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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

状況批評(思想・状況・批評) 米国へ向かう移民の群に何を見るべきか――日本への警告


『反天皇制運動 Alert』第30号(通巻412号、2018年12月4日発行)掲載

今から40年以上も前、私は当時放浪していたラテンアメリカ地域で幾度も陸路の国境を越えた。多くの場合、或る国の出国手続きを税関で終えると、次の国の入国税関までは、牧歌的な野山の風景の中を何百メートルか歩くと、目的の建物へ着いた。大都市に直結する国際空港と違って、陸続きの国境はどの国にとっても「辺境」にあって、税関にも必要最小限の人員しか配置されておらず、出入国手続きを管理してさえいればいいのさ、という印象を受けた。税関職員も、その国が厳格な軍事政権下にない限りは人懐っこく、あれこれ冗談を言いながら、ゆったりと「職務」を果たすのだった。国境付近に住む人たちは、お互いに旅券なしで自由往来しながら、お互いの田畑で収穫した物の売り買いや物々交換をしていた。それは、「国境」なるものの人為性を思わせられる光景であって、したがって、大げさに言えば、国境なき/国家なき「類的共同体」の未来像を幻視できる現場でもあった。

だが、最初に越えた国境は違った。ロサンゼルスでしばらく過ごした後、本来の目的地であるメキシコへ陸路で向かった。サン・ディエゴでグレイハウンド・バスを降りて、何車線もの広い車道の脇を通って、米国の出国税関に入る。メキシコへ向かう米国人の車はぎっしりだが、旅人以外に歩いている者はいない。無機質というかビジネスライクというか、およそ人間味のない応対を受けて後、しばらく歩いてメキシコ側へ着く。饒舌な税関職員とのやり取りを終えて、税関の外に一足歩み出ると、そこはカオスだ。荷物を持ってあげる、ホテルに案内するよ、タクシ―に乗らないか、ピーナツは要らないか、マンゴーだよ――ありとあらゆる声が掛かってくる。幼い子どもたちも多い。大丈夫、自分でやるし、今は要らない――と遮りつつ、こころは、なぜか、浮き立つ。人間臭いその雰囲気は、数週間過ごしたロサンゼルスのそれとはまったく違うのだ。メキシコ側の国境沿いのその町は、ティファナといった。見える景色、建物の様子、ひとの顔立ちも振舞い方も一変した。米国との貧富の差は、もちろん、歴然だ。メキシコを舞台にしたサム・ペキンパーの映画のシーンがいくつも目に浮かぶようだ。

それから45年、今この町には、主として中米ホンジュラスを出て米国への入国を目指す人びとが続々と詰めかけている。米国のトランプ大統領は、移住希望者の〈長征〉が始まるや否や、国境に軍隊を配備して入国を阻止すると豪語したが、数千キロの道を歩き続ける人びとは一様に「故国ではギャングによる殺人事件が多く、とても生きてはいられない」と語っている。他方、9千人もの移住希望者が一気に押し寄せてきて、治安・衛生管理などの面で不安を抱えたティファナの住民が「移民反対」の集会を開いたとか、国境の強行突破を試みた一部の人びとに対して、配備されている米国軍が催涙ガスを発射して撃退したとかのニュースも流れた。とうとうここまで来たか、と私は思った。

ホンジュラスといえば、20世紀初頭から半世紀、米国のユナイテッド・フルーツ社が思うがままに支配した「バナナ共和国」の先駆けだ。対米輸出に圧倒的に頼らざるを得ないホンジュラスの歪な経済構造は、そこから生まれた。20世紀後半の現代になっても、ラテンアメリカ地域は、大国と国際金融機関が主導するネオリベラリズム(新自由主義)の政策路線によって世界に先駆けて席捲されてきた。それは、貧しい第三世界諸国が、資産・所得の公平な再分配や福祉に重点を置いた社会改革政策を行なわないまま、市場原理を軸にした経済の自由化や規制緩和を押しつけられる路線だ。ネオリベラリズム路線は、その後先進国にも逆流して、日本でもとりわけ小泉・安倍政権下で推進され続けられてきているから、私たちも、企業に有利な労働条件・雇用形態の改定、福祉切り捨て、公共部門の廃止と民間「活力」の採用などの政策を通して、その破壊的な「猛威」を知っていよう。

この路線の下では、第三世界諸国の場合は、融資と引き換えに、国際収支の改善と債務返済を優先させられる。バナナやコーヒーの輸出で外貨を稼いでも、それは国内民衆に還元される以前に債務返済に充てられるのが条件だから、先進国に還流してしまう。その繰り返しだ。ホンジュラスでも、1990~94年のラファエル・カジェーハス政権がこの路線を推進した。それ以外の時期でも、例えば、隣国のニカラグアやエルサルバドルが革命的な激動の時代を迎えていた70年代後半から80年代初頭においても、米国は自らに忠実なホンジュラス政権を都合よく利用した。ニカラグアに革命政権が成立した1979年以降は、ホンジュラスの米軍基地を強化し、北部国境から反革命部隊(「コントラ」と呼ばれた)を侵入させて、革命を潰そうとした(これは、ケン・ローチ監督が1996年に制作した映画『カルラの歌』に描かれているから、ご覧になった方もおられよう)。2006年、ホンジュラスには珍しくも、マヌエル・セラヤを大統領とする中道左派政権が成立すると、米国は右翼を支援して、2009年のクーデタでこれを倒してしまった。その後いかなる性格の政権が出来て現在に至っているかは、推して知るべし、だろう。総人口920万人のうち貧困ライン以下の生活者は600万人を超えているという。対人口比の殺人事件発生率も世界一高い。それが、「移民キャラバン」に加わる人びとがいう暴力の根源なのだろう。

ジャーナリスト・工藤律子に、『マラス―暴力に支配される少年たち』と題するすぐれたルポルタージュがある(集英社、2016年。現在、集英社文庫)。ホンジュラスの若者ギャング団「マラス」を取材した本書は、今回の事態を予見したかのような好著だ。工藤によれば、ホンジュラスでマラスの存在が表面化したのは1990年代初頭である。新自由主義路線に忠実な、前記ラファエル・カジェーハス政権期に重なり合う。当時、米国はカリフォルニア州知事が、犯罪歴のある中米出身の若者たちを本国へ送還する追放策を実施していた。ホンジュラスにも3千人の若者が戻ってきた。

