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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

スペイン語圏文学の翻訳と普及をいかに推進するか


以下は、2018年10月5日、「第3回日本 スペイン語・スペイン語圏文化国際会議」(市ヶ谷、セルバンテス文化センター)のラウンド・テーブル「編集・出版について――スペイン語文学の翻訳と普及をいかに推進するか」において、私が行なった発言の内容です。

この30年有余、私は人文書の企画・編集・営業に携わってきました。特に力を入れてきたのは、スペイン語圏の文化・歴史に関わる仕事です。出版の仕事に関わり始めたのは1980年代半ばでしたが、間もなく来る1992年に、世界の歴史の捉え方が大きく変化するだろうと予感していました。この年こそ、あのクリストファー・コロンの大航海とアメリカ到達からちょうど5世紀が経つからです。人類史の中でのこの5世紀には、重大な出来事がたくさん詰まっています。征服・植民地化・植民地から資源を獲得した欧州における資本主義の発展・産業革命・繁栄した地域への労働力移動・ひとと物の行き来――いわば、グローバリゼーションがこの過程で進行したのです。その主要な舞台となったラテンアメリカとイベリア半島が5世紀をかけて刻んだ歴史と、そこで育くまれた文化を紹介することを、私たちの出版活動の軸の一つにしようと考えたのです。日本は、アジアで唯一植民地主義を実践した国ですから、この作業は私たちの足元を見つめ直す機会にもなると考えました。

しかし、スペインもラテンアメリカも、日本からは遠い。それらの国と文化に強烈な関心を持つ人は確かにいますが、それはあくまでも少数です。どう工夫して、少しでも多くの読者を獲得するか。人間は多様です。スペイン語圏を深く理解するためには、人間の多様性に見合うように、数多くの入り口を用意してはどうか。一つのジャンルに固執しない。文学、映画、美術、音楽、デザイン、建築、歴史、考古学、文化人類学、社会思想、社会運動、社会的な証言、革命、哲学、サッカー――さまざまな分野の書物を企画し、刊行してきました。30年有余で、その数は150冊に達しつつあります。すると、私たちが刊行する書物は、次第に、スペイン語文化圏全体を小宇宙として表現するような形を成していったのです。

私たちは小さな出版社でしかありませんから、映画や音楽や美術など他のジャンルのひとたちの仕事も積極的に活用します。アルモドバルの映画がよいから、彼の本『オール・アバウト・マイ・マザー』を出す。フランコの時代末期に、その政治活動ゆえに死刑囚となり鐵環処刑された青年を描いた映画『サルバドールの朝』が評判になれば、その原作、フランセスク・エスクリバノの『カウントダウン――サルバドール・プッチ・アンチックの物語』(Francesc Escribano “Cuenta Atrás: La historia de Salvador Puig Antich”)を出版する。私たちが数多くの装丁をお願いしたデザイナーは、アントニオ・ガウディの創造性に惚れ込んで映画まで作ってしまいました。そこで、私たちもガウディに関する本を数冊出して、上映会場で売る。すると、映画という入り口からスペイン語文化圏に入った人は、そこに映し出された土地の風景や人びとのたたずまい、展開される物語に刺激されて、次は別な入り口を探し求めて、例えば文学や歴史の書物の読者になるのです。

たくさんの窓や入り口を持つことは、民族の問題を考えるうえでも重要です。スペインもラテンアメリカも、単一民族ではなく多民族によって構成されている社会です。その意味では歴史過程には重大な悲劇も孕まれており、その調査と分析も必要です。バルトロメー・デ・ラス・カサスの『インディアス破壊に関する簡潔な報告』(Bartolomé de las Casas,”Brevíssima relación de la destruyción de las Indias”)を初期の段階で出版したのは、そのためです。また現代にあっても民族差別は残っていますが、逆に、民族的な多様性が極めて寛容な社会をそこに生み出していることにも注目したいのです。日本には、日本が単一民族社会であることを利点として強調する意見があります。それは事実としても間違いであり、民族排外主義に通じる危険な考えでもあります。このような日本社会が、寛容性や異文化・異民族交流をめぐって、多民族社会から学ぶべきことはたくさんあるのです。ですから、私たちは、民族・植民地問題に関する本、覗き見主義ではない文化人類学の本などを意識的に企画・刊行してきました。

いくつか、想い出の深い出版物に触れます。

ガルリエル・ガルシア=マルケスは、日本でもよく読まれている作家です。重要な文学作品は、すでに他の大きな出版社によって刊行されていました。そこで、私たちは、彼が新聞記者時代に書いた社会面や芸能欄の記事がスペイン語で集成されていることに着目し、それを読んでみました。すると、それらの記事が、とても読ませるのです。1950年代にコロンビアで起きたちょっとした事件や出来事を扱ったその記事が、まるで、よくできた「ショートショート」の創作のように思えてくるのでした。ローマ特派員の時代には、映画好きのマルケスらしく、イタリア映画や女優たち、そしてもちろんローマ法王に関する記事があって、それも面白かった。そこで、私たちは、それを『ジャーナリズム作品集』(“ Obra Periodistica”)として刊行しました。意外な観点からの出版でしたが、かなりの読者に好感をもって迎えられたと思います。

ディエゴ・マラドーナの本も出版しました。彼はサッカーの歴史を塗りかえた不世出の天才レフティでしたが、メディアを通して実に数々の名言を放っています。いわば、「言葉のファンタジスタ」でもあります。そこで、アルゼンチンのジャーナリストがまとめた本(Diego dijo :Las mejores 1000 frases del “10 ″de toda su carrera” )を、『マラドーナ!――永遠のサッカー少年「ディエゴ」が話すのを聞いた』を出版しました。期待したほどは売れませんでしたが、スペイン語文化圏でとても人気のあるスポーツに関わる仕事ができたという満足感が得られました。

1980年代末、バルセロナを訪れた私は、或る人に紹介されて、漫画家セスク氏に会いました。ユーモアとウィット、風刺に満ち溢れた氏の漫画は、フランコ治世下でたくさん発禁になりました。彼の漫画を時代順に並べてみると、それは、さながら「カタルーニャ現代史」となるのでした。発禁作品には、上から×印を付けて『発禁・カタルーニャ現代史』を名づけて出版しました。解説は、モンセラー・ローチさんに会って、お願いしました。たぐい稀なコラボレーションによる出版でした。日本語版が世界に先駆けて出版され、カタルーニャ語版はそのあとで出たのです。

以上簡潔に述べてきたように、出版企画・編集・営業・販売などの点で、私たちなりの努力は続けてまいりました。力不足は否めませんが、小さいながらもある程度の手応えを感じていることも事実です。しかし、インターンット時代に突入して早や4半世紀――人人は指でタブレットを圧す作業に熱中するばかりで、落ち着いて書物を読むという習慣は急速に失われつつあります。当初から限定的な数の読者に向けての出版活動であった私たちは、読者のいっそうの減少、書物の売り上げの低下傾向に苦しんでいます。この傾向は、世界のどこでも起こっていることだと思います。私たちなりの工夫をさらに重ねて、この現実に立ち向かっていこうと思います。

そんな中にあって21世紀に入って以降、スペイン語圏の現代作家の作品を紹介する「セルバンテス賞コレクション」を14冊、スペイン語圏の読者にながいあいだ読み継がれてきた作品を紹介する「ロス・クラシコス」シリーズが12冊まで出版できたのは、スペイン文化省をはじめとして、メキシコ、アルゼンチン、チリなどの文化省からの出版助成があったからこそでした。「ロス・クラシコス」シリーズの12冊目、最新刊は、ここにありますパブロ・ネルーダの『大いなる歌』です。このような重要な詩集を出版できたことは、私たちのささやかな誇りです。

私たちをここまで熱中させるような文化表現を生み出してこられたスペイン語文化園の皆さまに対する深い尊敬と感謝の気持ちをお伝えして、私の話を終わります。

Muchas gracias por su atención.

「死刑囚表現展」の13年間を振り返って


『創』2017年12月号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が運営する「死刑囚表現展」は今年で13回目を迎えた。始めたのは2005年。その前年に、東京拘置所に在監する確定死刑囚、大道寺将司氏の母親・幸子さんが亡くなった。遺された一定額の預金があった。近親者および親しい付き合いのあった人びとが集い、使い道を考えた。筆者もそのひとりである。幸子さんは、息子が逮捕されて以降の後半生(それは、54歳から83歳までの歳月だった)の時間の多くを、死刑制度廃止という目的のために費やした。

息子たちが行なったいわゆる「連続企業爆破」事件、とりわけ1974年8月30日の三菱重工ビル前に設置した爆弾が、死者8名・重軽傷者385名を出したことは、もちろん、彼女の胸に重く圧し掛かっていた。本人たちが意図せずして生じさせてしまったこの重苦しい結果が彼女の頭を離れることはなかったが、息子たちは、マスメディアがいうような「狂気の爆弾魔」ではないという確信が揺ぐことはなかった。この確信を支えとして、彼女は「罪と償い」の問題に拘りつつ、同時に死刑廃止活動への関わりを徐々に深めていった。息子以外の死刑囚とも、面会・文通・差し入れ・裁判傍聴などを通して、交流した。人前で話すことなど、およそ想像もつかない内気な人柄だったが、乞われるとどこへでも出かけて、息子たちが起こした事件とその結果に対する自らの思いを話すようになった。死刑囚のなかには、自らが犯した事件・犯罪について内省を深め、罪の償いを考えているひとが多いこと、また、国家の名の下に命を最終的に絶たれる死刑事件においても冤罪の場合があることなどを彼女は知った。

幸子さんは、晩年の30年間を、獄外における死刑廃止運動の欠くことのできない担い手のひとりとして、死刑囚と共に「生きて、償う」道を模索した。この辺りの経緯は、幸子さんへの直接の取材が大きな支えとなっているノンフィクション作品、松下竜一の『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(初出「文藝」1986年冬号、河出書房新社。現在は、単行本も同社刊)に詳しい。

彼女の遺産の使い道を検討した私たちは、そのような彼女の晩年を知っていた。遺されたお金は、「死刑廃止」という目標のために使うのが彼女の思いにもっとも叶った道だろうという結論はすぐに生まれた。さて、どのように使おうか。討論の結果、次のように決まった。

死刑囚の多くは、判決内容に異議をもち再審請求を希望する場合でも、経済的に困窮していて、それが叶わないこともある。一人ひとりにとってはささやかな額ではあろうが、「基金」は一定の金額を希望者に提供し、再審請求のための補助金として使ってもらうことにした。毎年、5人前後の人びとの弁護人の手にそれは渡っている。

