と改めて思った。(3月3日記)

男たちが消えて、女たちが動いた――アルピジェラ創造の原点


「記憶風景を縫う」実行委員会編『記憶風景を縫う-チリのアルピジェラと災禍の表現』所収、2017年

(ISBN978-4-9909618-0-0)

私がメキシコに暮らし始めて2ヵ月半が経った1973年9月11日、チリに軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、選挙によって誕生したサルバドール・アジェンデ大統領のもとで、「社会主義へのチリの道」がいかに展開するかに期待を込めた関心を持ち続けていた私には、大きな衝撃だった。やがて、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」迎え入れる歴史を積み重ねてきたメキシコには、軍事政権の弾圧を逃れたチリ人が続々やってきた。女性が多かった。新聞に載った一女性の語った言葉がこころに残った。愛する男(恋人か夫)が軍部によって虐殺されたか、逮捕されたのだろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このような直截な言葉で語られることが「新鮮」だった。メキシコでは、チリ民衆との連帯集会が頻繁に開かれて、私は何度もそこへ参加した。

ラテンアメリカを放浪中だった私は、クーデタから1年数ヵ月が経った75年2月、チリへ入った。アルゼンチンのパタゴニアの北部を抜けて、南部のテムコへ入った。リュックの荷物からは、税関で「怪しまれ」そうな本・新聞・資料をすべて抜き去った。

テムコは、世界的にも有名な詩人パブロ・ネルーダが幼年期を過ごした町だ。アルゼンチンで知り合ったチリ人が、テムコの実家に泊まってというので訪ねると、そこはネルーダの縁戚の家だった。アジェンデの盟友であり、自らも共産主義者であったネルーダは、73年クーデタの直後の9月23日に亡くなった。クーデタ当日はがんで入院していたが、政権を掌握した軍部の命令を受けた担当医によって毒殺されたという説が濃厚である。

私が訪ねた家も、ク-デタ後何回にもわたって家宅捜査を受けたという。大家族で、芸術・文化の愛好者が揃っていたが、書物は少なかった。軍部によって焚書されたのだという。焼けただれた本も幾冊か、あった。十全な形ではもう読めないのに、捨てるには忍びなかったのだろう。夜が更けると、家族みんなが集まって、大声では歌えないアジェンデ時代の民衆歌や革命歌を歌った。メキシコで私も親しんでいた歌だったので、小さな声で合わせることができた。

テムコは、先住民族マプーチェの土地だ。スペイン人征服者(コンキスタドール)を相手に展開した激しい抵抗闘争で、歴史に名を刻んでいる民族である。アジェンデ政権期には、その要求が全面的に認められたわけではなかったにしても、マプーチェへの土地返還が、従来に比べれば大幅に進んだ。軍政によってこの動きは断ち切られ、彼ら/彼女らは逆風にさらされていた。今は物を言う状況にはないマプーチェの人びとの小さな野外市場で、いくつかの民芸品を買った。チリでは他にも、首都サンティアゴ・デ・チレでの、人びととの忘れ難い出会いがあった。しかし、軍政下ゆえの不自由さは、隠しようもなかった。それだけに、テムコでの想い出が、いまもくっきりと脳裏にひらめく。

数年後、帰国して間もない私のもとに、チリから国際小荷物が届いた。そこに、一枚のタペストリーが入っていた。布の切れ端で作られたパッチワークだった。アンデスの山脈を背景にした家々の前で人びとが立ち働いている。10人全員が女性だが、それぞれが何かを持ち寄って、集まって来るような印象を受ける。この時代、現実にあった、貧しい人びとの「共同鍋」の試みなのかもしれぬ。テムコのあの家族からの贈り物だった。由緒の説明はなかったように思う。突起部分があって、ふつうの額には収まらないので、ラテンアメリカ各地で買い求めた民芸品と共に、大事に箱にしまい込んだ。

それからずいぶんと時間が経って、20世紀も末期のころ、私は編集者として一冊の翻訳書の仕事に関わった。「征服」期から現代にまで至る「ラテンアメリカの民衆文化」を研究した『記憶と近代』という書物である(ウィリアム・ロウ+ヴィヴィアン・シェリング=著、澤田眞治+向山恭一=訳、現代企画室、1999年刊)。そこでは、片方には軍政の抑圧、他方には革新政党のヒエラルキー構造や温情主義的な慣習をはびこらせた左翼の失敗の双方を乗り越えて、近隣の共同組織に依拠して日常生活や消費領域の問題を公的な政治領域に導入した動きとして、チリで行なわれてきた「アルピジェラ」と呼ばれるパッチワークの生産活動が挙げられていた。十数年前にテムコから送られてきたあの布地のことではないか!

同書は言う。「個人的な喪失や別離や極貧の経験を政治的事件の証言に変える試み」としてのアルピジェラは、「木綿や羊毛のぼろ布を使って日常生活のイメージを構成したものなのだが、その繊細で子供らしい形式とそこに描かれた内容とは衝撃的なくらい対照的である。それは大量収容センターのゲートの外で待っている身内の人々、軍事クーデタの日に軍のトラックに積まれた死亡した民間人、スラム街の無料食堂の場面、行方不明の身内との再会や、飢えや悲しみのない豊かな生活といった想像上の場面を描いている」。

軍政下での人権侵害を告発したカトリック教会は、「失踪者」家族支援委員会を運営しながら、アルピジェラのワークショップの開催、買い取りと販売を通して、生産者の経済的自立の手段を提供してきた、とも書かれていた。

