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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[106]一国史が孕む文化的・歴史的歪みの克服を――改元騒ぎに思う


『反天皇制運動 Alert』第34号(通巻416号、2019年4月9日発行)掲載

「犬も食わない」改元騒ぎが続いた数日間、新聞・ラジオ・テレビ報道を読んだり見聞きしたりすることをほぼ絶った。それらに接したとて、偏狭なナショナリズムの毒がわが身に回ることはないくらいの確信はあるが、「生理的に」耐え難い水準で騒動が続いていたからである。こんな時には「一億人から離れて」立っていたいと思った。最小限の情報だけは吸収しながらも。

いま去り行こうとしている天皇は、およそ3年前に「生前退位」の意向表明を行なった。天皇の意を体した宮内庁長官が、内閣府には無断でNHKテレビを通じて天皇のビデオ・メッセージを流すよう画策した。去る3月23日放映されたNHKの特番「天皇 運命の物語 第3話 象徴 果てなき道」における元宮内庁参与で、日本政治外交史専攻の三谷太一郎の証言によれば、天皇は2010年7月22日の参与会議で「80歳までは象徴の務めを果たすが、その後は皇太子に譲位したい」と発言したという。三谷はこの発言に衝撃をうけて、「憲法が直面した最大の問題だ」と捉えた(同氏は、同じ趣旨のことを、3月29日付朝日新聞掲載のインタビューでも語っている)。憲法も皇室典範も想定していない「生前退位」の意向を天皇自身が示すことが明白な憲法違反に他ならないことを察知してこその、三谷の衝撃であったろう。メディアの改元騒ぎは、「生前退位」宣言が改めて露出させた、象徴天皇制を規定した憲法が根本的に孕むこの矛盾に目を向けることなく、昨今のハローウィンやクリスマスのような一過性のお祭りにするものだった。天皇と宮内庁が主導して始まった「生前退位」策動に怒った官邸は、宮内庁長官および次長を更迭し、政権の腹心を後釜に据えた。自らが持つ改憲の意図が、憲法の天皇条項や皇室典範改訂論議の影に霞むことを嫌ったのだろう。だが、3年弱を経てその「生前退位」が実現しつつあるさまを見れば、首相が主導して「この歴史的な決定がなされた」とのお祭り騒ぎがメディアを巧みに使って演出された。官邸が当初は激怒した天皇自身による「生前退位」表明を、最終的には自らを「アシスト」する形に転換し得た、彼らが持てる作戦上の狡知を侮るべきではないだろう。

首相の「主導性」なるものは、新たな元号が従来とは異なり、漢籍に依らず「日本由来」の国書、しかも「日本最古の歌集」万葉集に典拠を有する点で発揮されたとされている。「国民文化」「四季折々の美しい自然」「国柄」などの言葉が鏤められた首相談話は、多文化主義や多様性の尊重の精神から遠く離れた排外主義的なナショナリズムに溢れている。

私はこの改元騒動を脇に見ながら、いくつかの読書をした。いずれも再読である。多くの方々がそんな風にして過ごされたと思うが、さまざまな例が共有化されることが望ましいと思う。

藤間生大は、マルクス主義の立場に立つ古代史家として1950年代から60年代にかけて旺盛な執筆活動をした人物である。『埋もれた金印:女王卑弥呼と日本の黎明』『倭の五王』などの著作が記憶に残っている。昨年末、藤間の訃報に接したこともあって(享年105)、改元騒動のさなかに、彼の仕事の一つを思い出した。『東アジア世界の形成』(春秋社、1966年)である。コミンフォルムによる日本共産党批判や中ソ論争を契機にして民族問題を重要視する地点へ歩み出た藤間は、従来の一国史観を超えて、朝鮮・中国などを含めた東アジア地域総体の、古代から近世にかけての歴史的過程を描く試みを本書で行なっている。当然にも、そこでは「日本史」は相対化される。自民族中心主義から離脱するための、60年代にあっては意義深い仕事の一つであった。

在日朝鮮人歴史研究者、金靜美が1989年に書いた「東アジアにおける王制の廃絶について」(『民濤』七号、1989年6月)という文章も熟読に値する。「20世紀のはじめ、東アジア地域には4人の国王がいた」に始まる一節は示唆的だ。1911年、中国民衆は辛亥革命によって2千百余年続いた王制を打倒した。1917年、ロシア民衆はロシア革命を通して、300年近く続いたロマノフ王朝を打倒した。朝鮮民衆は王制支配の弱点を衝かれて日本帝国による植民地支配を強いられたが、31独立運動などの日帝支配に対する抵抗・独立闘争の過程で実質的に王制を廃絶した。しかるに、日本の民衆は? と金論文は問うのである。胸に迫る問いかけである。

かつてフランス共産党史など欧州左翼の研究者であった海原峻が、20世紀末以降行なっている『ヨーロッパがみた日本・アジア・アフリカ』(梨の木舎、1998年)などの一連の著作も興味深い。ここでは、東アジアを超えて、世界史に密接に関連した事象が語られるからである。

改元騒ぎを、一国史が本質的に孕む、文化的・歴史的な歪みを克服する契機に逆利用したいと思う。

(4月6日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[105]反グローバリズムとベネズエラの現在の事態