もうひとつは、死刑囚表現展を開催することである。死刑囚は、多くの場合、外部の人びとと接触する機会を失うか、ごく限られたものになるしか、ない。「凶悪な」事件を引き起こして死刑囚となる人とは、身内ですら連絡を絶つこともある。ひとは、自分が死刑囚になるとか、その身内になるとかの可能性を思うことは、ほとんどないだろう。だが、振り返れば、死刑囚がなした表現に深い思いを抱いたり衝撃を覚えたりした経験を、ひとはそれぞれにもっているのではないか。永山則夫氏の自己史と文学、永田洋子および坂口弘両氏が著した連合赤軍事件に関わる証言や短歌、苦闘の末に冤罪を晴らした免田栄氏や赤堀政夫氏の証言、そして、いまなお冤罪を晴らすための闘いの渦中にある袴田巌氏の獄中書簡やドキュメンタリ―映画、当基金の当事者である大道寺将司氏の書簡と俳句など、実例は次々と浮かぶ。世界的に考えても、すべてが死刑囚ではないが、マルキ・ド・サド、ドストエフスキー、金芝河、金大中、ネルソン・マンデラなど、時空を超えて思いつくままに挙げてみても、獄中にあって「死」に直面しながらなした表現を、私たちはそれぞれの時代のもっとも切実で、先鋭なものとして受け止めてきたことを知るだろう。それらに共感を寄せるにせよ批判的に読むにせよ、同時代や後世の人びとのこころに迫るものが、そこには確実に存在している。

日本では、死刑制度の実態が厚いヴェールに覆われているにもかかわらず、死刑を「是」とする暗黙の「国民的な合意」があると信じられている。刑罰の「妥当性」とは別に、死刑囚といえども有する基本的な人権や表現の自由についての認識は低い。「罪と罰」「犯罪と償い」をめぐっては冷静な議論が必要だが、「死刑囚の人権をいうなら、殺されたひとの人権はどうなるのだ」という感情論が突出してしまうのが、日本社会の現状だ。死刑囚が、フィクション、ノンフィクション、詩、俳句、短歌、漫画、絵画、イラスト、書など多様な形で、自らの内面を表現する機会があれば、そのような社会の現状に一石を投じることになるだろう。死刑囚にとって、それは、徹底した隔離の中で人間としての社会性を奪われてしまわないための根拠とできるかもしれない。

そのような考えから表現展を実施することにしたが、死刑囚の表現に対してきちんと応答するために、作品の選考会を開くこととして、次の方々に選考委員をお願いした。加賀乙彦氏(作家)、池田浩士氏(ドイツ文学者)、川村湊氏(文芸評論家)、北川フラム氏(アートディレクター)、坂上香氏(映像作家)。基金の運営会からは私・太田昌国(評論家)が加わった。第7回目を迎えた2011年には、ゲスト審査員として香山リカ氏(精神科医)を迎えたが、香山さんにはその後常任の選考委員をお願いして現在に至っている。

「死刑囚表現展」と銘打つ以上、応募資格を持つのは、当然にも死刑囚のみである。この企画が発足した2005年ころの死刑囚の数は、確定者と未決者(地裁か高裁かで死刑判決を受けているが、最高裁での最終判決はこれからの人)合わせて百人程度だった。それから12年を経た昨今では、125人から130人くらいになっている。このうち、表現展に作品を応募する人は、平均15%から20%くらいの人たちである。

例年の流れは、以下のとおりである。7月末応募締め切り。文字作品はすべてをコピーして、選考委員に送る。その厚みはだいたい30センチほどになるのが普通だ。9月選考会。絵画作品はその場で見て、討議して選考する。10月には「死刑廃止集会」という公開の場で、改めて講評を行なう。

「基金」のお金は、参加賞や各賞の形で応募者に送られる。「賞」の名称(名づけ)には、いつも苦労する。「優秀賞、努力賞、持続賞、技能賞、敢闘賞」などはありふれているが、獄中にありながら現代的な言葉遣いに長けた人には「新波賞」(文字通り、「ニュー・ウェーブ」の意味である)が、また周囲の雑音に惑わされず独自の道を歩む人には「独歩賞」とか「オンリー・ワン賞」が与えられた。肯定・否定の論議が激しかった作品には、「賛否両論賞」が授与されたこともある。この「賞金」がどのように使われているかは、外部の私たちは、詳しくは知る由もない。少なからぬ人びとが、来年度の応募用のボールペン、色鉛筆、原稿用紙、ノート、封筒、切手などの購入に充てているようだ。お金に困らない死刑囚など存在しているはずはないし、物品制限も厳しい中で、なにかしらの糧になっているならば、「基金」の趣旨に叶うことだ。

応募者には、選考会での各委員の発言内容をすべて記録した冊子が送られる。公開の講評会の様子も、死刑廃止のための「フォーラム90」の機関誌に掲載されるので、それが差し入れられる死刑囚のみならず、希望するだれの目にも触れる。これは、精神的な交流を、一方通行にせずに相互交通的なものにするうえで大事なことであると痛感している。選考委員の率直な批判の言葉に、応募者が憤激したり、反論してきたりすることも、ときどき起こる。ユーモアや諧謔をもって応答する応募者もいる。常連の応募者の場合には、明らかに、前年度の作品への選考委員の批評を読み込んで次回作に生かしたと思われる場合も見られる。

この13年間に触れてきた膨大な作品群を通して考えるところを、以下に記しておきたい。自らが犯してしまった出来事を、俳句・短歌などの短詩型やノンフィクションの長編で表現する作品が目立つ。前者の場合、短い字数ゆえに、本人の心境をごまかしての表現などはそもそもあり得ないもののようだ。自己批評的な作品は、ずっしりと心に残る。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり  (響野湾子)

振り捨てて埋めて忘れた悲しみを思い出させる裁判記録 (石川恵子)

一読後、その人が辿ってきた半生がくっきりと見えたような感じがして、ドキリとする作品も散見される。作品の「質」を離れた訴求力をもって、こころに呼びかけてくる作品群である。

父無し子祖母の子として育てらる吊るされて逝きて母と会えるや (畠山鐵男)

弟の出所まで残8年お互い元気で生きて会いたし        (後藤良次)

両親を知らずして育ち、高齢を迎えたいま、獄中に死刑囚としてあること。2人、3人の兄弟が全員刑務所に入っていること――そんなことを読み取ることができる表現に、掲句に限らず、ときどき出会う。ここからは、経済的な意味合いだけには還元できない現代社会の「底辺」に澱のように沈殿している何事かを感受せざるを得ない。ひとが残酷な事件を犯すに至る過程には、社会的な生成根拠があろう。貧困、無知、自分が取るに足らぬ存在と蔑まされること、社会全体の中での孤独感、根っことなるものをことごとく引き抜かれていること――それらすべてが、一人の人間の中に凝縮して現われた時に、人間はどうなり得るか。永山則夫氏の前半生は、まさにそのことを明かしている。同時に、永山氏は自らが犯した過ちを自覚したこと、それがなぜ生まれたかについて「個人と社会」の両面から深く追求する表現を獲得しえたこと、それが書物となって印税が生じたとき、自らが殺めた犠牲者の遺族に、そして最後には「貧しいペルーの、路上で働く子どもたち」に金子を託すという形で、彼独自の方法で「償い」を果たそうとしたこと――などが想起されてよいだろう。

ノンフィクションの長編で自らの犯罪に触れた作品からも,時に同じことが読み取れる。同時に、「凶悪な犯罪」というものは、たいがい、絵に描いたように「計画的に」行なわれるものではないようだ、ということにも気づかされる。作品が真偽そのものをどこまで表現し得ているかという問題は残る。だが、文章そのものから、物語の展開方法から、事実が語られているか、ごまかしがあるかは、分かるように思う。その前提に立てば、実際の犯行に至る過程のどこかで、複数の人物の「偶然の」出会いがなかったり、車や犯行用具が一つでも欠けていたりしたならば、ここまでの「凶行」は起こらなかったのではないか、と思われる場合が多い。逆の方向から言えば、「偶然」の出会いに見えるすべての要素が、たがが外れて合体してしまうと、あとは歯止めが利かなくなるということでもある。その過程を思い起こして綴る死刑囚の表現からは、ひたすらに深い悔いと哀しみが感じられる。

問題は、さらにある。被疑者は逮捕後に警察・検察による取り調べを受ける訳だが、死刑囚が書くノンフィクション作品においては、その取り調べ状況や調書の作り方への不満が充満しているということである。冤罪事件の実相に触れたことがある人は、取り調べ側がいかに恣意的に物語を作り上げるものであるかを知っておられよう。「物語」とは、ここでは、「犯行様態」である。捜査側の思い込みに基づいて、現場の状況と数少ない証拠品に合わせるように「自白」を誘導する手口も、犯人をでっち上げることで初動捜査の失敗を覆い隠すやり口も、根本的にご法度なのだ。だが、実際には、それがなされている。このようなシーンが、十分に納得のいく筆致で書かれていると、死刑囚にされている表現者がもつ怒りと悔しさが伝わってくる。

絵画作品の応募も活発だ。選考会でよく話題になることだが、幼子の時代を思い起こしてみれば分かるように、文章を書くことに比して、絵を描くことは、ひとをしてヨリ自由で解放的な空間に導いてくれるようだ。人を不自由にすることに「喜び」を見出しているのかとすら思われる、拘置所の官僚的な規則によって、獄中で使用できる画材には厳しい制限がある。だが、その壁を突破しようとする死刑囚の「工夫の仕方」には、舌を巻くものもある。常連の応募者の画風に次第に変化が見られる場合があることも、楽しみのひとつだ。最近は、立体的な作品が生まれている。着古した作務衣を出品するという意想外な発想をする人も現われた。或るひとが漏らした「まるでコム・デ・ギャルソンだ」とは、言い得て妙な感想だった。極限的に狭い空間の中から、ここまで想像力を伸ばし切った作品が生まれるとは――と思うことも、しばしばだ。

この企画を始めて13年――11年目には、1980年代に冤罪を晴らした元死刑囚の赤堀政夫さんが、自分もこの企画に協働したいと申し出られて、一定の基金を寄せられた。以後、「基金」の名称には赤堀さんの名も加わることとなった。初心を言えば、当初は10年間の企画と捉えており、その間にこの日本においても「死刑廃止」が実現できればよいと展望していた。残念ながら、政治・社会状況は悪化の一途を辿り、それは実現できなかったからこそ、現在も活動は続いている。この間には、無念にも、かつての応募者が処刑されてしまったこともある。獄死した死刑囚もいる。このように、私たちには力及ばないことも多いが、この表現展は、死刑囚と外部社会を繋ぐ重要な役割を果たしていると実感している。

