現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

男たちが消えて、女たちが動いた――アルピジェラ創造の原点


「記憶風景を縫う」実行委員会編『記憶風景を縫う-チリのアルピジェラと災禍の表現』所収、2017年

(ISBN978-4-9909618-0-0)

私がメキシコに暮らし始めて2ヵ月半が経った1973年9月11日、チリに軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、選挙によって誕生したサルバドール・アジェンデ大統領のもとで、「社会主義へのチリの道」がいかに展開するかに期待を込めた関心を持ち続けていた私には、大きな衝撃だった。やがて、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」迎え入れる歴史を積み重ねてきたメキシコには、軍事政権の弾圧を逃れたチリ人が続々やってきた。女性が多かった。新聞に載った一女性の語った言葉がこころに残った。愛する男(恋人か夫)が軍部によって虐殺されたか、逮捕されたのだろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このような直截な言葉で語られることが「新鮮」だった。メキシコでは、チリ民衆との連帯集会が頻繁に開かれて、私は何度もそこへ参加した。

ラテンアメリカを放浪中だった私は、クーデタから1年数ヵ月が経った75年2月、チリへ入った。アルゼンチンのパタゴニアの北部を抜けて、南部のテムコへ入った。リュックの荷物からは、税関で「怪しまれ」そうな本・新聞・資料をすべて抜き去った。

テムコは、世界的にも有名な詩人パブロ・ネルーダが幼年期を過ごした町だ。アルゼンチンで知り合ったチリ人が、テムコの実家に泊まってというので訪ねると、そこはネルーダの縁戚の家だった。アジェンデの盟友であり、自らも共産主義者であったネルーダは、73年クーデタの直後の9月23日に亡くなった。クーデタ当日はがんで入院していたが、政権を掌握した軍部の命令を受けた担当医によって毒殺されたという説が濃厚である。

私が訪ねた家も、ク-デタ後何回にもわたって家宅捜査を受けたという。大家族で、芸術・文化の愛好者が揃っていたが、書物は少なかった。軍部によって焚書されたのだという。焼けただれた本も幾冊か、あった。十全な形ではもう読めないのに、捨てるには忍びなかったのだろう。夜が更けると、家族みんなが集まって、大声では歌えないアジェンデ時代の民衆歌や革命歌を歌った。メキシコで私も親しんでいた歌だったので、小さな声で合わせることができた。

テムコは、先住民族マプーチェの土地だ。スペイン人征服者(コンキスタドール)を相手に展開した激しい抵抗闘争で、歴史に名を刻んでいる民族である。アジェンデ政権期には、その要求が全面的に認められたわけではなかったにしても、マプーチェへの土地返還が、従来に比べれば大幅に進んだ。軍政によってこの動きは断ち切られ、彼ら/彼女らは逆風にさらされていた。今は物を言う状況にはないマプーチェの人びとの小さな野外市場で、いくつかの民芸品を買った。チリでは他にも、首都サンティアゴ・デ・チレでの、人びととの忘れ難い出会いがあった。しかし、軍政下ゆえの不自由さは、隠しようもなかった。それだけに、テムコでの想い出が、いまもくっきりと脳裏にひらめく。

数年後、帰国して間もない私のもとに、チリから国際小荷物が届いた。そこに、一枚のタペストリーが入っていた。布の切れ端で作られたパッチワークだった。アンデスの山脈を背景にした家々の前で人びとが立ち働いている。10人全員が女性だが、それぞれが何かを持ち寄って、集まって来るような印象を受ける。この時代、現実にあった、貧しい人びとの「共同鍋」の試みなのかもしれぬ。テムコのあの家族からの贈り物だった。由緒の説明はなかったように思う。突起部分があって、ふつうの額には収まらないので、ラテンアメリカ各地で買い求めた民芸品と共に、大事に箱にしまい込んだ。

それからずいぶんと時間が経って、20世紀も末期のころ、私は編集者として一冊の翻訳書の仕事に関わった。「征服」期から現代にまで至る「ラテンアメリカの民衆文化」を研究した『記憶と近代』という書物である(ウィリアム・ロウ+ヴィヴィアン・シェリング=著、澤田眞治+向山恭一=訳、現代企画室、1999年刊)。そこでは、片方には軍政の抑圧、他方には革新政党のヒエラルキー構造や温情主義的な慣習をはびこらせた左翼の失敗の双方を乗り越えて、近隣の共同組織に依拠して日常生活や消費領域の問題を公的な政治領域に導入した動きとして、チリで行なわれてきた「アルピジェラ」と呼ばれるパッチワークの生産活動が挙げられていた。十数年前にテムコから送られてきたあの布地のことではないか!

同書は言う。「個人的な喪失や別離や極貧の経験を政治的事件の証言に変える試み」としてのアルピジェラは、「木綿や羊毛のぼろ布を使って日常生活のイメージを構成したものなのだが、その繊細で子供らしい形式とそこに描かれた内容とは衝撃的なくらい対照的である。それは大量収容センターのゲートの外で待っている身内の人々、軍事クーデタの日に軍のトラックに積まれた死亡した民間人、スラム街の無料食堂の場面、行方不明の身内との再会や、飢えや悲しみのない豊かな生活といった想像上の場面を描いている」。

軍政下での人権侵害を告発したカトリック教会は、「失踪者」家族支援委員会を運営しながら、アルピジェラのワークショップの開催、買い取りと販売を通して、生産者の経済的自立の手段を提供してきた、とも書かれていた。

アルピジェラの生産者が女性であることからどんな意義を読み取るか――同書はさらにその点をも書き進めるのだが、その後私たちに届けられたチリの表現をも援用しながら、この問題を考えてみたい。アジェンデ時代のチリを振り返るために決定的に重要なチリ映画が2016年にようやく日本でも公開された。パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作(1975~78年制作)である。この映画は、アジェンデ政権期の1970年から73年にかけての現実を、とりわけ73年の、クーデタに至る直前の半年間の状況をドキュメンタリーとして捉えている。そこには、当時のチリ階級闘争の攻防が生々しく描かれている。アジェンデ支持派の集会、デモ、討議の場で目立つのは男性である。米国CIAに扇動もされたブルジョアジーが日常必需品を隠匿して経済を麻痺させようとする策動を行なうのだが、地域住民がこれに抗して独自に生活物資を集め仕分けする場面に、辛うじて女性の姿が垣間見える。

このように『チリの闘い』が記録してしまった1970年代初頭の社会運動の状況と、アピルジェラをめぐる諸問題などを重ね合わせると、次のような課題が浮かび上がってくるように思われる。

1)チリ革命を推進していた社会運動は、政党にあっても労働組合運動にあっても、性別分業に特徴づけられた男性中心主義の色合いを強くもっていたことは否めないようだ。それは、世界的に見て、1970年代が持つ時代的な制約であったとも言えるのかもしれない。したがって、軍事クーデタ後の弾圧は、男性に集中的にかけられた。クーデタ直後に「デサパレシードス(行方不明者)」の写真を掲げて示威行動をしたり、グスマンの映画『光のノスタルジア』(2011年)が描いたような、クーデタから30年以上経ってなお強制収容所跡地で遺骨を探したりしている人びとがすべて女性であることによって、それは裏づけられている。