『反天皇制運動 Alert』第33号(通巻415号、2019年3月5日発行)掲載

2001年9月11日、米国でハイジャックされた民間航空機が、軍事・経済上の象徴的な建造物に突っ込むという衝撃的な出来事が起こった。他国への侵略や空爆、ミサイル攻撃は絶え間なくやってきているが、自国本土が戦場になったことのない米国は、この事件によって戦争の悲惨さを初めて味わったはずだ。だが、この痛ましくも貴重な体験を、自国の過去の所業を内省する道に生かすことなく、米国は1ヵ月後には「反テロ戦争」という愚かな戦争を、またもや他国を戦場にして開始した。それはアラブ世界のみならず、欧州各地、米国、アフリカ、アジアにまで広がったまま、18年目を迎えている。米国が主導するこの戦争の現実を見ながら、一貫してこみあげてくる感慨が私にはあった。「北の超大国」=米国にもっとも近く、かつて政治的・社会的に不安定な情勢が続いていたカリブ・ラテンアメリカ地域が、ずいぶんと静かに、安定しているな……と。

この地域は、1959年のキューバ革命以降、東西冷戦のもっとも熱い現場であった。キューバに続こうとする反政府武装闘争が各地で起こり、米国はこれに対抗して各国の軍部にテコ入れしてゲリラを潰し、次々と軍事政権を成立させた。その頂点が1973年9月11日に起きた南米チリの軍事クーデタであった。その3年前の1970年、世界史上初めて選挙を通じて成立した社会主義政権を、米国はチリ国内の富裕層、極右勢力、軍部内右派の力を利用して打倒したのだ。米国と国際金融機関は、第三世界諸国に新自由主義政策を押し付ける最初の実験場として、軍政下のチリを選んだ。以後、この地域全体が、世界に先駆けて新自由主義路線によって席捲された。私たちも、その後この政策路線がどんな社会を作り上げるものであるかを、身をもって経験することになる。

手酷い経験を積んだラテンアメリカ地域では、1990年代以降、新自由主義を批判する民衆運動が盛んになった。多くの国々で、有権者は、グローバリズムに懐疑的か批判的な政治家を政権の座に就けた。20世紀末から21世紀初頭にかけて、この地域は、政府レベルにおいても民衆レベルにおいても、「反新自由主義」「反グローバリズム」の一大潮流を形成していた。それまで、政治的・経済的・軍事的に圧倒的な影響力をこの地域全体に及ぼしていた米国は、当然にもその存在力を失った。そのぶん、この地域は安定したのだ。軍政時代の圧政に関して真実を明らかにする試みがなされた。いくつかの国々は、相互扶助・連帯・協働の精神に基づいて貿易圏をつくり、「南の銀行」をつくり、欧米メディアによる独占を打破する独自のテレビ局を国境を越えて創設するなどの試行錯誤にも着手した。身勝手なふるまいをする大国が影響力を失うと、その地域社会は相対的に安定する。この事実は、しっかりと胸に刻むに値する。

この「反グローバリズム」潮流は、この間、逆流にさらされている。現在、問題がもっとも顕在化しているのはベネズエラだ。先に触れた、この地域における米国の存在感が薄れた時期にあっても、米国が石油大国=ベネズエラへの利害上の関心を失うことはなかった。2002年、反グローバリズムの推進者、前大統領チャベスを打倒しようとしたクーデタの試みの背後には、ブッシュ政権下の米国がいたことも明らかだ。現在、民衆を極限的な危機に追いやっている食糧と医薬品の欠乏は、米国による経済制裁によるところが大きい。過酷な経済制裁を科しながら、時至れば「人道支援」の名の下に救援物資を輸送するやり口も、常套手段だ。米国の罪は大きい。同時に、現マドゥーロ政権の反民衆的な政策を見逃すわけにもいかない。チャベス時代にはあった革命過程への大衆参加を欠いた独裁傾向、したがって集団的意思決定メカニズムの欠如、飢えた民衆の抗議行動に対する血の弾圧、重大な人権侵害を繰り返す治安部隊の放置、それゆえの軍関係者の重用、政治家の汚職――これらの現実を見れば、米国の介入と国内寡頭勢力の陰謀にだけ原因を帰していては、現在の事態を十全に把握できないことがわかる。これは、「革命」政権あるいは「改革派の」政権が基層の大衆から浮き上がるにつれて、世界のどこでも常に繰り返されてきたことだ。社会変革の過程の一つひとつが、独裁とも権威主義とも相容れない。それを譲ることの出来ない論理的根拠とした状況論が必要なのだ。               (3月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[104] 歌会始と天皇が詠む歌


『反天皇制運動 Alert 』第32号(通巻414号、2019年2月5日発行)掲載

自分で歌を詠むわけではないが、ひとが詠んだすぐれた(と私には思われる)歌には親しんできた。若いころは、岡井隆(1928~)の歌が身に染みた。岡井の作品に触れたのは、ほかでもない、1957年に「定型論争」を交わした吉本隆明によって岡井が口汚く罵られている文章を読んだからだった。マルクスがプルードンに、レーニンがカウツキーに、信じられない悪罵を投げつければ投げつけるほどに、後者の言い分への関心が掻き立てられるのに似ていた。

「軍略の深々として到らざるなき/アジア東北に生きて来にけり」「アメリカに対う思いのかくまでに/おだやかにして真夜中のジャズ」「病み痴れし老いを遺せる射殺死を/かれら端的に〈犠牲死〉と呼ぶ」「にんにく・牛の胃(せんまい)をうる灯が見えて/ここから俺は身構える、何故?」――「遅れてきた青年」としての私は、敗戦直後の1950年代を生きていた一世代上の人びとが、アジア・アメリカ・〈闘争死〉・朝鮮に対して抱いていたヒリヒリした感情に触れたと思った。小説の世界では、小林勝(1927~71)や初期・井上光晴(1926~92)の作品がそうであったように。