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

津島佑子さんの思い出に


『津島佑子――土地の記憶、いのちの海』(河出書房新社、2017年1月20日)掲載

津島佑子さんとの付き合いは、アイヌの人たちとの関わり合いから始まった。20世紀末も近づいた1990年代、私は民族・植民地問題に関わる発言と活動を集中的に行なっていた。人類が直面しながら、なかなかうまい解決策を見出し得ないでいる厄介な問題の一つが、そこに凝縮していると考えたからだ。1992年には、「コロンブスの大航海と地理上の発見」の時代(1492年)から数えて500年目という時代的符合に注目して、「500年後のコロンブス裁判」という討議の場をもった。異民族同士の「出会い」が、大量虐殺・征服・植民地支配の始まりを告げることになった、近代の歴史的な大事件だったからだ。(のちに知ったことだが、津島さんもこの年、メキシコの山間部で開かれた国際会議に招かれて出席していたが、そこには各地の先住民が参加していたという。知らずして、画期的ともいえる〈時代の息吹き〉を感じ取る場に、等しく立ち合っていたといえよう)。

翌年の1993年には、その国内的な応用問題として、東京にアイヌ料理店を作る活動をしていた。同じ郷里=北海道釧路の出身で、関東圏に住むアイヌの女性たち(小学校時代の同級生や、その年長者の世代の)から、好きな時に集まり、働くことで生活の糧にもなる同胞の寄り合いの場所を作りたいと相談を受けた。日本=単一民族国家論に固執する当時の日本政府も地方自治体も、アイヌ民族のために特別な予算措置を講じることを忌避していた。北海道なら、行政の手で「生活館」が作られるが、東京ではそうはいかない。業を煮やした彼女らは、草の根の力でそれを実現したいと相談してきたのだ。早速そのためのカンパ活動を開始するために、呼びかけ人をお願いする人の人選を始めた。私がその作品の多くを読んでいて、底流にある「北方志向性」を感じとっていた作家・津島佑子さんは筆頭に挙げたいくらいの方だった。しかも、そのしばらく前にフランスに滞在していた津島さんが、アイヌの神話「カムイ・ユカラ」をフランス語に翻訳する手助けをしたと記したエッセイも読んでいた。未知の人だったが、思い切って手紙を書いた。意外と、あっさりと受けて下さった。

断続的な付き合いが始まったのは、それ以降のことである。私は、南米ボリビアの映画集団との付き合いがあり、その作品を自主上映したり共同制作したりする活動に取り組んできた。集団を主宰するホルヘ・サンヒネス監督は白人エリートの出身だが、アンデスの人種差別社会が自己変革を遂げるためには、先住民族の歴史哲学や自然観を学び、取り入れることが重要だと考えていた。彼が監督する映画では、先住民が主人公を演じ、スクリーンでは先住民の母語が飛び交っていた。物語も、先住民の生活・歴史意識・自然哲学を尊重して組み立てられていることが歴然としていた。それは今でこそ珍しくはないが、1960年代半ばから制作活動をしていた彼らがそうしていたことは、世界的に見ても先駆的なことだった。それは普遍的な問題提起でもあったから、日本での反響も大きかった。あるとき、津島さんならきっとこれらの作品に深い関心を持たれるだろうと思い、上映会にいらしていただいたり、ビデオをお送りしたりしていた。

まもなく、津島さんのエッセイでは、ボリビアの映画を観た感想が綴られるようになった。

2000年代に入って間もなく、福岡市の公的ホールがこのボリビア映画の上映会を企画してくれた。図書館が併設されている施設なので、どなたか作家と一緒に来福し、対談をしてくれないかという提案があった。津島さんに相談し、一泊しなければならないこの福岡行きに同行していただいた。この対談では、興味深い意見の違いが生まれた。知里幸恵編の『アイヌ神謡集』が岩波文庫に入ったのは1978年のことだった。同文庫独自の分類によって、外国文学のジャンルに属することを意味する赤帯が付けられたのだが、それはアイヌ語には日本語との類縁性がないからと編集部が考えたからだった。津島さんは、今までアイヌ民族を差別してきた日本社会が、アイヌ独自の口承文学を日本文学の枠組みから排除していることが、その差別構造の延長上にあると捉えて、心外のようだった。私は、言語上の区別に加えて、次のことを思った。人間(アイヌ)と動物・鳥・魚たちとの親和性を謳う『神謡集』の原形は、知里幸恵が「序」で言うような、「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の大地で」あり、「天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」時代に創造されたのだろう。それは、蝦夷地に松前藩の部分的な支配が及ぶ遙か以前から、ましてやそこが明治維新国家の版図に強制的に組み入れられる以前から、アイヌの人びとの間で語り継がれてきたことを意味しよう。そのような時代に原形が作られた口承文学を、事後的に形成された日本「国」の文学(古典は黄帯、近代以降は緑帯)の枠内に収める理由はない――私はそう考え、岩波文庫編集部の判断は適切だと思うと言った。アイヌ民族およびその文化と歴史を、日本国のそれに包摂することなく、独自のものとして捉える方法に私は荷担していた。

要は、「国」をどう捉えるか、そして「国家社会」の責任をどのような位相で捉えるか、という点に帰結することのように思えた。この意見の「食い違い」が孕む緊張感は、心地よかった。

同じころ、出版の分野でも津島さんと仕事を共にした。津島さんが、他の文学者と共に、海外の文学者との交流に力を入れていたことはよく知られている。とりわけ、女性の文学者との間で。その頃は、「日印作家キャラバン2002」を経た時期で、まず出版したいという希望が出されたのは、インドのベンガル語文学者、モハッシェタ・デビの作品『ドラウパディー』だった。ガヤトリ・チョクロボルティ・スピヴァクが彼女の作品を高く評価することで、世界的な注目を集めつつある作家だということを、私自身初めて知った。幸いにも、よき翻訳者にも恵まれて(臼田雅之+丹羽京子)、しかも津島さんに加えて、同じく文学交流を続けていた松浦理英子、星野智幸両氏の「解説」も付して、この作品を出版することができたのは2003年のことだった(現代企画室刊)。

後年、津島さんは「日本女流文学者会」の責任者を引き受けていたが、会員の合意を得て「女流文学者会」そのものを解散するに際して、それまで交流してきたアジアの女性文学者の中から3人を選び、翻訳書として刊行したいとの相談があった。それは、2011年に、姜英淑(韓国)の『リナ』(吉川凪=訳)、陳雪(台湾)の『橋の上の子ども』(白水紀子=訳)、ムリドゥラー・ガルグ(インドのヒンディー語作家)の『ウッドローズ』(肥塚美和子=訳、いずれも現代企画室刊)として実現できた。原著者との翻訳権契約・翻訳・編集・刊行・関係者への発送などの諸過程で、津島さんとは何度も連絡を取って、すすめた。東アジアから南アジアにかけての、女性作家を主軸とした文学的な鼓動が伝わってきて、私にとっても忘れがたい企画となった。

この同じ年の「3・11」には、東北で大地震とその結果としての福島原発事故が発生した。責任省庁としての経済産業省を包囲して、原発の全面的な即時停止を求める行動が何度も取り組まれた。或る夜、その包囲行動で、偶然にも、津島さんと隣同士になったことがあった。その夜語り合った「不安」を、津島さんは「半減期を祝って」(初出、「群像」2016年3月号)と題した、見事な掌編に形象化した。この作品は絶筆となった。

最後にお会いしたのは、2014年5月だった。連休を挟んだ2週間にわたって、私たちは、ボリビア映画集団の全作品(長編11作品、短編2作品)の回顧上映を、東京・新宿のミニシアターで行なった。一夜、上映後の対談に出ていただいた。先住民族の存在が問いかけてくる諸問題について、多面的な光を当てる内容になったと思う。津島さんが、突然のように亡くなってしばらくして、津島さんの作品の英語訳をいくつか担当されたというジェラルディン・ハーコートさんが連絡をくれた。ユーチューブには、ボリビア映画上映時の津島さんと私の対談映像が流れているが、そこには津島さんの思いが非常によく表われている、津島佑子という作家をヨリ広く世界に知らしめるために、対話の部分を英語訳して流したいという希望を言ってこられた。

数ヵ月後、それは実現した。→https://www.youtube.com/watch?v=83pIj8FL1RY

そのしばらく前に、津島さんの最後のエッセイ集『夢の歌から』(インスクリプト)と遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社)が私の元に届いた。津島さんの晩年の小説世界は、地球上のさまざまな先住民族の神話や生活に着目することで、時空を超えた広がりを見せていた。遺作『ジャッカ・ドフニ』はそれをさらに徹底させて、オホーツク海、日本海、南シナ海、ジャワ海を舞台に、17世紀から21世紀にかけての物語が雄大に展開されている。時間と空間の規範から解放された自由自在さを得たこの作品を読む私たちは、現実には、この21世紀に(!)狭くも〈国家〉と〈民族〉を拠り所にして〈排外〉と〈不寛容〉の精神を声高に叫ぶ者たちが広く社会に浸透した時代を生きている。

「マルスの歌」の高唱があちらこちらから聞こえてくる時代状況の中で、私は、類い稀なこの作家の「文学的抵抗」の証としての作品を繰り返し読み、自らの中でそれをさらに豊かなものに育てたいと思う。

死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も12回目――第12回「大道寺幸子・赤堀政夫基金 死刑囚表現展」応募作品に触れて


『出版ニュース』2016年11月中旬号掲載

刊行されたばかりの『年報・死刑廃止2016』(インパクト出版会)の「編集後記」の末尾には「本誌も通巻20号、死刑が廃止にできず続刊することが悔しい。」とある。これに倣えば、「死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も第12回目。世界に存在する国家社会のおよそ3分の2に当たる140ヵ国近くでは死刑が廃止されているのに、私たちはいつまでこれを続けることになるのだろうかと慨嘆する」とでもいうことになるだろうか。同時に、次のことも思い出す。2014年秋、東京・渋谷で開いた「死刑囚絵画展」を観に来てくれた友人が言った。「ここまでの作品が寄せられているのだから、もう、辞められないね」。そう、死刑制度は無くしたい。同時に、実際に存在している死刑囚の人びとがここまで「表現」に懸けている現実がつくり出されている以上、少なくとも制度が続いている間は、表現展を辞めるわけにもいかない。私たちの多くもずいぶんと高齢になってしまい、どう継続できるかが大きな問題なのだが――そんな思いを抱きながら、去る9月中旬に開かれた選考会議に臨んだ。

