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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[102]東アジアにおける変革の動きと、停滞を続ける歴史認識


『反天皇制運動 Alert』第29号(通巻411号、2018年11月6日発行)掲載

『JSA』と題された韓国映画が日本で公開されたのは2001年だった(パク・チャヌク監督、イ・ビョンホン、ソン・ガンホ主演。製作は前年の2000年)。板門店の「共同警備区域」(Joint Security Area)で朝鮮人民軍の兵士が韓国軍兵士に射殺される事件を起点に、「許されざる」友情を育む南北の兵士たちの姿を描いた力作だった。見直さないと詳論はできないが、朝鮮国の兵士を独裁者の傀儡としてではなく「人格をもつ」人間として描いたことから、映画は退役軍人を主とする韓国保守層から厳しい批判を受ける一方、若年層が朝鮮への親近感を深めるきっかけとなったという挿話が印象的だった。

そのJSAの非武装化が、去る10月25日までに実現した。すべての武器と弾薬の撤収が完了したことを、南北の軍事当局と国連軍司令部が共同検証した。今後は、南北それぞれ35人ほどの人員が武器を持たずに警備に当たるという。これらはすべて、去る9月19日に当事者間で締結された「軍事分野合意書」に基づく措置だが、この全文は一読に値する。

→https://www.thekoreanpolitics.com/news/articleView.html?idxno=2683

4月27日の板門店宣言以降の5月間のうちに、軍事上の実務当事者同士が重ねた討議の質的な内容と速度とに驚くからである。それは、「無為に過ぎた」と敢えて言うべき以下の期間と対照させた時にはっきりする。JSAが設けられたのは、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定によってだから、そこから数えると65年が経っている。朝鮮人民軍の兵士が米軍将校2人を殺害した1976年8月の事件以降、それまで非武装だった警備兵士たちが武装するようになった時から数えると、42年ぶりの非武装化ということになる。最後に、映画『JSA』の製作年度との関連で言うなら、四半世紀有余を経て進行している事態である。いずれにせよ、人類が刻む歴史では無念にも、これだけの時間を費やさなければ根源的な変化は起こらない。それを繰り返して現在があるのだが、いったん事態が動き始めた時の速度には目を見張るものがある。11月1日からは、陸・海・空の敵対行為も停止された。今後も困難を克服して、東アジア地域の平和安定化のための努力が実りをもたらすことを願う。

こう語る私の居心地の悪さは、どこから来るのか? 翻って私の住まう日本社会は、この平和安定化にいかに寄与しているかという問いに向き合わねばならず、現状では官民双方のレベルで、肯定的な答え方ができないからである。これまでも何度も指摘してきたが、2018年度になって和平に向かって急速に流動化している朝鮮半島情勢に関して、日本政府や(時に)マスメディアが、この動きに警戒心を示し、ひどい時にはこれを妨害するかのごとき言動を行なってきていることは、誰の目にも明らかであろう。軍事力整備の強大化、自衛隊および在日米軍の基地新設・強化を推進している日本政府の政策路線からすれば、東アジア世界で進行する平和安定化傾向は「不都合な真実」に他ならないからである。

そこへ、新たな難題が生まれた。韓国最高裁が、1939年国家総動員法に基づく国民徴用令によって日本の工場に動員され働かせられた韓国人の元徴用工4人が新日鉄住金を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、同社に賠償命令を下したからである。西欧起源の「国際法」なるものは西洋が実践した植民地主義を肯定する性格を持つとの捉え返しが世界的に行われている現状を理解しているはずもない日本国首相が「判決は国際法に照らして、あり得ない」と言えば、メディアとそこに登場する「識者」の多くも「国と国との約束である請求権協定を覆すなら」国家間関係の前提が壊れると悲鳴を上げている。敗戦後の日本社会が、東アジアに対する加害の事実に正面から向き合い、まっとうな謝罪・賠償・補償を行なってきたならば、そうも言えよう。現実には、加害の事実を「低く」見積り、あわよくばそれを否定しようとする勢力が官民を牛耳ってきた。その象徴というべき人物が首相の座に6年間も就いたままなのである。植民地支配をめぐる歴史認識の変化を主体的に受け止めるための努力を止めるわけにはいかない。

(11月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[98]「貧しい」現実を「豊かに」解き放つ想像力


『反天皇制運動Alert』第25号(通巻407号、2018年7月10日発行)掲載

10や50や100のように「数」として区切りのよい周年期を祝ったり、内省的に追憶したり、それに過剰に意味付与したりするのはおかしいと常々思ってはいる。だが、ロシア革命百年(1917~)、米騒動・シベリア干渉戦争百年(1918~)、三・一独立運動/五・四運動百年(1919~)、関東大震災・朝鮮人虐殺百年(1923~)という具合に、近代日本の歩みを顧みるうえで忘れ難い百周年期が打ち続くここ数年には、その歴史的な出来事自体はもとよりこれに続いた歴史過程の検証という視点に立つと、深く刺激される。百歳を超えて存命されている方を周辺にも見聞きするとき、ああこの歳月を生きてこられたのだ、と思いはさらに深まる。

厄介な「米国問題」を抱えて苦悶する近現代の世界を思えば、五年後の2023年は、米国は身勝手なふるまいをするぞと高らかに宣言したに等しいモンロー教義から二百周年期にも当たることが想起される。それに、現在のトランプ大統領の勝手気ままなふるまいを重ね合わせると、他地域への軍事侵攻と戦争に明け暮れている米国二百年史が重層的に見えてきて、嘆息するしかない(いまのところ、唯一、トランプ氏の対朝鮮外交だけは、伝統的な米外交政策顧問団が不在のままに大統領単独で突っ走ったことが、局面打開の上で有効であったと私は肯定的に判断しているが、この先たどるべき道は、なお遠い。紆余曲折はあろうとも、よい形で、朝鮮半島南北間の、そして朝米間の、相互友好関係が築かれることを熱望してはいるが……)。

さて足下に戻る。冒頭に記した百周年期を迎える一連の出来事を見ても一目瞭然、問題は、百年前の当時、日本が東アジアの周辺地域といかなる関係を築いていたのかとふり返ることこそが、私たちの視点である。先ごろ実現した南北首脳会談と朝米首脳会談に対して、日本の政府、マスメディア、そして「世論」なるものが示した反応を見ても、この社会は総体として、朝鮮に対する植民地主義的態度を維持し続けていることがわかる。民族的な和解に向けた着実な歩みを理解しようとせずに、そこには「ぼくがいない」(=拉致問題に触れていない)などと駄々をこねているからである。この腹立たしい現実を思うと、改めて、「日韓併合」から10年ほどを経た1920年前後の史実に、百年後の今いかに向き合うかが重要な課題としてせりあがってくる。

