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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

事故から10ヵ月後、反原発運動に思うこと


『反改憲運動通信』No15・16(2012年1月18日発行)掲載

【3・11以後の反原発集会やデモにはできる限り参加しているが、それを準備する諸団体の日常的な活動や会議には、時間的制約から、ほとんど参加できていない。以下に書くことは、したがって、外在的な場からの物言いになるかもれしれない。岡目八目とは、金輪際、言えない。諒とせられよ、とあらかじめお断りしておきたい。】

①  男だけが牛耳る世界に、私たちは、なお生きているのだった

日常的な場――それが、映画館であっても、デモや集会の場であっても、講演会であっても、居酒屋であっても――において、その場にいる人びとの「性差」や「年齢差」にあまりの偏りがあると、すぐ気づく。あらかじめ気にして、見回すのではない。その均衡が極端なまでに失していると、ひと目でそのことに気づくというだけのことだ。バランスのなさに、異様さを感じるのである。私たちが生きている世界(社会)は、本来もっと多様なのに、この偏りはなんだ、と。

東京電力の福島原発で事故が発生して以来、マスメディアには連日のように、東電・関係官庁の官僚・原子力専門家・政府閣僚などの顔が写し出された。いつ見ても、そこには、男たちの顔しかなかった。言うところの「原子力ムラ」は「男ムラ」なのであった。このムラの住民たちは、事態の深刻さも知らぬかのように、起こっている事態に痛みも恥ずかしさも憤りも感じていないかのように、外部世界の人間たちには理解ができない「ムラ言葉(方言あるいは業界用語)」をしゃべり続けた(続けている)。

それを見た私は、20年来の愛読書であるリーアン・アイスラーの『聖杯と剣――われらの歴史、われらの未来』(法大出版局)と、フェミニズムの立場からこの書を重視した故・若桑みどりの『戦争とジェンダー』(大槻書店)をはじめとする一連の仕事をすぐ思い起こした。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女たちが平和をつくらなければならない」(!)。男とは、この場合、「家父長制的男性支配型国家」、あるいは「男性原理」が支配する社会秩序のあり方に微塵の疑問も抱かない者――の謂いである。それは、アリストパネスが『女の平和』で描いているように、遠く古代アテナイの時代から変わることのない、いわば人類史的課題でもある。問題打開の方向性はここにしかない、と私は思った。

3・11以後の反原発デモ、集会、講演会のそれぞれの場で、ふだんは見かけない子ども連れの女たちの姿が目立った。メディアで発言する人のなかでも、わずかなりともその傾向が増していた。よい方向性だと私は思っていた。

この確信が日々強まっていた昨夏、私は「9条改憲阻止の会」の合宿で講演するよう招かれた。私より少し上の、60年安保世代の人びとが軸になっている団体である。震災と原発事故の後だったので、その話を中心に思うところを話した。50人近くいただろうか、出席者は一人の例外もなく、男だった。講演の最後に、私はそのことに触れた。参加していた人たちは苦笑していた、「そうなんだよなあ」。震災後6か月を経て「9・11」経産省包囲の大きな行動があった日に、「9条改憲阻止の会」の人びとは原発政策を規定方針通りに推進する姿勢を改めようとしない経産省前にテントを立て、抗議の座り込みを始めた。やがて、福島の女たちがこのテント村の場を活用して「女たちのリレー座り込み」を始めた9月末から、テント村の性格は一気に変貌を遂げた、と傍目には思えた。男ムラとして始まった場が、運動的な展開の中で女たちの共鳴をかち取り、その後ジェンダー的に女性化したのである。この変貌の過程そのものに、原発問題の本質を射抜くものが孕まれている。「9条改憲阻止の会」の人びとが発信し続けている通信を読むと、彼ら自身がこの変貌に驚き、そして喜び、楽しんでいることが伝わってくる。本質的に重要な体験がここで積み重ねられている、と私は思う。

②  「ポスト・コロニアル」の時代にも、植民地主義は繰り返し立ち現れるのだった

9・11以後米国支配層はいくつもの威圧的な言葉を語り続けてきたが、私が忘れようにも忘れられないのは、「アフガニスタンのような、国家の体をなしていない国は、いっそのこと昔のように植民地にしたほうがやりやすいな」という言葉である。アジア地域との歴史的過去に関して、日本政府と市井の人びとの間に繰り返し立ち現れる、自らの加害者性を顧みない言動を見聞きするときも「継続する植民地主義」という問題意識を強めざるを得ない。ポスト・コロニアルと呼ばれる現代――にもかかわらず、世界でも日本でも、現状はこうなのだ。

福島原発事故以後10ヵ月間のあいだに流された報道を吟味していても、いくつもの線がこの問題に繋がっていく。福島という「地方」と東京という「メトロポリス」、被爆労働に従事する「下層労働者」とその労働によって出力された電力を消費する「都会の受益者」、重大な事故を起こしたにもかかわらず既定方針通りに強行される「原発輸出」、原発大国から生み出された核処分場をたとえばモンゴルに求めようとする動き――これらはすべて、兵器としての「核」保有国が核実験場を国内の「過疎地」や旧植民地地域に持つ事実を想起させるものである。原発に使うにせよ兵器にするにせよ、支配層は、長期間にわたる展望も責任も持たないままに、植民地主義を実践することで核問題を「切り抜けていこう」としていることがわかる。

