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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

9・11から10年目の世界


『インパクション』181号(2011年8月31日発行)掲載

東欧・ソ連型社会主義体制の無惨な崩壊(1989年〜1991年)を見届けた現代資本主義の信奉者たちは「グローバリゼーション」の掛け声の下で、勝利=歓喜の歌の合唱を始めた。20世紀が終わるまでに残る歳月は、すでに10年を切っていた。前世紀には不吉印の象徴ともいえた「世紀末」なる呪縛的な概念は彼らの頭からすっかり消え失せて、歴史的な世紀の変わり目には赫々たる未来が待ち受けるばかりだ、と信じて疑わない人びとであった。昨日まではこれとは対極的な立場にいた者のなかからさえも、指針を失い、確信も失って、こっそりと、あるいはあからさまな形で、立場を移し替える者が輩出した。マルクス主義文献は書店の棚から消え、やがて多くの古典すら絶版にされた。隆盛を誇っていた大学のマルクス主義経済学の講座も、いつのまにか、その多くが姿を消した。

それでも、諦めない者もいた。1994年1月、メキシコ南東部ではサパティスタを名乗る先住民族組織が、まさにグローバリゼーションの一象徴でしかない自由貿易体制の強要に抗議する蜂起を開始した。蜂起の主体が先住民族であるがゆえに、それは必然的に、植民地支配によって可能になった/したがって「先住民族」という存在を生み出した資本主義的近代に対する歴史的・現在的な批判を孕むものであった。この蜂起は、第三世界にも、高度消費社会にも深い共鳴者を見出し、その後の世界的な反グローバリゼーション運動の原動力の役割を果たし始めた。サパティスタは政治的に成熟した戦術を取って、ただちに政府を交渉の場に引き出したので、武装蜂起という初期形態は強く印象づけられることはなく、社会が武装蜂起という形態からすぐ連想しがちな「テロ」という問題は、重大なものとして浮かび上がることはなかった。それは、また、武装することも、兵士であることも、ましてや戦争することなどは、できることなら無くしたいと根底において望んでいると語るサパティスタの理念とも不可分の、受容のされ方であった。

1996年~97年にかけては、ペルーの日本大使公邸を占拠し、大勢の人質を取って、日系人のフジモリ大統領が採用してきた、これまたグローバリゼーションの基盤をなす新自由主義経済政策に対する抗議の意思表明を行なったゲリラ運動があった。人質の中に外交団がいたこともあって、事態は国際的な関心の的となり、「暴力=テロ」に対して国家はいかに対処すべきかという問題が、大国政府とメディアの主要なテーマとなった。日本が深く関わっている事態であったために、この社会でも事情は同じだった。国家が行使する手段の中に「テロ」があり得るという問題意識はかけらもなく、非国家集団が行使する暴力のみを「テロ」と名づけて、その非難・撲滅を図ること――この意図のみが、そこにはあった。

大勢に逆らおうとするこれらの運動は、しかし、散発的にしか起こらなかった。むしろ、社会主義圏の崩壊とほぼ同時代的に進行したペルシャ湾岸戦争がこの時代を象徴していた。一地域的な小覇権国家=イラクのクェート侵攻という対外政策が正しいわけではなかったが、それは、超覇権国家である米国とソ連が世界各地でたびたび行なってきたふるまい方を真似したにすぎなかった。米国は、ソ連という「主敵」が消滅しつつある過程のなかで、それに代えてイラクのフセインを悪魔のごとき敵に見立てて、これを徹底的に叩いた。とはいっても、米国が発動した戦争という名の「国家テロ」の犠牲になったのは、ミサイルの攻撃にさらされたイラクの一般民衆であった。

超大国の横暴な振る舞いは、軍事の面でのみなされたのではなかった。グローバリゼーションは、何よりも経済的な側面でこそ、その本質を露わにした。経済的な格差が激しい途上国経済を社会的公平さに向けて是正を図るのとは逆に、ますますその歪みを拡大するしかない新自由主義経済政策を、超大国を筆頭とした先進諸国と国際金融機関は途上国に押しつけるばかりであった。大国に本拠を持つ多国籍企業は、自らの自由放埓な企業活動を何よりも(各国の憲法その他の国内法規にも!)優先させることのできる国際的な経済秩序構造を作り出すために、全力を挙げた。かつての植民地時代には、西洋の国家が主体となって他者の領土を征服した。いまや、一握りの企業グループや金融資本が地球上のすべてのモノとヒトを商品化することで、世界の全的征服をめざす時代がきていた。傍に追いやられた者から見れば、現代資本主義の勝利を謳歌する者たちの傍若無人なふるまいは極限に達していた。具体的にはわからずとも、これに叛逆する何かが起こるに違いない、何かが起こらないでは済まない、と感じるものは少なからずいた。私もそのひとりだった。

そして、2001年9月11日はやってきた。米国経済の繁栄を象徴する建物=ニューヨークのWTC(世界貿易センタービル)にハイジャック機が2機突っ込んだ。世界各地における圧倒的な軍事力の行使を指揮するワシントン郊外の米国防総省(いわゆるペンタゴン)ビルにも、ハイジャック機が突入した。合わせて、3千人以上の人びとが死んだ。米国が誇る経済と軍事の要衝を攻撃したという意味では、攻撃者たちの意図は明確だった。だが、WTCをあのように攻撃した場合には、不特定多数の一般人を数多く巻き込む結果にしかならないことを行為者たちがどう考えていたのかは不明のままである。

米国社会は、この衝撃的な事件を、せめても、自らが世界の各地で過去において積み重ねてきた/現在も積み重ねている行為をふりかえる機会にすればよかった。ある軍事行動によって数千人の死者を生み出すこと(それどころではない、長期化した戦争の場合には数十万単位の死者を相手側に強いたり、化学兵器を用いることによって後世の人びとを今なお苦しめたりしている例も加える必要がある)を、米国は20世紀現代史の中で幾度も繰り返してきた。日本軍国主義を免罪する意図は持たずに、この犠牲の地に広島と長崎の例を付け加えてもよいだろう。