加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、香山リカ、坂上香、そして私、の七人の選考委員全員が出席した。運営会のスタッフも10人ほどが傍聴している。

すでに私の頭に沁み込んでいた句があった。作品としてとりわけよいとは言えないが、死刑囚が外部に向かってさまざまな形で表現している現実を、ずばり(少しユーモラスな形で)言い当てていると思えたのである。

〇番区まるで作家の養成所

拘置所で収用者番号の末尾にゼロがつくのは重罪被告で、死刑囚が多い。そこから、それらの人びとが収容されている番区を「〇番区」と呼ぶことになったようだ。思えば、選考委員の加賀さんには『ゼロ番区の囚人』と題した作品がある。加賀さんは東京拘置所の医官を勤めていた時期があるから、その時の経験を作品化したのである。確かに、死刑囚表現展がなされる以前から、ゼロ番区からは、多くの表現者が生まれ出た。正田昭、島秋人、平沢貞通、永山則夫……。この句の作者は、そのことの「意味」を、あらためて確かめているように思える。

作者とは、兼岩幸男さんである。常連の応募者だが、昨年時事川柳というジャンルを開拓して以来、その表現に新しい風が吹き込んできた感じがする。掲句同様、ユーモアを交えて、死刑囚である自分自身をも対象化している句が印象に残る。

死刑囚それでも続けるこのやる気

就活と婚活してる死刑囚

拘置所へ拉致に来るのをじっと待つ

もちろん、昨年同様、社会の現実に向き合った作品にもみるべきものはある。

マスメディア不倫で騒ぐ下世話ぶり

選挙前基地の和解で厚化粧

日々の情報源は、半日遅れの新聞とラジオ・ニュースのみ、それでも、見える人には、事態の本質が見える。溢れかえる情報に呑み込まれて、情報の軽重を見失いがちな一般社会に生きる私たちに内省を迫る。ただし、他の選者の評にもあったが、直截的な社会句には、俗情に阿る雰囲気の句もあって、それは私も採らない。この人独自の世界を、さらに未知の領域に向けて切り拓いていくことを、切に望みたい。

高井空さんの「三つの選択し」は、ショートショートの創作。確定死刑囚が突然理由も知らされることもなく、航空機でどこかへ移送される。着いたところは、海外の戦場だった。自衛隊も含めて憲法9条の縛りで戦争には参加できない。その点「働きもせず、税金も納めず、ただで飯を食って、どうせ殺す死刑囚であれば」戦力になり得る、しかも「奴らは、既に、人を殺した経験がある」。国内的には、死刑囚・某の死刑が執行された、ということにしておけばよい――動員した側の言い分はこうだ。そんな世界に抛り込まれた死刑囚の心象がクールに描かれてゆく。確定死刑囚ならではの、迫りくる「戦争の時代への危機感」が吐露されていて、緊張した。後述する響野湾子さんの短歌にも、こんなものがあった。

裁判員制度のやふに 赤紙がいつか来るはず確定囚にも

獄にある確定死刑囚は、独特の嗅覚をもって、獄外で――つまり自らの手が及ばぬ世界で――進行する政治・社会状況を読み取っているのかもしれぬ。時代に対するこの危機意識には、獄壁を超えて連帯したいと、心から思った。高井さんが、別な名で応募された従来の作品については(とりわけ、自らがなした行為を振り返った作品については、読む者の胸に響くものが少ないがゆえに)ずいぶんと酷評した記憶があるが、この作品からは、今までになかった地点に踏み出そうとしている心意気を感じ取った。書き続けてほしい。

さて、常連の響野湾子さんである。短歌「蒼きオブジェ」575首、俳句「花リンゴ」250句、書き散ら詩「透明な一部」から成っていて、今年も多作である(「透明な一部」は、本名の庄子幸一名も連記した応募である)。短歌の冒頭に曰く「執行の歌が八割を占めています 意識的に詠んでいます 死刑囚徒だから 死刑囚の歌を詠わねば 誰れが?」。選者である私たちが、死刑執行をテーマにした作品が多く、重いとか息苦しいとかいう感想を漏らしたことへの応答だろうか。そう、言われる通りです、というしかない。この作品を読む前に、私は拘置所で或る死刑囚と面会した。彼はぽつりといった。「他人を殺めた者でなければ分からないことがある」。ふたりは、死刑囚としての同じ心境を、別々のことばで語っているように思える。そこで生まれるのは、贖罪の歌(句)である。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり

痛みなくばひと日たりとも生きられぬ壁に頭を打ちて耐えをり

生活と言へぬ暗さの中に生き贖罪(ルビ:つみ)てふ見へぬものと闘ふ

贖罪記書けず閉ず日や有時雨

短歌集の表題「蒼きオブジェ」に見られるように、「蒼」をモチーフとした作品に佳作が

目立った。

溜息は一夜で満ちる独房は 海より蒼し 私は海月

海月より蒼き体を持つ我れは 独房(ルビ:へや)で発光しつつ狂(ルビ:ふ)れゆく

絵心の無き性なれど この部屋を歌で染めあぐ 蒼瑞々しく

主題を絞り込んだ時の、表現の凝縮度・密度の高さを感じた。他に、私には以下の歌が強く印象に残った。

いつからか夜に知らぬ人現われて 一刷毛闇を我に塗りゆく

責任を被る狂気の無き人の 筆名の文学に色見えてこず

井上孝紘、北村孝、北村真美さんの作品は、もちろん、個別に独立したものとして読まなければならないのだが、関わりを問われた共通の事件が表現の背後に色濃く漂っていて、関連づけて読むよう誘われる。弟(孝紘さん)は兄(孝さん)と母親(真美さん)の無実を主張する文章を寄せており、孝さんは無実を訴える。真美さんはその点には触れることなく、10年の歳月、同じ拘置所の「同じ空間に居た」女性死刑囚が処刑された日のことを書く。「死刑囚が、空気に消える時、そこに涙は無い。死刑囚が、消える時、何も変わらない一日となる」。弟は、捜査員の誘導で、罪なき兄と母を「共犯」に仕立て上げる調書を取られたことを悔やむ。その心境を、こう詠む。

西仰ぎ 見えろと雲に 兄の笑顔(ルビ:かお)

各人の「表現」が今後いかにして事件の「闇」に肉迫してゆけるか。刮目して、待ちたい。

昨年、初の応募で「期待賞」を受賞した高田和三郎さんが、詩・詞編とエッセイ「若き日の回想」を寄せられた。詩篇もまた、利根川の支流に近い故郷を思う慕情に溢れている。エッセイの末尾には「この拙文は自分が少年であった当事に経験した非生産的な生活状況について、恥を忍びながら書かせていただいた」とある。身体的な障がいをもつことによって「非生産的」と見なした世間の目のことを言っているのだろうが、それは、今回の相模原事件と二重写しになって見える。その意味で、社会の変わらなさに心が塞ぐ。ただ、もっと書き込んでいただきたい。今回で言えば、郷里が近い石川三四郎に触れた一節があるが、思想史上に独自で重要な位置を占めるこのアナキスト思想家に、名前だけ触れて済ませるのは惜しい。なぜ、名前が心に残っているのか。郷里の大人たちがどんな言葉遣いで石川三四郎のことを語っていたから、高田少年の頭にその名が刻み込まれたのか。掘り下げるべき点は、多々あるように思われる。

さて、数年前、もやしや大根の姿を、黒地を背景に絶妙に描いた絵が忘れられない高橋和利さんは、今回は大長編『凸凹三人組』を応募された。自らの少年時代の思い出の記である。几帳面な方なのだろう、幼い頃からつけていた膨大な日記を、いったん差し入れてもらい、それを基にしながらこの回想記を記したもののようだ。だから、戦時中の焼夷弾の作り方など、記述は詳細を極めて、面白い。戦後も、子どもたちの要求によって男女共学が実現する過程など、今は何かと分が悪い「戦後民主主義」が生き生きと機能していた時代の息吹を伝えて、貴重だ。いささか冗漫にすぎる箇所はあり、唐突に幼い少女の腐乱死体が出てきて終わるエンディングにも不満は残る。推敲を重ねれば、戦中・戦後の一時代の貴重な証言文学足り得よう。添えられた挿絵がよい。あのもやしや大根を描いた才は、高橋さんの中に根づいている。

若い千葉祐太郎さんは、無題の作品を寄せた。四行か五行を一区切りとする詩文のような文章が続く。難解な言葉を使い、メタファーも一筋縄ではいかない。自らが裁かれた裁判の様子と処刑のシーンを描いているらしいことはわかる。供述調書の作られ方に納得できないものを感じ、自らがなしたことへの悔悟の気持ちも綴られている。本人も難解すぎると思ったのか、後日かみ砕いた解説文が送られてきた。こんなにわかりやすい文章も書ける人が、あえて選んだ「詩的難解さ」は、若さゆえの不敵な挑戦か。悪くはない。

いつも味わい深い作品を寄せる西山省三さんは、「天敵の死」という詩と川柳10首。「人の死を笑ったり喜んだりしてはいけませんよ」と幼い作者を諭した母に謝りながら歓喜するのは鳩山邦夫が死んだから。法相時代13人の死刑囚の執行を命じた人。母の教えを大事に思いつつも、ベルトコンベアー方式での死刑執行を口走った、「一生使いきれないお金を持った」人の早逝をめぐる詩を、作者は「天敵鳩山邦夫が死んだとさ」という、突き放したような語句で締め括る。論理も倫理も超えて溢れ出る心情。半世紀以上も前のこと、戦争をするケネディが死んだのはめでたいといって赤飯を炊いて近所に配ったら隣人に怪訝な顔をされたといって戸惑っていた故・深沢七郎を、ゆくりなくも、思い起こした。この種の表現は面白い、という心を抑えることはできない。だが、これは、やはり、おもしろうて、やがて、哀しき……か。

林眞須美さんは、その名もずばり「眞須美」と題したルポを応募。粗削りな文章だが、大阪拘置所で彼女がいかにひどい処遇を受けているかという実情は伝わる。日本の監獄がどんなところであるかを暴露するに、気の毒にも彼女はもっとも「適した」場所に――苛め抜かれているという意味で。しかも彼女はそれに負けないで、さまざまな方法を駆使して闘い続けているという意味も込めて――置かれているのかもしれない。