2)男性中心の諸運動は、こうして再起不能な打撃を受けたが、それは同時に、母、妻、娘として、親密な男性を失った女性たちが、その「喪失や別離」の体験を発条にして、新たな地平へ進み出ることを可能にした。男性優位の社会的な価値規範のもとで下位に退けられていた「女性的なもの」に根ざした表現として現われたのが、アルピジェラであった。それは、硬い男性原理から、柔らかな女性原理への転換が求められている時代を象徴していると言える。大言壮語に満ちた「大きな物語」を語る政治運動が消えて、日常生活に根ざした表現と運動が、支配への有効な抵抗の核となった時代――と表現してもよいだろう。

3)チリ革命では、もともと、文化革命的な要素が目立った。アリエル・ドルフマンなどは『ドナルド・ダックを読む』(晶文社、1984年)、『子どものメディアを読む』(晶文社、1992年)などの著作を通して、子どもの脳髄を支配する文化帝国主義の批判を行なった。また、女性を伝統的な価値観の枠組みの中に閉じ込めるいわゆる女性雑誌の編集姿勢を徹底的に批判・分析した一連の作業もあった。若い男性主体の価値意識の中では低く見なされがちな大衆、子ども、女性などの社会層に働きかける文化批判が実践されることで、単に、政治・社会・経済過程の変革に終わらぬ、草の根からの革命の事業が活性化する可能性が孕まれていたのではないか。それは、時代が激変し、軍事政権下に置かれた時に、庶民の女性たちがアルピジェラという表現に賭けたこととも関連してくるものだろうか?

アルピジェラという民衆の文化表現からは、この時代を考えるうえで避けることのできない重要な問いがいくつも生まれ出てくるようだ。

追記:「記憶風景を縫う」展覧会についての情報は、以下をご覧ください。

https://www.facebook.com/arpilleras.jp/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[78]コロンビアの和平合意の一時的挫折が示唆するもの


『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載

国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。

キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。

私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。

中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。

サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。

教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。

日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)

「9・11」に考える映画『チリの闘い』の意義


【以下は、2016年9月11日、ユーロスペースでの『チリの闘い』上映後に、私が話したことの大要です。事前に用意したレジュメに基づいて文章化しましたが、最小限の加筆・訂正を施していることをお断りします。】

チリの映画監督パトリシオ・グスマンは、1941年生まれで、いま75歳です。チリやラテンアメリカはもとより、世界的にもかなり高名な映画監督です。なぜか、日本での作品公開は非常に遅れ、昨年秋、山形国際ドキュメンタリー映画祭で『チリの闘い』が、次いで岩波ホールで、『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』という最新作が相次いで公開されました。それから一年も経たずして、いま、『チリの闘い』のロードショウを迎えているのです。これらすべてをご覧になった方がおられるとして、全作品を通して共通するのは、1973年のチリ軍事クーデタへの強烈な関心です。なぜなのでしょう? 監督がチリ人であることからくる、一国的な特殊な事情があるのでしょうか? それとも、異邦に住む私たちにも関連してくる、世界的な普遍性があるのでしょうか? 今日は、この問題を考えてみます。

1、1970年選挙――社会主義政権の成立

映画が語るように、1970年に選挙が行なわれ、1930年代から社会主義者として政治活動を行なってきたサルバドル・アジェンデが大統領に当選します。選挙を通して社会主義政権が成立したのは、世界史上これが初めてです。アジェンデは「武器なき革命チリの道」を模索します。とはいっても、演説でもお聞きのように、社会主義への強い確信を持つ人です。「社会主義革命」は、いかに平和的なものであったとしても、現行秩序を壊さずにはおれないのです。

国内的に見てみましょう。当時のチリのように、貧富の格差がはなはだしい社会で現行秩序を壊そうと思ったら、経済的に公平で、格差をなくす社会になるような、社会福祉政策に重点をおくことになります。ほんの数例を挙げます。主要食糧品の物価を凍結しました。15歳以下の子どもに、一日0.5リットルの牛乳を無償で供給しました。農民が自らの土地を耕し、そこから収穫物を得ることができるように大土地所有制を解体しました。

対外関係を見てみましょう。チリが世界でも有数の銅資源を持つことは、映画が語っています。これを産出する銅鉱山は米国企業の手中にありました。他にも、銀行などの金融資本、国際電信電話事業も米国企業に支配されていました。ここから生み出される富を、チリの民衆は享受できなかったのです。これを接収し、国有化しました。経済の自律性を持とうとしたのです。

また、革命は、政治・経済過程の変革にのみ留まっていることはできません。その只中を生きる人びとは、旧社会の中で身をつけた価値観、日常意識、人生観を持ち続けています。必要ならばそれをも転倒する文化批判、文化革命が求められるのです。メディア、学校教育、社会教育など、批判の俎上に乗せるべき対象はたくさんあります。映画はどうか。ハリウッド映画が市場を独占しています。ハリウッド映画がどんな価値観に基づいて物語を組み立て、それを映像的に表現するものであるか。表面的には「無垢な」キャラクターが活躍するディズニー映画や漫画は、どんな価値観を子どもの脳髄に埋め込もうとしているのか。テレビはどうか。日本のアニメも評判を得つつある時代でしたが、米国製の番組の花盛りです。女性誌はどうか。これらの雑誌は、それぞれの年代の女性たちをどんな未来へ誘導しようとしているのか。このような問題意識に基づいて、社会に広く浸透している文化のあり方に対する批判活動が、チリ革命の中では行なわれました。これは、他の社会革命と対比しても特徴的なことであったと思います。

1970年に始まるチリ革命は、このような形で、平等・対等な社会関係に向けて、今ある秩序・現行秩序の変革に取り組んだのです。この改革が進めば、当然にも、既得権益を奪われる勢力が存在します。旧来の秩序の中での特権層です。だから、彼らは、進行する革命を妨害します。あわよくば、これを覆そうとします。映画『チリの闘い』が描いているのは、この階級闘争の過程なのです。小国が自主・自立を目指す試行錯誤は、どんな国内的・国際的な環境の下で行なわれたのか。これを知ることは、世界普遍的な意味をもつのです。

2、1973年9月11日に至る過程に見るべきもの

では、その過程から何が見えるか、ということを考えてみます。映画を見て真っ先に気づくのは、チリの人びとを切り裂く「階級差」です。現在の日本のように、新たな貧困問題に直面しているはものの、高度な産業社会・消費社会になると、階級差というものはそう簡単には見てとることができません。その点、当時のチリは違います。人びとの顔つき、表情、服装、言葉遣いから、その人がどんな「階級」に属しているかが、はっきりとわかります。集会やデモに出ている民衆の顔つきと服装を思い出してみてください。それと比較して、たとえば、立派な軍服で身を固めた高級軍人たちの姿を思い起こしましょう。多くが白人エリート層であることは歴然としています。暗殺された仲間を悼む集まりなのに、あの余裕のある、自信にあふれた表情の男たち。カメラを持つ人は、クーデタ必至の政治状況の中で、この男たちはいったいどんな立場を取ろうとしているのか、何を企んでいるのかを記録しておかなければならない、と思い詰めてでもいるかのように、執拗に、舐めるように、高級軍人たちの顔を映し出していきます。加えて、いかにも「ブルジョワの奥様」然とした、一群の女性たちの姿も思い浮かべることができます。

