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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

〈万人〉から離れて立つ表現


(「万人受けはあやしい 時代を戯画いた絵師、貝原浩」展の講演録 2017年11月22日)

人間のおもしろみや哀しみ、愚かさが滲み出る「三面記事美術館」

「万人受けはあやしい」という、いかにも貝原さんにふさわしいタイトルだと思いますが、それについて、お話ししたいと思います。

ぼく自身は生前の貝原浩さんとは知り合いで、仕事のつき合いはほとんどありませんでしたが、直接話をしたり、数は少なかったけれども一緒にお酒を飲んだりしたこともありました。個展にはよく行っていましたし、それなりに貝原ワールドは作品としては知っていたつもりですが、先日、この会場でゆっくりと時間をかけて展示作品を見、今回の図録もかなり丹念に見ました。

今回展示されている作品は、基本的には1980年代に入ってからのものですね。貝原さんの年齢としては30代後半から、亡くなった2005年ぎりぎりまでの作品、約25年間、四半世紀の作品が、主に並んでいます。

おもしろかったのは80年代の雑誌『ダカーポ』に貝原さんが連載していた「三面記事美術館」です。展示の数は少ないのですが、図録にはたくさん収録されています。

「三面記事」とは、みなさん、その言葉だけでイメージできると思いますが、新聞の社会面、三面に載っている、人間社会にある、ちょっとした出来事の記事です。出来事そのものとしては当人からすれば恥ずかしかったりすることで、どうしようもなさとか、いいかげんさとか救いのなさがあったりするし、それからユーモアもある。そうした記事が、社会面には載ることがあります。

ぼくも、絵を描くわけではないし小説を書くわけでもないけれども、なんとなく気になって切り抜いて、手帳に挟んでおいたり、スクラップ帖をつくるほどではないけれど、保存しておいたりした記事もあります。

貝原さんは1980年代、そうした三面記事を一枚の絵にして、『ダカーポ』に連載していました。これがおもしろい。もちろん、元の記事がおもしろいわけですが、図録ではその新聞記事自体は載っていませんが、ごくかんたんに出来事を説明しています。

例えば、有力企業のエリートサラリーマンが、酔っぱらって地下鉄に乗って目の前にいた女性、OLと書いてありますが、その女性に向けて放尿してしまったというような事件があって三面記事になったようです。それを絵にしちゃうんですね、貝原さんは(「満員電車内でOLに“用足し”」図録作品ナンバー12)。

事件そのものも、なんだろうと思いますけれども、これを絵にする人もなんなんだ、という感じがありますよね(笑)。

図録に掲載されている「三面記事美術館」をひとつひとつ見ていくと、ほんとに世の中にこんなことが起きていたのか、こんなバカバカしく愚かなことを人間がやってしまうのかと、ぼくもどこかでやっているのかもしれませんが、そう思います。

そして当事者、物語の中心人物が描けているのは当然なんだけれども、その周辺に野次馬としている、そこに居合わせた人間の描き方がまた、その表情などがおもしろい。そうやって、どうしようもない出来事の記事が、一枚の絵になると、なにかまた別の意味合いを持ってしまいます。

貝原さんがこれらを描いていた時期は、今日のテーマである風刺画的なものを書き始めていた時期と重なります。ある意味でシリアスな風刺画を描いている時期に、こういう、人間のおもしろみや哀しみや、愚かさが滲み出る絵を描く、そういう世界を貝原さんは持っていた。ぼくは、貝原さんの作品の中でも「三面記事美術館」についてはあまり記憶がなかったので、今回はほんとうにおもしろく見て、ときどき見返したいなと思っています。

さて、このような貝原浩の世界もあったわけですが、きょうお話ししたいことは、1980年代前半から21世紀に入ってはわずか5年間でしたが2005年まで、およそ四半世紀にわたって貝原さんが、時代に対する懐疑を、絵としてどのように描いていたのかということです。彼が亡くなって12年経つ今、我々はいったいどんな時代を生きているのか、というところまで話が及べばいいかなと思います。

80代前半、新自由主義経済政策で進行したこと

風刺画を描くとは、時代と向き合って、相渉って、それを絵に描くということであり、それは当然のことながら、世界および日本で、同時代的に進行している政治的なあるいは社会的な、あるいは思想的な動向に目を凝らし、それについて絵師が、画家が、どんなふうに表現するのかが問われます。

1980年代前半というのは、世界政治でいえば、米国にレーガン、イギリスにサッチャー、日本に中曽根という、それぞれ大統領・首相が現れて、それぞれ長期政権になっています。この時代、この3人の大統領・首相が、今、世界を席巻しているいわゆる新自由主義、ネオリベラリズムの先駆け的な政策を、「先進国」において採用した時期なわけです。

レーガン、サッチャーには触れませんが、中曽根政権――この政権も5年の長期政権となりましたが――の下、何が行なわれたか。みなさん記憶していると思いますが国鉄の解体作業です。国鉄を国営鉄道の枠から外して分割民営化を行なった。それから約30年経って、現在、かつての日本国有鉄道は、JR北海道は、JR四国はどうなっているか。本州の線路であるJR東海、あるいはJR東日本は「優良経営」を行なっているけれども、JR北海道は瀕死の状態であることは、みなさんご存知のとおりです。

この国には今1億2600万の人々が住んでいますが、国の政策とは本来、総人口がどんな地域に住んでいようと生活に必要な足は確保するというものです。それをそれぞれの国家の政策として、19世紀後半、鉄道が広範囲に展開し始めて以降、それぞれの国は鉄道事業を国営として成り立たせてきました。

ところが新自由主義の時代に入って、不採算部門は、資本主義社会で儲けにならない部門は、国家は予算が限られているから、そこはもう国家経営から外してしまうと。そして資本主義の本領である民間の競争力に委ねて競争させると。要するに民営化させて競争の原理に委ねれば、うまく活性化するのではないかという考え方を採用するわけです。

ですから鉄道事業の民営化は日本だけではなく、世界各国で最初に試みられた新自由主義経済政策のひとつのあり方です。ほかにも、採算がとれない、金にならない、つまり資本主義経済にとって最も大事なことである利潤、お金を回転させて利潤を増やすということを考えたら、医療というものもなかなかたいへんであるとなる。福祉はもとより、教育もたいへんだとなっていって、福祉切り捨て、教育予算のカットという、今現在日本で進行しているような事態が当たり前のように進行するわけです。

公共事業で言えば水道事業もそうです。地方自治体が管轄してやってきた水道事業は、これもなかなか採算が難しい。そこで、人間という生命体にとって、地球の生命の循環にとってどうしても必要な水というものを、公共の責任において管理するということから外して、これも民間の競争力に委ねる。こうした考え方が日本でも世界でも出てきて、水道事業の民営化が世界各地で、どんどん進もうとしています。

新自由主義経済政策とは資本主義を純化させた考え方であって、不採算部門を国家および地方自治体が責任をもって運営するというところから外して、民間の競争力に委ねるということを意味します。それが1980年代の前半、日本では中曽根政権によって試みられた。これは連綿として続きますが、より加速されるのが2001年から2006年までの小泉政権下です。小泉政権の下での郵政民営化を見れば、おわかりになると思います。

ある意味で社会にひたひたと浸透している公務員労働に対する反感、「親方日の丸で、あいつらはろくに働きもしないのに給料は安定している」と、「定年まで過ごすことができる」という、民間の労働者がどこかでもっている反感を利用しながら、公共事業をどんどん切り捨てて民間に委ねていく。小泉などは、そういう政策を意識的にとったわけです。

それが、どれほどの社会的な心理面における荒廃、それから経済のでたらめさをもたらしたのか。2006年以降、断続的ではありましたが、同じ政策を継いでいる安倍政権の下、さらに進行する事態の中で、私たちは否応なく気づいていることです。

貝原さんのこの展示の中で、1980年代前半の作品には中曽根がよく出てきて、表現されています。その中曽根がとった政策が、いったいどの方向を向いているものであるかということを、貝原さんは、うまく感じ取って、いくつかの表現をなしていたと思います。

「反テロ戦争」の出発点、米国は、なぜ憎悪に満ちた攻撃を受けたのか

政治的な面にかんして、ひとつの大きな節目は、世界的にはやはり、2001年9月11日の、ニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センター)やワシントンのペンタゴン(国防総省)が攻撃された、いわゆる同時多発の自爆攻撃があり、それ以降、報復として始まるブッシュの名づけた「反テロ戦争」があります。それがいったい、どういう事態を招いているのかを、この時代、貝原さんは描くことができたわけです。

2001年、あの攻撃の1か月後に、あの攻撃をやったとブッシュが断定したのが、アルカイーダです。当時、アルカイーダはアフガニスタンのタリバン政権によって、安住の地を与えられている、訓練の地を与えられているとブッシュは解釈し、その首領はオサマ・ビンラーディンであると断定したわけです。そしてこの許されざるテロ組織、アルカイーダを匿っているタリバン政権を攻撃するとして、アフガニスタン全土に対する一方的な攻撃を始めたのが2001年10月の事態でした。それから1年半後、2003年3月には大量破壊兵器を持ち、これを捨てようとしないということで、フセイン治世下のイラクに対する攻撃を始めた。これが「反テロ戦争」なるものの出発点の第一段階、第二段階でした。

2017年の現在、この「反テロ戦争」は終わりが見えないまま、もうすでに16年間続いているということになります。これには何十か国もの、いわゆる国際的な有志連合国が参加しているわけですが、もちろんその主力を担っているのは米軍です。

米国は戦争に次ぐ戦争で、どんな年表を作っても、常に海外において戦争を行なっています。それは18世紀後半の独立以来のアメリカ社会を貫くひとつの大きな戦略ですが、その米国をして、これだけ長く続いている戦争はないというくらいの16年間という長い歳月があって、いまだ収束の見込みがつきません。あの2001年の事態を見ていれば、このような戦争を始めてしまったら、もう泥沼だということは、わかる人にはわかることです。

ぼくはあの自爆攻撃にはきわめて批判的な人間です。けれども、しかしあのハイジャックした旅客機もろとも突っ込む、米国の経済的な繁栄の象徴としてのワールドトレードセンター、米国の世界における軍事的な象徴としてのペンタゴンに突っ込むということは、その突っ込んだ主体が、どれほどまでに米国の経済的な、および軍事的な行動に、ふるまい方に憎悪を抱いているかということの直接的な反映であって、それは手段が間違っているのではないかというのを超えたところで判断しなければならない、ひとつのあの事件の象徴的な性格だと思います。

すると、そのような攻撃を受けた側の為政者は、政治家は、大統領やその政権は、なぜ自分たちの国がこれほどまでの憎悪に満ちた攻撃を受けるのかということを、大国であればあるほど顧みて、出直しと言うか、顧みて次にとるべき方策を考えなければなりません。

しかもワールドトレードセンターの犠牲者は、当初は6000人くらいと言われましたが、最終的にはその半分の3000人くらいに減りはしました。とてつもない、たくさんの犠牲者が出たことの事実に変わりはありませんが。

ぼくがニューヨークやワシントンの出来事の報道を聞きながら思ったのは、米国の歴史であり責任です。

米国は、ほかの国の土地において、その社会が「不穏な状態」になったときに、米国公民の財産と生命の安全を確保するという理由ですぐに海兵隊を派遣して上陸させ、その土地で生まれてしまった不穏な社会情勢に対する一方的な介入を行なう、戦争という行為を行なうという歴史を繰り返してきたわけです。

それぞれの場所で、海兵隊の上陸によっても、そのひとつの作戦で数千人の人々を殺すことを当たり前のようにやってきた。戦争であれば、朝鮮戦争のようにベトナムのように、何十万人という人間を殺してきたのです。そうした責任をなんら問われたことがないのが米国です。圧倒的な政治的・経済的・軍事的な、および文化的な超大国であるがゆえに。文化的なというのは、ハリウッド映画やディズニーランドや、さまざまな文化浸透の力によって、世界に君臨していることです。それを含めた超大国であるがゆえに、あの国は、人を殺した責任を問われたことが一度としてありません。

広島・長崎での原爆投下の責任を問う姿勢が日本の歴代政権にはそもそもないけれども、そのことも、あの広島に行ったオバマの演説にわかるように、今に至るも、見事にその責任感のないところで彼らはものごとを考えています。

自分たちの国内では、さしあたっては先住民族のインディアンに対する殲滅戦争を皮切りに、その殲滅戦争が終わった後のインディアンをリザベーションに閉じ込めて以降、19世紀後半以降は、周辺のカリブ海に出ていって、その支配力を伸ばしていった。

そういったことを考えた場合に、自分たちの国が、国内で世界で行なってきた挑発的行動を顧みる、歴史を反省するよすがとして、あの9.11の攻撃をどうとらえるかと考え直せばよかったと思います。しかし、そうはしないで別な方向をとったわけです。

貝原さんは、この問題についても、きちんと取り上げ、「ベストセラー戯評」の中で、何回かにわたって描いていると思います。

民間人を殺傷する、国家テロ=「反テロ戦争」

もうひとつ、大きな問題としては、2002年9月17日、同時多発攻撃から、自爆攻撃から約1年後の「日朝首脳会談」があげられます。首相の小泉がピョンヤンを訪問して、日本と朝鮮の、日本では北朝鮮と呼んでいますが正式名称が長いので「朝鮮」と言いますが、日本と朝鮮の「首脳会談」が行なわれた。これによって国交正常化という本筋の目標を外したところで拉致問題だけが浮上し、日本社会はそこにだけ関心を集中させます。この問題についての関心も、貝原さんはうまく掬い取って、表現していると思います。

