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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

広がりゆく死刑囚の表現活動――第7回死刑囚表現展をふり返って


『出版ニュース』2011年11月上旬号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が行なう「死刑囚表現展」は、今年で7回目を迎えた。応募の締切りは7月末日だったが、この時点での死刑確定囚は120人、未決の人は39人だった。そのなかから、文章表現では12人から、絵画表現では14人からの応募があった。双方に応募したのは3人だったから、実質23人が応募したことになる。総数の中から1割5分程度の人びとの応募があるという数字が、比率的に高いのか低いのかは分からない。表現展を運営している立場から言えば、はじめての応募者があるのもうれしいが、毎年のように応募する人が複数存在していることに、この表現展の試みが根づきつつあることの証しを見るのは早計だろうか。また、毎年のように応募してきた人から作品が届かないと、それはそれで気になることでもある。運営に当たる私たちも、こんな風に、気持ちの微妙な揺らぎをおぼえながら、締切り日を迎えるのである。

文章作品は、原稿用紙に書く人もいれば、レポート用紙、便箋、はがきなど、さまざまな形で書かれて、届けられる。それらを複写して、選考委員(加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、坂上香の諸氏に、私・太田昌国)に送るのだが、今年はそれを積み重ねた厚みが40センチほどになった。たいへんな分量である。選考委員は9月初旬に開かれる選考会議までにそれらを読み込まなければならない。絵画作品は選考日当日に、壁に掛けたり机上においたりしておく。今回から、新しい風を吹き入れてもらうために、一度限りのゲスト審査員を迎えることにした。今年は、精神科医の香山リカさんにお願いした。

昨年の第6回目くらいからだろうか、公表時には匿名にしてほしいという希望が応募者から寄せられるようになった。加害者である自分が書いた文章が、万が一にも被害者の遺族の目に触れることを憚る気持ちから、また、犯行時および公判時にメディアと世間から非難と好奇の注視を浴びた加害者の家族が、自分の表現を通してふたたび世の中にさらされることを避けたい気持ちからくる要望だという。運営会としては、いまのところ、この希望に沿うことにしている。以下の文中で、筆名らしきものが散見されるのはそれ故であるが、この問題については後で触れる。

さて、今年の応募作品すべてについて万遍なく触れることは不可能だが、主として、誰にも共通の問題を引き出すことができると思われる作品に触れながら、中身に入っていこう。

初めて応募した方だと思うが、「人生記」(高橋義博氏)と題する作品があった。私は、死刑囚の作品だからといって、自らが起こした事件について必ず触れなければならないとは思わない。今までの選考過程での討論を思い出すなら、これは、選考委員に共通の考え方だと思う。しかし、「人生記」と銘打って、自分が歩んできた人生を確かにふりかえっているという調子で叙述を行ないながら、ついに最後まで事件そのものには触れないのでは、少なくとも他者に読ませるものとしては成立し得ないだろう。これは、実は、7回目を迎えた今回まで、異なる人びとの作品でありながら繰り返し現われる共通の性格のひとつである。もちろん、一般論としては、自らが手を染めてしまった犯罪や手酷い失敗、過ちを率直にふりかえり、その事実に向き合うことは、誰にとっても容易なことではない。だが、応募する人は、自らの内面を表現してそれを他者に読ませる(見せる)という場所に進み出てしまった。そこでなそうとする表現において肝心な部分に触れないのでは、自分は根本の問題から逃げていると自覚せざるを得ない時が、必ず来るだろう。従来も同じような指摘を行なった場合が幾度かあったが、その人が次回も同じテーマで応募してきたときには、表現内容に格段の違いが見受けられることがあった。その意味で、この作者の場合でも、ここを出発点にしてさらに深みのある作品に挑んでいただきたいと思う。

