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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

私の裡での、大杉栄像の変貌――1963年から2014年まで


『大杉栄全集』第5巻「月報」掲載(2014年12月、ぱる出版刊)

私が学生時代をおくっていた1960年代に、現代思潮社版『大杉栄全集』は刊行された。1963年から65年にかけて、全14巻であった。高校を卒業するまでは、さして文献を深く読み込むこともないままに、漠然たる憧れの感情をソ連社会主義に対して抱いていたものであった。その頃までには『幻視の中の政治』に収められた埴谷雄高の政治論は読んでいたから、スターリン主義批判の問題意識は持ってはいたのだが。

創業まもない1960年代初頭の現代思潮社からは、レオン・トロツキー、ローザ・ルクセンブルグらの選集も刊行されていて、私の世代は、先行する世代とは異なって、マルクス、レーニンなどの文献と共に、トロツキーやローザの論文をも合わせ読むめぐり合わせとなったのだった。そこへ、大杉栄である。クロンシュタットの水兵叛乱やマフノ運動やアナキストに対する弾圧を断固として擁護するボリシェヴィキの公認文献や、いささか弱気に弁護する進歩派の論文と同時に、これを厳しく批判する大杉栄の論文を読む機会にも恵まれたのである。これは得難い機会であった。私がスターリン主義の呪縛から比較的に早くから解放されたとすれば、それは、ソ連邦で進行する事態を、何事もまだ〈理想〉と〈夢〉で彩って解釈するのが趨勢であった同時代にあって、冷静に批判的な分析を行ない得た大杉栄の存在に与ったところが大きいと思う。

大杉栄はその後も、政治的な文脈で、あるいは思想史的な領域でたびたび参照する対象であったが、昨年(2013年)は「大杉栄・伊藤野枝 没後90周年集会」で(東京)、今年(2014年)は「大杉栄メモリアル2014」で(新発田)、それぞれ公開の場で大杉をめぐって話す機会があり、久しぶりにじっくりと「大杉栄とその時代」をふり返る契機となった。時代は、極右政権が一定の民衆の支持を受けて成立し、近隣の諸民族に対するむき出しの憎悪と嫌悪の言葉が街頭で公然と吐き出される状況下にある。思いは、当然にも、大杉栄自身が「その時代」の犠牲者のひとりであった、1923年9月の関東大震災直後の朝鮮人虐殺の史実へと向かった。そこで、久しぶりに、姜徳相著『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003年)を取り出した。これは、1975年刊の中公新書版『関東大審査』の新版である。

姜徳相氏はそこで、震災当夜の9月1日から始まる朝鮮人虐殺、川合義虎ら10人の日本人社会主義者たちが惨殺された9月3日~4日にかけての亀戸事件、そして大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の3人が虐殺された9月16日の大杉事件――この3つを「並列して」論じる常識的な傾向に対して、厳しい疑義を唱える。時期、様態、そこへ至る経緯、規模、問題の「発覚」、権力と民意の反応、報道、加害者の処罰の有無などすべての面において、前一件と後二件との間には「共通性」が見られないことを指摘するのである。しかも、当時の労働組合運動の担い手や社会主義者たちは、亀戸事件と大杉事件の虐殺は非難したが、それに先んじてあれほどの規模で行なわれた朝鮮人虐殺の事実に対しては沈黙と無関心の立場に終始したことにも触れる。このような事実に即して事態を見るならば、日本人犠牲者と朝鮮人犠牲者とを、大震災後に起きたひと続きの「悲劇」によってもたらされたと捉えることは難しい。すなわち、民族・植民地問題という契機を導入して、あの時代に起きた「悲劇」を振り返るよう、読者を誘うのである。

大杉栄の『自叙伝』を再読していてこの文脈で再認識したこともある。大杉の父親は軍人であったことはよく知られているが、彼は日清戦争に従軍して、その戦功によって金鵄勲章も受けている。この史実を、次のような事態の中での参照事項と捉えることが重要だと思える。すなわち、関東大震災直後には戒厳軍が出て朝鮮人虐殺の先頭に立った。戒厳軍がそこで発揮した暴力の「質」を、「富国強兵」をめざした明治維新以降の軍事的体験の蓄積過程に据えることである。台湾出兵、日清戦争、韓国義兵闘争への弾圧、日露戦争、(韓国併合を挟んで)第一次世界大戦、そしてシベリア出兵――日本軍はわずか数十年の裡に、植民地で、あるいはその獲得をめざした土地で、これだけの戦争を絶えず繰り広げていた。