その意味で注目に値するのが、公開が始まったばかりの瀬々敬久監督の映画『菊とギロチン』である(2018年)。関東大震災前後に実在した、アナキスト系青年たちの拠点=ギロチン社に集う面々を描いた作品である。ギロチン社の実態をご存知の方は、そんなことに何の意味があろうと訝しく思われよう。大言壮語を駆使して資本家から「略奪」した資金を酒と「女郎屋」で使い果たしたり、震災後の大杉栄虐殺に怒り「テロ」を企てるも悉く惨めな失敗に終わったりと、ギロチン社に関しては情けなくも頼りない史実が目立つばかりである。映画はそこへ、当時盛んであった女相撲の興行という要素を絡ませた。姉の死後、姉の夫だった男の「後妻」に、こころ通わぬままになったが、夫の暴力に耐えかねて貧しい農村を出奔した花菊(木竜麻生)にまつわる物語は、当時の農村社会の縮図といえよう。元「遊女」の十勝川(韓英恵)は朝鮮出身の力士と設定されているが、彼女が経験してきたことがさまざまな形で挿入されることで、物語は一気に歴史的な現実に裏づけられた深みと広がりをもつものとなった。過去の、実態としては「貧しい」物語が、フィクションを導入することによって、現在の観客にも訴えかける、中身の濃い「豊かな」物語へと転成を遂げたのである。大言壮語型の典型と言うべき中濵鐵(東出昌大)も、思索家で、現金奪取のために銀行員を襲撃したときに心ならずも相手を殺害してしまったことに苦しむ古田大次郎(寛一郎)も、この物語の中では、いささか頼りないには違いないが、悩み苦しみつつ、「自由な世界」を求める人間として、生き生きとしてくる。大震災の直後の朝鮮人虐殺にまつわる挿話は、十勝川も、威張りちらす在郷軍人も、今は貧しい土地にへばりついて働いているが、自警団としての耐え難い経験を心底に秘めた元シベリア出兵兵士も、それぞれの場から語って、映画の骨格をなした。

現実は、ご存知のように、耐え難い。想像力が解き放つ映像空間を楽しみたい。

(7月6日記)

【追記】『菊とギロチン』の公式サイトは以下です。

http://kiku-guillo.com/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[97]米朝首脳会談を陰で支える文在寅韓国大統領


『反天皇制運動 Alert』第24号(通巻406号、2018年6月5日発行)掲載

引き続き朝鮮半島情勢について考えたい。東アジア世界に生きる私たちにとって、情勢が日々変化していることが実感されるからである。しかも、差し当たっては政府レベルでの動きに注目が集まるこの事態の中に、日本政府の主体的な姿はない。見えるとしても、激変する状況への妨害者として、はっきり言えば、和解と和平の困難な道を歩もうとする者たちを押し止めようとする役割を自ら進んで果たす姿ばかりである。その意味での無念な思いも込めて、注目すべき状況が朝鮮半島では続いている。

政治家は押し並べて気まぐれだが、その点では群を抜く米朝ふたりの政治指導者の逐一の言葉に翻弄されていては、問題の本質には行きつかない。そこで、今回のこの情勢の変化を生み出した当事者のひとりで、米朝のふたりとは逆の意味で頭ひとつ抜けていると思われる政治家、文在寅韓国大統領の言葉の検討から始めたい。

17年5月に就任したばかりの文大統領は、直後の5月18日に、記憶に残る演説を行なっている。光州民主化運動37周年記念式典において、である。文大統領は、朴正煕暗殺の「危機」を粛軍クーデタで乗り越えようとした軍部が全土に非常戒厳令を布告し、ひときわ抵抗運動が激しかった光州市を戒厳軍が制圧する過程で起こった80年5月の事態を「不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した現代史の悲劇だった」として、自らの問題として国家の責任を問うた。18年3月1日の「第99周年3.1節記念式」では、日本帝国主義支配下で起きた独立運動の意義を強調し、この運動によってこそ「王政と植民地を超え、私たちの先祖が民主共和国に進むことができた」と述べた。最後には、独島(竹島)と慰安婦問題に触れて、日本は「帝国主義的侵略への反省を拒んでいる」が、「加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない。不幸な歴史ほどその歴史を記憶し、その歴史から学ぶことだけが真の解決だ」と語った。私たちは、韓国憲法が前文で、同国が「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」に立脚したものと規定している事実を想起すべきだろう。来年はこの3・1運動から百年目を迎える。改めて私たちの歴史認識が、避けがたくも問われるのである。

文大統領は18年4月3日の「済州島4・3犠牲者追念日」でも追念の辞を述べた。日本帝国主義軍を武装解除した米軍政は、1948年に南側の単独選挙を画策したが、これに反対し武装蜂起した人びとに対する弾圧が、その後の7年間で3万人もの死者を生んだ悲劇を思い起こす行事である。今年は70周年の節目でもあった。文氏はここで、70年前の犠牲者遺族と弾圧側の警友会の和解の意義を強調しつつ、「これからの韓国は、正義にかなった保守と、正義にかなった進歩が『正義』で競争する国、公正な保守と公正な進歩が『公正』で評価される時代」になるべきだと語っている。

どの演説にあっても貫かれているのは、国家の責任で引き起こされた過去の悲劇をも、後世に生きる自らの責任で引き受ける姿勢である。私は、文氏が行なっている内政の在り方を詳らかには知らない。韓国内に生きるひとりの人間を想定するなら、氏の政策にも批判すべき点は多々あるのだろう。だが、今や世界中を探しても容易には見つからない、しかるべき識見と歴史的展望を備えた政治家だ、とは思う。米クリントン政権時代の労働省長官だったロバート・ライシ氏は、文氏が「才能、知性、謙虚さ、進歩性」において類を見ない人物であり、「偏執症的なふたりの指導者、トランプと金正恩がやり合っている脆弱な時期に」文在寅大統領が介在していることの重要性を指摘している(「ハンギョレ新聞」18年5月27日)。13年来の「新年辞」で南北対話と緊張緩和を呼びかけてきた金正恩氏にとっても、またとない相手と相まみえている思いだろう。

来るべき米朝会談のふたりの主役は、その内政および外交政策に批判すべき点の多い人物同士ではあるが、会談の行方をじっくりと見守りたい。この重要な政治過程にまったく関わり合いがもてない政治家に牛耳られているこの国の在り方を振り返りながら。

(6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[96]板門店宣言を読み、改めて思うこと


『反天皇制運動 Alert』第23号(2018年5月8日発行)掲載

去る4月27日の朝鮮半島南北首脳会談に際して発表された板門店宣言の内容を知って、「日本人拉致問題への言及がない」という感想を漏らしたのは、拉致被害者家族会の会長だった。置かれている立場は気の毒としか言いようがないが、見当外れも甚だしいこのような見解が紙面に載るというのも、2002年9月の日朝首脳会談以降16年の長きにわたって日本政府が採用してきた過てる対朝鮮政策の直接的な結果だろう。自ら問題解決のために動くことなく、他国の政府に下駄を預けるという方針を貫いてきたからである。多くのメディアもまた、その政府の方針に無批判で、日本ナショナリズムに純化した報道に専念している。長い年月、分断され非和解的な敵対関係にあった南北朝鮮の2人の指導者が「民族的な和解」のために会談を行なう時に、なぜ「日本人」に関わる案件が宣言文に盛られるほどの重要度をもち得ると錯覚できるのであろうか。藁にも縋りたい家族会の人びとをこのような迷妄的な境地に導き入れてきた政府とメディアの責任は大きい。