アルピジェラの生産者が女性であることからどんな意義を読み取るか――同書はさらにその点をも書き進めるのだが、その後私たちに届けられたチリの表現をも援用しながら、この問題を考えてみたい。アジェンデ時代のチリを振り返るために決定的に重要なチリ映画が2016年にようやく日本でも公開された。パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作(1975~78年制作)である。この映画は、アジェンデ政権期の1970年から73年にかけての現実を、とりわけ73年の、クーデタに至る直前の半年間の状況をドキュメンタリーとして捉えている。そこには、当時のチリ階級闘争の攻防が生々しく描かれている。アジェンデ支持派の集会、デモ、討議の場で目立つのは男性である。米国CIAに扇動もされたブルジョアジーが日常必需品を隠匿して経済を麻痺させようとする策動を行なうのだが、地域住民がこれに抗して独自に生活物資を集め仕分けする場面に、辛うじて女性の姿が垣間見える。

このように『チリの闘い』が記録してしまった1970年代初頭の社会運動の状況と、アピルジェラをめぐる諸問題などを重ね合わせると、次のような課題が浮かび上がってくるように思われる。

1)チリ革命を推進していた社会運動は、政党にあっても労働組合運動にあっても、性別分業に特徴づけられた男性中心主義の色合いを強くもっていたことは否めないようだ。それは、世界的に見て、1970年代が持つ時代的な制約であったとも言えるのかもしれない。したがって、軍事クーデタ後の弾圧は、男性に集中的にかけられた。クーデタ直後に「デサパレシードス(行方不明者)」の写真を掲げて示威行動をしたり、グスマンの映画『光のノスタルジア』(2011年)が描いたような、クーデタから30年以上経ってなお強制収容所跡地で遺骨を探したりしている人びとがすべて女性であることによって、それは裏づけられている。

2)男性中心の諸運動は、こうして再起不能な打撃を受けたが、それは同時に、母、妻、娘として、親密な男性を失った女性たちが、その「喪失や別離」の体験を発条にして、新たな地平へ進み出ることを可能にした。男性優位の社会的な価値規範のもとで下位に退けられていた「女性的なもの」に根ざした表現として現われたのが、アルピジェラであった。それは、硬い男性原理から、柔らかな女性原理への転換が求められている時代を象徴していると言える。大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常生活に根ざした表現と運動が、支配への有効な抵抗の核となった時代――と表現してもよいだろう。

3)チリ革命では、もともと、文化革命的な要素が目立った。アリエル・ドルフマンなどは『ドナルド・ダックを読む』(晶文社、1984年)、『子どものメディアを読む』(晶文社、1992年)などの著作を通して、子どもの脳髄を支配する文化帝国主義の批判を行なった。また、女性を伝統的な価値観の枠組みの中に閉じ込めるいわゆる女性雑誌の編集姿勢を徹底的に批判・分析した一連の作業もあった。若い男性主体の価値意識の中では低く見なされがちな大衆、子ども、女性などの社会層に働きかける文化批判が実践されることで、単に、政治・社会・経済過程の変革に終わらぬ、草の根からの革命の事業が活性化する可能性が孕まれていたのではないか。それは、時代が激変し、軍事政権下に置かれた時に、庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたこととも関連してくるものだろうか?

アルピジェラという民衆の文化表現からは、この時代を考えるうえで避けることのできない重要な問いがいくつも生まれ出てくるようだ。

追記:「記憶風景を縫う」展覧会についての情報は、以下をご覧ください。

https://www.facebook.com/arpilleras.jp/

伝承民話に基づいたスペクタクル映像がもつ解放感


映画『いぬむこいり』劇場用パンフレット(ドッグシュガー、2017年2月24日発行)掲載

情報化社会のいま、ましてや、インターネットがここまで私たちの日常に入り込んでいる以上、事前情報をほとんどもたないままに一本の映画に出会うことは難しい。旧知の映画プロデューサー小林三四郎氏から連絡があり、氏の友人が4時間を超える大作を撮ったので、ぜひ観てほしい、という。失礼ながら、片嶋一貴という監督の名は私には初耳で、したがって、その旧作も一つとして観ていない。忙しい時期で、ネット検索をする時間もないままに、試写会場へ出かけた。

ロビーで監督に会い、すぐ紹介されたのは、内田春菊さん。『私たちは繁殖している』は愛読していたし、私が勤める出版社が『マッチョ』に関する本を出した時には、(別のスタッフから)解説をお願いしてもいる。だが、内田さんの「全体像」を知っているわけではないので、10人もいない試写会の観客の中に、内田さんという「特異な」人物がいることに、「フシギ・ワールド」に入り込むような胸騒ぎをおぼえる。

入り口で、簡潔な映画パンフレットを渡された。上映開始まで、それをちらちら眺める。いきなり、有森也実が主演の映画と知る。有森さんは、私が、その作品をわずかしか観ていないにもかかわらず、「秘かに」フアンだと自覚している女優だ。胸の鼓動が高まる。他にも、ベンガル、石橋蓮司、柄本明、韓英恵、そして、PANTA、緑魔子までもが出演しているらしい。これは、あやしい。こんな「怪優」ばかりを集めて、いったいどんな映画なんだと、あらためて胸は騒ぐのだった。

果たして結果は?――ストーリーについては、別な原稿が用意されているだろうから、ここでは触れない。誰もが知る伝承民話「犬婿入り」が全編を貫くモチーフとして設定され、荒唐無稽ともいうべき、破天荒な物語が展開する。途中休憩を挟む4時間の長尺だが、飽きも長さも感じさせないおもしろさだ。「荒唐無稽」とか「破天荒」とか書きながら、ふと立ち止まる。この表現でははみ出してしまう何かが、スクリーン上には蠢いているのだ。イモレ島を含めて舞台となっているいくつもの架空の土地で積み重ねられてきた重層的な歴史――それは、言ってみれば、人間がどの地域にあっても繰り広げてきた歴史ということなのだが――への眼差しによって裏打ちされているといえようか。「重層的な歴史」と書いたからといって、それは常に重々しいものとして立ち現れるのではない。それは、時にいかさまで、時にやくざで、時にエロティックで、時におふざけで、時に卑小で、時に暗鬱で、時にユーモラスで、時に権謀術策に満ちていて、要するに、人間の世界に〈あった〉、そして〈ある〉すべての要素が盛り込まれているのだ。その点を映画はよく描いていて、エンターテインメントとしても楽しめる作品として成立している、と言い切ってしまってよいだろうか?

