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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「鼓直さん お別れの会」におけるスピーチ


【まえがき――去る2019年9月14日(土)午後、東京「アルカディア市ケ谷 私学会館」で、先だって亡くなられたラテンアメリカ文学者・鼓直さんとの「お別れの会」が開かれました。現代企画室では、「ラテンアメリカ文学選集」(全15巻。1990~96年刊行)の企画でお世話になり、ご自分でも、バルガス=リョサ『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』、ガルシア=マルケス『ジャーナリズム作品集』、ビオイ=カサレス『脱獄計画』(後2冊は共訳)の翻訳を担当されました。その後、私たちが女性作家の作品の紹介に力を入れていた時期には、読み終えられた女性作家の原書をダンボール箱に詰めて送ってくださったこともありました。お別れの会では、私が最後のスピーチを行ないました。事前に3分間の制限を受けていたので、長い講演の時には用意しない原稿を予め書きました。その通りに話したわけではありませんが、用意した原稿を紹介しておきます。】

私が数年間に及んだラテンアメリカ放浪の旅を終えて帰国し、現代企画室に関わったのは1980年代半ばでした。旅で蓄積したものを、次第に書物の形にして刊行し始めておりましたが、その過程で、『百年の孤独』のすぐれた翻訳者として、読者の立場から遠く仰ぎ見るばかりであった鼓直さんにお会いする機会がありました。5、6年にわたる私たちの仕事をご存じだったのでしょう、「ラテンアメリカ文学を少しまとめて出版しませんか」との言葉をかけてくださいました。1989年のことでした。

70年代後半から80年代半ばにかけて国書刊行会から「ラテンアメリカ文学叢書」全15巻が、また80年代前半には集英社から全18巻の「ラテンアメリカの文学」が刊行されていた段階です。新潮社もガルシア・マルケスの作品を次々と出版しておりましたし、果たして私たちの小さな出版社がさらに参入する余地があるだろうかという疑問が、正直なところ、私にはありました。でも、鼓さんは木村栄一さんを相談相手にしながら10冊以上の候補作品リストを作られ、それに私たちからの推薦作品も加えて、15冊のラインアップが完成したのです。マルケス、リョサ、フエンテス、パス、プイグ、コルタサル、ドノソらの常連も名を連ねたうえで、アルゲダスの『深い川』、アベル・ポッセの『楽園の犬』、ドルフマンの『マヌエル・センデロの最後の歌』を加えることができたこと、さらにそれまで紹介されることがなかった女性作家の作品を、まだわずか2作品でしたが紹介できたことは、私たちの小さな誇りでした。それは、ルイサ・バレンスエラの『武器の交換』、マルタ・トラーバの『陽かがよう迷宮』です。

鼓さんと長い時間を共に過ごしたのは、つまりお酒を飲んだのは、ほんの数回です。どの場面もお店のたたずまいも含めて思い起こすことが出来ますが、一番強烈だったのは、初回でした。鼓さん行きつけのバー「ペーパームーン」、確か新宿の大ガードを外側へ超えたあたりにあったのですが、ビリヤード付きの広いバーで、飲み疲れると玉突きをやって遊び、また飲む、鼓さんは時々バーのカウンターの内側に入り込んでバーテンダーの真似事をする――そうこうしているうちに、夜は明け、お互い始発電車で帰る破目になりました。いつも、楽しいお酒でしたね。

私の若い友人に、時々新宿のゴールデン街で飲んでいる人がいます。ここ数年来でしょうか、同じ店で鼓さんにお会いして話しをした、とよく言っていました。複数回聞きましたから、お気に入りのお店があったのですね。友人は、いつか鼓さんと私の公開対談を企画したかったようなのですが、鼓さんの急逝でそれは実現できなくなって残念だ、と先日会ったときに言っておりました。

スペイン語文化圏に関わる私たちの仕事も、文学に限定しなければ今では150冊以上を数えるに至っています。それぞれに深い思い出がありながら、やはり、ラテンアメリカ文学紹介のパイオニアとしての鼓直さんのお仕事は際立っています。個人的にはこの間、若かった時とも異なる観点でロルカを読んでいるのですが、鼓さんは今はなき福武文庫でロルカの『ニューヨークの詩人』を翻訳されておられます。1929年大恐慌時のニューヨーク、ウォール街の繁栄と荒廃を見届けたロルカがこの詩集で見せる貌つきは、彼の他の詩集におけるそれとはずいぶん違います。他の方の訳業もありますが、われらが鼓さんがこの仕事も遺してくださって本当によかった。しみじみ、そう思います。

すぐれた先達を失った私たちの「孤独」は、このあと「百年」続くのでしょうか。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[105]反グローバリズムとベネズエラの現在の事態


『反天皇制運動 Alert』第33号(通巻415号、2019年3月5日発行)掲載

2001年9月11日、米国でハイジャックされた民間航空機が、軍事・経済上の象徴的な建造物に突っ込むという衝撃的な出来事が起こった。他国への侵略や空爆、ミサイル攻撃は絶え間なくやってきているが、自国本土が戦場になったことのない米国は、この事件によって戦争の悲惨さを初めて味わったはずだ。だが、この痛ましくも貴重な体験を、自国の過去の所業を内省する道に生かすことなく、米国は1ヵ月後には「反テロ戦争」という愚かな戦争を、またもや他国を戦場にして開始した。それはアラブ世界のみならず、欧州各地、米国、アフリカ、アジアにまで広がったまま、18年目を迎えている。米国が主導するこの戦争の現実を見ながら、一貫してこみあげてくる感慨が私にはあった。「北の超大国」=米国にもっとも近く、かつて政治的・社会的に不安定な情勢が続いていたカリブ・ラテンアメリカ地域が、ずいぶんと静かに、安定しているな……と。

この地域は、1959年のキューバ革命以降、東西冷戦のもっとも熱い現場であった。キューバに続こうとする反政府武装闘争が各地で起こり、米国はこれに対抗して各国の軍部にテコ入れしてゲリラを潰し、次々と軍事政権を成立させた。その頂点が1973年9月11日に起きた南米チリの軍事クーデタであった。その3年前の1970年、世界史上初めて選挙を通じて成立した社会主義政権を、米国はチリ国内の富裕層、極右勢力、軍部内右派の力を利用して打倒したのだ。米国と国際金融機関は、第三世界諸国に新自由主義政策を押し付ける最初の実験場として、軍政下のチリを選んだ。以後、この地域全体が、世界に先駆けて新自由主義路線によって席捲された。私たちも、その後この政策路線がどんな社会を作り上げるものであるかを、身をもって経験することになる。

手酷い経験を積んだラテンアメリカ地域では、1990年代以降、新自由主義を批判する民衆運動が盛んになった。多くの国々で、有権者は、グローバリズムに懐疑的か批判的な政治家を政権の座に就けた。20世紀末から21世紀初頭にかけて、この地域は、政府レベルにおいても民衆レベルにおいても、「反新自由主義」「反グローバリズム」の一大潮流を形成していた。それまで、政治的・経済的・軍事的に圧倒的な影響力をこの地域全体に及ぼしていた米国は、当然にもその存在力を失った。そのぶん、この地域は安定したのだ。軍政時代の圧政に関して真実を明らかにする試みがなされた。いくつかの国々は、相互扶助・連帯・協働の精神に基づいて貿易圏をつくり、「南の銀行」をつくり、欧米メディアによる独占を打破する独自のテレビ局を国境を越えて創設するなどの試行錯誤にも着手した。身勝手なふるまいをする大国が影響力を失うと、その地域社会は相対的に安定する。この事実は、しっかりと胸に刻むに値する。

