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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

『棺一基 大道寺将司全句集』刊行に寄せて 


『北海道新聞』2012年6月20日夕刊掲載

去る4月に刊行されたばかりの句集がある。『棺一基 大道寺将司全句集』と題されている(太田出版)。作者は現在64歳。27歳のとき企業爆破事件の被疑者として逮捕され、その後死刑が確定しているから、獄中生活は37年間に及んでいる。2年前から多発性骨髄腫を病み、その後闘病中である。因みに、釧路出身で、高校卒業時までそこに暮らした。

作者が俳句をつくり始めたのは、16年ほど前のことである。当時は存命中であった母親宛ての手紙の末尾に一句を添えるようになった。最初の句は、「友が病む獄舎の冬の安けしを」であった。それを手始めにつくられた、およそ1200句が本書には収録されている。わずか17文字の作品であるが、文学表現としての自立性は高いから、作者の実生活上の経歴を離れて作品それ自体を鑑賞することは、もちろん、可能であり、本来はそれが好ましい読み方なのであろう。

同時に、作者の稀な境遇を知ってしまえば、それに即した読み方が可能になり、読者からすれば、それによって読みが深まるということも否定し得ない事実である。1970年代初頭当時の作者たちは、戦争責任に頬かむりしたままの戦後日本国家と大企業の責任を問うて、爆弾を用いて象徴的な建造物に対する一連の爆破行為を行なった。それは、三菱重工ビルを目標としたときに、8人の死者をはじめとする多数の重軽傷者を生んだ。人的殺傷は意図していなかったから、本人たちにとっても結果は衝撃的だった。

大道寺俳句はこの事実に向き合おうとする。「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ/春雷に死者たちの声重なれり/方寸に悔数多くあり麦の秋/死は罪の償ひなるや金亀子/まなうらに死者の陰画や秋の暮/ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな/夢でまた人危めけり霹靂神/笹鳴や未明に開く懺悔録/いなびかりせんなき悔いのまた溢る/ででむしやまなうら過る死者の影/寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり……」

句集は今回で3冊目、獄中書簡集も2冊刊行している。自著を出版できるというのは、一般的には晴れがましいことだが、彼は最初の本を刊行したとき以来、その思いを自らに禁じているように見える。被害者との〈絶対的な関係性〉において自己の存在があることを、片時も忘れることはないからである。そして、これらの表現が、死者の無念さに届いているか、家族の怒りと憎しみに届いているか――そう問われるならば、それが不可能であることを、作者はおそらく知っている。だからこそ、再び、句をつくる。その〈思いの深さ〉は、第三者でしかない私たち読者は、容易には感受できないものであろう。

『棺一基』は、作者と交流のある作家・辺見庸氏の強い勧めによって実現した。辺見氏のこの間のエッセイには、大道寺俳句と彼自身に触れたものが散見される。それらが「跋文」として収録され、さらに新たに書かれた「序文」が読書案内の役割を果たしてくれる。

31文字で表現される短歌の場合、その抒情性において読む者の心に訴える作品があり得る。それがうまくいっていない場合なら「抒情に流れすぎる」との批評も可能だ。短歌よりわずか14文字少ないだけだが、俳句の場合はそうはならない。抒情も思いも断ち切った、ギリギリの表現。それが、句境の深まりとなった稀有な例が『棺一基』である。

絵が浮かぶ句「独房の点景とせむ柿一個」。香りが漂う句「遠くまで沈丁の香を追い掛けし」。実存句「身を捨つる論理貧しく着膨れぬ」。獄中でも感じられるささやかな季節の変わり目を告げる句「女囚らの声華やげる弥生かな」。狭い独房から生まれた多様な世界が、そこにはある。

私が好きな一句は「風に立つそのコスモスに連帯す」である。「コスモス」を作者の名に置き換えて、季語を欠いたその句をそっと呟いてみる。

太田昌国の夢は夜ひらく[27]オウム真理教事件報道と権力の変幻自在さ


『反天皇制運動モンスター』29号(2012年6月12日発行)掲載

「NHKスペシャル 未解決事件」でオウム真理教事件が取り上げられた(5月26~27日)。NHKが独自に入手したという七百本を超える教団内部の音声テープや元信者・元警察官の証言を基に実録ドラマとドキュメンタリーの手法を組み合わせて、事件の原因や教団の実態を複眼的に描こうとした、と番組の惹句にはある。