次に、集会やデモ、隠匿されていた日常品を摘発し、みんなで分配するシーンに、それぞれ、どんな年齢層の人びとが、男女のどちらの性の姿が、多く見られるかという問題です。鉱山労働者の集まりが男たちだけになるのは、労働の質からいって、当然です。ただし、日本で石炭産業が栄えていた時には、また世界のどこであっても鉱山地帯では、妻たちが鉱山主婦会を組織して、活発に活動していました。そんな姿が映し出されれば、異なる視点が得られたかもしれません。民衆や左派の集会やデモでは、どうだったでしょうか。やはり、男、それも若い男の顔が目立ったのではないでしょうか。20世紀型の社会運動にあっては、ある意味で日常的な生活の「束縛」から解き放たれて、自由にふるまうことができる者が活躍した時代でした。家族をもつ男の場合は、相手との関係でそのようにふるまう条件をつくってしまう。いわば、若く、体力があり、時間的にも自由が利く者が、運動に「専従」したのです。それによって生み出される、運動の活力もあったでしょうが、同時に、運動に「歪み」も生じただろう。このような観点から振り返るのが、現代的な視点だと思います。日常必需品の仕分けの場には、やはり、女の姿が目立った。重いものを仕分けるので、男の姿もありましたが、圧倒的多数は女だった。「役割分担」は、現実的には否応なく出てくるのですが、そこにどんな問題が孕まれるかは、考え続けなければならず、「歪み」があれば解決しなければならない。

反アジェンデ派、右派、ナショナリストたちの集会やデモでは、どうだったか。エリート校であるカトリック大学での、反アジェンデ集会では、いかにも裕福な家庭の出身だろう女子学生の姿が目立ちました。カトリック教会が保守の牙城であり、キリスト教民主党が有力政党である現実から見ても、富裕層や中産階級上に属する社会層は、それなりに分厚かったことがわかります。そんな人びとの集まりでは、先ほども使った言葉ですが、「ブルジョワの奥様方」が、けっこう楽し気にふるまっていたのが印象的でした。

次に、軍隊の問題を考えます。それまでの20世紀の社会革命では、ロシアでも中国でも、キューバでもアルジェリアでもベトナムでも、武装革命として勝利しました。人民軍、解放ゲリラ部隊、赤軍、人民解放軍などを組織して、国軍、政府軍と武力抗争を行ない、これを打ち破って革命の勝利が実現したのです。解放軍はその後の社会では国軍=政府軍となるのですから、そこで新たな、深刻な問題が派生することもありますが、それは、きょう考えるべき課題からは逸れます。

さて、アジェンデは、あくまでも平和革命路線を追求しました。それまで歴代政権の下にあった軍隊は、いわばブルジョワの軍隊という性格を色濃く持ち続けています。だが、アジェンデは軍隊には手をつけなかった。古今東西の歴史が教えるところでは、国軍としての軍隊は、国内的に一旦火急あれば戒厳令の下で民衆鎮圧活動を躊躇うことはありません。時の政府が好戦的であれば、「自衛」の名の下で他国に侵略戦争を仕掛けます。軍隊とは、そういうことが可能な、武装部隊なのです。事実、チリにおいて、右翼と米国CIAは、選挙を通してアジェンデを敗北させることに失敗すると、軍隊を利用したのです。他方、民衆は武装解除されており、銃ひとつ持つわけでもありません。日本でも、来年度の防衛費は5兆円を超え、自衛隊は25万人の兵力を抱えています。国家予算によって保証されているこのような武装部隊が、その武力を背景に政治の前面に出てきたら、どうなるか。チリの軍事クーデタが物語るのは、この問題です。それは、対岸の火事ではないのです。

非武装の民衆と、時の支配層の意思ひとつでいかようにも動かすことができる国軍という対比において、軍隊が本質的に持つ問題性を考えるべき時期がきています。

マスメディアの問題もあります。「世論」形成に重要な役割を果たす巨大メディアが、どんな立場に立って、何を報道し、何を報道しないか。その選択基準は何によって左右されているのか。日本の現状に照らしても、見逃すことのできない問題がここにはあります。

3、1973年

さて、こうして見てきたチリ階級闘争においては、右翼が軍事クーデタという非常手段によって勝利しました。アジェンデの平和革命路線は挫折したのです。軍事政権下で、いかなる時代が始まったか。新自由主義の世界制覇の時代は、ここを先駆けに始まったのです。経済運営に無知なチリの軍事体制を支えるために、米国はシカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンに学んだ者たちを派遣した。彼らが指南した経済政策は、いわゆる「小さな政府」論です。国家予算によってカバーすべき分野を極力少なくする。そのぶん、民間企業間の競争原理に委ねるとよい。規制緩和、国営企業の私企業化、市場経済化、金融自由化、行財政改革、教育バウチャー(利用権)制度の導入などの政策です。私たちの耳目も、この間十分に慣れ親しんだ言葉ですね。

チリ軍事クーデタから7,8年を経た1980年前後には、イギリスにサッチャー、米国にレーガン、日本に中曽根などの政権が確立し、新自由主義経済政策は世界全体に波及するようになります。日本社会に生きる私たちも、この政策が採用されて数十年経ったのですから、これがどれほどまでに社会のあり方を荒廃させるものであるかを、身をもって経験しています。経済格差の顕在化、非正規労働の増大に象徴される労働事情の激変、社会福祉政策の後退、総じて弱肉強食の価値観と現実が社会に浸透したのです。

米国は、チリ軍事クーデタを画策した以上、東西冷戦下でチリ国を「発展モデル」にするために「責任をもって」新自由主義の「実験場」にしました。それは、ソ連体制を崩壊に追い込んだ現代資本主義を全面開花させるまでに至ったのです。チリの経験は、こうして、世界的な普遍性をもつに至りました。

4、「9・11」

きょうは、9月11日です。「9・11」といえば、15年前の出来事を思い起こすのがふつうです。すなわち、ハイジャック機がニューヨークのワールド・トレイド・センター・ビルやペンタゴンに自爆攻撃を仕掛けた事件です。昨夜からのテレビ・新聞は、15年目の「9・11」を回顧するニュースにあふれかえっています。ところで、私たちが考えてきたチリ軍事クーデタの日付も、9月11日です。1973年の「9・11」。今から43年前の出来事です。

15年前の「9・11」事件の時から、チリやラテンアメリカからは、このもうひとつの「9・11」を忘れるな、というメッセージが発せられました。なぜなら、15年前の米国はこの攻撃を受けて3000人有余の犠牲者を生み出したこともあって、まるで「世界一の悲劇を被った」国であるかのようにふるまい、「反テロ戦争」に踏み出そうとしていたのです。しかし、政治的・経済的・軍事的に身勝手なふるまいを行ない、近現代史において他国に多大な犠牲者を生み出すきっかけをつくってきたのは、他ならぬ米国ではないか。1973年のチリ軍事クーデタは、まさに、その一つの例証なのだ。それなのに、いまさら、被害者ぶるのは許せない――そのような思いが、溢れ出たのです。

私も、15年前の「9・11」のときに、同じように考えました。これは、米国が自らの従来の外交政策を内省し、政策変更を大胆に行なう絶好の機会であり、「反テロ戦争」などという報復に乗り出すことがあっては、絶対にならない。だが、米国は、国を挙げて戦争に突入しました。そして、15年後の現在、世界は「反テロ戦争」と「テロ」の、終わりなき応酬の時代を迎えているのです。この悲劇を生み出した大国・米国の責任は重大です。ですから、「9・11」は、メディアが報道するような、ひとり米国の「悲劇」としてではなく、無数の「9・11」を思い起こす機会にすべきなのです。

5、グスマンのフィルム?

