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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[100]百年後のロシア革命――極秘文書の公開から見えてくるもの


『反天皇制運動Alert』第27号(通巻409号、2018年9月4日発行)掲載

あるところで「ロシア革命百年」講座を行なっている。半年かけて、全6回である。昨年もこのテーマに関しては2回ほど公の場で話した。そのうち1回は、「レーニン主義」をなお墨守していると思われる人びとが多く集う場だから、緊張した。私は一定の〈敬意〉をもってこの人物に接してはきたが、いわゆる「レーニン主義者」であったことは一度もない。若い頃の思いを、恐れも知らず埴谷雄高を模して表現するなら、ヨリ自由な立場から『国家と革命』に対峙し、理論的に負けたと思ったら、選ぶ道を考え直そう、というものだった。〈勝ったか負けたか〉はともかく、レーニンが主導した道は選ばなかった。だから、その道を選び、今なお〈悔い改めない〉人びとの前では、いい意味で緊張するのである。

53歳で亡くなったレーニンは、論文・著作の生産量が高い人だった。最終的には、ロシア語第5版で補巻を含めて全57巻、日本語版はロシア語第4版に依拠し全48巻の全集が編まれた。いずれも、1950年代から60年代にかけての、息の長い出版の仕事だった。レーニンの著作をめぐって、事態が決定的に変わるのは、ソ連体制が崩壊した1991年以降である。ソ連共産党中央委員会のアーカイブに厳密に保管されてきていた極秘文書が公開されるようになった。書き込みも含めてレーニンの手になる文書3700点、レーニンが署名した公的文書3000点が明るみに出た。極秘にされていた理由は、以下による。(1)国家機密に関わるもの。陰謀的な性格を持つもの。(2)公定レーニン像に抵触する、不適切なイデオロギー的性格をもつもの。(3)判読不能・鑑定上の疑義のあるもの。技術的・学術的な問題。(文書の点数は、池田嘉郎による)

ロシアではもとより、英語圏・フランス語圏でもこれらの文書を参照しないロシア革命研究はもはやあり得ない。重要な著作は、いくつか日本語訳も出版されている。日本でも、梶川伸一、池田嘉郎、故稲子恒夫のように、従来の未公開文書を駆使して重要な仕事を行なっている研究者が生まれている。そんな時代がきて、4半世紀が過ぎた。

それらの資料を読みながら、私はつくづく思う。党中央委員会の文書管理部は、一貫して、実に〈すぐれた〉人物を擁していた。同時代的に、あるいは後世においてさえ、この文書を公開しては、レーニンとロシア革命のイメージをひどく毀損すると「的確に」判断できていたからである。この短い文章では具体的な引用はできない。ただ、〈敵〉と名指しした人びとに対する、公開絞首刑の執行を含めた仮借なき弾圧が幾度となく指示されているとか、レーニンの忠実な「配下」であったトゥハチェフスキーが「反革命」鎮圧のために毒ガス使用を指示したとか程度には触れておこう。「富農を人質に取れ」という苛烈なレーニンの指令に驚き、心がひるみ、この指令を無視する地方の党幹部の姿も現われる。つまり、この幹部のように、そしてクレムリンの文書管理部局スタッフのように、難局極まりない内戦の渦中にあっても「的確な」判断を成し得た人物は実在したのである。レーニンと革命が掲げる〈目的〉に照らせば、採用してはいけない〈手段〉があることを知っていた人物が……。

その意味では、1921年のクロンシュタット叛乱と、1918~21年のウクライナのマフノ農民運動に対して、レーニンやトロツキーが先頭に立って「弾圧」した事実は、夙に(同時代の中でも)知られていた。前者の叛乱は、「革命の聖地」ペトログラードのすぐ近くのクロンシュタット要塞で進行した。それは、ボリシェヴィキの一党独裁を批判する立場から革命の根源的な深化を求めた水兵・労働者の公然たる動きであり、ボリシェヴィキも機関紙上で反論せざるを得なかった。叛乱なるものの背後にはフランスのスパイがいる、というお定まりの宣伝ではあったが。後者の場合は、ボリシェヴィキの弾圧にさらされる農民アナキストが渦中で情報を発信した。1922年末に日本を脱出した大杉栄は、翌年2月パリに着くと、マフノ運動関連の文献渉猟に全力を挙げている。7月に帰国して、翌8月には「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」という優れた紹介文を執筆した。大杉が虐殺される前の月である。

ロシア革命は、当時も百年後の今も、その本質について、どんな情報に基づいてどのような判断を持つかを迫られる、或る意味で「おそろしい」場であり続けている。

(9月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[99]オウム真理教幹部13人の一斉処刑について


『反天皇制運動Alert』第26号(通巻408号、2018年8月7日発行)掲載

共謀罪法施行一周年の抗議集会で講演するために、豪雨の大阪へ向かう準備をしていた7月6日朝、オウム真理教幹部の死刑執行の第一報がラジオで流れた。執行後にしか情報が流れない通常の在り方とは異なる「事前情報」であることは、ニュースの言葉遣いから分かった。その後は新幹線の車中にいたために、次々となされる死刑執行の様子が、まるで実況中継のようになされたという一部テレビ報道は現認していないが、執行に立ち会うべき検察官が早朝から拘置所内へ入る姿が撮られている以上、法務省は積極的に事前情報を流したのだろう。テレビ・メディアの「効用」を思うがままに利用したその意図を見極めなければならない。7人の死刑が執行されたことは車中のテロップで知った。残るオウムの死刑確定者は6人。彼らにとっては、これは「予告された殺人宣告」にひとしい作用としてはたらくだろうと思い、その残酷さに心が震えた。

7月26日、翌日に某所で行なう講演「オウム真理教幹部一斉処刑の背景を読む」の準備をしていた時に、第二次処刑のニュースが流れた。合計13人の処刑。すぐに思い浮かべたのは、1911年1月の24日と25日のこと――前日には、「大逆事件」で幸徳秋水ら11人の、翌日には管野スガひとりの、計12人の死刑が執行された史実だった。大量処刑を行なっても世論は反撃的には沸騰しない、と読んでいる安倍政権の「冷徹さ」が、際立って透けて見えるように思えた。

無理にでも心を落ち着かせて、翌日の講演の準備を続けた。いくつかの資料に基づいて、オウムの関連年表を作ってみた。「オウム神仙の会」が設立され、松本智津夫が麻原彰晃と名乗り始めたのは1984年(「オウム真理教」と改称したのは1987年)だったが、松本サリン事件が1994年、地下鉄サリン事件は1995年――という形で年表を作ってみると、創設からわずか10年前後で、オウム真理教は「極限」にまで上り詰めたことがわかる。無神論者の私にして、宗教がもつ始原的なエネルギーのすさまじさを思うほかはなかった。来世や浄土を信じる心が、市民社会に普遍的な「善悪の基準」に拘泥され得ないことは、理念的には、見え易い。だが、近代合理主義からすれば、神秘的なこと/常軌を逸したことへの信念を持つことが、これほどまでに短期間に、無差別殺戮を正当化する暴発に結びついたことには、心底、驚く。

修行中に異常を来した信者を水攻めにして死に至らしめ遺体を焼却した事件や、その事実を知る信者が脱会を申し出たために殺害した事件は、1988年秋から89年初頭にかけてすでに起こっていたが、これはごく少数の幹部の裡に秘匿されていたために、長いこと外部に漏れることはなかった。だが、出家した子どもの親たちが、高額の「お布施」や連絡の途絶に不審を抱いて、被害対策弁護団も結成された後の1989年8月に、東京都から宗教法人の認証を受けているなど、解明されるべきことは多々あることを、あらためて思い知る。89年11月の坂本弁護士事件が、神奈川県警のサボタージュによって捜査の方向が捻じ曲げられたことは今までも触れてきた。その捜査の中心人物たる古賀光彦刑事部長(当時)がその後、愛知県警察本部長→警察大学学長→JR東海監査役という具合に、絵に描いたような「出世」と「天下り」のコースをたどっていることは、寒心に堪えない。安倍政権下で「功績」を挙げた官僚たちが歩む道は、いつの時代にも、敷き詰められているのだ。

その夜の講演で私は、「国家権力とたたかう」オウムが、省庁を設けて担当大臣や次官を任命し、他者を殺戮する兵器や毒ガス開発に全力を挙げたことを指して「国家ごっこ」と呼んだ。軍隊・警察を有する国家が独占している殺人の権限を自らも獲得しようとしたオウムは、悲劇的な形で「国家の真似事」を演じた。一宗教がたどった軌跡から私たちが取り出すべきは、宗教がもち得る危険性への視点だけではない。大量処刑も含めて「国家」が行なう所業への批判も導き出すことができるのだ。(8月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[97]米朝首脳会談を陰で支える文在寅韓国大統領


『反天皇制運動 Alert』第24号(通巻406号、2018年6月5日発行)掲載

引き続き朝鮮半島情勢について考えたい。東アジア世界に生きる私たちにとって、情勢が日々変化していることが実感されるからである。しかも、差し当たっては政府レベルでの動きに注目が集まるこの事態の中に、日本政府の主体的な姿はない。見えるとしても、激変する状況への妨害者として、はっきり言えば、和解と和平の困難な道を歩もうとする者たちを押し止めようとする役割を自ら進んで果たす姿ばかりである。その意味での無念な思いも込めて、注目すべき状況が朝鮮半島では続いている。

政治家は押し並べて気まぐれだが、その点では群を抜く米朝ふたりの政治指導者の逐一の言葉に翻弄されていては、問題の本質には行きつかない。そこで、今回のこの情勢の変化を生み出した当事者のひとりで、米朝のふたりとは逆の意味で頭ひとつ抜けていると思われる政治家、文在寅韓国大統領の言葉の検討から始めたい。