俳句・短歌・川柳を寄せる何力さんの表現に変化が見られる。「短歌(うた)不評俳句の方が無難かな」には、選者として苦笑する。広辞苑と大辞泉を「良友」として日本語を懸命に勉強している感じが伝わってくる。「死刑支持・中国嫌い同率だ 我の運命二重奏かな」は、日本社会に浸透している不穏な「空気」を、自己批評を込めて詠んでいて、忘れ難い。

音音(ねおん)さんからは、101までの番号を付した歌が送られてきた。言葉の使い方は、相変わらず軽妙だし、獄の外で進む新たな現象への関心も旺盛だが、例年ほどの「冴え」が見られないのはなぜだろうか。末尾に置かれた歌

被害者らの未来のすべて黒く塗り 何が表現ズルいと思う

にうたわれた思いが、作者の心に重い影を落としているのだろうか。これは、2014年の死刑囚絵画展(渋谷)の際のアンケートに一来場者が残した言葉からの一部引用歌だ。私がこの年の表現展の講評で、この批評に触れた。この問いかけから逃げることはできない。だが、向き合って、さらに「表現」を深めてほしいと望むばかりだ。

なお、河村啓三さんの長編「ほたるいか」は第7章まで届きながら未完に終わったので、選考対象外とした。ただし、娘の視点から父親である「自分」を語らせるという方法は、興味深いながらも、娘の感情を自分に都合よく処理している箇所があって、綻びが目立つ。

もっと深く書けるはずの人だという声があがったことを、来期には完成させて応募されるであろう作者のために書き留めておきたい。

絵画作品に移ろう。

伊藤和史さんの昨年の応募作品には、驚かされた。白い色紙に、凹凸の彫りが施されているだけだ。裸眼には、よく見えない。今年も同じ趣向だ。表現展運営会スタッフが、工夫してダンボール箱に作品を掛け、対面には紙製暖簾を掛けた。観る者は、用意されたライトを点灯して、暖簾をかき分けて暗い内部に入る。色紙に斜めからライトを当てると、凹凸が浮き彫りになって見える。この工夫と丁寧な作業ぶりに、あらためて驚く。

井上孝絋さんは、いつもの入れ墨用の彫りもの作品に加え、「独裁暴権」現首相の顔に「こいつが……ニクイ!」と書き込んだ。何を描いても、基本があるので、巧みだ。

加藤智大さんの「艦これ――イラストロジック65問▼パズル201問」は、昨年同様、私にはお手上げだ。だが、この集中力は何なのだろう。コミュニケーションの可能性や方法について、あれこれ考えさせられる、独自の密度をもった「表現」なのだ。

金川一さんの作品には、表現展のごく初期から惹かれてきた。「点描の美しさ」と題して、しゃくやくの花などを描いた今回の3点の作品にも、うまい、と思わず唸る。

奥本章寛さんは、初めての応募だ。「お地蔵さま」など5作品が、観る者のこころに安らぎを与えてくれるようなたたずまいで並んでいる。「せんこうはなび」の描き方には、とりわけ、感心した。

北村孝さんの「ハッピー」は、作者がおかれている状況を知っていると、胸に迫る。絵の中にある「再審」「証人」「支援」「新証拠」などの文字は、冤罪を訴える作者の切なる叫びだ。それぞれ星形に入れられてはいるが「希」と「望」の文字の間には大きな隔たりがある。このように表現した時の作者の思いを、及ばずながら、想像したい。

西口宗宏さんは、20点もの作品を応募。何らかのモデルがあって、それを真似しているのだろうが、「月見(懺悔)」のように、自らの内面の描写か、と思われる作品もちらほら。北川フラム氏が言うようにに、本来「グジャグジャな、本人の生理」が前面に出てくれば、化けるのだろうと思わせるうまさを感じとった。

風間博子さんは昨年、作家・蜷川泰司氏の『迷宮の飛翔』(河出書房新社)に挿絵を提供した。物語だけを読んで、想像力を「飛翔」させて描いた16枚の作品の豊かさに私は注目した。表現展への従来の応募作品に見られた「定型化」を打ち破るエネルギーが溢れる「命――2016の弐」の行方を注視したい。

紙幅が尽きてきた。高尾康司さん、豊田義己さん、原正志さん、北村真美さんからも、それぞれに個性的で、心のこもった作品が寄せられた。年数を積み重ねている人の作品には、素人目にも明らかな「変化」(「進歩」とは言いたくない)が見られて、うれしい。自らへの戒めを込めて言う、日々書く(描く)、これが肝心なのだ、と。

最後に、受賞者は以下の方たちに決まった。文字作品部門では、響野湾子さんに「表現賞」、兼岩幸男さんに「努力賞」、高橋和利さんに「敢闘賞」。絵画部門では、西口宗宏さんに「新人賞」、金川一さんに「新境地賞」、風間博子さんに「光と闇の賞」。

そして、さらに記しておかなければならないことがある。東京拘置所在監の宮前一明さんは、絵画作品を応募しようとしたが、拘置所側から内容にクレームがつけられ、とうとう出品できなかった。また、名古屋拘置所在監の堀慶末さんは、応募しようとした長編作品が、拘置所側に3ヵ月間も留め置かれ、9月3日になってようやく発信されたが、選考会の日までには届かなかった。拘置所が採った措置については、何らかの方法によって、その責任を追及していきたい。

以前にも触れたことのある人物だが、ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が今春来日した。1960年代~70年代に活動していた同国の都市ゲリラ組織トゥパマロスに属していた人物だ。長期にわたって投獄され、2度脱獄もしている。民主化の過程で釈放され、同組織も合法政党となって、国会議員となった。やがてその政策と人格が認められ、一般選挙で大統領にまで選出された。「市場は万能ではない」「質素に生きれば自由でいられる」などの端的な言葉で、世界全体を支配している新自由主義的な市場原理に「否!」を唱え、その発言は世界的な注目を集めている。日本を支配する、死刑制度を含めた行刑制度の頑迷さに嘆息をつくたびに、「元武装ゲリラ+獄中者+脱獄者」を大統領に選ぶ有権者が住まう社会の豊かさと奥行きの深さを思う。刑罰を受けて「獄」にある人びとの表現は、どの時代・どの地域にあっても、私たちが住む社会の〈現実の姿〉を映し出す鏡なのだ。

日本でスペイン語書籍を出版するということ


メサ・レドンダ「日本文学のスペイン語への翻訳――モンセ・ワトキンス没後15周年記念」

(2015年10月4日、セルバンテス文化センター、『第2回日本スペイン語・スペイン語圏文化国際会議』の1プログラムとして)

私は、現代企画室という出版社で企画・編集の仕事に携わって30年になります。小さな出版社でありながら、多様なジャンルの人文書を刊行しています。とりわけ、私自身がスペイン語文化圏の歴史と文化に深い関心を抱いてきたことから、ラテンアメリカとスペインに関わる文学・歴史・哲学・思想・音楽・映画・美術・デザインなどの書物をすでに100冊以上刊行してきています。そこで、日本の読者に対してスペイン語文化圏の多様で、豊饒な文化表現を紹介するうえでは、ささやかながらも一定の役割を果たしてきたと自負しております。

しかし、あるべき文化交流とは、一方通行では成立しません。相互浸透・相互交通の回路を作ることが、どうしても必要です。私たちの出版活動が15年ほど経ち、スペイン語文化圏に関わる書籍もかなりの冊数を出版できていた1990年代の初頭に、私たちはモンセ・ワトキンスと知りあう機会に恵まれました。話し合ってみると、彼女は日本の文化に並々ならぬ関心を抱いていることがすぐわかりました。その入り口になったのは、彼女がスペインで観た小津安二郎の映画でしたが、念願かなって日本に住み始めて以降、驚くべきスピードと深さで、日本文化の中に浸っていることを実感できました。それは、とりわけ、ふたつの点で、際立っていました。ひとつには、日々の生活スタイルの中で、現代日本人がすでに忘れて放棄してしまったものをふんだんに取り入れていることでした、ふたつ目は、日本の近代・現代の文学をよく読み込んでいるということでした。私は出版活動を、連れ合いである唐澤秀子と共に行なっていましたが、モンセと唐澤は特別の友情関係を出会いの当初から結んだといえます。

モンセは、それまでに読んできていた日本人作家の文学作品のなかから、彼女が特に気に入っているものをスペイン語に翻訳して出版したいという希望を持っていることを、私たちは知りました。そして、すでに島崎藤村の『破戒』という作品をスペイン語に翻訳しているということも聞いたのです。『破戒』は、特定の出身階層・居住地・職業の人びとを差別し迫害するという、日本社会に根深く存在する深刻な社会問題を扱った作品です。読解が決してやさしくはないこの作品をすでに翻訳し終えているというモンセの話を聞いて、彼女がいかに深く日本社会を理解しているかと知って、私たちは驚きました。この人となら、固い信頼関係に基づいて仕事を一緒にできるのではないかと考えたのは、その時です。

スペイン語文化圏で出版された書物を翻訳して出版してきた私たちのそれまでの仕事のあり方は、いわば、輸入に偏していました。モンセが行なっている日本文学のスペイン語訳を私たちの出版社を通して提供・販売できるなら、文化の相互交流を実現したいという私たちの長年の夢も叶うのです。そこで、モンセと私たちの共通の夢を実現するプロジェクトが始まりました。モンセが選び出してきた、スペイン語に翻訳したい近代日本文学作家のリストを見ると、先に触れた島崎藤村に加えて、宮沢賢治、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、太宰治、小泉八雲、武者小路実篤など、私たちが心から納得できる選択でした。

他方、モンセは、経済的には決して報われることがないであろうこの企画を実現するためには、公的な出版助成金を得ることがどうしても必要だと考えました。そこで、国際交流基金(Japan Foundation )が行なっていた出版助成プログラムに着目し、これに申請したのです。近代日本文学を広くスペイン語文化圏の読者に紹介したというモンセの熱心さは交流基金の担当者の胸を打ちました。基金の助成を得て、最初の仕事である宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』が出版されたのは、1994年のことでした。そして、モンセ・ワトキンスが無念にも亡くなる2000年までの6年間の間に、彼女は実に13冊もの日本文学作品を翻訳し、出版するという偉業を成し遂げたのです。