ラテン系住民がもともと多いカリフォルニア州では、1929年の世界恐慌以来、極貧状態・家庭崩壊・失業・雇用機会の欠如・低い教育水準・差別などの社会問題を背景に生まれた若者ギャグ団が「脈々と」受け継がれている。米国の移民政策には、レタスの収穫期のような繁忙期になれば「不法」入国者であっても雇用し、閑散期になると国外追放するという一貫した路線がある。これでは、右に挙げた社会問題が一向に解決され得ないことは、容易に見てとれよう。故国に追放された3千人の若者の、ホンジュラス→米国→ホンジュラスという往還をめぐる物語は個別にあるには違いないが、背景には共通のものがあろう。追放された1990年以降の時期にそれら若者の年齢が20代から30代であったと推定するなら、時代的には以下の共通の背景が考えられる。(1)米国政府と多国籍企業によるホンジュラスの政治・経済・社会の全的支配、それは同国の「国家主権」を侵すほどの水準だろうが、国内には米国に癒着してこそ利益が得られる一部寡頭階級が伝統的に形成されていよう。(2)若者たちは、その体制の下では仕事がないからこそいったん米国へ出たのだが、故国に戻っても、政権が追従している、社会的格差を是正する政策を欠いた新自由主義路線の下にあっては、働き口は容易には見つからなかっただろう。(3)社会の最下層に押し込まれた人びとが掴まされている、底辺に澱のように、しかも重層的に積み重なった「マイナスのカード」をひっくり返すのは容易なことではない。(4)ニカラグア革命を潰す「コントラ」戦争への加担を強いられる中で、圧倒的な軍事力を誇る超大国の「価値観」を多かれ少なかれ刷り込まれただろう。米国が、自分の国(ホンジュラス)に設置した軍事基地を最大限に活用して、他民族(ニカラグア)の土地で発動する「低強度戦争」を見て育った彼らは、超大国が「敵」にふるう有無を言わせぬ暴力の「価値」を、哀しくも、身体化せざるを得なかったかもしれない。

他にも共通の背景を挙げることはできようが、これで十分だろう。政治の任に当たる国内政治家とそれを支える外部勢力が、そこに生きる人びとがまっとうに生きることのできる条件を整備するどころか真逆の政策を採用し、それによって一部の者たち(外部の超大国と国際金融機関、および国内の少数支配層とその取り巻き連中)の手に富を集中させ、その路線を実現するために必要とあらば躊躇うことなく暴力(戦争)をふるう――これこそが、幼かった/少年だった/青年になりかけていた彼らが見せつけられ、身に染みて体験した世の中の現実だった。彼らが仕事を求めて行き着いたロサンゼルスで、またホンジュラスは首都のテグシガルパに送還されて、個人や集団(マラス)のレベルで、かの国家に似せたふるまいをしたところで、いったい誰がそれを非難できよう?

歴史的に見て、古今東西南北、「国家(=政府)」の側がこのような自らの所業について反省し、生き直すことはきわめて稀だ。ホンジュラスに対して一世紀以上にもわたって、右に見たような不正常な関係を一方的に押しつけてきた米国の現大統領の発言は、そのことを一点の曇りもなく証明している。だが、工藤の書『マラス』は、かつてこの集団に属して乱暴狼藉の限りを尽くしていた元若者が、その後送っている別な人生の在り方を、最終章「変革」で描いている。その前の章では「マラスの悲しみ」も描かれていて、「生まれつきのマラス」ではあり得ない人間の変革可能性が暗示されている。

ホンジュラスを出発した「移民キャラバン」の因果の関係をいくらか長く述べてきたのは、ほかでもない、「移民問題」に関わって日本の現状を対象化するために、である。排外主義的な本質を陰に陽に見せつけてきた安倍政権は、2018年6月、いわゆる「骨太の方針2018」を閣議決定し、新たな外国人労働者受入れ制度の創設を表明した。外国人労働者の導入は、安倍政権の支持基盤である排外主義的右翼層の離反を招きかねない「危険な」政策である。法務省が「出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案の骨子について」を公表したのは10月12日のことだった。衆議院での審議入りは11月13日、それから2週間有余の現在(12月1日)、政府はろくな答弁もできないままに衆議院を強行通過させ、審議は参議院に回されている。審議が深まって、いろいろな現実があからさまになっては困るのだろう。外国人労働者を「雇用の調整弁」としか考えていない政府・企業・社会の現状では、移民受け入れの長い歴史の果てに現在がある米国とも違う深刻な問題を私たちは抱えることになるだろう。今ですら、食い物にされてきた実習生や性産業に働く女性たちの怨嗟の叫び声が、この社会の片隅には充満しているのだ。「偏見」が商売になり、政治家の嘘なぞには誰も関心を寄せなくなったこの社会には……。

(12月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[102]東アジアにおける変革の動きと、停滞を続ける歴史認識


『反天皇制運動 Alert』第29号(通巻411号、2018年11月6日発行)掲載

『JSA』と題された韓国映画が日本で公開されたのは2001年だった(パク・チャヌク監督、イ・ビョンホン、ソン・ガンホ主演。製作は前年の2000年)。板門店の「共同警備区域」(Joint Security Area)で朝鮮人民軍の兵士が韓国軍兵士に射殺される事件を起点に、「許されざる」友情を育む南北の兵士たちの姿を描いた力作だった。見直さないと詳論はできないが、朝鮮国の兵士を独裁者の傀儡としてではなく「人格をもつ」人間として描いたことから、映画は退役軍人を主とする韓国保守層から厳しい批判を受ける一方、若年層が朝鮮への親近感を深めるきっかけとなったという挿話が印象的だった。

そのJSAの非武装化が、去る10月25日までに実現した。すべての武器と弾薬の撤収が完了したことを、南北の軍事当局と国連軍司令部が共同検証した。今後は、南北それぞれ35人ほどの人員が武器を持たずに警備に当たるという。これらはすべて、去る9月19日に当事者間で締結された「軍事分野合意書」に基づく措置だが、この全文は一読に値する。

→https://www.thekoreanpolitics.com/news/articleView.html?idxno=2683

4月27日の板門店宣言以降の5月間のうちに、軍事上の実務当事者同士が重ねた討議の質的な内容と速度とに驚くからである。それは、「無為に過ぎた」と敢えて言うべき以下の期間と対照させた時にはっきりする。JSAが設けられたのは、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定によってだから、そこから数えると65年が経っている。朝鮮人民軍の兵士が米軍将校2人を殺害した1976年8月の事件以降、それまで非武装だった警備兵士たちが武装するようになった時から数えると、42年ぶりの非武装化ということになる。最後に、映画『JSA』の製作年度との関連で言うなら、四半世紀有余を経て進行している事態である。いずれにせよ、人類が刻む歴史では無念にも、これだけの時間を費やさなければ根源的な変化は起こらない。それを繰り返して現在があるのだが、いったん事態が動き始めた時の速度には目を見張るものがある。11月1日からは、陸・海・空の敵対行為も停止された。今後も困難を克服して、東アジア地域の平和安定化のための努力が実りをもたらすことを願う。