17年5月に就任したばかりの文大統領は、直後の5月18日に、記憶に残る演説を行なっている。光州民主化運動37周年記念式典において、である。文大統領は、朴正煕暗殺の「危機」を粛軍クーデタで乗り越えようとした軍部が全土に非常戒厳令を布告し、ひときわ抵抗運動が激しかった光州市を戒厳軍が制圧する過程で起こった80年5月の事態を「不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した現代史の悲劇だった」として、自らの問題として国家の責任を問うた。18年3月1日の「第99周年3.1節記念式」では、日本帝国主義支配下で起きた独立運動の意義を強調し、この運動によってこそ「王政と植民地を超え、私たちの先祖が民主共和国に進むことができた」と述べた。最後には、独島(竹島)と慰安婦問題に触れて、日本は「帝国主義的侵略への反省を拒んでいる」が、「加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない。不幸な歴史ほどその歴史を記憶し、その歴史から学ぶことだけが真の解決だ」と語った。私たちは、韓国憲法が前文で、同国が「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」に立脚したものと規定している事実を想起すべきだろう。来年はこの3・1運動から百年目を迎える。改めて私たちの歴史認識が、避けがたくも問われるのである。

文大統領は18年4月3日の「済州島4・3犠牲者追念日」でも追念の辞を述べた。日本帝国主義軍を武装解除した米軍政は、1948年に南側の単独選挙を画策したが、これに反対し武装蜂起した人びとに対する弾圧が、その後の7年間で3万人もの死者を生んだ悲劇を思い起こす行事である。今年は70周年の節目でもあった。文氏はここで、70年前の犠牲者遺族と弾圧側の警友会の和解の意義を強調しつつ、「これからの韓国は、正義にかなった保守と、正義にかなった進歩が『正義』で競争する国、公正な保守と公正な進歩が『公正』で評価される時代」になるべきだと語っている。

どの演説にあっても貫かれているのは、国家の責任で引き起こされた過去の悲劇をも、後世に生きる自らの責任で引き受ける姿勢である。私は、文氏が行なっている内政の在り方を詳らかには知らない。韓国内に生きるひとりの人間を想定するなら、氏の政策にも批判すべき点は多々あるのだろう。だが、今や世界中を探しても容易には見つからない、しかるべき識見と歴史的展望を備えた政治家だ、とは思う。米クリントン政権時代の労働省長官だったロバート・ライシ氏は、文氏が「才能、知性、謙虚さ、進歩性」において類を見ない人物であり、「偏執症的なふたりの指導者、トランプと金正恩がやり合っている脆弱な時期に」文在寅大統領が介在していることの重要性を指摘している(「ハンギョレ新聞」18年5月27日)。13年来の「新年辞」で南北対話と緊張緩和を呼びかけてきた金正恩氏にとっても、またとない相手と相まみえている思いだろう。

来るべき米朝会談のふたりの主役は、その内政および外交政策に批判すべき点の多い人物同士ではあるが、会談の行方をじっくりと見守りたい。この重要な政治過程にまったく関わり合いがもてない政治家に牛耳られているこの国の在り方を振り返りながら。

(6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[95]現首相の価値観が出来させた内政・外交の行詰り


『反天皇制運動 Alert』第22号(通巻404号、2018年4月11日発行)掲載

我慢して、安倍晋三氏が書いた(らしき)本や対談本、安倍論などを読み始めたのは、2002年9月17日の日朝首脳会談を経て、数年が過ぎたころからだったか。その数年間には、彼が拉致問題を理由にした対朝鮮強硬派であるがゆえにメディア上での注目度が上がった歳月や、2001年に「慰安婦」問題を扱ったNHK番組に関して、「勘ぐれ」という言葉を用いてNHK幹部に改竄するよう圧力をかけたことが明るみに出た2005年の日々が含まれている。やがて2006年、小泉氏の後継者をめぐる自民党総裁選が近づくと、件のNHKニュースは、安倍氏に「国民的人気が高い」という形容詞を漏れなく付けるようになった。それ以降現在にまで至る経緯は、もはや、付け加えることもないだろう。

最初の本を目にした時から、とんでもない人物が台頭してきたものだとつくづく思った。論理がない、倫理もない、歴史的な知識も展望もない、あるのは、ギラギラした、内向きで排外主義的なナショナリズムだけだ。昔の「保守」はこれほどひどいものではなかった、と独り言ちた。1980年代後半以降、『正論』『諸君!』などの極右雑誌に目立ち始めた、歴史の偽造を厭わない低劣な文章群は、とうとう、こんな政治家を生み出す社会的な基盤を造成したのかと慨嘆した。そうは思いつつも、拉致問題の捉え方を軸にその言動の批判的な分析は続けてきた。だから、関連書を読み続けたのだ。そのとき思った――右翼がここまで劣化すると、左翼も危ないぞ、と。まもなく、ソ連的社会主義体制が崩壊して、左翼は危ないどころか、理念的にはともかく運動としてはほぼ消滅した。

批判的な左翼が消えた時代に、安倍的な価値意識に彩られた社会が花開いた。5年有余が経ち(わずか1年で瓦解した第一次政権の成立時から数えると12年が経ち)、その結果を私たちは日々見ている/見せられている。改竄・隠蔽・捏造が公然と罷り通る内政の荒廃ぶりは、かくまでか、と思うほどだ。幼稚園の子どもたちに教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせ、首相の妻を前に安保法制の議会通過を喜ぶ台詞を斉唱させて彼女を涙ぐませるような「愛国主義教育」を行なうことを目指した私学経営者に、首相とその取り巻きが肩入れし、国有地の安価な払い下げと設立認可を急いだ――森友学園問題のこの原点に、強権主義的な安倍政治の本質がまぎれもなくにじみ出ている。

米国頼み一本鎗が「方針」であったかのような外交の行き詰まりぶりも、内政同様、見苦しい。今年度初頭の金正恩氏の路線転換以来、朝鮮半島情勢はめざましい進展ぶりをみせている。対朝鮮外交における「対話ではなく圧力」路線の盟友であったトランプ米大統領は来る5月の米朝首脳会談を決意する一方、日本に対する輸入制限も発動した。「日本ひとりが蚊帳の外」という印象がぬぐい難い。

あるジャーナリストの調査によると、首相がこの5年間、「拉致問題は、安倍内閣の最重要課題であります」と本会議や委員会で語ったのは54回に上るという。1年に10回以上もこんな発言をしていることになる。その実、解決のための努力を少しもしていないことは、蓮池透氏や私が夙に指摘してきたとおりである。拉致問題あったればこそ首相に上りつめた彼は、自らが煽った「朝鮮への憎悪感情」が社会に充満していることが政権維持の必要条件なのだから、日朝関係は現状のままでよいのだろう。去る2月の日韓首脳会談において、「米韓合同軍事演習を延期するな」と主張した首相に、「我が国の主権の問題」とする韓国大統領は反発した。160ヵ国との外交関係を持つ朝鮮との断交を国際会議で求めた日本国外相の演説は、あるべき外交政策を知らぬその無知無策ぶりに、心ある外交官の失笑を買っただろう。この期に及んで外相は韓国へ行き、4月の韓朝首脳会談で拉致問題に触れるよう、韓国外相に要請するという。首相は「盟友」トランプに会いに行き、5月の米朝首脳会談での同じふるまいを頼むのだという。自力解決の意図も能力もないことを自白したに等しい。河野外相はさらに、3月31日に「北朝鮮は次の核実験の用意を一生懸命やっているのも見える」と語った。私も時々見ている米ジョンズ・ホプキンズ大学の朝鮮分析サイト「38NORTH」は、逆にその動きは激減しているとして、外相発言の根拠に疑問を投げかけている。中国外務省は、各国が東アジアの緊張緩和に向けて努力を積み重ねている時に「その過程から冷遇されている日本は、足を引っ張るな」と不快感を示した。

かくも無惨な外交路線があり得ようか。内政・外交ともに進退窮まっている現政権の現状は確認できた。次は何か、が私たちの課題だ。            (4月7日記)

〈万人〉から離れて立つ表現


(「万人受けはあやしい 時代を戯画いた絵師、貝原浩」展の講演録 2017年11月22日)

人間のおもしろみや哀しみ、愚かさが滲み出る「三面記事美術館」

「万人受けはあやしい」という、いかにも貝原さんにふさわしいタイトルだと思いますが、それについて、お話ししたいと思います。

ぼく自身は生前の貝原浩さんとは知り合いで、仕事のつき合いはほとんどありませんでしたが、直接話をしたり、数は少なかったけれども一緒にお酒を飲んだりしたこともありました。個展にはよく行っていましたし、それなりに貝原ワールドは作品としては知っていたつもりですが、先日、この会場でゆっくりと時間をかけて展示作品を見、今回の図録もかなり丹念に見ました。

今回展示されている作品は、基本的には1980年代に入ってからのものですね。貝原さんの年齢としては30代後半から、亡くなった2005年ぎりぎりまでの作品、約25年間、四半世紀の作品が、主に並んでいます。

おもしろかったのは80年代の雑誌『ダカーポ』に貝原さんが連載していた「三面記事美術館」です。展示の数は少ないのですが、図録にはたくさん収録されています。

「三面記事」とは、みなさん、その言葉だけでイメージできると思いますが、新聞の社会面、三面に載っている、人間社会にある、ちょっとした出来事の記事です。出来事そのものとしては当人からすれば恥ずかしかったりすることで、どうしようもなさとか、いいかげんさとか救いのなさがあったりするし、それからユーモアもある。そうした記事が、社会面には載ることがあります。