冒頭で述べたように、私たちはスペイン語文化圏の人びとの優れた著作を翻訳・紹介することで、精神的に実に大きなものを得てきました。いわば、輸入超過でした。モンセの仕事に協働することで、日本の側から皆さんに、ささやかなりとも「お返し」ができたのでは、と考えております。精神的な遺産の「輸入・輸出」がいくらかなりとも相互交通的なものになったのは、こうして、モンセ・ワトキンスの功績なのですが、その仲介者となり得た私たち現代企画室のスタッフにとっても深い喜びでした。

さて、次のテーマに移ります。モンセ・ワトキンスは、文学の翻訳・紹介者という顔と同時に、ジャーナリストとしての顔も持つ人でした。この分野の仕事として、1999年に

“El fin del sueño? : Latinoamericanos en Japón” とその日本語訳を、現代企画室から出版しております。これも、私たちにとっては必然的な仕事でした。

日本社会には、長らく、日本は古代以来異民族が混淆しながら形成された社会ではなく、単一民族国家であるという硬直した考え方があります。民族の純血性を尊いとする考えは、容易に、ゆがんだ自民族中心主義や排外主義に結びつきます。19世紀後半から20世紀半ばにかけて、日本はこのような考え方の基に、近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争を行なうという過ちを犯しました。敗戦後の社会でも、日本が単一民族国家であるとする考え方は生き延びています。少子高齢化社会を迎えている日本は、単純労働を担う若年労働力の不足に見舞われるようになりました。1990年代初頭、政府は、海外に住む日系人の子弟に限って、来日して単純労働に就くことを認めました。ラテンアメリカには、ブラジルの60万人を筆頭として巨大な日系人の社会があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、当時の日本政府は貧しい農村人口を減らすための棄民政策を取ったために、大量の移民をラテンアメリカ諸国に送り出したのです。それから1世紀が過ぎて、最初の移民の子弟たちが「豊かな」日本を目指して働きに来るようになりました。

そのような時代が来てしばらくして、CATLAという団体が結成されました。”Comité de Apoyo a los Trabajadores Latinoamericanos” です。遠くラテンアメリカからやって来た移住労働者たちは、厳しい労働条件・低賃金・労働中の怪我などの困難な問題を抱えるようになったので、彼ら・彼女たちを支える運動体が必要になったのです。もちろん、言葉の壁もあるので、日々の生活での細々したことでも問題が山積でした。ごみの出し方、子どもが通う学校のこと、外国人にはアパートを貸したくないと考える家主との交渉、人種差別――いくつもの問題があるので、よき仲介者を得て、じっくりと話し合ったり、交渉したりして、より良い相互関係をつくることが必要でした。私たちも、このCATLAの活動に協力していましたが、実はモンセ・ワトキンスとの初めての出会いは、このCATLAの会合の場だったのです。

經濟のグローバル化に伴って、ヨリ豊かな社会に向かって労働者が移動するのは、世界の趨勢です。移住労働者を待ち受ける苦難の物語はさまざまにあるでしょう。また、受け入れ国側が開かれた社会であって、遠来の働く人びとのために心を込めて、労働と生活、基本的人権の保証などの条件を整備する模範を示すなら、そこには異民族間の豊かな出会いの物語も生まれるでしょう。今はまだ、外国人労働者にとっての苦難の物語の方が多いのですが、ジャーナリストとしてのモンセがこのテーマに関心を持ったことは、彼女の根底にあるヒューマニズムの精神からして、十分理解できることです。この書物のスペイン語版は、ラテンアメリカから来ている移住労働者自身が自分たちの現状を歴史的な背景に基づいて知るために、また日本語版は、日本人が自分たちの社会は外国から来ている労働者をどのように処遇しているかを知るために、役立ったのです。

しかし、ジャーナリストの顔を持つモンセは、同時に、やはり文学愛好者でもあり続けていました。ラテンアメリカからの移住労働者が書いた短編の文学作品のアンソロジーを、彼女が編者になって、1997年に出版しています。タイトルは” Encuentro : Colectánea de autores latinos en Japón”です。”Encuentro”というタイトルには、彼女の祈りが込められているように思えます。

まとめます。モンセ・ワトキンスは、このように、日本文学をスペイン語に翻訳・紹介するうえでも、ラテンアメリカ諸国と日系移民の関わりを振り返るうえでも、先駆的で、重要な仕事を果たしました。もちろん、彼女はさまざまな協働者・協力者にも恵まれたとは言えますが、あの発動機のような彼女の働き・活動がなければ、どれ一つとして実現したものはなかったでしょう。その意味で、モンセ・ワトキンスの人格と仕事は、スペイン語文化圏と日本語文化圏の間に架けられた見事な懸け橋として、永遠に不滅なのです。

彼女の早すぎた死から15年を迎えるいま、「ありがとう、モンセ!」の言葉を、あらためておくります。

ご清聴、ありがとうございました。

『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話』(2014年10月19日、成蹊大学)における発言


以下は、2014年10月19日、東京の成蹊大学で開かれた同大アジア太平洋研究センター主催の『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話●ラウィ・ハージ/モナ・プリンス/サミュエル・シモン氏を迎えて』において、コメンテーターを務めた私が行なった発言の大要である。

司会は、同センターの田浪亜央江さん、アラブ世界からの3人の話を享けてコメントしたのは、アラブ文学研究者の山本薫さん、作家の小野正嗣さん、それに私であった。ここに紹介できるのは、もちろん、私の発言部分のみである。

■太田:太田です。よろしくお願いします。冒頭に田浪さんが今日の集まりの由来を話されて、韓国の仁川で2010年からアジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議が開かれていたということを聞いて、なつかしい思いに浸りました。実は僕は1980年頃、当時日本に日本・アジア・アメリカ作家会議というのがあってですね、それを運営している作家や評論家と知り合ったんですが、いっしょにやらないかと言われたんです。作家というのは狭義の小説家という意味ではなくて、文化活動家であったり、表現に関わっている者の総称だから太田でも大丈夫だからということで、日本・アジア・アメリカ作家会議をしばらく一緒にやりました。東京でも川崎でも国際会議を開きましたし、旧ソ連の中央アジアの民族共和国の首都のフルンゼ[現ビシュケク]とかタシュケントの国際会議にも行きました。僕が出た最後は86年、チュニジアのチュニス、PLOがベイルートを追われてチュニスに本部が置かれた頃の会議だと思います。回を重ねたこのような折りにアラブ・パレスチナの外交団とも、[マフムード・]ダルウィーシュ含めてお会いしているんですね。そんな記憶が甦ったり。そこで感じたことは後で触れます。

韓国といえば、日本での会議のときは、韓国の人では白楽晴(ペクナクチョン)などを招いたような気がするんですけれども、国際会議でお会いしたことはなくて、むしろ朝鮮民主主義人民共和国の作家代表団と会いましたね。チュニスで会ったときには世界文学のあれも読めない、これも読めない、ってタイトルをいろいろ挙げられて(笑)。僕もなんとかしてあげたいけれども、しかしなあ…、と問答に詰まったことを思い起こします。80年から86年というのは、韓国はまだ軍事政権下ですから、なかなか表現について厳しい時代であった。ただ、僕はもう当時出版に関わっていたので、僕が出す第三世界の思想・文学の本なんかは、しょっちゅう韓国に行く在日朝鮮人の文学者に渡して「創作と批評」社に届けてもらった。そうすると間もなく、『創作と批評』なり、それから『第三世界思想』という雑誌なども軍事政権下で出ていたと思いますが、そこに解放の神学についての文章が載ったりとか、アパルトヘイトについての文章が載ったりしまして。僕らが送っている本がそれなりに生かされているなあと感じて、それはそれで嬉しく思ったということがありました。

それはともかく、今日の3人の方のお話を聞いて考えたことをお話したいと思います。僕自身は約30年間、現代企画室という小さな出版社で哲学、思想、文学、芸術、さまざまな人文書の企画・編集をやってきたんですけれども、そこで思想的な基軸としてこだわってきたのは、我々が生きている日本社会にどういう問題があるかということを考えたときに、それはやはり日本民族中心主義というぬぐいがたい思想傾向だと思うんです。これは明治国家がヨーロッパを先進国のモデルとして富国強兵政策を取り始めたときに定められて、その後なかなか、敗戦後70年経とうとしているいまもぬぐいきれない、重大な一つの傾向だと思うんです。その傾向がここ数年間、極右政権の成立とともに社会全体に浸透して、とんでもない状況になっているというのは、皆さんご存知のとおりです。

このような日本民族を中心に据えてしか思想や文学のことを語り得ないこの社会の中にあって、いったいどういうふうにこれを打破していくのか。それはもちろん一つとは限らない、さまざまな方法があると思うんですが、やはりその一つの有効な方法は、他民族、異民族の歴史や文化に対するさまざまな窓口をどのように開いておくか。それが人々の心の中に、時間をかけてですが訴えかけていく、その可能性にかけるしかないだろうというふうに思ったんです。ヨーロッパであれば、ヨーロッパ中心主義に対して批判提起をしている哲学思想が軸でしょうし、あるいは、ヨーロッパを模倣して日本が近代化を遂げて、アジアで唯一の植民地帝国になったということは、いわゆる第三世界に対する偏見とか、そうしたものがこの社会の中に根付いているということになる。だから第三世界の文化、思想、文学、そうしたものに対する窓口をどの程度作ることができるのか。それが中心的な課題でした。

僕自身は、まあ今も関心が続いているんですが、わりあい集中的にラテンアメリカのことを学んできたこともあったので、出版に関わることになったときに、まずラテンアメリカの文学・思想をどのように紹介するのかということを一つの課題にしました。最初に言いましたように今の出版活動に30年くらい関わってきたと思いますが、僕らのような小さな出版社でも狭い意味でのラテンアメリカ文学はもう50冊くらい出してきたと思うんですね。文学以外も含めると100冊くらいでしょうか。まあもちろん日本には新潮社とか集英社とか岩波書店とか、僕のところとは比べものにならない大出版社がありまして、それはそれぞれラテンアメリカ文学に力を入れてきている時期がありましたが、全部合わせるとおそらく200冊とか…。あんまり並べて数えたことはありませんけれども、全部の出版社を合わせると現代文学の紹介はそれぐらい進んでいるという状況だと思うんです。