私の考えでは、ただそれだけをこの映画に求めた者は裏切られよう。破天荒でいて、緻密な歴史意識に裏づけられたこの映画は、背景にちりばめられたいくつものエピソードを読み解いていけば、舞台は、地球上のどこであってもよいのではなく、東アジアに浮かぶ多島海社会〈ヤポネシア〉以外ではあり得ないことが知れよう。映画製作チームは、あらゆる意味で奇怪なこの社会で積み重ねられてきた歴史と現実に憤り、絶望し、それでも新たな夢かユートピアを信じて、この異数の物語を紡いでいったのだ。歴史過程や現実に無批判的な、凡百の映画との決定的な違いが、ここで生まれた。

映画に見入りながら頭に浮かんだのは、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だった。あるいは、もっと広く、彼と同世代のラテンアメリカの作家たちが切り開いた魔術的リアリズムの世界を思い起こした、といってもよい。それらもまた、想像力と歴史および現実認識の力とが、緊張感を孕みつつ拮抗した地点で生まれた優れた作品群だった。片嶋監督は大胆にも、スペクタクル映像によって、マルケスたちの小説世界に伍するつもりだったのだろうか? その壮大なる意図を聴いてみたい。

「犬婿入り」といういわば神話的な世界に始まり、波瀾万丈の人生を送ったヒロインが最後には犬の貌をもつ赤子を生んで終わることで、観る者の想像力は広く、深く、解き放たれるように思える。この解放感を手放す(=忘れる)ことなく、現実の歴史過程に相渉りたいものだと、あらためて私は思った。

その後わたしは、片嶋監督の旧作『アジアの純真』(2009年)と『たとえば檸檬』(2012年)をDVDで観る機会に恵まれた。これまで片嶋ワールドを知らなかったことを心底悔いた。「拉致」問題への発言を続けてきている私のアンテナが、『アジアの純真』をキャッチできていなかったことには、とりわけ〈屈辱〉をすら感じた。

かくして、「遅れてきた老年」である私は、今後は、片嶋監督の――否、映画は、異種の労働に従事する多様な人びとの協働作業によってはじめて成立する、集団的な総合芸術であるから――、〈片嶋組〉の作品の「追っかけ」になろうと心に決めた。

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国の みたび 夢は夜ひらく[77]独裁者の「孤独」/「制裁」論議の虚しさ


『反天皇制運動 Alert』第4号(通巻386号、2016年10月4日発行)掲載

『将軍様、あなたのために映画を撮ります』という映画を観た。原題は ”The Lovers and the Despot” (恋人たちと独裁者)。監督は、イギリス人のロス・アダムとロバート・カンナンで、2016年制作。出演は崔銀姫、申相玉、金正日その他。この映画のことを知らぬ人は、出演者の名に驚かれよう。金正日は、まぎれもなく、2011年に死去した朝鮮労働党総書記・国防委員長、その人である。記録映像による動画や「主人公」三人の3ショット写真も挿入されているが、彼の場合は、監督によって録音されていた音声「出演」を通して語られる内容こそが面白い。

ことの顛末を簡潔に記す。崔銀姫と申相玉はそれぞれ、1970年代韓国の著名な映画女優であり、監督であった。かつては夫婦であったが、わけあってすでに離婚していた。朴正煕の軍事政権下、映画造りにはさまざまな制約が課せられ、自由も仕事もない。1978年、まず崔銀姫が、仕事を求めて出かけた香港で行方不明になる。事態を知った申相玉も事実の究明のためにそこを訪れるが、彼もまたさらわれる。種を明かせば、二人は、映画好きで、『映画芸術論』と題した著書もある金正日の指令で、低水準の北朝鮮映画界のテコ入れのために映画造りに専念させるべく、拉致されたのである。金正日自身が、録音されていた申相玉との対話の中で語っているのだから、その通りなのだろう。因みに、拉致されてピョンヤンの外港に着いた崔銀姫は或る男の出迎えを受けた。男は言った。「ようこそ、よくいらっしゃいました。崔先生、わたしが金正日です」( 同映画および崔銀姫/申相玉『闇からの谺』上下、文春文庫、1989年)。

二人が北朝鮮で映画制作に携わったのは三年だったが、「厚遇」を受けて17本もの作品を生み出した。女優は悲しみに暮れながらも「協力」させられ、モスクワ映画祭で主演女優賞を得た作品もあった。他方、監督は、金正日から与えられた豊富な資金と「自由な」撮影環境を存分に「享受」して、映画制作に熱中した。最後には二人して脱出に成功するのだが、映画も本も、そのすべての過程を明かしていて興味深い。

独裁者・金正日は孤独である。自分が「泣き真似すると、そこにいる人たち全員が泣く。それを見て哀しくなって、わざと泣いてみたりした」と監督に語ったりする。その近現代史において幾多の独裁者を生んだラテンアメリカ各国では、優れた文学者がそれらをモデルとして描いた「独裁者小説」ともいうべきジャンルが生み出された。現実の独裁制下で生きざるを得ない人びとにはたまったものではないが、文学の力は、凶暴な権力者にだけ留まることのない「人間」としての独裁者を造型して、問題の在り処を深めた。すなわち、例えば、人びとがもつ権力への恐怖と畏怖ばかりか、独裁者の思いを忖度して競って泣くような、「馴致」された人びとの精神状況をも描き出してしまったのである。それを哀しむ金正日の言葉が挿入されていることで、この映画を単に「反金正日」キャンペーンのために利用しようとする者は裏切られよう。もっと深く、ヨリ深く、問題の根源へと向かうのだ――という呼び掛けとして、私はこの映画を理解した。