賢明で公正な経済学者が米国にいたならば、米国が余剰農産物を売りつけるために自由貿易を他国に強いれば、その国の貧農たちは乏しいたつきの道を断たれ、一家は農村を離れて山野は荒れる一方、離村した人びとが首都周辺に密集していって、典型的な第三世界のいびつな社会構造を作り上げていることに気づいてもよかった。唯我繁栄の独善的な経済活動の果てにニューヨークに林立する豪華なビル群を透視すれば、世界の悲劇的な南北格差構造が浮かび上がるという想像力をもっていてもよかった。

少数派ながら、いたであろう、米国が軍事と経済の双方で繰り広げてきたあまりに大きな負の面に気づいている人が。奢り高ぶった自国のふるまいが、その下で苦吟する人びとの怒りと憎しみを育てている、と知覚できる人が。だが、それは、哀しいほどに少数派だった。9・11の事態をうけて、この国の大統領は「反テロ戦争」によって行為者たちへの報復を呼びかける、その程度の人間だった。国家主義的な情動は、こんな水準の言動によって煽られるものなのだ。自らを顧みることのない、それとはもっとも無縁な「愛国主義的な熱狂」が米国全土を覆った。米国社会は9・11の悲劇を独占した。こんなひどい仕打ちを受けた国は、米国がはじめてだ――この思い込みのなかで、他ならぬ米国の軍事的・経済的行為によって生み出されてきた「無数の9・11」に思いを馳せる態度は生まれ得なかった。

9・11から1ヵ月も経たないうちに、米国は、9・11の「陰の」指導者たちが潜んでいると判断したアフガニスタンへの攻撃を開始した。それから1年半後には、大量破壊兵器をもっているがゆえにこの地域の不安定要因となっていると一方的に判断して、イラクに対する攻撃も始めた。9・11の悲劇を、この国が「大好きな」戦争を始める口実にしたのだった。

欧州各地でときどき起る「過激派のテロ」にもっとも敵愾心を燃やしてきたイギリスの労働党員の首相と、宗教集団が起こしたサリン事件やペルー人質事件を経験して「テロ」に対する警戒心が極点に達している社会状況を利用した、新自由主義志向の日本の首相が、率先してこの「反テロ戦争」支持の名乗りを上げた。「テロか、反テロか」――単純極まりない二分法が、まるで世界基準であるかのように機能した。それは、思考の堕落であり、政治の敗北だった。それを知る者にとっての、苦い季節が始まった。

それから10年。アフガニスタンでもイラクでも、膨大な数の死傷者が出ているであろうが、その正確な数はわからない。死者は、いずれの国でも、万単位になると推定されている。劣化ウラン弾などの化学兵器を米軍は使用している。したがって、米軍が全土に枯葉剤を散布したベトナムと同じく、両国の人びとの苦しみは後代までも続くと見られる。自軍から、無視できぬ数の死傷者が出ている米軍は、最近は無人爆撃機を使って空襲を行なっている。「反テロ戦争」は、こうして、他国における大量死を生み出している。「国家テロ」としての戦争を廃絶しようとする強固な意志が大国のふるまいには、見えない。そこから国家としての利益を得てきたことを、当事者が知っているからである。軍隊不保持・

戦争放棄を謳う憲法を持つ国は、「反テロ戦争」の10年間の過程で、「戦争好きな」米国との軍事的結びつきを強化した。二大経済大国が、軍事面でも共同作戦を展開するのは、世界の他の地域の民衆にとっては「悪夢」でしかないことを、両国の為政者も選挙民も知らない。それを「思い知らせよう」とする行動を――仮に、それが「テロ」と呼ばれようとも――試みる人や小集団が消えてなくなることは、不幸なことだが、ないかもしれない。少なくとも、後者の「テロ」を、前者の「国家テロ」との相互関係の中で捉えること――

事実認識上の、このような変化くらいは、私たちのなかで獲得したいものだ。

アフガニスタン戦争は、米国が戦ったもっとも長い戦争になった。「建国」以来、対インディアン殲滅戦争に始まり、戦争に次ぐ戦争によって領土を拡大し、両大洋への出口を持つ帝国に成長し、戦争に勝利することで経済が活性化し、超大国としての地位も確保できていると信じて疑わないこの国は、戦争を止める術を知らない。アフガニスタン戦争の戦費は、10年間で4430億ドル(およそ34兆円)となった。イラク戦争では8055億ドルを費やした。世界各地の米軍基地の安全強化対策など広義の「反テロ戦争」費用は1兆2833億ドルと推定されている(数字はいずれも、2011年8月3日付け東京新聞による)。ここ数年の日本の年間予算をはるかに超える額が、米国の10年間の「反テロ戦争」に費やされた。

当然にも、米国の軍事と財政は破綻した。「戦意高揚」していた10年前の雰囲気は、今の米国には、ない。オバマは、過重な戦費負担に耐えられないと判断して内政重視へと路線切り替えを図った。にもかかわらず、戦況の好転が見られなかったアフガニスタンへは兵員の増派を行なった。現在は順次撤退の段階にはなったが、米国から見て軍事的な展望が開けているわけではない。資本主義の勝利に浮かれてマネーゲームに興じた挙句、大手投資銀行リーマン・ブラザーズは経営破綻した。サブプライム・ローンも、理の当然として、総崩れとなって、貧しい犠牲者を多数生み出した。いまや。デフォルト(債務不履行)の瀬戸際にも立たされている。10年前の9・11によって瓦解したのは、経済と軍事の、外形としての象徴的な建造物だった。その後の10年間は、それが内部から自己崩壊していく過程であった、と言えるかもしれない。

他方、「反テロ戦争」に自衛隊まで派遣して参戦した日本は、9・11から10年目の震災・津波によって引き起こされた原発事故の結果「放射能テロ国家」として世界に糾弾されても弁明の余地がない立場に追い込まれている。ここでも、当事者にその自覚は薄い。

軍事と経済の両面で世界を征服しようとするグローバリゼーションの、この10年間の大きな流れは、ほぼこのように把握できるだろう。そこには「自滅」的な要因もないではなかったが、もちろん、この趨勢に抗議の声を発し、具体的な抵抗を試みた、いくつもの理論と実践があったからこそ、10年後のこの状況は導かれたのだと言える。何が有効だったのか、何が欠けていたのか――その検証を通して、いま・ここで、なすべきことを明らかにする課題が私たちには残る。(8月9日記)