こう語る私の居心地の悪さは、どこから来るのか? 翻って私の住まう日本社会は、この平和安定化にいかに寄与しているかという問いに向き合わねばならず、現状では官民双方のレベルで、肯定的な答え方ができないからである。これまでも何度も指摘してきたが、2018年度になって和平に向かって急速に流動化している朝鮮半島情勢に関して、日本政府や(時に)マスメディアが、この動きに警戒心を示し、ひどい時にはこれを妨害するかのごとき言動を行なってきていることは、誰の目にも明らかであろう。軍事力整備の強大化、自衛隊および在日米軍の基地新設・強化を推進している日本政府の政策路線からすれば、東アジア世界で進行する平和安定化傾向は「不都合な真実」に他ならないからである。

そこへ、新たな難題が生まれた。韓国最高裁が、1939年国家総動員法に基づく国民徴用令によって日本の工場に動員され働かせられた韓国人の元徴用工4人が新日鉄住金を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、同社に賠償命令を下したからである。西欧起源の「国際法」なるものは西洋が実践した植民地主義を肯定する性格を持つとの捉え返しが世界的に行われている現状を理解しているはずもない日本国首相が「判決は国際法に照らして、あり得ない」と言えば、メディアとそこに登場する「識者」の多くも「国と国との約束である請求権協定を覆すなら」国家間関係の前提が壊れると悲鳴を上げている。敗戦後の日本社会が、東アジアに対する加害の事実に正面から向き合い、まっとうな謝罪・賠償・補償を行なってきたならば、そうも言えよう。現実には、加害の事実を「低く」見積り、あわよくばそれを否定しようとする勢力が官民を牛耳ってきた。その象徴というべき人物が首相の座に6年間も就いたままなのである。植民地支配をめぐる歴史認識の変化を主体的に受け止めるための努力を止めるわけにはいかない。

(11月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[101]日米首脳会談共同声明から見抜くべきこと


『反天皇制運動Alert』第28号(通巻410号、2018年10月9日発行)掲載

移民や難民の入国規制や禁止を求めて欧州各国に台頭しつつある排外主義的な政治勢力を、正しくも「極右政党」と表現するメディアは、日本に成立した今次安倍政権を「極右政権」と名づけて報道しなければならないのではないか。「日本会議」と「神道政治連盟」に加入している政治屋たちが居並ぶ閣僚名簿を見て、かつ彼(女)らのこれまでの発言を思い起こして、つくづくそう思うのだが、こんな問題提起をしても、虚しさが募るばかりの、政治・社会・メディアの状況が続いている。だが、これが偽りのない日本社会の現状なのだ。私たちは、ここで考え、発言し、叫び、跳び、転がり、駆け、座り込み、動き回るしかないのだと覚悟して、久しい。

衝くべき問題は、いくつもある。ここでは、去る9月27日に行なわれた日米首脳会談が孕む問題に触れよう。共同声明の発表を受けて、日本での報道では「日米物品協定交渉入り合意」(9月27日毎日新聞)、「日米、関税交渉入り合意」(同日朝日新聞夕刊)などの見出しが躍った。詳しく読むと、記者会見で日本国首相は、「今回のTAG(物品貿易協定)は、これまで日本が結んできた包括的なFTA(自由貿易協定)とは全く異なる」と強調している。これは、従来から、日米二国間のFTA交渉を行なうことはあり得ないと否定してきた首相の立場に即せば当然のことだが、しかし、交渉翌日の新聞は「事実上のFTA」(毎日新聞)、「実態 FTAに近い」(朝日新聞)との見出しを付したように、マスメディアによっても問題の本質は疾うに見抜かれていたのである。

10月4日、東京新聞が共同声明のホワイトハウス発表の英語版および、在日米国大使館による仮翻訳と日本政府訳を並列し、食い違っている問題点を指摘した。私自身も原資料に当たって、検討してみた。すると、東京紙も指摘しているところだが、日本政府が公表した声明文で「日米物品貿易協定(TAG)」となっている個所は、Unitesd States-Japan Trade Agreement on goods となっており、使用されている大文字と小文字の関係性から言えば、goods はTrade Agreementと同格の位置にはないから、「物品貿易協定」と熟語的に翻訳することには無理があることがわかる。英語本文では「TAG」の略称も用いられてはいない。しかも、on goods の後には ,as well as on other key areas including services, と続いており、「物品」と「サービスを含めた他の重要な分野」を同格と捉えた表現になっていることがわかる。ここをごまかして、首相の従来の言動にぎりぎり合わせた翻訳文にするのだから、政府と官僚たちは、森友・加計問題で駆使した文書捏造技術にさらに磨きをかけるつもりなのだろう。

だが、この翻訳「技術」には既視感がある。1999年、新たな国際情勢の下で日米両政府が「防衛協力のための新ガイドライン」について協議していた。まとめられたガイドラインの正文(英語)と、政府から発表された日本語訳を読み合わせすると、微妙だが、明らかなズレが見られる。ふたつの文章は実際には厳密な対応関係にはなく、日本語文は、語る内容から「軍事色」を消すことに腐心していると私には思えた。いざ「周辺事態」が発生した時に自衛隊は米軍に「物品および役務を提供」する「後方支援」に従事することになるにもかかわらず、日本語文からは「戦争の匂い」が消えているのだ。この日米協議の場に出席していた防衛庁・陸幕調査部一等陸佐、山口昇氏(現在は防衛大学校教授で、「軍人スカラー」と呼ばれている)が公開の場で講演するというので、当時聞きに行った。氏の話を直接聞いても、ふたつのテキストを読んだ時と同じ感想を持ったので、私は「ガイドラインがまぎれもない戦争マニュアルであること」を隠そうとしているのではないか、と質問した。見解の相違で、そんなつもりはないと氏は断言した。だが、日本語文は英語正文からの翻訳ではなく、討論を経てふたつの言語で同時に起草したことは認めた。2国間の共同声明や協定が、こんな風に処理される場合もあるようだ。現在の権力者たち(政府+高級官僚)の論理と倫理の水準に照らして、今回の日米共同声明を厳しく解読すべきだろう。  (10月6日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[100]百年後のロシア革命――極秘文書の公開から見えてくるもの


『反天皇制運動Alert』第27号(通巻409号、2018年9月4日発行)掲載

あるところで「ロシア革命百年」講座を行なっている。半年かけて、全6回である。昨年もこのテーマに関しては2回ほど公の場で話した。そのうち1回は、「レーニン主義」をなお墨守していると思われる人びとが多く集う場だから、緊張した。私は一定の〈敬意〉をもってこの人物に接してはきたが、いわゆる「レーニン主義者」であったことは一度もない。若い頃の思いを、恐れも知らず埴谷雄高を模して表現するなら、ヨリ自由な立場から『国家と革命』に対峙し、理論的に負けたと思ったら、選ぶ道を考え直そう、というものだった。〈勝ったか負けたか〉はともかく、レーニンが主導した道は選ばなかった。だから、その道を選び、今なお〈悔い改めない〉人びとの前では、いい意味で緊張するのである。