ぼくも、絵を描くわけではないし小説を書くわけでもないけれども、なんとなく気になって切り抜いて、手帳に挟んでおいたり、スクラップ帖をつくるほどではないけれど、保存しておいたりした記事もあります。

貝原さんは1980年代、そうした三面記事を一枚の絵にして、『ダカーポ』に連載していました。これがおもしろい。もちろん、元の記事がおもしろいわけですが、図録ではその新聞記事自体は載っていませんが、ごくかんたんに出来事を説明しています。

例えば、有力企業のエリートサラリーマンが、酔っぱらって地下鉄に乗って目の前にいた女性、OLと書いてありますが、その女性に向けて放尿してしまったというような事件があって三面記事になったようです。それを絵にしちゃうんですね、貝原さんは(「満員電車内でOLに“用足し”」図録作品ナンバー12)。

事件そのものも、なんだろうと思いますけれども、これを絵にする人もなんなんだ、という感じがありますよね(笑)。

図録に掲載されている「三面記事美術館」をひとつひとつ見ていくと、ほんとに世の中にこんなことが起きていたのか、こんなバカバカしく愚かなことを人間がやってしまうのかと、ぼくもどこかでやっているのかもしれませんが、そう思います。

そして当事者、物語の中心人物が描けているのは当然なんだけれども、その周辺に野次馬としている、そこに居合わせた人間の描き方がまた、その表情などがおもしろい。そうやって、どうしようもない出来事の記事が、一枚の絵になると、なにかまた別の意味合いを持ってしまいます。

貝原さんがこれらを描いていた時期は、今日のテーマである風刺画的なものを書き始めていた時期と重なります。ある意味でシリアスな風刺画を描いている時期に、こういう、人間のおもしろみや哀しみや、愚かさが滲み出る絵を描く、そういう世界を貝原さんは持っていた。ぼくは、貝原さんの作品の中でも「三面記事美術館」についてはあまり記憶がなかったので、今回はほんとうにおもしろく見て、ときどき見返したいなと思っています。

さて、このような貝原浩の世界もあったわけですが、きょうお話ししたいことは、1980年代前半から21世紀に入ってはわずか5年間でしたが2005年まで、およそ四半世紀にわたって貝原さんが、時代に対する懐疑を、絵としてどのように描いていたのかということです。彼が亡くなって12年経つ今、我々はいったいどんな時代を生きているのか、というところまで話が及べばいいかなと思います。

80代前半、新自由主義経済政策で進行したこと

風刺画を描くとは、時代と向き合って、相渉って、それを絵に描くということであり、それは当然のことながら、世界および日本で、同時代的に進行している政治的なあるいは社会的な、あるいは思想的な動向に目を凝らし、それについて絵師が、画家が、どんなふうに表現するのかが問われます。

1980年代前半というのは、世界政治でいえば、米国にレーガン、イギリスにサッチャー、日本に中曽根という、それぞれ大統領・首相が現れて、それぞれ長期政権になっています。この時代、この3人の大統領・首相が、今、世界を席巻しているいわゆる新自由主義、ネオリベラリズムの先駆け的な政策を、「先進国」において採用した時期なわけです。

レーガン、サッチャーには触れませんが、中曽根政権――この政権も5年の長期政権となりましたが――の下、何が行なわれたか。みなさん記憶していると思いますが国鉄の解体作業です。国鉄を国営鉄道の枠から外して分割民営化を行なった。それから約30年経って、現在、かつての日本国有鉄道は、JR北海道は、JR四国はどうなっているか。本州の線路であるJR東海、あるいはJR東日本は「優良経営」を行なっているけれども、JR北海道は瀕死の状態であることは、みなさんご存知のとおりです。

この国には今1億2600万の人々が住んでいますが、国の政策とは本来、総人口がどんな地域に住んでいようと生活に必要な足は確保するというものです。それをそれぞれの国家の政策として、19世紀後半、鉄道が広範囲に展開し始めて以降、それぞれの国は鉄道事業を国営として成り立たせてきました。

ところが新自由主義の時代に入って、不採算部門は、資本主義社会で儲けにならない部門は、国家は予算が限られているから、そこはもう国家経営から外してしまうと。そして資本主義の本領である民間の競争力に委ねて競争させると。要するに民営化させて競争の原理に委ねれば、うまく活性化するのではないかという考え方を採用するわけです。

ですから鉄道事業の民営化は日本だけではなく、世界各国で最初に試みられた新自由主義経済政策のひとつのあり方です。ほかにも、採算がとれない、金にならない、つまり資本主義経済にとって最も大事なことである利潤、お金を回転させて利潤を増やすということを考えたら、医療というものもなかなかたいへんであるとなる。福祉はもとより、教育もたいへんだとなっていって、福祉切り捨て、教育予算のカットという、今現在日本で進行しているような事態が当たり前のように進行するわけです。

公共事業で言えば水道事業もそうです。地方自治体が管轄してやってきた水道事業は、これもなかなか採算が難しい。そこで、人間という生命体にとって、地球の生命の循環にとってどうしても必要な水というものを、公共の責任において管理するということから外して、これも民間の競争力に委ねる。こうした考え方が日本でも世界でも出てきて、水道事業の民営化が世界各地で、どんどん進もうとしています。

新自由主義経済政策とは資本主義を純化させた考え方であって、不採算部門を国家および地方自治体が責任をもって運営するというところから外して、民間の競争力に委ねるということを意味します。それが1980年代の前半、日本では中曽根政権によって試みられた。これは連綿として続きますが、より加速されるのが2001年から2006年までの小泉政権下です。小泉政権の下での郵政民営化を見れば、おわかりになると思います。

ある意味で社会にひたひたと浸透している公務員労働に対する反感、「親方日の丸で、あいつらはろくに働きもしないのに給料は安定している」と、「定年まで過ごすことができる」という、民間の労働者がどこかでもっている反感を利用しながら、公共事業をどんどん切り捨てて民間に委ねていく。小泉などは、そういう政策を意識的にとったわけです。

それが、どれほどの社会的な心理面における荒廃、それから経済のでたらめさをもたらしたのか。2006年以降、断続的ではありましたが、同じ政策を継いでいる安倍政権の下、さらに進行する事態の中で、私たちは否応なく気づいていることです。

貝原さんのこの展示の中で、1980年代前半の作品には中曽根がよく出てきて、表現されています。その中曽根がとった政策が、いったいどの方向を向いているものであるかということを、貝原さんは、うまく感じ取って、いくつかの表現をなしていたと思います。

「反テロ戦争」の出発点、米国は、なぜ憎悪に満ちた攻撃を受けたのか

政治的な面にかんして、ひとつの大きな節目は、世界的にはやはり、2001年9月11日の、ニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センター)やワシントンのペンタゴン(国防総省)が攻撃された、いわゆる同時多発の自爆攻撃があり、それ以降、報復として始まるブッシュの名づけた「反テロ戦争」があります。それがいったい、どういう事態を招いているのかを、この時代、貝原さんは描くことができたわけです。

2001年、あの攻撃の1か月後に、あの攻撃をやったとブッシュが断定したのが、アルカイーダです。当時、アルカイーダはアフガニスタンのタリバン政権によって、安住の地を与えられている、訓練の地を与えられているとブッシュは解釈し、その首領はオサマ・ビンラーディンであると断定したわけです。そしてこの許されざるテロ組織、アルカイーダを匿っているタリバン政権を攻撃するとして、アフガニスタン全土に対する一方的な攻撃を始めたのが2001年10月の事態でした。それから1年半後、2003年3月には大量破壊兵器を持ち、これを捨てようとしないということで、フセイン治世下のイラクに対する攻撃を始めた。これが「反テロ戦争」なるものの出発点の第一段階、第二段階でした。

2017年の現在、この「反テロ戦争」は終わりが見えないまま、もうすでに16年間続いているということになります。これには何十か国もの、いわゆる国際的な有志連合国が参加しているわけですが、もちろんその主力を担っているのは米軍です。

米国は戦争に次ぐ戦争で、どんな年表を作っても、常に海外において戦争を行なっています。それは18世紀後半の独立以来のアメリカ社会を貫くひとつの大きな戦略ですが、その米国をして、これだけ長く続いている戦争はないというくらいの16年間という長い歳月があって、いまだ収束の見込みがつきません。あの2001年の事態を見ていれば、このような戦争を始めてしまったら、もう泥沼だということは、わかる人にはわかることです。

ぼくはあの自爆攻撃にはきわめて批判的な人間です。けれども、しかしあのハイジャックした旅客機もろとも突っ込む、米国の経済的な繁栄の象徴としてのワールドトレードセンター、米国の世界における軍事的な象徴としてのペンタゴンに突っ込むということは、その突っ込んだ主体が、どれほどまでに米国の経済的な、および軍事的な行動に、ふるまい方に憎悪を抱いているかということの直接的な反映であって、それは手段が間違っているのではないかというのを超えたところで判断しなければならない、ひとつのあの事件の象徴的な性格だと思います。

すると、そのような攻撃を受けた側の為政者は、政治家は、大統領やその政権は、なぜ自分たちの国がこれほどまでの憎悪に満ちた攻撃を受けるのかということを、大国であればあるほど顧みて、出直しと言うか、顧みて次にとるべき方策を考えなければなりません。

しかもワールドトレードセンターの犠牲者は、当初は6000人くらいと言われましたが、最終的にはその半分の3000人くらいに減りはしました。とてつもない、たくさんの犠牲者が出たことの事実に変わりはありませんが。