岡井にはこんな歌もあった。「天皇の居ぬ日本を唾(つばき)ためて想う、朝刊読みちらしつつ」「皇(すめら)また皇(すめらぎ)といふ暗黒が復(ま)た杉の間に低くわらへる」――これらの歌の背後には、「文学以前の行事」でしかない歌会始に関わる歌人に対して、「あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ」と迫る岡井の、1960年における確固たる天皇観と文学観があった。

その岡井が、33年後の1993年になって、宮中歌会始の選者となった。衝撃だった。少なからぬ人びとが行なった岡井批判の文章も、岡井自身の弁明の文章も読んだ。私は岡井の弁解に納得できず、ここに引いたと同じ歌に触れながら、批判の小さな文章を書いた。当時の岡井の歌が、その行き着いた地点を余すところなく語っていた。「歌会始選者の難も申し上ぐ/しずかに笑う勤皇者かれは」。

無残なものだと私は思った。それ以降、天皇と皇后の歌は、以前にもまして注意深く読むようにしてきた。また、内野光子の『短歌と天皇制』(風媒社、1988年)や『現代短歌と天皇制』(同、2001年)にも出会った。短歌には、〈私〉性に徹することで広く開かれてゆくであろう世界があるにもかかわらず、なぜ天皇制や国家に呪縛されて、そこに絡め取られてゆく者が絶えることがないのか。内野はそのことを精緻に分析していると思った。

今年の宮中歌会始は1月16日に開催された。天皇は「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」と詠んだ。阪神大震災で犠牲となった少女が、生前隣家の小鳥に与えていたヒマワリの種が翌年大輪の花を咲かせた。震災復興の象徴とされた種は全国に配られた。それは天皇・皇后にも贈られた。ふたりは皇居の庭に種を撒き、それがいま大輪の花を咲かせているという〈物語〉がメディアでは語られている。死亡した少女の姉も子どもを授かったばかりであることが強調されて、ヒマワリの開花と赤子の誕生は「生命賛歌」として完結していくのである。媒介者が震災で亡くなった少女である限りは、〈私〉的には、哀しみの中でのそんな喜びもあり得るだろう。それが、なぜ、「被災者に心を寄せる」天皇・皇后をも媒介者として語られなければならないのか。そのカラクリを見極めなければならぬ。

歌会始で詠われた皇族たちの作品を読みながら、そんなことを考えていたころ、内野には『天皇の短歌は何を語るのか――現代短歌と天皇制』と題する著書もあることを遅ればせながら知った(お茶の水書房、2013年)。この書には「天皇の短歌、環境・福祉・災害へのまなざし」と題する章がある。そこで内野は、「象徴天皇制における天皇の政治的立場は中立を標榜するが、その実態は、環境・福祉・災害対策などの余りにも貧弱な施策を、視察、見舞い、お言葉、会見時の質疑での回答、そして年間でわずかしか公表されない短歌という形で、厚く補完する役割を担っている」と結論づけている。もちろん、天皇・皇后が詠む短歌については、個別の作品に基づいての解釈と分析がなされるべきことではあろう。短歌作りを楽しむ人びとの裾野の広がりを思えば、わずか31文字の表現世界に凝縮しているものを侮ることはできない。

(2月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[103]精神的な葛藤や模索の過程を欠く「紋切型」の言葉


『反天皇制運動 Alert』第31号(通巻413号、2019年1月15日発行)掲載

1980代の半ば頃だったか、某紙のジャーナリストに「何かと言えば、第三世界、第三世界……という物言いに、私は最近ウンザリしてきているんです」と言われたことがある。私が「低開発国」ボリビアの映画集団ウカマウの、〈映像による帝国主義論〉というべき作品の何本目かを輸入し公開するので、試写会へ来てもらえないかと電話した時の答えが、それだった。私には心当たりがある。「日本の繁栄はアジアをはじめとする第三世界の貧困の上に築かれているということを忘れるわけにはいかない」――これは当時の〈第三世界主義者〉たちの「決まり文句」になり始めていた。「紋切型の言葉」は、いつも、発語する者の精神的な葛藤や模索の過程を欠いている。だから、虚しく響くことがある。私も何度か言っただろう。私自身がその物言いに違和感をおぼえ始めて、何とかしなければと考えていた頃だった。決め台詞を吐く以前に、もっと歴史的・論理的な展開をしなければならない、と。高度消費社会の只中で、ひとり覚めている感じの物言いもよくない。だから、私に限らず、この種の言論や集会をよく取材してくれていた彼女の、率直な言葉が胸に響いた。

同じ頃の次の挿話も覚えている。吉本隆明が、川久保玲のコム・デ・ギャルソンの〈高価な〉衣装をまとったモデルとして『アンアン』誌に登場した。それを埴谷雄高が次のように批判した。――「吾国の資本主義は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に『火事場泥棒』のボロ儲けを重ねに重ねたあげく、高度な技術と設備を整えて、つぎには、『ぶったくり商品』の『進出』によって『収奪』を積みあげに積みあげる高度成長なるもの」を遂げた。そして、「アメリカの世界核戦略のアジアにおける強力な支柱である吾国の『ぶったくり資本主義』のためにつくしているあなたのCM画像を眺めたタイの青年は、あなたを指して、『アメリカの仲間の日本の悪魔』と躊躇なくいうに違いありません」(『海燕』4巻4号、1985年、福武書店)。

埴谷が、「国内の現実に依拠」した論理によってではなく、突然のように第三世界=タイの青年を持ち出して行なった吉本批判の在り方に危うさを感じた。私にとって思想的に最前線にいたはずの埴谷が、古めかしい〈社会主義者〉に見えた。吉本は独自のファッション論を展開した。「衣装のファッションの反対物は、すべての制服、画一的な事務服や作業服だ。ファッションが許されなかったあの戦争時代には、男性には二種類くらいの国民服が制定され、女性はモンペ姿が唯一の晴れ着であり、作業衣服であり、ふだん着だった。女性たちはわずかに生地の模様を変化させるくらいがファッション感覚の解放にあたっていた。統制と管理と、それにたいする絶対の服従が必要な権力にとっては、制服は服従の快い象徴にみえるし、ファッションはいわば秩序を乱す象徴として、いちばん忌み嫌われるものだった」(『アンアン』446号、1984年、マガジンハウス)。