アンデス史の広がりと深みに迫る作品 ――ペルー映画『悲しみのミルク』について


あいち国際女性映画祭2011パンフレットに掲載

主人公の女性ファウスタの母親は、住まいのある山岳農村部が、政府と反政府ゲリラが激しい暴力で応酬し合う中心地になったとき、何者かに凌辱された。殺された夫のペニスを口に突っ込まれるほどの辱めも受けた。これは、5世紀前ヨーロッパ人がやってきて、集団的な強姦を含めた暴力によってこの地が征服されたという、先住民族にとっての癒しがたい記憶に繋がるものでもある。苦しみと哀しみを歌にして、母は死んだ。娘は、母が体験した苦しみが母乳を通して娘に伝わると信じるアンデス山岳民である。男たちからわが身を守るために、膣にジャガイモを埋め込んでいる。ジャガイモは生きていて、花が咲き、葉が茂る。ときどき、それを切り落とさなければならない。それは、下劣な男からわが身を守る盾であり、社会に対してわが身を閉ざす蓋でもある。

ファウスタはいま、叔父一家を頼りに首都郊外のスラムに住む。農村を離れざるを得なかった人びとが、首都の片隅でひっそりと、だが楽しげに送る日常生活の描写には見どころが多い。物語の背後には、いくつもの大事な要素がちりばめられている――母と娘が話す先住民族の母語=ケチュア語。その母語を話す庭師にはおずおずながら心を半ば開くがスペイン語の発語が容易にはできないファウスタの心のわだかまり。山岳民の土着的な信念。原産地であることからジャガイモが彼女たちの食と生活の中で果たしている重要で象徴的な役割。エリート的な都市住民を象徴する白人ピアニストの利用主義と裏切り。

これらの背景を読み取ることができれば、この映画の広がりと深みが並々ならぬものであることが理解できよう。可憐な花をつけたジャガイモの苗が、庭師から贈り届けられる最後のシーンからは、これから主人公が歩みだすであろう方向への想像も及ぼう。

『悲しみのミルク』とは意訳で、原題に忠実に訳すと『怯えた乳房』とでもなるだろう。

追記:映画祭は、2011年9月7日~11日 会場ウィルあいち

『悲しみのミルク』上映は、9月8日(木)午前10時から、大会議室。

問い合わせは専用電話 052-962-2512

太田昌国の夢は夜ひらく[17]大量の被災死/未来の「死」を準備する放射能/刑死


反天皇制運動『モンスター』19号(2011年8月9日発行)掲載

困難な諸懸案に直面しているはずの民主党の政治家たちが、驚き呆れるほどの停滞と劣化ぶりを示しているなかで(自民党・公明党については、言うも愚かで、論外)、実に久しぶりに、政治家の、考え抜いた発言を聞いた。それは、最後の死刑執行から1年目を迎えた7月28日付読売新聞のインタビューに答えた江田五月法相が発したものである。江田とて、他の諸案件に関しては、菅直人の「現在」を支える役割しか果たしていないが、このインタビューで、江田は次のように語っている。

「人間というのは理性の生き物なので、理性の発露として、(死刑で)人の命を奪うのは、ちょっと違うのではないか。(死刑の)執行が大切だということも一つの国家の正義で、そのはざまで悩んでいる」「3月11日(の東日本大震災)があり、これほど人の死で皆が涙を流している時だ。(死刑執行で)命を失うことを、あえて人の理性の活動として付け加えるような時期ではないと思う」

1年前、千葉景子法相の指令に基づいたふたりの執行直後、確定死刑囚の数は107人だった。この1年間で新たに16人の死刑が確定し、3人が病死しているから、現在の確定者は120人で、過去最多の数字である。また、この間制度化された裁判員裁判では一審段階で、少年に対するものも含めて8件の死刑判決が出ており、うち2件では被告による控訴取り下げが行なわれて、死刑が確定している。状況的には、一般市民が参加した法廷で下された判決を基にして死刑が執行されかねない事態が、すぐそこまできているのである。死刑制度が存在している社会において、検事の求刑に応えて「職能」として死刑判決を下すのは裁判官だけであった時代は終わりを告げ、複数の「市民」がひとりの「市民」を死刑に処するという判断を「合法的」に行ないうる時代が、私たちの心性の何を、どう変えることになるか。それは、軽視することのできないほどに重大なことだと思える。

このような現実を背景におくと、江田が踏み留まろうとしている地点が、よく見えてくる。欲を言えば、震災による大量死との関係で死刑への思いを語った後段の発言は、より詳しく展開してほしかった。この問題については、江田とはまったく異なるが、私なりの捉え方がある。自然災害としての地震・津波と、人災としての原発事故に対する国家(この場合は、=政府)の政策を見ていると、その無責任さと冷たさが否応なく痛感される。国家(=政府)は、人びとの安全な生活を保証してくれる拠り所だという「信仰」が、人びとのなかには、ある。そうだろうか、と疑う私は、最悪の国家テロとしての戦争を発動し外部社会の他者(=敵)の死を望み/殺人を自国兵士に扇動し命令できること、死刑によって内部社会の「犯罪者」を処刑できること――に、国家の冷酷な本質を見てきた。国家は、個人や小集団を超越した地点で、なぜ他者に死を強いるこの「権限」を独占できるのか。この秘密を解くことが、国家・社会・個人の相互関係を解明する道だと考えてきた。

しかし、人に死を強いるうえで、もっとさりげなく、〈合法的な〉方法がある。それを、私は、被災と放射能汚染に対する現政府の無策と放置に感じ取っている。これは、特殊に現代日本だけの問題ではなく、世界じゅうの国家(=政府)が抱える問題に通底するものだろう。これは、おそらく、現在のレベルで行なわれている〈政治〉の本質に関わってくるものだと思える。