ぼくがニューヨークやワシントンの出来事の報道を聞きながら思ったのは、米国の歴史であり責任です。

米国は、ほかの国の土地において、その社会が「不穏な状態」になったときに、米国公民の財産と生命の安全を確保するという理由ですぐに海兵隊を派遣して上陸させ、その土地で生まれてしまった不穏な社会情勢に対する一方的な介入を行なう、戦争という行為を行なうという歴史を繰り返してきたわけです。

それぞれの場所で、海兵隊の上陸によっても、そのひとつの作戦で数千人の人々を殺すことを当たり前のようにやってきた。戦争であれば、朝鮮戦争のようにベトナムのように、何十万人という人間を殺してきたのです。そうした責任をなんら問われたことがないのが米国です。圧倒的な政治的・経済的・軍事的な、および文化的な超大国であるがゆえに。文化的なというのは、ハリウッド映画やディズニーランドや、さまざまな文化浸透の力によって、世界に君臨していることです。それを含めた超大国であるがゆえに、あの国は、人を殺した責任を問われたことが一度としてありません。

広島・長崎での原爆投下の責任を問う姿勢が日本の歴代政権にはそもそもないけれども、そのことも、あの広島に行ったオバマの演説にわかるように、今に至るも、見事にその責任感のないところで彼らはものごとを考えています。

自分たちの国内では、さしあたっては先住民族のインディアンに対する殲滅戦争を皮切りに、その殲滅戦争が終わった後のインディアンをリザベーションに閉じ込めて以降、19世紀後半以降は、周辺のカリブ海に出ていって、その支配力を伸ばしていった。

そういったことを考えた場合に、自分たちの国が、国内で世界で行なってきた挑発的行動を顧みる、歴史を反省するよすがとして、あの9.11の攻撃をどうとらえるかと考え直せばよかったと思います。しかし、そうはしないで別な方向をとったわけです。

貝原さんは、この問題についても、きちんと取り上げ、「ベストセラー戯評」の中で、何回かにわたって描いていると思います。

民間人を殺傷する、国家テロ=「反テロ戦争」

もうひとつ、大きな問題としては、2002年9月17日、同時多発攻撃から、自爆攻撃から約1年後の「日朝首脳会談」があげられます。首相の小泉がピョンヤンを訪問して、日本と朝鮮の、日本では北朝鮮と呼んでいますが正式名称が長いので「朝鮮」と言いますが、日本と朝鮮の「首脳会談」が行なわれた。これによって国交正常化という本筋の目標を外したところで拉致問題だけが浮上し、日本社会はそこにだけ関心を集中させます。この問題についての関心も、貝原さんはうまく掬い取って、表現していると思います。

これら、「80年代前半の英国、米国、日本における新自由主義政策によって社会が席巻される」、「2001年、同時多発攻撃が起きる」、「日朝首脳会談が行なわれ、日本社会が拉致問題だけに関心を集中する」、このようなことが起きる時代に、引いたところで、少し客観的なところでこれを批判するというのは、なかなか「万人受け」しないことです。

例えば昨日、2017年11月20日、米国は朝鮮に対して「テロ支援国家指定」を再度行ないました。世界的なメディア報道では、これによって朝鮮の指導部の譲歩を導き出すことができるかという問題としてしか、とらえられていません。

しかし、この「テロ支援国家指定」はちゃんちゃらおかしいと思います。

もちろん、朝鮮国の現在の指導部の行なっている、核を担保とした瀬戸際政策、あるいはこの間度重なって行なわれているミサイル発射、こうした軍事的な方針によって、今彼らが抱えている苦境を打破しようとするやり方は、まったく間違っている。これはぼくの前提としてあります。

後で触れる拉致問題も含めて、あの国の指導部は社会主義を自称、あるいは僭称しているわけですが、とんでもない政権だと思っていますし、ぼくは今、あの政権を防衛したり擁護したりする気持ちは微塵もありません。しかし同時に言わなければならないのは、世界で最大の「テロ国家」は米国だということです。

彼らは「反テロ戦争」と言いますが、「戦争」とは国家テロの発動であるというのが、ぼくの基本的な考え方です。

この16年間続いている「反テロ戦争」、国家が発動している、米国が先頭になって発動している「反テロ戦争」は聖域に置いて、これはある意味で「当たり前の戦争」であると彼らは規定します。しかしパキスタンで、アフガニスタンで、イラクで、イエメンで、ほかの国々でもたくさんの民間人の死者が生まれました。

オバマ政権のときにいちばん重用されたのが、ドローンと無人機による爆撃です。彼らは本土の航空基地から、コンピュータ制御で、いわゆる「敵」、彼らが攻撃しようとする他国の「目標」を見ています。そして、「決まった」と。これがあの有名なテロリストの誰それだと。あるいは、彼らが武器を集めようとしていると。そういう目標を定めると、本土の空軍基地から命令が出されて、アメリカ兵はまったく傷つかない形で、ドローンあるいは無人機から爆弾を落とすわけです。

「目標」は、つまりアフガニスタンではパキスタンでは、イエメンにおいては、人々の居住区でもあるのだから、当然のことながら民間人を殺傷してしまう。しかしそれは、戦争に伴う、残念ではあるが避けがたいことだ、そういうことも起こりうると、彼らは自分たちの戦争行為を正当化するわけです。

このような戦争の在り方を、ある意味で、国家が発現する当然の「戦争」だと判断する。そして、いわゆるテロリストと名づけられた小集団、あるいは個人が行なう攻撃、パリで行なう、ニースで行なう、ブリュッセルで行なう、あるいはジャカルタで行なう、マドリードやバンドンでもありました。そうした攻撃をのみ、凶悪な「テロリストの活動」であると判断する。こうしたこと自体に、「万人受け」はするかもしれないけれども、ひとつの論理的な詐術と言いますか、ごまかしがある。

このことに世界の人々が気づかない限り、「戦争」と「テロ活動」をめぐる終わりのない連鎖は、なかなか終止符を打つことができないだろうと思います。

繰り返しますが、国家が発動する戦争を、やむを得ぬ「是」として、いわゆるテロリストが行なう活動のみを「否」とする、ダメだとする。それでは、「戦争」も「テロ」もなくならないというのがぼくの基本的な考え方です。国家が発動する「戦争」も、いわゆる「テロ」も、両方に終止符を打つ考え方と行動のあり方が、人間社会のひとつの基本にならないと、現状はなかなか打破できないだろうと思うわけです。

例えば朝鮮をめぐる情勢で言えば、朝鮮が行なう行動はすべて「挑発」と表現されます。日米、米韓合同軍が行なう軍事演習は「挑発」とは表現されません。

今年8月には、陸上自衛隊と米海兵隊の朝鮮半島をにらんだ軍事演習が北海道で行なわれましたし、日米韓の演習もしょっちゅう行なわれています。もし、朝鮮のミサイルや核を「挑発」と言うのであれば、日米韓の動きもまた「挑発」と言わなければならない。そういうまっとうな考え方を世界はしない。メディアの偏向した報道によって、そして世界の約200ある国々の政治指導部のきわめて妥当性を欠く表現によって、まっとうな考え方がなされないわけです。

ですから今のような報道が、万人によって受け入れられる表現になっていく。このようなときに、いったいこの事態をどう表現することができるのかというのが、大きな問題です。

先に見た新自由主義の問題で言えば、医療や福祉、教育、あるいは生活の重要な足である鉄道や通信の重要な手段である郵便、そうしたものはどんなに国家財政が苦しくなっても、国の責任において公共事業として行なわれ、その地域に住まう住民に等しく権利として享受されなければならないというのが本来の在り方です。それが、国のどこに住んでいるかによって格差が生まれない、社会的な公正さを少しでも経済的に保とうとするひとつの考え方であるわけです。ところが新自由主義経済政策というのは、国の責任をすべてかなぐり捨てて、資本の原理に基づいて、民間の競争力に委ねればそれでよいという、資本主義万々歳の考え方なわけです。

そうやって、ひとつの国の経済、あるいは予算の使い方が実現された場合に、その社会がどういうふうに荒廃していくものであるか、もうそれは現在の日本の労働状況、労働環境をみれば、誰の目にも明らかな事態になっています。

労働する人の権利が散々侵されて、企業はきわめて不安定な雇用形態しかとらなくなった。それは、この資本主義経済機構の中で企業が生き残るために必要な、競争原理に基づいた措置であると解釈されている。そうしたきわめて一方的な、雇う側に有利な考え方を、政府が言い、経団連が言い、メディアがそれに十分抵抗できないまま、ひとつの価値観として押し付けられていく。そういうときに、新自由主義経済政策が万人に受け入れられているわけではないという表現をどのように行なっていくか、そのことが問われてくると思うのです。

怒りと憎しみで一色になった日朝首脳会談後の日本社会

先に少し触れましたが、2002年の日朝首脳会談の問題に戻って、考えていきたいと思います。

2002年9月17日の日朝首脳会談で、金正日が、それまで否定してきた日本人の「拉致」を事実であったと認めて謝罪し、二度と繰り返すことはしないと述べた、ただ日本政府が拉致被害者として認定している13人のうち、8人の人はすでに死亡しており、5人のみ生存していると発表したという報道があったのが、あの日の夕方です。

この日の夜、テレビには、この間もよく登場されている横田さんご夫妻や、当時「家族会」の事務局長であった蓮池透さんなど「家族会」の人たちが前面に出ていました。そこで語られたのは、もちろん、悲しみもつらさもあっての、ある意味で当たり前な言葉であったわけですが、ぼくは夜、9時か10時ころ帰宅してテレビを見ながら、とんでもないことになるなと思いました。「とんでもない」というのは、日本社会が、朝鮮に対する、怒りと憎しみで一色になるだろう、そのようにメディアは機能し、人の心はそのように組織されるだろうということです。そして、この問題がはらんでいる本質はいったいどこにあるのかを、考えて明らかにしていくのは、たいへんなことだなと、ぼくは思ったわけです。