ビートたけしがこの論争に介入し、ふたりを独特の方法で茶化した(筑紫哲也編集長時代の『朝日ジャーナル』誌上だったと思うが、いま手元にない。冴えていて、面白かった記憶だけが残っている)。埴谷-吉本論争は、ソ連体制が崩壊する6年前の1985年に展開された。これ以上の詳説や評価を行なう紙幅はないが、時代状況的にいってもいかにも示唆的なものを孕んでいた、と今にして思う。

韓国大法院が「徴用工」問題で日本企業に賠償を命じる判決を下して以降、植民地支配と侵略戦争をめぐる論議が日韓両国で改めて起こっている。このコラムでも繰り返し述べてきたが、20世紀末以降、植民地支配を「合法」としてきた従来の国際法解釈は、ヨーロッパ中心主義的偏向であるとして再審に付されている。植民地と被植民地の関係が非対称的であったことが問われているのである。日本政府、メディア、それに誘導された日本世論は、国際法の位置づけをめぐる捉え方の変化を認めず、「何を今さら」という反韓・感情論に流れるばかりである。しかも、安倍政権の持続が象徴するように、それを支える社会的な根っこは太く、根深い。私たちの議論が「決まり文句」や「紋切型」に終始せずに説得的なものであるためには、私たちもまた、その歴史観と論理性が問われていることを自覚したい。

(1月12日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[101]日米首脳会談共同声明から見抜くべきこと


『反天皇制運動Alert』第28号(通巻410号、2018年10月9日発行)掲載

移民や難民の入国規制や禁止を求めて欧州各国に台頭しつつある排外主義的な政治勢力を、正しくも「極右政党」と表現するメディアは、日本に成立した今次安倍政権を「極右政権」と名づけて報道しなければならないのではないか。「日本会議」と「神道政治連盟」に加入している政治屋たちが居並ぶ閣僚名簿を見て、かつ彼(女)らのこれまでの発言を思い起こして、つくづくそう思うのだが、こんな問題提起をしても、虚しさが募るばかりの、政治・社会・メディアの状況が続いている。だが、これが偽りのない日本社会の現状なのだ。私たちは、ここで考え、発言し、叫び、跳び、転がり、駆け、座り込み、動き回るしかないのだと覚悟して、久しい。

衝くべき問題は、いくつもある。ここでは、去る9月27日に行なわれた日米首脳会談が孕む問題に触れよう。共同声明の発表を受けて、日本での報道では「日米物品協定交渉入り合意」(9月27日毎日新聞)、「日米、関税交渉入り合意」(同日朝日新聞夕刊)などの見出しが躍った。詳しく読むと、記者会見で日本国首相は、「今回のTAG(物品貿易協定)は、これまで日本が結んできた包括的なFTA(自由貿易協定)とは全く異なる」と強調している。これは、従来から、日米二国間のFTA交渉を行なうことはあり得ないと否定してきた首相の立場に即せば当然のことだが、しかし、交渉翌日の新聞は「事実上のFTA」(毎日新聞)、「実態 FTAに近い」(朝日新聞)との見出しを付したように、マスメディアによっても問題の本質は疾うに見抜かれていたのである。

10月4日、東京新聞が共同声明のホワイトハウス発表の英語版および、在日米国大使館による仮翻訳と日本政府訳を並列し、食い違っている問題点を指摘した。私自身も原資料に当たって、検討してみた。すると、東京紙も指摘しているところだが、日本政府が公表した声明文で「日米物品貿易協定(TAG)」となっている個所は、Unitesd States-Japan Trade Agreement on goods となっており、使用されている大文字と小文字の関係性から言えば、goods はTrade Agreementと同格の位置にはないから、「物品貿易協定」と熟語的に翻訳することには無理があることがわかる。英語本文では「TAG」の略称も用いられてはいない。しかも、on goods の後には ,as well as on other key areas including services, と続いており、「物品」と「サービスを含めた他の重要な分野」を同格と捉えた表現になっていることがわかる。ここをごまかして、首相の従来の言動にぎりぎり合わせた翻訳文にするのだから、政府と官僚たちは、森友・加計問題で駆使した文書捏造技術にさらに磨きをかけるつもりなのだろう。

だが、この翻訳「技術」には既視感がある。1999年、新たな国際情勢の下で日米両政府が「防衛協力のための新ガイドライン」について協議していた。まとめられたガイドラインの正文(英語)と、政府から発表された日本語訳を読み合わせすると、微妙だが、明らかなズレが見られる。ふたつの文章は実際には厳密な対応関係にはなく、日本語文は、語る内容から「軍事色」を消すことに腐心していると私には思えた。いざ「周辺事態」が発生した時に自衛隊は米軍に「物品および役務を提供」する「後方支援」に従事することになるにもかかわらず、日本語文からは「戦争の匂い」が消えているのだ。この日米協議の場に出席していた防衛庁・陸幕調査部一等陸佐、山口昇氏(現在は防衛大学校教授で、「軍人スカラー」と呼ばれている)が公開の場で講演するというので、当時聞きに行った。氏の話を直接聞いても、ふたつのテキストを読んだ時と同じ感想を持ったので、私は「ガイドラインがまぎれもない戦争マニュアルであること」を隠そうとしているのではないか、と質問した。見解の相違で、そんなつもりはないと氏は断言した。だが、日本語文は英語正文からの翻訳ではなく、討論を経てふたつの言語で同時に起草したことは認めた。2国間の共同声明や協定が、こんな風に処理される場合もあるようだ。現在の権力者たち(政府+高級官僚)の論理と倫理の水準に照らして、今回の日米共同声明を厳しく解読すべきだろう。  (10月6日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[100]百年後のロシア革命――極秘文書の公開から見えてくるもの