この「反グローバリズム」潮流は、この間、逆流にさらされている。現在、問題がもっとも顕在化しているのはベネズエラだ。先に触れた、この地域における米国の存在感が薄れた時期にあっても、米国が石油大国=ベネズエラへの利害上の関心を失うことはなかった。2002年、反グローバリズムの推進者、前大統領チャベスを打倒しようとしたクーデタの試みの背後には、ブッシュ政権下の米国がいたことも明らかだ。現在、民衆を極限的な危機に追いやっている食糧と医薬品の欠乏は、米国による経済制裁によるところが大きい。過酷な経済制裁を科しながら、時至れば「人道支援」の名の下に救援物資を輸送するやり口も、常套手段だ。米国の罪は大きい。同時に、現マドゥーロ政権の反民衆的な政策を見逃すわけにもいかない。チャベス時代にはあった革命過程への大衆参加を欠いた独裁傾向、したがって集団的意思決定メカニズムの欠如、飢えた民衆の抗議行動に対する血の弾圧、重大な人権侵害を繰り返す治安部隊の放置、それゆえの軍関係者の重用、政治家の汚職――これらの現実を見れば、米国の介入と国内寡頭勢力の陰謀にだけ原因を帰していては、現在の事態を十全に把握できないことがわかる。これは、「革命」政権あるいは「改革派の」政権が基層の大衆から浮き上がるにつれて、世界のどこでも常に繰り返されてきたことだ。社会変革の過程の一つひとつが、独裁とも権威主義とも相容れない。それを譲ることの出来ない論理的根拠とした状況論が必要なのだ。               (3月2日記)

状況批評(思想・状況・批評) 米国へ向かう移民の群に何を見るべきか――日本への警告


『反天皇制運動 Alert』第30号(通巻412号、2018年12月4日発行)掲載

今から40年以上も前、私は当時放浪していたラテンアメリカ地域で幾度も陸路の国境を越えた。多くの場合、或る国の出国手続きを税関で終えると、次の国の入国税関までは、牧歌的な野山の風景の中を何百メートルか歩くと、目的の建物へ着いた。大都市に直結する国際空港と違って、陸続きの国境はどの国にとっても「辺境」にあって、税関にも必要最小限の人員しか配置されておらず、出入国手続きを管理してさえいればいいのさ、という印象を受けた。税関職員も、その国が厳格な軍事政権下にない限りは人懐っこく、あれこれ冗談を言いながら、ゆったりと「職務」を果たすのだった。国境付近に住む人たちは、お互いに旅券なしで自由往来しながら、お互いの田畑で収穫した物の売り買いや物々交換をしていた。それは、「国境」なるものの人為性を思わせられる光景であって、したがって、大げさに言えば、国境なき/国家なき「類的共同体」の未来像を幻視できる現場でもあった。

だが、最初に越えた国境は違った。ロサンゼルスでしばらく過ごした後、本来の目的地であるメキシコへ陸路で向かった。サン・ディエゴでグレイハウンド・バスを降りて、何車線もの広い車道の脇を通って、米国の出国税関に入る。メキシコへ向かう米国人の車はぎっしりだが、旅人以外に歩いている者はいない。無機質というかビジネスライクというか、およそ人間味のない応対を受けて後、しばらく歩いてメキシコ側へ着く。饒舌な税関職員とのやり取りを終えて、税関の外に一足歩み出ると、そこはカオスだ。荷物を持ってあげる、ホテルに案内するよ、タクシ―に乗らないか、ピーナツは要らないか、マンゴーだよ――ありとあらゆる声が掛かってくる。幼い子どもたちも多い。大丈夫、自分でやるし、今は要らない――と遮りつつ、こころは、なぜか、浮き立つ。人間臭いその雰囲気は、数週間過ごしたロサンゼルスのそれとはまったく違うのだ。メキシコ側の国境沿いのその町は、ティファナといった。見える景色、建物の様子、ひとの顔立ちも振舞い方も一変した。米国との貧富の差は、もちろん、歴然だ。メキシコを舞台にしたサム・ペキンパーの映画のシーンがいくつも目に浮かぶようだ。

それから45年、今この町には、主として中米ホンジュラスを出て米国への入国を目指す人びとが続々と詰めかけている。米国のトランプ大統領は、移住希望者の〈長征〉が始まるや否や、国境に軍隊を配備して入国を阻止すると豪語したが、数千キロの道を歩き続ける人びとは一様に「故国ではギャングによる殺人事件が多く、とても生きてはいられない」と語っている。他方、9千人もの移住希望者が一気に押し寄せてきて、治安・衛生管理などの面で不安を抱えたティファナの住民が「移民反対」の集会を開いたとか、国境の強行突破を試みた一部の人びとに対して、配備されている米国軍が催涙ガスを発射して撃退したとかのニュースも流れた。とうとうここまで来たか、と私は思った。

ホンジュラスといえば、20世紀初頭から半世紀、米国のユナイテッド・フルーツ社が思うがままに支配した「バナナ共和国」の先駆けだ。対米輸出に圧倒的に頼らざるを得ないホンジュラスの歪な経済構造は、そこから生まれた。20世紀後半の現代になっても、ラテンアメリカ地域は、大国と国際金融機関が主導するネオリベラリズム(新自由主義)の政策路線によって世界に先駆けて席捲されてきた。それは、貧しい第三世界諸国が、資産・所得の公平な再分配や福祉に重点を置いた社会改革政策を行なわないまま、市場原理を軸にした経済の自由化や規制緩和を押しつけられる路線だ。ネオリベラリズム路線は、その後先進国にも逆流して、日本でもとりわけ小泉・安倍政権下で推進され続けられてきているから、私たちも、企業に有利な労働条件・雇用形態の改定、福祉切り捨て、公共部門の廃止と民間「活力」の採用などの政策を通して、その破壊的な「猛威」を知っていよう。

この路線の下では、第三世界諸国の場合は、融資と引き換えに、国際収支の改善と債務返済を優先させられる。バナナやコーヒーの輸出で外貨を稼いでも、それは国内民衆に還元される以前に債務返済に充てられるのが条件だから、先進国に還流してしまう。その繰り返しだ。ホンジュラスでも、1990~94年のラファエル・カジェーハス政権がこの路線を推進した。それ以外の時期でも、例えば、隣国のニカラグアやエルサルバドルが革命的な激動の時代を迎えていた70年代後半から80年代初頭においても、米国は自らに忠実なホンジュラス政権を都合よく利用した。ニカラグアに革命政権が成立した1979年以降は、ホンジュラスの米軍基地を強化し、北部国境から反革命部隊(「コントラ」と呼ばれた)を侵入させて、革命を潰そうとした(これは、ケン・ローチ監督が1996年に制作した映画『カルラの歌』に描かれているから、ご覧になった方もおられよう)。2006年、ホンジュラスには珍しくも、マヌエル・セラヤを大統領とする中道左派政権が成立すると、米国は右翼を支援して、2009年のクーデタでこれを倒してしまった。その後いかなる性格の政権が出来て現在に至っているかは、推して知るべし、だろう。総人口920万人のうち貧困ライン以下の生活者は600万人を超えているという。対人口比の殺人事件発生率も世界一高い。それが、「移民キャラバン」に加わる人びとがいう暴力の根源なのだろう。