53歳で亡くなったレーニンは、論文・著作の生産量が高い人だった。最終的には、ロシア語第5版で補巻を含めて全57巻、日本語版はロシア語第4版に依拠し全48巻の全集が編まれた。いずれも、1950年代から60年代にかけての、息の長い出版の仕事だった。レーニンの著作をめぐって、事態が決定的に変わるのは、ソ連体制が崩壊した1991年以降である。ソ連共産党中央委員会のアーカイブに厳密に保管されてきていた極秘文書が公開されるようになった。書き込みも含めてレーニンの手になる文書3700点、レーニンが署名した公的文書3000点が明るみに出た。極秘にされていた理由は、以下による。(1)国家機密に関わるもの。陰謀的な性格を持つもの。(2)公定レーニン像に抵触する、不適切なイデオロギー的性格をもつもの。(3)判読不能・鑑定上の疑義のあるもの。技術的・学術的な問題。(文書の点数は、池田嘉郎による)

ロシアではもとより、英語圏・フランス語圏でもこれらの文書を参照しないロシア革命研究はもはやあり得ない。重要な著作は、いくつか日本語訳も出版されている。日本でも、梶川伸一、池田嘉郎、故稲子恒夫のように、従来の未公開文書を駆使して重要な仕事を行なっている研究者が生まれている。そんな時代がきて、4半世紀が過ぎた。

それらの資料を読みながら、私はつくづく思う。党中央委員会の文書管理部は、一貫して、実に〈すぐれた〉人物を擁していた。同時代的に、あるいは後世においてさえ、この文書を公開しては、レーニンとロシア革命のイメージをひどく毀損すると「的確に」判断できていたからである。この短い文章では具体的な引用はできない。ただ、〈敵〉と名指しした人びとに対する、公開絞首刑の執行を含めた仮借なき弾圧が幾度となく指示されているとか、レーニンの忠実な「配下」であったトゥハチェフスキーが「反革命」鎮圧のために毒ガス使用を指示したとか程度には触れておこう。「富農を人質に取れ」という苛烈なレーニンの指令に驚き、心がひるみ、この指令を無視する地方の党幹部の姿も現われる。つまり、この幹部のように、そしてクレムリンの文書管理部局スタッフのように、難局極まりない内戦の渦中にあっても「的確な」判断を成し得た人物は実在したのである。レーニンと革命が掲げる〈目的〉に照らせば、採用してはいけない〈手段〉があることを知っていた人物が……。

その意味では、1921年のクロンシュタット叛乱と、1918~21年のウクライナのマフノ農民運動に対して、レーニンやトロツキーが先頭に立って「弾圧」した事実は、夙に(同時代の中でも)知られていた。前者の叛乱は、「革命の聖地」ペトログラードのすぐ近くのクロンシュタット要塞で進行した。それは、ボリシェヴィキの一党独裁を批判する立場から革命の根源的な深化を求めた水兵・労働者の公然たる動きであり、ボリシェヴィキも機関紙上で反論せざるを得なかった。叛乱なるものの背後にはフランスのスパイがいる、というお定まりの宣伝ではあったが。後者の場合は、ボリシェヴィキの弾圧にさらされる農民アナキストが渦中で情報を発信した。1922年末に日本を脱出した大杉栄は、翌年2月パリに着くと、マフノ運動関連の文献渉猟に全力を挙げている。7月に帰国して、翌8月には「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」という優れた紹介文を執筆した。大杉が虐殺される前の月である。

ロシア革命は、当時も百年後の今も、その本質について、どんな情報に基づいてどのような判断を持つかを迫られる、或る意味で「おそろしい」場であり続けている。

(9月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[98]「貧しい」現実を「豊かに」解き放つ想像力


『反天皇制運動Alert』第25号(通巻407号、2018年7月10日発行)掲載

10や50や100のように「数」として区切りのよい周年期を祝ったり、内省的に追憶したり、それに過剰に意味付与したりするのはおかしいと常々思ってはいる。だが、ロシア革命百年(1917~)、米騒動・シベリア干渉戦争百年(1918~)、三・一独立運動/五・四運動百年(1919~)、関東大震災・朝鮮人虐殺百年(1923~)という具合に、近代日本の歩みを顧みるうえで忘れ難い百周年期が打ち続くここ数年には、その歴史的な出来事自体はもとよりこれに続いた歴史過程の検証という視点に立つと、深く刺激される。百歳を超えて存命されている方を周辺にも見聞きするとき、ああこの歳月を生きてこられたのだ、と思いはさらに深まる。

厄介な「米国問題」を抱えて苦悶する近現代の世界を思えば、五年後の2023年は、米国は身勝手なふるまいをするぞと高らかに宣言したに等しいモンロー教義から二百周年期にも当たることが想起される。それに、現在のトランプ大統領の勝手気ままなふるまいを重ね合わせると、他地域への軍事侵攻と戦争に明け暮れている米国二百年史が重層的に見えてきて、嘆息するしかない(いまのところ、唯一、トランプ氏の対朝鮮外交だけは、伝統的な米外交政策顧問団が不在のままに大統領単独で突っ走ったことが、局面打開の上で有効であったと私は肯定的に判断しているが、この先たどるべき道は、なお遠い。紆余曲折はあろうとも、よい形で、朝鮮半島南北間の、そして朝米間の、相互友好関係が築かれることを熱望してはいるが……)。

さて足下に戻る。冒頭に記した百周年期を迎える一連の出来事を見ても一目瞭然、問題は、百年前の当時、日本が東アジアの周辺地域といかなる関係を築いていたのかとふり返ることこそが、私たちの視点である。先ごろ実現した南北首脳会談と朝米首脳会談に対して、日本の政府、マスメディア、そして「世論」なるものが示した反応を見ても、この社会は総体として、朝鮮に対する植民地主義的態度を維持し続けていることがわかる。民族的な和解に向けた着実な歩みを理解しようとせずに、そこには「ぼくがいない」(=拉致問題に触れていない)などと駄々をこねているからである。この腹立たしい現実を思うと、改めて、「日韓併合」から10年ほどを経た1920年前後の史実に、百年後の今いかに向き合うかが重要な課題としてせりあがってくる。