翌日から、実際そうなりました。新聞も一色でした。1か月後に5人の生存者が帰ってきて、それから2年近くたって子どもさんたちが帰ってくる。その間、日本のメディアは、この問題一色に染まったわけですね。

こういうときに、どういう観点から発言するか。これもなかなか、万人の、誰もがやることではない。

あえて「安易」と言っていいと思いますが、いちばん安易なのは、この風潮に同調することです。「もちろん亡くなった方は気の毒だ」、そして、その8人の家族を亡くした「『家族会』の人たちは気の毒だ」、「こんなことをやった朝鮮は許せない」、「金正日はけしからん」、「金日成の時代までさかのぼることじゃないか」と。

そして、その感情から「日本は今まで植民地支配云々で、後ろ指を指されてきたけれど、これでようやく我々は犠牲者になった。もう植民地支配の加害者として謝罪を要求されたりすることはない。これでおあいこだ。犠牲者として、被害者として何を言ってもいいんだ」という空気が生まれ、この社会に充満しました。

この中で、じゃあいったい、何をどのように異論として言うのか。これも万人受けのしない作業です。この問題についても、先に触れましたが貝原さんが仕事をしていた時代の中にあって、ぼくの考えでは皇室問題を除いた中での最も大きな問題のひとつと言える。繰り返しますが、新自由主義経済政策の問題と、同時多発攻撃と「反テロ戦争」の問題、それからこの日朝首脳会談以降の日本社会の問題に、今につながる問題が象徴されると思うのです。

ここでも貝原さんは、正面から取り組んだ形で作品を残しているということに触れておきたいと思います。

天皇制批判をどう表現するか――貝原浩と深沢七郎の「きわどい」表現

もうひとつは天皇問題です。反天皇制運動連絡会という組織が1984年でしたか、結成されて、今に至る活動が続いています。この、略称「反天連」の機関誌や様々なパンフレットに皇室関係の風刺画を描くというのも、80年代後半以降の、貝原さんの重要な仕事のひとつでした。

ひとつひとつの作品を紹介はしませんが、実際に今回の展示作品、図録をご覧になっていただけば、けっこうきわどい表現があることがおわかりいただけます。

昭和天皇裕仁が死んだのは、1989年。ですから貝原さんが、反天連の様々なことにかかわり始めた、わりあい初期のころですね。

裕仁については、彼が最期まで認めない、「文学上のアヤの問題は私は知らん」と言って、とうとう逃れてしまいましたが、戦争責任の問題が当然あります。しかし戦争責任については、それなりに描きやすいということはないかもしれないけれども、批判的な問題提起をしようというときには、問題の立て方としては、すっきりできると思います。

難しいのが、その後に天皇になり皇后になった、現在の、1989年以降のいわゆる、あえて元号を使えば、「平成」天皇と「平成」皇后のあり方をどのように表現するのかということだと思います。これはけっこう難しい問題です。

この間の日本の政治社会状況の中でも、例えば安倍晋三との対比において、天皇が繰り返し言う、平和への強いメッセージ、あるいは戦争犠牲者に対する海外を含めた慰霊訪問、そうしたことをひとつの象徴ととらえ、「これは安倍の戦争路線に対する内に秘めたる批判である」というような解釈をする人たちがいます。大衆運動の中にもいるし、いわゆる文化人的な人たちの中にもいないこともない。「ああ、戦争と平和の問題について、このような発言をする天皇や皇后をもって幸せだ」という、そのようなことさえ言う人たちがいる。

ぼくは、そのような考え方には反対の立場ですが、この問題はしかし難しい。

反天連の機関誌にはぼくも、この間、8年くらいでしょうか、もう90回くらいになる連載のコラムを持っています。それは貝原さんが、反天連に挿絵や風刺画を提供していた時代とは彼の死を挟んで、ずれてしまうので、機関誌の中で一緒にやったことはないんですけれども。

その機関誌の中でもよく問題にされることですが、現在の天皇皇后のあり方について、どのような言葉で、どのようなアプローチの仕方で、うまく批判できるか。昭和天皇のときと違って、ちょっと難しい。ここに、貝原さんがいない、亡くなって、今に至るこの12年間の空白ができてしまったのが、ぼくは非常に残念なことだと思っています。

貝原さんの表現は「きわどい」と言いましたけれども、しかし天皇制についての表現が、これほどまでにみんながびくびくしたり、ちょっとこれはやばいんじゃないかと思ったりするというのは、それほどずっと続いているわけではありません。

ぼくの記憶する中で、2つの例を挙げますが、これはいずれも、作家の深沢七郎の表現にかかわる問題です。

深沢七郎は『楢山節考』でデビューした、ぼくは優れた作家のひとり、忘れがたい作家のひとりだと思っています。彼が1960年12月の『中央公論』というあの、今や読売新聞社の傘下にある出版社、中央公論社の出している月刊誌ですが、そこに、『風流夢譚』という小説を書きます。

現在はインターネットの時代なので、いろいろな形で読むことができますが、「夢譚」という、つまり夢のお話です。掲載が11月発売の12月号で、いわば年末から正月にかけてのちょっとした夢物語として書かれたものです。しかし60年安保の年であり、現在の天皇と皇后が結婚した翌年ですから、そうしたことを反映しています。実際の当時の天皇皇后、現在の天皇皇后も実名で出てきますが、首都でサヨクの革命のようなことが起こったというので、見に行くと天皇の首が切られた胴体があったりする。「革命」といい、「サヨク」といっても、そのサヨクのヨクが慾望の慾の「左慾」ですからね。ウソ物語、夢物語です。しかし皇太子の首が斬られ、美智子の首が斬られて「首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった」というような表現を含めてある、そういう作品です。

作品の評価は別個行なうべきだとして、そんな作品が1960年に、『中央公論』という総合雑誌に載っていたわけです。その結果、これを怒った右翼の人間が版元の中央公論社の社長宅を襲って、お手伝いさんが亡くなるという事件が起こってしまいました。

日本の出版界が、天皇表現について委縮し始めたのがこれ以降です。ですから57年間、せいぜい半世紀ちょっとです。

この深沢七郎という人はもうひとつ、1959年の講談社の文芸雑誌『群像』に「これがおいらの祖国だナ日記」というエッセイを書いています。これは、天皇家に、民間の血が入ったことに対する残念な思いを書いたものです。

つまり、天皇家というのは「血族結婚」を続けていって、「ムカデの様な」、「皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様で、くねくねと動いている」一家になって、その一家の写真を、「国民は『これがおいらの祖国だナ』と、国賓の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるのだ。(それが、すつかりダメになつちゃつたんだよ)」「僕は御成婚の日にテレビを見ながらガッカリして眺めていた」というのですから、これはちょっとすごい表現でしょう。

今だったら、まず『群像』が載せるはずがない。載せたら何が起こるかわからないというような表現です。しかし、半世紀ちょっと前には、その手の自由さはあったんです。

深沢七郎はほんとうにおもしろい人で、余談ですが、米国大統領のケネディが殺されたとき、赤飯を炊いて隣近所に分けたという。みんな怪訝な顔をするわけですが、「いやあ、戦争をする奴が亡くなったからめでたいでしょう」と言ったとか。彼は、そういうことを、正直にできる人だったんですね。

この社会にそういう人がいてよかったなと思うんですけども、そういう、ある意味まっとうな発想で、そのとおりのことを言っていた文学者だったと思います。

つまり、天皇制に対する批判的な言辞に臆病になってしまう、委縮してしまうというのは、ごくごく最近だということ。深沢氏の表現に対する右翼テロがあって、それに大きなメディアが怖気づいて、やがてこれほどに無抵抗な、批判的な言論が一切ないような時代が来てしまった。これがこの半世紀の問題ですし、少しでもこの天皇制という余計なものに対する批判の空間、言論空間を広げていかなければならないと思います。

しかし残念ながら、やはり違うベクトルから天皇一家を表現するものが、この社会では圧倒的に受ける、万人受けするわけです。それになんら疑問を抱かない。批判的な言論はものすごくマイナーな反天連の機関誌でしかなされていないということは、ほとんどの人の目には触れないわけです。批判のないのが当たり前になってしまう。そして天皇がらみのことでは反射的に、なにか、丁寧な言葉を使って崇め奉ってしまう。それが、どれほどこの社会を不自由にしているかということを指摘したいと思います。

犯罪への反応からみる、万人に受け入れられる考え方の恐ろしさ

もうひとつ、万人に受け入れられないものには、たとえば犯罪報道があります。

社会的な関心を呼び起こす凶悪な事件を含めた犯罪事件が起こったとき、その事件によって殺された犠牲者に成り代わる、あるいは犠牲者の遺族に成り代わって犯人をつるし上げる。これが、なぜかわからないけれども、社会にいちばん浸透している人々の心の在り方です。

貝原さんが生きた時代の中では、「ロス疑惑」と呼ばれた三浦和義さんの事件があって、それを扱った絵も展示されています。あの事件のころ、ぼくはテレビを買ったばかりだったということもあって、珍しくてニュースショーなどを見ていました。レポーターというんですか、みんなマイクを持ってワーッと三浦さんのところに押しかけていく。

最初は『週刊文春』がスクープして、「ロス疑惑」というのを暴き始めたわけですが、そしてテレビが犯人に仕立て上げてしまい、後追いで警察が介入する。もう三浦和義という人に対する、罵倒と憎悪、それが満載の社会になっていました。

現在はなおさらです。先だっても、おそろしい事件がありました。パーキングでの駐車の仕方を注意された若者が、その注意した人の車を高速で追いかけて、走行を妨害して、結果、後ろから来たトラックに追突されて注意した側のご夫婦が亡くなるという悲惨な事件があった。