ジャーナリスト・工藤律子に、『マラス―暴力に支配される少年たち』と題するすぐれたルポルタージュがある(集英社、2016年。現在、集英社文庫)。ホンジュラスの若者ギャング団「マラス」を取材した本書は、今回の事態を予見したかのような好著だ。工藤によれば、ホンジュラスでマラスの存在が表面化したのは1990年代初頭である。新自由主義路線に忠実な、前記ラファエル・カジェーハス政権期に重なり合う。当時、米国はカリフォルニア州知事が、犯罪歴のある中米出身の若者たちを本国へ送還する追放策を実施していた。ホンジュラスにも3千人の若者が戻ってきた。

ラテン系住民がもともと多いカリフォルニア州では、1929年の世界恐慌以来、極貧状態・家庭崩壊・失業・雇用機会の欠如・低い教育水準・差別などの社会問題を背景に生まれた若者ギャグ団が「脈々と」受け継がれている。米国の移民政策には、レタスの収穫期のような繁忙期になれば「不法」入国者であっても雇用し、閑散期になると国外追放するという一貫した路線がある。これでは、右に挙げた社会問題が一向に解決され得ないことは、容易に見てとれよう。故国に追放された3千人の若者の、ホンジュラス→米国→ホンジュラスという往還をめぐる物語は個別にあるには違いないが、背景には共通のものがあろう。追放された1990年以降の時期にそれら若者の年齢が20代から30代であったと推定するなら、時代的には以下の共通の背景が考えられる。(1)米国政府と多国籍企業によるホンジュラスの政治・経済・社会の全的支配、それは同国の「国家主権」を侵すほどの水準だろうが、国内には米国に癒着してこそ利益が得られる一部寡頭階級が伝統的に形成されていよう。(2)若者たちは、その体制の下では仕事がないからこそいったん米国へ出たのだが、故国に戻っても、政権が追従している、社会的格差を是正する政策を欠いた新自由主義路線の下にあっては、働き口は容易には見つからなかっただろう。(3)社会の最下層に押し込まれた人びとが掴まされている、底辺に澱のように、しかも重層的に積み重なった「マイナスのカード」をひっくり返すのは容易なことではない。(4)ニカラグア革命を潰す「コントラ」戦争への加担を強いられる中で、圧倒的な軍事力を誇る超大国の「価値観」を多かれ少なかれ刷り込まれただろう。米国が、自分の国(ホンジュラス)に設置した軍事基地を最大限に活用して、他民族(ニカラグア)の土地で発動する「低強度戦争」を見て育った彼らは、超大国が「敵」にふるう有無を言わせぬ暴力の「価値」を、哀しくも、身体化せざるを得なかったかもしれない。

他にも共通の背景を挙げることはできようが、これで十分だろう。政治の任に当たる国内政治家とそれを支える外部勢力が、そこに生きる人びとがまっとうに生きることのできる条件を整備するどころか真逆の政策を採用し、それによって一部の者たち(外部の超大国と国際金融機関、および国内の少数支配層とその取り巻き連中)の手に富を集中させ、その路線を実現するために必要とあらば躊躇うことなく暴力(戦争)をふるう――これこそが、幼かった/少年だった/青年になりかけていた彼らが見せつけられ、身に染みて体験した世の中の現実だった。彼らが仕事を求めて行き着いたロサンゼルスで、またホンジュラスは首都のテグシガルパに送還されて、個人や集団(マラス)のレベルで、かの国家に似せたふるまいをしたところで、いったい誰がそれを非難できよう?

歴史的に見て、古今東西南北、「国家(=政府)」の側がこのような自らの所業について反省し、生き直すことはきわめて稀だ。ホンジュラスに対して一世紀以上にもわたって、右に見たような不正常な関係を一方的に押しつけてきた米国の現大統領の発言は、そのことを一点の曇りもなく証明している。だが、工藤の書『マラス』は、かつてこの集団に属して乱暴狼藉の限りを尽くしていた元若者が、その後送っている別な人生の在り方を、最終章「変革」で描いている。その前の章では「マラスの悲しみ」も描かれていて、「生まれつきのマラス」ではあり得ない人間の変革可能性が暗示されている。

ホンジュラスを出発した「移民キャラバン」の因果の関係をいくらか長く述べてきたのは、ほかでもない、「移民問題」に関わって日本の現状を対象化するために、である。排外主義的な本質を陰に陽に見せつけてきた安倍政権は、2018年6月、いわゆる「骨太の方針2018」を閣議決定し、新たな外国人労働者受入れ制度の創設を表明した。外国人労働者の導入は、安倍政権の支持基盤である排外主義的右翼層の離反を招きかねない「危険な」政策である。法務省が「出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案の骨子について」を公表したのは10月12日のことだった。衆議院での審議入りは11月13日、それから2週間有余の現在(12月1日)、政府はろくな答弁もできないままに衆議院を強行通過させ、審議は参議院に回されている。審議が深まって、いろいろな現実があからさまになっては困るのだろう。外国人労働者を「雇用の調整弁」としか考えていない政府・企業・社会の現状では、移民受け入れの長い歴史の果てに現在がある米国とも違う深刻な問題を私たちは抱えることになるだろう。今ですら、食い物にされてきた実習生や性産業に働く女性たちの怨嗟の叫び声が、この社会の片隅には充満しているのだ。「偏見」が商売になり、政治家の嘘なぞには誰も関心を寄せなくなったこの社会には……。

(12月1日記)

スペイン語圏文学の翻訳と普及をいかに推進するか


以下は、2018年10月5日、「第3回日本 スペイン語・スペイン語圏文化国際会議」(市ヶ谷、セルバンテス文化センター)のラウンド・テーブル「編集・出版について――スペイン語文学の翻訳と普及をいかに推進するか」において、私が行なった発言の内容です。

この30年有余、私は人文書の企画・編集・営業に携わってきました。特に力を入れてきたのは、スペイン語圏の文化・歴史に関わる仕事です。出版の仕事に関わり始めたのは1980年代半ばでしたが、間もなく来る1992年に、世界の歴史の捉え方が大きく変化するだろうと予感していました。この年こそ、あのクリストファー・コロンの大航海とアメリカ到達からちょうど5世紀が経つからです。人類史の中でのこの5世紀には、重大な出来事がたくさん詰まっています。征服・植民地化・植民地から資源を獲得した欧州における資本主義の発展・産業革命・繁栄した地域への労働力移動・ひとと物の行き来――いわば、グローバリゼーションがこの過程で進行したのです。その主要な舞台となったラテンアメリカとイベリア半島が5世紀をかけて刻んだ歴史と、そこで育くまれた文化を紹介することを、私たちの出版活動の軸の一つにしようと考えたのです。日本は、アジアで唯一植民地主義を実践した国ですから、この作業は私たちの足元を見つめ直す機会にもなると考えました。