この映画が公開されているいま、世の中には(日本でも、世界中でも)、対北朝鮮「制裁」強化の声が溢れかえっている。北朝鮮が第五回目の核実験を実施したばかりだからである。

独裁者は、映画の世界に浸って生きることができれば幸せだったかもしれない男の三男に代わっている。現在の独裁者は、その視野がヨリ狭いような印象を受ける。軍事的誇示によってではなく、「ここで跳ぶのだ、世界に向かって」と虚しい声掛けをしたくなる。

他方、「制裁」を呼号する者たち(国連、各国首脳)の呼ばわりも虚しい。君たちの怠慢が、東アジアに平和な状況を創り出す強固な意志の欠如が、この事態を引き出したのだ。とりわけ、日本政府の責任は重い。安倍晋三が2002年小泉首相訪朝に同行して対北朝鮮外交の先頭に立って以来、(病気や下野の期間も挟むが)14年の歳月が過ぎた。これだけの年数を費やしながら、拉致問題解決のメドも立たず、北朝鮮の軍事的冒険を阻止することもできなかった。北朝鮮の核実験は、すなわち、安倍外交が失敗したことを意味する、との批判的な分析こそが必要なのだ。 (10月1日記)

「9・11」に考える映画『チリの闘い』の意義


【以下は、2016年9月11日、ユーロスペースでの『チリの闘い』上映後に、私が話したことの大要です。事前に用意したレジュメに基づいて文章化しましたが、最小限の加筆・訂正を施していることをお断りします。】

チリの映画監督パトリシオ・グスマンは、1941年生まれで、いま75歳です。チリやラテンアメリカはもとより、世界的にもかなり高名な映画監督です。なぜか、日本での作品公開は非常に遅れ、昨年秋、山形国際ドキュメンタリー映画祭で『チリの闘い』が、次いで岩波ホールで、『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』という最新作が相次いで公開されました。それから一年も経たずして、いま、『チリの闘い』のロードショウを迎えているのです。これらすべてをご覧になった方がおられるとして、全作品を通して共通するのは、1973年のチリ軍事クーデタへの強烈な関心です。なぜなのでしょう? 監督がチリ人であることからくる、一国的な特殊な事情があるのでしょうか? それとも、異邦に住む私たちにも関連してくる、世界的な普遍性があるのでしょうか? 今日は、この問題を考えてみます。

1、1970年選挙――社会主義政権の成立

映画が語るように、1970年に選挙が行なわれ、1930年代から社会主義者として政治活動を行なってきたサルバドル・アジェンデが大統領に当選します。選挙を通して社会主義政権が成立したのは、世界史上これが初めてです。アジェンデは「武器なき革命チリの道」を模索します。とはいっても、演説でもお聞きのように、社会主義への強い確信を持つ人です。「社会主義革命」は、いかに平和的なものであったとしても、現行秩序を壊さずにはおれないのです。

国内的に見てみましょう。当時のチリのように、貧富の格差がはなはだしい社会で現行秩序を壊そうと思ったら、経済的に公平で、格差をなくす社会になるような、社会福祉政策に重点をおくことになります。ほんの数例を挙げます。主要食糧品の物価を凍結しました。15歳以下の子どもに、一日0.5リットルの牛乳を無償で供給しました。農民が自らの土地を耕し、そこから収穫物を得ることができるように大土地所有制を解体しました。

対外関係を見てみましょう。チリが世界でも有数の銅資源を持つことは、映画が語っています。これを産出する銅鉱山は米国企業の手中にありました。他にも、銀行などの金融資本、国際電信電話事業も米国企業に支配されていました。ここから生み出される富を、チリの民衆は享受できなかったのです。これを接収し、国有化しました。経済の自律性を持とうとしたのです。

また、革命は、政治・経済過程の変革にのみ留まっていることはできません。その只中を生きる人びとは、旧社会の中で身をつけた価値観、日常意識、人生観を持ち続けています。必要ならばそれをも転倒する文化批判、文化革命が求められるのです。メディア、学校教育、社会教育など、批判の俎上に乗せるべき対象はたくさんあります。映画はどうか。ハリウッド映画が市場を独占しています。ハリウッド映画がどんな価値観に基づいて物語を組み立て、それを映像的に表現するものであるか。表面的には「無垢な」キャラクターが活躍するディズニー映画や漫画は、どんな価値観を子どもの脳髄に埋め込もうとしているのか。テレビはどうか。日本のアニメも評判を得つつある時代でしたが、米国製の番組の花盛りです。女性誌はどうか。これらの雑誌は、それぞれの年代の女性たちをどんな未来へ誘導しようとしているのか。このような問題意識に基づいて、社会に広く浸透している文化のあり方に対する批判活動が、チリ革命の中では行なわれました。これは、他の社会革命と対比しても特徴的なことであったと思います。

1970年に始まるチリ革命は、このような形で、平等・対等な社会関係に向けて、今ある秩序・現行秩序の変革に取り組んだのです。この改革が進めば、当然にも、既得権益を奪われる勢力が存在します。旧来の秩序の中での特権層です。だから、彼らは、進行する革命を妨害します。あわよくば、これを覆そうとします。映画『チリの闘い』が描いているのは、この階級闘争の過程なのです。小国が自主・自立を目指す試行錯誤は、どんな国内的・国際的な環境の下で行なわれたのか。これを知ることは、世界普遍的な意味をもつのです。