これら、「80年代前半の英国、米国、日本における新自由主義政策によって社会が席巻される」、「2001年、同時多発攻撃が起きる」、「日朝首脳会談が行なわれ、日本社会が拉致問題だけに関心を集中する」、このようなことが起きる時代に、引いたところで、少し客観的なところでこれを批判するというのは、なかなか「万人受け」しないことです。

例えば昨日、2017年11月20日、米国は朝鮮に対して「テロ支援国家指定」を再度行ないました。世界的なメディア報道では、これによって朝鮮の指導部の譲歩を導き出すことができるかという問題としてしか、とらえられていません。

しかし、この「テロ支援国家指定」はちゃんちゃらおかしいと思います。

もちろん、朝鮮国の現在の指導部の行なっている、核を担保とした瀬戸際政策、あるいはこの間度重なって行なわれているミサイル発射、こうした軍事的な方針によって、今彼らが抱えている苦境を打破しようとするやり方は、まったく間違っている。これはぼくの前提としてあります。

後で触れる拉致問題も含めて、あの国の指導部は社会主義を自称、あるいは僭称しているわけですが、とんでもない政権だと思っていますし、ぼくは今、あの政権を防衛したり擁護したりする気持ちは微塵もありません。しかし同時に言わなければならないのは、世界で最大の「テロ国家」は米国だということです。

彼らは「反テロ戦争」と言いますが、「戦争」とは国家テロの発動であるというのが、ぼくの基本的な考え方です。

この16年間続いている「反テロ戦争」、国家が発動している、米国が先頭になって発動している「反テロ戦争」は聖域に置いて、これはある意味で「当たり前の戦争」であると彼らは規定します。しかしパキスタンで、アフガニスタンで、イラクで、イエメンで、ほかの国々でもたくさんの民間人の死者が生まれました。

オバマ政権のときにいちばん重用されたのが、ドローンと無人機による爆撃です。彼らは本土の航空基地から、コンピュータ制御で、いわゆる「敵」、彼らが攻撃しようとする他国の「目標」を見ています。そして、「決まった」と。これがあの有名なテロリストの誰それだと。あるいは、彼らが武器を集めようとしていると。そういう目標を定めると、本土の空軍基地から命令が出されて、アメリカ兵はまったく傷つかない形で、ドローンあるいは無人機から爆弾を落とすわけです。

「目標」は、つまりアフガニスタンではパキスタンでは、イエメンにおいては、人々の居住区でもあるのだから、当然のことながら民間人を殺傷してしまう。しかしそれは、戦争に伴う、残念ではあるが避けがたいことだ、そういうことも起こりうると、彼らは自分たちの戦争行為を正当化するわけです。

このような戦争の在り方を、ある意味で、国家が発現する当然の「戦争」だと判断する。そして、いわゆるテロリストと名づけられた小集団、あるいは個人が行なう攻撃、パリで行なう、ニースで行なう、ブリュッセルで行なう、あるいはジャカルタで行なう、マドリードやバンドンでもありました。そうした攻撃をのみ、凶悪な「テロリストの活動」であると判断する。こうしたこと自体に、「万人受け」はするかもしれないけれども、ひとつの論理的な詐術と言いますか、ごまかしがある。

このことに世界の人々が気づかない限り、「戦争」と「テロ活動」をめぐる終わりのない連鎖は、なかなか終止符を打つことができないだろうと思います。

繰り返しますが、国家が発動する戦争を、やむを得ぬ「是」として、いわゆるテロリストが行なう活動のみを「否」とする、ダメだとする。それでは、「戦争」も「テロ」もなくならないというのがぼくの基本的な考え方です。国家が発動する「戦争」も、いわゆる「テロ」も、両方に終止符を打つ考え方と行動のあり方が、人間社会のひとつの基本にならないと、現状はなかなか打破できないだろうと思うわけです。

例えば朝鮮をめぐる情勢で言えば、朝鮮が行なう行動はすべて「挑発」と表現されます。日米、米韓合同軍が行なう軍事演習は「挑発」とは表現されません。

今年8月には、陸上自衛隊と米海兵隊の朝鮮半島をにらんだ軍事演習が北海道で行なわれましたし、日米韓の演習もしょっちゅう行なわれています。もし、朝鮮のミサイルや核を「挑発」と言うのであれば、日米韓の動きもまた「挑発」と言わなければならない。そういうまっとうな考え方を世界はしない。メディアの偏向した報道によって、そして世界の約200ある国々の政治指導部のきわめて妥当性を欠く表現によって、まっとうな考え方がなされないわけです。

ですから今のような報道が、万人によって受け入れられる表現になっていく。このようなときに、いったいこの事態をどう表現することができるのかというのが、大きな問題です。

先に見た新自由主義の問題で言えば、医療や福祉、教育、あるいは生活の重要な足である鉄道や通信の重要な手段である郵便、そうしたものはどんなに国家財政が苦しくなっても、国の責任において公共事業として行なわれ、その地域に住まう住民に等しく権利として享受されなければならないというのが本来の在り方です。それが、国のどこに住んでいるかによって格差が生まれない、社会的な公正さを少しでも経済的に保とうとするひとつの考え方であるわけです。ところが新自由主義経済政策というのは、国の責任をすべてかなぐり捨てて、資本の原理に基づいて、民間の競争力に委ねればそれでよいという、資本主義万々歳の考え方なわけです。

そうやって、ひとつの国の経済、あるいは予算の使い方が実現された場合に、その社会がどういうふうに荒廃していくものであるか、もうそれは現在の日本の労働状況、労働環境をみれば、誰の目にも明らかな事態になっています。

労働する人の権利が散々侵されて、企業はきわめて不安定な雇用形態しかとらなくなった。それは、この資本主義経済機構の中で企業が生き残るために必要な、競争原理に基づいた措置であると解釈されている。そうしたきわめて一方的な、雇う側に有利な考え方を、政府が言い、経団連が言い、メディアがそれに十分抵抗できないまま、ひとつの価値観として押し付けられていく。そういうときに、新自由主義経済政策が万人に受け入れられているわけではないという表現をどのように行なっていくか、そのことが問われてくると思うのです。

怒りと憎しみで一色になった日朝首脳会談後の日本社会

先に少し触れましたが、2002年の日朝首脳会談の問題に戻って、考えていきたいと思います。

2002年9月17日の日朝首脳会談で、金正日が、それまで否定してきた日本人の「拉致」を事実であったと認めて謝罪し、二度と繰り返すことはしないと述べた、ただ日本政府が拉致被害者として認定している13人のうち、8人の人はすでに死亡しており、5人のみ生存していると発表したという報道があったのが、あの日の夕方です。

この日の夜、テレビには、この間もよく登場されている横田さんご夫妻や、当時「家族会」の事務局長であった蓮池透さんなど「家族会」の人たちが前面に出ていました。そこで語られたのは、もちろん、悲しみもつらさもあっての、ある意味で当たり前な言葉であったわけですが、ぼくは夜、9時か10時ころ帰宅してテレビを見ながら、とんでもないことになるなと思いました。「とんでもない」というのは、日本社会が、朝鮮に対する、怒りと憎しみで一色になるだろう、そのようにメディアは機能し、人の心はそのように組織されるだろうということです。そして、この問題がはらんでいる本質はいったいどこにあるのかを、考えて明らかにしていくのは、たいへんなことだなと、ぼくは思ったわけです。

翌日から、実際そうなりました。新聞も一色でした。1か月後に5人の生存者が帰ってきて、それから2年近くたって子どもさんたちが帰ってくる。その間、日本のメディアは、この問題一色に染まったわけですね。

こういうときに、どういう観点から発言するか。これもなかなか、万人の、誰もがやることではない。

あえて「安易」と言っていいと思いますが、いちばん安易なのは、この風潮に同調することです。「もちろん亡くなった方は気の毒だ」、そして、その8人の家族を亡くした「『家族会』の人たちは気の毒だ」、「こんなことをやった朝鮮は許せない」、「金正日はけしからん」、「金日成の時代までさかのぼることじゃないか」と。

そして、その感情から「日本は今まで植民地支配云々で、後ろ指を指されてきたけれど、これでようやく我々は犠牲者になった。もう植民地支配の加害者として謝罪を要求されたりすることはない。これでおあいこだ。犠牲者として、被害者として何を言ってもいいんだ」という空気が生まれ、この社会に充満しました。

この中で、じゃあいったい、何をどのように異論として言うのか。これも万人受けのしない作業です。この問題についても、先に触れましたが貝原さんが仕事をしていた時代の中にあって、ぼくの考えでは皇室問題を除いた中での最も大きな問題のひとつと言える。繰り返しますが、新自由主義経済政策の問題と、同時多発攻撃と「反テロ戦争」の問題、それからこの日朝首脳会談以降の日本社会の問題に、今につながる問題が象徴されると思うのです。

ここでも貝原さんは、正面から取り組んだ形で作品を残しているということに触れておきたいと思います。

天皇制批判をどう表現するか――貝原浩と深沢七郎の「きわどい」表現

もうひとつは天皇問題です。反天皇制運動連絡会という組織が1984年でしたか、結成されて、今に至る活動が続いています。この、略称「反天連」の機関誌や様々なパンフレットに皇室関係の風刺画を描くというのも、80年代後半以降の、貝原さんの重要な仕事のひとつでした。

ひとつひとつの作品を紹介はしませんが、実際に今回の展示作品、図録をご覧になっていただけば、けっこうきわどい表現があることがおわかりいただけます。

昭和天皇裕仁が死んだのは、1989年。ですから貝原さんが、反天連の様々なことにかかわり始めた、わりあい初期のころですね。

裕仁については、彼が最期まで認めない、「文学上のアヤの問題は私は知らん」と言って、とうとう逃れてしまいましたが、戦争責任の問題が当然あります。しかし戦争責任については、それなりに描きやすいということはないかもしれないけれども、批判的な問題提起をしようというときには、問題の立て方としては、すっきりできると思います。

難しいのが、その後に天皇になり皇后になった、現在の、1989年以降のいわゆる、あえて元号を使えば、「平成」天皇と「平成」皇后のあり方をどのように表現するのかということだと思います。これはけっこう難しい問題です。

この間の日本の政治社会状況の中でも、例えば安倍晋三との対比において、天皇が繰り返し言う、平和への強いメッセージ、あるいは戦争犠牲者に対する海外を含めた慰霊訪問、そうしたことをひとつの象徴ととらえ、「これは安倍の戦争路線に対する内に秘めたる批判である」というような解釈をする人たちがいます。大衆運動の中にもいるし、いわゆる文化人的な人たちの中にもいないこともない。「ああ、戦争と平和の問題について、このような発言をする天皇や皇后をもって幸せだ」という、そのようなことさえ言う人たちがいる。

ぼくは、そのような考え方には反対の立場ですが、この問題はしかし難しい。

反天連の機関誌にはぼくも、この間、8年くらいでしょうか、もう90回くらいになる連載のコラムを持っています。それは貝原さんが、反天連に挿絵や風刺画を提供していた時代とは彼の死を挟んで、ずれてしまうので、機関誌の中で一緒にやったことはないんですけれども。

その機関誌の中でもよく問題にされることですが、現在の天皇皇后のあり方について、どのような言葉で、どのようなアプローチの仕方で、うまく批判できるか。昭和天皇のときと違って、ちょっと難しい。ここに、貝原さんがいない、亡くなって、今に至るこの12年間の空白ができてしまったのが、ぼくは非常に残念なことだと思っています。

貝原さんの表現は「きわどい」と言いましたけれども、しかし天皇制についての表現が、これほどまでにみんながびくびくしたり、ちょっとこれはやばいんじゃないかと思ったりするというのは、それほどずっと続いているわけではありません。

ぼくの記憶する中で、2つの例を挙げますが、これはいずれも、作家の深沢七郎の表現にかかわる問題です。

深沢七郎は『楢山節考』でデビューした、ぼくは優れた作家のひとり、忘れがたい作家のひとりだと思っています。彼が1960年12月の『中央公論』というあの、今や読売新聞社の傘下にある出版社、中央公論社の出している月刊誌ですが、そこに、『風流夢譚』という小説を書きます。

現在はインターネットの時代なので、いろいろな形で読むことができますが、「夢譚」という、つまり夢のお話です。掲載が11月発売の12月号で、いわば年末から正月にかけてのちょっとした夢物語として書かれたものです。しかし60年安保の年であり、現在の天皇と皇后が結婚した翌年ですから、そうしたことを反映しています。実際の当時の天皇皇后、現在の天皇皇后も実名で出てきますが、首都でサヨクの革命のようなことが起こったというので、見に行くと天皇の首が切られた胴体があったりする。「革命」といい、「サヨク」といっても、そのサヨクのヨクが慾望の慾の「左慾」ですからね。ウソ物語、夢物語です。しかし皇太子の首が斬られ、美智子の首が斬られて「首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった」というような表現を含めてある、そういう作品です。

作品の評価は別個行なうべきだとして、そんな作品が1960年に、『中央公論』という総合雑誌に載っていたわけです。その結果、これを怒った右翼の人間が版元の中央公論社の社長宅を襲って、お手伝いさんが亡くなるという事件が起こってしまいました。