しかし、スペインもラテンアメリカも、日本からは遠い。それらの国と文化に強烈な関心を持つ人は確かにいますが、それはあくまでも少数です。どう工夫して、少しでも多くの読者を獲得するか。人間は多様です。スペイン語圏を深く理解するためには、人間の多様性に見合うように、数多くの入り口を用意してはどうか。一つのジャンルに固執しない。文学、映画、美術、音楽、デザイン、建築、歴史、考古学、文化人類学、社会思想、社会運動、社会的な証言、革命、哲学、サッカー――さまざまな分野の書物を企画し、刊行してきました。30年有余で、その数は150冊に達しつつあります。すると、私たちが刊行する書物は、次第に、スペイン語文化圏全体を小宇宙として表現するような形を成していったのです。

私たちは小さな出版社でしかありませんから、映画や音楽や美術など他のジャンルのひとたちの仕事も積極的に活用します。アルモドバルの映画がよいから、彼の本『オール・アバウト・マイ・マザー』を出す。フランコの時代末期に、その政治活動ゆえに死刑囚となり鐵環処刑された青年を描いた映画『サルバドールの朝』が評判になれば、その原作、フランセスク・エスクリバノの『カウントダウン――サルバドール・プッチ・アンチックの物語』(Francesc Escribano “Cuenta Atrás: La historia de Salvador Puig Antich”)を出版する。私たちが数多くの装丁をお願いしたデザイナーは、アントニオ・ガウディの創造性に惚れ込んで映画まで作ってしまいました。そこで、私たちもガウディに関する本を数冊出して、上映会場で売る。すると、映画という入り口からスペイン語文化圏に入った人は、そこに映し出された土地の風景や人びとのたたずまい、展開される物語に刺激されて、次は別な入り口を探し求めて、例えば文学や歴史の書物の読者になるのです。

たくさんの窓や入り口を持つことは、民族の問題を考えるうえでも重要です。スペインもラテンアメリカも、単一民族ではなく多民族によって構成されている社会です。その意味では歴史過程には重大な悲劇も孕まれており、その調査と分析も必要です。バルトロメー・デ・ラス・カサスの『インディアス破壊に関する簡潔な報告』(Bartolomé de las Casas,”Brevíssima relación de la destruyción de las Indias”)を初期の段階で出版したのは、そのためです。また現代にあっても民族差別は残っていますが、逆に、民族的な多様性が極めて寛容な社会をそこに生み出していることにも注目したいのです。日本には、日本が単一民族社会であることを利点として強調する意見があります。それは事実としても間違いであり、民族排外主義に通じる危険な考えでもあります。このような日本社会が、寛容性や異文化・異民族交流をめぐって、多民族社会から学ぶべきことはたくさんあるのです。ですから、私たちは、民族・植民地問題に関する本、覗き見主義ではない文化人類学の本などを意識的に企画・刊行してきました。

いくつか、想い出の深い出版物に触れます。

ガルリエル・ガルシア=マルケスは、日本でもよく読まれている作家です。重要な文学作品は、すでに他の大きな出版社によって刊行されていました。そこで、私たちは、彼が新聞記者時代に書いた社会面や芸能欄の記事がスペイン語で集成されていることに着目し、それを読んでみました。すると、それらの記事が、とても読ませるのです。1950年代にコロンビアで起きたちょっとした事件や出来事を扱ったその記事が、まるで、よくできた「ショートショート」の創作のように思えてくるのでした。ローマ特派員の時代には、映画好きのマルケスらしく、イタリア映画や女優たち、そしてもちろんローマ法王に関する記事があって、それも面白かった。そこで、私たちは、それを『ジャーナリズム作品集』(“ Obra Periodistica”)として刊行しました。意外な観点からの出版でしたが、かなりの読者に好感をもって迎えられたと思います。

ディエゴ・マラドーナの本も出版しました。彼はサッカーの歴史を塗りかえた不世出の天才レフティでしたが、メディアを通して実に数々の名言を放っています。いわば、「言葉のファンタジスタ」でもあります。そこで、アルゼンチンのジャーナリストがまとめた本(Diego dijo :Las mejores 1000 frases del “10 ″de toda su carrera” )を、『マラドーナ!――永遠のサッカー少年「ディエゴ」が話すのを聞いた』を出版しました。期待したほどは売れませんでしたが、スペイン語文化圏でとても人気のあるスポーツに関わる仕事ができたという満足感が得られました。

1980年代末、バルセロナを訪れた私は、或る人に紹介されて、漫画家セスク氏に会いました。ユーモアとウィット、風刺に満ち溢れた氏の漫画は、フランコ治世下でたくさん発禁になりました。彼の漫画を時代順に並べてみると、それは、さながら「カタルーニャ現代史」となるのでした。発禁作品には、上から×印を付けて『発禁・カタルーニャ現代史』を名づけて出版しました。解説は、モンセラー・ローチさんに会って、お願いしました。たぐい稀なコラボレーションによる出版でした。日本語版が世界に先駆けて出版され、カタルーニャ語版はそのあとで出たのです。

以上簡潔に述べてきたように、出版企画・編集・営業・販売などの点で、私たちなりの努力は続けてまいりました。力不足は否めませんが、小さいながらもある程度の手応えを感じていることも事実です。しかし、インターンット時代に突入して早や4半世紀――人人は指でタブレットを圧す作業に熱中するばかりで、落ち着いて書物を読むという習慣は急速に失われつつあります。当初から限定的な数の読者に向けての出版活動であった私たちは、読者のいっそうの減少、書物の売り上げの低下傾向に苦しんでいます。この傾向は、世界のどこでも起こっていることだと思います。私たちなりの工夫をさらに重ねて、この現実に立ち向かっていこうと思います。

そんな中にあって21世紀に入って以降、スペイン語圏の現代作家の作品を紹介する「セルバンテス賞コレクション」を14冊、スペイン語圏の読者にながいあいだ読み継がれてきた作品を紹介する「ロス・クラシコス」シリーズが12冊まで出版できたのは、スペイン文化省をはじめとして、メキシコ、アルゼンチン、チリなどの文化省からの出版助成があったからこそでした。「ロス・クラシコス」シリーズの12冊目、最新刊は、ここにありますパブロ・ネルーダの『大いなる歌』です。このような重要な詩集を出版できたことは、私たちのささやかな誇りです。

私たちをここまで熱中させるような文化表現を生み出してこられたスペイン語文化園の皆さまに対する深い尊敬と感謝の気持ちをお伝えして、私の話を終わります。

Muchas gracias por su atención.