2、1973年9月11日に至る過程に見るべきもの

では、その過程から何が見えるか、ということを考えてみます。映画を見て真っ先に気づくのは、チリの人びとを切り裂く「階級差」です。現在の日本のように、新たな貧困問題に直面しているはものの、高度な産業社会・消費社会になると、階級差というものはそう簡単には見てとることができません。その点、当時のチリは違います。人びとの顔つき、表情、服装、言葉遣いから、その人がどんな「階級」に属しているかが、はっきりとわかります。集会やデモに出ている民衆の顔つきと服装を思い出してみてください。それと比較して、たとえば、立派な軍服で身を固めた高級軍人たちの姿を思い起こしましょう。多くが白人エリート層であることは歴然としています。暗殺された仲間を悼む集まりなのに、あの余裕のある、自信にあふれた表情の男たち。カメラを持つ人は、クーデタ必至の政治状況の中で、この男たちはいったいどんな立場を取ろうとしているのか、何を企んでいるのかを記録しておかなければならない、と思い詰めてでもいるかのように、執拗に、舐めるように、高級軍人たちの顔を映し出していきます。加えて、いかにも「ブルジョワの奥様」然とした、一群の女性たちの姿も思い浮かべることができます。

次に、集会やデモ、隠匿されていた日常品を摘発し、みんなで分配するシーンに、それぞれ、どんな年齢層の人びとが、男女のどちらの性の姿が、多く見られるかという問題です。鉱山労働者の集まりが男たちだけになるのは、労働の質からいって、当然です。ただし、日本で石炭産業が栄えていた時には、また世界のどこであっても鉱山地帯では、妻たちが鉱山主婦会を組織して、活発に活動していました。そんな姿が映し出されれば、異なる視点が得られたかもしれません。民衆や左派の集会やデモでは、どうだったでしょうか。やはり、男、それも若い男の顔が目立ったのではないでしょうか。20世紀型の社会運動にあっては、ある意味で日常的な生活の「束縛」から解き放たれて、自由にふるまうことができる者が活躍した時代でした。家族をもつ男の場合は、相手との関係でそのようにふるまう条件をつくってしまう。いわば、若く、体力があり、時間的にも自由が利く者が、運動に「専従」したのです。それによって生み出される、運動の活力もあったでしょうが、同時に、運動に「歪み」も生じただろう。このような観点から振り返るのが、現代的な視点だと思います。日常必需品の仕分けの場には、やはり、女の姿が目立った。重いものを仕分けるので、男の姿もありましたが、圧倒的多数は女だった。「役割分担」は、現実的には否応なく出てくるのですが、そこにどんな問題が孕まれるかは、考え続けなければならず、「歪み」があれば解決しなければならない。

反アジェンデ派、右派、ナショナリストたちの集会やデモでは、どうだったか。エリート校であるカトリック大学での、反アジェンデ集会では、いかにも裕福な家庭の出身だろう女子学生の姿が目立ちました。カトリック教会が保守の牙城であり、キリスト教民主党が有力政党である現実から見ても、富裕層や中産階級上に属する社会層は、それなりに分厚かったことがわかります。そんな人びとの集まりでは、先ほども使った言葉ですが、「ブルジョワの奥様方」が、けっこう楽し気にふるまっていたのが印象的でした。

次に、軍隊の問題を考えます。それまでの20世紀の社会革命では、ロシアでも中国でも、キューバでもアルジェリアでもベトナムでも、武装革命として勝利しました。人民軍、解放ゲリラ部隊、赤軍、人民解放軍などを組織して、国軍、政府軍と武力抗争を行ない、これを打ち破って革命の勝利が実現したのです。解放軍はその後の社会では国軍=政府軍となるのですから、そこで新たな、深刻な問題が派生することもありますが、それは、きょう考えるべき課題からは逸れます。

さて、アジェンデは、あくまでも平和革命路線を追求しました。それまで歴代政権の下にあった軍隊は、いわばブルジョワの軍隊という性格を色濃く持ち続けています。だが、アジェンデは軍隊には手をつけなかった。古今東西の歴史が教えるところでは、国軍としての軍隊は、国内的に一旦火急あれば戒厳令の下で民衆鎮圧活動を躊躇うことはありません。時の政府が好戦的であれば、「自衛」の名の下で他国に侵略戦争を仕掛けます。軍隊とは、そういうことが可能な、武装部隊なのです。事実、チリにおいて、右翼と米国CIAは、選挙を通してアジェンデを敗北させることに失敗すると、軍隊を利用したのです。他方、民衆は武装解除されており、銃ひとつ持つわけでもありません。日本でも、来年度の防衛費は5兆円を超え、自衛隊は25万人の兵力を抱えています。国家予算によって保証されているこのような武装部隊が、その武力を背景に政治の前面に出てきたら、どうなるか。チリの軍事クーデタが物語るのは、この問題です。それは、対岸の火事ではないのです。

非武装の民衆と、時の支配層の意思ひとつでいかようにも動かすことができる国軍という対比において、軍隊が本質的に持つ問題性を考えるべき時期がきています。

マスメディアの問題もあります。「世論」形成に重要な役割を果たす巨大メディアが、どんな立場に立って、何を報道し、何を報道しないか。その選択基準は何によって左右されているのか。日本の現状に照らしても、見逃すことのできない問題がここにはあります。

3、1973年

さて、こうして見てきたチリ階級闘争においては、右翼が軍事クーデタという非常手段によって勝利しました。アジェンデの平和革命路線は挫折したのです。軍事政権下で、いかなる時代が始まったか。新自由主義の世界制覇の時代は、ここを先駆けに始まったのです。経済運営に無知なチリの軍事体制を支えるために、米国はシカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンに学んだ者たちを派遣した。彼らが指南した経済政策は、いわゆる「小さな政府」論です。国家予算によってカバーすべき分野を極力少なくする。そのぶん、民間企業間の競争原理に委ねるとよい。規制緩和、国営企業の私企業化、市場経済化、金融自由化、行財政改革、教育バウチャー(利用権)制度の導入などの政策です。私たちの耳目も、この間十分に慣れ親しんだ言葉ですね。