さて、最後です。この映画の撮影中に軍事クーデタがおこり、グスマン自身も逮捕されてしまいます。撮りためてあったフィルムは、どうやって、生き永らえることができたのでしょう? この謎解きは、劇場用パンフレットでも明かされているので、ここで触れてもよいでしょう。映画が問わず語りに明かしているように、グスマンらは、軍事クーデタが早晩起こるのは必至との思いを抱きながらカメラを回していたことでしょう。事前に手を打っておかなければならない。グスマンには、ひとりのおじさんがおりました。ピアニストで、政治には無関係に生きている人なので、ここまでは弾圧の手が延びないだろうと考え、撮りためた16ミリ・フィルムを彼に託しました。まもなく、サンティアゴのスウェーデン大使館のスタッフがフィルムを取りに来ました。軍事クーデタに対するこの時期のスウェーデン政府の断固たる立場を明かすものでしょう。このあと、スウェーデンはチリから、大勢の亡命者を受け入れることになります。70年代後半から80年代にかけて、私は、それら亡命者が発行する機関誌“Combate”(闘い)を購読していました。

さて、フィルムがたどった「運命」に戻ります。スウェーデン大使館のスタッフは、バルパライソの港から、大量のフィルムを本国へ送ろうとします。軍や税関は、怪しいものとみて、これを阻止しようとします。しかし、特別取り扱いが必要な外交貨物です。手を付けるわけにはいきません。無事、フィルムはバルパライソの港を出ました。この港町の名をご記憶ですか。チリ有数の港湾都市であり、したがって、海軍の地盤でもあります。反アジェンデの軍隊反乱も最初ここで起こったのでしたが、これとの闘いを描いたフィルムも、この港を出る貨物船に乗せられたのです。

拘留が短期間で済んで釈放されたグスマンは、スウェーデンへ飛び、フィルムと対面します。いざ、編集にかかりたいが、資金が工面できません。自己資金はなく、スポンサーも見つからない。そこへ、キューバの映画芸術産業庁が協力を申し出ます。そこで、グスマンはキューバへ行き、そこの映画人の全面的な協力を得て、75年の第1部、77年に第2部、79年に第3部を完成させて、世界に流通させることができたのです。もちろん、軍事政権下のチリでは無理でした。数奇なフィルムの運命です。生き永らえたのは奇跡的、とも言えます。フィルムよ、ありがとう、と言いたい気持ちです。

以上が、私たちがようやくめぐり合えている映画『チリの闘い』について、30分以内で語りたいことのすべてです。終わります。ありがとうございました。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[76]もうひとつの「9・11」が問うこと


『反天皇制運動Alert』第3号(通巻385号、2016年9月6日発行)掲載

まもなく「9・11」がくる。多くの人が思い起こすのは、15年前、すなわち2001年のそれだろう。ハイジャック機が、唯一の超大国=米国の経済と軍事を象徴する建造物に自爆攻撃を仕掛けたあの事件を、である。もちろん、これは現代史の大きな出来事である。だが、ここでは、43年前、すなわち1973年の「9・11」を思い起こしたい。私の考えでは、これもまた、世界現代史を画する大事件のひとつである。

南米チリで軍事クーデタが起こり、その3年前に選挙を通して成立した、サルバドール・アジェンデを大統領とする社会主義政権が倒されたのだ。このクーデタは、内外からの画策が相まって実現した。チリに多大な経済的な利権を持つ米国支配層は、新政権の社会主義化政策によって、それまで恣に貪ってきた利益が奪われることに危機感をもった。CIAを軸に、アジェンデ政権を転覆させるための政治的・経済的・民心攪乱的な策動を直ちに始めた。チリ国内にも、それに呼応する勢力は根強く存在した。カトリック教会、軍部、地主、分厚い上流・中産階層などである。3年間、およそ千日にわたる彼らの合作が功を奏して、軍事クーデタは成った。

当時、私はメキシコにいた。そこでの生活を始めて、2ヵ月半が経っていた。軍事クーデタのニュースに衝撃を受け、日々新聞各紙を買い求めは熟読し、ラジオ・ニュースに耳を傾けていた。9月末頃からだったか、左翼・右翼を問わず亡命者を「寛容に」受け入れる歴史を積み重ねてきているメキシコには、軍政から逃れたチリ人亡命者が大勢詰めかけてきた。いずれ、その中の少なからぬ人びとと知り合いになるが、初期のころ新聞に載った一女性の言葉が印象的だった。「記憶」で書いてみる。愛する男(夫か恋人)が軍部によって虐殺されたか、強制収容所に入れられたりしたかのひとだったろう。「相手を奪われて、セックスもできない日々が続くなんて、耐え難い」。軍事クーデタへの怒りが、このように語られることに「新鮮さ」を感じた。

2010年、チリ軍事クーデタから37年を経た時期に、大阪大学で或る展覧会とシンポジウムが開かれた。軍政下のチリで、女性たち創っていた「抵抗の布(キルト)」(現地では、アルピジェラ arpillera と呼ばれている)の意味を問う催しだった。私もそこへ参加した。アジェンデ社会主義政権に荷担していた男たち(左翼政党員、労働組合員、地域活動家など)が根こそぎ弾圧されて、ひとり残された女たちが拠り所にしたのが、抵抗の表現としてのキルト創りだった。一般的に言えば素朴で拙い表現とも言えるが、下地には「いなくなった」人のズボンやシャツ、パジャマの生地が使われている。語るべき「言葉」を持っていた男たちが消されたとき、言葉を奪われてきた女たちは別な形で「表現」を獲得した。それが、軍政下の抵抗運動の、「核」とさえなった――岡目八目ながらも、私はそのことの意義を強調した。そして付け加えた。チリ革命の只中で実践された文化革命的な要素がそこには生きているのではないか。すなわち、表層的な政治・社会革命に終わるのではなく、人びとが置かれている文化環境(従来なら、北米のハリウッド映画、ディズニー漫画、コミック、女性誌など、一定の価値観を「それとなく」植えつける媒体が圧倒的な力を揮っていた)に対する地道な批判活動が展開されていたからこそ、軍政下で「抵抗の布」の活動が存在し得たのではないか、と。

アジェンデ社会主義政権下の試行錯誤の実態と、軍事クーデタ必至の緊迫した状況を伝える パトリシオ・グスマン監督のドキュメンタリー『チリの闘い』(1975~78年制作)がようやく公開される。社会主義政権の勝利を願う「党派性」をもつ人びとがカメラを担いでいる。だが、現実は仮借ない。激烈な言葉が宙に舞い、現実はまどろっこしくもひとつも動かない状況を写し撮ってしまう。デモや集会に目立つのは若い男たち。女たちは、日常品不足のなか生活用品獲得に精一杯だ。撮影スタッフは5人程度だったというから、まぎれもなく進行していた〈階級闘争〉の攻防は主として都市部で撮影され、先住民族の土地占拠闘争が進行していたチリ南部農村地帯の状況はスクリーンに登場しない。〈欠落〉を言えばキリがない。だが、進行中の〈階級闘争〉の現実をここまで描き出した記録映画は稀だ。この状況下で、どうする? ああすればよい、こうすればよい――戸惑いつつも、何ごとかを決断して、前へ進まなければならぬ。

40年前のこの映画には、今を生きる私たちの姿が、描き出されている。(9月4日記)