「デッドライン」(露雲宇流布氏)は、「荒唐無稽な」と形容したくなるような、これまた典型的な作品である。従来なら、主人公は男女を問わず腕っ節が桁外れに強く、主人公の周辺では法外な額のカネが常に出入りし、彼(女)らは飛び切り高額な酒や食べ物を日常的に飲食している――という形で、その「荒唐無稽さ」が表現される場合が目立った。男が主人公の場合には、その「マッチョ」ぶりも半端ではない。このような場合は、現実社会の中での価値意識としての「強欲資本主義」の姿が、自己批評もないままに、描かれているのだろう。「デッドライン」の場合は違う。或る死刑囚の死刑執行まで余すところ二四時間を切ってしまった段階で、物語が動き始める。時間的に切羽詰った状況の設定は、効果的な場合はもちろんあるが、ここではどうか。死刑囚の冤罪を確信した新聞記者が動き出す、妻や娘が死刑囚と面会する、そこに件の記者も同席する――それは、もちろん、すでに触れた執行前二四時間の時間幅の中で、である。現代日本の死刑囚処遇ではあり得ない設定が、こうして次々と出てくる。日本が不動の場所(舞台背景)である必要はないから、「どことも知れないどこか」の物語として成立するなら、それでもよいかもしれない。しかし、あまりにも無前提な条件設定は、読み手を白けさせる。どこにもない(あり得ない)物語を説得力ある形で作り上げるには、相当な力技が必要である。筆力のある作者だけに、次回はひと工夫もふた工夫もしてほしい。

「繋ぐ手」(風間博子氏)が孕む問題も根が深い。問題のひとつは、警察・検察の取り調べ状況を含めた司法のあり方に関わっている。作者は、この裁判では利害関係が相反する共犯者の供述が唯一の証拠となって、自分が故なく死刑判決を受けていると主張しているのだが、その主張の当否をとりあえず脇に置くとしても、その「証拠」自体を検察側は全面開示していないのである。このかん死刑囚の表現を読み続けてきて思うのは、「調書」の作られ方と「証拠」の限定的な開示方法に、いかに重大かつ深刻な問題があるか、ということである。「限定的」といえば聞こえはいいが、検察側に不利で、被告・弁護側には有利な証拠は隠して開示しないのだから、不当極まりない話である。「調書」と「証拠」に関わるこの現実が大きく改善されて、公正・公平なものになるだけで、死刑裁判に関わる部分冤罪はもとより、冤罪そのものをなくす道に繋がるのではないかと強く思う。もうひとつの問題は、当然のことだが、作者が書いた方法に関わっている。作者は、娘の視点から母である自分を描くという方法を採用している。端的に言って、これは自己内省の仕方を甘くしたと私は思う。地の文章との均衡を失するほどに、法廷文書や新聞記事がたびたび引用されているが、それは、娘の立場からはよく見えない事態を説明する道具として使われている。自分自身の内面との対話を避けて、公的文書に説明を委ねたところに、この作品の弱点が集中的に現われているのではないか。「共犯者」とされる元夫によって、過去ドメスティック・バイオレンス(DV)を受けていたことから追い詰められていく心理の切開も、そのぶんだけ弱まっていると思える。作者は、昨年は絵画数点を応募して、「博愛」「無実という希望・潔白の罪」の2点は優秀賞を獲得した。あの絵画作品に見られた凝視力を思い起せば、文章作品においても、その力を生かす方法は確実にあるだろうと思う。

以上で取り上げた3つの作品からは、作者が匿名を希望したか、実名で参加しているかは別として、冒頭で触れた匿名問題とも関わる事柄を取り出すことができるように思える。冤罪事件でない限り(部分冤罪であっても、全体的な行為の一部における罪を意識せざるを得ない限りにおいて)、加害者が、被害者遺族のふだんの思いや、自らが何らかの表現を行なった場合にそれに対する遺族の反応を意識するのは当然のことであろう。だからといって、自らの本名(正体)を隠して表現する道を選ぶ限りは、自らがなした過去の行為をふりかえるという意味では、自分の表現がいまだ被害者の視線に堪え得る段階には至っていないことを自己告白している場合もあると思える。私は、今後とも匿名での応募は認められるほうがよいと考えるが、こと被害者および被害者遺族との関係においては、上に述べたことを意識し続けることが、応募者には求められると思う。