それだけ皆さんもお読みになった方も多いだろうし、今年亡くなったガルシア=マルケスを筆頭として、1920年代や30年代に生まれて、今70代になり、80代になっている現代作家たちが非常に旺盛な創造性を発揮して次から次へと問題作を発表してきた。そういうことになる。どうしてそれが可能になったのかということも少し多面的に考えなければならないんですが、今日は話の進行上、一つの理由だけに触れたいと思うんですね。それは1959年のキューバ革命の勝利ということがラテンアメリカの現代作家に与えた決定的な影響力だったと思うんです。キューバ革命はもう半世紀以上経って、50年以上の歴史を刻んだので、その後さまざまな矛盾や問題を抱えています。それは僕のように、政治的にはキューバ革命への共感から青春時代が始まった人間においても、今考えると…。最初期の10年くらいは、やっぱり光り輝いているんですよ、それは僕が若かったということもあるかもしれないけれども。しかし10年経ち、20年経ち、30年経ち、ましてや半世紀経つと、キューバ革命がどれほど深刻な問題を抱えていたかというのは、僕なりに見えてきているわけです。

今日はこの問題ではなくて、例えば最初の5年間、10年間、そのときラテンアメリカの作家たちにとって、あるいはラテンアメリカの一般の民衆にとってキューバ革命がどれほど希望の星であったのかという、その影響力を考えなければならないと思うんですね。やっぱりラテンアメリカという地域は、それまではスペインに、あるいはポルトガルに征服されて成り立ってきて、19世紀の前半、大半はなんとか独立を遂げるわけですけれども、その後は、今度は北アメリカという同じ大陸に存在する超大国が政治的、文化的、経済的、そして20世紀に入ってからは軍事的に浸透し、支配して、完全にその支配の下に置かれるわけです。キューバもそうでした。19世紀末、フィリピンと共に何とかスペインから独立する直前まで行きながら、その独立闘争に荷担して軍事的な策略を講じたアメリカ帝国によって独立がかなわず、ほぼ半植民地下に置かれてしまう。そういう半世紀以上をすごしたキューバが、1959年にキューバ革命を成就し、社会主義革命であると名乗った。そしてそれまでの独裁政権とは違う国家予算の使い方をするわけですから、教育とか医療とか福祉とか、そうしたものが第三世界の貧しい国としては飛躍的に向上するわけです。イデオロギー的にもなかなかユニークな、当時のソ連の社会主義が持っていた重苦しさ、抑圧感、それとは違う新しい価値観を切り拓こうとしているかに見えた。

それまでのラテンアメリカの作家たちはみんな国境の、それぞれの国の中に閉ざされていた。意識としても。作品を互いに知り合うことはなかったし、単行本として作品が刊行されても、それが他の国に流通するというシステムを持たなかった。キューバ革命は、その勝利した土地に、カサ・デ・ラス・アメリカス、「アメリカの家」という文化団体を作ります。アラブの世界ではどうかわかりませんが、日本ではアメリカというとUSAをしか指さない場合があるんですが、ラテンアメリカの人にとってはアメリカというのはあの大陸全土を指す、そういう名称として使われているので、「アメリカの家」という文化機関を作ったんです。

ここでサミュエル・シモンさんの『Banipal』とつながる話になっていくのですけれど、「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関で、大陸の文化活動に関わる人々の様々な表現がそこに集まってシンポジウムが行われたり、個展が行われたり。雑誌が出て、その雑誌でいろんな文学者の作品が紹介されるようになった。あそこはスペイン語圏が一番多いけれども、ポルトガル語があり、フランス語があり、オランダ語があり、英語があり、たくさんのヨーロッパ植民地帝国の痕跡が残っているから、言語が多様なわけですね。そしてもちろん、無文字社会の先住民言語がある。そのような作品が雑誌や単行本のかたちでどんどんキューバで刊行されることになっていきます。それで文学賞や、映画祭も開かれるようになって、ハバナやサンティアゴ・デ・クーバにどんどん作家たちや文化活動家が集まってくるわけです。毎年一回、いろんな機会に。そこでお互いの顔を知るようになり、どんな作品を作っているかということをお互いが知るようになった。だから一つの地域の中で、国境の垣根を取っ払って、精神的にも開かれた作家たちが交流し合うと、それはもちろん大きな刺激になるわけです。コロンビアのガルシア=マルケスはこんな作品を書いていた、バルガス・リョサはこんな作品をと。それぞれが本当に知り合う。しかも、少なくとも1960年代というのは、まだまだキューバ革命への共感が一体化していた時代だったので、そこで一気に文学が活発化していく。もちろん映画も活発化しますし、さまざまな表現活動が花咲いていくわけです。

もちろんキューバには表現弾圧という時代がありました。別の立場から見ればそんな活況を呈しているところばかり見ても…、という批判も当然ありうるかもしれませんけれども、当時の状況の大きな流れとしては、そういうふうに説明してもいいだろうと思います。

僕は今回の機会を田浪さんからいただいたときに、『Banipal』という雑誌をインターネットサイトで検索してみました。こういう定期的な刊行物を出して、世界に開かれていく機会を提供することがどんなに重要になるかということを、僕がラテンアメリカの文化状況を見ながらずっと思っていたものですから、この『Banipal』は今までもそうであったろうし、これからもアラブ文学が世界に紹介されていく上で、ひじょうに大きな意味を持つものではないだろうかと、たいへん共感を持ちながらインターネットサイトを見ておりました。今日実際にその話を伺って、ひじょうに嬉しいと思います。

次にモナ・プリンスさんのお話ですが、先程僕は、旧ソ連やチュニスで、あるいは日本で、当時のアジア・アフリカ作家会議の国際会議に何度か出たというふうに言いました。アラブ・パレスチナ代表団にお会いしましたら、記憶がかなり薄れているところがあるけれども、ほとんどの代表団のメンバーは男性であったのです。まあ、80年代当時です。今日、モナ・プリンスさんのお話が僕にとって大事だったのは、女性の作家としての立場、今のエジプト文学の中で、あるいはアラブ圏の文学の中で、そのような立場をご自分がはっきりと立ててものを言われている。部分的に知った作品の中でもはっきりとそのような問題提起をされているということが、僕にとっては一つの大きな意味を持ちました。ごらんの通り僕は男ですが(笑)、大きく言えば人類史がここまで混迷してだめになっているのは、男性原理の価値観を貫いて国家が運営され、社会が展開してきたからだというふうに思っているんです、実は。(笑)

笑われてしまいましたけど、アラブ社会の方々は特に困難な時期を生きておられると思いますが、現在世界がここまで、戦乱が絶えず起きて、人類が戦争というものと今に至るも切ることのできない、そういう事態をもたらしているのは、やはり男性原理的な価値観。国家の支配層はもちろんそうだけれども、社会の一般に生きる民衆の中にまでそういう価値観が浸透してこれを覆すことができないからだと。断固としてそういうふうに、この立場でものを考えるようにしているので、今日のモナ・プリンスさんのお話はそういう意味でひじょうに勇気を得られ、ありがたく感じました(笑)。

■モナ:ありがとう。(笑)

■太田:そしてラウィ・ハージさん。『デニーロ・ゲーム』(白水社)を読みました。…なんというか、本当に悲痛な物語で、このような作品を読むと言葉を失うんですけれども、この作品にも描かれているし、今日ラウィ・ハージさんご自身が言われたように、ベイルートからパリへの移動、それからニューヨークへの移動、そしてカナダで最終的に居住権を取られる。そういう移動につぐ移動の人生を送られてきているわけですよね。僕のような日本に定住している人間がこういうことを客観的に言うのはちょっと奇異なのかもしれませんけれども、現代世界にとって移動というのは避けられないものになってきていると、客観的には見えます。それは一つには、ネオリベラリズムが経済的にここまで世界を制覇した時代になってきて、そのネオリベラリズムの力によって、たとえば第三世界の農業はほとんど崩壊するわけです。農民はいままで農地であった田舎を捨てて、自分の国の首都に出なければいけない。その首都でもあぶれると、今度はメトロポリスの、日本のような社会の大都市に出てそこでなんとか生きていかなければならない。そういう労働力の国際移動というのは当たり前のようになった。それはもちろんたくさんの悲劇をもたらす。背景にあるさまざまな問題というのは悲劇を否応なく持つんですけれども、しかしネオリベラリズムの力が、グローバリゼーションの力がここまで強く世界を制覇している以上、ある意味で避けがたい状況になってしまっている。

ラウィ・ハージさんのように自分の生まれ育った国が絶えず戦火に明け暮れていて、なかなかそこでの静かな生活が望めない、そこで移動していくという、それにももちろん背景にひじょうな悲劇や苦労が伴っているわけですけれども。しかしそれを…、ごめんなさい、これは客観的な言い方で申し訳ないんですが、そういう人生を強いられる中で、それを梃子にしながら生み出されている、必然的な表現のように思います。ですから移住とか移動というのは、確かに資本の強制力が働いてはいるんですけれども、現代社会がこのような展開を遂げている以上、それから簡単に脱することはできないかもしれない。そうすると、移住や移動を梃子にして、なんらかの別な、自分が生まれ育った国では実現できなかったことを、庶民は庶民なりに、表現者は表現者なりに、その新しい生を切り拓いていかなければならない。そういう時代が来ているんだろうというふうに思います。

そういう移動は悲劇も伴うけれど、平和的な移動である。軍人や宣教師や貿易商人がむりやり他の国を侵していって、軍事的、宗教的に無茶なことをやる、貿易商人が恥知らずな商売をしてしまう、そういうあり方がこれまでは移動の中心であった。最終的に移動した先で権力をとって世界を支配していく力になっていった。しかし普通の旅人の移動というのは、そこを支配する意図を持たないわけです。その移動を梃子にして、なんらかの新しい生を新しい土地で切り拓こうとするわけですから、やはり現代の移動というのはそういう意味で一つの希望の根拠なのです。そういうふうに僕は考えているので、これはラウィ・ハージさんの、ある意味で強いられた生に対する、ちょっと勝手な意味付与かもしれませんが、僕自身としてはそのような感じで捉えております。

以上です。

「日本一行詩大賞」授賞式での代理挨拶


2013年9月17日 アルカディア市ヶ谷

受賞者・大道寺将司君の「受賞の言葉」を、まず、ご紹介いたします。

このたびはありがとうございました。拙句に「悪名を生きゐて久し竹の秋」がありますが、私は、俳人諸氏や俳句メディアにとってのみならず忌むべき存在です。其れ故、いかなる賞とも無縁だと弁えてきましたし、望んだこともありませんでした。

そのような私の句を作品本位に評価して下さいました選考委員の皆様には 深い敬意を表し、感謝申し上げます。

また、拙句集『棺一基』の上梓に御尽力して下さいました辺見庸さん、太田出版はじめ関係者の皆様にも感謝を申し上げます。

私は病牀六尺の正岡子規に魅かれ、独学で自己流のまま独房から俳句を発出してきました。俳句は小さな詩型ですが詠むことのできる世界は広く、豊かな叙情性を表現することもできるものです。私の句はいまだ狭小な世界のとばぐちに立つばかりですが、時間の許す限り、今後も句作を続けてまいります。