映画『チリの闘い』に関する情報は以下へ→

https://www.facebook.com/Chile.tatakai/

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[72]米大統領のキューバ訪問から見える世界状況


『反天皇制運動カーニバル』37号(通巻390号、2016年4月5日発行)掲載

私が鶴見俊輔の仕事に初めて触れたのは、高校生のころに翻訳書を通してだった。米国の社会学者、ライト・ミルズの『キューバの声』の翻訳者が鶴見だった(みすず書房、1961年)。表紙カバーには、原題 “Listen , Yankee” (『聴け、ヤンキー』)の文字が浮かび上がっていた。1960年夏まで(ということは、キューバ革命が勝利した1959年1月からおよそ1年半の間は)ミルズはキューバについて考えたこともなかった、という。だが60年8月、キューバの声は「空腹民族ブロックを代表する」(原語はどうだったのか、「空腹民族」とは言い得て妙な、「面白い」表現だ)ひとつの声だと悟ったミルズは、急遽キューバを訪れ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラはもとより市井の多くの人びとと会って話を聞き、それを「代弁」するような書物を直ちにまとめた。米国は「空腹世界のどのひとつの声にも耳をかたむけることをしないということが許されないほどに強大で」あることに気づいたからである。原書は60年末までに刊行されたのであろうが、61年3月には日本語版が発行されている。改訂日米安保条約強行採決に抗議して東工大教官を辞したばかりの翻訳者・鶴見をも巻き込んでいた「時代」の熱気を感じる。

オバマ米大統領のキューバ訪問についての報道を見聞きしながら思い出したことのひとつは、ミルズのような米国人も存在していたのだということである。当時のケネディ大統領も含めた米国の歴代為政者が、もしミルズのような見識(他民族・他国の独自の歩み方を尊重し、米国がこの国に揮ってきた政治・経済の強大な支配力を反省する)の持ち主であったならば、半世紀以上にもわたって両国間の関係が断絶することはなかったであろう。軍事侵攻によってキューバ革命の圧殺を図った過去を持つ米国の大統領としてキューバを訪れたオバマは、人権問題をめぐってキューバに懸念を示す前に、言うべき謝罪の言葉があったであろう。キューバが深刻な人権侵害問題を抱えているというのは、私の観点からしても、事実だと思う。だが、自国の過誤には言及せず、サウジアラビアやイスラエルによる人権侵害状況にも目を瞑り、むしろこれを強力に支えている米国が、選択的に他国の人権問題を批判することは、二重基準である。米韓合同軍事演習は、通常の何気ない言葉で表現し、朝鮮が行なう核実験やミサイル発射のみを「挑発」というのと同じように――大国とメディアが好んで行なうこの言語操作が、いつまでも(本当に、いつまでも!)人びとの心を幻惑しているという事実に嘆息する。

1903年以来米国がキューバに持つグアンタナモ海軍基地を返還するとオバマが語ってはじめて、キューバと米国は対等の立場に立つ。グアンタナモとは、裁判もなく米軍に囚われて虐待されているアルカイーダやタリバーンなどの捕虜の収容所だけなのではない。1世紀以上の長きにわたって、米軍に占領されているキューバの土地なのだ。他国にこんな不平等な関係を強いて恥じない大国の傲慢さを徹底して疑い、批判するまでに、世界の倫理基準は高まらなければならない。

オバマはキューバからアルゼンチンへ向かった。後者には、十数年ぶりに右派政権が成立したからである。各国が軒並み軍事独裁政権であった時代に、米国主導の新自由主義経済政策によって社会に大混乱をもたらされたラテンアメリカ諸国には、20世紀末から次々と、米国の全的支配に抵抗する政権が生まれた。二十数年間続いてきたこの流れは、この間、一定の逆流に見舞われている。だが、全体を見渡すと、この地域に、いま戦乱はない。軍事的緊張もない。1962年のキューバ・ミサイル危機を思い起こせば、感慨は深い。東アジア、アラブ、ヨーロッパ、北部アフリカなどの地域と比較すると、それがよくわかる。かつてと違って、米国の軍事的・経済的・政治的なプレゼンス(存在)が影をひそめたことによって、社会の安定性が高まったからである。巨大麻薬市場=米国と、悲劇的にも国境を接するメキシコが、10万人にも上る死者を生み出した麻薬戦争の只中にある事実を除けば。

米国の「反テロ戦争」を発端とするアラブ世界の戦乱が北アフリカ地域にも飛び火している、悲しむべき状況を見よ。60年以上も続く、朝鮮との休戦協定を平和協定に変える意思を米国が示さぬために、米韓合同軍事演習と朝鮮の「先軍路線」の狭間で、「(金正恩の)斬首作戦」とか「ソウルを火の海にする」とか、熱戦寸前の言葉が飛びかう東アジア情勢を見よ。

米国の「存在」と「非在」が世界各地の状況をこれほどまでに左右すること自体が不条理なことだが、その影響力を減じさせると、当該の地域には「平和」が訪れるという事実に、私たちはもっと自覚的でありたい。(4月1日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[68]「魂の飢餓感」と「耐用年数二〇〇年」という言葉


『反天皇制運動カーニバル』第33号(通巻376号、2015年12月8日発行)掲載

翁長雄志沖縄県知事が発するメッセージには、じっくりと受け止めるべき論点が多い。権力中枢の東京では、論議を回避してひたすら思うがままに暴走する極右政治が跋扈する一方、本来の保守層の中から、それに抵抗する粘り腰の考えと行動が随所で生まれていることに注目したい。なかでも、辺野古問題をめぐる翁長知事の揺るぎない姿勢が際立つ。翁長知事は、日米安保体制そのものは「是」とする立場であることをたびたび表明しているが、この人となら私のような日米安保解消論者も、その「是非」をめぐって、まっとうな討論ができるような気がする。辺野古に限らず、高江のヘリコプター着陸帯計画や宮古島への陸上自衛隊配備構想なども含めて、日米両国の支配層が琉球諸島全域において共同であるいは個別に行ないつつある軍事的な再編の捉え方に関しても。

12月2日、辺野古の新基地建設計画に伴う埋め立て承認取り消し処分を違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟の第一回口頭弁論において、知事は10分間の意見陳述を行なった。訴訟で問われているのは、(大日本帝国憲法下で制定された)公有水面埋立法に基づく判断だが、その枠内での法律論は県側が提出した準備書面で十全に展開されている。そこでは、1999年の地方自治法改訂によって国と地方が対等な立場になったことをはじめ、憲法の規定に基づく人格権、環境権、地方自治の意義などをめぐる議論が主軸をなしている。そのためもあろうか、知事の陳述自体は法律論を離れて、過重な基地負担を強いられてきている沖縄の歴史と現状を語ることで、地方自治と民主主義の精神に照らして見た場合、沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常なのかと社会全体に問いかけた。とりわけ、2つの箇所が印象に残った。「(沖縄県民が)歴史的にも現在においても、自由・平等・平等・自己決定権を蔑ろにされてきた」ことを「魂の飢餓感」と表現している箇所である。この表現を知事は過去においても何度か口にしている。私には、どんなに厳しいヤマト批判の言葉よりもこの表現が堪える。1960年の日米安保条約改定を契機にしてこそ、ヤマトの米軍基地は減少し始め、逆に沖縄では増大する一方であった事実に無自覚なまま、私たちの多くは「60年安保闘争」を戦後最大の大衆闘争として語り続けてきた。それだけに、「魂の飢餓感」という言葉は、沖縄とヤマトの関係性の本質を言い表すものとして、支配層のみならず私たちをも撃つのである。