情勢的に、人類史総括の時期を迎えた20世紀末、課題は明確になった――フェミニズムが提起した「男性原理」によって支配される社会を転倒すること、コロンブス五百年(1992年)で浮かび上がる植民地主義的近代を俎上にのぼすこと。原発問題の本質もここにあることを疑問の余地なく明らかにした10ヵ月間であった。(1月13日記)

【1月25日の追記】この文章で触れた経産省前テント村に対して、経産省は1月24日付けの文書で、来る1月27日(金)17時までに経産省敷地内からの退去とテントの撤去を「命令」してきた。27日には、午後4時から6時まで、同所で抗議行動が行なわれる。

太田昌国の夢は夜ひらく[22]『方丈記』からベン・シャーンまで――この時代を生き抜く力の支え


反天皇制運動連絡会「モンスター」24号(2012年1月10日発行)掲載

3・11以後、鴨長明や、その小さな作品が触れた事態からほぼ8世紀の時間を超えた東京大空襲を重ね合せて書かれた堀田善衛の作品を読み耽ったと吐露する文章をいくつか見かけた。私も、あの3・11の衝撃的な津波映像をテレビで見たその夜、少しでもこころを落ち着かせたいと思って手を伸ばしたのは、『方丈記』と『方丈記私記』であった。それまでにいく度か読んできたはずのふたつの作品から、今までに感じたことのない感興を私はおぼえた。声高に言うことではないかもしれないが、文学の力とはこういうものか、と心に沁みた。

それは、直接的な被害者ではないことからくる、いくらかなりとも余裕のある、感傷的な態度であったかもしれない。だが翌日からは、もちろん、福島原発をめぐる深刻な事故状況が、東電と政府による恥じを知らない隠蔽工作を見透かすように、明らかになり始めていた。私の場合、『方丈記』は、安吾の『堕落論』にとって代わった。そして、つまらぬ歌手やスポーツ選手が現われて「日本は強い」とか「日本はひとつのチームなんです」とか声を張り上げるにつれて、今度は石川淳の『マルスの歌』に手が伸びるのであった。高見順の小説のタイトルそのままに「いやな感じ」を、そんな言葉が横行する時代風潮に見てとって。

人によっては、もちろん、別な文学作品を、あるいは音楽を、あるいは映画や芝居を、はたまた美術作品を挙げるであろう、3・11以後のこの10ヵ月間を生きるために、何を読み、何を聴き、何を観てきたか、と問われたならば。

事が自然災害と原発事故なる人災の結果にどう対応するかという緊急の課題である以上は、まずは社会や政治の局面で考え/行動すべき事態であることは自明のことだ――「個」から出発しながらも集団的な形で。同時に視野をいくらかでも拡大するならば、それが、私たちが築いてきた/依存してきた文明の根源に関わる問題でもあると気づけば、人は自らの存在そのものの根っこまで降りていこうとするほかはない。ふだんは「無用な」文化・芸術が、そのとき、集団から離れて「個」に立ち戻ったひとりひとりの人間に、かけがえのない価値を指し示す場合がある。示唆を与える場合がある。多くの人は、そのことを無意識の裡にも感じとって、たとえば『方丈記』に手に伸ばしたのではなかったか。

私は、昨年90歳を迎えた画家・富山妙子が、それまで百号のキャンバスに描いていたアフガニスタンに関わる作品を3・11以後はいったん中断し、津波と原発事故をテーマにした三部作を描く姿を身近に見ていたこともあって、この期間を生き延びるにあたって絵画に「頼る」ことが、ふだんに比べると多かった。戦後にあって、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任などを主要なテーマに作品を描き続けてきた富山は、私が知り合って以降の、この20年間ほどの時代幅でふり返ると、より広い文明論的な視野をもって、物語性のあるシリーズものの作品を創造してきた。年齢を重ねるにしたがって一気に色彩的な豊かさを増した作品群は、確かな歴史観に裏づけられて描かれていることによって、リアリティと同時に物語として神話的な広がりをもつという、不思議な雰囲気を湛えるようになった。今回完成した三部作「海からの黙示―津波」「フクシマ―春、セシウム137」「日本―原発」は、今春以降の列島各地を駆けめぐることになるだろう(因みに、彼女の作品シリーズは、http://imaginationwithoutborders.northwestern.edu/で見ることができる。米国ノースウエスタン大学のウェブサイトである)。

年末から年始にかけては、映画『ブリューゲルの動く絵』(レフ・マイェフスキ監督、ポーランド+スウェーデン、2011年)と展覧会「ベン・シャーン展」(神奈川県立近代美術館 葉山。以後、名古屋・岡山・福島を巡回)に深く心を動かされた。時代に相渉り、それと格闘する芸術家の姿が、そこには立ち上っているからである。シャーンには、第五福竜丸事件に触発された連作がある。久保山愛吉さんを描いた「ラッキー・ドラゴン」と題された作品の前に立つとき、そして福竜が「ラッキー・ドラゴン」なら福島は「ラッキー・アイランド」だと書かれたカタログ内の文章を読むとき、私はあらためて、今回の事態にまで至る過程を、内省的に捉え返すよう促されていることを自覚する。(1月6日記)