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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[58]〈野蛮な〉斬首による死と〈文明的な〉無人機爆撃による死


『反天皇制運動カーニバル』23号(通巻366号、2015年2月10日発行)掲載

前号では、フランスの風刺漫画新聞社襲撃事件に触れて、人類史には時に、「狂気」を孕む熱狂に支配されてしまう時期が訪れることがあることを語った。この衝撃的な事件から二週間も経たないうちに、イスラーム国による日本人人質殺害予告がインターネット上で行なわれ、その後の事態は、誰もが知るような経過をたどって現在に至っている。「2015年1月」を、私たちは、いくつもの「狂気」によって織りなされた月として、永く記憶するだろう。

同時に、「狂気」は彼岸にのみあるのではない、という単純な事実を何度でも確認したい。今回の場合で言えば、在日のイスラーム信徒やヨルダンなどアラブ諸国のイスラーム世界の人びとが、大要「ほんとうのイスラームは、こんなものではない。真逆だ」と語る姿がよく報道された。それ自体は、必要な情報ではあった。だが、まだ、足りない。イスラーム国が、世界から貼り付けられた「悪のレッテル」を逆手にとって、自爆テロ・公開処刑・斬首などを行なっている〈残虐ぶり〉に目を覆うなら、同じ比重で、それと因果の関係にある米国主導の「反テロ戦争」を想起しなければならない。ブッシュ政権下のネオコンが実践した「衝撃と畏怖」作戦が、世界をどこまで壊し、人心をどれほど荒廃させたかを思い起こすことなく、現在の事態を捉えることはできない。〈野蛮な〉斬首による死と、〈文明的な〉無人機爆撃による死との間に、垣根を設けてはならない。

私は、今回の事態の渦中に、映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』(フローリアン・ガレンベルガー監督、独中仏合作、2009年)を観たこともあって、この作品に描かれていることをすべて史実として捉える立場には立たないにしても、あの戦争の過程で発揮された日本兵の〈残虐ぶり〉をあらためて思わないではいられなかった。〈残虐さ〉は、特定の国家や民族に根差して現われるものではなく、ある時期の政治的為政者とその時代に支配的な社会的雰囲気によっては、どの国家においても、どの民族においても、立ち現れてしまう〈狂気〉の一発現形態なのだという思いを深くした。

イスラーム国が、捕虜・人質の生死を自在に操って恐怖を振りまいているとの評言も目立つが、戦争を戦っているどの国家・どの民族といえども、〈敵〉を欺くために謀略をめぐらせ情報戦も仕掛けて騙まし討ちし、これに恐怖を与える作戦をことさらに展開し、国内の民衆の口も残忍な手口で封じこめるものだ――という一例を、哀しいかな、ふたたび目撃しつつある、と私なら考えるだろう。

総じて、「テロ」と「戦争」には因果の相関関係があり、〈残虐性〉を特定の民族・国家に固有な属性としてはならないとするこの考え方は、冷静な分析と議論を欠く状況下では、「テロリストに加担するのか」という反応を招きやすい。たとえば、この国の首相A・Sは、人質が存在している只中に行なわれた自らの中東訪問とそこでの演説内容の妥当性を国会での質疑で問われて、「イスラーム国を批判してはならないのか。それはまさにテロに屈することになる」と気色ばんで答えている。そして今回の事態を奇貨に、武官と日本人施設の警備員増員、在外邦人救出のための自衛隊の駆けつけ警護と武器使用の可能性にすぐさま言及するような発言を行なっている。平和のために「積極的に」努力するのではなく、「戦時」を想定すると勢いづく彼の本性が、隠しようもなく現われている。だが、その言動のすべてを「軍事」一色で塗りこめてしまうわけにもいかない。その点で、イスラーム政治思想史研究者・池内恵が『「イスラーム国」は日本の支援が「非軍事的」であることを明確に認識している』と題する2月3日付けの文章は示唆的だった(池内恵サイト「中東・イスラーム学の風姿花伝」)。私は、池内が、首相の今回の中東歴訪が従来の対中東政策の変更をもたらしたものではないと断言したり、「イスラエル訪問がテロをもたらした」とする考え方は無自覚的な「村八分」感覚で、反ユダヤ主義だと言ったりする(1月20日付け同サイト)のは、大いなる錯誤だと思う。何を意図しての「政治的なふるまい」なのか、と疑念も抱く。「反テロ戦争」以降の「国策」に無批判などころか、これを無限肯定する姿勢も、従来から批判してきた。だが、このすぐれている(と私が思う)専門研究者が、ファクト(事実)に即して行なう分析のすべてに目を塞ぐわけにもいかない。そこに、私たちの論議の弱点が浮かび上がることもある、と大急ぎで言っておきたい。(2月7日記)