男たちが消えて、女たちが動いた――アルピジェラ創造の原点


「記憶風景を縫う」実行委員会編『記憶風景を縫う-チリのアルピジェラと災禍の表現』所収、2017年

(ISBN978-4-9909618-0-0)

私がメキシコに暮らし始めて2ヵ月半が経った1973年9月11日、チリに軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、選挙によって誕生したサルバドール・アジェンデ大統領のもとで、「社会主義へのチリの道」がいかに展開するかに期待を込めた関心を持ち続けていた私には、大きな衝撃だった。やがて、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」迎え入れる歴史を積み重ねてきたメキシコには、軍事政権の弾圧を逃れたチリ人が続々やってきた。女性が多かった。新聞に載った一女性の語った言葉がこころに残った。愛する男(恋人か夫)が軍部によって虐殺されたか、逮捕されたのだろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このような直截な言葉で語られることが「新鮮」だった。メキシコでは、チリ民衆との連帯集会が頻繁に開かれて、私は何度もそこへ参加した。

ラテンアメリカを放浪中だった私は、クーデタから1年数ヵ月が経った75年2月、チリへ入った。アルゼンチンのパタゴニアの北部を抜けて、南部のテムコへ入った。リュックの荷物からは、税関で「怪しまれ」そうな本・新聞・資料をすべて抜き去った。

テムコは、世界的にも有名な詩人パブロ・ネルーダが幼年期を過ごした町だ。アルゼンチンで知り合ったチリ人が、テムコの実家に泊まってというので訪ねると、そこはネルーダの縁戚の家だった。アジェンデの盟友であり、自らも共産主義者であったネルーダは、73年クーデタの直後の9月23日に亡くなった。クーデタ当日はがんで入院していたが、政権を掌握した軍部の命令を受けた担当医によって毒殺されたという説が濃厚である。

私が訪ねた家も、ク-デタ後何回にもわたって家宅捜査を受けたという。大家族で、芸術・文化の愛好者が揃っていたが、書物は少なかった。軍部によって焚書されたのだという。焼けただれた本も幾冊か、あった。十全な形ではもう読めないのに、捨てるには忍びなかったのだろう。夜が更けると、家族みんなが集まって、大声では歌えないアジェンデ時代の民衆歌や革命歌を歌った。メキシコで私も親しんでいた歌だったので、小さな声で合わせることができた。

テムコは、先住民族マプーチェの土地だ。スペイン人征服者(コンキスタドール)を相手に展開した激しい抵抗闘争で、歴史に名を刻んでいる民族である。アジェンデ政権期には、その要求が全面的に認められたわけではなかったにしても、マプーチェへの土地返還が、従来に比べれば大幅に進んだ。軍政によってこの動きは断ち切られ、彼ら/彼女らは逆風にさらされていた。今は物を言う状況にはないマプーチェの人びとの小さな野外市場で、いくつかの民芸品を買った。チリでは他にも、首都サンティアゴ・デ・チレでの、人びととの忘れ難い出会いがあった。しかし、軍政下ゆえの不自由さは、隠しようもなかった。それだけに、テムコでの想い出が、いまもくっきりと脳裏にひらめく。

数年後、帰国して間もない私のもとに、チリから国際小荷物が届いた。そこに、一枚のタペストリーが入っていた。布の切れ端で作られたパッチワークだった。アンデスの山脈を背景にした家々の前で人びとが立ち働いている。10人全員が女性だが、それぞれが何かを持ち寄って、集まって来るような印象を受ける。この時代、現実にあった、貧しい人びとの「共同鍋」の試みなのかもしれぬ。テムコのあの家族からの贈り物だった。由緒の説明はなかったように思う。突起部分があって、ふつうの額には収まらないので、ラテンアメリカ各地で買い求めた民芸品と共に、大事に箱にしまい込んだ。

それからずいぶんと時間が経って、20世紀も末期のころ、私は編集者として一冊の翻訳書の仕事に関わった。「征服」期から現代にまで至る「ラテンアメリカの民衆文化」を研究した『記憶と近代』という書物である(ウィリアム・ロウ+ヴィヴィアン・シェリング=著、澤田眞治+向山恭一=訳、現代企画室、1999年刊)。そこでは、片方には軍政の抑圧、他方には革新政党のヒエラルキー構造や温情主義的な慣習をはびこらせた左翼の失敗の双方を乗り越えて、近隣の共同組織に依拠して日常生活や消費領域の問題を公的な政治領域に導入した動きとして、チリで行なわれてきた「アルピジェラ」と呼ばれるパッチワークの生産活動が挙げられていた。十数年前にテムコから送られてきたあの布地のことではないか!

同書は言う。「個人的な喪失や別離や極貧の経験を政治的事件の証言に変える試み」としてのアルピジェラは、「木綿や羊毛のぼろ布を使って日常生活のイメージを構成したものなのだが、その繊細で子供らしい形式とそこに描かれた内容とは衝撃的なくらい対照的である。それは大量収容センターのゲートの外で待っている身内の人々、軍事クーデタの日に軍のトラックに積まれた死亡した民間人、スラム街の無料食堂の場面、行方不明の身内との再会や、飢えや悲しみのない豊かな生活といった想像上の場面を描いている」。

軍政下での人権侵害を告発したカトリック教会は、「失踪者」家族支援委員会を運営しながら、アルピジェラのワークショップの開催、買い取りと販売を通して、生産者の経済的自立の手段を提供してきた、とも書かれていた。

アルピジェラの生産者が女性であることからどんな意義を読み取るか――同書はさらにその点をも書き進めるのだが、その後私たちに届けられたチリの表現をも援用しながら、この問題を考えてみたい。アジェンデ時代のチリを振り返るために決定的に重要なチリ映画が2016年にようやく日本でも公開された。パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作(1975~78年制作)である。この映画は、アジェンデ政権期の1970年から73年にかけての現実を、とりわけ73年の、クーデタに至る直前の半年間の状況をドキュメンタリーとして捉えている。そこには、当時のチリ階級闘争の攻防が生々しく描かれている。アジェンデ支持派の集会、デモ、討議の場で目立つのは男性である。米国CIAに扇動もされたブルジョアジーが日常必需品を隠匿して経済を麻痺させようとする策動を行なうのだが、地域住民がこれに抗して独自に生活物資を集め仕分けする場面に、辛うじて女性の姿が垣間見える。

このように『チリの闘い』が記録してしまった1970年代初頭の社会運動の状況と、アピルジェラをめぐる諸問題などを重ね合わせると、次のような課題が浮かび上がってくるように思われる。

1)チリ革命を推進していた社会運動は、政党にあっても労働組合運動にあっても、性別分業に特徴づけられた男性中心主義の色合いを強くもっていたことは否めないようだ。それは、世界的に見て、1970年代が持つ時代的な制約であったとも言えるのかもしれない。したがって、軍事クーデタ後の弾圧は、男性に集中的にかけられた。クーデタ直後に「デサパレシードス(行方不明者)」の写真を掲げて示威行動をしたり、グスマンの映画『光のノスタルジア』(2011年)が描いたような、クーデタから30年以上経ってなお強制収容所跡地で遺骨を探したりしている人びとがすべて女性であることによって、それは裏づけられている。

2)男性中心の諸運動は、こうして再起不能な打撃を受けたが、それは同時に、母、妻、娘として、親密な男性を失った女性たちが、その「喪失や別離」の体験を発条にして、新たな地平へ進み出ることを可能にした。男性優位の社会的な価値規範のもとで下位に退けられていた「女性的なもの」に根ざした表現として現われたのが、アルピジェラであった。それは、硬い男性原理から、柔らかな女性原理への転換が求められている時代を象徴していると言える。大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常生活に根ざした表現と運動が、支配への有効な抵抗の核となった時代――と表現してもよいだろう。

3)チリ革命では、もともと、文化革命的な要素が目立った。アリエル・ドルフマンなどは『ドナルド・ダックを読む』(晶文社、1984年)、『子どものメディアを読む』(晶文社、1992年)などの著作を通して、子どもの脳髄を支配する文化帝国主義の批判を行なった。また、女性を伝統的な価値観の枠組みの中に閉じ込めるいわゆる女性雑誌の編集姿勢を徹底的に批判・分析した一連の作業もあった。若い男性主体の価値意識の中では低く見なされがちな大衆、子ども、女性などの社会層に働きかける文化批判が実践されることで、単に、政治・社会・経済過程の変革に終わらぬ、草の根からの革命の事業が活性化する可能性が孕まれていたのではないか。それは、時代が激変し、軍事政権下に置かれた時に、庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたこととも関連してくるものだろうか?