1年前にふたりの死刑執行を命じた千葉景子元法相も、選挙区であった地元の神奈川新聞のインタビューに応じている(7月28日)。死刑廃止の信条に矛盾する決定をしたが、それは、刑場公開や死刑制度に関する勉強会の設置など一つでも進めるためには法相としての責務を棚上げにはできない、死刑問題を問いかけるためには決断が必要だった――との見解を示している。死刑制度の是非を問いかけるために、ふたりを処刑したというのが、詰まるところ、千葉の弁明の仕方である。この弁明が通用すると千葉が誤解しているところにこそ、国家が行使しうる権力の秘密の鍵が隠されている。

国家に強制される死に馴れないこと。生み出された大量の被災死と、未来における〈死〉を準備している放射能が飛散するなかで、そう思う。(8月6日記)

「領土ナショナリズム」をどう考えるか ――2011年2月11日反「昭和の日」集会における講演(東京・千駄ヶ谷)


反天皇制運動連絡会編集『運動〈経験〉』33号(2011年7月30日発行)掲載

きょうの集会のテーマは「領土ナショナリズム」です。集会の呼びかけ文を読むと、そこには「植民地主義の継続」という問題意識があると思います。私自身も同じような問題意識を持っていますので、植民地が実質的になくなった現在にあっても、領土問題を通して否応なく現われ出てくる植民地主義を肯定し支える意識と実態が、どのように生き延びているかということをお話ししたいと思います。

この間、日本社会の中では、尖閣諸島や竹島(独島)をめぐる領土問題が非常に大きな関心を集めてきています。みなさんも、それぞれの歴史過程や現状についてはいろいろ調べられたり、分析されたりしていらっしゃると思います。私は、きょうは、この個別の問題それ自体に深入りするのではなく、それらが位置している大枠の問題について、どう考えるかというお話をしたいと思います。

第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国の支配下にあった東南アジアの諸国が次々と独立を遂げました。日本の敗戦とともに、その支配下にあった植民地も解放されました。さらに1960年には「アフリカの年」と言われるほどに、多くの国々が独立を遂げた。そういった戦後過程の中での具体的な展開があって、植民地主義そのものがすでに崩壊し、存在しなくなったという考え方が、長く続いてきたと思います。アフリカのポルトガル領植民地は1975年まで続いていましたから、すべてが一掃されたわけではなかったけれども、大きな形としてはそれらは第二次世界大戦後の過程の中で無くなったというのが世界共通の認識であった。しかしこの間改めて「継続する植民地主義」という言い方をする人たちが、全体から見れば少数派ではあるけれども、生まれてきています。私自身もそういう問題意識を共有している、そういう立場で物事を考えている人間です。そのことを前提にした上で、お話しします。

●捏造された歴史の古層

昨年、2010年という年は、前期旧石器時代の史跡捏造事件からちょうど10年目にあたりました。事件を振り返る書物も幾冊か出ました。捏造事件が発覚したのは2000年の11月で、毎日新聞のスクープで始まったわけですが、ジャーナリズムの上では、大量の報道がなされました。

事件発覚以前は、石器を発掘する特殊な能力を持っていて、「神の手」とまで称揚されていた藤村さんは、その後、「この手がだめなんだ」と言って右手の指を二本切断して、今はひっそりと暮らしておられるようです。当事者である彼自身の振り返りというのは公になってはいない。けれど、事件以前に20年間にわたって藤村氏に同伴したり称揚したりしてきた周辺の学者とか、文科省、・文化財保護局の人間などが、重い口をようやく開き始めています。

宮城県を中心に東北地方では、藤村氏が前期旧石器の遺跡から次々と石器を発掘していた時期があった。そのことによって、いわゆる日本列島の歴史は一挙に何万年、ときには10万年単位で古くなるという、そういう発見が続いたわけですね。ほかの考古学者がいくら発掘してもそのようなものは出土しない。ところが藤村氏が現れると突然のようにしてその時代の石器が現れる。結果的には、縄文遺跡から発掘した石器を、誰もいない深夜とか早朝に、発掘調査が続いている現場に埋め込んで、後日「発見した」と言って大騒ぎになるという、そういうことをしていたことがあとでわかったわけです。考古学というのは、世界どこでもそうですけれども、より古く、より大きく立派な文明が、自分たちが現在生きている地域に栄えていたんだということを実証する競争になってしまうところがあるわけです。どこまで古く自分たちの国の歴史をさかのぼることができるか、そしてそれはどれほど偉大な、当時の世界水準でいってまれに見るほど優れた水準であったかという、そういうことを競うことになる。考古学という学問の恐ろしい一面です。藤村氏が発見したという前期旧石器時代の遺跡は、まさしくそのような日本の歴史の古さを証明するものとして、当時報道されていたわけです。考古学者の中には、あまりにも奇蹟的な発見が続くので、留保したり批判したりした人もいたけれど、当時の社会状況の中ではそれは大きな声にはなりませんでした。むしろそのような批判的な考え方が疎んじられていたようです。この事件は、自国の歴史がより古く、世界にもまれな発展段階を示していたということを主張するものとして働いたわけですが、それはいわば、客観性を欠いた自国中心主義的な歴史観を日常レベルで準備する、そういうものとなっていったわけですね。

考古学というのは、それなりに人のロマンをかき立てるし、日常的な歴史意識を形づくっていく上で、大きな働きをすると思います。日本の場合、1972年に高松塚古墳が発見されました。あの壁画の鮮やかな色や形も、ちょうど高度成長期の発展する日本という感覚に沿っていたように思います。つまり、朝鮮半島や中国大陸との関係で前期旧石器時代をどう考えるのか、日本列島のみに孤絶して花咲いた、前期旧石器時代などというものがありえたのかどうかという冷静な問題意識が、まったく欠けていた。つまり日本独自文化論と言いますか、列島として、あるいは島国として孤立していることによって可能になっている「独自の文化」というものの、そういう枠組みの中に回収されていく。そういう思考の問題が残っているだろうと思います。

●3人の歴史学者──井上清

こうしたわれわれの日常的な歴史意識を形作ってきたのは、考古学だけではありません。具体的な例をあげますけれど、そこで固有名を挙げるのは、時代的な限界の中で生きた人の議論を、後世に生きるわれわれの特権で一方的に批判するためではありません。むしろ、時代的な制約の中で、人間の歴史観・世界観というものがいかに制限されてきたものであったのか。今の私たちから見れば信じられないような主張ですが、そういう時代というものがあるんだ、という、その時代の特殊性を取り出すためです。