金正恩朝鮮労働党委員長は「いつでも日本と対話する用意がある」と文在寅韓国大統領に伝えたという。日本政府は絶好の機会を捉えてすぐ応答することもせずに、首相が中東地域歴訪に出かけるという頓珍漢な動きをした。あまつさえ、去る1月に対朝鮮国断交を行なったヨルダン政府の方針を高く「評価」した。事ほど左様に、およそ確たる外交方針を持たない日本政府ではあるが、日朝間にも何らかの交渉の動きが近いうちに始まるのではあろう。会談の結果明らかになる拉致問題に関わる内容如何では、両国間にはさらなる緊張状態が高まるかもしれず、今の段階から、その時代風潮に対処するための準備が必要だろう。

私は16年前の日朝首脳会談直後から、あるべき対朝鮮政策の在り方を具体的に述べてきているので、ここでは違う角度から触れてみたい。対朝鮮問題に関しては一家言を有する元国会議員・石井一氏が「約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ」とする発言を行なっている(『月刊日本』2018年5月号)。氏は日朝議員連盟会長を務め、1990年の金丸訪朝団の事務総長の任にも当たり、先遣隊の団長でもあった。自民党、(まだ存在していた)社会党、朝鮮労働党の3党合意が成ったこの会談に関する氏の証言は重要だろう。朝鮮ではまだ金日成が存命中だった。金丸・金日成の2者会談を軸にしながら、「国交正常化」「植民地時代の補償」「南北分断後45年間についての補償」の3点の合意が成った。だが、日本国内にあっては、金丸氏に対して「売国奴」「北朝鮮のスパイ」との非難が殺到した。国外にあっては、日本の「抜け駆け」を警戒する米国からの圧力があった。自民党の「実力者」金丸氏にして、自主外交を貫くまでの力はなかった。かくして1990年の日朝3党合意は、日本側の理由で破棄されたも同然、と石井氏は言う。

2002年の日朝首脳会談も「平壌宣言」の合意にまでは至った。拉致問題に関わって明らかになった事実が、被害者家族にとってどれほど悲痛で受け入れがたいものであったとしても、また社会全体が激高したとしても、この事実を認め、「拉致問題は決着した」との前提で、宣言はまとめられた。家族会の怒りに「無責任に」同伴するだけの世論と、それを煽るメディアを前に、訪朝と国交正常化までは決断していた小泉氏も屈した。日本の独自外交を嫌う米国からの圧力が、ここでも、あった。平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を推進しなかったのは、小泉氏を首班とする日本側だった――石井氏の結論である。世上言われている捉え方とは真逆である。

石井氏は2014年に「横田めぐみさんはとっくに亡くなっている」と公言して、家族会の反発を喰らっている。「被害者全員を生きて、奪い返す」とする安倍路線が破綻していることは、石井氏にも私にも明らかなのだが、今後の事態がいざそれを証明するように展開した場合に、日本社会の「責め」は改めて朝鮮国に集中するだろう。拉致問題をナショナリズムの高揚と自らの政権基盤の維持に利用しただけの政権をこそ批判しなければならない。この雰囲気が醸成された2002年以降の過程で、民衆に対する国家的統制を強化し、戦争に備える悪法がどれほど成立したかを冷静に見つめなければならない。

(5月5日記。200年前、カール・マルクスが生まれたこの日に)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[84] 韓国大統領選挙を背景にした東アジアの情勢について


『反天皇制運動 Alert 』第11号(通巻393号、2017年5月9日発行)掲載

選挙は水物だ。下手に結果を予測しても、それが覆される可能性は常にある。しかし、現在の韓国大統領選挙の状況を複数のメディア報道を通してみる限り、「共に民主党」の文在寅の優位は動かないように思える。対立候補から「親北左派」とレッテル貼りされている文在寅が大統領になれば、現在の東アジアの政治状況は「劇的に」とまでは言わないが、ゆっくりとした変化を遂げていく可能性がある。朝鮮をめぐる日米中露首脳の言動が相次いで行なわれているいま、その文脈の中に「可能性としての文在寅大統領」の位置を定めてみる作業には、(慎重にも付言するなら、万一それが実現しなかった場合にも、東アジアの政治状況に関わる思考訓練として)何かしらの意味があるだろう。

文在寅は、廬武鉉大統領の側近として太陽政策を推進した経験をもつ。具体化したのは金剛山観光、開城工業団地、京義線と東海線の鉄道・道路連結、離散家族再会などの事業であった。それは、「無謀極まりない北」への融和策として、対立者からの厳しい批判にさらされてきた。あらためて大統領候補として名乗りを上げた文在寅は、ヨリ「現実的」になって、韓国軍の軍事力の強化を図ること、つまり、朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からの一定の離脱志向を伴っているということである。1950年代の朝鮮戦争以来、韓国軍の指揮は在韓米軍が掌握してきた。平時の指揮権こそ1994年に韓国政府に委譲されたものの、2012年に予定されていた有事の指揮権移譲は何度も延期されたまま、現在に至っている。

文在寅は、大統領に就任したならば早急に有事指揮権の韓国政府への委譲を実現すると表明した。それは対米交渉を伴うだろうが、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプには、世界のどこにあっても米国が軍事的・政治的・経済的に君臨し続けることへの執着がない。韓国の軍事力の強化を代償として、在韓米軍の撤収への道が開かれる可能性が生まれる。それは、朝鮮国指導部が要求していることと重なってくる。

朝鮮国・韓国の両国間では激烈な言葉が飛び交っている。とりわけ、朝鮮国からは、あの強固な独裁体制下での下部の人びとの「忠誠心競争」の表われであろう、ヨリ激しい言葉を競い合うような表現が繰り出されている。それでも、底流では、戦火勃発に至らせないための、「国家の面子」を賭けた駆け引きが行なわれていると見るべきだろう。

朝鮮半島をめぐって同時的に進行しているいくつかの事態も整理してみよう。4月27日に行なわれたプーチン+安倍晋三会談において、前者は「少しでも早く6者協議を再開させることだ」と強調した。後者は記者会見で「さらなる挑発行為を自制するよう(北に)働きかけていくことで一致した」ことに重点をおいて、語った。

4月29日、朝鮮は弾道ミサイルの発射実験を行なったが、失敗したと伝えられた。ロンドンにいた安倍首相は「対話のための対話は何の解決にもつながらない」、「挑発行動を繰り返し、非核化に向けた真摯な意思や具体的な行動を全く示していない現状に鑑みれば、(6者協議を)直ちに再開できる状況にない」と断言した。