アルピジェラという民衆の文化表現からは、この時代を考えるうえで避けることのできない重要な問いがいくつも生まれ出てくるようだ。

追記:「記憶風景を縫う」展覧会についての情報は、以下をご覧ください。

https://www.facebook.com/arpilleras.jp/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[78]コロンビアの和平合意の一時的挫折が示唆するもの


『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載

国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。

キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。

私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。

中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。

サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。

教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。

日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)

「9・11」に考える映画『チリの闘い』の意義


【以下は、2016年9月11日、ユーロスペースでの『チリの闘い』上映後に、私が話したことの大要です。事前に用意したレジュメに基づいて文章化しましたが、最小限の加筆・訂正を施していることをお断りします。】

チリの映画監督パトリシオ・グスマンは、1941年生まれで、いま75歳です。チリやラテンアメリカはもとより、世界的にもかなり高名な映画監督です。なぜか、日本での作品公開は非常に遅れ、昨年秋、山形国際ドキュメンタリー映画祭で『チリの闘い』が、次いで岩波ホールで、『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』という最新作が相次いで公開されました。それから一年も経たずして、いま、『チリの闘い』のロードショウを迎えているのです。これらすべてをご覧になった方がおられるとして、全作品を通して共通するのは、1973年のチリ軍事クーデタへの強烈な関心です。なぜなのでしょう? 監督がチリ人であることからくる、一国的な特殊な事情があるのでしょうか? それとも、異邦に住む私たちにも関連してくる、世界的な普遍性があるのでしょうか? 今日は、この問題を考えてみます。

1、1970年選挙――社会主義政権の成立

映画が語るように、1970年に選挙が行なわれ、1930年代から社会主義者として政治活動を行なってきたサルバドル・アジェンデが大統領に当選します。選挙を通して社会主義政権が成立したのは、世界史上これが初めてです。アジェンデは「武器なき革命チリの道」を模索します。とはいっても、演説でもお聞きのように、社会主義への強い確信を持つ人です。「社会主義革命」は、いかに平和的なものであったとしても、現行秩序を壊さずにはおれないのです。

国内的に見てみましょう。当時のチリのように、貧富の格差がはなはだしい社会で現行秩序を壊そうと思ったら、経済的に公平で、格差をなくす社会になるような、社会福祉政策に重点をおくことになります。ほんの数例を挙げます。主要食糧品の物価を凍結しました。15歳以下の子どもに、一日0.5リットルの牛乳を無償で供給しました。農民が自らの土地を耕し、そこから収穫物を得ることができるように大土地所有制を解体しました。

対外関係を見てみましょう。チリが世界でも有数の銅資源を持つことは、映画が語っています。これを産出する銅鉱山は米国企業の手中にありました。他にも、銀行などの金融資本、国際電信電話事業も米国企業に支配されていました。ここから生み出される富を、チリの民衆は享受できなかったのです。これを接収し、国有化しました。経済の自律性を持とうとしたのです。

また、革命は、政治・経済過程の変革にのみ留まっていることはできません。その只中を生きる人びとは、旧社会の中で身をつけた価値観、日常意識、人生観を持ち続けています。必要ならばそれをも転倒する文化批判、文化革命が求められるのです。メディア、学校教育、社会教育など、批判の俎上に乗せるべき対象はたくさんあります。映画はどうか。ハリウッド映画が市場を独占しています。ハリウッド映画がどんな価値観に基づいて物語を組み立て、それを映像的に表現するものであるか。表面的には「無垢な」キャラクターが活躍するディズニー映画や漫画は、どんな価値観を子どもの脳髄に埋め込もうとしているのか。テレビはどうか。日本のアニメも評判を得つつある時代でしたが、米国製の番組の花盛りです。女性誌はどうか。これらの雑誌は、それぞれの年代の女性たちをどんな未来へ誘導しようとしているのか。このような問題意識に基づいて、社会に広く浸透している文化のあり方に対する批判活動が、チリ革命の中では行なわれました。これは、他の社会革命と対比しても特徴的なことであったと思います。

1970年に始まるチリ革命は、このような形で、平等・対等な社会関係に向けて、今ある秩序・現行秩序の変革に取り組んだのです。この改革が進めば、当然にも、既得権益を奪われる勢力が存在します。旧来の秩序の中での特権層です。だから、彼らは、進行する革命を妨害します。あわよくば、これを覆そうとします。映画『チリの闘い』が描いているのは、この階級闘争の過程なのです。小国が自主・自立を目指す試行錯誤は、どんな国内的・国際的な環境の下で行なわれたのか。これを知ることは、世界普遍的な意味をもつのです。

2、1973年9月11日に至る過程に見るべきもの

では、その過程から何が見えるか、ということを考えてみます。映画を見て真っ先に気づくのは、チリの人びとを切り裂く「階級差」です。現在の日本のように、新たな貧困問題に直面しているはものの、高度な産業社会・消費社会になると、階級差というものはそう簡単には見てとることができません。その点、当時のチリは違います。人びとの顔つき、表情、服装、言葉遣いから、その人がどんな「階級」に属しているかが、はっきりとわかります。集会やデモに出ている民衆の顔つきと服装を思い出してみてください。それと比較して、たとえば、立派な軍服で身を固めた高級軍人たちの姿を思い起こしましょう。多くが白人エリート層であることは歴然としています。暗殺された仲間を悼む集まりなのに、あの余裕のある、自信にあふれた表情の男たち。カメラを持つ人は、クーデタ必至の政治状況の中で、この男たちはいったいどんな立場を取ろうとしているのか、何を企んでいるのかを記録しておかなければならない、と思い詰めてでもいるかのように、執拗に、舐めるように、高級軍人たちの顔を映し出していきます。加えて、いかにも「ブルジョワの奥様」然とした、一群の女性たちの姿も思い浮かべることができます。