井上清という歴史家がいます。2010年からの尖閣列島問題では、1972年に出された彼の本『「尖閣」列島──釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)を媒介にして、思い出されることが多かった人です。

戦後日本の歴史学の中ではずっと共産党の立場で発言していましたが、ちょうど中国の文化大革命のとき除名され、毛沢東派として中国べったりの発言をおこなった方です。一番よく売れた本としては、1963~66年に岩波新書で出た『日本の歴史』全3冊があります。これは今でも出ています。40刷とか50刷とか、そういう増刷を重ねている本ですから、数十万単位の人びとに読まれている本だと思います。

いわゆる人民史観と言いますか、勤労者階級のような働く人びとの立場を大事にしようという歴史観を、井上さんなりに込めた本だと思います。けれども、冒頭で展開されるのは、単一民族国家論なのです。日本は島国であることによって、「歴史をさかのぼることができる最古のときから、現在にいたるまで、同一の種族が、同一の地域、いまの日本列島の地で、生活してきた」。それは非常にまれなことであった。「日本人は、原始の野蛮から現代文明の一流の水準にまで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた。これは日本歴史の大きな特徴の一つである」「一たん文明に到達してからの、日本社会の発展のテンポは、ときには急進しときには停滞しながらも、全体としては、けしてのろくはなかった。その何よりの証拠に、日本は現在、世界の一流の文明国である」。こういう表現が出ています。

単一民族国家論というのは、その後の現代史の過程で批判しつくされています。63年の時代にはそれが常識であったのでしょうから気の毒かもしれないけれども、しかし、井上さん自身が左翼の歴史家であったということを考えれば、いったいどうしてこのような認識が出てくるのかということは、私の価値観からすれば、今なお問うに値することです。それから、ある国が「世界の一流の文明国である」というような表現は、どう転んでも私の口からは出てこないし、おそらくこの会場におられる、2011年に生きている皆さんの口からも、出て来ようもないだろうと思う。自分の国を指して、このような表現でなにか世界の中で際立たせていく発言が、なぜ50年前の日本人左翼歴史家に可能であったのか。その後30年経ち40年経ち、井上さん自身にもいろいろな思想的な変遷があったろうけれども、それが本の書き直しとして果たされることなく、なお、そのまま増刷されていったのはなぜであろうか。そういう問題が出てくると思うのです。

このような単一民族国家論、あるいは文明国家を高度から低度までの発展段階に分けて、比較し優劣をつける。そういう歴史観・文明観というのと断絶すること。そのことが植民地主義の克服のためにはどうしても必要なことだと思います。

●三人の歴史学者──江口朴郎

もう一人、江口朴郎さんという人がいます。この方も井上さんと同じ時代の生まれで、1989年、ヒロヒトが死んだ年に亡くなっています。僕らの世代で言えば、日本共産党に属していた世界史的な視野を持った歴史家として記憶されていると思います。この方が88年段階で、こう語っています。今から23年前ですね。

「19世紀から20世紀初頭の転換期を、日本が明治憲法と教育勅語そして日清・日露戦争というかたちで乗り切ったということは、世界的に見ても、善かれ悪しかれ、たいしたことであったと思います」「アジアの諸地域が欧米列強のもとにどんどん植民地化されていくという状況のもとで、ほんの小さな可能性しかないときに、どうやって不平等条約を解消できるかというふうに考えれば、あれはとにかく善かれ悪しかれ、たいしたことですよね。19世紀から20世紀をああいうふうにのりきるこというのは、あれよりほかにはなかったんだよ」(『現代史の選択――世界史における日本人の主体性確立のために』、青木書店、1984年)。

江口朴郎は、ほとんど晩年まで共産党員で、おそらく70年代初めの「新日和見主義問題」のときに共産党から除名されて、離れた方だと思います。しかし、この物言いは、司馬遼太郎とほとんど同じ歴史観であるとわかります。昨年からNHKで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がドラマ化されて、不思議なインターバルで放映されています。長い時間をかけて、しかし継続的にではなく放映されている。『坂の上の雲』に凝縮された歴史観というものがどれほどひどいものであるかということについては、私も行なったことがありますし、さまざまの人の発言がすでになされています。それを私たちが聞いたり、あるいは考えたりするときに、司馬遼太郎の世界に熱狂する、主としてサラリーマン世界を中心とした男たちの世界というものを外部化して、自分とはまったく関係ない一つの傾向というふうにみなすことはたやすくできるかもしれない。しかし江口さんの今の発言を顧みるときに、このような考え方は、必ずしも自分の外部にのみあるものではないのではないか、もしかしたら自分たち自身を蝕んでいる考え方なのではないのかというふうにとらえ返すことが、どうしても必要なのではないかと思います。「善かれ悪しかれ」ということばを挟みこめば、どんな歴史的過去も無限肯定できてしまう恐ろしさが、ここには表われているのです。

●3人の歴史学者──高倉新一郎

もう一人、高倉新一郎さんという方がいます。北海道出身ではない、あるいはアイヌ史に特別な関心をお持ちでない方はご存知ないかもしれません。1902年生まれで1990年に亡くなった歴史学者です。『アイヌ政策史』(日本評論社)という本を、戦争中の1943年に出しています。そこで、明治国家がいかにアイヌを収奪・支配してきたかという歴史過程を実証的に描きました。これはいまでも、読むに値する本だと思います。

その彼が、1969年の『現代の差別と偏見』(新泉社)という本の中で「アイヌ人」という項目を担当しているのですが、そこでは次のように書いています。

「一つの民族が永久に地上から消える。大問題だが、結局は双方にとってしあわせであり“人類は一つ”の理想的な行き方でもあろう」。

永久に死滅して地上から消えていくのはアイヌ民族です。そしてそれが、アイヌ民族にとっても、日本民族にとってしあわせであると、高倉氏は言っています。

高倉さんは、先ほどふれた戦争中の重要な仕事にもかかわらず、戦後の一定の段階を経た後では、もうアイヌ民族の日本社会への同化は完了したということを基本的な考え方としてきました。その延長上で、この69年の文章も書かれていると思います。しかしこれはアイヌ民族にとってみれば、いったいどのようなことばとして聞こえるか。どれほどことば自身に暴力性が孕まれているか。植民者の側にあった、そして北海道という植民地の中において、明治以降急速に確立されていった教育制度の中で学問をおこなうことができ、大学教授になることができた高倉さんには、とうとう見えなかった問題があったのではないか。ここでも「継続する植民地主義」という問題を見抜くことが必要なのではないかというふうに思います。