日本の出版界が、天皇表現について委縮し始めたのがこれ以降です。ですから57年間、せいぜい半世紀ちょっとです。

この深沢七郎という人はもうひとつ、1959年の講談社の文芸雑誌『群像』に「これがおいらの祖国だナ日記」というエッセイを書いています。これは、天皇家に、民間の血が入ったことに対する残念な思いを書いたものです。

つまり、天皇家というのは「血族結婚」を続けていって、「ムカデの様な」、「皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様で、くねくねと動いている」一家になって、その一家の写真を、「国民は『これがおいらの祖国だナ』と、国賓の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるのだ。(それが、すつかりダメになつちゃつたんだよ)」「僕は御成婚の日にテレビを見ながらガッカリして眺めていた」というのですから、これはちょっとすごい表現でしょう。

今だったら、まず『群像』が載せるはずがない。載せたら何が起こるかわからないというような表現です。しかし、半世紀ちょっと前には、その手の自由さはあったんです。

深沢七郎はほんとうにおもしろい人で、余談ですが、米国大統領のケネディが殺されたとき、赤飯を炊いて隣近所に分けたという。みんな怪訝な顔をするわけですが、「いやあ、戦争をする奴が亡くなったからめでたいでしょう」と言ったとか。彼は、そういうことを、正直にできる人だったんですね。

この社会にそういう人がいてよかったなと思うんですけども、そういう、ある意味まっとうな発想で、そのとおりのことを言っていた文学者だったと思います。

つまり、天皇制に対する批判的な言辞に臆病になってしまう、委縮してしまうというのは、ごくごく最近だということ。深沢氏の表現に対する右翼テロがあって、それに大きなメディアが怖気づいて、やがてこれほどに無抵抗な、批判的な言論が一切ないような時代が来てしまった。これがこの半世紀の問題ですし、少しでもこの天皇制という余計なものに対する批判の空間、言論空間を広げていかなければならないと思います。

しかし残念ながら、やはり違うベクトルから天皇一家を表現するものが、この社会では圧倒的に受ける、万人受けするわけです。それになんら疑問を抱かない。批判的な言論はものすごくマイナーな反天連の機関誌でしかなされていないということは、ほとんどの人の目には触れないわけです。批判のないのが当たり前になってしまう。そして天皇がらみのことでは反射的に、なにか、丁寧な言葉を使って崇め奉ってしまう。それが、どれほどこの社会を不自由にしているかということを指摘したいと思います。

犯罪への反応からみる、万人に受け入れられる考え方の恐ろしさ

もうひとつ、万人に受け入れられないものには、たとえば犯罪報道があります。

社会的な関心を呼び起こす凶悪な事件を含めた犯罪事件が起こったとき、その事件によって殺された犠牲者に成り代わる、あるいは犠牲者の遺族に成り代わって犯人をつるし上げる。これが、なぜかわからないけれども、社会にいちばん浸透している人々の心の在り方です。

貝原さんが生きた時代の中では、「ロス疑惑」と呼ばれた三浦和義さんの事件があって、それを扱った絵も展示されています。あの事件のころ、ぼくはテレビを買ったばかりだったということもあって、珍しくてニュースショーなどを見ていました。レポーターというんですか、みんなマイクを持ってワーッと三浦さんのところに押しかけていく。

最初は『週刊文春』がスクープして、「ロス疑惑」というのを暴き始めたわけですが、そしてテレビが犯人に仕立て上げてしまい、後追いで警察が介入する。もう三浦和義という人に対する、罵倒と憎悪、それが満載の社会になっていました。

現在はなおさらです。先だっても、おそろしい事件がありました。パーキングでの駐車の仕方を注意された若者が、その注意した人の車を高速で追いかけて、走行を妨害して、結果、後ろから来たトラックに追突されて注意した側のご夫婦が亡くなるという悲惨な事件があった。

この事件について、20代の若者の名前が出ました。どこに住んでいるか、地名も出ました。そうするとなぜかわざわざその名前を調べて、「この店のバカ息子がやったに違いない、こいつがオヤジだ」というように、だれかがインターネットに上げた。するとそのネット情報に基づいてどんどん嫌がらせ電話が、間違えられた人のところに入って、仕事にならないと。そういうことが報道されていました。

ここまでこの社会はひどくなっている。いわゆる「テロ」事件でも、「拉致」事件でも、凶悪事件でもそうですが、圧倒的多数の新聞、報道記者、テレビ視聴者は第三者です。その事件の犠牲者でもなければ犠牲者の遺族でもない、加害者の側にいるわけでもない。99.9パーセントの人たちはその事件の当事者ではありません。第三者だからこそ、冷静に、なぜこんな悲劇が起こるのかを考え、こうした悲劇が起こらない社会にするために必要なことは何か、どんな考え方が、どんな行動が必要なのかを冷静に考える、そういうことができる位置に本来はいるわけです。

ところが、この社会ではそうならない、いたずらに、ひとり興奮してしまって、その犠牲者に成り代わり、遺族に成り代わって加害者をバッシングする側になる、それをテレビメディアは先頭に立って、週刊誌メディアがそれを追い、場合によっては新聞メディアも加わって、それがいかにも、社会の万人に通用する考え方であるかのように検証してしまうわけです。

万人に受け入れられる考え方というのは、これほどまでに恐ろしい、そういう時代になっていると思います。

それはインターネットによって加速した。パソコンが普及し始め、インターネットが普及し始めた元年は1995年だと思いますが、貝原さんはネット社会がだんだんと人々の心の中に浸透していく、その初期の段階の10年間を、彼は並走したわけです。それから12年経って、このネット社会というものが、どれほどまでにひどい状態になっているのか、貝原さんが体験できたならば、いったいどういう風刺を描いていただろうか。これも彼の作品を、見ながら考えたことでした。

劣化した社会の中でこそ、「万人」の表現になびかず、抵抗の表現を

もうひとつ重ねて終わりにします。

ぼくは先ほど触れた、2001年に小泉政権が成立した以降、小泉の時代に書いた文章の中で何回か、「言葉が死んだ」といいますか、そういう表現を使ったことがあります。

小泉純一郎というのは、人が発する言葉からその本質的な意味を奪い取ってしまう政治家の典型です。言葉で、論争をするとか論戦をするとか、そうしたことが不可能なところに、そういう劣化した状態に社会を追いやってしまったと思います。

どういうことかというと、例えば2003年、自衛隊の「イラク派兵」が問題になったときに、「非戦闘地域にしか自衛隊は派遣しない」と当時の小泉政権は言っていて、それなら、そのときのイラクの戦闘地域と非戦闘地域をどういうふうに分けて判断しているんだと野党が質問すると、小泉は何と答えたか。「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと、いま永田町にいるこの私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか」と答えた。質問に対するとてつもない居直りです。

野党の質問の仕方にも問題はありましたが、しかし戦闘地域と非戦闘地域がわけがわからない人間が、最高責任者として自衛隊を派遣しているという、そういうことになってしまうわけです。

そんな派遣の無責任性を批判していく展開が必要ですが、「わかるわけがないでしょう」と言って、情けないことに野党の追及はそこでストップしてしまうわけです。

あるいはまた、2004年、年金の問題のときに、小泉自身の厚生年金加入疑惑を質されると、島倉千代子の歌にかけて「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」などと言って、まともに質問に答えない。言葉に向き合うのではなくて、ずらしたところで、答えたつもりにさせてしまう。ある意味、ものすごく巧みな人間でした。あらゆることから人間の発する言葉の意味を奪い、論争するという機会をずるずると奪ってしまいました。

小泉という、ほんとうに口の軽い、言葉の軽い、とんでもない人間が5年間、あれだけの人気を誇って首相の座にいた。あのときから、ぼくは、日本社会が、日本の政治が、それまでもとんでもない政治が行なわれていたけれども、もう一段階、国会論戦のあり方を含めて、とんでもない時代が来てしまったのだと思います。

その小泉の後継指名を受けたのが安倍晋三です。せっかく1年間で辞めてくださいましたが、残念ながら自民党内の勢力的な問題があって、2012年にまた復活し、とうとう5年間の長期政権が続いてしまいました。彼の下で言葉がさらに意味を失ったことはみなさん、日々、実感されていると思います。

とにかく話にならない、論争にならない。あれだけはぐらかし、まともに答えないで、しかし、野党の力不足で、あるいは質問時間がなくて、どんどん既成事実として進んでいく。これほどまでに風刺も効かない、言葉が本来の意味を持たず、風刺も効かなくなった時代に、貝原浩が生きていたらいったいどんな風刺画を描けたんだろうというのが、たいへん興味のある問題です。

ぼくはほんとうに、小泉政権以降のこの16年間、こういう時代に、社会や政治のあり方に対して批判的な文章を書くということの意味はいったい何なんだと、いったいどこに手ごたえを感じたらいいのだろうということを、つくづく思うようになりました。

しかも、社会は大きく転換して、いくら選挙制度に不備があろうと、社会全体はここまでこう、抵抗力を失って、劣化して現在に来てしまったわけです。

いろいろな問題点を指摘することはできるけれども、しかし小泉的なもの、安倍的なもの、米国であればトランプ的なもの、そうしたものを支える社会層が、それなりに厚みを帯びて、この社会を形成してしまっている。それが「万人」であることのように装って、この社会を仕切っている。そういう時代を迎えてしまったわけです。

こういうときに、この「万人」の表現になびかず、こんな表現が、こんな政治家が受けるのはあやしいというふうに踏みとどまって、考え、行動する。踏みとどまって文章として、絵として、演劇として、映画として、様々な表現を行なう、そういう人間が途絶えてはいけない。そのことを十分思いつつ、同時にその難しさも思うわけです。

繰り返しになりますが、こんな、なんと名づけていいのかわからないへんてこな時代に貝原浩が生きていたら、いったい彼は、これに抗う、どんな抵抗の表現をしていただろうかということを考えながら、なんとかこの時代を乗り切っていきたいなということを考えています。

(2018年2月13日発行 発行責任:貝原浩の仕事の会)

「死刑囚表現展」の13年間を振り返って


『創』2017年12月号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が運営する「死刑囚表現展」は今年で13回目を迎えた。始めたのは2005年。その前年に、東京拘置所に在監する確定死刑囚、大道寺将司氏の母親・幸子さんが亡くなった。遺された一定額の預金があった。近親者および親しい付き合いのあった人びとが集い、使い道を考えた。筆者もそのひとりである。幸子さんは、息子が逮捕されて以降の後半生(それは、54歳から83歳までの歳月だった)の時間の多くを、死刑制度廃止という目的のために費やした。

息子たちが行なったいわゆる「連続企業爆破」事件、とりわけ1974年8月30日の三菱重工ビル前に設置した爆弾が、死者8名・重軽傷者385名を出したことは、もちろん、彼女の胸に重く圧し掛かっていた。本人たちが意図せずして生じさせてしまったこの重苦しい結果が彼女の頭を離れることはなかったが、息子たちは、マスメディアがいうような「狂気の爆弾魔」ではないという確信が揺ぐことはなかった。この確信を支えとして、彼女は「罪と償い」の問題に拘りつつ、同時に死刑廃止活動への関わりを徐々に深めていった。息子以外の死刑囚とも、面会・文通・差し入れ・裁判傍聴などを通して、交流した。人前で話すことなど、およそ想像もつかない内気な人柄だったが、乞われるとどこへでも出かけて、息子たちが起こした事件とその結果に対する自らの思いを話すようになった。死刑囚のなかには、自らが犯した事件・犯罪について内省を深め、罪の償いを考えているひとが多いこと、また、国家の名の下に命を最終的に絶たれる死刑事件においても冤罪の場合があることなどを彼女は知った。

幸子さんは、晩年の30年間を、獄外における死刑廃止運動の欠くことのできない担い手のひとりとして、死刑囚と共に「生きて、償う」道を模索した。この辺りの経緯は、幸子さんへの直接の取材が大きな支えとなっているノンフィクション作品、松下竜一の『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(初出「文藝」1986年冬号、河出書房新社。現在は、単行本も同社刊)に詳しい。

彼女の遺産の使い道を検討した私たちは、そのような彼女の晩年を知っていた。遺されたお金は、「死刑廃止」という目標のために使うのが彼女の思いにもっとも叶った道だろうという結論はすぐに生まれた。さて、どのように使おうか。討論の結果、次のように決まった。

死刑囚の多くは、判決内容に異議をもち再審請求を希望する場合でも、経済的に困窮していて、それが叶わないこともある。一人ひとりにとってはささやかな額ではあろうが、「基金」は一定の金額を希望者に提供し、再審請求のための補助金として使ってもらうことにした。毎年、5人前後の人びとの弁護人の手にそれは渡っている。

もうひとつは、死刑囚表現展を開催することである。死刑囚は、多くの場合、外部の人びとと接触する機会を失うか、ごく限られたものになるしか、ない。「凶悪な」事件を引き起こして死刑囚となる人とは、身内ですら連絡を絶つこともある。ひとは、自分が死刑囚になるとか、その身内になるとかの可能性を思うことは、ほとんどないだろう。だが、振り返れば、死刑囚がなした表現に深い思いを抱いたり衝撃を覚えたりした経験を、ひとはそれぞれにもっているのではないか。永山則夫氏の自己史と文学、永田洋子および坂口弘両氏が著した連合赤軍事件に関わる証言や短歌、苦闘の末に冤罪を晴らした免田栄氏や赤堀政夫氏の証言、そして、いまなお冤罪を晴らすための闘いの渦中にある袴田巌氏の獄中書簡やドキュメンタリ―映画、当基金の当事者である大道寺将司氏の書簡と俳句など、実例は次々と浮かぶ。世界的に考えても、すべてが死刑囚ではないが、マルキ・ド・サド、ドストエフスキー、金芝河、金大中、ネルソン・マンデラなど、時空を超えて思いつくままに挙げてみても、獄中にあって「死」に直面しながらなした表現を、私たちはそれぞれの時代のもっとも切実で、先鋭なものとして受け止めてきたことを知るだろう。それらに共感を寄せるにせよ批判的に読むにせよ、同時代や後世の人びとのこころに迫るものが、そこには確実に存在している。