いまひとつは、「海上での銃剣とブルドーザーを彷彿させる行為」で辺野古の海を埋め立て、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わって機能強化される予定の新基地は「耐用年数200年ともいわれている」と述べた箇所である。耐用年数200年と聞いて、私が直ちに思い浮かべるのは、キューバにあるグアンタナモ米軍基地である。米国がこの海軍基地を建設したのは1903年だった。現在から見て112年前のことである。その後60年近く続いた米国支配が終わり革命が成っても(1959年)、米国がキューバの新政権を嫌い軍事侵攻(初期において)や経済封鎖(一貫して)を行なってきた半世紀以上もの間にも、米国はグアンタナモ基地を手離すことはなかった。革命後のキューバ政府がどんなに返還を求めても、である。現在進行中の両国間の国交正常化の交渉過程においても、米国にグアンタナモ返還の意志は微塵も見られない。

一世紀以上も前に行われた米国のキューバ支配の意志は、当時の支配層の戦略の中に位置づけられていた。南北戦争(1861年~65年)、ウーンディッドニーでのインディアン大虐殺(1890年)などの国内事情に加えて、モンロー宣言(1823年)、対メキシコ戦争とカリフォルニアなどメキシコ領土の併合(1848年)、ペリー艦隊の日本来航(1853年)、キューバとフィリピンにおける対スペイン独立戦争の高揚を機に軍事的陰謀を計らって、局面を米西戦争に転化(1898年)して以降カリブ海域支配を拡大、ハワイ併合(1898年)、コロンビアからのパナマ分離独立の画策(1903年)とパナマ運河建設(1914年)など、米国が当時展開していた対カリブ海・太平洋地域戦略を総合的に捉えると、グアンタナモを含めてそれぞれの「獲得物」が、世界支配を目論む米国にとっていかに重要かが、地図的にも見えてくる。戦後70年を迎えている沖縄をも、あの国は、いま生ある者がもはや誰一人として生きてもいない1世紀先や2世紀先の自国の利害を賭けて、その軍事・経済戦略地図に描き込んでいるのである。それに喜々として同伴するばかりの日本政府のあり方も見据えて発せられている「耐用年数200年」という翁長知事の発言に、現在はもとより未来の世代の時代への痛切な責任意識を感受する。

(12月5日記)

ホルヘ・サンヒネスとの対話から――ラテンアメリカ特集に寄せて


山形国際ドキュメンタリー映画祭2015/映画祭公式ガイドブック「スプートニク」掲載

私たちが自主上映・共同制作活動でこの40年間付き合ってきているボリビアのウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネス監督は、狭い意味でのドキュメンタリー作家の枠内には収まらない。その作品は、現実に起きた出来事に素材を得ながらもフィクション化している場合が多いからである。だが、ドキュメンタリーやセミ・ドキュメンタリーの作品もあるから、ラテンアメリカや欧米で出版されている「現代ラテンアメリカ・ドキュメンタリ―映画」の研究書の中では必ず言及される存在だ。

ホルへ・サンヒネスたちと出会ったのは1975年のことだ。首都キトで偶然観たウカマウの映画『コンドルの血』(1969)に新鮮な驚きを感じてこの未知の監督のことを探っていたら、何と、軍事政権下のボリビアを逃れてキトに滞在中という。翌日には会っていた。話し合ってみて、歴史観・世界観に共通なものを感じた。旅の途上にあった私たち(連れ合いも一緒だった)と、亡命地を転々としていたホルヘたちとは、ラテンアメリカ各地で再会する機会があった。その度ごとに、ホルヘは自分たちの旧作や「これは!」と彼が思う同時代の作家たちの作品を見せてくれたり、ラテンアメリカ映画にまつわるさまざまな話をしてくれたりした。それ以来、私たちは映画人でもないのに、40年来の付き合いである。

今回の山形映画祭で上映される『チルカレス』(マルタ・ロドリゲス+ホルヘ・シルバ監督、コロンビア、1972)をホルヘ・サンヒネスは、確か、ボゴタのどこかで見せてくれた。ホルヘは、自分たちの初期の短篇『革命』(1962)と『落盤』(1965)が、民衆の貧窮の実態を描きながら、当の貧しい民衆からの批判に曝されていると語った。自分たちが日々生きている「貧しさ」が画面に映し出されていても、面白くもなんともない。知りたいのは、この現実がなぜ生まれているのか、だ。この批判を受けて、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画は変わり始める。その意味では、『チルカレス』も同じ問題を抱えている。しかし、信頼できる作家たちだ――ホルヘは、そう語ったと記憶している。今年は、『チルカレス』に加えてコロンビアのこの二人の映画作家のその後の作品も観られると知って、私の心は沸き立つ。

アルゼンチンのフェルナンド・ソラナスは、ホルヘ・サンヒネスがもっとも信頼し親しくしている映画作家のひとりだ。オクタビオ・ヘティノとの共同監督作品『燃えたぎる時』(1968)――私はかつて『坩堝の時』と訳していた――のことを熱く語ったホルヘの様子をよく覚えている。2000年頃だったか、日本での上映可能性はないがとの断り書き付きで、この名のみ高い作品が東京の某所で「クローズドで」上映される機会があった。その場に居合わせることができた私がどんな思いで画面に見入ったか――想像にお任せしたい。

チリのパトリシオ・グスマンの話が、ホルヘとの対話に出てきたか、よく覚えていない。だが、1970~73年9月のチリに成立していたアジェンデ社会主義政権の時代の一時期、軍事政権下のボリビアを逃れてホルヘたちはチリに亡命していた。アジェンデ政権下では文化政策が活性化し、ラテンアメリカ各地の軍事体制から逃れた多数の文化活動家がチリに赴いて、テレビや映画分野での仕事に携わったという。ホルヘ・サンヒネスもそうした一人だったから、おそらく、パトリシオ・グスマンと知り合う機会があったのではないか。ともかく、私は現地の新聞記事や研究書で彼の名と作品のことはよく見知っていたから、作品をひとつも観ないうちから、今回上映される『チリの闘い』3部作(1975~78)などの題名がくっきりと頭に刻み込まれている。数年前、彼の『光のノスタルジア』(2010)を観た時の思いは、だから、とても深いものがあった。

ウカマウ作品の自主上映を始めたのは1980年だったが、それが大きな成功を収めたので持続的な活動にする展望が見えた1981年には、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネスの映画理論書『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』を翻訳・出版した(三一書房、絶版)。巻末には、ウカマウのみならずラテンアメリカ映画の作品年表を付した。その頃は同地の映画が上映される機会はほとんどなかったから、私が観たこともない作品も含めて、ホルヘ・サンヒネスから聞いた話や研究書に基づいて、監督名と題名を年表に付け加えていった。したがって、『チルカレス』も『燃えたぎる時』(は『坩堝の時』として)も『チリの闘い』3部作も、その年表に収められている。

上に見たようなエピソードに満ちた作品を、日本に居ながらにして観る機会が訪れようとは! 過ぎ去った40年間を思い、人生が続き、活動が持続している限りは、こんなことが起こり得るのだ、という思いが溢れ出てくる。(9月10日記)

『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話』(2014年10月19日、成蹊大学)における発言


以下は、2014年10月19日、東京の成蹊大学で開かれた同大アジア太平洋研究センター主催の『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話●ラウィ・ハージ/モナ・プリンス/サミュエル・シモン氏を迎えて』において、コメンテーターを務めた私が行なった発言の大要である。

司会は、同センターの田浪亜央江さん、アラブ世界からの3人の話を享けてコメントしたのは、アラブ文学研究者の山本薫さん、作家の小野正嗣さん、それに私であった。ここに紹介できるのは、もちろん、私の発言部分のみである。