『反天皇制運動Alert』第27号(通巻409号、2018年9月4日発行)掲載

あるところで「ロシア革命百年」講座を行なっている。半年かけて、全6回である。昨年もこのテーマに関しては2回ほど公の場で話した。そのうち1回は、「レーニン主義」をなお墨守していると思われる人びとが多く集う場だから、緊張した。私は一定の〈敬意〉をもってこの人物に接してはきたが、いわゆる「レーニン主義者」であったことは一度もない。若い頃の思いを、恐れも知らず埴谷雄高を模して表現するなら、ヨリ自由な立場から『国家と革命』に対峙し、理論的に負けたと思ったら、選ぶ道を考え直そう、というものだった。〈勝ったか負けたか〉はともかく、レーニンが主導した道は選ばなかった。だから、その道を選び、今なお〈悔い改めない〉人びとの前では、いい意味で緊張するのである。

53歳で亡くなったレーニンは、論文・著作の生産量が高い人だった。最終的には、ロシア語第5版で補巻を含めて全57巻、日本語版はロシア語第4版に依拠し全48巻の全集が編まれた。いずれも、1950年代から60年代にかけての、息の長い出版の仕事だった。レーニンの著作をめぐって、事態が決定的に変わるのは、ソ連体制が崩壊した1991年以降である。ソ連共産党中央委員会のアーカイブに厳密に保管されてきていた極秘文書が公開されるようになった。書き込みも含めてレーニンの手になる文書3700点、レーニンが署名した公的文書3000点が明るみに出た。極秘にされていた理由は、以下による。(1)国家機密に関わるもの。陰謀的な性格を持つもの。(2)公定レーニン像に抵触する、不適切なイデオロギー的性格をもつもの。(3)判読不能・鑑定上の疑義のあるもの。技術的・学術的な問題。(文書の点数は、池田嘉郎による)

ロシアではもとより、英語圏・フランス語圏でもこれらの文書を参照しないロシア革命研究はもはやあり得ない。重要な著作は、いくつか日本語訳も出版されている。日本でも、梶川伸一、池田嘉郎、故稲子恒夫のように、従来の未公開文書を駆使して重要な仕事を行なっている研究者が生まれている。そんな時代がきて、4半世紀が過ぎた。

それらの資料を読みながら、私はつくづく思う。党中央委員会の文書管理部は、一貫して、実に〈すぐれた〉人物を擁していた。同時代的に、あるいは後世においてさえ、この文書を公開しては、レーニンとロシア革命のイメージをひどく毀損すると「的確に」判断できていたからである。この短い文章では具体的な引用はできない。ただ、〈敵〉と名指しした人びとに対する、公開絞首刑の執行を含めた仮借なき弾圧が幾度となく指示されているとか、レーニンの忠実な「配下」であったトゥハチェフスキーが「反革命」鎮圧のために毒ガス使用を指示したとか程度には触れておこう。「富農を人質に取れ」という苛烈なレーニンの指令に驚き、心がひるみ、この指令を無視する地方の党幹部の姿も現われる。つまり、この幹部のように、そしてクレムリンの文書管理部局スタッフのように、難局極まりない内戦の渦中にあっても「的確な」判断を成し得た人物は実在したのである。レーニンと革命が掲げる〈目的〉に照らせば、採用してはいけない〈手段〉があることを知っていた人物が……。

その意味では、1921年のクロンシュタット叛乱と、1918~21年のウクライナのマフノ農民運動に対して、レーニンやトロツキーが先頭に立って「弾圧」した事実は、夙に(同時代の中でも)知られていた。前者の叛乱は、「革命の聖地」ペトログラードのすぐ近くのクロンシュタット要塞で進行した。それは、ボリシェヴィキの一党独裁を批判する立場から革命の根源的な深化を求めた水兵・労働者の公然たる動きであり、ボリシェヴィキも機関紙上で反論せざるを得なかった。叛乱なるものの背後にはフランスのスパイがいる、というお定まりの宣伝ではあったが。後者の場合は、ボリシェヴィキの弾圧にさらされる農民アナキストが渦中で情報を発信した。1922年末に日本を脱出した大杉栄は、翌年2月パリに着くと、マフノ運動関連の文献渉猟に全力を挙げている。7月に帰国して、翌8月には「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」という優れた紹介文を執筆した。大杉が虐殺される前の月である。

ロシア革命は、当時も百年後の今も、その本質について、どんな情報に基づいてどのような判断を持つかを迫られる、或る意味で「おそろしい」場であり続けている。

(9月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[99]オウム真理教幹部13人の一斉処刑について


『反天皇制運動Alert』第26号(通巻408号、2018年8月7日発行)掲載

共謀罪法施行一周年の抗議集会で講演するために、豪雨の大阪へ向かう準備をしていた7月6日朝、オウム真理教幹部の死刑執行の第一報がラジオで流れた。執行後にしか情報が流れない通常の在り方とは異なる「事前情報」であることは、ニュースの言葉遣いから分かった。その後は新幹線の車中にいたために、次々となされる死刑執行の様子が、まるで実況中継のようになされたという一部テレビ報道は現認していないが、執行に立ち会うべき検察官が早朝から拘置所内へ入る姿が撮られている以上、法務省は積極的に事前情報を流したのだろう。テレビ・メディアの「効用」を思うがままに利用したその意図を見極めなければならない。7人の死刑が執行されたことは車中のテロップで知った。残るオウムの死刑確定者は6人。彼らにとっては、これは「予告された殺人宣告」にひとしい作用としてはたらくだろうと思い、その残酷さに心が震えた。