2013年8月11日      大道寺将司

この受賞の言葉は、文通や面会という交通権を持つ私宛てに送ろうとしたものです。ところが、本人が拘置所側に発信を依頼してから一週間以上も経ってから、これは交通権を持たない第三者、つまり一行詩大賞の事務局を担う俳句誌「河」に宛てた文面だから、発信を不許可とするとの告知を受けました。これ以前に、一行詩大賞主催者から本人宛に「受賞の言葉」と自薦20句の原稿を8月20日までに送るようにとの依頼状があったのですが、私が媒介者となって差し入れたこの文書も、同じ理由で交付されませんでした。私が主催者からの申し出を手紙で書き送り、面会時にも口頭で伝えたので、本人はようやく事の次第を理解しました。結局、この原稿は、弁護人経由で私に送られ、延期していただいた〆切日に辛うじて間に合ったのです。

彼がいるのは、ここからわずか1時間もあれば行き着くことのできる、小菅駅や綾瀬駅に近い東京拘置所です。逮捕されてから38年、死刑が確定してから26年になります。刑が確定するまでは、文通も面会も、回数制限はあっても自由にできます。死刑が確定すると、処遇はがらりと変わります。彼の場合、交通権は、当初、弁護人と母親一人に限定されました。手紙は、書く内容を事前に当局に提出し、弁護人には裁判以外のこと、母親には安否を尋ねる以外の文言を書くことは許されませんでした。母親ひとりでは、差し入れられる本の冊数も極端に限られ、拘置所備え付けの本もあらかた読み終えてしまいました。そこで、或る文庫に収録されている日本文学の古典を自分で購入するようになり、そこで、子規の『病牀六尺』や『仰臥漫録』などに出会ったのです。それらを読み進めるうちに、検閲によって頭脳の中まで覗かれているような獄中の日常にあって、それを免れる、あるいは突き破る精神の突破口を、彼は俳句に求めたのでした。

以来22年、そして公表したものとしては母親宛ての手紙の末尾に最初の一句を添えてから17年、彼は俳句を詠み続けてきました。最初の5~6年は、箸にも棒にもかからぬ作品しかできず、一万数千の句を捨てた、と本人は語っています。

彼の句集をお読みの方はお分かりのように、そこにはまず何よりも、自らの行為によって意図せずして殺傷してしまった方々に対する、深い悔いと償いの気持ちがあります。同じ境遇にある死刑囚や獄中の仲間のことを想う句があります。自然に触れることを許されていない環境の中にあって、26年間を生きた外界での記憶と想像力に基づいて、自然のさまざまな姿を詠んだ句があります。日々読む新聞から得た情報に基づいて、同時代の社会や政治のあり方を冷徹に詠む句もあります。彼は病を得てここ数半来は病舎におりますから、そこからしか見えない世界を詠むこともあります。

いま、面会・文通の権利を有する人間は7人まで増えました。明日以降、私たちは面会を行ない手紙を書き、今夜みなさんから寄せられた言葉をできるだけ正確に彼に伝えます。外部の人間にできることは少ないが、彼が句作を続け、また何よりも生き抜くために、外部からできるだけのことはいたします。大道寺君の作品から、何らかの思いを受け止められたみなさんが、今後とも、共感をもってか批判的な視点をもってかのいずれにせよ、彼の俳句と生き方に関心をお寄せくださるよう、お願いいたします。

ありがとうございました。

[書評]寺尾隆吉=著『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』(水声社)


「日本ラテンアメリカ学会会報」2013年7月31日号掲載

1960年代以降、いわゆる「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引しながら、現代世界文学の最前線に立っていた同地の作家たちのうち、ある者はすでに幽冥境を異にし、ある者は高齢化して筆が滞り始めた。代わって、次世代の作家たちが台頭し、日本での紹介も進み始めている。このような変革期を迎えたいま、ブームを担った巨匠たちの遺産=「魔術的リアリズム」の概念をあいまいなままに放置しておくべきではない。そう考えた著者は、「魔術的リアリズム」という概念の、錯綜した道を踏み分けて進む。

中心的に取り上げているのは、アストゥリアス、カルペンティエール、ルルフォ、ガルシア=マルケス、ドノソの5人の作家たちである。まず、先行する世代のアストゥリアスとカルペンティエールが、それまでは「野蛮」という眼差しで見られる対象でしかなかった先住民族インディオとアフリカ系黒人が持つ文化に、それぞれ注目した過程がたどられる。1920年代から30年代にかけてのパリには、のちにラテンアメリカ文学の興隆を担うことになる作家たちが続々と集まっていたが、その中に、グアテマラとキューバを出身地とする前述のふたりの作家もいた。ヨーロッパの芸術家の中では20世紀初頭から、非西欧世界の文化に対する評価(「崇拝」と表現してもいいような)が高まっていた。加えて、シュルレアリスムの芸術思想・運動も展開されていた。その思潮に揉まれて、アストゥリアスは『グアテマラ伝説集』の、カルペンティエールは『この世の王国』の創造へと至る。いずれも「魔術的リアリズム」の出発点を告知するような秀作だ。だがその後は、二人ともその道を突き進むことができない。西欧的教養を身につけた知識人が、「他者として」インディオや黒人の世界に精神的な越境を試みて作品を創造し続けることの困難性が立ちはだかるからである。先駆者の「栄光」に敬意をはらいつつ、他の論者の論考も参照しながら、二人の「限界」を容赦なく指摘する筆致に惹きつけられる。

他者に先駆けて「魔術的リアリズム」を実践した二人の作家は、やがてその道から外れた。それに続く作家が登場するうえでの条件を用意したのは、メキシコである。1910年のメキシコ革命以降の文化政策の積み重ねの上に、50年代に入って作家の卵への奨学金給付制度ができたことの意義が強調される。ルルフォが『ペドロ・パラモ』を執筆したのは、この制度の下であった。一見は両立が不能に思える「制度」と「文学創造」を、密接に結びつけて論じる著者の観点が刺激的だ。今後は、1959年キューバ革命後に設けられた「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関がその後持ち得た意義とも合わせて論じられることになるだろう。

この後も著者は、『ペドロ・パラモ』の内在的な作品分析を行ない、さらにマルケス『百年の孤独』、ドノソ『夜のみだらな鳥』へと説き及ぶ。終章に向けては、魔術的リアリズムの「闘い」とそれが「大衆化」していくさまが具体的な作品に即して論じられていく。

異質な作家たちへの目配りも利いていて、さながら、「時代の精神史」を読むような充実感を味わった。(7月2日記)

『棺一基 大道寺将司全句集』刊行に寄せて 


『北海道新聞』2012年6月20日夕刊掲載

去る4月に刊行されたばかりの句集がある。『棺一基 大道寺将司全句集』と題されている(太田出版)。作者は現在64歳。27歳のとき企業爆破事件の被疑者として逮捕され、その後死刑が確定しているから、獄中生活は37年間に及んでいる。2年前から多発性骨髄腫を病み、その後闘病中である。因みに、釧路出身で、高校卒業時までそこに暮らした。

作者が俳句をつくり始めたのは、16年ほど前のことである。当時は存命中であった母親宛ての手紙の末尾に一句を添えるようになった。最初の句は、「友が病む獄舎の冬の安けしを」であった。それを手始めにつくられた、およそ1200句が本書には収録されている。わずか17文字の作品であるが、文学表現としての自立性は高いから、作者の実生活上の経歴を離れて作品それ自体を鑑賞することは、もちろん、可能であり、本来はそれが好ましい読み方なのであろう。

同時に、作者の稀な境遇を知ってしまえば、それに即した読み方が可能になり、読者からすれば、それによって読みが深まるということも否定し得ない事実である。1970年代初頭当時の作者たちは、戦争責任に頬かむりしたままの戦後日本国家と大企業の責任を問うて、爆弾を用いて象徴的な建造物に対する一連の爆破行為を行なった。それは、三菱重工ビルを目標としたときに、8人の死者をはじめとする多数の重軽傷者を生んだ。人的殺傷は意図していなかったから、本人たちにとっても結果は衝撃的だった。

大道寺俳句はこの事実に向き合おうとする。「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ/春雷に死者たちの声重なれり/方寸に悔数多くあり麦の秋/死は罪の償ひなるや金亀子/まなうらに死者の陰画や秋の暮/ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな/夢でまた人危めけり霹靂神/笹鳴や未明に開く懺悔録/いなびかりせんなき悔いのまた溢る/ででむしやまなうら過る死者の影/寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり……」

句集は今回で3冊目、獄中書簡集も2冊刊行している。自著を出版できるというのは、一般的には晴れがましいことだが、彼は最初の本を刊行したとき以来、その思いを自らに禁じているように見える。被害者との〈絶対的な関係性〉において自己の存在があることを、片時も忘れることはないからである。そして、これらの表現が、死者の無念さに届いているか、家族の怒りと憎しみに届いているか――そう問われるならば、それが不可能であることを、作者はおそらく知っている。だからこそ、再び、句をつくる。その〈思いの深さ〉は、第三者でしかない私たち読者は、容易には感受できないものであろう。

『棺一基』は、作者と交流のある作家・辺見庸氏の強い勧めによって実現した。辺見氏のこの間のエッセイには、大道寺俳句と彼自身に触れたものが散見される。それらが「跋文」として収録され、さらに新たに書かれた「序文」が読書案内の役割を果たしてくれる。

31文字で表現される短歌の場合、その抒情性において読む者の心に訴える作品があり得る。それがうまくいっていない場合なら「抒情に流れすぎる」との批評も可能だ。短歌よりわずか14文字少ないだけだが、俳句の場合はそうはならない。抒情も思いも断ち切った、ギリギリの表現。それが、句境の深まりとなった稀有な例が『棺一基』である。

絵が浮かぶ句「独房の点景とせむ柿一個」。香りが漂う句「遠くまで沈丁の香を追い掛けし」。実存句「身を捨つる論理貧しく着膨れぬ」。獄中でも感じられるささやかな季節の変わり目を告げる句「女囚らの声華やげる弥生かな」。狭い独房から生まれた多様な世界が、そこにはある。

私が好きな一句は「風に立つそのコスモスに連帯す」である。「コスモス」を作者の名に置き換えて、季語を欠いたその句をそっと呟いてみる。