私は高校を卒業するまで北海道に暮らしていたのでわかりますが、高倉さんは、当時北海道では非常に大きな勢力であった社会党のシンパサイザーであり、北海道における進歩的文化人の一人でした。つまり、ここに挙げた井上、江口、高倉という三人の方たちは、それぞれ日本の戦後過程の中では左派的な立場、いわば進歩的文化人という立場で、一定の発言権を持っていた人たちです。その人たちが展開してきた議論が、当時はこういう水準であったということをみれば、やはり社会全体の中から植民地主義的な思考が払拭されていたわけではなかったことがはっきりします。このような思考は、それから何年もたった今なお、私たちを呪縛しているのではないだろうか。そのような思考が私たちを捉えて離さないということには、ある種の必然性がある。たたかうべき敵を、すべて自分の外部に置いてしまうのではなくて、もしかしたら自分たちがこれに腐食されているのかもしれないという、そういうとらえ方をする必要が、この問題の場合にはあるのではないか、というふうに思っています。

●近代の日本とアメリカ

次に移ります。本当は地図と年表を用意すればよかったのですが、時間が足らずに自分用のメモを作るのが精一杯でした。少し聞きづらいかもしれませんが、年号がしばらく並びます。あとで地図をご覧になるなり、年表をひもといて確認していただきたいと思います。

竹島・独島の問題、尖閣列島の問題を考えるうえで私たちが注意しておかなければならないことは、これらが明治維新前後に始まった日本帝国の領土的な拡大の過程で出てきている問題であるということです。そういう歴史的な過程の中に投げ入るという方法が必要です。反天連のニュース(『反天皇制運動モンスター』2011年2月号)の連載でも、この問題には若干ふれておきました。日本が明治維新を迎えた時代と、アメリカ合衆国が太平洋に進出してくる時代と、非常に密接な関連性があるということです。

現代世界の平和と戦争をめぐる問題を考えていく上で、アメリカ帝国というものの存在がどれほど大きなマイナスの力を持っているか。それは私たちが常に行き当たる問題です。あの超大国は、今なお、世界で唯一、あの傍若無人な振る舞いが許されてしまっているわけです。それは、最初は大西洋に面した東部の小さな地域から始まりました。その後、ルイジアナやフロリダのように、フランスやスペインから金で領土を買ったり、あるいは「西部開拓史」に見るように、先住民族・インディアンの殲滅戦争をおこなった。19世紀半ばには、メキシコと戦争して、賠償としてカリフォルニア、ユタやネバダなど、メキシコ領土の半分を割譲させた。それによってアメリカ帝国は、太平洋への出口を1848年に確保したわけです。そしてあの国は、イギリス帝国にならって太平洋に艦隊を繰り出し、1853年には、メキシコ戦争にも加わったペリー総督がインド洋に展開し、本国からの指令で日本の鎖国をとくために浦賀に来航した。これが近代化へ向かう日本の一つの大きな結節点になったわけです。

ですから、今に至る日本と米国との関係というのは、この時代にさかのぼってさまざまな問題を解明していかないと、見えない問題がある。歴史的な解明は事実に則してわりあいすぐできるのですが、心理的な解明、日本の社会に深く刻み込まれてしまった米国なるものの位置、重さ、そういう心理的解明は、ここの段階にまでさかのぼって、われわれの内心をえぐるようにしてやらなければならないだろうと思うのです。

●四方向への日本の進出

ペリー来航を契機として、幕末、明治維新にかけての混乱の過程を歩んだうえで成立した明治国家が目指したのは、富国強兵という形で欧米列強にならう政策を準備していくものでした。左翼歴史家・江口朴郎氏は、まさにこの過程を不可避のものとして肯定したのです。そこで現われるものの一つは、帝国の版図の拡大ということでした。さきほど、アメリカ帝国の版図拡大の例にも簡潔に触れました。日本の列島の位置を頭に思い浮かべた時に、北へ向かってどう拡大したか、南へ向かってどう拡大したか、東へ向かってどう拡大したか、西へ向かってどう拡大したかということを、考えていく必要があるわけです。

北へ向かったときにどうなったか。明治維新は1868年ですが、その翌年、アイヌモシリ=蝦夷地は、北海道と改称されて明治維新国家が日本の領土として強制的に編入してしまいます。私の考えでは、これは日本が初めておこなった公式の植民地獲得であると思う。植民地獲得は、1894年の日清戦争後の台湾領有に始まるのではなくて、明治維新の翌年の蝦夷地の編入から始まった。

それから6年後の1875年には、千島樺太交換条約というものを、当時の帝政ロシアと結んでいます。蝦夷地を北海道として編入したことで、その近辺にある千島・樺太を領土問題としてどう捉えるかということが、当時の支配層にとって切実な問題となったのです。そこで、帝政ロシアとの一定の妥協の上で、樺太を放棄して千島を手にするという、そういう交換条約を締結したわけです。そして1905五年、日露戦争の翌年には、樺太の南半分を植民地にしています。

きょうは時間を割くことはできませんが、現在に至る北方四島問題というのも、この延長上で生まれてきていることです。ソ連時代にも、またロシアに戻ったいまも、まだ日本との間では平和条約が結ばれていない。一時実現の可能性のあった二島返還論も実現されないまま、現在のような膠着状態にあって、昨今の菅政権とロシア首脳部との外交的なやり取りが続いているという、そういう状況があるわけですね。

さて、南の方です。これも細かくあげていくといろいろあるのですが、やはり1879年の「琉球処分」、つまり琉球王国を併合して沖縄県にしたことがあります。蝦夷地を北海道にしたときから10年目のことですが、これが南方政策の決定的な節目です。これ以前には、小笠原諸島を日本領にしています。だんだん南下していくという、その意図がはっきりしていくわけですね。琉球王国の併合後には、硫黄諸島を日本領にしています。そして九五年、日清戦争の翌年には台湾や澎湖島を日本領土に編入する。年表風にこのようにたどっていけば、非常にはっきりと、近代国家としての日本帝国の意図というものが見えてきます。