7月26日、翌日に某所で行なう講演「オウム真理教幹部一斉処刑の背景を読む」の準備をしていた時に、第二次処刑のニュースが流れた。合計13人の処刑。すぐに思い浮かべたのは、1911年1月の24日と25日のこと――前日には、「大逆事件」で幸徳秋水ら11人の、翌日には管野スガひとりの、計12人の死刑が執行された史実だった。大量処刑を行なっても世論は反撃的には沸騰しない、と読んでいる安倍政権の「冷徹さ」が、際立って透けて見えるように思えた。

無理にでも心を落ち着かせて、翌日の講演の準備を続けた。いくつかの資料に基づいて、オウムの関連年表を作ってみた。「オウム神仙の会」が設立され、松本智津夫が麻原彰晃と名乗り始めたのは1984年(「オウム真理教」と改称したのは1987年)だったが、松本サリン事件が1994年、地下鉄サリン事件は1995年――という形で年表を作ってみると、創設からわずか10年前後で、オウム真理教は「極限」にまで上り詰めたことがわかる。無神論者の私にして、宗教がもつ始原的なエネルギーのすさまじさを思うほかはなかった。来世や浄土を信じる心が、市民社会に普遍的な「善悪の基準」に拘泥され得ないことは、理念的には、見え易い。だが、近代合理主義からすれば、神秘的なこと/常軌を逸したことへの信念を持つことが、これほどまでに短期間に、無差別殺戮を正当化する暴発に結びついたことには、心底、驚く。

修行中に異常を来した信者を水攻めにして死に至らしめ遺体を焼却した事件や、その事実を知る信者が脱会を申し出たために殺害した事件は、1988年秋から89年初頭にかけてすでに起こっていたが、これはごく少数の幹部の裡に秘匿されていたために、長いこと外部に漏れることはなかった。だが、出家した子どもの親たちが、高額の「お布施」や連絡の途絶に不審を抱いて、被害対策弁護団も結成された後の1989年8月に、東京都から宗教法人の認証を受けているなど、解明されるべきことは多々あることを、あらためて思い知る。89年11月の坂本弁護士事件が、神奈川県警のサボタージュによって捜査の方向が捻じ曲げられたことは今までも触れてきた。その捜査の中心人物たる古賀光彦刑事部長(当時)がその後、愛知県警察本部長→警察大学学長→JR東海監査役という具合に、絵に描いたような「出世」と「天下り」のコースをたどっていることは、寒心に堪えない。安倍政権下で「功績」を挙げた官僚たちが歩む道は、いつの時代にも、敷き詰められているのだ。

その夜の講演で私は、「国家権力とたたかう」オウムが、省庁を設けて担当大臣や次官を任命し、他者を殺戮する兵器や毒ガス開発に全力を挙げたことを指して「国家ごっこ」と呼んだ。軍隊・警察を有する国家が独占している殺人の権限を自らも獲得しようとしたオウムは、悲劇的な形で「国家の真似事」を演じた。一宗教がたどった軌跡から私たちが取り出すべきは、宗教がもち得る危険性への視点だけではない。大量処刑も含めて「国家」が行なう所業への批判も導き出すことができるのだ。(8月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[98]「貧しい」現実を「豊かに」解き放つ想像力


『反天皇制運動Alert』第25号(通巻407号、2018年7月10日発行)掲載

10や50や100のように「数」として区切りのよい周年期を祝ったり、内省的に追憶したり、それに過剰に意味付与したりするのはおかしいと常々思ってはいる。だが、ロシア革命百年(1917~)、米騒動・シベリア干渉戦争百年(1918~)、三・一独立運動/五・四運動百年(1919~)、関東大震災・朝鮮人虐殺百年(1923~)という具合に、近代日本の歩みを顧みるうえで忘れ難い百周年期が打ち続くここ数年には、その歴史的な出来事自体はもとよりこれに続いた歴史過程の検証という視点に立つと、深く刺激される。百歳を超えて存命されている方を周辺にも見聞きするとき、ああこの歳月を生きてこられたのだ、と思いはさらに深まる。

厄介な「米国問題」を抱えて苦悶する近現代の世界を思えば、五年後の2023年は、米国は身勝手なふるまいをするぞと高らかに宣言したに等しいモンロー教義から二百周年期にも当たることが想起される。それに、現在のトランプ大統領の勝手気ままなふるまいを重ね合わせると、他地域への軍事侵攻と戦争に明け暮れている米国二百年史が重層的に見えてきて、嘆息するしかない(いまのところ、唯一、トランプ氏の対朝鮮外交だけは、伝統的な米外交政策顧問団が不在のままに大統領単独で突っ走ったことが、局面打開の上で有効であったと私は肯定的に判断しているが、この先たどるべき道は、なお遠い。紆余曲折はあろうとも、よい形で、朝鮮半島南北間の、そして朝米間の、相互友好関係が築かれることを熱望してはいるが……)。