チリ軍事クーデタから7,8年を経た1980年前後には、イギリスにサッチャー、米国にレーガン、日本に中曽根などの政権が確立し、新自由主義経済政策は世界全体に波及するようになります。日本社会に生きる私たちも、この政策が採用されて数十年経ったのですから、これがどれほどまでに社会のあり方を荒廃させるものであるかを、身をもって経験しています。経済格差の顕在化、非正規労働の増大に象徴される労働事情の激変、社会福祉政策の後退、総じて弱肉強食の価値観と現実が社会に浸透したのです。

米国は、チリ軍事クーデタを画策した以上、東西冷戦下でチリ国を「発展モデル」にするために「責任をもって」新自由主義の「実験場」にしました。それは、ソ連体制を崩壊に追い込んだ現代資本主義を全面開花させるまでに至ったのです。チリの経験は、こうして、世界的な普遍性をもつに至りました。

4、「9・11」

きょうは、9月11日です。「9・11」といえば、15年前の出来事を思い起こすのがふつうです。すなわち、ハイジャック機がニューヨークのワールド・トレイド・センター・ビルやペンタゴンに自爆攻撃を仕掛けた事件です。昨夜からのテレビ・新聞は、15年目の「9・11」を回顧するニュースにあふれかえっています。ところで、私たちが考えてきたチリ軍事クーデタの日付も、9月11日です。1973年の「9・11」。今から43年前の出来事です。

15年前の「9・11」事件の時から、チリやラテンアメリカからは、このもうひとつの「9・11」を忘れるな、というメッセージが発せられました。なぜなら、15年前の米国はこの攻撃を受けて3000人有余の犠牲者を生み出したこともあって、まるで「世界一の悲劇を被った」国であるかのようにふるまい、「反テロ戦争」に踏み出そうとしていたのです。しかし、政治的・経済的・軍事的に身勝手なふるまいを行ない、近現代史において他国に多大な犠牲者を生み出すきっかけをつくってきたのは、他ならぬ米国ではないか。1973年のチリ軍事クーデタは、まさに、その一つの例証なのだ。それなのに、いまさら、被害者ぶるのは許せない――そのような思いが、溢れ出たのです。

私も、15年前の「9・11」のときに、同じように考えました。これは、米国が自らの従来の外交政策を内省し、政策変更を大胆に行なう絶好の機会であり、「反テロ戦争」などという報復に乗り出すことがあっては、絶対にならない。だが、米国は、国を挙げて戦争に突入しました。そして、15年後の現在、世界は「反テロ戦争」と「テロ」の、終わりなき応酬の時代を迎えているのです。この悲劇を生み出した大国・米国の責任は重大です。ですから、「9・11」は、メディアが報道するような、ひとり米国の「悲劇」としてではなく、無数の「9・11」を思い起こす機会にすべきなのです。

5、グスマンのフィルム?

さて、最後です。この映画の撮影中に軍事クーデタがおこり、グスマン自身も逮捕されてしまいます。撮りためてあったフィルムは、どうやって、生き永らえることができたのでしょう? この謎解きは、劇場用パンフレットでも明かされているので、ここで触れてもよいでしょう。映画が問わず語りに明かしているように、グスマンらは、軍事クーデタが早晩起こるのは必至との思いを抱きながらカメラを回していたことでしょう。事前に手を打っておかなければならない。グスマンには、ひとりのおじさんがおりました。ピアニストで、政治には無関係に生きている人なので、ここまでは弾圧の手が延びないだろうと考え、撮りためた16ミリ・フィルムを彼に託しました。まもなく、サンティアゴのスウェーデン大使館のスタッフがフィルムを取りに来ました。軍事クーデタに対するこの時期のスウェーデン政府の断固たる立場を明かすものでしょう。このあと、スウェーデンはチリから、大勢の亡命者を受け入れることになります。70年代後半から80年代にかけて、私は、それら亡命者が発行する機関誌“Combate”(闘い)を購読していました。

さて、フィルムがたどった「運命」に戻ります。スウェーデン大使館のスタッフは、バルパライソの港から、大量のフィルムを本国へ送ろうとします。軍や税関は、怪しいものとみて、これを阻止しようとします。しかし、特別取り扱いが必要な外交貨物です。手を付けるわけにはいきません。無事、フィルムはバルパライソの港を出ました。この港町の名をご記憶ですか。チリ有数の港湾都市であり、したがって、海軍の地盤でもあります。反アジェンデの軍隊反乱も最初ここで起こったのでしたが、これとの闘いを描いたフィルムも、この港を出る貨物船に乗せられたのです。

拘留が短期間で済んで釈放されたグスマンは、スウェーデンへ飛び、フィルムと対面します。いざ、編集にかかりたいが、資金が工面できません。自己資金はなく、スポンサーも見つからない。そこへ、キューバの映画芸術産業庁が協力を申し出ます。そこで、グスマンはキューバへ行き、そこの映画人の全面的な協力を得て、75年の第1部、77年に第2部、79年に第3部を完成させて、世界に流通させることができたのです。もちろん、軍事政権下のチリでは無理でした。数奇なフィルムの運命です。生き永らえたのは奇跡的、とも言えます。フィルムよ、ありがとう、と言いたい気持ちです。

以上が、私たちがようやくめぐり合えている映画『チリの闘い』について、30分以内で語りたいことのすべてです。終わります。ありがとうございました。

袴田巖さんが、「死刑囚表現展」に応募してきた


金聖雄監督『袴田巖:夢の間の世の中』パンフレット(2016年2月27日発行、Kimoon Film )

死刑制度の廃止を目指して死刑囚表現展を始めて、11年が経った。死刑囚は社会との接点をギリギリまで断ち切られて、存在している。冤罪の身であれば、身を切るような叫びがあろう。人を殺めたならば、顧みて言うべき言葉があるかもしれない。事件を離れて、想像力の世界に浸る表現もあろう。毎年、心に迫る作品が寄せられる。その表現に出会うことで、隔離されている死刑囚と、私たち外部社会との間に接点が生まれる。私たちはその時、犯罪と刑罰について、死刑について、冤罪について、あらかじめわかったような顔をせずに、深く向き合う契機にできるかもしれない。