1898年に、台湾とフィリピンとの境界線を明確にすることがおこなわれます。この時代、フィリピンはまだスペイン領でした。ですから境界線の策定は、スペイン帝国との間でおこなわれます。ところが、九八年に、独立戦争の勝利を間近にしたフィリピンとキューバの状況を見て、米国が対スペイン戦争に踏み切り勝利した結果、フィリピンは米国の植民地にされてしまいます。それで台湾とフィリピンの境界線は、同時に日本と米国の境界線になっていくわけです。太平洋の制覇を巡って、このように伏線が張られているわけですが、日本帝国とアメリカ帝国との間では、帝国主義同士の激しい領土争奪戦がおこなわれていたのだという形で、捉え返していくことが必要であると思います。

沖ノ鳥島という島があります。よく気象予測を聞いていると、ふだん自分たちの身近にはないいろいろな島々の名前が出てきますね。人びとは住んでいないとしても、気象庁が観測所を設けているので、そこを基点とした気象状況がラジオを通して流れるわけです。沖ノ鳥島もそのひとつですが、この島の領土編入も、いわゆる満州事変の前の1931年頃におこなわれています。ですから、これも南へ向かっての日本領土の拡大の過程の中で考えることができる。日米開戦前後、さらに海南島やベトナム、インドネシアというふうに、日本の軍政支配が南方に拡大していきます。それが大東亜共栄圏という、あのとんでもない構想として具体化していくのだと位置づければ、琉球処分を大きなきっかけとした南への進出の意味も、はっきりと見えてくるだろうと思います。

それから、東ですね。まず、1871年にハワイ王国と修好通商条約が結ばれています。1871年、まだハワイは独立王国でした。ところが、アメリカ合衆国が太平洋に向かってどんどんと進出してきますから、その過程で、1898年にハワイを併合してしまったのです。

それまで、ハワイと日本が結んでいた条約の意味は、ほとんどめぼしい島がない東に対する日本の安全弁を、どう作っておくのかという、そういうことの模索だったのでしょう。この、米国がハワイを強制併合した同じ年に、日本は、ヨーロッパによってそれまでマーカス島とかウイーク島と呼ばれていた南鳥島を、小笠原の管轄下の領土として編入しています。これが今も、日本国の最東端の島になるわけです。南鳥島という名前も気象予報に出てきますね。ここにも気象庁の観測所があって、やはり領有権主張の大きな根拠になっているわけです。

最後に西です。問題になっている尖閣諸島=釣魚島は、1895年、日清戦争の翌年に日本国が領有宣言をおこなったものです。同じ九五年には、宮古や八重島地域を日本領にしています。与那国島がいま、日本の最西端になるわけです。1905年、竹島=独島を島根県が告示して占領したということになるわけですが、その五年後には、大韓帝国が日本の植民地、支配下に置かれますから、この西に向かっての伸張というものも、非常にはっきりと帝国の意図が見えるものである、というふうに考えることができる。特に竹島=独島の場合には、前年の1904年、日露戦争のときに日本は、日韓議定書を大韓帝国に強制して、韓国領内で日本軍は自由に行動できるという条件を押しつけてしまった。翌年には外交権を奪い保護国にしてしまう。そのように国の独立というのを奪って、外交的な抵抗手段、抗議手段というものを奪った上で、それまで大韓帝国との間で係争のあったある一つの島を、領有宣言してしまうという、そういう行為自体が一体どういうことを意味するのか。そのような観点から振り返るに値するだろうと思います。

●尖閣諸島=釣魚島の問題について

尖閣の問題には、もう少しだけ触れておきたいと思います。

二国間で領土領海紛争がある問題に関しては、19世紀後半から形作られてきた国民国家の枠の中でやり取りをしていても、もはや解決不能な時代にわれわれは来ているだろう。もっと別な水準で、国家主権というものを外したような形でこの紛争地域を、たとえば共同開発・共同利用するような知恵を現代および未来の人類は編み出さなければだめだろうというのが、基本的な私の考えです。ですから歴史的にいろいろな主張をして、自分たちの国のものだとかいや違うだとかという議論も、もしかしたらこれからも必要な議論として残るかもしれないけれども、もう少し先を見すえた論議として、そこを抜け出る知恵を両方の当事者が持たなければならないだろう。そういうところに未来社会のイメージを考えたいという、そういう立場をとっていきたいのです。もちろん、その前提としては、過去において覇権主義的な行動をとった側の国が、痛切な自己批判を行なうということがあります。

さきほど、井上清さんの、尖閣諸島問題に関する歴史的分析についてふれました。私が井上さんの仕事に疑問を持つのは、この点に関わるのです。日本帝国の領土拡大の意図を批判する。その志は大事なことだと思います。しかし当時、あの仕事をなさったときの井上さんは、完全に中国文革支持派の立場であった。そのような立場からなされた分析視角には、党派的なものはなかっただろうか、という問題提起だけは、ここでおこなっておきたいと思います。人によっては論議の余地があることかもしれません。

近代日本帝国が、北へ南へ東へ西へ、いったいどのような領土拡大政策を取ってきたか。それが無謀な大東亜共栄圏構想になってしまったというのは事実です。それが、自民族はもちろん、ましてアジア太平洋諸地域の諸民族に対しては、大変な悲劇を強いてしまった。この日本近代の歴史の中から、どのような教訓を得ることが可能なのかということを考えるためのふりかえりが必要であると思っています。