2014年、訪れた新発田の町には陸上自衛隊新発田駐屯地があって、その広報史料館には、旧日本軍が上記の戦争で収めた「赫々たる戦果」を誇る展示がなされていた。大杉栄を新たな視点で捉える作業が必要だという私の考えは、いっそう強まった。労働運動に関する発言は多かった大杉だが、植民地問題についてはどう捉えていたのか。「自由」と「叛逆」の精神や、悲劇的な死にのみ収斂させない大杉栄象が、いま、私たちには必要だ。

(2014年10月20日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[56]朝鮮通信使を縁にして集う人びと


『反天皇制運動カーニバル』大21号(通巻364号、2014年12月9日発行)掲載

雨森芳洲の『交隣提醒』(平凡社・東洋文庫)を読んでいたせいもあって、今年こそは、例年11月に埼玉県川越市で開かれる「多文化共生・国際交流パレード/川越唐人揃い」へ行ってみたかった。由来をたどると、江戸時代の川越氷川祭礼では、朝鮮通信使の仮装行列が「唐人揃い」と呼ばれて、大人気の練り物だったという。「唐」は「中国」を指す呼称ではなく、外国を意味する言葉として使われていたようだ。

秀吉による朝鮮侵略(いわゆる文禄・慶長の役 1592~98年)の後、徳川家康と朝鮮王国との間で「戦後処理」が成り、1607年から1811年まで12回にわたって、友好親善の証しとして朝鮮通信使が招かれた。「通信」とは「よしみ(信)を通わす」の意である。雨森芳洲がいた対馬藩は対朝鮮外交の任に当たっていたから、多くの場合4、500人から成る通信使一行はまず対馬に立ち寄り、そこから瀬戸内海を抜けて大阪までは海路を行く。そこから江戸までは陸路だが、護行する者や荷物を運ぶ者を加えると4千人以上の大移動になったというから、旅の途上で宿泊することになったそれぞれの土地に住まう町衆の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。江戸にも店を持つ川越の一豪商が、或る日、日本橋を通った通信使一行の華やかな行列に目を奪われ、郷里の町民にもその感動を伝えたいと考えて、地元の祭りの機会に乗じた仮装行列を思いついたそうだ。通信使が川越を通ったことは一度もないというのに、金持ちの道楽がその後の民際交流の素地をこの土地につくり出したのだから、おもしろいものだ。

川越では、2005年の「日韓友情年」を契機に、この江戸時代の「唐人揃い」を「多文化共生・国際交流パレード」として復活させ、今年は10回目を迎えた。パレードの前日には、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会 川越大会」も開かれた。通信使ゆかりの16自治体と41の民間団体は1995年に「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を発足させ、毎年持ち回りで全国交流会を続けている。それが今年は川越で開かれたのだが、関東地域では初めての開催だったそうだ。

私は、対馬を初めとして主として九州・四国・中国・関西地域はもとより、韓国からの参加者の話を聞きながら、民際交流のひとつの具体的な成果を実感した。地域に住む人びとのなかに、このような催し物の積み重ねを通して浸透してゆく、開かれた国際感覚を感じ取った。対馬では、韓国人が盗んで持ち帰った仏像が返却されない問題で、名物行事の通信使行列が中止になったり、「何が通信使か」という誹謗中傷が島外から浴びせかけられたりする事態が起こっているが、それでも韓国の友好団体との交流は続けるべきだと語る「朝鮮通信使縁地連絡協議会理事長」松原一征氏の言葉(10月8日付け毎日新聞)を読んで、雨森芳洲の精神が対馬には生き続けていると思った。氏は、福岡と対馬を結ぶフェリーを運航している海運会社の経営者だという。

集いを司会したのは地元・川越の女性だったが、次のように語った――「外国」のものを楽しげに受け入れる、江戸以来の伝統が川越の町には根づき、1923年の関東大震災の時にも、朝鮮人虐殺が行なわれた他の関東各地と違って、川越にいた朝鮮人18人と中国人2人は町民と警察に保護されて無事だった、と。翌日のパレードには20以上の団体が、さまざまな衣装・言語・歌・踊り・パフォーマンスで参加し、その多様性は十分に楽しめるものだった。

思うに、映画・演劇・音楽・美術などの文化分野では、国境を超えた共同作業がごく自然なこととして行われて始めて、久しい。朝鮮通信使を媒介にした日韓および日本国内の草の根の交流も、その確かなひとつだろう。

中央の極右政権が行っている排外主義的ナショナリズムに純化した外交路線を批判しつつ、それと対極にある各地の理論と行動に注目したい。もちろん、自分自身がその実践者でもあり続けたい。(12月6日記)