次に、集会やデモ、隠匿されていた日常品を摘発し、みんなで分配するシーンに、それぞれ、どんな年齢層の人びとが、男女のどちらの性の姿が、多く見られるかという問題です。鉱山労働者の集まりが男たちだけになるのは、労働の質からいって、当然です。ただし、日本で石炭産業が栄えていた時には、また世界のどこであっても鉱山地帯では、妻たちが鉱山主婦会を組織して、活発に活動していました。そんな姿が映し出されれば、異なる視点が得られたかもしれません。民衆や左派の集会やデモでは、どうだったでしょうか。やはり、男、それも若い男の顔が目立ったのではないでしょうか。20世紀型の社会運動にあっては、ある意味で日常的な生活の「束縛」から解き放たれて、自由にふるまうことができる者が活躍した時代でした。家族をもつ男の場合は、相手との関係でそのようにふるまう条件をつくってしまう。いわば、若く、体力があり、時間的にも自由が利く者が、運動に「専従」したのです。それによって生み出される、運動の活力もあったでしょうが、同時に、運動に「歪み」も生じただろう。このような観点から振り返るのが、現代的な視点だと思います。日常必需品の仕分けの場には、やはり、女の姿が目立った。重いものを仕分けるので、男の姿もありましたが、圧倒的多数は女だった。「役割分担」は、現実的には否応なく出てくるのですが、そこにどんな問題が孕まれるかは、考え続けなければならず、「歪み」があれば解決しなければならない。

反アジェンデ派、右派、ナショナリストたちの集会やデモでは、どうだったか。エリート校であるカトリック大学での、反アジェンデ集会では、いかにも裕福な家庭の出身だろう女子学生の姿が目立ちました。カトリック教会が保守の牙城であり、キリスト教民主党が有力政党である現実から見ても、富裕層や中産階級上に属する社会層は、それなりに分厚かったことがわかります。そんな人びとの集まりでは、先ほども使った言葉ですが、「ブルジョワの奥様方」が、けっこう楽し気にふるまっていたのが印象的でした。

次に、軍隊の問題を考えます。それまでの20世紀の社会革命では、ロシアでも中国でも、キューバでもアルジェリアでもベトナムでも、武装革命として勝利しました。人民軍、解放ゲリラ部隊、赤軍、人民解放軍などを組織して、国軍、政府軍と武力抗争を行ない、これを打ち破って革命の勝利が実現したのです。解放軍はその後の社会では国軍=政府軍となるのですから、そこで新たな、深刻な問題が派生することもありますが、それは、きょう考えるべき課題からは逸れます。

さて、アジェンデは、あくまでも平和革命路線を追求しました。それまで歴代政権の下にあった軍隊は、いわばブルジョワの軍隊という性格を色濃く持ち続けています。だが、アジェンデは軍隊には手をつけなかった。古今東西の歴史が教えるところでは、国軍としての軍隊は、国内的に一旦火急あれば戒厳令の下で民衆鎮圧活動を躊躇うことはありません。時の政府が好戦的であれば、「自衛」の名の下で他国に侵略戦争を仕掛けます。軍隊とは、そういうことが可能な、武装部隊なのです。事実、チリにおいて、右翼と米国CIAは、選挙を通してアジェンデを敗北させることに失敗すると、軍隊を利用したのです。他方、民衆は武装解除されており、銃ひとつ持つわけでもありません。日本でも、来年度の防衛費は5兆円を超え、自衛隊は25万人の兵力を抱えています。国家予算によって保証されているこのような武装部隊が、その武力を背景に政治の前面に出てきたら、どうなるか。チリの軍事クーデタが物語るのは、この問題です。それは、対岸の火事ではないのです。

非武装の民衆と、時の支配層の意思ひとつでいかようにも動かすことができる国軍という対比において、軍隊が本質的に持つ問題性を考えるべき時期がきています。

マスメディアの問題もあります。「世論」形成に重要な役割を果たす巨大メディアが、どんな立場に立って、何を報道し、何を報道しないか。その選択基準は何によって左右されているのか。日本の現状に照らしても、見逃すことのできない問題がここにはあります。

3、1973年

さて、こうして見てきたチリ階級闘争においては、右翼が軍事クーデタという非常手段によって勝利しました。アジェンデの平和革命路線は挫折したのです。軍事政権下で、いかなる時代が始まったか。新自由主義の世界制覇の時代は、ここを先駆けに始まったのです。経済運営に無知なチリの軍事体制を支えるために、米国はシカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンに学んだ者たちを派遣した。彼らが指南した経済政策は、いわゆる「小さな政府」論です。国家予算によってカバーすべき分野を極力少なくする。そのぶん、民間企業間の競争原理に委ねるとよい。規制緩和、国営企業の私企業化、市場経済化、金融自由化、行財政改革、教育バウチャー(利用権)制度の導入などの政策です。私たちの耳目も、この間十分に慣れ親しんだ言葉ですね。

チリ軍事クーデタから7,8年を経た1980年前後には、イギリスにサッチャー、米国にレーガン、日本に中曽根などの政権が確立し、新自由主義経済政策は世界全体に波及するようになります。日本社会に生きる私たちも、この政策が採用されて数十年経ったのですから、これがどれほどまでに社会のあり方を荒廃させるものであるかを、身をもって経験しています。経済格差の顕在化、非正規労働の増大に象徴される労働事情の激変、社会福祉政策の後退、総じて弱肉強食の価値観と現実が社会に浸透したのです。

米国は、チリ軍事クーデタを画策した以上、東西冷戦下でチリ国を「発展モデル」にするために「責任をもって」新自由主義の「実験場」にしました。それは、ソ連体制を崩壊に追い込んだ現代資本主義を全面開花させるまでに至ったのです。チリの経験は、こうして、世界的な普遍性をもつに至りました。

4、「9・11」

きょうは、9月11日です。「9・11」といえば、15年前の出来事を思い起こすのがふつうです。すなわち、ハイジャック機がニューヨークのワールド・トレイド・センター・ビルやペンタゴンに自爆攻撃を仕掛けた事件です。昨夜からのテレビ・新聞は、15年目の「9・11」を回顧するニュースにあふれかえっています。ところで、私たちが考えてきたチリ軍事クーデタの日付も、9月11日です。1973年の「9・11」。今から43年前の出来事です。

15年前の「9・11」事件の時から、チリやラテンアメリカからは、このもうひとつの「9・11」を忘れるな、というメッセージが発せられました。なぜなら、15年前の米国はこの攻撃を受けて3000人有余の犠牲者を生み出したこともあって、まるで「世界一の悲劇を被った」国であるかのようにふるまい、「反テロ戦争」に踏み出そうとしていたのです。しかし、政治的・経済的・軍事的に身勝手なふるまいを行ない、近現代史において他国に多大な犠牲者を生み出すきっかけをつくってきたのは、他ならぬ米国ではないか。1973年のチリ軍事クーデタは、まさに、その一つの例証なのだ。それなのに、いまさら、被害者ぶるのは許せない――そのような思いが、溢れ出たのです。

私も、15年前の「9・11」のときに、同じように考えました。これは、米国が自らの従来の外交政策を内省し、政策変更を大胆に行なう絶好の機会であり、「反テロ戦争」などという報復に乗り出すことがあっては、絶対にならない。だが、米国は、国を挙げて戦争に突入しました。そして、15年後の現在、世界は「反テロ戦争」と「テロ」の、終わりなき応酬の時代を迎えているのです。この悲劇を生み出した大国・米国の責任は重大です。ですから、「9・11」は、メディアが報道するような、ひとり米国の「悲劇」としてではなく、無数の「9・11」を思い起こす機会にすべきなのです。

5、グスマンのフィルム?