さて足下に戻る。冒頭に記した百周年期を迎える一連の出来事を見ても一目瞭然、問題は、百年前の当時、日本が東アジアの周辺地域といかなる関係を築いていたのかとふり返ることこそが、私たちの視点である。先ごろ実現した南北首脳会談と朝米首脳会談に対して、日本の政府、マスメディア、そして「世論」なるものが示した反応を見ても、この社会は総体として、朝鮮に対する植民地主義的態度を維持し続けていることがわかる。民族的な和解に向けた着実な歩みを理解しようとせずに、そこには「ぼくがいない」(=拉致問題に触れていない)などと駄々をこねているからである。この腹立たしい現実を思うと、改めて、「日韓併合」から10年ほどを経た1920年前後の史実に、百年後の今いかに向き合うかが重要な課題としてせりあがってくる。

その意味で注目に値するのが、公開が始まったばかりの瀬々敬久監督の映画『菊とギロチン』である(2018年)。関東大震災前後に実在した、アナキスト系青年たちの拠点=ギロチン社に集う面々を描いた作品である。ギロチン社の実態をご存知の方は、そんなことに何の意味があろうと訝しく思われよう。大言壮語を駆使して資本家から「略奪」した資金を酒と「女郎屋」で使い果たしたり、震災後の大杉栄虐殺に怒り「テロ」を企てるも悉く惨めな失敗に終わったりと、ギロチン社に関しては情けなくも頼りない史実が目立つばかりである。映画はそこへ、当時盛んであった女相撲の興行という要素を絡ませた。姉の死後、姉の夫だった男の「後妻」に、こころ通わぬままになったが、夫の暴力に耐えかねて貧しい農村を出奔した花菊(木竜麻生)にまつわる物語は、当時の農村社会の縮図といえよう。元「遊女」の十勝川(韓英恵)は朝鮮出身の力士と設定されているが、彼女が経験してきたことがさまざまな形で挿入されることで、物語は一気に歴史的な現実に裏づけられた深みと広がりをもつものとなった。過去の、実態としては「貧しい」物語が、フィクションを導入することによって、現在の観客にも訴えかける、中身の濃い「豊かな」物語へと転成を遂げたのである。大言壮語型の典型と言うべき中濵鐵(東出昌大)も、思索家で、現金奪取のために銀行員を襲撃したときに心ならずも相手を殺害してしまったことに苦しむ古田大次郎(寛一郎)も、この物語の中では、いささか頼りないには違いないが、悩み苦しみつつ、「自由な世界」を求める人間として、生き生きとしてくる。大震災の直後の朝鮮人虐殺にまつわる挿話は、十勝川も、威張りちらす在郷軍人も、今は貧しい土地にへばりついて働いているが、自警団としての耐え難い経験を心底に秘めた元シベリア出兵兵士も、それぞれの場から語って、映画の骨格をなした。

現実は、ご存知のように、耐え難い。想像力が解き放つ映像空間を楽しみたい。

(7月6日記)

【追記】『菊とギロチン』の公式サイトは以下です。

http://kiku-guillo.com/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[97]米朝首脳会談を陰で支える文在寅韓国大統領


『反天皇制運動 Alert』第24号(通巻406号、2018年6月5日発行)掲載

引き続き朝鮮半島情勢について考えたい。東アジア世界に生きる私たちにとって、情勢が日々変化していることが実感されるからである。しかも、差し当たっては政府レベルでの動きに注目が集まるこの事態の中に、日本政府の主体的な姿はない。見えるとしても、激変する状況への妨害者として、はっきり言えば、和解と和平の困難な道を歩もうとする者たちを押し止めようとする役割を自ら進んで果たす姿ばかりである。その意味での無念な思いも込めて、注目すべき状況が朝鮮半島では続いている。

政治家は押し並べて気まぐれだが、その点では群を抜く米朝ふたりの政治指導者の逐一の言葉に翻弄されていては、問題の本質には行きつかない。そこで、今回のこの情勢の変化を生み出した当事者のひとりで、米朝のふたりとは逆の意味で頭ひとつ抜けていると思われる政治家、文在寅韓国大統領の言葉の検討から始めたい。

17年5月に就任したばかりの文大統領は、直後の5月18日に、記憶に残る演説を行なっている。光州民主化運動37周年記念式典において、である。文大統領は、朴正煕暗殺の「危機」を粛軍クーデタで乗り越えようとした軍部が全土に非常戒厳令を布告し、ひときわ抵抗運動が激しかった光州市を戒厳軍が制圧する過程で起こった80年5月の事態を「不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した現代史の悲劇だった」として、自らの問題として国家の責任を問うた。18年3月1日の「第99周年3.1節記念式」では、日本帝国主義支配下で起きた独立運動の意義を強調し、この運動によってこそ「王政と植民地を超え、私たちの先祖が民主共和国に進むことができた」と述べた。最後には、独島(竹島)と慰安婦問題に触れて、日本は「帝国主義的侵略への反省を拒んでいる」が、「加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない。不幸な歴史ほどその歴史を記憶し、その歴史から学ぶことだけが真の解決だ」と語った。私たちは、韓国憲法が前文で、同国が「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」に立脚したものと規定している事実を想起すべきだろう。来年はこの3・1運動から百年目を迎える。改めて私たちの歴史認識が、避けがたくも問われるのである。

文大統領は18年4月3日の「済州島4・3犠牲者追念日」でも追念の辞を述べた。日本帝国主義軍を武装解除した米軍政は、1948年に南側の単独選挙を画策したが、これに反対し武装蜂起した人びとに対する弾圧が、その後の7年間で3万人もの死者を生んだ悲劇を思い起こす行事である。今年は70周年の節目でもあった。文氏はここで、70年前の犠牲者遺族と弾圧側の警友会の和解の意義を強調しつつ、「これからの韓国は、正義にかなった保守と、正義にかなった進歩が『正義』で競争する国、公正な保守と公正な進歩が『公正』で評価される時代」になるべきだと語っている。