この問題が、端的かつ直截に表現されるのは、ことばをぎりぎりの地点にまで刻み込んだ短詩型の分野である。今年も、常連の、西山省三氏の俳句、響野湾子こと庄子幸一氏の俳句・短歌・雑感に、それが見られた。前者は寡作だが、後者は量産である。響野氏からは、短歌三六五首、俳句百句、雑感一二編が、巧みな筆さばきの原稿で送られてきた。自らが為したことについての響野氏の悔恨の念は深い。だが、判決文にある、被告についての断定的表現は厳しいものであったようだ。

改悛も矯正も不可能と 言われたる 判決書面 日に一度読む

寝る前に今日得た悔を 積み置きぬ 矯正不能 と言われし身なれど

それでも、作者は、悔い改めの「努力」を続ける。

言霊はあると信じて殺めたる 女を想いて 西向きて祈る

殺めたる帰りに乗りし 電車には 顔無き人の 瞳が照りてゐた

しかし、どんなに「努力」しても、その思いが、被害者に、その遺族に、ましてや野次馬でしかない「世間」にどう届くものであるかは、覚束ない。そのことを思い知った作者を、虚無感が襲う。

贖罪てふ知的努力に 疲れきて 獄舎の闇に 馴染みゆく虚刻

「贖罪」を「知的努力」と称したのは、作者の自己韜晦であろう。一年間に詠まれた短歌を、こうして任意に取り出してみると、万言を費やす文章とは別な方法で到達できる次元があるのだと確信できるように思える。「次元」は、この場合、「高み」といってもよいかもしれない。この人の作品には、例年のように寺山修司との「交感」関係が見られるように思うが、他にも幾人かの文学者・芸術家・反逆者との、想像上の「交感」が繰り広げられていく。このような人が、獄舎の闇にいて、時折り「虚刻」に陥っていくのは、そして次第にその境遇に馴染み親しんでいっているのは、〈外部〉にある社会との相関関係において、である。その地点で、〈外部社会〉の責任が生まれるのだと私は考える。

先だって、死刑制度廃止運動を共に担うひとりの友人が、病を得て獄中の病舎に収容されたまま十分な医療的措置も受けられずにいる死刑囚に関して、獄中に閉じこめておくのは「もう、ほんとうに、これ以上は必要ない」から獄外で十分な治療を受けさせよ、という趣旨のことを書いていた。「もう、ほんとうに、これ以上は……」という表現にはこころがこもっていて、私の胸をうった。獄中者を日常的処遇の厳しさにおいて痛めつけたうえで、長期拘留者の釈放など論外といった日本社会の刑罰制度の現状は、決して世界に普遍的なものではない。さしあたっては、政治囚の領域のことになるが、軍事政権下の韓国で死刑判決を受けたこともあった金大中氏は、民政移管後の選挙において大統領に選出された。アパルトヘイトという名の人種差別制度に叛逆して終身刑の獄にあった南アフリカのネルソン・マンデラ氏は、アパルトヘイト廃絶後の選挙で大統領に選ばれた。現在のウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカ氏は、一九六〇年代には都市ゲリラ活動で逮捕されて獄中にあったが、獄に向けて外部から掘られたトンネルを伝って脱獄した経験の持ち主である。その彼が、およそ四〇年後には選挙によって大統領に選ばれたのである。ある時代状況の中で「罪」を犯し、「刑罰」に服している人も、価値観の変化によっては、これほどまでに劇的に、担う役割を変えることができる。むしろ、それが世界に普遍的なあり方である。一般刑事犯の場合にも、犯した犯罪をめぐっての内省的な捉え返しがどこまでできているかを基本的な基準として、刑罰のあり方に関しての再検討がなされるべきであろう。私たちの社会のあり方がそこまで成熟するには、なお長い時間を要するだろう。死刑囚が行なう表現が、「罪と罰」をめぐる一般社会の把握の仕方に変革を迫るだけの訴求力を持つよう、私はこころから望んでいる。

「贖罪」の問題を糸口に話が逸れたが、ことは表現展の根幹にも関わることがらだと思えたので、あえて触れてみた。文章ジャンルでの今回の受賞者は、以下の人びとに決まった。星彩氏の「メモリーず」に奨励賞。河村啓三氏の「落伍者」に優秀賞。西山省三氏の俳句2句「汗かきて 我れも少し蒸発す」「雪消えて 元の太さの鉄格子」に努力賞。響野湾子氏の表現全体に持続賞。