日本では、死刑制度の実態が厚いヴェールに覆われているにもかかわらず、死刑を「是」とする暗黙の「国民的な合意」があると信じられている。刑罰の「妥当性」とは別に、死刑囚といえども有する基本的な人権や表現の自由についての認識は低い。「罪と罰」「犯罪と償い」をめぐっては冷静な議論が必要だが、「死刑囚の人権をいうなら、殺されたひとの人権はどうなるのだ」という感情論が突出してしまうのが、日本社会の現状だ。死刑囚が、フィクション、ノンフィクション、詩、俳句、短歌、漫画、絵画、イラスト、書など多様な形で、自らの内面を表現する機会があれば、そのような社会の現状に一石を投じることになるだろう。死刑囚にとって、それは、徹底した隔離の中で人間としての社会性を奪われてしまわないための根拠とできるかもしれない。

そのような考えから表現展を実施することにしたが、死刑囚の表現に対してきちんと応答するために、作品の選考会を開くこととして、次の方々に選考委員をお願いした。加賀乙彦氏(作家)、池田浩士氏(ドイツ文学者)、川村湊氏(文芸評論家)、北川フラム氏(アートディレクター)、坂上香氏(映像作家)。基金の運営会からは私・太田昌国(評論家)が加わった。第7回目を迎えた2011年には、ゲスト審査員として香山リカ氏(精神科医)を迎えたが、香山さんにはその後常任の選考委員をお願いして現在に至っている。

「死刑囚表現展」と銘打つ以上、応募資格を持つのは、当然にも死刑囚のみである。この企画が発足した2005年ころの死刑囚の数は、確定者と未決者(地裁か高裁かで死刑判決を受けているが、最高裁での最終判決はこれからの人)合わせて百人程度だった。それから12年を経た昨今では、125人から130人くらいになっている。このうち、表現展に作品を応募する人は、平均15%から20%くらいの人たちである。

例年の流れは、以下のとおりである。7月末応募締め切り。文字作品はすべてをコピーして、選考委員に送る。その厚みはだいたい30センチほどになるのが普通だ。9月選考会。絵画作品はその場で見て、討議して選考する。10月には「死刑廃止集会」という公開の場で、改めて講評を行なう。

「基金」のお金は、参加賞や各賞の形で応募者に送られる。「賞」の名称(名づけ)には、いつも苦労する。「優秀賞、努力賞、持続賞、技能賞、敢闘賞」などはありふれているが、獄中にありながら現代的な言葉遣いに長けた人には「新波賞」(文字通り、「ニュー・ウェーブ」の意味である)が、また周囲の雑音に惑わされず独自の道を歩む人には「独歩賞」とか「オンリー・ワン賞」が与えられた。肯定・否定の論議が激しかった作品には、「賛否両論賞」が授与されたこともある。この「賞金」がどのように使われているかは、外部の私たちは、詳しくは知る由もない。少なからぬ人びとが、来年度の応募用のボールペン、色鉛筆、原稿用紙、ノート、封筒、切手などの購入に充てているようだ。お金に困らない死刑囚など存在しているはずはないし、物品制限も厳しい中で、なにかしらの糧になっているならば、「基金」の趣旨に叶うことだ。

応募者には、選考会での各委員の発言内容をすべて記録した冊子が送られる。公開の講評会の様子も、死刑廃止のための「フォーラム90」の機関誌に掲載されるので、それが差し入れられる死刑囚のみならず、希望するだれの目にも触れる。これは、精神的な交流を、一方通行にせずに相互交通的なものにするうえで大事なことであると痛感している。選考委員の率直な批判の言葉に、応募者が憤激したり、反論してきたりすることも、ときどき起こる。ユーモアや諧謔をもって応答する応募者もいる。常連の応募者の場合には、明らかに、前年度の作品への選考委員の批評を読み込んで次回作に生かしたと思われる場合も見られる。

この13年間に触れてきた膨大な作品群を通して考えるところを、以下に記しておきたい。自らが犯してしまった出来事を、俳句・短歌などの短詩型やノンフィクションの長編で表現する作品が目立つ。前者の場合、短い字数ゆえに、本人の心境をごまかしての表現などはそもそもあり得ないもののようだ。自己批評的な作品は、ずっしりと心に残る。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり  (響野湾子)

振り捨てて埋めて忘れた悲しみを思い出させる裁判記録 (石川恵子)

一読後、その人が辿ってきた半生がくっきりと見えたような感じがして、ドキリとする作品も散見される。作品の「質」を離れた訴求力をもって、こころに呼びかけてくる作品群である。

父無し子祖母の子として育てらる吊るされて逝きて母と会えるや (畠山鐵男)

弟の出所まで残8年お互い元気で生きて会いたし        (後藤良次)

両親を知らずして育ち、高齢を迎えたいま、獄中に死刑囚としてあること。2人、3人の兄弟が全員刑務所に入っていること――そんなことを読み取ることができる表現に、掲句に限らず、ときどき出会う。ここからは、経済的な意味合いだけには還元できない現代社会の「底辺」に澱のように沈殿している何事かを感受せざるを得ない。ひとが残酷な事件を犯すに至る過程には、社会的な生成根拠があろう。貧困、無知、自分が取るに足らぬ存在と蔑まされること、社会全体の中での孤独感、根っことなるものをことごとく引き抜かれていること――それらすべてが、一人の人間の中に凝縮して現われた時に、人間はどうなり得るか。永山則夫氏の前半生は、まさにそのことを明かしている。同時に、永山氏は自らが犯した過ちを自覚したこと、それがなぜ生まれたかについて「個人と社会」の両面から深く追求する表現を獲得しえたこと、それが書物となって印税が生じたとき、自らが殺めた犠牲者の遺族に、そして最後には「貧しいペルーの、路上で働く子どもたち」に金子を託すという形で、彼独自の方法で「償い」を果たそうとしたこと――などが想起されてよいだろう。

ノンフィクションの長編で自らの犯罪に触れた作品からも,時に同じことが読み取れる。同時に、「凶悪な犯罪」というものは、たいがい、絵に描いたように「計画的に」行なわれるものではないようだ、ということにも気づかされる。作品が真偽そのものをどこまで表現し得ているかという問題は残る。だが、文章そのものから、物語の展開方法から、事実が語られているか、ごまかしがあるかは、分かるように思う。その前提に立てば、実際の犯行に至る過程のどこかで、複数の人物の「偶然の」出会いがなかったり、車や犯行用具が一つでも欠けていたりしたならば、ここまでの「凶行」は起こらなかったのではないか、と思われる場合が多い。逆の方向から言えば、「偶然」の出会いに見えるすべての要素が、たがが外れて合体してしまうと、あとは歯止めが利かなくなるということでもある。その過程を思い起こして綴る死刑囚の表現からは、ひたすらに深い悔いと哀しみが感じられる。

問題は、さらにある。被疑者は逮捕後に警察・検察による取り調べを受ける訳だが、死刑囚が書くノンフィクション作品においては、その取り調べ状況や調書の作り方への不満が充満しているということである。冤罪事件の実相に触れたことがある人は、取り調べ側がいかに恣意的に物語を作り上げるものであるかを知っておられよう。「物語」とは、ここでは、「犯行様態」である。捜査側の思い込みに基づいて、現場の状況と数少ない証拠品に合わせるように「自白」を誘導する手口も、犯人をでっち上げることで初動捜査の失敗を覆い隠すやり口も、根本的にご法度なのだ。だが、実際には、それがなされている。このようなシーンが、十分に納得のいく筆致で書かれていると、死刑囚にされている表現者がもつ怒りと悔しさが伝わってくる。

絵画作品の応募も活発だ。選考会でよく話題になることだが、幼子の時代を思い起こしてみれば分かるように、文章を書くことに比して、絵を描くことは、ひとをしてヨリ自由で解放的な空間に導いてくれるようだ。人を不自由にすることに「喜び」を見出しているのかとすら思われる、拘置所の官僚的な規則によって、獄中で使用できる画材には厳しい制限がある。だが、その壁を突破しようとする死刑囚の「工夫の仕方」には、舌を巻くものもある。常連の応募者の画風に次第に変化が見られる場合があることも、楽しみのひとつだ。最近は、立体的な作品が生まれている。着古した作務衣を出品するという意想外な発想をする人も現われた。或るひとが漏らした「まるでコム・デ・ギャルソンだ」とは、言い得て妙な感想だった。極限的に狭い空間の中から、ここまで想像力を伸ばし切った作品が生まれるとは――と思うことも、しばしばだ。

この企画を始めて13年――11年目には、1980年代に冤罪を晴らした元死刑囚の赤堀政夫さんが、自分もこの企画に協働したいと申し出られて、一定の基金を寄せられた。以後、「基金」の名称には赤堀さんの名も加わることとなった。初心を言えば、当初は10年間の企画と捉えており、その間にこの日本においても「死刑廃止」が実現できればよいと展望していた。残念ながら、政治・社会状況は悪化の一途を辿り、それは実現できなかったからこそ、現在も活動は続いている。この間には、無念にも、かつての応募者が処刑されてしまったこともある。獄死した死刑囚もいる。このように、私たちには力及ばないことも多いが、この表現展は、死刑囚と外部社会を繋ぐ重要な役割を果たしていると実感している。

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)

死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も12回目――第12回「大道寺幸子・赤堀政夫基金 死刑囚表現展」応募作品に触れて


『出版ニュース』2016年11月中旬号掲載

刊行されたばかりの『年報・死刑廃止2016』(インパクト出版会)の「編集後記」の末尾には「本誌も通巻20号、死刑が廃止にできず続刊することが悔しい。」とある。これに倣えば、「死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も第12回目。世界に存在する国家社会のおよそ3分の2に当たる140ヵ国近くでは死刑が廃止されているのに、私たちはいつまでこれを続けることになるのだろうかと慨嘆する」とでもいうことになるだろうか。同時に、次のことも思い出す。2014年秋、東京・渋谷で開いた「死刑囚絵画展」を観に来てくれた友人が言った。「ここまでの作品が寄せられているのだから、もう、辞められないね」。そう、死刑制度は無くしたい。同時に、実際に存在している死刑囚の人びとがここまで「表現」に懸けている現実がつくり出されている以上、少なくとも制度が続いている間は、表現展を辞めるわけにもいかない。私たちの多くもずいぶんと高齢になってしまい、どう継続できるかが大きな問題なのだが――そんな思いを抱きながら、去る9月中旬に開かれた選考会議に臨んだ。

加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、香山リカ、坂上香、そして私、の七人の選考委員全員が出席した。運営会のスタッフも10人ほどが傍聴している。

すでに私の頭に沁み込んでいた句があった。作品としてとりわけよいとは言えないが、死刑囚が外部に向かってさまざまな形で表現している現実を、ずばり(少しユーモラスな形で)言い当てていると思えたのである。

〇番区まるで作家の養成所

拘置所で収用者番号の末尾にゼロがつくのは重罪被告で、死刑囚が多い。そこから、それらの人びとが収容されている番区を「〇番区」と呼ぶことになったようだ。思えば、選考委員の加賀さんには『ゼロ番区の囚人』と題した作品がある。加賀さんは東京拘置所の医官を勤めていた時期があるから、その時の経験を作品化したのである。確かに、死刑囚表現展がなされる以前から、ゼロ番区からは、多くの表現者が生まれ出た。正田昭、島秋人、平沢貞通、永山則夫……。この句の作者は、そのことの「意味」を、あらためて確かめているように思える。

作者とは、兼岩幸男さんである。常連の応募者だが、昨年時事川柳というジャンルを開拓して以来、その表現に新しい風が吹き込んできた感じがする。掲句同様、ユーモアを交えて、死刑囚である自分自身をも対象化している句が印象に残る。

死刑囚それでも続けるこのやる気

就活と婚活してる死刑囚

拘置所へ拉致に来るのをじっと待つ

もちろん、昨年同様、社会の現実に向き合った作品にもみるべきものはある。

マスメディア不倫で騒ぐ下世話ぶり

選挙前基地の和解で厚化粧

日々の情報源は、半日遅れの新聞とラジオ・ニュースのみ、それでも、見える人には、事態の本質が見える。溢れかえる情報に呑み込まれて、情報の軽重を見失いがちな一般社会に生きる私たちに内省を迫る。ただし、他の選者の評にもあったが、直截的な社会句には、俗情に阿る雰囲気の句もあって、それは私も採らない。この人独自の世界を、さらに未知の領域に向けて切り拓いていくことを、切に望みたい。