4月30日、トランプは「若くして父親を亡くし権力を引き継いだ金正恩委員長は、かなりタフな相手とやり取りしながら、やってのけた。頭の切れる人物に違いない」と語った。翌5月1日にも「適切な条件の下でなら、金委員長に会う。名誉なことだ」とまで言った。

さて、5月3日付けの「夕刊フジ」ゴールデンウィーク特別号に載った首相インタビュー記事での発言は次のようなものだ。「トランプの北朝鮮への覚悟は本物か」と問われて「間違いない。すべての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ大統領の姿勢を高く評価する」。「軍事的対応もテーブルの上にあるか」との問いには「まさにすべての選択肢がテーブルの上にある。高度な警戒・監視行動を維持する」と答えている。その「成果」が、ミサイル発射時の東京メトロの一時運行停止や、内閣官房ポータルサイトに「核爆発時の対応の仕方」を注意事項として掲げることなのだろう。

これ以上わたしの言葉を詳しく重ねる必要はないだろう。当事国も超大国も、駆け引きはあっても、朝鮮半島の和平に向けて「暴発」や「偶発的衝突」を回避するための姿勢を一定は示している。その中にあって、平和に向けての姿勢をいっさい示さず、むしろ緊張を煽りたてているのは、2020年の改憲を公言した日本国首相ひとりである。 (5月5日記)

太田昌国の みたび 夢は夜ひらく[77]独裁者の「孤独」/「制裁」論議の虚しさ


『反天皇制運動 Alert』第4号(通巻386号、2016年10月4日発行)掲載

『将軍様、あなたのために映画を撮ります』という映画を観た。原題は ”The Lovers and the Despot” (恋人たちと独裁者)。監督は、イギリス人のロス・アダムとロバート・カンナンで、2016年制作。出演は崔銀姫、申相玉、金正日その他。この映画のことを知らぬ人は、出演者の名に驚かれよう。金正日は、まぎれもなく、2011年に死去した朝鮮労働党総書記・国防委員長、その人である。記録映像による動画や「主人公」三人の3ショット写真も挿入されているが、彼の場合は、監督によって録音されていた音声「出演」を通して語られる内容こそが面白い。

ことの顛末を簡潔に記す。崔銀姫と申相玉はそれぞれ、1970年代韓国の著名な映画女優であり、監督であった。かつては夫婦であったが、わけあってすでに離婚していた。朴正煕の軍事政権下、映画造りにはさまざまな制約が課せられ、自由も仕事もない。1978年、まず崔銀姫が、仕事を求めて出かけた香港で行方不明になる。事態を知った申相玉も事実の究明のためにそこを訪れるが、彼もまたさらわれる。種を明かせば、二人は、映画好きで、『映画芸術論』と題した著書もある金正日の指令で、低水準の北朝鮮映画界のテコ入れのために映画造りに専念させるべく、拉致されたのである。金正日自身が、録音されていた申相玉との対話の中で語っているのだから、その通りなのだろう。因みに、拉致されてピョンヤンの外港に着いた崔銀姫は或る男の出迎えを受けた。男は言った。「ようこそ、よくいらっしゃいました。崔先生、わたしが金正日です」( 同映画および崔銀姫/申相玉『闇からの谺』上下、文春文庫、1989年)。

二人が北朝鮮で映画制作に携わったのは三年だったが、「厚遇」を受けて17本もの作品を生み出した。女優は悲しみに暮れながらも「協力」させられ、モスクワ映画祭で主演女優賞を得た作品もあった。他方、監督は、金正日から与えられた豊富な資金と「自由な」撮影環境を存分に「享受」して、映画制作に熱中した。最後には二人して脱出に成功するのだが、映画も本も、そのすべての過程を明かしていて興味深い。

独裁者・金正日は孤独である。自分が「泣き真似すると、そこにいる人たち全員が泣く。それを見て哀しくなって、わざと泣いてみたりした」と監督に語ったりする。その近現代史において幾多の独裁者を生んだラテンアメリカ各国では、優れた文学者がそれらをモデルとして描いた「独裁者小説」ともいうべきジャンルが生み出された。現実の独裁制下で生きざるを得ない人びとにはたまったものではないが、文学の力は、凶暴な権力者にだけ留まることのない「人間」としての独裁者を造型して、問題の在り処を深めた。すなわち、例えば、人びとがもつ権力への恐怖と畏怖ばかりか、独裁者の思いを忖度して競って泣くような、「馴致」された人びとの精神状況をも描き出してしまったのである。それを哀しむ金正日の言葉が挿入されていることで、この映画を単に「反金正日」キャンペーンのために利用しようとする者は裏切られよう。もっと深く、ヨリ深く、問題の根源へと向かうのだ――という呼び掛けとして、私はこの映画を理解した。

この映画が公開されているいま、世の中には(日本でも、世界中でも)、対北朝鮮「制裁」強化の声が溢れかえっている。北朝鮮が第五回目の核実験を実施したばかりだからである。

独裁者は、映画の世界に浸って生きることができれば幸せだったかもしれない男の三男に代わっている。現在の独裁者は、その視野がヨリ狭いような印象を受ける。軍事的誇示によってではなく、「ここで跳ぶのだ、世界に向かって」と虚しい声掛けをしたくなる。

他方、「制裁」を呼号する者たち(国連、各国首脳)の呼ばわりも虚しい。君たちの怠慢が、東アジアに平和な状況を創り出す強固な意志の欠如が、この事態を引き出したのだ。とりわけ、日本政府の責任は重い。安倍晋三が2002年小泉首相訪朝に同行して対北朝鮮外交の先頭に立って以来、(病気や下野の期間も挟むが)14年の歳月が過ぎた。これだけの年数を費やしながら、拉致問題解決のメドも立たず、北朝鮮の軍事的冒険を阻止することもできなかった。北朝鮮の核実験は、すなわち、安倍外交が失敗したことを意味する、との批判的な分析こそが必要なのだ。 (10月1日記)

『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話』(2014年10月19日、成蹊大学)における発言


以下は、2014年10月19日、東京の成蹊大学で開かれた同大アジア太平洋研究センター主催の『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話●ラウィ・ハージ/モナ・プリンス/サミュエル・シモン氏を迎えて』において、コメンテーターを務めた私が行なった発言の大要である。

司会は、同センターの田浪亜央江さん、アラブ世界からの3人の話を享けてコメントしたのは、アラブ文学研究者の山本薫さん、作家の小野正嗣さん、それに私であった。ここに紹介できるのは、もちろん、私の発言部分のみである。