決定的ともいうべき内容的な欠陥がひとつある。坂本弁護士事件と松本サリン事件の捜査に当たった神奈川県警と長野県警の元警察官の取材を行ないながら、聖域にして踏み込まなかった問題があるからである。両県警の元警察官は、それぞれ、「オウムとサリン」の関係を疑い、あと一歩で摘発できる寸前までいっていた、と語る。今はすべての「サティアン」が撤去されている、上九一色村の茫々たる廃墟に立たせて、そう語らせるのである。思わせぶりたっぷりと。

NHKの取材グループは、映像記録や音声記録以外にも、膨大な文字記録も読み込んで、番組を構成したに違いない。そこには、麻原氏の国選弁護人であった渡辺脩氏の二著もあったに違いない。なければならない。『麻原裁判の法廷から』(和多田進氏との対談、晩聲社、1998年)と『麻原を死刑にして、それで済むのか?』(三五館、2004年)である。もちろん、もっと一般的な関連書でもいい。それらを読めば、松本サリン事件(1994年)や地下鉄サリン事件(1995年)よりはるか以前の坂本弁護士事件(1989年)にこそ、問題究明のカギがあることを知ったに違いない。なぜなら、神奈川県警はこの事件の捜査を徹底的にサボタージュしたからである。発端は1980年代半ばの事件だが、神奈川県警警察官が共産党幹部の自宅の電話盗聴を行なっていた事件が明るみに出た。

坂本氏が属していた弁護士事務所は、この一件で県警を追及する立場にあった。県警は、そこで対抗心から、坂本一家失踪事件に「事件性は薄い」との立場を貫いた。失踪現場には、オウムとの関連性を強く疑わせる証拠物件があったにもかかわらず。江川紹子の言によれば、県警は、坂本弁護士の「借金まみれの逃亡」「大金持ち逃げ」「過激派内部の内ゲバ」などの諸説を一部メディアに漏らしさえしている。

これに劣らず重大なことがある。この事件に加担した信者のひとりは、事件の数ヵ月後、教団と対立し後者を脅す目的で、坂本弁護士らの遺体を埋めた場所を明かす地図を県警に送っている。だが県警は、この「密告者」に対する取り調べも埋葬現場での引き当たりも行なわず、遺体発掘に最も不適切な積雪期に捜索したために遺体発見に至らず、というような信じがたい怠慢捜査しか行なわなかった。遺体発見は、したがって、オウム一斉摘発後の1995年9月であった。「タレこみ」から、実に5年有余の年月が流れていた。その間に、松本サリン事件と地下鉄サリン事件が起こったのである。

問題の本質は、だから、元警察官に「オウム追及まで、あと一歩のところまで来ていたのに」と詠嘆的に語らせるところには、ない。それは、むしろ、本質を故意に歪める効果をもつ。神奈川県警が坂本弁護士事件の真剣な捜査を怠ったことが、二つのサリン事件での膨大な犠牲者を生み出し、また、宗教的な救済を求めていただけの悩める若い信者たちを許しがたい犯罪に走らせる結果につながったのである。この事実が描かれれば、オウム真理教問題の見え方は一変する。NHKの番組は、舞台設定をまったく誤ったと言うべきであるが、ことが警察・検察権力のあり方に深く関わることである以上、私たちはこれを、社会の普遍的な病巣に手を届かせる契機に転化できると考えればよいだろう。

番組は、ひとつだけ重要なことを明らかにした。国軍でもない一民間宗教団体がいかにして技術的にサリン製造に至ったのか。米軍の一高官がそれを究明するために、サリン開発に関わった複数の確定死刑囚との面会を東京拘置所で重ねているというのである。国家としての米国は、やはり、ただものではない。自国の安全保障の観点からみて重要な情報はすべてホワイトハウスとペンタゴンに集中させよ。この気迫を前に、確定死刑囚との交通を厳しく制限している日本の法務当局は、あえなく拝跪したのであろう。神奈川県警といい、日本法務省といい、権力は実に変幻自在である。(6月9日記)