高井空さんの「三つの選択し」は、ショートショートの創作。確定死刑囚が突然理由も知らされることもなく、航空機でどこかへ移送される。着いたところは、海外の戦場だった。自衛隊も含めて憲法9条の縛りで戦争には参加できない。その点「働きもせず、税金も納めず、ただで飯を食って、どうせ殺す死刑囚であれば」戦力になり得る、しかも「奴らは、既に、人を殺した経験がある」。国内的には、死刑囚・某の死刑が執行された、ということにしておけばよい――動員した側の言い分はこうだ。そんな世界に抛り込まれた死刑囚の心象がクールに描かれてゆく。確定死刑囚ならではの、迫りくる「戦争の時代への危機感」が吐露されていて、緊張した。後述する響野湾子さんの短歌にも、こんなものがあった。

裁判員制度のやふに 赤紙がいつか来るはず確定囚にも

獄にある確定死刑囚は、独特の嗅覚をもって、獄外で――つまり自らの手が及ばぬ世界で――進行する政治・社会状況を読み取っているのかもしれぬ。時代に対するこの危機意識には、獄壁を超えて連帯したいと、心から思った。高井さんが、別な名で応募された従来の作品については(とりわけ、自らがなした行為を振り返った作品については、読む者の胸に響くものが少ないがゆえに)ずいぶんと酷評した記憶があるが、この作品からは、今までになかった地点に踏み出そうとしている心意気を感じ取った。書き続けてほしい。

さて、常連の響野湾子さんである。短歌「蒼きオブジェ」575首、俳句「花リンゴ」250句、書き散ら詩「透明な一部」から成っていて、今年も多作である(「透明な一部」は、本名の庄子幸一名も連記した応募である)。短歌の冒頭に曰く「執行の歌が八割を占めています 意識的に詠んでいます 死刑囚徒だから 死刑囚の歌を詠わねば 誰れが?」。選者である私たちが、死刑執行をテーマにした作品が多く、重いとか息苦しいとかいう感想を漏らしたことへの応答だろうか。そう、言われる通りです、というしかない。この作品を読む前に、私は拘置所で或る死刑囚と面会した。彼はぽつりといった。「他人を殺めた者でなければ分からないことがある」。ふたりは、死刑囚としての同じ心境を、別々のことばで語っているように思える。そこで生まれるのは、贖罪の歌(句)である。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり

痛みなくばひと日たりとも生きられぬ壁に頭を打ちて耐えをり

生活と言へぬ暗さの中に生き贖罪(ルビ:つみ)てふ見へぬものと闘ふ

贖罪記書けず閉ず日や有時雨

短歌集の表題「蒼きオブジェ」に見られるように、「蒼」をモチーフとした作品に佳作が

目立った。

溜息は一夜で満ちる独房は 海より蒼し 私は海月

海月より蒼き体を持つ我れは 独房(ルビ:へや)で発光しつつ狂(ルビ:ふ)れゆく

絵心の無き性なれど この部屋を歌で染めあぐ 蒼瑞々しく

主題を絞り込んだ時の、表現の凝縮度・密度の高さを感じた。他に、私には以下の歌が強く印象に残った。

いつからか夜に知らぬ人現われて 一刷毛闇を我に塗りゆく

責任を被る狂気の無き人の 筆名の文学に色見えてこず

井上孝紘、北村孝、北村真美さんの作品は、もちろん、個別に独立したものとして読まなければならないのだが、関わりを問われた共通の事件が表現の背後に色濃く漂っていて、関連づけて読むよう誘われる。弟(孝紘さん)は兄(孝さん)と母親(真美さん)の無実を主張する文章を寄せており、孝さんは無実を訴える。真美さんはその点には触れることなく、10年の歳月、同じ拘置所の「同じ空間に居た」女性死刑囚が処刑された日のことを書く。「死刑囚が、空気に消える時、そこに涙は無い。死刑囚が、消える時、何も変わらない一日となる」。弟は、捜査員の誘導で、罪なき兄と母を「共犯」に仕立て上げる調書を取られたことを悔やむ。その心境を、こう詠む。

西仰ぎ 見えろと雲に 兄の笑顔(ルビ:かお)

各人の「表現」が今後いかにして事件の「闇」に肉迫してゆけるか。刮目して、待ちたい。

昨年、初の応募で「期待賞」を受賞した高田和三郎さんが、詩・詞編とエッセイ「若き日の回想」を寄せられた。詩篇もまた、利根川の支流に近い故郷を思う慕情に溢れている。エッセイの末尾には「この拙文は自分が少年であった当事に経験した非生産的な生活状況について、恥を忍びながら書かせていただいた」とある。身体的な障がいをもつことによって「非生産的」と見なした世間の目のことを言っているのだろうが、それは、今回の相模原事件と二重写しになって見える。その意味で、社会の変わらなさに心が塞ぐ。ただ、もっと書き込んでいただきたい。今回で言えば、郷里が近い石川三四郎に触れた一節があるが、思想史上に独自で重要な位置を占めるこのアナキスト思想家に、名前だけ触れて済ませるのは惜しい。なぜ、名前が心に残っているのか。郷里の大人たちがどんな言葉遣いで石川三四郎のことを語っていたから、高田少年の頭にその名が刻み込まれたのか。掘り下げるべき点は、多々あるように思われる。

さて、数年前、もやしや大根の姿を、黒地を背景に絶妙に描いた絵が忘れられない高橋和利さんは、今回は大長編『凸凹三人組』を応募された。自らの少年時代の思い出の記である。几帳面な方なのだろう、幼い頃からつけていた膨大な日記を、いったん差し入れてもらい、それを基にしながらこの回想記を記したもののようだ。だから、戦時中の焼夷弾の作り方など、記述は詳細を極めて、面白い。戦後も、子どもたちの要求によって男女共学が実現する過程など、今は何かと分が悪い「戦後民主主義」が生き生きと機能していた時代の息吹を伝えて、貴重だ。いささか冗漫にすぎる箇所はあり、唐突に幼い少女の腐乱死体が出てきて終わるエンディングにも不満は残る。推敲を重ねれば、戦中・戦後の一時代の貴重な証言文学足り得よう。添えられた挿絵がよい。あのもやしや大根を描いた才は、高橋さんの中に根づいている。

若い千葉祐太郎さんは、無題の作品を寄せた。四行か五行を一区切りとする詩文のような文章が続く。難解な言葉を使い、メタファーも一筋縄ではいかない。自らが裁かれた裁判の様子と処刑のシーンを描いているらしいことはわかる。供述調書の作られ方に納得できないものを感じ、自らがなしたことへの悔悟の気持ちも綴られている。本人も難解すぎると思ったのか、後日かみ砕いた解説文が送られてきた。こんなにわかりやすい文章も書ける人が、あえて選んだ「詩的難解さ」は、若さゆえの不敵な挑戦か。悪くはない。

いつも味わい深い作品を寄せる西山省三さんは、「天敵の死」という詩と川柳10首。「人の死を笑ったり喜んだりしてはいけませんよ」と幼い作者を諭した母に謝りながら歓喜するのは鳩山邦夫が死んだから。法相時代13人の死刑囚の執行を命じた人。母の教えを大事に思いつつも、ベルトコンベアー方式での死刑執行を口走った、「一生使いきれないお金を持った」人の早逝をめぐる詩を、作者は「天敵鳩山邦夫が死んだとさ」という、突き放したような語句で締め括る。論理も倫理も超えて溢れ出る心情。半世紀以上も前のこと、戦争をするケネディが死んだのはめでたいといって赤飯を炊いて近所に配ったら隣人に怪訝な顔をされたといって戸惑っていた故・深沢七郎を、ゆくりなくも、思い起こした。この種の表現は面白い、という心を抑えることはできない。だが、これは、やはり、おもしろうて、やがて、哀しき……か。

林眞須美さんは、その名もずばり「眞須美」と題したルポを応募。粗削りな文章だが、大阪拘置所で彼女がいかにひどい処遇を受けているかという実情は伝わる。日本の監獄がどんなところであるかを暴露するに、気の毒にも彼女はもっとも「適した」場所に――苛め抜かれているという意味で。しかも彼女はそれに負けないで、さまざまな方法を駆使して闘い続けているという意味も込めて――置かれているのかもしれない。

俳句・短歌・川柳を寄せる何力さんの表現に変化が見られる。「短歌(うた)不評俳句の方が無難かな」には、選者として苦笑する。広辞苑と大辞泉を「良友」として日本語を懸命に勉強している感じが伝わってくる。「死刑支持・中国嫌い同率だ 我の運命二重奏かな」は、日本社会に浸透している不穏な「空気」を、自己批評を込めて詠んでいて、忘れ難い。

音音(ねおん)さんからは、101までの番号を付した歌が送られてきた。言葉の使い方は、相変わらず軽妙だし、獄の外で進む新たな現象への関心も旺盛だが、例年ほどの「冴え」が見られないのはなぜだろうか。末尾に置かれた歌

被害者らの未来のすべて黒く塗り 何が表現ズルいと思う

にうたわれた思いが、作者の心に重い影を落としているのだろうか。これは、2014年の死刑囚絵画展(渋谷)の際のアンケートに一来場者が残した言葉からの一部引用歌だ。私がこの年の表現展の講評で、この批評に触れた。この問いかけから逃げることはできない。だが、向き合って、さらに「表現」を深めてほしいと望むばかりだ。

なお、河村啓三さんの長編「ほたるいか」は第7章まで届きながら未完に終わったので、選考対象外とした。ただし、娘の視点から父親である「自分」を語らせるという方法は、興味深いながらも、娘の感情を自分に都合よく処理している箇所があって、綻びが目立つ。

もっと深く書けるはずの人だという声があがったことを、来期には完成させて応募されるであろう作者のために書き留めておきたい。

絵画作品に移ろう。

伊藤和史さんの昨年の応募作品には、驚かされた。白い色紙に、凹凸の彫りが施されているだけだ。裸眼には、よく見えない。今年も同じ趣向だ。表現展運営会スタッフが、工夫してダンボール箱に作品を掛け、対面には紙製暖簾を掛けた。観る者は、用意されたライトを点灯して、暖簾をかき分けて暗い内部に入る。色紙に斜めからライトを当てると、凹凸が浮き彫りになって見える。この工夫と丁寧な作業ぶりに、あらためて驚く。

井上孝絋さんは、いつもの入れ墨用の彫りもの作品に加え、「独裁暴権」現首相の顔に「こいつが……ニクイ!」と書き込んだ。何を描いても、基本があるので、巧みだ。

加藤智大さんの「艦これ――イラストロジック65問▼パズル201問」は、昨年同様、私にはお手上げだ。だが、この集中力は何なのだろう。コミュニケーションの可能性や方法について、あれこれ考えさせられる、独自の密度をもった「表現」なのだ。

金川一さんの作品には、表現展のごく初期から惹かれてきた。「点描の美しさ」と題して、しゃくやくの花などを描いた今回の3点の作品にも、うまい、と思わず唸る。

奥本章寛さんは、初めての応募だ。「お地蔵さま」など5作品が、観る者のこころに安らぎを与えてくれるようなたたずまいで並んでいる。「せんこうはなび」の描き方には、とりわけ、感心した。

北村孝さんの「ハッピー」は、作者がおかれている状況を知っていると、胸に迫る。絵の中にある「再審」「証人」「支援」「新証拠」などの文字は、冤罪を訴える作者の切なる叫びだ。それぞれ星形に入れられてはいるが「希」と「望」の文字の間には大きな隔たりがある。このように表現した時の作者の思いを、及ばずながら、想像したい。

西口宗宏さんは、20点もの作品を応募。何らかのモデルがあって、それを真似しているのだろうが、「月見(懺悔)」のように、自らの内面の描写か、と思われる作品もちらほら。北川フラム氏が言うようにに、本来「グジャグジャな、本人の生理」が前面に出てくれば、化けるのだろうと思わせるうまさを感じとった。

風間博子さんは昨年、作家・蜷川泰司氏の『迷宮の飛翔』(河出書房新社)に挿絵を提供した。物語だけを読んで、想像力を「飛翔」させて描いた16枚の作品の豊かさに私は注目した。表現展への従来の応募作品に見られた「定型化」を打ち破るエネルギーが溢れる「命――2016の弐」の行方を注視したい。

紙幅が尽きてきた。高尾康司さん、豊田義己さん、原正志さん、北村真美さんからも、それぞれに個性的で、心のこもった作品が寄せられた。年数を積み重ねている人の作品には、素人目にも明らかな「変化」(「進歩」とは言いたくない)が見られて、うれしい。自らへの戒めを込めて言う、日々書く(描く)、これが肝心なのだ、と。

最後に、受賞者は以下の方たちに決まった。文字作品部門では、響野湾子さんに「表現賞」、兼岩幸男さんに「努力賞」、高橋和利さんに「敢闘賞」。絵画部門では、西口宗宏さんに「新人賞」、金川一さんに「新境地賞」、風間博子さんに「光と闇の賞」。

そして、さらに記しておかなければならないことがある。東京拘置所在監の宮前一明さんは、絵画作品を応募しようとしたが、拘置所側から内容にクレームがつけられ、とうとう出品できなかった。また、名古屋拘置所在監の堀慶末さんは、応募しようとした長編作品が、拘置所側に3ヵ月間も留め置かれ、9月3日になってようやく発信されたが、選考会の日までには届かなかった。拘置所が採った措置については、何らかの方法によって、その責任を追及していきたい。