■太田:太田です。よろしくお願いします。冒頭に田浪さんが今日の集まりの由来を話されて、韓国の仁川で2010年からアジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議が開かれていたということを聞いて、なつかしい思いに浸りました。実は僕は1980年頃、当時日本に日本・アジア・アメリカ作家会議というのがあってですね、それを運営している作家や評論家と知り合ったんですが、いっしょにやらないかと言われたんです。作家というのは狭義の小説家という意味ではなくて、文化活動家であったり、表現に関わっている者の総称だから太田でも大丈夫だからということで、日本・アジア・アメリカ作家会議をしばらく一緒にやりました。東京でも川崎でも国際会議を開きましたし、旧ソ連の中央アジアの民族共和国の首都のフルンゼ[現ビシュケク]とかタシュケントの国際会議にも行きました。僕が出た最後は86年、チュニジアのチュニス、PLOがベイルートを追われてチュニスに本部が置かれた頃の会議だと思います。回を重ねたこのような折りにアラブ・パレスチナの外交団とも、[マフムード・]ダルウィーシュ含めてお会いしているんですね。そんな記憶が甦ったり。そこで感じたことは後で触れます。

韓国といえば、日本での会議のときは、韓国の人では白楽晴(ペクナクチョン)などを招いたような気がするんですけれども、国際会議でお会いしたことはなくて、むしろ朝鮮民主主義人民共和国の作家代表団と会いましたね。チュニスで会ったときには世界文学のあれも読めない、これも読めない、ってタイトルをいろいろ挙げられて(笑)。僕もなんとかしてあげたいけれども、しかしなあ…、と問答に詰まったことを思い起こします。80年から86年というのは、韓国はまだ軍事政権下ですから、なかなか表現について厳しい時代であった。ただ、僕はもう当時出版に関わっていたので、僕が出す第三世界の思想・文学の本なんかは、しょっちゅう韓国に行く在日朝鮮人の文学者に渡して「創作と批評」社に届けてもらった。そうすると間もなく、『創作と批評』なり、それから『第三世界思想』という雑誌なども軍事政権下で出ていたと思いますが、そこに解放の神学についての文章が載ったりとか、アパルトヘイトについての文章が載ったりしまして。僕らが送っている本がそれなりに生かされているなあと感じて、それはそれで嬉しく思ったということがありました。

それはともかく、今日の3人の方のお話を聞いて考えたことをお話したいと思います。僕自身は約30年間、現代企画室という小さな出版社で哲学、思想、文学、芸術、さまざまな人文書の企画・編集をやってきたんですけれども、そこで思想的な基軸としてこだわってきたのは、我々が生きている日本社会にどういう問題があるかということを考えたときに、それはやはり日本民族中心主義というぬぐいがたい思想傾向だと思うんです。これは明治国家がヨーロッパを先進国のモデルとして富国強兵政策を取り始めたときに定められて、その後なかなか、敗戦後70年経とうとしているいまもぬぐいきれない、重大な一つの傾向だと思うんです。その傾向がここ数年間、極右政権の成立とともに社会全体に浸透して、とんでもない状況になっているというのは、皆さんご存知のとおりです。

このような日本民族を中心に据えてしか思想や文学のことを語り得ないこの社会の中にあって、いったいどういうふうにこれを打破していくのか。それはもちろん一つとは限らない、さまざまな方法があると思うんですが、やはりその一つの有効な方法は、他民族、異民族の歴史や文化に対するさまざまな窓口をどのように開いておくか。それが人々の心の中に、時間をかけてですが訴えかけていく、その可能性にかけるしかないだろうというふうに思ったんです。ヨーロッパであれば、ヨーロッパ中心主義に対して批判提起をしている哲学思想が軸でしょうし、あるいは、ヨーロッパを模倣して日本が近代化を遂げて、アジアで唯一の植民地帝国になったということは、いわゆる第三世界に対する偏見とか、そうしたものがこの社会の中に根付いているということになる。だから第三世界の文化、思想、文学、そうしたものに対する窓口をどの程度作ることができるのか。それが中心的な課題でした。

僕自身は、まあ今も関心が続いているんですが、わりあい集中的にラテンアメリカのことを学んできたこともあったので、出版に関わることになったときに、まずラテンアメリカの文学・思想をどのように紹介するのかということを一つの課題にしました。最初に言いましたように今の出版活動に30年くらい関わってきたと思いますが、僕らのような小さな出版社でも狭い意味でのラテンアメリカ文学はもう50冊くらい出してきたと思うんですね。文学以外も含めると100冊くらいでしょうか。まあもちろん日本には新潮社とか集英社とか岩波書店とか、僕のところとは比べものにならない大出版社がありまして、それはそれぞれラテンアメリカ文学に力を入れてきている時期がありましたが、全部合わせるとおそらく200冊とか…。あんまり並べて数えたことはありませんけれども、全部の出版社を合わせると現代文学の紹介はそれぐらい進んでいるという状況だと思うんです。

それだけ皆さんもお読みになった方も多いだろうし、今年亡くなったガルシア=マルケスを筆頭として、1920年代や30年代に生まれて、今70代になり、80代になっている現代作家たちが非常に旺盛な創造性を発揮して次から次へと問題作を発表してきた。そういうことになる。どうしてそれが可能になったのかということも少し多面的に考えなければならないんですが、今日は話の進行上、一つの理由だけに触れたいと思うんですね。それは1959年のキューバ革命の勝利ということがラテンアメリカの現代作家に与えた決定的な影響力だったと思うんです。キューバ革命はもう半世紀以上経って、50年以上の歴史を刻んだので、その後さまざまな矛盾や問題を抱えています。それは僕のように、政治的にはキューバ革命への共感から青春時代が始まった人間においても、今考えると…。最初期の10年くらいは、やっぱり光り輝いているんですよ、それは僕が若かったということもあるかもしれないけれども。しかし10年経ち、20年経ち、30年経ち、ましてや半世紀経つと、キューバ革命がどれほど深刻な問題を抱えていたかというのは、僕なりに見えてきているわけです。

今日はこの問題ではなくて、例えば最初の5年間、10年間、そのときラテンアメリカの作家たちにとって、あるいはラテンアメリカの一般の民衆にとってキューバ革命がどれほど希望の星であったのかという、その影響力を考えなければならないと思うんですね。やっぱりラテンアメリカという地域は、それまではスペインに、あるいはポルトガルに征服されて成り立ってきて、19世紀の前半、大半はなんとか独立を遂げるわけですけれども、その後は、今度は北アメリカという同じ大陸に存在する超大国が政治的、文化的、経済的、そして20世紀に入ってからは軍事的に浸透し、支配して、完全にその支配の下に置かれるわけです。キューバもそうでした。19世紀末、フィリピンと共に何とかスペインから独立する直前まで行きながら、その独立闘争に荷担して軍事的な策略を講じたアメリカ帝国によって独立がかなわず、ほぼ半植民地下に置かれてしまう。そういう半世紀以上をすごしたキューバが、1959年にキューバ革命を成就し、社会主義革命であると名乗った。そしてそれまでの独裁政権とは違う国家予算の使い方をするわけですから、教育とか医療とか福祉とか、そうしたものが第三世界の貧しい国としては飛躍的に向上するわけです。イデオロギー的にもなかなかユニークな、当時のソ連の社会主義が持っていた重苦しさ、抑圧感、それとは違う新しい価値観を切り拓こうとしているかに見えた。