どの演説にあっても貫かれているのは、国家の責任で引き起こされた過去の悲劇をも、後世に生きる自らの責任で引き受ける姿勢である。私は、文氏が行なっている内政の在り方を詳らかには知らない。韓国内に生きるひとりの人間を想定するなら、氏の政策にも批判すべき点は多々あるのだろう。だが、今や世界中を探しても容易には見つからない、しかるべき識見と歴史的展望を備えた政治家だ、とは思う。米クリントン政権時代の労働省長官だったロバート・ライシ氏は、文氏が「才能、知性、謙虚さ、進歩性」において類を見ない人物であり、「偏執症的なふたりの指導者、トランプと金正恩がやり合っている脆弱な時期に」文在寅大統領が介在していることの重要性を指摘している(「ハンギョレ新聞」18年5月27日)。13年来の「新年辞」で南北対話と緊張緩和を呼びかけてきた金正恩氏にとっても、またとない相手と相まみえている思いだろう。

来るべき米朝会談のふたりの主役は、その内政および外交政策に批判すべき点の多い人物同士ではあるが、会談の行方をじっくりと見守りたい。この重要な政治過程にまったく関わり合いがもてない政治家に牛耳られているこの国の在り方を振り返りながら。

(6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[96]板門店宣言を読み、改めて思うこと


『反天皇制運動 Alert』第23号(2018年5月8日発行)掲載

去る4月27日の朝鮮半島南北首脳会談に際して発表された板門店宣言の内容を知って、「日本人拉致問題への言及がない」という感想を漏らしたのは、拉致被害者家族会の会長だった。置かれている立場は気の毒としか言いようがないが、見当外れも甚だしいこのような見解が紙面に載るというのも、2002年9月の日朝首脳会談以降16年の長きにわたって日本政府が採用してきた過てる対朝鮮政策の直接的な結果だろう。自ら問題解決のために動くことなく、他国の政府に下駄を預けるという方針を貫いてきたからである。多くのメディアもまた、その政府の方針に無批判で、日本ナショナリズムに純化した報道に専念している。長い年月、分断され非和解的な敵対関係にあった南北朝鮮の2人の指導者が「民族的な和解」のために会談を行なう時に、なぜ「日本人」に関わる案件が宣言文に盛られるほどの重要度をもち得ると錯覚できるのであろうか。藁にも縋りたい家族会の人びとをこのような迷妄的な境地に導き入れてきた政府とメディアの責任は大きい。

金正恩朝鮮労働党委員長は「いつでも日本と対話する用意がある」と文在寅韓国大統領に伝えたという。日本政府は絶好の機会を捉えてすぐ応答することもせずに、首相が中東地域歴訪に出かけるという頓珍漢な動きをした。あまつさえ、去る1月に対朝鮮国断交を行なったヨルダン政府の方針を高く「評価」した。事ほど左様に、およそ確たる外交方針を持たない日本政府ではあるが、日朝間にも何らかの交渉の動きが近いうちに始まるのではあろう。会談の結果明らかになる拉致問題に関わる内容如何では、両国間にはさらなる緊張状態が高まるかもしれず、今の段階から、その時代風潮に対処するための準備が必要だろう。

私は16年前の日朝首脳会談直後から、あるべき対朝鮮政策の在り方を具体的に述べてきているので、ここでは違う角度から触れてみたい。対朝鮮問題に関しては一家言を有する元国会議員・石井一氏が「約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ」とする発言を行なっている(『月刊日本』2018年5月号)。氏は日朝議員連盟会長を務め、1990年の金丸訪朝団の事務総長の任にも当たり、先遣隊の団長でもあった。自民党、(まだ存在していた)社会党、朝鮮労働党の3党合意が成ったこの会談に関する氏の証言は重要だろう。朝鮮ではまだ金日成が存命中だった。金丸・金日成の2者会談を軸にしながら、「国交正常化」「植民地時代の補償」「南北分断後45年間についての補償」の3点の合意が成った。だが、日本国内にあっては、金丸氏に対して「売国奴」「北朝鮮のスパイ」との非難が殺到した。国外にあっては、日本の「抜け駆け」を警戒する米国からの圧力があった。自民党の「実力者」金丸氏にして、自主外交を貫くまでの力はなかった。かくして1990年の日朝3党合意は、日本側の理由で破棄されたも同然、と石井氏は言う。

2002年の日朝首脳会談も「平壌宣言」の合意にまでは至った。拉致問題に関わって明らかになった事実が、被害者家族にとってどれほど悲痛で受け入れがたいものであったとしても、また社会全体が激高したとしても、この事実を認め、「拉致問題は決着した」との前提で、宣言はまとめられた。家族会の怒りに「無責任に」同伴するだけの世論と、それを煽るメディアを前に、訪朝と国交正常化までは決断していた小泉氏も屈した。日本の独自外交を嫌う米国からの圧力が、ここでも、あった。平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を推進しなかったのは、小泉氏を首班とする日本側だった――石井氏の結論である。世上言われている捉え方とは真逆である。

石井氏は2014年に「横田めぐみさんはとっくに亡くなっている」と公言して、家族会の反発を喰らっている。「被害者全員を生きて、奪い返す」とする安倍路線が破綻していることは、石井氏にも私にも明らかなのだが、今後の事態がいざそれを証明するように展開した場合に、日本社会の「責め」は改めて朝鮮国に集中するだろう。拉致問題をナショナリズムの高揚と自らの政権基盤の維持に利用しただけの政権をこそ批判しなければならない。この雰囲気が醸成された2002年以降の過程で、民衆に対する国家的統制を強化し、戦争に備える悪法がどれほど成立したかを冷静に見つめなければならない。

(5月5日記。200年前、カール・マルクスが生まれたこの日に)