以前にも触れたことのある人物だが、ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が今春来日した。1960年代~70年代に活動していた同国の都市ゲリラ組織トゥパマロスに属していた人物だ。長期にわたって投獄され、2度脱獄もしている。民主化の過程で釈放され、同組織も合法政党となって、国会議員となった。やがてその政策と人格が認められ、一般選挙で大統領にまで選出された。「市場は万能ではない」「質素に生きれば自由でいられる」などの端的な言葉で、世界全体を支配している新自由主義的な市場原理に「否!」を唱え、その発言は世界的な注目を集めている。日本を支配する、死刑制度を含めた行刑制度の頑迷さに嘆息をつくたびに、「元武装ゲリラ+獄中者+脱獄者」を大統領に選ぶ有権者が住まう社会の豊かさと奥行きの深さを思う。刑罰を受けて「獄」にある人びとの表現は、どの時代・どの地域にあっても、私たちが住む社会の〈現実の姿〉を映し出す鏡なのだ。

第10回「大道寺幸子基金・死刑囚表現展」共感と反発と――死刑囚が表現することの意味


『出版ニュース』2014年11月上旬号掲載

2005年に始まった「死刑囚表現展」の試みが、公開の場で人目にさらされるのは、毎年10月10日前後に開かれる「死刑廃止デー企画」の中で、選考委員による作品講評のプログラムが組まれて公開の場で応募作品の論評が行なわれ、絵画作品は会場ロビーに展示されるという、わずか数時間の枠内で完結するものでしかなかった。だが、文章作品でひとのこころに届くものは、次第に運よく刊行の機会を得て、この10年間で5冊の単行本が刊行された。「死刑囚表現展」特集が編まれた『年報・死刑廃止2013年版』でも、重要な俳句・短歌作品が一定程度紹介されもした。他方、絵画作品に関しては、2008年以来、京都・高山・広島・東京などのスペースで何度かにわたって展示会が開かれてきた。応募点数は毎年30~40点にも及ぶので、全点展示は難しいが、それぞれの主催者が選ぶことで「個性」が現われ、どれもが得難い機会となった。こうして、死刑囚の作品が市井の人びとの目に触れる機会は徐々に広がってきた。

昨年の報告で触れた広島県鞆の津ミュージアムで開催された「極限芸術――死刑囚の絵画展」の成果に触発されて、今年は、活動の中心が東京である私たち(基金運営会)も、大規模な死刑囚絵画展の企画を立てた。「基金10年」の活動をふり返る意味合いを込めた。そして、9月14日から23日までの10日間、渋谷区の公共スペースである大和田ギャラリーを会場に、9年間の応募絵画作品をほぼ全点(360点ほど)展示する「死刑囚絵画展」を開いたのである。渋谷駅からほど近いという地の利もあったのか、10日間で4000人もの来場者があった。NHKテレビおよびラジオでのニュース報道、共同通信の配信(英字新聞でも)、朝日新聞記事、『週刊金曜日』記事など、メディアが取り上げてくれたことが大きな力を発揮した。私たちも、時代状況に学んでツイッターやフェイスブックを使っての発信に力を入れた。頻繁に更新した記事にはかなりのアクセスがあったから、特に若い人びとの来場を促すには効果があったと思われる。ネット上での情宣には、多くの方々の協力も得られた。

来場者の多くは、実に長い時間をかけて、作品に見入っていた。スタッフとふと目が合うと、なにかと話しかけてくる人が多かった。もちろん、積極的に質問を投げかける人もいた。画材は何か、水彩や油彩で描くことはできないのか、クレヨンは使えないのか。用紙の制限とはどんなことか、すでに処刑された人はいるのか? 冤罪を訴えている人は? どんな罪を犯した人なの?――質問の範囲は、留まるところを知らない。スタッフはそれぞれ、できる限りていねいに、それらの質問に答えた。アンケートの回収率も高かった。内容はまだ整理中だが、真剣な書き方が目立つ。どちらかというと、死刑制度存置派の人が多い、少なくとも作品を観るまでは。だが、壁面を覆い尽くし、ファイル化された作品にひとたび触れると、その人の心も揺らぎ始める。その揺らぎを率直に書く人が多い。「生きている限り、人間には可能性があると思った」「死刑は、社会からの逸脱者を除く有用な手段だと考えてきたが、作品を観て、考え直そうと思った」「涙が出ました。こんなに心のこもった美しい絵を描ける人たちが、なぜ?」「驚きのひとこと。自分の中に〈死刑囚〉という記号でスタンプされたイメージから、どんどん命をもつ人が立ちあがってくる」「絵を見ていると、何とも言えない気持ちになる。犯罪に手を染める以前の過去に戻れたら、という後悔、制約された状況で少しでも気持ちを伝えたいとする意志」「冤罪は恐ろしい」「死刑肯定派でした。しかし、人間の魅力に気づかされました。死刑はない方がいいと考えが変わりました。衝撃でした」――観る人の多くは、自分への問いかけとして作品と向き合っていることがわかる。直接には会えないまでも、絵を通しての精神的な相互交通が始まっているのだ。作品を観て波立った心が切り開いてゆくかもしれない可能性を、私は信じたいと思う。

もちろん、批判もある。「ズルいと思う」と端的に書いた人がいる。被害者は帰ってこない、遺族の心は癒されることもなく、塞がれたままだ。なのに、加害者である死刑囚がこんなにも自由に絵を描いている――このような受け止め方があることを、死刑囚表現展を運営する私たちは忘れるわけにはいかない。この難問に向き合うとき、死刑囚の表現はどう立ち竦むものであるか。その具体例を、私たちは後で見ることになるだろう。

今回の絵画展は、私たち運営会のメンバーにとっても、じっくりと作品と向き合うことのできるよい機会となった。同じ人の作品を年代順に観ていくと、その進化・変貌の過程がはっきりとわかる。一スタッフは、無念なことに処刑された或る死刑囚の作品を観ながら、「私は発見した」と教えてくれた。その人の作品の変貌過程には、看守の存在が関係しているのでは、というのだ。その作品ではある段階から、穴あけパンチでできる円型の紙屑がたくさん使われるようになるが、死刑囚に穴あけパンチの使用が許されるとは考えにくい。看守の特別許可があったのではないか。色紙や大きな紙の使用も、特別に認められたのではないか――確かめる術はもはやなく、これは、もちろん、推測に過ぎない。幼少年期には貧困ゆえに実現できなかった「夢」を、今になってタイムスリップして「あの時代へ」と向かい、画面に描き出しているその人に、処刑される以前に看守(あるいは、処遇権限を持つ高位の幹部)との間でそんな「交流」がもしあったのだとすれば!――と想像することは、微かではあれ、ひとつの希望の証しなのだ。私が会場の当番をしていたある日、その作品の前で、未知の来場者と目が合った。「この絵を見ていると、涙が出てきますね」と、その人は言った。看守にも、彼の絵が秘めている力が伝わって、ある段階からなにくれとなく「便宜」を図ってくれたのかもしれない。そして、その看守が万一、彼の処刑の場に立ち会わなければならなかった、とすれば――一枚の絵が語りかけてくることは、こんなにも広がりをもつのだ。

さて、10年目を迎えた「死刑囚表現展」が、このように広く社会の中へと開かれつつあることを確認したうえで、今年の応募作品に限定的に触れよう。実は、今年は、あらかじめ定めていた最終年度であった。今後のことは末尾で触れるが、応募者には当然その思いがあったのだろう、例年よりも多めの作品が寄せられた。文章作品は14人から、絵画作品は15人から、ふたつの分野にまたがっての応募者は5人だから、延べ24人からの応募があったことになる。確定者と未決を合わせて150人前後と思われる死刑囚のうち16パーセントからの応募という数字は、平均値である。ひとりで何点もの作品を応募した人が多かったので、総点数の印象がいつもと違ったのである。

まず、文章作品から見てみよう。今年も響野湾子さんの旺盛な創造力が際立っていた。俳句200句、短歌800首、詩句10句――というように。昨年の『年報・死刑廃止』は「響野湾子詩歌句作品集」を特集した。それを指して、こんな歌を詠む人で、彼はある。

我が短歌の特集記事の載りし本嬉しき中に痛悔勝れり

死刑囚の自己表現に対して、アンケート用紙に「ズルいと思う」と書いた人がいたことは、先に触れた。湾子氏は、毎年、この感想に響き合うかのような作品を多数寄せている。

我が深き悔を想えど一瞬に打ち砕かれむ被害者の夢にも

熱を病み目覚めし夜半のこの独房の闇の奥こそ被害者の瞳(め)の浮く

後悔も贖罪さえもまだ浅しなれど髪の毛白くなり初む

贖罪と書く度われは虚身になる自堕落に似る罪よりの逃避に

生きたい!と望みし被害者殺めし手で我が再審書認むるを恥ず

処刑があったことへの思いや、自分の身に迫りくる刑死の時を詠む歌は、変わることなく、重苦しい。だが、同時に、己が境遇をいささかユーモラスに表現したり(前二首)、社会的参与の意志を明確に表したりする(後二首)のも、湾子氏独自の世界である。

パン・シチュー・甘きぜんざい・ジャム・チーズ土曜日を待つ恥ずべき未練

偽りの無き悔いなれど後めたき心根で買ふあんぱんを二個

この国が滅んでも尚怒り持てぬ民は孤独な集まりの個

川花火高校野球スマホの群れそこに「被災」の福島が無い

湾子氏が選んでいるのは短詩型の表現ゆえ、氏が犯してしまった行為そのものが語られることはない。だが、「罪と罰」をめぐる多くの事柄が、この簡潔きわまりない表現の中で切開されているように思われる。「短詩型」という小さな世界から無限に広がりゆく宇宙が感じられて、私は氏の作品にいつも打たれる。

音音(ねおん)さんの狂歌集「経年劣歌」は、相変わらず、用いられている言葉の自在さや言語感覚の面白さが印象的だが、氏が別な箇所では「言葉の軽さや歌の軽さに気持ちの均衡を求めたとこがある」と表現しているのを目にすると、改めて氏が置かれている、死刑囚という現実を思う。表現の本意を、重層的に読み取らなければ、と気づかされる。

伊藤和史さんの「心のおと」は、「自伝」といいつつ自らが関わった事件を語らない点に、大きな欠落を感じた。父親が花屋で働いていたことから、幼い頃から花屋に出入りしていた記憶を語る箇所があるが、確かに「花」を語る時の文章は、豊かな知識にも彩られて躍動しており、ここを拠り所にするなら開かれてゆく世界があるように思えた。

絵画部門に移る。林眞須美さんがすべて色紙を使って30点以上もの作品を応募してきた。四角い白地の真ん中に、涙と思える紅い形の点が浮かぶ絵がある。「国旗」と題されている。実作者の真意がどこにあるかはわからぬが、日の丸のパロディーか、と強引な読みが可能だとすればこの作品に秘められた寓意性は深い。昨年、選考委員の北川フラム氏の言葉を借りて、林さんは「他者に理解されたい」という気持ちを断ち切って、作品を創っていると書いた。今年も、「四面楚歌で生きる」とか「ありのままに生きる 私は私 マイウェイな眞須美です」と題された作品で、その覚悟のほどを披歴しているように思える。他方で、「私は無実―たすけてください」という叫びが込められた直截的なメッセージ性のある作品もある。観る者を捉えて離さぬ、その不思議な力に圧倒される。

宮前一明さんは、今年も説明書付きの応募だった。和紙、色紙、扇面色紙、新麻紙など多様な素材を駆使して描くので、その入手方法や色合いの出し方などは、説明されて初めて理解できるものもある。「欠如」が当たり前の獄中にあって、それに押し潰されない工夫をつねに試みているという意味で、作品と説明書は一体化した表現となっている。「作務衣の半襦袢でツギハギの僧衣」との説明が付された「糞掃衣」の出品には、正直、驚いた。10年間四季を問わずに着続けてきた作務衣だという。両袖は七分袖となり、丈も五センチ以上短くなって、元の生地の80パーセントは失われたという。敢えて作品に仕立て上げたものではなく、自然に擦り切れたものを、「表現」として応募した作者の大胆さに不意打ちを食らった思いがした。「表現」の領域を拡大してみせた作品として、忘れ難い印象を残した。

残された紙幅が少ないので、先を急いで、今年度の受賞作品を挙げておきたい。文章では、響野湾子「死刑囚の表現賞」、音音「チャレンジ賞」、絵画では、林眞須美「オンリー・ワン賞」、風間博子「表現賞」、千葉祐太朗「奨励賞」、宮前一明「(作務衣に関して)表現を問う賞」、伊藤和史「(文章と絵画の双方を合わせて)敢闘賞」。以上である。今年は、この文章では触れることができなかった作品がたくさんある。昨年も書いたように、どなたにも表現を続けてほしいという望みを私たちは持ち続けている。表現の変貌や深まり、広がりや拡張、そして新機軸――10年間の持続は、「表現」にさまざまな陰影を与えて、今日に至った。今年の絵画展で寄せられたアンケートのごく一部を先に紹介したが、こうして成立しているコミュニケーションの力によって、この社会に牢固として存在する壁が崩れていくのだ。

最後に――発足当初の展望でいえば、この「表現展」企画は10年の時限をもって開始した。その間に、死刑制度廃止の展望を確たるものにしたいという希望的観測をもち、また資金的にもそれが限度だろうという見込みもあった。だが、政治・社会状況はいくつかの要因で急変し、それが議会構成にも反映しているので、死刑廃止の展望は遠のいたままだ。この表現展が、応募してくる(今後応募することになるかもしれない)死刑囚にとって持つ意味は、すでに見たように、この10年間で計り知れぬほど大きなものになった。いかなる意味でも、止め時ではない。その時、四大死刑再審無罪事件のひとつ、島田事件の元死刑囚・赤堀政夫さんから、趣旨に賛同しての基金提供の申し出を受けた。私たちはありがたくこの申し出を受けて、2015年度からは「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」と改称して、活動を継続することにした。今回は五年間の時限を設定し、その後のことは数年を経た段階で改めて討議することにしている。持続期間の長さを誇り得る活動ではない。死刑廃止の展望を手応えあるものにしたいと思いつつ、「死刑囚表現展」は、なお続く。