それまでのラテンアメリカの作家たちはみんな国境の、それぞれの国の中に閉ざされていた。意識としても。作品を互いに知り合うことはなかったし、単行本として作品が刊行されても、それが他の国に流通するというシステムを持たなかった。キューバ革命は、その勝利した土地に、カサ・デ・ラス・アメリカス、「アメリカの家」という文化団体を作ります。アラブの世界ではどうかわかりませんが、日本ではアメリカというとUSAをしか指さない場合があるんですが、ラテンアメリカの人にとってはアメリカというのはあの大陸全土を指す、そういう名称として使われているので、「アメリカの家」という文化機関を作ったんです。

ここでサミュエル・シモンさんの『Banipal』とつながる話になっていくのですけれど、「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関で、大陸の文化活動に関わる人々の様々な表現がそこに集まってシンポジウムが行われたり、個展が行われたり。雑誌が出て、その雑誌でいろんな文学者の作品が紹介されるようになった。あそこはスペイン語圏が一番多いけれども、ポルトガル語があり、フランス語があり、オランダ語があり、英語があり、たくさんのヨーロッパ植民地帝国の痕跡が残っているから、言語が多様なわけですね。そしてもちろん、無文字社会の先住民言語がある。そのような作品が雑誌や単行本のかたちでどんどんキューバで刊行されることになっていきます。それで文学賞や、映画祭も開かれるようになって、ハバナやサンティアゴ・デ・クーバにどんどん作家たちや文化活動家が集まってくるわけです。毎年一回、いろんな機会に。そこでお互いの顔を知るようになり、どんな作品を作っているかということをお互いが知るようになった。だから一つの地域の中で、国境の垣根を取っ払って、精神的にも開かれた作家たちが交流し合うと、それはもちろん大きな刺激になるわけです。コロンビアのガルシア=マルケスはこんな作品を書いていた、バルガス・リョサはこんな作品をと。それぞれが本当に知り合う。しかも、少なくとも1960年代というのは、まだまだキューバ革命への共感が一体化していた時代だったので、そこで一気に文学が活発化していく。もちろん映画も活発化しますし、さまざまな表現活動が花咲いていくわけです。

もちろんキューバには表現弾圧という時代がありました。別の立場から見ればそんな活況を呈しているところばかり見ても…、という批判も当然ありうるかもしれませんけれども、当時の状況の大きな流れとしては、そういうふうに説明してもいいだろうと思います。

僕は今回の機会を田浪さんからいただいたときに、『Banipal』という雑誌をインターネットサイトで検索してみました。こういう定期的な刊行物を出して、世界に開かれていく機会を提供することがどんなに重要になるかということを、僕がラテンアメリカの文化状況を見ながらずっと思っていたものですから、この『Banipal』は今までもそうであったろうし、これからもアラブ文学が世界に紹介されていく上で、ひじょうに大きな意味を持つものではないだろうかと、たいへん共感を持ちながらインターネットサイトを見ておりました。今日実際にその話を伺って、ひじょうに嬉しいと思います。

次にモナ・プリンスさんのお話ですが、先程僕は、旧ソ連やチュニスで、あるいは日本で、当時のアジア・アフリカ作家会議の国際会議に何度か出たというふうに言いました。アラブ・パレスチナ代表団にお会いしましたら、記憶がかなり薄れているところがあるけれども、ほとんどの代表団のメンバーは男性であったのです。まあ、80年代当時です。今日、モナ・プリンスさんのお話が僕にとって大事だったのは、女性の作家としての立場、今のエジプト文学の中で、あるいはアラブ圏の文学の中で、そのような立場をご自分がはっきりと立ててものを言われている。部分的に知った作品の中でもはっきりとそのような問題提起をされているということが、僕にとっては一つの大きな意味を持ちました。ごらんの通り僕は男ですが(笑)、大きく言えば人類史がここまで混迷してだめになっているのは、男性原理の価値観を貫いて国家が運営され、社会が展開してきたからだというふうに思っているんです、実は。(笑)

笑われてしまいましたけど、アラブ社会の方々は特に困難な時期を生きておられると思いますが、現在世界がここまで、戦乱が絶えず起きて、人類が戦争というものと今に至るも切ることのできない、そういう事態をもたらしているのは、やはり男性原理的な価値観。国家の支配層はもちろんそうだけれども、社会の一般に生きる民衆の中にまでそういう価値観が浸透してこれを覆すことができないからだと。断固としてそういうふうに、この立場でものを考えるようにしているので、今日のモナ・プリンスさんのお話はそういう意味でひじょうに勇気を得られ、ありがたく感じました(笑)。

■モナ:ありがとう。(笑)

■太田:そしてラウィ・ハージさん。『デニーロ・ゲーム』(白水社)を読みました。…なんというか、本当に悲痛な物語で、このような作品を読むと言葉を失うんですけれども、この作品にも描かれているし、今日ラウィ・ハージさんご自身が言われたように、ベイルートからパリへの移動、それからニューヨークへの移動、そしてカナダで最終的に居住権を取られる。そういう移動につぐ移動の人生を送られてきているわけですよね。僕のような日本に定住している人間がこういうことを客観的に言うのはちょっと奇異なのかもしれませんけれども、現代世界にとって移動というのは避けられないものになってきていると、客観的には見えます。それは一つには、ネオリベラリズムが経済的にここまで世界を制覇した時代になってきて、そのネオリベラリズムの力によって、たとえば第三世界の農業はほとんど崩壊するわけです。農民はいままで農地であった田舎を捨てて、自分の国の首都に出なければいけない。その首都でもあぶれると、今度はメトロポリスの、日本のような社会の大都市に出てそこでなんとか生きていかなければならない。そういう労働力の国際移動というのは当たり前のようになった。それはもちろんたくさんの悲劇をもたらす。背景にあるさまざまな問題というのは悲劇を否応なく持つんですけれども、しかしネオリベラリズムの力が、グローバリゼーションの力がここまで強く世界を制覇している以上、ある意味で避けがたい状況になってしまっている。

ラウィ・ハージさんのように自分の生まれ育った国が絶えず戦火に明け暮れていて、なかなかそこでの静かな生活が望めない、そこで移動していくという、それにももちろん背景にひじょうな悲劇や苦労が伴っているわけですけれども。しかしそれを…、ごめんなさい、これは客観的な言い方で申し訳ないんですが、そういう人生を強いられる中で、それを梃子にしながら生み出されている、必然的な表現のように思います。ですから移住とか移動というのは、確かに資本の強制力が働いてはいるんですけれども、現代社会がこのような展開を遂げている以上、それから簡単に脱することはできないかもしれない。そうすると、移住や移動を梃子にして、なんらかの別な、自分が生まれ育った国では実現できなかったことを、庶民は庶民なりに、表現者は表現者なりに、その新しい生を切り拓いていかなければならない。そういう時代が来ているんだろうというふうに思います。