●ヤポネシア論が示した視角

ここで、もう一人、歴史家の名前を上げておきたいと思います。鹿野政直さんという、沖縄問題についてもいろいろ書いておられますし、近代史学について大事な仕事をされた方です。彼の著作に、『「鳥島」は入っているか』という、岩波書店から88年に出た本があります。かいつまんで言えば、鹿野さんが、自分の立場から第二次大戦後の日本における歴史学的なとらえ方のゆがみ、偏重、中途半端さというものを内在的に捉え返した本です。このタイトルには、自分たちの歴史的視野の中には鳥島というような辺境の地は入ってこない。あくまでも中央史観・東京中心史観でやっていて、辺境の地を忘れ去ったところでわれわれの歴史観は組み立てられている、それについての反省を込めたタイトルであったわけです。鹿野さんがこの考え方をどこから得たかというと、作家の島尾敏雄の『ヤポネシア論』からです。鹿野さん自身がそう書かれています。『死の棘』という代表作を含めて、島尾敏雄は非常によい作家だと私は思っていますが、小説とは別に、「ヤポネシア論」を展開した人物としてもさまざまな影響を与えた人です。島尾さんは奄美に住んだ人ですが、1961年に奄美に住み始めた頃、この日本という地域社会の歴史をどういうふうに捉え返すかということから、この地域全体を指すことばとしてヤポネシアという言葉を使った。ネシアというのはたくさんの島々からなる地域を指すわけです。つまり日本を、たくさんの島々によって成り立っている地域として捉えるという考え方ですね。「各種の日本地図を見ますと、種子、屋久までは書き入れてありますが、その南の方はたいてい省略されています。われわれの意識の底にははずしてもいいというような感覚が残っているのです」「たとえば奄美の地図を書く時に、徳之島の西の方の鳥島を落としていても平気だという気持ちをなくしたいのです」「と同時に、日本の歴史の中であるいは日本人の中で、はじっこのほうだから、落としてもいいというふうな考え方を是正していかなければならないと考えるわけです」。

こういう島尾さんの発言をうけた鹿野さんの問題意識というものを、私たちはじゅうぶん理解しうるわけですね。いま、この会場におられる方の多くが、東京および東京周辺に住んでおられると思います。そうした場合に、たとえば私たちの視野に沖縄は入っているかということを問いかけたときに、昨年[2010年]の鳩山から菅への政権移行の時期のことを振り返ってみて、内心忸怩たるものがある。ヤポネシアのような問題意識は、東京中心主義から私たちが離脱していくためには重要な視点だと思いますが、明治維新前後からの日本帝国の版図拡大図の中に、鳥島などの問題を入れていったとき、それはまた別なものとして見えてくるのではないだろうか。島尾さんや鹿野さんのこのとらえ方というものは、一面の真理でもあるし、また別な視覚を入れて捉え返さなければならない、そういう視点を持つものだと思う。島尾さんが「ヤポネシア論」を展開してから五十年経った今の段階で、あらためてこの問題をふりかえっておく必要があるだろうというふうに思うのです。

●東アジアの困難な関係をどう越えるか

さて、尖閣や独島の問題を中心としてわき起こっている東アジアの問題には、なかなか解決のメドはつきそうにありません。政治のことばで語られている関係各国首脳のことばというのが、あまりにも貧しい。歴史的過程をふまえて冷静な形で発言をおこなっている歴史学者、あるいは、何らかの運動的なかかわりの中で発せられている別な視点が地道に打ち出されてはいたとしても、それが社会全体に浸透するだけの力を持ちえていない。愚かな各国政治家たち、民間レベルのどうしようもない評論家たち、ネット上でいたずらに煽られるナショナリズム。それらによって問題は増幅に増幅を重ねているわけです。そのような現実を見たときに、決して解決の道がここにあるというふうに誰も示すことはできない。そういう状況にあります。

中国の状況についても注意深く見ていかなくてはならないのですが、最近の動きを見ていれば、やはり軍事を中心として、大国主義的な勢いが出ています。それは否めない事実でしょう。中国国内の複数の歴史学者が、中国への沖縄返還論というものを唱えています。これは日本が沖縄を強制併合する以前にあった、琉球王国の一定の独立性を持った独自性をも無視するような暴論です。日本が沖縄を植民地化したその歴史ももちろん大変な問題であるけれども、だからといって中国の歴史学者の中から沖縄返還論が出てくるというのも、いったいどういう思想状況になっているのかと、非常に憂慮すべき部分があります。

このような問題を、いったいどのような形で解決し得るのか。なかなか困難なところを模索しなければならない。長い時間がかかることだと思いますが、可能性ということで言えば、やっぱり政治や軍事のことばでものごとを語らないという、そういうことを、どうやって徹底させることができるか。そのことをとことん試みていくしかないのではないか。

『文学界』という文学雑誌の3月号に、「東アジア文学フォーラム」という、昨年12月に北九州市で中国、韓国、日本の四十人ほどの文学者によって開かれた集まりの報告が載っています。いろいろな意味で、なかなか興味深い報告がなされていたと思います。その集まりでは、『赤いコーリャン』の原作者の莫言(モー・イェン)という中国の文学者が基調講演をしました。これは私の解釈になりますが、彼のことばの中には、いまの政治の動きを見ると、どこを向いても希望とか、はっきりした未来へ向かうイメージというのはまったくない。しかし、文学のことばをとおして、お互い国境を隔てられているもの同士が語り合えばそこで打開されていく局面というのがあると、そういう内容が含まれていたと思います。確かに、たとえば演劇でも音楽でも映画でも美術でもそうですが、そのような、いわば人間が否応なく自己表現している文化・芸術の面では、国境というのはほとんど意味をなくしている。共同で一つの制作に当たるということがあたりまえのことになっているわけですね。私自身が関わっている出版の分野でも、翻訳出版によってある国の文学や歴史読み物が紹介されていくのは普通のことです。そういう積み重ねが、政府指導者たちの、人を惑わすようなナショナリズムの言動に集約されないような、一人一人の根拠を形作っていくのではないか。そのようなところに希望を置いて、たゆみない歩みを続けていくしか、この困難な時代を突破する方法はないのではないかというふうに、私自身は考えています。

問題が非常に困難であるということは誰もがわかっていることですが、それは逆に言えば、私たちが担い得る課題がそれだけたくさんあるということを意味するわけでもある。そのような場所からそれぞれが個人として、あるいは集団・グループとして、やることを見つけ出して、世界で唯一冷戦構造が残っているこの東アジアの地で、各国政治家のように愚かなことを言い続ける者たちを追いつめて、別な世界を作り上げていく、そういう努力を続けたいと思います。

(2011年2月11日、千駄ヶ谷区民会館にて)