この事件について、20代の若者の名前が出ました。どこに住んでいるか、地名も出ました。そうするとなぜかわざわざその名前を調べて、「この店のバカ息子がやったに違いない、こいつがオヤジだ」というように、だれかがインターネットに上げた。するとそのネット情報に基づいてどんどん嫌がらせ電話が、間違えられた人のところに入って、仕事にならないと。そういうことが報道されていました。

ここまでこの社会はひどくなっている。いわゆる「テロ」事件でも、「拉致」事件でも、凶悪事件でもそうですが、圧倒的多数の新聞、報道記者、テレビ視聴者は第三者です。その事件の犠牲者でもなければ犠牲者の遺族でもない、加害者の側にいるわけでもない。99.9パーセントの人たちはその事件の当事者ではありません。第三者だからこそ、冷静に、なぜこんな悲劇が起こるのかを考え、こうした悲劇が起こらない社会にするために必要なことは何か、どんな考え方が、どんな行動が必要なのかを冷静に考える、そういうことができる位置に本来はいるわけです。

ところが、この社会ではそうならない、いたずらに、ひとり興奮してしまって、その犠牲者に成り代わり、遺族に成り代わって加害者をバッシングする側になる、それをテレビメディアは先頭に立って、週刊誌メディアがそれを追い、場合によっては新聞メディアも加わって、それがいかにも、社会の万人に通用する考え方であるかのように検証してしまうわけです。

万人に受け入れられる考え方というのは、これほどまでに恐ろしい、そういう時代になっていると思います。

それはインターネットによって加速した。パソコンが普及し始め、インターネットが普及し始めた元年は1995年だと思いますが、貝原さんはネット社会がだんだんと人々の心の中に浸透していく、その初期の段階の10年間を、彼は並走したわけです。それから12年経って、このネット社会というものが、どれほどまでにひどい状態になっているのか、貝原さんが体験できたならば、いったいどういう風刺を描いていただろうか。これも彼の作品を、見ながら考えたことでした。

劣化した社会の中でこそ、「万人」の表現になびかず、抵抗の表現を

もうひとつ重ねて終わりにします。

ぼくは先ほど触れた、2001年に小泉政権が成立した以降、小泉の時代に書いた文章の中で何回か、「言葉が死んだ」といいますか、そういう表現を使ったことがあります。

小泉純一郎というのは、人が発する言葉からその本質的な意味を奪い取ってしまう政治家の典型です。言葉で、論争をするとか論戦をするとか、そうしたことが不可能なところに、そういう劣化した状態に社会を追いやってしまったと思います。

どういうことかというと、例えば2003年、自衛隊の「イラク派兵」が問題になったときに、「非戦闘地域にしか自衛隊は派遣しない」と当時の小泉政権は言っていて、それなら、そのときのイラクの戦闘地域と非戦闘地域をどういうふうに分けて判断しているんだと野党が質問すると、小泉は何と答えたか。「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと、いま永田町にいるこの私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか」と答えた。質問に対するとてつもない居直りです。

野党の質問の仕方にも問題はありましたが、しかし戦闘地域と非戦闘地域がわけがわからない人間が、最高責任者として自衛隊を派遣しているという、そういうことになってしまうわけです。

そんな派遣の無責任性を批判していく展開が必要ですが、「わかるわけがないでしょう」と言って、情けないことに野党の追及はそこでストップしてしまうわけです。

あるいはまた、2004年、年金の問題のときに、小泉自身の厚生年金加入疑惑を質されると、島倉千代子の歌にかけて「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」などと言って、まともに質問に答えない。言葉に向き合うのではなくて、ずらしたところで、答えたつもりにさせてしまう。ある意味、ものすごく巧みな人間でした。あらゆることから人間の発する言葉の意味を奪い、論争するという機会をずるずると奪ってしまいました。

小泉という、ほんとうに口の軽い、言葉の軽い、とんでもない人間が5年間、あれだけの人気を誇って首相の座にいた。あのときから、ぼくは、日本社会が、日本の政治が、それまでもとんでもない政治が行なわれていたけれども、もう一段階、国会論戦のあり方を含めて、とんでもない時代が来てしまったのだと思います。

その小泉の後継指名を受けたのが安倍晋三です。せっかく1年間で辞めてくださいましたが、残念ながら自民党内の勢力的な問題があって、2012年にまた復活し、とうとう5年間の長期政権が続いてしまいました。彼の下で言葉がさらに意味を失ったことはみなさん、日々、実感されていると思います。

とにかく話にならない、論争にならない。あれだけはぐらかし、まともに答えないで、しかし、野党の力不足で、あるいは質問時間がなくて、どんどん既成事実として進んでいく。これほどまでに風刺も効かない、言葉が本来の意味を持たず、風刺も効かなくなった時代に、貝原浩が生きていたらいったいどんな風刺画を描けたんだろうというのが、たいへん興味のある問題です。

ぼくはほんとうに、小泉政権以降のこの16年間、こういう時代に、社会や政治のあり方に対して批判的な文章を書くということの意味はいったい何なんだと、いったいどこに手ごたえを感じたらいいのだろうということを、つくづく思うようになりました。

しかも、社会は大きく転換して、いくら選挙制度に不備があろうと、社会全体はここまでこう、抵抗力を失って、劣化して現在に来てしまったわけです。

いろいろな問題点を指摘することはできるけれども、しかし小泉的なもの、安倍的なもの、米国であればトランプ的なもの、そうしたものを支える社会層が、それなりに厚みを帯びて、この社会を形成してしまっている。それが「万人」であることのように装って、この社会を仕切っている。そういう時代を迎えてしまったわけです。

こういうときに、この「万人」の表現になびかず、こんな表現が、こんな政治家が受けるのはあやしいというふうに踏みとどまって、考え、行動する。踏みとどまって文章として、絵として、演劇として、映画として、様々な表現を行なう、そういう人間が途絶えてはいけない。そのことを十分思いつつ、同時にその難しさも思うわけです。

繰り返しになりますが、こんな、なんと名づけていいのかわからないへんてこな時代に貝原浩が生きていたら、いったい彼は、これに抗う、どんな抵抗の表現をしていただろうかということを考えながら、なんとかこの時代を乗り切っていきたいなということを考えています。

(2018年2月13日発行 発行責任:貝原浩の仕事の会)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[92]願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん


『反天皇制運動Alert』第19号(通巻401号、2018年1月9日発行)掲載

今年は明治維新(1868年)から150年に当たる年なので、政府や地方自治体がそれを記念する行事を企画し始めているようだ。年頭の新聞各紙でも、その種の記事が目立った。ただし、この言い出しっ屁が現首相であると私が知ったのは、年頭1月6日付け毎日新聞掲載の編集委員・伊藤智永のコラム「時の在りか」によってである。

戦後70年に当たる2015年に山口県に里帰りした首相は、明治50周年(1918年)は長州軍閥を代表する寺内正毅、同100周年(1968年)は叔父の佐藤栄作が首相だったと紹介したうえで、「私は県出身8人目の首相。頑張って平成30年までいけば、明治維新150年も山口県の安倍晋三が首相ということになる」と語ったという。地元有権者の心をくすぐるリップサービスだったのだろうこの発言から、長期政権への野心を忖度した現官房長官が国の記念行事に位置づけた、と伊藤記者は言う。

現首相は、元来、まっとうな歴史意識や歴史認識の持ち主であることを期待しようもない人物ではあるが(首相の在り方として、ほんとうに、これは哀しく、情けなく、恥ずべき事実として私は言っている)、彼が肯定的に例示した寺内正毅は、「元帥陸軍大将」位をはじめとしていくつもの勲章を胸中に付けた肖像写真で有名な人物である。[勲章をぶら下げた人間を見たら、「軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう」と『侏儒の言葉』に記した芥川龍之介の言葉を思い起こすくらいの心を持ち続けていたい。それは、「革命軍」や「人民軍」や「解放軍」の兵士や司令であっても、変わることはない。躊躇いもなく人びとを殺す残虐な行為の果てに、胸を勲章で埋めるのが「軍人」、とりわけ「将軍」だからだ]。

ともかく、寺内正毅という軍人政治家の在り方を近代日本の歴史の中に位置づけておくことは、現首相の立場とは正反対の意味で、私たちにとっても必要なことに違いない。

1852年生まれ(ペリー艦隊「来襲」の前年である)の寺内は、明治維新の年=1868年に御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦したことで、軍人としての生涯を始めている。わずか16歳であったことに注目したい。その後の西南戦争でも、とりわけ田原坂の戦いで負傷して右手の自由を失うわけだから、いわば明治維新前後の政治的・社会的激動の中で生きたという背景がくっきりと刻印されている人物である。その負傷によって以後実戦の場を離れたとはいえ、日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を、日露戦争時には陸相を務めていた事実に当たれば、いかにも「坂の上の雲」を目指して明治期前半の時代を生きた典型的な人物と知れよう。だが、その天を目指す群像を肯定的に描いた司馬遼太郎ですらが、寺内は自らの無能さを押し隠すように愚にもつかぬ形式主義に陥り、軍規にやかましく、偏執的なまでに些事に拘泥して部下を叱責した人物として描いている。その寺内が、1910年の「韓国併合」と共に陸相兼任のまま初代朝鮮総督となり、一般歴史書でも「武断政治」と称されるような苛烈な朝鮮統治の方法を編み出し、あまつさえ1916年には首相にまで「上りつめた」のである。