最後に、絵画部門の作品に簡潔に触れよう。毎年のように、発想の自在さと表現方法上の工夫で楽しませてくれる松田康敏氏の「生死の境」が、変わらず、おもしろかった。A4用紙を20枚貼りあわせた大きさである。観る者が解釈する余地をいっぱい残してくれている作品からは、対話が生まれる。その意味でも、今年も随一の作品だった。北村孝紘氏の絵画3点は、いずれも「無題」だが、一つ目のテルテル坊主の首に縄が掛けられ、吊るされている作品には、観る者をしてギグッとさせる迫力、怖さがあった。謝依悌氏が描く世界にはますます深みが増していることが感じられた。

絵画部門の受賞者は以下の通りである。松田康敏氏の「生死の境」に奨励賞。北村孝紘氏の「無題」2点に努力賞。常連となっている謝依悌氏の3点の作品には奨励賞である。

絵画をめぐっては、10月8日に開かれた死刑廃止デー企画の一プログラムとして行なわれた表現展シンポジウムにおいて、選考委員の北川フラム氏から印象的な発言があった。応募者が、制約の多いなかでギリギリの表現を行なおうとしていることはわかるが、次の段階へと飛躍するためには、粘土を使ったり料理をしたりする手仕事が重要だ、粘土を差し入れすることはできないだろうか――という趣旨の発言である。これを実現するために、獄外からどんな働きかけができるのか。それは、今後の私たちの課題となろうが、ここでも日本との対比ですぐに思い出すのは、外国での受刑者処遇のあり方である。私がかつて調べたのは、1970年代軍事政権下にあった南米ウルグアイと、民政下ではあったが同じ時期のペルーにおける政治犯処遇の実態に関してであった。以下の説明は、両国に共通するものと理解していただいてよい。収容されていた人自身の報告によるものだから、信頼はできよう。それによると、政治犯は獄中での集団的生活が許可されている。演劇集団をつくり、集団的討論を通してシナリオを創作することも、獄内公演に際しては楽器を持ち込んで伴奏し、大きな壁画を描いて背景とすることも認められている。党派によっては、獄壁に大きな字でスローガンを描いている場合もある。集団で料理をつくることも認められているから、誰かの誕生日にはパーティ料理をつくり、みんなで楽器演奏や歌を楽しみながら、祝うことも可能だ。

これが、過酷な独裁政治が行なわれていた時代の、一部の国々での獄中の現実だった。もちろん、厳しい獄中処遇を行ない、政治犯に対する死刑執行を次々と行なっていた国家体制もあった。しかし、少なくとも、右にあげたような実例も存在した。ここには、人間存在に対する基本的な肯定感情があるように思える。仮に「罪」を犯した人がいたとして、その人が「自己回復」を図ることができるのは、どんな条件の下においてなのかと考えるうえでのおおらかさが感じられる。軍事独裁下にあってすら――という点が大事だ。

寄せられた死刑囚の作品に触発されて、何ごとかを思いついても、この国=日本では、即座に高く厚い壁に突き当たる。閉ざされた集団主義と強制力のある同調主義が支配するこの国で、この閉鎖性と同調圧力をどのように打破できるのか。課題は遠大だ。

「壁の高さ」に触れたので、唐突のようだが、「廃炉アクション福島原発四十年実行委員会」の武藤類子さんが、去る9月19日の「さよなら原発」6万人集会で行なった訴えの末尾の文言を引用して、この文章を終えたい。それは、この年が「3・11」の悲劇を迎えた年でもあって、私たちは否応なく、生命を見つめなおしながら「震災と死刑」(『年報・死刑廃止2011』総タイトル。インパクト出版会)が孕む問題の再考を迫られているからである。武藤さんは、相手側の高い壁に対抗する道に触れて、こう語った。

「真実は隠され、県民は核の実験材料にされ、棄てられたのだ。私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼。どうか福島を忘れないで。原発推進が垂直の壁ならば、限りなく横に広がり繋がり続けていくことが、私たちの力。その手のぬくもりを広げていきましょう。」

(10月18日記)