映画『袴田巖――夢の間の世の中』のスクリーンに浮かび上がる袴田さんの獄中書簡のいくつかを目で追いながら、袴田さんが死刑囚表現展に応募してきたのだ、と幻想した。「さて、私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつつ、生きなければならない。」などという表現に触れて、私は思わず、居ずまいを正した。若い日々に、ボクシングという激しいスポーツに身を投じていた袴田青年は、内面に、このように静謐で、文学的ともいえる世界を持つ人でもあったのだ。

映画が映し出すのは、だが、2014年3月27日、静岡地裁が死刑および拘置の執行停止を決定して48年ぶりに袴田さんが釈放されて以降の日常である。拘禁症状の下で、独特の幻想世界に生きる袴田さんの姿と言葉が私たちの耳目に飛び込んでくる。それは、獄中の孤独を彷彿させるものだが、その姿を描いているのが総合芸術としての映画である以上、袴田さんがここを抜け出る方向性も示唆されている。

金聖雄監督をはじめスタッフ、出演者、そして私たち観客との協働性の中でこそ、袴田さんは新たな生を生き始めている ということである。この映画の中での袴田さんの立ち居振る舞いと言葉に触れて、これは死刑囚表現展への見事な応募作品ではないか――あらためて私は独断的に、そう思う。

ホルヘ・サンヒネスとの対話から――ラテンアメリカ特集に寄せて


山形国際ドキュメンタリー映画祭2015/映画祭公式ガイドブック「スプートニク」掲載

私たちが自主上映・共同制作活動でこの40年間付き合ってきているボリビアのウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネス監督は、狭い意味でのドキュメンタリー作家の枠内には収まらない。その作品は、現実に起きた出来事に素材を得ながらもフィクション化している場合が多いからである。だが、ドキュメンタリーやセミ・ドキュメンタリーの作品もあるから、ラテンアメリカや欧米で出版されている「現代ラテンアメリカ・ドキュメンタリ―映画」の研究書の中では必ず言及される存在だ。

ホルへ・サンヒネスたちと出会ったのは1975年のことだ。首都キトで偶然観たウカマウの映画『コンドルの血』(1969)に新鮮な驚きを感じてこの未知の監督のことを探っていたら、何と、軍事政権下のボリビアを逃れてキトに滞在中という。翌日には会っていた。話し合ってみて、歴史観・世界観に共通なものを感じた。旅の途上にあった私たち(連れ合いも一緒だった)と、亡命地を転々としていたホルヘたちとは、ラテンアメリカ各地で再会する機会があった。その度ごとに、ホルヘは自分たちの旧作や「これは!」と彼が思う同時代の作家たちの作品を見せてくれたり、ラテンアメリカ映画にまつわるさまざまな話をしてくれたりした。それ以来、私たちは映画人でもないのに、40年来の付き合いである。

今回の山形映画祭で上映される『チルカレス』(マルタ・ロドリゲス+ホルヘ・シルバ監督、コロンビア、1972)をホルヘ・サンヒネスは、確か、ボゴタのどこかで見せてくれた。ホルヘは、自分たちの初期の短篇『革命』(1962)と『落盤』(1965)が、民衆の貧窮の実態を描きながら、当の貧しい民衆からの批判に曝されていると語った。自分たちが日々生きている「貧しさ」が画面に映し出されていても、面白くもなんともない。知りたいのは、この現実がなぜ生まれているのか、だ。この批判を受けて、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画は変わり始める。その意味では、『チルカレス』も同じ問題を抱えている。しかし、信頼できる作家たちだ――ホルヘは、そう語ったと記憶している。今年は、『チルカレス』に加えてコロンビアのこの二人の映画作家のその後の作品も観られると知って、私の心は沸き立つ。

アルゼンチンのフェルナンド・ソラナスは、ホルヘ・サンヒネスがもっとも信頼し親しくしている映画作家のひとりだ。オクタビオ・ヘティノとの共同監督作品『燃えたぎる時』(1968)――私はかつて『坩堝の時』と訳していた――のことを熱く語ったホルヘの様子をよく覚えている。2000年頃だったか、日本での上映可能性はないがとの断り書き付きで、この名のみ高い作品が東京の某所で「クローズドで」上映される機会があった。その場に居合わせることができた私がどんな思いで画面に見入ったか――想像にお任せしたい。

チリのパトリシオ・グスマンの話が、ホルヘとの対話に出てきたか、よく覚えていない。だが、1970~73年9月のチリに成立していたアジェンデ社会主義政権の時代の一時期、軍事政権下のボリビアを逃れてホルヘたちはチリに亡命していた。アジェンデ政権下では文化政策が活性化し、ラテンアメリカ各地の軍事体制から逃れた多数の文化活動家がチリに赴いて、テレビや映画分野での仕事に携わったという。ホルヘ・サンヒネスもそうした一人だったから、おそらく、パトリシオ・グスマンと知り合う機会があったのではないか。ともかく、私は現地の新聞記事や研究書で彼の名と作品のことはよく見知っていたから、作品をひとつも観ないうちから、今回上映される『チリの闘い』3部作(1975~78)などの題名がくっきりと頭に刻み込まれている。数年前、彼の『光のノスタルジア』(2010)を観た時の思いは、だから、とても深いものがあった。