(10月17日記)

死刑囚が描いた絵をみたことがありますか


『週刊金曜日』2014年9月19日号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が運営する死刑囚表現展の試みは、今年10年目を迎えた。現在、日本には130人ほどの死刑確定囚がいる。未決だが、審理のいずれかの段階で死刑判決を受けている人も十数人いる。外部との交通権を大幅に制限され、人間が生きていくうえで不可欠な〈社会性〉を制度的に剥奪されている死刑囚が、その心の奥底にあるものを、文章や絵画を通して表現する機会をつくりたい――それが、この試みを始めた私たちの初心である。

死刑囚が選択する表現は、大きくふたつに分かれる。絵画と、俳句・短歌・詩・フィクション・ノンフィクション・エッセイなどの文章作品である。すぐれた文章作品は本にして刊行できる場合もあるが、絵画作品を一定の期間展示する機会は簡単にはつくれない。それでも、各地の人びとが手づくりの展示会を企画して、それぞれ少なくない反響を呼んできた。日本では、死刑制度の実態も死刑囚の存在も水面下に隠されており、いわんやそれらの人びとによる「表現」に市井の人が接する機会は、簡単には得られない。展示会に訪れる人はどこでも老若男女多様で、アンケート用紙には、その表現に接して感じた驚き・哀しみ・怖れ、罪と罰をめぐる思い、冤罪を訴える作品の迫力……などに関してさまざまな思いが書かれている。死刑制度の存否をめぐってなされる中央官庁の世論調査とは異なる位相で、人びとは落ち着いて、この制度とも死刑囚の表現とも向き合っていることが感じられる。

獄中で絵画を描くには、拘置所ごとに厳しい制限が課せられている。画材を自由に使えるわけではない。用紙の大きさと種類にも制約がある。表現展の試みがなされてきたこの10年間を通して見ると、応募者はこれらの限界をさまざまな工夫を施して突破してきた。コミュニケーションの手段を大きく奪われた獄中者の思いと、外部の私たちからの批評が、〈反発〉も含めて一定の相互作用を及ぼしてきたとの手応えも感じる。外部から運営・選考に当たったり、展示会に足を運んだりする人びとが、一方的な〈観察者〉なのではない。相互に変化する過程なのだ。社会の表層を流れる過剰な情報に私たちが否応なく翻弄されているいま、目に見えぬ地下で模索されている切実な表現に接する機会にしていただきたい。

(9月10日記)

付記:なお、記事では、12人の方々の絵が、残念ながらカラーではありませんが、紹介されています。

9年目を迎え、社会に徐々に浸透し始めている死刑囚の表現――第9回「大道寺幸子基金・死刑囚表現展」を終えて


『出版ニュース』2013年11月下旬号(2013年11月21日発行)掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が主催する「死刑囚表現展」は、10年の時限を設けて2005年に発足した。今年は、残すところあと1年となる、9回目を迎えた。文章部門には12人、絵画部門には13人からの応募があった。両部門に応募したのは3人であったから、22人が参加したことになる。死刑確定者と、審理のいずれかの段階で死刑の求刑か判決を受けて係争中の人を合わせると、この間は150人ほどである。応募できる人びとのうち15パーセント程度の人が参加していることになる。新顔の応募があったのはうれしいし、逆に、今年は作品が届かなかったなあと思う名前も、幾人か思い浮かぶ。ユニークな発想で、物語性のある絵柄に加えて、描き方をさまざまに工夫した作品を毎年送ってくれた松田康敏氏の絵が、今年はなかった。2-12年3月29日に小川敏夫法相の命で処刑されたのだ。このように9年目ともなると、作品を通して見知った名前の人たちが、その間に幾人も刑死するか獄中死している。彼らが遺した、脳裏に印象深く刻まれていた文章や、目に鮮やかだった絵が、あらためて蘇ってくる。「死刑囚表現展」とは、そんな緊張感に満ちた場で続けられてきている、ひとつの試みである。

では、今年度の作品から、注目した諸点に、まずは文章部門、次に絵画部門の順で触れてみよう。

昨年、現代的な感覚に満ちた言葉を駆使した短歌と俳句作品を応募してきたのは、音音(ねおん、筆名)氏であった。

キャーママとゲリラ豪雨にはしゃぐ声すぐそこ遥か結界の外

裁判へ出廷する度育ってた空木(スカイツリー)が今日開花

AKB聞いてるここは東拘B

昨年の選考委員会は、この人の言語感覚に沸いた。選考会(毎年9月、非公開で開催)の討議内容も、10月の死刑廃止集会で行なう公開の講評も、すべて文字に起こして応募者に差し入れしているから、音音氏にもその雰囲気が十分に伝わったのだろう。今年、氏は、傍目には思いがけない表現方法を見い出した。「(表現展)運営会のみなさんへ」と題した作品で、昨年の選考会における各選考委員の発言を引用しながら、そこへ自らが介入するのである。選考委員の言葉のひとつひとつに、「そうなんです」とか「こうなんです」と言って実作者が介入すると、まるでそこに対話が成立しているような感じが醸し出される。選考する側からすれば、自分の読み方の「浅さ」があぶり出されるような思いも、ないではない。不思議な雰囲気を湛えた作品で、好評を得た。見方を変えると、獄中の死刑囚が、いかに他者との対話を欲しているかをも示していて、切ない思いがする。

響野湾子(こと庄子幸一)氏は、「紫の息(一)」「紫の息(二)」と題して短歌を555首、「赤き器」と題して俳句を200句、応募してきた。例年通りの、旺盛な創作力である。今年も、自らが犯した行為をめぐる贖罪の歌が多い。贖罪に贖罪を重ねても、それが他者からは認められぬもどかしさ。その思いは反転し、仲間の刑死や、来るべき将来に自らが「吊るされる」情景を描写する歌が続き、読む側は息苦しい。そこへ稀に、いささかユーモラスな趣きを湛えた、自己批評的な歌が立ち現れる。

希望なき死刑囚の身に配らるる 食事アンケート真剣に悩めり

処刑死を思ひつつ食ふ夕食の 生きんが為の苦瓜の汁

次のような歌にも注目した。

刑場で殺されるなら放射能 浴びて廃炉の石になりたし

終息を聞かぬ原子炉我が手にて 一命賭けたし殺されるなら

歌の巧拙を問題とするなら、採るべき歌ではないかもしれない。だが、ここにもまた、社会との接点を激しく求める死刑囚の真情があふれ出ていると感受しないわけにはいかないのだ。

文章部門では、音音氏が「新波(ニューウェーヴ)賞」、響野湾子氏が「努力賞」と決まった。「新波賞」という命名は、音音氏の軽妙な言語感覚にせめても応答したい気持ちの表われなのだが、ご本人はどう思われるだろうか。

他の応募者の作品についても、ひとこと述べておきたい。檜あすなろ(筆名)氏の「自分史」は、肝心の「自分史」に関わる箇所は、これまでの同氏の作品がすべてそうであったように、まだ自分に正面から向き合えていないために読み手にははぐらかされた思いが残った。だが、獄中の死刑囚がおかれている状況を詳しく述べている箇所に注目した。秘匿されている現実が明らかにされない限り、死刑制度の本質を見極めることは難しいからだ。露雲宇留布(筆名)氏の「霊」は昨年同様の長編フィクションだが、書きためていた原稿なのか、昨年の選考委員の批評がまったく生かされていないことが残念だ。死んだ人間が誰かに乗り移るといったプロットだけが先行し、登場人物のひとりひとりが描けていない点がむなしい。氷室蓮司(筆名)氏の「沈黙と曙光の向こうがわ」は未完のまま提出されているので、完成時に触れたい。何力氏の「司法界の怪」は、自分の裁判の実態を通して日本の司法の在り方を問うのだが、表現方法にいま一つの工夫がほしいと思った。

最後に、短詩型で印象に残った作品をひとつづつ。

人間のいくさ始まる呱呱(ココ)の声(石川恵子)

人類がなかなか絶つことのできない「いくさ」の始まりを、「おぎゃあ」という誕生の声に求めた意外性が印象に残る。

大学を終えて娘は東京へ 女優目指して日々励みおり(西山省三)

この歌は、同じ作者による数年前の忘れがたい歌「16年ぶりに会う18の娘 何で殺したんと嗚咽する」に繋がる。作者と娘との交流は続いており、娘は自立した道をしっかりと歩み始めている様子がうかがわれて、どこか、ほっとするものを感じる。作者が死刑囚と知っていてはじめて生まれる思いなのだが、「死刑囚表現展」とは、このような感慨をもたらす場でもあるだろう。

秋風に背中おされて猛抗議(渕上幸春)

別句「鰯雲見ていただけで怒鳴られた」とともに、獄中処遇の厳しさを伝える。日本の行刑制度にあっては、教育刑か応報刑かの議論が依然として必要なのか。獄中で孤立無援の作者は、さわやかな「秋風」にも励ましを受けるのである。

わが罪を消せる手段(てだて)があるならば さがしに戻らん母のふところ(大橋健治)

悪人と呼ばれし我も人の子で 病いにかかり涙も流す(加賀山領治)

薫ちゃん母のもとえと抹殺死(林眞須美)

この方たちも、もっとたくさんの歌や句を詠み続けていただきたい。石川恵子さんの歌に「ひとたびは身辺整理なしたるに改めて買う原稿用紙」というのがあった。皆さんが、いちど手にした「表現」の場を失ってほしくない、放棄してほしくない、と切に思う。

次に、絵画部門へ移ろう。13人から合計39点の作品の応募があった。絵画は、直接的に観る者の目に飛び込んでくるだけに、それぞれの作者の個性が際立ってわかる。そのことは、風間博子さんと林眞須美さんのふたりのなかで、対照的に立ち現れてくる。あらかじめ言っておけば、私の考えでは、ふたりとも冤罪である。粗雑極まりない捜査と裁判の結果、彼女らは取り返しのつかない運命を強いられている。だから、ふたりはたたかう。どのようにして? 風間さんは、正攻法で冤罪を訴えることによって。「幽閉の森、脱出の扉」は、例年の作品と同じく、自らが閉じ込められている暗い閉鎖空間と、外部から差し込んでくる光とが描かれている。状況は厳しいが、ここから脱出できるという希望を捨ててはいないという強い意志が横溢している。いわば、直截的なメッセージ絵画と言えようか。したがって、観る者にとっても、作者の意図は伝わりやすい。

他方、林さんの作品は、私が共感した選考委員・北川フラム氏の表現を借りると、「他人に理解されたいとか、コミュニケーションの可能性をすべて断ち切っている」地点で成立している。画面の中央に描かれている黄色い月や花や赤曲線や四角形を取り囲むのは、常に、昏い黒と青の地色である。内部の明るい色を四方から包囲する地色は、地域で一風変わった生活を送っていたがゆえに事件発生後に自分を真犯人に仕立て上げていったメディア、警察、検察、裁判所、そして社会全体の象徴だろうか。内部に四つの明るい色があれば、それは来るべき将来に獄中から解放された母親の帰宅を待つ四人の子どもたちだろうか。傍目なりに勝手な想像を膨らませることはできるが、それが、作者が込めた深い暗喩にたどり着くことは難しいのかもしれない。しかし、林さんの作品は、観る者を捕えて、放さない。事実、各地の展示会場では彼女の作品をじっと凝視する人の姿が目立つ。メディアが作り上げた「真犯人」像と作品との間に横たわる、深い溝を覗き込むような思いからだろうか。だとすれば、彼女の作品は、その高度な抽象性において訴求力を持っているのだと言える。

8点を応募した宮前一明氏の作品が語りかけるところも多い。多様なテーマを多彩な方法で描き分ける作品自体が興味深いのは当然で、人目を惹いた。氏からは、9月の選考会議が終わった後で、作品と画材についての説明書が届いた。そこには、購入も差し入れもできない和紙(しかも、サイズが大きい)をいかにして入手したか、直径二・五ミリの極細筆ペンしか使えないのに、どんな描法を工夫して太い線を描いたかなどに関して、詳しく説明されていた。それを可能にした努力は尊いと思えるほどに、徹底したものであった。差し入れ物に関しては、もちろん、獄外の協力者の存在があり、両者のコミュニケーションの好ましいあり方が、作品の背後から浮かび上がってくるような感じがした。

藤井政安氏の「年越し菓子」の精緻な細工には頭を垂れる。北村孝紘氏の「トリックアート」をはじめとする6点も作品群もそれぞれ個性的で、才能の乱反射といった趣がある。金川一、高尾康司、高橋和利氏ら常連も、他の誰でもない己が道を歩んでいる。謝依悌氏の作品が例年の迫力を欠いたことはさびしかった。Ike(通称)、伊藤和史、何力氏らも、今後の展開を期待したい。檜あすなろ氏は、紙で作る小物入れの設計図を応募してきた。外部の協力者がそれを基に工作した。立体が登場したのだ。獄中者には何かと厳しく、理不尽な制限が課せられている中で、「表現」上の工夫は新たな一段階を画した。