その意味で注目に値するのが、公開が始まったばかりの瀬々敬久監督の映画『菊とギロチン』である(2018年)。関東大震災前後に実在した、アナキスト系青年たちの拠点=ギロチン社に集う面々を描いた作品である。ギロチン社の実態をご存知の方は、そんなことに何の意味があろうと訝しく思われよう。大言壮語を駆使して資本家から「略奪」した資金を酒と「女郎屋」で使い果たしたり、震災後の大杉栄虐殺に怒り「テロ」を企てるも悉く惨めな失敗に終わったりと、ギロチン社に関しては情けなくも頼りない史実が目立つばかりである。映画はそこへ、当時盛んであった女相撲の興行という要素を絡ませた。姉の死後、姉の夫だった男の「後妻」に、こころ通わぬままになったが、夫の暴力に耐えかねて貧しい農村を出奔した花菊(木竜麻生)にまつわる物語は、当時の農村社会の縮図といえよう。元「遊女」の十勝川(韓英恵)は朝鮮出身の力士と設定されているが、彼女が経験してきたことがさまざまな形で挿入されることで、物語は一気に歴史的な現実に裏づけられた深みと広がりをもつものとなった。過去の、実態としては「貧しい」物語が、フィクションを導入することによって、現在の観客にも訴えかける、中身の濃い「豊かな」物語へと転成を遂げたのである。大言壮語型の典型と言うべき中濵鐵(東出昌大)も、思索家で、現金奪取のために銀行員を襲撃したときに心ならずも相手を殺害してしまったことに苦しむ古田大次郎(寛一郎)も、この物語の中では、いささか頼りないには違いないが、悩み苦しみつつ、「自由な世界」を求める人間として、生き生きとしてくる。大震災の直後の朝鮮人虐殺にまつわる挿話は、十勝川も、威張りちらす在郷軍人も、今は貧しい土地にへばりついて働いているが、自警団としての耐え難い経験を心底に秘めた元シベリア出兵兵士も、それぞれの場から語って、映画の骨格をなした。

現実は、ご存知のように、耐え難い。想像力が解き放つ映像空間を楽しみたい。

(7月6日記)

【追記】『菊とギロチン』の公式サイトは以下です。

http://kiku-guillo.com/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[97]米朝首脳会談を陰で支える文在寅韓国大統領


『反天皇制運動 Alert』第24号(通巻406号、2018年6月5日発行)掲載

引き続き朝鮮半島情勢について考えたい。東アジア世界に生きる私たちにとって、情勢が日々変化していることが実感されるからである。しかも、差し当たっては政府レベルでの動きに注目が集まるこの事態の中に、日本政府の主体的な姿はない。見えるとしても、激変する状況への妨害者として、はっきり言えば、和解と和平の困難な道を歩もうとする者たちを押し止めようとする役割を自ら進んで果たす姿ばかりである。その意味での無念な思いも込めて、注目すべき状況が朝鮮半島では続いている。

政治家は押し並べて気まぐれだが、その点では群を抜く米朝ふたりの政治指導者の逐一の言葉に翻弄されていては、問題の本質には行きつかない。そこで、今回のこの情勢の変化を生み出した当事者のひとりで、米朝のふたりとは逆の意味で頭ひとつ抜けていると思われる政治家、文在寅韓国大統領の言葉の検討から始めたい。

17年5月に就任したばかりの文大統領は、直後の5月18日に、記憶に残る演説を行なっている。光州民主化運動37周年記念式典において、である。文大統領は、朴正煕暗殺の「危機」を粛軍クーデタで乗り越えようとした軍部が全土に非常戒厳令を布告し、ひときわ抵抗運動が激しかった光州市を戒厳軍が制圧する過程で起こった80年5月の事態を「不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した現代史の悲劇だった」として、自らの問題として国家の責任を問うた。18年3月1日の「第99周年3.1節記念式」では、日本帝国主義支配下で起きた独立運動の意義を強調し、この運動によってこそ「王政と植民地を超え、私たちの先祖が民主共和国に進むことができた」と述べた。最後には、独島(竹島)と慰安婦問題に触れて、日本は「帝国主義的侵略への反省を拒んでいる」が、「加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない。不幸な歴史ほどその歴史を記憶し、その歴史から学ぶことだけが真の解決だ」と語った。私たちは、韓国憲法が前文で、同国が「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」に立脚したものと規定している事実を想起すべきだろう。来年はこの3・1運動から百年目を迎える。改めて私たちの歴史認識が、避けがたくも問われるのである。

文大統領は18年4月3日の「済州島4・3犠牲者追念日」でも追念の辞を述べた。日本帝国主義軍を武装解除した米軍政は、1948年に南側の単独選挙を画策したが、これに反対し武装蜂起した人びとに対する弾圧が、その後の7年間で3万人もの死者を生んだ悲劇を思い起こす行事である。今年は70周年の節目でもあった。文氏はここで、70年前の犠牲者遺族と弾圧側の警友会の和解の意義を強調しつつ、「これからの韓国は、正義にかなった保守と、正義にかなった進歩が『正義』で競争する国、公正な保守と公正な進歩が『公正』で評価される時代」になるべきだと語っている。

どの演説にあっても貫かれているのは、国家の責任で引き起こされた過去の悲劇をも、後世に生きる自らの責任で引き受ける姿勢である。私は、文氏が行なっている内政の在り方を詳らかには知らない。韓国内に生きるひとりの人間を想定するなら、氏の政策にも批判すべき点は多々あるのだろう。だが、今や世界中を探しても容易には見つからない、しかるべき識見と歴史的展望を備えた政治家だ、とは思う。米クリントン政権時代の労働省長官だったロバート・ライシ氏は、文氏が「才能、知性、謙虚さ、進歩性」において類を見ない人物であり、「偏執症的なふたりの指導者、トランプと金正恩がやり合っている脆弱な時期に」文在寅大統領が介在していることの重要性を指摘している(「ハンギョレ新聞」18年5月27日)。13年来の「新年辞」で南北対話と緊張緩和を呼びかけてきた金正恩氏にとっても、またとない相手と相まみえている思いだろう。

来るべき米朝会談のふたりの主役は、その内政および外交政策に批判すべき点の多い人物同士ではあるが、会談の行方をじっくりと見守りたい。この重要な政治過程にまったく関わり合いがもてない政治家に牛耳られているこの国の在り方を振り返りながら。

