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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[112] 厚顔無恥なる者が跋扈する「現在」の原体験


『反天皇制運動 Alert』第40号(通巻422号、2019年10月8日発行)掲載

任意の社会にあって、政治・経済・軍事などの領域で権力支配の頂点に立つ者が、往々にして無責任かつ恥知らずであるということは、古今東西南北の歴史において、私たちのよく知るところだ。だが、世界全体を見て、否なによりもこの日本社会を見て、これほどまでに厚顔にして無恥、加えて無知なる者たちが跋扈する時代はあっただろうかとは、2019年の日々を生きていて、抑えがたく沸き起こってくる思いである。首相を筆頭とする政治屋たち・トップ官僚たち・経済界の「重鎮」たち・東電や関電の幹部たちなどの論理性と倫理性の完全なる欠如、ニュース報道におけるNHKの底知れぬ頽落、マスメディアに登場する「言論人」たちの破廉恥ぶり――それらは、もはや「言うも愚か」の域に達している。

最近の実例を知りたければ、10月4日の臨時国会初日に行なわれたばかりの安倍首相の所信表明演説を見よ。スピーチライターまでもが無恥の病に罹って、瀕死の重体である。「恥を知る」という「人間としての」基本が備わってさえいれば、身を捩りつつ自ら穴を掘り、その穴に身を隠してしまいたいような事態に追い込まれても、恬として恥じない彼らは、居直って居座り続けるだけの「胆力」に恵まれているのだ。南房総地域に手ひどい被害を遺した台風15号に関わる真剣な予報人の言葉を借りれば、「今までに経験したことのない」台風ならぬ人間が、あちらにも、こちらにも現われている。モグラたたきゲーム機なら、一つのモグラの頭を叩けば別な一頭が飛び出てくるだけだが、今や叩いても叩いても、懲りもせずに八頭全員が頭をもたげている体だ。

だが、果たして、これは私たちにとって初体験のことなのだろうか。

去る8月19日以降の新聞各紙は、敗戦後の初代宮内庁長官(1949~53)・田島道治が手帳やノート全18冊に記した天皇裕仁とのやり取りの一部を、「拝謁記」発見と題して大きく報道している。実は、これはNHKの「スクープ」で、8月16日以降大々的に報道していたというが、NHKのニュースを日ごろ見聞きしない私は、数日遅れの新聞報道で知ったのだった。今回公開されたのは、田島の遺族が同意した部分のみの抜粋であることに留意すべきだろう。また原武史のコメントに教えられて私も読んだが、これには、加藤恭子の『昭和天皇と田島道治と吉田茂――初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』という先行研究があること(人文書館、2006年)も心に留めて、NHKの「スクープ」宣伝に足を掬われないこと、そして繰り返すがまだ公開されていない部分があることに留意すべきだろう。

さて、問題は、今回公開された限りの「拝謁記」から何を読み取るかに尽きる。裕仁がここで語っていることの基本線は以下である。戦前については、「軍も政府も国民もすべて下克上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるいことがある」から皆反省すればよいが、それは「私の届かぬ事」であった(52年2月20日)とする。戦後は、「(戦争について)私ハどうしても反省といふ字を入れねばと思ふ」という52年1月12日に語った思いが、当時の吉田首相の反対にあって実現しなかったと悔しがる。メディアはこれを真に受けて、一貫した平和主義者としての裕仁像を描き出している。

だが、沖縄2紙と「赤旗」が記載した53年11月24日の発言を見よ。「(米軍基地については)誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払はねばならぬ。その犠牲ニハ全体が親切に賠償するといふより仕方ないと私ハ思うがネー」。米軍による長期にわたる琉球諸島の軍事占領を望んだ1947年の「天皇の沖縄メッセージ」の路線は6年後も生き続けていたと言うべきだろう。最も真剣に戦争責任を背負わなければならなかった者がそれを逃れた挙句に保身に満ちた言葉を側近に記録させ、それが厳しい批判にさらされることがないことこそが、厚顔無恥な者が大手を振ってふるまう戦後史の「はしり」と言えよう。この原体験を問わずして、虚偽に虚偽に重ねて成った戦後74年史を再審に付す場所はないと知るべきだ。

(10月5日記)