さて、最後です。この映画の撮影中に軍事クーデタがおこり、グスマン自身も逮捕されてしまいます。撮りためてあったフィルムは、どうやって、生き永らえることができたのでしょう? この謎解きは、劇場用パンフレットでも明かされているので、ここで触れてもよいでしょう。映画が問わず語りに明かしているように、グスマンらは、軍事クーデタが早晩起こるのは必至との思いを抱きながらカメラを回していたことでしょう。事前に手を打っておかなければならない。グスマンには、ひとりのおじさんがおりました。ピアニストで、政治には無関係に生きている人なので、ここまでは弾圧の手が延びないだろうと考え、撮りためた16ミリ・フィルムを彼に託しました。まもなく、サンティアゴのスウェーデン大使館のスタッフがフィルムを取りに来ました。軍事クーデタに対するこの時期のスウェーデン政府の断固たる立場を明かすものでしょう。このあと、スウェーデンはチリから、大勢の亡命者を受け入れることになります。70年代後半から80年代にかけて、私は、それら亡命者が発行する機関誌“Combate”(闘い)を購読していました。

さて、フィルムがたどった「運命」に戻ります。スウェーデン大使館のスタッフは、バルパライソの港から、大量のフィルムを本国へ送ろうとします。軍や税関は、怪しいものとみて、これを阻止しようとします。しかし、特別取り扱いが必要な外交貨物です。手を付けるわけにはいきません。無事、フィルムはバルパライソの港を出ました。この港町の名をご記憶ですか。チリ有数の港湾都市であり、したがって、海軍の地盤でもあります。反アジェンデの軍隊反乱も最初ここで起こったのでしたが、これとの闘いを描いたフィルムも、この港を出る貨物船に乗せられたのです。

拘留が短期間で済んで釈放されたグスマンは、スウェーデンへ飛び、フィルムと対面します。いざ、編集にかかりたいが、資金が工面できません。自己資金はなく、スポンサーも見つからない。そこへ、キューバの映画芸術産業庁が協力を申し出ます。そこで、グスマンはキューバへ行き、そこの映画人の全面的な協力を得て、75年の第1部、77年に第2部、79年に第3部を完成させて、世界に流通させることができたのです。もちろん、軍事政権下のチリでは無理でした。数奇なフィルムの運命です。生き永らえたのは奇跡的、とも言えます。フィルムよ、ありがとう、と言いたい気持ちです。

以上が、私たちがようやくめぐり合えている映画『チリの闘い』について、30分以内で語りたいことのすべてです。終わります。ありがとうございました。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[76]もうひとつの「9・11」が問うこと


『反天皇制運動Alert』第3号(通巻385号、2016年9月6日発行)掲載

まもなく「9・11」がくる。多くの人が思い起こすのは、15年前、すなわち2001年のそれだろう。ハイジャック機が、唯一の超大国=米国の経済と軍事を象徴する建造物に自爆攻撃を仕掛けたあの事件を、である。もちろん、これは現代史の大きな出来事である。だが、ここでは、43年前、すなわち1973年の「9・11」を思い起こしたい。私の考えでは、これもまた、世界現代史を画する大事件のひとつである。

南米チリで軍事クーデタが起こり、その3年前に選挙を通して成立した、サルバドール・アジェンデを大統領とする社会主義政権が倒されたのだ。このクーデタは、内外からの画策が相まって実現した。チリに多大な経済的な利権を持つ米国支配層は、新政権の社会主義化政策によって、それまで恣に貪ってきた利益が奪われることに危機感をもった。CIAを軸に、アジェンデ政権を転覆させるための政治的・経済的・民心攪乱的な策動を直ちに始めた。チリ国内にも、それに呼応する勢力は根強く存在した。カトリック教会、軍部、地主、分厚い上流・中産階層などである。3年間、およそ千日にわたる彼らの合作が功を奏して、軍事クーデタは成った。

当時、私はメキシコにいた。そこでの生活を始めて、2ヵ月半が経っていた。軍事クーデタのニュースに衝撃を受け、日々新聞各紙を買い求めは熟読し、ラジオ・ニュースに耳を傾けていた。9月末頃からだったか、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」受け入れる歴史を積み重ねてきているメキシコには、軍政から逃れたチリ人亡命者が大勢詰めかけてきた。いずれ、その中の少なからぬ人びとと知り合いになるが、初期のころ新聞に載った一女性の言葉が印象的だった。「記憶」で書いてみる。愛する男(夫か恋人)が軍部によって虐殺されたか、強制収容所に入れられたりしたかのひとだったろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このように語られることに「新鮮さ」を感じた。

2010年、チリ軍事クーデタから37年を経た時期に、大阪大学で或る展覧会とシンポジウムが開かれた。軍政下のチリで、女性たち創っていた「抵抗の布(キルト)」(現地では、アルピジェラ arpillera と呼ばれている)の意味を問う催しだった。私もそこへ参加した。アジェンデ社会主義政権に荷担していた男たち(左翼政党員、労働組合員、地域活動家など)が根こそぎ弾圧されて、ひとり残された女たちが拠り所にしたのが、抵抗の表現としてのキルト創りだった。一般的に言えば素朴で拙い表現とも言えるが、下地には「いなくなった」人のズボンやシャツ、パジャマの生地が使われている。語るべき「言葉」を持っていた男たちが消されたとき、言葉を奪われてきた女たちは別な形で「表現」を獲得した。それが、軍政下の抵抗運動の、「核」とさえなった――岡目八目ながらも、私はそのことの意義を強調した。そして付け加えた。チリ革命の只中で実践された文化革命的な要素がそこには生きているのではないか。すなわち、表層的な政治・社会革命に終わるのではなく、人びとが置かれている文化環境(従来なら、北米のハリウッド映画、ディズニー漫画、コミック、女性誌など、一定の価値観を「それとなく」植えつける媒体が圧倒的な力を揮っていた)に対する地道な批判活動が展開されていたからこそ、軍政下で「抵抗の布」の活動が存在し得たのではないか、と。

アジェンデ社会主義政権下の試行錯誤の実態と、軍事クーデタ必至の緊迫した状況を伝える パトリシオ・グスマン監督のドキュメンタリー『チリの闘い』(1975~78年制作)がようやく公開される。社会主義政権の勝利を願う「党派性」をもつ人びとがカメラを担いでいる。だが、現実は仮借ない。激烈な言葉が宙に舞い、現実はまどろっこしくもひとつも動かない状況を写し撮ってしまう。デモや集会に目立つのは若い男たち。女たちは、日常品不足のなか生活用品獲得に精一杯だ。撮影スタッフは5人程度だったというから、まぎれもなく進行していた〈階級闘争〉の攻防は主として都市部で撮影され、先住民族の土地占拠闘争が進行していたチリ南部農村地帯の状況はスクリーンに登場しない。〈欠落〉を言えばキリがない。だが、進行中の〈階級闘争〉の現実をここまで描き出した記録映画は稀だ。この状況下で、どうする? ああすればよい、こうすればよい――戸惑いつつも、何ごとかを決断して、前へ進まなければならぬ。

40年前のこの映画には、今を生きる私たちの姿が、描き出されている。(9月4日記)

映画『チリの闘い』に関する情報は以下へ→

https://www.facebook.com/Chile.tatakai/