ウカマウ作品の自主上映を始めたのは1980年だったが、それが大きな成功を収めたので持続的な活動にする展望が見えた1981年には、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画理論書『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』を翻訳・出版した(三一書房、絶版)。巻末には、ウカマウのみならずラテンアメリカ映画の作品年表を付した。その頃は同地の映画が上映される機会はほとんどなかったから、私が観たこともない作品も含めて、ホルヘ・サンヒネスから聞いた話や研究書に基づいて、監督名と題名を年表に付け加えていった。したがって、『チルカレス』も『燃えたぎる時』(は『坩堝の時』として)も『チリの闘い』3部作も、その年表に収められている。

上に見たようなエピソードに満ちた作品を、日本に居ながらにして観る機会が訪れようとは! 過ぎ去った40年間を思い、人生が続き、活動が持続している限りは、こんなことが起こり得るのだ、という思いが溢れ出てくる。(9月10日記)

ベトナムをめぐって、過去と現在を往還する旅


映画『石川文洋を旅する』公式パンフレット(大宮映像製作所+東風、2014年6月21日発行)掲載

1965年に米国が北ベトナム爆撃を開始してから、来年2015年で50年目になる。半世紀が経つということである。その65年から、解放勢力が占領米軍をサイゴン(現ホーチミン)をはじめ全ベトナム領土からの撤兵にまで追い込んだ75年までの10年間、私はほぼ20歳代の人生を送っていた。当時の私から見て、世界はベトナムを軸に動いているかのようだった。超大国=米国の巨大な軍事力を相手に、貧しい小国=ベトナムのたたかいぶりは際立っていた。南米ボリビアの山岳部で、反帝国主義のゲリラ戦の展開を図っていたチェ・ゲバラは「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」とのメッセージを発した。米国の侵略とたたかうベトナムは、これを支援すべき中国とソ連の対立で悲劇的に孤立しているが、世界各地の民衆が「ベトナムのように」たたかうならば、敵=帝国主義の力は分散され、われわれの勝利の時が近づくのだ、というのがこのメッセージの趣旨だった。世界各地では、ベトナム反戦闘争が激しくたたかわれていた。米ソの対立によって規定された東西代理戦争の枠組でベトナム戦争を意味づける考え方もあったが、それは、第三世界解放闘争の主体性を無視した暴論だと、私には思えた。私は、不可避的なたたかいのさ中にあるベトナムの民衆が軍事的に勝利することを心から願い、祈っていた。75年4月30日、ベトナムは勝利した。蟻が巨象を前に立ちはだかった事実に、世界じゅうが沸き立った。

それから40年が経とうとしている。残酷な時間の流れの中で、65~75年当時には想像もつかなかったことが、ベトナムをめぐって起こった。また、当時のベトナムのたたかい方をめぐって新たな解釈が現われた。いくつかを任意に挙げてみる。米国に対して「盟友国」としてたたかった隣国カンボジアに、ベトナムは軍事侵攻した。同じく「同盟国」中国と、ベトナムは戦火を交わした。それは、2014年のいまなお、西沙および南沙諸島をめぐる領有権争いとして続いている。65~75年当時のベトナムと米国の政治・軍事指導者たちは、1995年からベトナム戦争をめぐる総括会議を開き、互いの政策路線や軍事戦略を検討し合った。これに参加した、当時の米国国防長官、マクナマラは「ベトナム戦争は誤りだった」と『マクラマナ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』(1997、共同通信社)に記した。単一支配政党であるベトナム労働党大会では、党幹部や政府幹部の汚職や職権乱用をいかに食い止めるかが、もっとも重要な議題となって久しい。

磯田光一という文芸批評家は、ベトナムの解放勢力が米国と妥協点を見出し、米国の「占領政策を通じてベトナムの復興を意図したほうが、勝つにさえ値しない戦争に勝つよりも、はるかに賢明だったのでは」と論じた。300万人に及んだ「あの膨大な死者たち」を背景に置きながら。ベトナム戦争の真っ只中で、日本の「国民的な」作家・司馬遼太郎はここまで書いた――戦争は補給如何がその趨勢を決するが、自前で武器を製造できないベトナムは、他国から際限もなく無料で送られている兵器で戦っている。大国は確かによくないが、この「環境に自分を追いこんでしまったベトナム人自身」こそ「それ以上によくない」として、世界中の人類が「鞭を打たなければどう仕様もない」。北ベトナム軍の兵士としてたたかった経験をもつバオ・ニンは、その後作家となり、『戦争の悲しみ』(1997、めるくまーる。現在は河出書房新社)と題する作品を書いた。そこでは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が、戦闘時にとったふるまいのなかには、戦争に疲れ慣れきってしまったがゆえに、他者のことを気遣ったり同情したりする余裕もないままに自暴自棄の行動に走る場合もあったことが、実録風に明かされている。

昨年10月、元ベトナム人民軍ボー・グェン・ザップ将軍の死の報に接した。ディエンビエンフーのたたかいの指揮ぶりや『人民の戦争・人民の軍隊――ベトナム解放戦争の戦略・戦術』(1965年、弘文堂新社、現在は中公文庫)という著作で、忘れがたい印象を残す人物だった。1911~2013年の生涯で、102歳という長命だった。この年号を見てふと思いつき、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユの生没年を調べた。1909~1943年であった。ザップとヴェーユは、少なくとも前半生は同時代人だった。早逝したヴェーユは、最後まで社会革命に心を寄せ、その実現を願いながら、恒久的な軍隊・警察・官僚組織が革命の名の下に永続することへの批判と警戒を怠らない人であった。このふたりの生涯と思想を、同一の視野の中に収め、今後の課題を考えることが重要だと思える。

すぐれた「戦場カメラマン」である「石川文洋」を「旅する」とは、ベトナム戦争がたたかわれていた65年から75年にかけての、この狭い時間軸の中に彼を閉じこめてしまっては、できることではない。映画が描いているように、石川はいまもなお、ベトナムへの旅を続けている。「ベトナムから遠く離れている」私たちも、過去と現在を往還するそれぞれの旅を、万感の思いを込めてなお続けなければならない。