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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[17]大量の被災死/未来の「死」を準備する放射能/刑死


反天皇制運動『モンスター』19号(2011年8月9日発行)掲載

困難な諸懸案に直面しているはずの民主党の政治家たちが、驚き呆れるほどの停滞と劣化ぶりを示しているなかで(自民党・公明党については、言うも愚かで、論外)、実に久しぶりに、政治家の、考え抜いた発言を聞いた。それは、最後の死刑執行から1年目を迎えた7月28日付読売新聞のインタビューに答えた江田五月法相が発したものである。江田とて、他の諸案件に関しては、菅直人の「現在」を支える役割しか果たしていないが、このインタビューで、江田は次のように語っている。

「人間というのは理性の生き物なので、理性の発露として、(死刑で)人の命を奪うのは、ちょっと違うのではないか。(死刑の)執行が大切だということも一つの国家の正義で、そのはざまで悩んでいる」「3月11日(の東日本大震災)があり、これほど人の死で皆が涙を流している時だ。(死刑執行で)命を失うことを、あえて人の理性の活動として付け加えるような時期ではないと思う」

1年前、千葉景子法相の指令に基づいたふたりの執行直後、確定死刑囚の数は107人だった。この1年間で新たに16人の死刑が確定し、3人が病死しているから、現在の確定者は120人で、過去最多の数字である。また、この間制度化された裁判員裁判では一審段階で、少年に対するものも含めて8件の死刑判決が出ており、うち2件では被告による控訴取り下げが行なわれて、死刑が確定している。状況的には、一般市民が参加した法廷で下された判決を基にして死刑が執行されかねない事態が、すぐそこまできているのである。死刑制度が存在している社会において、検事の求刑に応えて「職能」として死刑判決を下すのは裁判官だけであった時代は終わりを告げ、複数の「市民」がひとりの「市民」を死刑に処するという判断を「合法的」に行ないうる時代が、私たちの心性の何を、どう変えることになるか。それは、軽視することのできないほどに重大なことだと思える。

このような現実を背景におくと、江田が踏み留まろうとしている地点が、よく見えてくる。欲を言えば、震災による大量死との関係で死刑への思いを語った後段の発言は、より詳しく展開してほしかった。この問題については、江田とはまったく異なるが、私なりの捉え方がある。自然災害としての地震・津波と、人災としての原発事故に対する国家(この場合は、=政府)の政策を見ていると、その無責任さと冷たさが否応なく痛感される。国家(=政府)は、人びとの安全な生活を保証してくれる拠り所だという「信仰」が、人びとのなかには、ある。そうだろうか、と疑う私は、最悪の国家テロとしての戦争を発動し外部社会の他者(=敵)の死を望み/殺人を自国兵士に扇動し命令できること、死刑によって内部社会の「犯罪者」を処刑できること――に、国家の冷酷な本質を見てきた。国家は、個人や小集団を超越した地点で、なぜ他者に死を強いるこの「権限」を独占できるのか。この秘密を解くことが、国家・社会・個人の相互関係を解明する道だと考えてきた。

しかし、人に死を強いるうえで、もっとさりげなく、〈合法的な〉方法がある。それを、私は、被災と放射能汚染に対する現政府の無策と放置に感じ取っている。これは、特殊に現代日本だけの問題ではなく、世界じゅうの国家(=政府)が抱える問題に通底するものだろう。これは、おそらく、現在のレベルで行なわれている〈政治〉の本質に関わってくるものだと思える。

1年前にふたりの死刑執行を命じた千葉景子元法相も、選挙区であった地元の神奈川新聞のインタビューに応じている(7月28日)。死刑廃止の信条に矛盾する決定をしたが、それは、刑場公開や死刑制度に関する勉強会の設置など一つでも進めるためには法相としての責務を棚上げにはできない、死刑問題を問いかけるためには決断が必要だった――との見解を示している。死刑制度の是非を問いかけるために、ふたりを処刑したというのが、詰まるところ、千葉の弁明の仕方である。この弁明が通用すると千葉が誤解しているところにこそ、国家が行使しうる権力の秘密の鍵が隠されている。

国家に強制される死に馴れないこと。生み出された大量の被災死と、未来における〈死〉を準備している放射能が飛散するなかで、そう思う。(8月6日記)