そういう移動は悲劇も伴うけれど、平和的な移動である。軍人や宣教師や貿易商人がむりやり他の国を侵していって、軍事的、宗教的に無茶なことをやる、貿易商人が恥知らずな商売をしてしまう、そういうあり方がこれまでは移動の中心であった。最終的に移動した先で権力をとって世界を支配していく力になっていった。しかし普通の旅人の移動というのは、そこを支配する意図を持たないわけです。その移動を梃子にして、なんらかの新しい生を新しい土地で切り拓こうとするわけですから、やはり現代の移動というのはそういう意味で一つの希望の根拠なのです。そういうふうに僕は考えているので、これはラウィ・ハージさんの、ある意味で強いられた生に対する、ちょっと勝手な意味付与かもしれませんが、僕自身としてはそのような感じで捉えております。

以上です。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[56]朝鮮通信使を縁にして集う人びと


『反天皇制運動カーニバル』大21号(通巻364号、2014年12月9日発行)掲載

雨森芳洲の『交隣提醒』(平凡社・東洋文庫)を読んでいたせいもあって、今年こそは、例年11月に埼玉県川越市で開かれる「多文化共生・国際交流パレード/川越唐人揃い」へ行ってみたかった。由来をたどると、江戸時代の川越氷川祭礼では、朝鮮通信使の仮装行列が「唐人揃い」と呼ばれて、大人気の練り物だったという。「唐」は「中国」を指す呼称ではなく、外国を意味する言葉として使われていたようだ。

秀吉による朝鮮侵略(いわゆる文禄・慶長の役 1592~98年)の後、徳川家康と朝鮮王国との間で「戦後処理」が成り、1607年から1811年まで12回にわたって、友好親善の証しとして朝鮮通信使が招かれた。「通信」とは「よしみ(信)を通わす」の意である。雨森芳洲がいた対馬藩は対朝鮮外交の任に当たっていたから、多くの場合4、500人から成る通信使一行はまず対馬に立ち寄り、そこから瀬戸内海を抜けて大阪までは海路を行く。そこから江戸までは陸路だが、護行する者や荷物を運ぶ者を加えると4千人以上の大移動になったというから、旅の途上で宿泊することになったそれぞれの土地に住まう町衆の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。江戸にも店を持つ川越の一豪商が、或る日、日本橋を通った通信使一行の華やかな行列に目を奪われ、郷里の町民にもその感動を伝えたいと考えて、地元の祭りの機会に乗じた仮装行列を思いついたそうだ。通信使が川越を通ったことは一度もないというのに、金持ちの道楽がその後の民際交流の素地をこの土地につくり出したのだから、おもしろいものだ。

川越では、2005年の「日韓友情年」を契機に、この江戸時代の「唐人揃い」を「多文化共生・国際交流パレード」として復活させ、今年は10回目を迎えた。パレードの前日には、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会 川越大会」も開かれた。通信使ゆかりの16自治体と41の民間団体は1995年に「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を発足させ、毎年持ち回りで全国交流会を続けている。それが今年は川越で開かれたのだが、関東地域では初めての開催だったそうだ。

私は、対馬を初めとして主として九州・四国・中国・関西地域はもとより、韓国からの参加者の話を聞きながら、民際交流のひとつの具体的な成果を実感した。地域に住む人びとのなかに、このような催し物の積み重ねを通して浸透してゆく、開かれた国際感覚を感じ取った。対馬では、韓国人が盗んで持ち帰った仏像が返却されない問題で、名物行事の通信使行列が中止になったり、「何が通信使か」という誹謗中傷が島外から浴びせかけられたりする事態が起こっているが、それでも韓国の友好団体との交流は続けるべきだと語る「朝鮮通信使縁地連絡協議会理事長」松原一征氏の言葉(10月8日付け毎日新聞)を読んで、雨森芳洲の精神が対馬には生き続けていると思った。氏は、福岡と対馬を結ぶフェリーを運航している海運会社の経営者だという。

集いを司会したのは地元・川越の女性だったが、次のように語った――「外国」のものを楽しげに受け入れる、江戸以来の伝統が川越の町には根づき、1923年の関東大震災の時にも、朝鮮人虐殺が行なわれた他の関東各地と違って、川越にいた朝鮮人18人と中国人2人は町民と警察に保護されて無事だった、と。翌日のパレードには20以上の団体が、さまざまな衣装・言語・歌・踊り・パフォーマンスで参加し、その多様性は十分に楽しめるものだった。

思うに、映画・演劇・音楽・美術などの文化分野では、国境を超えた共同作業がごく自然なこととして行われて始めて、久しい。朝鮮通信使を媒介にした日韓および日本国内の草の根の交流も、その確かなひとつだろう。

中央の極右政権が行っている排外主義的ナショナリズムに純化した外交路線を批判しつつ、それと対極にある各地の理論と行動に注目したい。もちろん、自分自身がその実践者でもあり続けたい。(12月6日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[47]「真実究明・赦し・和解」の範例を遠くに見ながら


『反天皇制運動カーニバル』12号(通巻355号、2014年3月11日発行)掲載

状況分析のために必要性を感じて、昨年12月上旬の特定秘密保護法案成立以後、14年3月上旬の現在にまで至る3ヵ月間の「東アジア日録」を整理してみた。東アジア諸国の多国間関係に深い影響を及ぼす事項に限定した。日付を入れて1行40字でまとめていくと、たちまちのうちに70行を超えた。もっと丁寧に拾うと、100行なぞ優に超えてしまいそうな勢いを感じた。上に述べた限定的な観点で事項を絞り込んでも、ほぼ連日のように、どこかで何事かが起きていることを、それは意味している。別に生業をもつ、市井の個人が整理するには、その能力を超えた情報量である。その意味では、そんな個人でもある程度まではまとめることができるという点で、パソコンの威力を想った。