中国北宋代の政治家、詩人にして書家・蘇東坡の、有名な一句を思い出す。

「願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん」

日本国の現首相は言うに及ばず、世界中の現役宰相を眺めて思うに、「政治」「政治家」の本質は、やんぬるかな、古今(11世紀も、21世紀も)東西を貫いて、この一語に尽きるのかもしれぬ。

さて、寺内に戻る。彼は「韓国併合」の「祝宴」で次のように詠った。

「小早川 加藤 小西が世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」

固有名詞の3人はいずれも、16世紀末、秀吉の朝鮮出兵に参画し「武勲」を挙げた武将たちである。「歴史の評価は歴史家に委ねる」と公言する現首相が、心底に秘めている歴史観に共通する心情が謳われていることは自明のことと言えよう。

かくして、今年一年を通じて、明治維新150周年の解釈をめぐる歴史論争が展開されよう。ここ数年来、産経新聞はこの種の論争に敢えて「歴史戦」と名づけたキャンペーンを繰り広げている。『諸君!』『正論』などの右翼誌には1980年代後半以降とみに劣化した言論が載るようになったが、30年近くを経てみれば、その水準の言論が社会全体を覆い尽くすようになった。偽り、ごまかし、居直りに満ちたこの種の言論の浸透力を侮った報いを、私たちはいま引き受けている。「愚鈍な」宰相の言葉とて、甘く見るわけにはいかない。

(1月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[91]代議制に絶望して、おろおろ歩き……


『反天皇詠運動Alert』第18号(通巻400号、2017年12月6日発行)掲載

かつて必要があって、1965年当時の日韓条約締結に関わる国会審議の様子を新聞記事に基づいて調べたことがある。不明なことが多く、議事録を取り寄せたら、質疑内容に関する印象は一変した。戦後「反戦・平和勢力」の、国会における重要な担い手であった社会党議員が、対韓植民地支配責任を問う形での「戦後処理」を求めるのではなく、敗戦時に在韓していた日本人植民者が混乱の最中で彼の地に放置せざるを得なかった「財産」の回復・確保が、締結すべき条約に関わっての主要な関心であったことに一驚した。これに関しては、植民者を動員した日本国家が負うべき責任はあるだろうが、対韓請求の問題ではないだろう。

時代は下って1990年代後半、オウム真理教教祖の公判での弁護側と検察側のやり取りを、某紙一面の全面を使う記事で読んだ。全面を使っているのだから、さぞ詳しく、的確にまとめられているのだろうと思い込んでいた節が我ながらあった。後日、その応酬を引用するために公判記録を読むと、新聞に掲載されていた要旨とはまったく異なる印象を受けた。同紙の要約記事は、法廷における教祖の、「異様」かつ「不真面目な」ふるまいに関するト書き的な叙述が多く、弁護人の重要な発言を軽視ないしは無視していたようだった。

当然のことながら、国会や裁判で交わされた当事者間の問答・論議を検証するには原資料に当たることの重要性を学んだ。その意味では、テレビやラジオの中継は、質疑・問答のありようをじかに確認できて、本来ならよいのだが、時間の関係上それはできない場合が多く、加えて、昨今の国会審議の惨状を思うと、そもそも見聞きするに堪えられないという思いが先に立つ。機会あって稀に見聞きしたりすると、両者の言動に対する賛否以前に、「言葉を交わす」こと自体が不可能な人間がここまで大量に登場している事実を知って、こころが塞ぐ。だが、ネット上のツイッターやフェイスブックでは、忍耐力のある人が、あまりにひどいケースを動画入りで報告してくれる場合が、昨今はある。今次臨時国会での「討論」に関しても、それを通して、いくつかの「シーン」を垣間見た。野党議員の持ち時間を大幅に削ってまで質問をしたいと望んだ与党議員と閣僚たちが、驚くべき「醜態」をさらしていた。

青山繁晴や山本一太などが行なった質問はここに引用するのも憚られる内容(正しくは、無内容)なので、それはしない。したくない。この間、私自身もそう思い、何度か書いたこともあったが、連中の狙い目は、有権者が国会審議のひどさに呆れ、もはや、今まで以上に政治への、国会への関心を喪失し、政府・与党のやりたい放題でこの国の運営ができる状態を出来させたいのではないかと呟く人を、今回はちらほらと見かけた。さもありなん。

「ひどさに呆れ」と言えば、否応なく思い出すひとつの文章がある。テーマが若干変わるが、以下に引用してみる。「天皇というものは本来純粋培養で、貴族同士の結婚によって段々痩せ衰えてゆき、ひとつの生物の標本となる。ジガ蜂のようにグロテスクになってしまい、国民がそれを見て、なるほど俺たちの象徴というのはこんなんなんだナというふうに眺めるようになってほしかった。ところが、民間の女性と結婚することになった。これは困ったことである。なぜならたいへん健康な子どもが生まれるであろうから」

これを書いたのは、作家・深沢七郎。時期は、現天皇夫妻が結婚して間もない1960年。掲載誌は、講談社が現在も刊行を続けている文芸誌『群像』。深沢が書いた高級落語(吉本隆明による命名)「風流夢譚」とほぼ同じ時期に書かれたエッセイだったと知れよう。深沢の、この暗喩的な表現は何を語ったのか。この国では、自覚的な意識化作業による精神革命を経ての天皇制の廃絶も、他国ではありふれた歴史的事象であった物理的な処断=「王」の処刑による王政廃絶も、いずれも不可能なのではないかという、いかにも彼らしいニヒリズムの表現であったように思われる。

私はここで天皇制のことを書こうとしているのではない。あまりにひどい代議制に対する私たちの絶望の度合いは、天皇制に関わる深沢のこの吐露に近いものに達していると考えている私は、この先どうしたものかとおろおろ歩いているさまを、そのまま記しておきたかったのである。(12月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[90]山本作兵衛原画展を見に来たふたり


『反天皇制運動Alert』第17号(通巻399号、2017年11月7日発行)掲載

数年前のことだった。東京タワーの展示室で「山本作兵衛原画展」が開かれた。筑豊の炭鉱で自らが従事した鉱山労働の様子や、労働を終えた後の一時のくつろぎの仕方までを絵筆をふるって描き、深い印象を残す人物である。筑豊は谷川雁、上野英信、森崎和江などの忘れ難い物書き(関連して、後述する水俣の石牟礼道子も)を生んだ土地であり、私はそれらの人びとへの関心の延長上で作兵衛の作品にも画集では出会っていた。

原画にはやはり独特の趣があって、来てよかったと思った。原画展の会場を去る時、ひとりの友人とすれ違った。その彼女が深夜になってメールをくれた。あのあと会場で作品を見ていると、今日は緊急に閉場しますというアナウンスがあったので、そんなことは展覧会案内のホームページにも書いていない、まだ見終えていない、と抗議していると、どこからともなくわらわらと大勢の黒い服の男たちが現われ、見る見るうちに会場を制圧した。そしてその奥から、天皇・皇后の姿が現われた……と。

作兵衛画の鑑賞を突然断ち切られた友人の怒りは当然として、同時に、作兵衛展を見に行くとは、皇后もなかなかやるな――と私は思った。この展覧会の少し前に、ユネスコは作兵衛の作品を世界記憶遺産に指定していた。この年には、チェ・ゲバラが遺した文書(日記、旅行記、ゲリラ戦記など)も、キューバ・ボリビア両政府からの申請で同じ遺産に指定されており、それぞれの国では自国に縁のある文物が記憶遺産に指定されることに〈自民族至上主義的に〉大騒ぎする。日本社会も、描いている主題からして日頃はさして注目もしていない山本作兵衛の作品が、世界的な認知を受けたといって盛り上がっていたとはいえ、このような社会的「底辺」に関わる表現にまで目配りするとは、さすが皇后、と思ったのである。(この展覧会に来るという「見識」を持ち得るのは天皇ではなく皇后だろうという判断には、大方の賛同が得られよう。)

こんなことを思い出したのは、去る10月20日、83歳の誕生日を迎えた皇后の文書が公表されたからである。2ヵ月早く今年の回顧を行なった感のある同文書を読むと、神羅万象に関わる皇后の関心の広さ(あるいは、目配りのよさ)がわかる。震災の被災者や原爆の被害者への言及を見て、「弱者に寄り添う」という表現もメディア上では定番化した。今回は特に、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞したことにも触れており、これには明らかに、核廃絶への取り組みに熱心ではない安倍政権への批判が込められているとの解釈もネット上では散見された。学生時代の彼女は(1934年生まれの世代には珍しいことではないが)、ソ連の詩人、マヤコフスキーやエセーニンの作品を愛読していたという挿話もあって、〈個人としては〉時代精神の優れた体現者なのだろう。

だが、ひとりの人間として――というためには、他の人びととの在り方と隔絶された特権を制度的に享受する立場に立たない、という絶対条件が課せられよう。作兵衛展に出かけるにしても、一般人の鑑賞時間を突然に蹴散らしてでも自分たちの来場が保証されるという特権性に、彼女が聡明で優れた感度の持ち主であれば、気づかぬはずはない。自分たちが外出すれば、厳格極まりない警備体制によって「一般人」が被る多大な迷惑を何千回も現認しているだろうことも、言うを俟たない。「弱者」に対していかに「慈愛に満ちた」言葉を吐こうとも、己の日常は、このように、前者には叶うはずもない、そして人間間の対等・平等な関係性に心を砕くならば自ら持ちたいとも思わないはずの特権に彩られている。その特権は「国家」権力によって担保されている。この「特権」と、自らが放つ温情主義的な「言葉」の落差に、気が狂れるほどの矛盾を感じない秘密を、どう解くか。