■太田:太田です。よろしくお願いします。冒頭に田浪さんが今日の集まりの由来を話されて、韓国の仁川で2010年からアジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議が開かれていたということを聞いて、なつかしい思いに浸りました。実は僕は1980年頃、当時日本に日本・アジア・アメリカ作家会議というのがあってですね、それを運営している作家や評論家と知り合ったんですが、いっしょにやらないかと言われたんです。作家というのは狭義の小説家という意味ではなくて、文化活動家であったり、表現に関わっている者の総称だから太田でも大丈夫だからということで、日本・アジア・アメリカ作家会議をしばらく一緒にやりました。東京でも川崎でも国際会議を開きましたし、旧ソ連の中央アジアの民族共和国の首都のフルンゼ[現ビシュケク]とかタシュケントの国際会議にも行きました。僕が出た最後は86年、チュニジアのチュニス、PLOがベイルートを追われてチュニスに本部が置かれた頃の会議だと思います。回を重ねたこのような折りにアラブ・パレスチナの外交団とも、[マフムード・]ダルウィーシュ含めてお会いしているんですね。そんな記憶が甦ったり。そこで感じたことは後で触れます。

韓国といえば、日本での会議のときは、韓国の人では白楽晴(ペクナクチョン)などを招いたような気がするんですけれども、国際会議でお会いしたことはなくて、むしろ朝鮮民主主義人民共和国の作家代表団と会いましたね。チュニスで会ったときには世界文学のあれも読めない、これも読めない、ってタイトルをいろいろ挙げられて(笑)。僕もなんとかしてあげたいけれども、しかしなあ…、と問答に詰まったことを思い起こします。80年から86年というのは、韓国はまだ軍事政権下ですから、なかなか表現について厳しい時代であった。ただ、僕はもう当時出版に関わっていたので、僕が出す第三世界の思想・文学の本なんかは、しょっちゅう韓国に行く在日朝鮮人の文学者に渡して「創作と批評」社に届けてもらった。そうすると間もなく、『創作と批評』なり、それから『第三世界思想』という雑誌なども軍事政権下で出ていたと思いますが、そこに解放の神学についての文章が載ったりとか、アパルトヘイトについての文章が載ったりしまして。僕らが送っている本がそれなりに生かされているなあと感じて、それはそれで嬉しく思ったということがありました。

それはともかく、今日の3人の方のお話を聞いて考えたことをお話したいと思います。僕自身は約30年間、現代企画室という小さな出版社で哲学、思想、文学、芸術、さまざまな人文書の企画・編集をやってきたんですけれども、そこで思想的な基軸としてこだわってきたのは、我々が生きている日本社会にどういう問題があるかということを考えたときに、それはやはり日本民族中心主義というぬぐいがたい思想傾向だと思うんです。これは明治国家がヨーロッパを先進国のモデルとして富国強兵政策を取り始めたときに定められて、その後なかなか、敗戦後70年経とうとしているいまもぬぐいきれない、重大な一つの傾向だと思うんです。その傾向がここ数年間、極右政権の成立とともに社会全体に浸透して、とんでもない状況になっているというのは、皆さんご存知のとおりです。

このような日本民族を中心に据えてしか思想や文学のことを語り得ないこの社会の中にあって、いったいどういうふうにこれを打破していくのか。それはもちろん一つとは限らない、さまざまな方法があると思うんですが、やはりその一つの有効な方法は、他民族、異民族の歴史や文化に対するさまざまな窓口をどのように開いておくか。それが人々の心の中に、時間をかけてですが訴えかけていく、その可能性にかけるしかないだろうというふうに思ったんです。ヨーロッパであれば、ヨーロッパ中心主義に対して批判提起をしている哲学思想が軸でしょうし、あるいは、ヨーロッパを模倣して日本が近代化を遂げて、アジアで唯一の植民地帝国になったということは、いわゆる第三世界に対する偏見とか、そうしたものがこの社会の中に根付いているということになる。だから第三世界の文化、思想、文学、そうしたものに対する窓口をどの程度作ることができるのか。それが中心的な課題でした。

僕自身は、まあ今も関心が続いているんですが、わりあい集中的にラテンアメリカのことを学んできたこともあったので、出版に関わることになったときに、まずラテンアメリカの文学・思想をどのように紹介するのかということを一つの課題にしました。最初に言いましたように今の出版活動に30年くらい関わってきたと思いますが、僕らのような小さな出版社でも狭い意味でのラテンアメリカ文学はもう50冊くらい出してきたと思うんですね。文学以外も含めると100冊くらいでしょうか。まあもちろん日本には新潮社とか集英社とか岩波書店とか、僕のところとは比べものにならない大出版社がありまして、それはそれぞれラテンアメリカ文学に力を入れてきている時期がありましたが、全部合わせるとおそらく200冊とか…。あんまり並べて数えたことはありませんけれども、全部の出版社を合わせると現代文学の紹介はそれぐらい進んでいるという状況だと思うんです。

それだけ皆さんもお読みになった方も多いだろうし、今年亡くなったガルシア=マルケスを筆頭として、1920年代や30年代に生まれて、今70代になり、80代になっている現代作家たちが非常に旺盛な創造性を発揮して次から次へと問題作を発表してきた。そういうことになる。どうしてそれが可能になったのかということも少し多面的に考えなければならないんですが、今日は話の進行上、一つの理由だけに触れたいと思うんですね。それは1959年のキューバ革命の勝利ということがラテンアメリカの現代作家に与えた決定的な影響力だったと思うんです。キューバ革命はもう半世紀以上経って、50年以上の歴史を刻んだので、その後さまざまな矛盾や問題を抱えています。それは僕のように、政治的にはキューバ革命への共感から青春時代が始まった人間においても、今考えると…。最初期の10年くらいは、やっぱり光り輝いているんですよ、それは僕が若かったということもあるかもしれないけれども。しかし10年経ち、20年経ち、30年経ち、ましてや半世紀経つと、キューバ革命がどれほど深刻な問題を抱えていたかというのは、僕なりに見えてきているわけです。

今日はこの問題ではなくて、例えば最初の5年間、10年間、そのときラテンアメリカの作家たちにとって、あるいはラテンアメリカの一般の民衆にとってキューバ革命がどれほど希望の星であったのかという、その影響力を考えなければならないと思うんですね。やっぱりラテンアメリカという地域は、それまではスペインに、あるいはポルトガルに征服されて成り立ってきて、19世紀の前半、大半はなんとか独立を遂げるわけですけれども、その後は、今度は北アメリカという同じ大陸に存在する超大国が政治的、文化的、経済的、そして20世紀に入ってからは軍事的に浸透し、支配して、完全にその支配の下に置かれるわけです。キューバもそうでした。19世紀末、フィリピンと共に何とかスペインから独立する直前まで行きながら、その独立闘争に荷担して軍事的な策略を講じたアメリカ帝国によって独立がかなわず、ほぼ半植民地下に置かれてしまう。そういう半世紀以上をすごしたキューバが、1959年にキューバ革命を成就し、社会主義革命であると名乗った。そしてそれまでの独裁政権とは違う国家予算の使い方をするわけですから、教育とか医療とか福祉とか、そうしたものが第三世界の貧しい国としては飛躍的に向上するわけです。イデオロギー的にもなかなかユニークな、当時のソ連の社会主義が持っていた重苦しさ、抑圧感、それとは違う新しい価値観を切り拓こうとしているかに見えた。