以上を概観した結果、絵画部門の受賞者は、藤井政安氏に「優秀賞」、林眞須美さんに「独歩賞」、風間博子さんに「技能賞」、宮前一明氏の「オノマトペの詩」に「新波賞」――と決まった。

最後に、「死刑囚表現展」の9年目を迎えた今年は、画期的な動きがあったことを報告しておきたい。文章作品の過去の優秀作は、すでに3冊ほど単行本化されている。例年話題となる響野湾子氏の俳句と短歌も、最近出版されたばかりの『年報・死刑廃止2013』の「極限の表現 死刑囚が描く」(インパクト出版会、2013年)にかなりの数の作品が掲載された。他方、絵画作品に関しては、毎年一〇月東京で開かれる死刑廃止集会当日に会場ロビーに展示する以外では、いくつかの地域で小さな展示会が積み重ねられてきた。昨2012年9月、広島で開かれたのも、そのような小さな展示会の一つであった。そこへ、制度化された枠から外れた表現への関心が深い評論家・都築響一氏が訪れ、死刑囚の表現のすごさをインターネット上で発信した。氏のブログを読んでいる読者は全国各地に多数散在しており、次々と人が詰めかけた。その中に、広島県福山市鞆の浦にあるアール・ブリュット専門のミュージアム、鞆の津ミュージアムの学芸員・櫛野展正氏もいた。氏もまた、死刑囚の絵画表現に衝撃を受け、自分が働くミュージアムで絵画展を開きたいとの打診が私たちにあったのは昨秋のことである。年末には東京へ来られて8年間の全応募作品を見て、展覧会のイメージを固められたようだ。準備は着々と進み、4月20日には「極限芸術–死刑囚の絵画展」が開幕した。「表現展」8年間の応募作品およそ300点が展示された。私も開幕日を含めて二度足を運んだ。築150年の醤油蔵だった建物は、天井も高く、落ち着いた雰囲気をもっている。プロの学芸員の仕事だから、額装も照明も作品の配置も、十分に練り上げられている。壁に掛けない作品は、作者ごとにファイリングされていて、見やすい。

福山駅からバスで30分、瀬戸内海に向かって細長くのびる街を歩くと、あちこちに極限芸術展のチラシやポスターを見かける。スーパー、喫茶店、食堂、船着き場、郷土館――「異形な者」をあらかじめ排除する空気が、ない。それもあってだろうか、人びとは詰めかけた。新聞各紙、「FLASH」や「週刊実話」のような週刊誌、タレントや俳優も来て、出演しているテレビやラジオの番組で広報が行なわれた。複数の美術評論家による評も、新聞各紙や美術誌に掲載された。会期中には、都築響一、北川フラム、田口ランディ、茂木健一郎氏らによる講演会も開かれた。会期は2ヵ月の予定だったが、1ヵ月間延長され、7月20日に終わった。ほぼすべての都道府県から5122名の人びとが来場したという。終了後、鞆の津ミュージアムからは、媒体掲載記事一覧と入場者のアンケートが送られてきた。熱心に鑑賞した様子が伝わってくる。知られざる世界を知ることの重要性がひしひしと感じられる。

もうひとつ付け加えることがある。基金の名称となっている大道寺幸子さんの息子、大道寺将司氏は昨年『棺一基』と題した句集を刊行したが、それが2013年度、第6回目の「日本一行詩大賞」を受賞した。角川春樹氏の肝いりで始まった試みである。選者は、角川氏以外に、福島泰樹、辻原登、辻井喬の4氏である。過去の受賞者を見ても、俳句・短歌・詩の分野での重要な仕事が選ばれている。

「死刑囚表現展」を初めて9年目――事態は、ここまで「動いた」と、あえて言ってもよいだろう。政治・社会の表層を見れば、私たちが目標としてきた「死刑制度廃止」を近い将来に展望することは難しい。個人や集団に許されない殺人の権限を、従来の国家は、戦争と死刑という手段で独占してきた。戦争を未だ廃絶し得ない国家も、人権意識の発揚によって死刑は廃止する――それが全国家の3分の2を超える140ヵ国を占めるまでになった。人類史の、たゆみない歩みの成果である。現在の日本国家は、死刑を廃止するどころか、戦後は辛くも封印してきた「戦争によって他国の死者を招く」戦争行為まで可能な体制作りに邁進している。戦争と死刑を認めることは、「他者の死」を欲する/喜ぶ精神に繋がる。それがどれほどまでに社会の荒廃を招くか。その「手本」は太平洋の向こう側の大国にある。この趨勢を、社会の基層から変えるにはどうするのか。

私たち、「基金」運営会はまもなく、最終年度10年目の展望を討議しなければならない。

当初設定していた時限が来たからといって、止められるか。「11年目以降」を視野に入れなければならないのではないか――だとすれば、そのための条件づくりも含めて、討議はきびしいものになりそうだ。

太田昌国の夢は夜ふたたび開く[40]死刑囚の表現が社会にあふれ出て、表現者も社会も変わる


『反天皇制運動カーニバル』第5号(通巻348号、2013年8月6日発行)掲載

広島県福山市にあるアール・ブリュット専門の鞆の津ミュージアムで、去る4月から7月にかけての3ヵ月間にわたって、死刑囚が描いた絵画の展示会「極限芸術」が開催された。当初は2ヵ月間の予定だったが、好評であったために途中で会期が1ヵ月間延長された。総入場者数は5221人になった。ミュージアムのある鞆の浦は、北前船や朝鮮通信使の寄港地であったことでも名高く、歴史の逸話にあふれた町だが、福山駅からバスに乗って30分ほどかかる場所にある。今回の入場者には、町の外部から来た人が多かったようだが、その意味では、アクセスが容易だとは言えない。そのうえでの数字だから、いささかならず驚く。

展示された300点有余の作品を提供したのは、私も関わっている「死刑廃止のための大道寺幸子基金」死刑囚表現展運営会である。2005年に発足して以降、毎年「表現展」を実施してきたので、昨年までの8年間でそのくらいの絵画作品が応募されたのである(別途、詩・俳句・短歌・フィクション・ノンフィクションなどの文章作品の分野もある)。絵画作品全点の展示会は初めての試みだったが、これは当該ミュージアムのイニシアティブによるものである。会期中に、都築響一、北川フラム、茂木健一郎、田口ランディ各氏の講演会も開かれた。特に都築氏は精力的なネットユーザーで、発信力が高い。その伝播力は大きかったと推測される。

メディアの敏感な反応が目立った。「死刑囚の絵画」という、いわば「閉ざされた空間」への関心からか、テレビ・ラジオ・週刊誌などで芸能人や評論家が観に行ったと語り、やがて複数の美術批評家も「作品の衝撃性」を一般紙に書いた。私は2回訪れたが、今回の展示会を通して考えたことは、次のことである。

一、言わずもがなのことではあるが、「表現」の重要性を再確認した。死刑囚は、いわば、表現を奪われた存在である。社会的に、そして制度的に。その「表現」が社会化される(=社会との接点を持つ)と、これほどまでの反響が起こる。国家によって秘密のベールに覆われている死刑制度が孕む諸問題が、どんな契機によってでも明らかにされること。それが大事である。1997年に処刑された「連続射殺犯」永山則夫氏は、自らの再生のために「表現」に拘った人だが、氏の遺言を生かすためのコンサートは、今年10回目を迎えた。死刑制度廃止を掲げているEUは東京事務所で氏の遺品の展示会を開いて、日本の死刑制度の実態を周知させようとしている。俳句を詠み始めて17年ほどになる確定死刑囚・大道寺将司氏は昨年出版した句集『棺一基』(太田出版)で、今年の「日本一行詩大賞」を受賞することが、去る7月31日に決まった。どの例をみても、死刑囚自らが、自分の行為をふり返った、あるいは己が行為から離れた想像力の世界を「表現」したからこそ持ち得た社会との繋がりである。それによって死刑囚も変わるが、社会も変わるのである。

二、死刑囚の絵画を「作品」として尊重するミュージアム学芸員の仕事であったからこそ、今回の展示会は「成功」した。額装、展示方法、ライティング、築150年の伝統ある蔵を改造したミュージアムそのもののたたずまい――すべてが、それを示していた。

三、「地方」と言われる場合の多い「地域」社会のあり方について。死刑囚の絵画とは、一般社会からすれば、「異形」の存在である。鞆の浦の船着き場、歴史記念館などの公共施設にも、スーパー、喫茶店などの民間店舗にも、この展示会のポスターやチラシが貼られたり、置かれたりしていた。それは、この町の人びとの「懐の深さ」を思わせるに十分であった。特異な地勢の町だが、行きずりの旅行者の観察でしかないとはいえ、寂れているという感じはなかった。私は今年、山陽と道東の市町村をいくつか歩いたが、新自由主義的改革によって地域社会の疲弊が極限にまで行き着いている現実を見るにつけても、その中にあってなお活気を保っている町の例があるとすれば、その違いはどこからくるのだろうという課題として考えたいと思った。

(8月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[22]『方丈記』からベン・シャーンまで――この時代を生き抜く力の支え


反天皇制運動連絡会「モンスター」24号(2012年1月10日発行)掲載

3・11以後、鴨長明や、その小さな作品が触れた事態からほぼ8世紀の時間を超えた東京大空襲を重ね合せて書かれた堀田善衛の作品を読み耽ったと吐露する文章をいくつか見かけた。私も、あの3・11の衝撃的な津波映像をテレビで見たその夜、少しでもこころを落ち着かせたいと思って手を伸ばしたのは、『方丈記』と『方丈記私記』であった。それまでにいく度か読んできたはずのふたつの作品から、今までに感じたことのない感興を私はおぼえた。声高に言うことではないかもしれないが、文学の力とはこういうものか、と心に沁みた。

それは、直接的な被害者ではないことからくる、いくらかなりとも余裕のある、感傷的な態度であったかもしれない。だが翌日からは、もちろん、福島原発をめぐる深刻な事故状況が、東電と政府による恥じを知らない隠蔽工作を見透かすように、明らかになり始めていた。私の場合、『方丈記』は、安吾の『堕落論』にとって代わった。そして、つまらぬ歌手やスポーツ選手が現われて「日本は強い」とか「日本はひとつのチームなんです」とか声を張り上げるにつれて、今度は石川淳の『マルスの歌』に手が伸びるのであった。高見順の小説のタイトルそのままに「いやな感じ」を、そんな言葉が横行する時代風潮に見てとって。

人によっては、もちろん、別な文学作品を、あるいは音楽を、あるいは映画や芝居を、はたまた美術作品を挙げるであろう、3・11以後のこの10ヵ月間を生きるために、何を読み、何を聴き、何を観てきたか、と問われたならば。

事が自然災害と原発事故なる人災の結果にどう対応するかという緊急の課題である以上は、まずは社会や政治の局面で考え/行動すべき事態であることは自明のことだ――「個」から出発しながらも集団的な形で。同時に視野をいくらかでも拡大するならば、それが、私たちが築いてきた/依存してきた文明の根源に関わる問題でもあると気づけば、人は自らの存在そのものの根っこまで降りていこうとするほかはない。ふだんは「無用な」文化・芸術が、そのとき、集団から離れて「個」に立ち戻ったひとりひとりの人間に、かけがえのない価値を指し示す場合がある。示唆を与える場合がある。多くの人は、そのことを無意識の裡にも感じとって、たとえば『方丈記』に手に伸ばしたのではなかったか。

私は、昨年90歳を迎えた画家・富山妙子が、それまで百号のキャンバスに描いていたアフガニスタンに関わる作品を3・11以後はいったん中断し、津波と原発事故をテーマにした三部作を描く姿を身近に見ていたこともあって、この期間を生き延びるにあたって絵画に「頼る」ことが、ふだんに比べると多かった。戦後にあって、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任などを主要なテーマに作品を描き続けてきた富山は、私が知り合って以降の、この20年間ほどの時代幅でふり返ると、より広い文明論的な視野をもって、物語性のあるシリーズものの作品を創造してきた。年齢を重ねるにしたがって一気に色彩的な豊かさを増した作品群は、確かな歴史観に裏づけられて描かれていることによって、リアリティと同時に物語として神話的な広がりをもつという、不思議な雰囲気を湛えるようになった。今回完成した三部作「海からの黙示―津波」「フクシマ―春、セシウム137」「日本―原発」は、今春以降の列島各地を駆けめぐることになるだろう(因みに、彼女の作品シリーズは、http://imaginationwithoutborders.northwestern.edu/で見ることができる。米国ノースウエスタン大学のウェブサイトである)。

年末から年始にかけては、映画『ブリューゲルの動く絵』(レフ・マイェフスキ監督、ポーランド+スウェーデン、2011年)と展覧会「ベン・シャーン展」(神奈川県立近代美術館 葉山。以後、名古屋・岡山・福島を巡回)に深く心を動かされた。時代に相渉り、それと格闘する芸術家の姿が、そこには立ち上っているからである。シャーンには、第五福竜丸事件に触発された連作がある。久保山愛吉さんを描いた「ラッキー・ドラゴン」と題された作品の前に立つとき、そして福竜が「ラッキー・ドラゴン」なら福島は「ラッキー・アイランド」だと書かれたカタログ内の文章を読むとき、私はあらためて、今回の事態にまで至る過程を、内省的に捉え返すよう促されていることを自覚する。(1月6日記)