凶暴なる国家意志から、まるで切り離されてでもいるかのように浮遊している「慈愛」があるとすれば、それには独特の「役割」が与えられていよう。彼女が幾度も失語症に陥りながらも、皇太子妃と皇后の座を降りようとしなかったのは、自らの特権的な在り方が「日本国家」と「日本民族」に必要だという確信の現われであろう。

高山文彦に『ふたり』と題した著書がある(講談社、2015年)。副題は「皇后美智子と石牟礼道子」である。そのふるまいと「言霊」の力に拠って、後者の「みちこ」及び水俣病患者をして心理的にねじ伏せてしまう、前者の「みちこ」のしたたかさをこそ読み取らなければならない、と私は思った。「国民」の自発的隷従(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)こそが、〈寄生〉階級たる古今東西の君主制が依拠してきている存立根拠に違いない。

(11月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[89]「一日だけの主権者」と「日常生活」批判


『反天皇制運動Alert』第16号(通巻398号、2017年10月10日発行)掲載

テレビのニュース番組を観なくなって久しいことは何度か触れてきた。もともとテレビを買ったのは1983年のことだったから、きわめて遅い。この年の10月、米帝国がカリブ海の島国、グレナダに海兵隊を侵攻させた。社会主義政権の誕生で彼の地の社会情勢が「不穏」となり、在留米国人の「安否」が気遣われたという口実での、海兵隊の侵攻だった。ひどい話だが、「建国」以来の米国史ではありふれたことではあった。悔しいのは、グレナダという国について何のイメージも浮かばないことだった。長崎県の福江島に等しい程度の広さの国だというが、どんな人が住んでいるのだろう、主な生業は何だろう、10万人の人口で成り立つ「国」とはどんなものだろう。そんな小さな国で、米国をして不安に陥れる社会的・政治的情勢とは、どんなものだろう――百科事典でわかることもあったが、土地とひとに関わる映像的なイメージがどうしても必要だと思った。

あれほど拘って「拒否」してきたテレビを買ったのは、その時だった。買ってみてわかったことだが、グレナダのような小さな国の出来事なぞ、何が起ころうと日本のテレビ局は何の関心も示さない。新聞は読んできたのだからわかりそうなものだったが、マスメディアにおける、「世界」から打ち捨てられた地域・国々の扱い方はそういうものなのだ、という当然の、興ざめした結論を改めて得ることとなった。だが、ニュースのほかにもさまざまなテレビ番組に触れるにつれ、現代人の心のありように及ぼすテレビの影響力の決定的な大きさを心底痛感することとなった。

そのことを実感する個人的な経験も1997年にあった。前年末に起こって長引いていた在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件をめぐって、某テレビのニュース番組に二度出演した。生放送ではない、録画撮りで、放映時間はそれぞれわずか一分程度のものだった。私としては、日本人人質の安否報道に純化している日ごろの番組ではまったく聞かれない意見を話したつもりだった。翌夕、事務所近くのラーメン屋へ行くと、顔見知りの兄さんが「夕べ、テレビに出ていましたね」と言って、何か小皿料理をサービスしてくれた。郵便局の局員も、見ましたよと言って、それがさも大変なことであるような話ぶりだった。話したことの内容ではなく、テレビに出たこと自体が、私に対する彼らの視線を変えたもののようだった。恐ろしい媒体だ、と心から思った。

1983年にテレビを買い、その後20年間ほどは、時間さえあれば、ニュース番組以外にもいろいろと観た。とりわけ2002年9月以降の半年くらいの間はテレビに浸った。日朝首脳会談以降の拉致問題報道によって社会がどのようにつくり変えられていくのか。それを見極めなくてはならない。そう考えたからだ。外にいたり電車に乗っていたりするときも、ワイドショー番組での人びとの発言を携帯ラジオの音声モードで聞いていた。恐るべき速度と深度で、この社会が民族排外主義と自己責任免罪主義によって席捲されていく様子が、手に取るように分かった。ワイドショーこそは諸悪の根源、と確信した。この作業を終えて以降、テレビ・ニュースを観ることをほぼ止めた。世界各国の最新のニュース番組を同時通訳で紹介するNHK・BSの「ワールド・ニュース」だけは観る。60年安保のころ、中国文学者・竹内好が「日本の新聞だけを読んでいても、何もわからない。英字新聞を読まなければ」と語った記憶が蘇える。今、テレビに関して、竹内に似た思いを抱く。

国会解散・総選挙・相次ぐ新党結成などの動きが打ち続くなかで、「禁」を破ってテレビのニュース番組やワイドショーをいくつか観た。テレビを重要な媒体だと考えている人びとの脳髄に日々染み渡ってゆく言論がどのような水準のものであるかを、司会者・コメンテーターの言動と番組全体の枠組みを検討して、理解した。15年前との比較においてすら、劣化は著しい。加えて、選挙制度は小選挙区制である。さらに加えて、極右が支配する「自民」「希望」は論外としても、これに対決しているかに見える新党「立憲民主党」の先頭に立つのは、震災・原発事故の際の〈為政者〉としての印象も生々しい政治家たちである。あっちを向いても地獄、こっちを向いても〈小〉地獄。選挙の一定の重要性は否定しないが、「一日だけの主権者」への埋没がこの事態を出来させたと考えれば、私たちが真に大切にしなければならないことは何かが見えてくる。それは、テレビ・ニュースに象徴される、己が「日常生活」への批判なのだ。(10月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[88]過去・現在の世界的な文脈の中に東アジア危機を置く


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第15号(通巻397号、2017年9月12日発行)掲載

米韓及び日米合同軍事演習と朝鮮国の核・ミサイル開発をめぐって、朝鮮と米国の政治指導者間で激烈な言葉が飛び交っている。日本の首相や官房長官も、緊張状態を煽るような硬直した言葉のみを発している。

いくつもの過去と現在の事例が頭を過ぎる。1962年10月、キューバに配備されたソ連のミサイル基地をめぐって、米ソ関係が緊張した。若かった私も、新聞を読みながら、核戦争の「現実性」に恐れ戦いた。その時点での妥協は成ったが、それから30年近く経ったころ、米・ソ(のちに露)・キューバの当事者が一堂に会し、当時の問題点を互いに検証し合った。モスクワ再検討会議(1989年)、ハバナ再検討会議(1992年、2002年)である。二度に及ぶハバナ会議には、フィデル・カストロも出席している。当時の米国防長官マクナマラも、三度の会議すべてに出席した。二度目のハバナ会議の時はすでに「反テロ戦争」の真っただ中であり、ブッシュ大統領が主張していたイラクへの先制攻撃論をマクナマラが批判していたことは、思い起こすに値しよう。カストロも「ソ連のミサイル配備の過ち」を認めた。キューバ・ミサイル危機では、「敵」の出方を誤読して、まさに核戦争寸前の事態にまで立ち至っていたことが明らかになった。それが回避されたのは、僥倖に近い偶然の賜物だった。

マクナマラは、ベトナム戦争の一時期の国防長官でもあって、彼は後年のベトナムとの、ベトナム戦争検証会議にも出席している。そこでも彼は、米国の政策の過ちに言及している(『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社、 1997年)。対キューバ政策にせよ、ベトナム戦争にせよ、あれほどの大きな過ちだったのだから、「現役」の時にそれと気づけばよかったものを、そうはいかないらしい。「目覚め」はいつも遅れてやってくるもののようだ。

それにしても、人類の歴史を顧みると、同じ過ちを性懲りもなく繰り返している事実に嫌気がさすが、この種の「検証会議」はその中にあってか細い希望の証しのように思える。かつては真っ向から敵対していた者同士が、「時の経過」に助けられて一堂に会し、過ぎ去った危機の時代を検証し合うからである。そこからは、次代のための貴重な知恵が湧き出ている。それを生かすも殺すも、その証言を知り得ている時代を生きる者の責任だ。

南米コロンビアの現在進行中の例も挙げよう。キューバ革命に刺激を受けて1960年代初頭から武装闘争を続けていたFARC(コロンビア革命軍)が、昨年実現した政府との和平合意に基づいて武器を捨て、合法政党に移行した。略称はFARCのままだが、「人民革命代替勢力」と名を変えた。同党は自動的に、議会に10の議席を得た。彼らが初心を失い、後年は麻薬取引や無暗な暴力行為に走っていたことを思えば、この「妥協的」な条件には驚く。政治風土も違うのだろうが、困難な事態を解決するための、関係者の決然たる意志が感じられる。50年以上に及んだ内戦の経緯を思えば、この「和解・合意」の在り方が示唆するところは深い。朝鮮危機が報じられた9月1日の朝日新聞には「戦争は対話で解決できる/ポピュリズムは差別生む」と題されたコロンビアのサントス大統領との会見記が載っている。「ゲリラに譲歩し過ぎだ」との世論の批判を押し切ったブルジョワ政治家・サントスの思いは強靭だ。「双方の意志で対話し、明確な目標を持てば、武力紛争や戦争は終わらせることができる」。内戦で苦しんだ地方の人びとの多くが和平に賛成し、内戦の被害が少なかった都市部の住民が和平に否定的だったという文言にも頷く。当事者性が希薄な人が、妥協なき強硬路線を主張して、事態をいっそう紛糾させてしまうということは、人間社会にありふれた現象だからだ。

さて、以上の振り返りはすべて、今日の東アジア危機を乗り越えるための参照項として行なってきた。導くべき答は明快なのだが、惜しむらくは、朝鮮を見ても、米国を見ても、日本を見ても、政治・外交を司る者たちの思想と言動の愚かさを思えば、事態は予断を許さない。こんな者たちに政治を委ねてしまっている私たちは、渦中の「検証会議」を想像力で行なって、この状況下で「当事者」として行なうべき言動の質を見極めなければならぬ。

(9月8日記)