(6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[96]板門店宣言を読み、改めて思うこと


『反天皇制運動 Alert』第23号(2018年5月8日発行)掲載

去る4月27日の朝鮮半島南北首脳会談に際して発表された板門店宣言の内容を知って、「日本人拉致問題への言及がない」という感想を漏らしたのは、拉致被害者家族会の会長だった。置かれている立場は気の毒としか言いようがないが、見当外れも甚だしいこのような見解が紙面に載るというのも、2002年9月の日朝首脳会談以降16年の長きにわたって日本政府が採用してきた過てる対朝鮮政策の直接的な結果だろう。自ら問題解決のために動くことなく、他国の政府に下駄を預けるという方針を貫いてきたからである。多くのメディアもまた、その政府の方針に無批判で、日本ナショナリズムに純化した報道に専念している。長い年月、分断され非和解的な敵対関係にあった南北朝鮮の2人の指導者が「民族的な和解」のために会談を行なう時に、なぜ「日本人」に関わる案件が宣言文に盛られるほどの重要度をもち得ると錯覚できるのであろうか。藁にも縋りたい家族会の人びとをこのような迷妄的な境地に導き入れてきた政府とメディアの責任は大きい。

金正恩朝鮮労働党委員長は「いつでも日本と対話する用意がある」と文在寅韓国大統領に伝えたという。日本政府は絶好の機会を捉えてすぐ応答することもせずに、首相が中東地域歴訪に出かけるという頓珍漢な動きをした。あまつさえ、去る1月に対朝鮮国断交を行なったヨルダン政府の方針を高く「評価」した。事ほど左様に、およそ確たる外交方針を持たない日本政府ではあるが、日朝間にも何らかの交渉の動きが近いうちに始まるのではあろう。会談の結果明らかになる拉致問題に関わる内容如何では、両国間にはさらなる緊張状態が高まるかもしれず、今の段階から、その時代風潮に対処するための準備が必要だろう。

私は16年前の日朝首脳会談直後から、あるべき対朝鮮政策の在り方を具体的に述べてきているので、ここでは違う角度から触れてみたい。対朝鮮問題に関しては一家言を有する元国会議員・石井一氏が「約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ」とする発言を行なっている(『月刊日本』2018年5月号)。氏は日朝議員連盟会長を務め、1990年の金丸訪朝団の事務総長の任にも当たり、先遣隊の団長でもあった。自民党、(まだ存在していた)社会党、朝鮮労働党の3党合意が成ったこの会談に関する氏の証言は重要だろう。朝鮮ではまだ金日成が存命中だった。金丸・金日成の2者会談を軸にしながら、「国交正常化」「植民地時代の補償」「南北分断後45年間についての補償」の3点の合意が成った。だが、日本国内にあっては、金丸氏に対して「売国奴」「北朝鮮のスパイ」との非難が殺到した。国外にあっては、日本の「抜け駆け」を警戒する米国からの圧力があった。自民党の「実力者」金丸氏にして、自主外交を貫くまでの力はなかった。かくして1990年の日朝3党合意は、日本側の理由で破棄されたも同然、と石井氏は言う。

2002年の日朝首脳会談も「平壌宣言」の合意にまでは至った。拉致問題に関わって明らかになった事実が、被害者家族にとってどれほど悲痛で受け入れがたいものであったとしても、また社会全体が激高したとしても、この事実を認め、「拉致問題は決着した」との前提で、宣言はまとめられた。家族会の怒りに「無責任に」同伴するだけの世論と、それを煽るメディアを前に、訪朝と国交正常化までは決断していた小泉氏も屈した。日本の独自外交を嫌う米国からの圧力が、ここでも、あった。平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を推進しなかったのは、小泉氏を首班とする日本側だった――石井氏の結論である。世上言われている捉え方とは真逆である。

石井氏は2014年に「横田めぐみさんはとっくに亡くなっている」と公言して、家族会の反発を喰らっている。「被害者全員を生きて、奪い返す」とする安倍路線が破綻していることは、石井氏にも私にも明らかなのだが、今後の事態がいざそれを証明するように展開した場合に、日本社会の「責め」は改めて朝鮮国に集中するだろう。拉致問題をナショナリズムの高揚と自らの政権基盤の維持に利用しただけの政権をこそ批判しなければならない。この雰囲気が醸成された2002年以降の過程で、民衆に対する国家的統制を強化し、戦争に備える悪法がどれほど成立したかを冷静に見つめなければならない。

(5月5日記。200年前、カール・マルクスが生まれたこの日に)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[95]現首相の価値観が出来させた内政・外交の行詰り


『反天皇制運動 Alert』第22号(通巻404号、2018年4月11日発行)掲載

我慢して、安倍晋三氏が書いた(らしき)本や対談本、安倍論などを読み始めたのは、2002年9月17日の日朝首脳会談を経て、数年が過ぎたころからだったか。その数年間には、彼が拉致問題を理由にした対朝鮮強硬派であるがゆえにメディア上での注目度が上がった歳月や、2001年に「慰安婦」問題を扱ったNHK番組に関して、「勘ぐれ」という言葉を用いてNHK幹部に改竄するよう圧力をかけたことが明るみに出た2005年の日々が含まれている。やがて2006年、小泉氏の後継者をめぐる自民党総裁選が近づくと、件のNHKニュースは、安倍氏に「国民的人気が高い」という形容詞を漏れなく付けるようになった。それ以降現在にまで至る経緯は、もはや、付け加えることもないだろう。

最初の本を目にした時から、とんでもない人物が台頭してきたものだとつくづく思った。論理がない、倫理もない、歴史的な知識も展望もない、あるのは、ギラギラした、内向きで排外主義的なナショナリズムだけだ。昔の「保守」はこれほどひどいものではなかった、と独り言ちた。1980年代後半以降、『正論』『諸君!』などの極右雑誌に目立ち始めた、歴史の偽造を厭わない低劣な文章群は、とうとう、こんな政治家を生み出す社会的な基盤を造成したのかと慨嘆した。そうは思いつつも、拉致問題の捉え方を軸にその言動の批判的な分析は続けてきた。だから、関連書を読み続けたのだ。そのとき思った――右翼がここまで劣化すると、左翼も危ないぞ、と。まもなく、ソ連的社会主義体制が崩壊して、左翼は危ないどころか、理念的にはともかく運動としてはほぼ消滅した。

批判的な左翼が消えた時代に、安倍的な価値意識に彩られた社会が花開いた。5年有余が経ち(わずか1年で瓦解した第一次政権の成立時から数えると12年が経ち)、その結果を私たちは日々見ている/見せられている。改竄・隠蔽・捏造が公然と罷り通る内政の荒廃ぶりは、かくまでか、と思うほどだ。幼稚園の子どもたちに教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせ、首相の妻を前に安保法制の議会通過を喜ぶ台詞を斉唱させて彼女を涙ぐませるような「愛国主義教育」を行なうことを目指した私学経営者に、首相とその取り巻きが肩入れし、国有地の安価な払い下げと設立認可を急いだ――森友学園問題のこの原点に、強権主義的な安倍政治の本質がまぎれもなくにじみ出ている。