それまでのラテンアメリカの作家たちはみんな国境の、それぞれの国の中に閉ざされていた。意識としても。作品を互いに知り合うことはなかったし、単行本として作品が刊行されても、それが他の国に流通するというシステムを持たなかった。キューバ革命は、その勝利した土地に、カサ・デ・ラス・アメリカス、「アメリカの家」という文化団体を作ります。アラブの世界ではどうかわかりませんが、日本ではアメリカというとUSAをしか指さない場合があるんですが、ラテンアメリカの人にとってはアメリカというのはあの大陸全土を指す、そういう名称として使われているので、「アメリカの家」という文化機関を作ったんです。

ここでサミュエル・シモンさんの『Banipal』とつながる話になっていくのですけれど、「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関で、大陸の文化活動に関わる人々の様々な表現がそこに集まってシンポジウムが行われたり、個展が行われたり。雑誌が出て、その雑誌でいろんな文学者の作品が紹介されるようになった。あそこはスペイン語圏が一番多いけれども、ポルトガル語があり、フランス語があり、オランダ語があり、英語があり、たくさんのヨーロッパ植民地帝国の痕跡が残っているから、言語が多様なわけですね。そしてもちろん、無文字社会の先住民言語がある。そのような作品が雑誌や単行本のかたちでどんどんキューバで刊行されることになっていきます。それで文学賞や、映画祭も開かれるようになって、ハバナやサンティアゴ・デ・クーバにどんどん作家たちや文化活動家が集まってくるわけです。毎年一回、いろんな機会に。そこでお互いの顔を知るようになり、どんな作品を作っているかということをお互いが知るようになった。だから一つの地域の中で、国境の垣根を取っ払って、精神的にも開かれた作家たちが交流し合うと、それはもちろん大きな刺激になるわけです。コロンビアのガルシア=マルケスはこんな作品を書いていた、バルガス・リョサはこんな作品をと。それぞれが本当に知り合う。しかも、少なくとも1960年代というのは、まだまだキューバ革命への共感が一体化していた時代だったので、そこで一気に文学が活発化していく。もちろん映画も活発化しますし、さまざまな表現活動が花咲いていくわけです。

もちろんキューバには表現弾圧という時代がありました。別の立場から見ればそんな活況を呈しているところばかり見ても…、という批判も当然ありうるかもしれませんけれども、当時の状況の大きな流れとしては、そういうふうに説明してもいいだろうと思います。

僕は今回の機会を田浪さんからいただいたときに、『Banipal』という雑誌をインターネットサイトで検索してみました。こういう定期的な刊行物を出して、世界に開かれていく機会を提供することがどんなに重要になるかということを、僕がラテンアメリカの文化状況を見ながらずっと思っていたものですから、この『Banipal』は今までもそうであったろうし、これからもアラブ文学が世界に紹介されていく上で、ひじょうに大きな意味を持つものではないだろうかと、たいへん共感を持ちながらインターネットサイトを見ておりました。今日実際にその話を伺って、ひじょうに嬉しいと思います。

次にモナ・プリンスさんのお話ですが、先程僕は、旧ソ連やチュニスで、あるいは日本で、当時のアジア・アフリカ作家会議の国際会議に何度か出たというふうに言いました。アラブ・パレスチナ代表団にお会いしましたら、記憶がかなり薄れているところがあるけれども、ほとんどの代表団のメンバーは男性であったのです。まあ、80年代当時です。今日、モナ・プリンスさんのお話が僕にとって大事だったのは、女性の作家としての立場、今のエジプト文学の中で、あるいはアラブ圏の文学の中で、そのような立場をご自分がはっきりと立ててものを言われている。部分的に知った作品の中でもはっきりとそのような問題提起をされているということが、僕にとっては一つの大きな意味を持ちました。ごらんの通り僕は男ですが(笑)、大きく言えば人類史がここまで混迷してだめになっているのは、男性原理の価値観を貫いて国家が運営され、社会が展開してきたからだというふうに思っているんです、実は。(笑)

笑われてしまいましたけど、アラブ社会の方々は特に困難な時期を生きておられると思いますが、現在世界がここまで、戦乱が絶えず起きて、人類が戦争というものと今に至るも切ることのできない、そういう事態をもたらしているのは、やはり男性原理的な価値観。国家の支配層はもちろんそうだけれども、社会の一般に生きる民衆の中にまでそういう価値観が浸透してこれを覆すことができないからだと。断固としてそういうふうに、この立場でものを考えるようにしているので、今日のモナ・プリンスさんのお話はそういう意味でひじょうに勇気を得られ、ありがたく感じました(笑)。

■モナ:ありがとう。(笑)

■太田:そしてラウィ・ハージさん。『デニーロ・ゲーム』(白水社)を読みました。…なんというか、本当に悲痛な物語で、このような作品を読むと言葉を失うんですけれども、この作品にも描かれているし、今日ラウィ・ハージさんご自身が言われたように、ベイルートからパリへの移動、それからニューヨークへの移動、そしてカナダで最終的に居住権を取られる。そういう移動につぐ移動の人生を送られてきているわけですよね。僕のような日本に定住している人間がこういうことを客観的に言うのはちょっと奇異なのかもしれませんけれども、現代世界にとって移動というのは避けられないものになってきていると、客観的には見えます。それは一つには、ネオリベラリズムが経済的にここまで世界を制覇した時代になってきて、そのネオリベラリズムの力によって、たとえば第三世界の農業はほとんど崩壊するわけです。農民はいままで農地であった田舎を捨てて、自分の国の首都に出なければいけない。その首都でもあぶれると、今度はメトロポリスの、日本のような社会の大都市に出てそこでなんとか生きていかなければならない。そういう労働力の国際移動というのは当たり前のようになった。それはもちろんたくさんの悲劇をもたらす。背景にあるさまざまな問題というのは悲劇を否応なく持つんですけれども、しかしネオリベラリズムの力が、グローバリゼーションの力がここまで強く世界を制覇している以上、ある意味で避けがたい状況になってしまっている。

ラウィ・ハージさんのように自分の生まれ育った国が絶えず戦火に明け暮れていて、なかなかそこでの静かな生活が望めない、そこで移動していくという、それにももちろん背景にひじょうな悲劇や苦労が伴っているわけですけれども。しかしそれを…、ごめんなさい、これは客観的な言い方で申し訳ないんですが、そういう人生を強いられる中で、それを梃子にしながら生み出されている、必然的な表現のように思います。ですから移住とか移動というのは、確かに資本の強制力が働いてはいるんですけれども、現代社会がこのような展開を遂げている以上、それから簡単に脱することはできないかもしれない。そうすると、移住や移動を梃子にして、なんらかの別な、自分が生まれ育った国では実現できなかったことを、庶民は庶民なりに、表現者は表現者なりに、その新しい生を切り拓いていかなければならない。そういう時代が来ているんだろうというふうに思います。

そういう移動は悲劇も伴うけれど、平和的な移動である。軍人や宣教師や貿易商人がむりやり他の国を侵していって、軍事的、宗教的に無茶なことをやる、貿易商人が恥知らずな商売をしてしまう、そういうあり方がこれまでは移動の中心であった。最終的に移動した先で権力をとって世界を支配していく力になっていった。しかし普通の旅人の移動というのは、そこを支配する意図を持たないわけです。その移動を梃子にして、なんらかの新しい生を新しい土地で切り拓こうとするわけですから、やはり現代の移動というのはそういう意味で一つの希望の根拠なのです。そういうふうに僕は考えているので、これはラウィ・ハージさんの、ある意味で強いられた生に対する、ちょっと勝手な意味付与かもしれませんが、僕自身としてはそのような感じで捉えております。

以上です。