日本で目立つのは、戦後最大の岐路というべき時期を自らが思うがままに突き進む現首相A・Sの言動、加えてその取り巻きの補佐官や議員と閣僚、さらにはNHK新会長+経営委員らのふるまいである。靖国神社参拝、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能にするための策動、旧日本軍「慰安婦」や南京虐殺をめぐって歴史を捏造する発言、学習指導要領解説書での「領土教育」の強化指針、巷にあふれ出るヘイトスピーチ――どれを取ってみても、すべてが周辺諸国民衆と為政者の神経を逆なでせずにはおかない方向性をもっている。それに反応するかのようにして、韓国・朝鮮・中国での動きが伝わってくる。私の考えからすれば、後者の言動のなかにも政府レベルであれ民衆レベルであれ、日本で噴出する醜悪なナショナリズムに対してその水準で対抗しようとするものも散見されないことはない。特に政府レベルでは、日本の場合と同じように、自らが生み出している国内矛盾から民衆の目を背けさせるために「外なる敵=日本」の存在を大いに利用している権力者の貌が見え隠れしている場合がある。それは、私の心を打たない。だが、まず変革されるべきは、日本の現為政者にみなぎる植民地支配と侵略を肯定する歴史観であり、同時にそれを陰に陽に肯定する社会全般の雰囲気であるという私の捉え方からすれば、他国のナショナリズムが「第一の敵」として登場することはあり得ない。言葉を換えるなら、国家間の歴史問題に関して、加害国側がその自覚を持たないふるまいを続ける、否むしろ現在の日本のように居直り、過去を肯定する態度を続ける限りにおいて、被害国側にそれを超える論理と倫理を求めることはできないというのが、「国家」に拘りそれを単位として行なわれている国際政治の変わることのない現実だ。ふたたび、別な観点から言うなら、だからこそ、A・Sを首班とする日本の「極右政権」はその政策路線を追求するうえで、緊張に満ちた現在の東アジア情勢(=国家間関係)から十分すぎる恩恵を受けているのである。どの国の民衆であれ、自国と隣国の国家指導者たちが興じる、この「ゲーム」の本質を見抜く賢さを獲得しなければならない。

主題は変わるが『現代思想』(青土社)三月臨時増刊号が総特集「ネルソン・マンデラ」を編んでいる。私も寄稿しているのだが、それを書き、そして出来上がったもので他者の論考を読んで、いちばん心に響くのは、アパルトヘイト(人種隔離体制)の廃絶後のマンデラ政権下で追求されている「真実究明・赦し・和解」への道を模索する姿勢である。「人道への犯罪」と呼ばれたアパルトヘイト体制の推進者――政治家、経営者、警察官、軍人、言論人、市井の人のどれであっても――の罪を告発し追及するのではなく、加害者が「真実」を告白し、被害者に「赦し」を乞い、それが受け入れられ、もって「和解」へと至るという、困難な道を彼の地の人びとは選んだのである。アパルトヘイト体制が内包していた、悪意に満ちた人種差別の本質を思うだに、それは渦中の人びとに(とりわけ被害者に)とって矛盾も葛藤もはなはだしい過程だったに違いない。だが、社会が「復讐」と「報復」の血の海に沈むことがないように、南アフリカの人びとはその道を選んだ。この範例の横に、加害者側からの「真実究明」がなされていない、否、それどころではない、「真実」を捻じ曲げ、隠蔽する動きが公然化している東アジアの実例をおいてみる。身が竦む。

(3月8日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[45] 対立を煽る外交と、「インド太平洋友好協力条約」構想


『反天皇制運動カーニバル』10号(通巻353号、2014年1月14日発行)掲載

首相の靖国神社参拝に「失望した」との考えを表明した在日米国大使館に対して、「米国は何様のつもりだ」という抗議のメールが多数寄せられているというラジオ・ニュースを年明けになってから耳にした。いわゆる振り込め詐欺をテーマに『俺俺』という秀作を書いた作家の星野智幸は、2、30年ぶりに旧友たちと会うと、声、性格、たたずまいなどにおいてお互い「変わらないなあ」という過去との繋がりが見えてくるのに、話題が韓国や中国のことに及ぶと一変し、相手国へのあからさまな嫌悪と侮蔑の感情を示しては国防の重要性を説く人が少なからずいることに打ちのめされた、と書いた(2013年12月25日付朝日新聞)。昔は政治に何の関心も示さず、ナショナリスト的な傾向の片鱗すら持たなかった人に限って、と。

私は昨年の当欄で、日本の現状を指して『「外圧」に抗することの「快感」を生き始めている社会』と書いたが、上の二つのエピソードは、確かに、そんな「気分」がすっかり社会に浸透してしまったことを示しているようだ。この「気分」の頂点にいるのは、もちろん、現首相であり、政権党幹部たちである。靖国参拝を行なって内外からの厳しい批判にさらされている当人は、年明けのテレビ番組で「誰かが批判するから(参拝を)しないということ自体が間違っている」と語っている。かつてなら(第一次内閣の時には)、安倍自身が、「大東亜戦争の真実や戦没者の顕彰」を活動方針に掲げる「日本会議」(1997年設立)や、靖国神社内遊就館内に事務所を置き、天皇や三権(国会、内閣、裁判所)の長の靖国参拝を求めている「英霊にこたえる会」の主張するところにぴったりと寄り添ってふるまうことは避けていた。本音では同じ考えを持つ者同士だが、7年前の安倍には、首相としての立場を表向きだけにせよ弁えるふるまいが、ないではなかったのである。それが、極右派からすれば、安倍に対する不満の根拠であった。

政権党幹事長・石破茂の暴走も停まらない。昨年は、「自衛隊が国防軍になって出動命令に従わない隊員が出た場合には最高刑は死刑」とか「単なる絶叫戦術はテロ行為と変わらない」という本音を言ってしまった。年明けには「(集団的自衛権の行使容認に向けた)解釈改憲は絶対にやる」と公言している(私はテレビ・ニュースを見ないので、事実の抽出は、新聞各紙の記事に基づいて行なっている)。安倍と石破のこの間の言動は、この社会における「民意」の動向を踏まえたうえで行なわれていると思える。

経済的な不安定感、震災や原発事故に伴う喪失感、文明論的にも先行きの見えない不安感――国内で、私たちを取り囲む諸問題はこんなにも深刻だが、このとき「日本人」であることに安心立命の根拠を求めるナショナリズムが、こうしてひたひたと押し寄せている。

昨年12月、東京で開かれた日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議において、中国による防空識別圏の設定に的を絞って「中国包囲網」を形成しようとする日本政府の動きがあった。メディア報道もそれを主眼においてなされた。それは、社会の現状に添った偏狭なナショナリズムに制約された視点であって、重要な点は別にあった。

インドネシアのユドヨノ大統領は、国家間紛争に武力を行使ないことを約束する「インド太平洋友好協力条約」の締結を呼びかけた。どの国にせよ駆け引きと術策に長けた国家指導者の言動をそのまま信じる者ではないが、共同声明には日本が主張した「安全保障上の脅威」や「防空識別圏」の文言は入らず、日本は「孤立」したのである。海洋への中国の軍事的進出にASEAN諸国にも警戒心があるのは事実だが、それを利用して中国と後者の緊張を煽る日本政府の目論みは失敗した。領土・領海問題や地域的覇権をめぐって対立や抗争もあった(あり続けている)東南アジアから、現在の日本政府の方向性と対極的な、平和へのイニシアティブが取られつつあることに注目したい。そこには、世界で唯一冷戦構造が継続しているような東アジア世界への「苛立ち」、とりわけ加害国でありながら、その反省もないままに「ナショナリズム」に凝り固まって、排外主義的傾向を強める日本社会全体への不審感が込められていると捉えるべきであろう。(1月11日記)