米国頼み一本鎗が「方針」であったかのような外交の行き詰まりぶりも、内政同様、見苦しい。今年度初頭の金正恩氏の路線転換以来、朝鮮半島情勢はめざましい進展ぶりをみせている。対朝鮮外交における「対話ではなく圧力」路線の盟友であったトランプ米大統領は来る5月の米朝首脳会談を決意する一方、日本に対する輸入制限も発動した。「日本ひとりが蚊帳の外」という印象がぬぐい難い。

あるジャーナリストの調査によると、首相がこの5年間、「拉致問題は、安倍内閣の最重要課題であります」と本会議や委員会で語ったのは54回に上るという。1年に10回以上もこんな発言をしていることになる。その実、解決のための努力を少しもしていないことは、蓮池透氏や私が夙に指摘してきたとおりである。拉致問題あったればこそ首相に上りつめた彼は、自らが煽った「朝鮮への憎悪感情」が社会に充満していることが政権維持の必要条件なのだから、日朝関係は現状のままでよいのだろう。去る2月の日韓首脳会談において、「米韓合同軍事演習を延期するな」と主張した首相に、「我が国の主権の問題」とする韓国大統領は反発した。160ヵ国との外交関係を持つ朝鮮との断交を国際会議で求めた日本国外相の演説は、あるべき外交政策を知らぬその無知無策ぶりに、心ある外交官の失笑を買っただろう。この期に及んで外相は韓国へ行き、4月の韓朝首脳会談で拉致問題に触れるよう、韓国外相に要請するという。首相は「盟友」トランプに会いに行き、5月の米朝首脳会談での同じふるまいを頼むのだという。自力解決の意図も能力もないことを自白したに等しい。河野外相はさらに、3月31日に「北朝鮮は次の核実験の用意を一生懸命やっているのも見える」と語った。私も時々見ている米ジョンズ・ホプキンズ大学の朝鮮分析サイト「38NORTH」は、逆にその動きは激減しているとして、外相発言の根拠に疑問を投げかけている。中国外務省は、各国が東アジアの緊張緩和に向けて努力を積み重ねている時に「その過程から冷遇されている日本は、足を引っ張るな」と不快感を示した。

かくも無惨な外交路線があり得ようか。内政・外交ともに進退窮まっている現政権の現状は確認できた。次は何か、が私たちの課題だ。            (4月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[93]ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助の下で実施されたという「発見」


『反天皇制運動Alert』第20号(通巻402号、2018年2月6日発行)掲載

1945年2月、米英ソ首脳によるヤルタ会談で、ソ連の対日参戦が決定された。同年8月9日、米軍による長崎への原爆投下と同じ日、ソ連軍は樺太南部と千島列島に投入された。さらに8月28日からは、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島占領作戦が展開された。各島で日本兵の武装解除が行なわれ、9月5日、ソ連軍は四島を制圧した。

ここまでは、従来もよく知られた歴史である。8月15日直後の状況下で、スターリンが北海道占領計画なるものを提示し、これをトルーマンが拒否したことも知られている。いつ頃のことだったか、スターリンが夢想した北海道占領案を地図上で知ったことがあった。それによると、釧路と留萌を結ぶ線を引き、その北東部分をソ連が占領することになっていた。そのとき2歳で、釧路に住んでいた私は、ソ連占領下に生きることにもなり得たのだった。権謀術数の駆け引きに拠って成立している国際政治の在り方如何によっては、所与の地域に生きる(とりわけ、敗戦国や勝者に占領された国の)民草の行く末などはいかようにも翻弄され得るのだという、世界政治に対する私の基本的な視点は、この段階で定まった。21世紀に入って4半世紀、このことが、アフガニスタン、イラク、シリア……などアラブ地域の国々で繰り返されているさまを、私たちは目撃し続けている。背後で蠢いているのが、米国とロシア(旧ソ連)であることにも変わりはない。これが、人間の歴史に対する諦観をわれらが裡に育てるものなのか、もっと深く絶望を植えつけるものなのか、それとも?――ここでは、問うまい。

さて、上に触れた歴史を受けて、北方4島問題を国家帰属に関わるそれとして捉えて角逐し合っているのが日露の両国家だが、そこは、近代国家成立以前には先住民族の土地であったことを考えるなら、歴史哲学的にはこの契機を挟むことなく、ことを「領土問題」に凝縮して解決を図ることの「不可能性」が浮かび上がる。この点を指摘したうえで、次へ進もう。日本が敗戦した1945年以降73年間ものあいだ揺るぐことのなかった「ソ連対日参戦」の事実に、新たな視点が付け加えられたのは昨年末のことだった。ソ連の北方4島占領を「米国が援助し、極秘に艦船を貸与し訓練も施していた」事実が明らかになったのだ(『北海道新聞』17年12月30日朝刊)。冒頭に触れたヤルタ会談の直後から、共に連合国であった米ソは「プロジェクト・フラ」(Project Hula)と呼ばれる合同の極秘作戦を開始した。内容は以下のごとくであった。米国は45年5~9月、掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与し、4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイ基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行なった。これら一連の訓練は、45年8~9月の「実践」で役立てられた。4島占領作戦に参加したソ連側の艦船数は17隻だったが、そのうち10隻が米国から貸与されたものだった。

つまり、ソ連の勝手なふるまいと考えられてきた北方4島の電撃的な占領作戦は、米ソをトップとする連合国の作戦であった、ということになる。こんなこともあるのか、と思えるほどの、歴史的な「一大発見」ということになる。発見者は2015年来北方四島の遺産発掘・継承事業を行なっている根室振興局である。各国の資料に当たる中で、サハリン及びクリール諸島上陸作戦に参加した軍艦リストを調査した一ロシア人学者の2011年度の研究が糸口になったようだ。調べてみると、米の元軍人リチャード・ラッセルが2003年に『プロジェクト・フラ』を書いて、この極秘プランの内実を著してもいる。これが最初の研究だとすれば、やはり真相は60年近くも秘されてきたということになる。

この場合は、国際関係の微妙さを口実とした「隠蔽」だったのか、よくわからぬ。時代の制約の中に生きる人間の問題意識・歴史認識の水準に帰すべき場合もあろう。近着の『極東書店ニュース』643号電子版を見るにつけても、学生時代以降半世紀間見続けて読書の指針にしてきたこの学術洋書案内に見られる内容の変化は著しい。ジェンダー研究、女性史、移民史、移民問題、少数民族、人種問題、環境問題などという書目分類は昔ならあり得なかったが、昨今は際立って冊数も多い。国際政治ゆえの「隠蔽」の力が作用しているのか、それともわが認識水準が及ばないのか、いずれにせよ、歴史にはこんなことが起こり得るのだ。

まだ真相に行き着いてはいないのではないかという恐れをもって、歴史に向き合いたいものだ。(2月3日記)

カタルーニャのついての本あれこれ


カタルーニャの分離独立をめぐる住民投票の結果の行く末に注目している。若いころ、ピカソ、ダリ、ミロ、カザルスなどの作品に触れ、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み、その地に根づいたアナキズムの思想と運動の深さを知れば、カタルーニャは、どこか、魅力あふれる芸術と政治思想の揺籃の地と思えたのだった。

そんな思いを抱えながら、私が30代半ばから加わった現代企画室の仕事においては、カタルーニャの人びととの付き合いが結構な比重を占めることとなった。

現代企画室に関わり始めて初期の仕事のひとつが、『ガウディを読む』(北川フラム=編、1984)への関わりだった。これに収録したフランシスコ・アルバルダネの論文「ガウディ論序説」を「編集部訳」ということで、翻訳した。彼は日本で建築を学んでいたので、直接何度も会っていた。熱烈なカタルーニャ・ナショナリストで、のちに私がスペインを訪れた時には、「コロンブスはカタルーニャ人だった」と確信する市井の歴史好事家を紹介してくれたが、その人物は自宅の薄暗い書斎の中で、「コロンブス=カタルーニャ人」説を何時間にもわたって講義してくれた。それは、コロンブスは「アメリカ大陸発見」の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉人を生んだのは、ほかならぬここカタルーニャだった、というものだった。翻って、コロンブスに対する私の関心は「コロンブス=侵略者=西洋植民地主義の創始者」というものだったので、ふたりの立場の食い違いははなはだしいものだった。

それはともかく、ガウディという興味深い人物のことを、私はこの『ガウディを読む』を通して詳しく知ることとなった。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9810-1

現代企画室は、それ以前に、粟津潔『ガウディ讃歌』(1981)を刊行していた。帯には、「ガウディ入〈悶〉書」とあって、粟津さんがガウディに出会って以降、それこそ「悶える」ようにガウディに入れ込んだ様子が感じ取られて、微笑ましかった。残念ながら、この本は、いま品切れになっている。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8101-1

それからしばらく経った1988年、私はチュニスで開かれたアジア・アフリカ作家会議の国際会議に参加した後、バルセロナへ飛んだ。そこで、漫画家セスクと会った。フランコ時代に発禁になった作品を含めて、たくさんの作品を見せてもらった。それらを並べて、カタルーニャ現代史を描いた本をつくれないかという相談をした。漫画だけで、それを描くのは難しい。当時、小説や評論の分野でめざましい活躍をしていたモンセラー・ローチに、並べた漫画作品に即した「カタルーニャ現代史」を書いてもらうことにした。彼女にも会って、「書く」との約束を取りつけた。

その後の何回ものやり取りを経て、スペイン語でもカタルーニャ語でも未刊行の『発禁カタルーニャ現代史』日本語版は、バルセロナ・オリンピックを2年後に控えた1990年に刊行された。それからしばらくして、現地でカタルーニャ語版も出版された。また一緒に仕事のできるチームだなと考えていたが、ローチは日本語版ができた翌年の1991年に病死した(生年は1946年)。また、セスクも2007年に亡くなってしまった(生年1927年)。制作経緯も含めて、忘れ難い本のひとつだ。

『発禁カタルューニャ現代史』(山道佳子・潤田順一・市川秋子・八嶋由香利=訳、1990)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-87470-058-7

カタルーニャ語の辞書や学習書、『ティラン・ロ・ブラン』の翻訳などで活躍されている田澤耕さんと田澤佳子さんによる翻訳は、20世紀末もどん詰りの1999年に刊行された。植民地の喪失、内戦、フランコ独裁、近代化と打ち続く19世紀から20世紀にかけてのスペインの歩みを、カタルーニャの片隅に生きた村人の目で描いた佳作だ。

ジェズス・ムンカダ『引き船道』(田澤佳子・田澤耕=訳、1999)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9911-5

1974年――フランコ独裁体制の末期、恩赦される可能性もあったアナキスト系の政治青年が、鉄環処刑された。バルセロナが主要な舞台である。この実在の青年が生きた生の軌跡を描いたのが、次の本だ。同名の映画の公開に間に合わせるために、翻訳者には大急ぎでの仕事をお願いした。映画もなかなかの力作だった。

フランセスク・エスクリバーノ『サルバドールの朝』(潤田順一=訳、2007)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0709-7

アルモドバルの映画の魅力は大きい。これも、同名の映画の公開を前に、杉山晃さんが持ちかけてこられた作品だ。試写を観て感銘を受け、監督自らが書き下ろした原作本に相当するというので、刊行を決めた。バルセロナが主要な舞台だ。本の帯には、「映画の奇才は、手練れの文学者でもあった。」と書いた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』(杉山晃=訳、2004)

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0002-9

版画も油絵も描き、テラコッタや鉄・木を使った作品も多い、カタルーニャの美術家、エステル・アルバルダネとの付き合いが深いのは、もともとは、日本滞在中の通訳兼同行者=唐澤秀子だった。来日すると、彼女が私たちの家も訪ねてくるようになったので、私も親しくなった。彼女のパートナーはジョバンニというイタリア人で、文学研究者だ。そのうち、お互いに家族ぐるみの付き合いになった。

私の郷里・釧路で開かれたエステルの展覧会に行ったこと。絵を描いたり作品の設置場所を検討したりする、現場での彼女の仕事ぶりは知らないが、伝え聞くエピソードには、面白いことがたくさん含まれていたこと。彼女が急逝したのち、2006年にバルセロナの北方、フィゲーラス(ダリの生地だ)で開かれた追悼展に唐澤と出かけたが、そこで未見の作品にたくさん出会えたこと――など、思い出は尽きない。”Abrazos”(抱擁)と題する油絵の作品は、構図を少しづつ替えて何点も展示されていた。多作の人だった。「ほしい!」と思うような出来栄えなのだが、抱擁している女性の貌が一様に寂しげなのが、こころに残った。

私の家の壁には、『ハムレット』のオフェリアの最後の場面を彷彿させる、エステル作の一枚の版画が架かっている。

釧路での展覧会は、小さなカタログになっているが、現代企画室で作品集を刊行するまでにはいかなかった。でも、日本各地に彼女の先品が残っている。いくつか例を挙げよう。

「庭師の巨人」は、新潟・妻有に。

http://yuki8154.blog.so-net.ne.jp/2008-09-11

「家族」は、クイーンズスクエア横浜に。

http://www.qsy-tqc.jp/floor/art.html

「タチカワの女たち」は、ファーレ立川に。

http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tachikawashi/Faret/029/029.html

川口のスキップシティにも、日本における彼女の最後の作品が設置されているようだが、私は未見であり、ネット上でもその情報を見つけることはできなかった。

カタルーニャの分離独立の動きについて思うところを書くことは、改めて他日を期したい。(10月3日記)