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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[19]「占拠せよ」(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか


反天皇制運動『モンスター』21号(2011年10月11日発行)掲載

「ウォール街を占拠せよ!」のスローガンの下、ニューヨークで「格差NO」の動きが始まったのは9月17日のことだった。それは10年目の「9・11」から間もないころだったので、私の関心はどうしても、次の点に集中した。すなわち、経済格差や高い失業率に異議を唱えてウォール街に集まっている人びとは、米国のこの現状と、自国が10年間にわたって続けてきているアフガニスタンとイラクに対する戦争とを、いかに結びつけているのだろうか。

10月6日になって、ワシントンのホワイトハウスの近くで開かれた反戦集会には、「反ウォール街」を掲げる人びとも参加して、「アフガニスタンではなくウォール街を占拠せよ!」とのスローガンを叫んだという。当然のことながら、「強欲なウォール街」の論理に基づく戦争に対して「反戦」の課題を立てる一群の人びとが存在しているのであろう。

では「占拠せよ!」はどうだろう? それは、もうひとつのスローガン「われわれは99%だ」と共に、わかりやすく、人目を惹きつける語句である。しかし、私のように生活する言語としてではなく、文学や歴史を解釈する言語として一定の範囲内で英語に触れてきた立場からすると、occupy やoccupationには、どこか心騒ぐものがある。繰り返し言うが、生活言語として英語を使っているわけではない私にとっては、この単語は、米国が近現代史のなかで、世界中で行なってきた「軍隊による占領」をしか意味しないからである。侵略戦争を仕掛けて勝利した後の数々の「占領」。日本との帝国主義間戦争に勝利した後の「占領」。21世紀の現在なおアフガニスタンとイラクで行なってきている「占領」。この単語にも孕まれているのであろう豊富な語感を感じとることができない私は、そのゆえにであろうか、小さなこだわりを感じてきた。

その違和感を共有している文章に出会った。カナダで “rabble.ca” と題したウェブマガジンが出ている(http://rabble.ca)。「無秩序な群衆、やじうま連、暴徒」と「撹拌棒」の二つの意味がある単語だが、前者の意味で使われているのだろうか。2001年4月、ケベック市で開かれる米州サミットに抗議して、「進歩的なジャーナリスト、作家、芸術家、アクティビスト」が集まって「他では容易に入手できない」情報の伝達のために創刊したという。読み応えがあって、ときどき目を通している。その10月1日号に、ジェシカ・イェーという人物が「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」と題する文章を寄せている。彼女が冒頭で端的に言うのは以下のことである。「合州国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領はもう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はHaudenosaunee 民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことが言及されることを、私たちは待ち望んでいるのだ。」

北米先住民族の末裔であるらしいジェシカと、蝦夷地に対するコロン(植民者)の末裔である私とでは、歴史的に位置している立場が異なる。だが、私はジェシカの問題意識を共有する。彼女は「アメリカを民衆のもとに取り戻せ」とデモ参加者が叫ぶとき、その「民衆」とは誰なのか、先住民族はあらかじめ排除されているのではないか、愛国的な帝国主義言語に絡め捕られて先住民族の存在を忘却しているのではないか、と問うている。歴代の進歩主義者や左翼が、先住民族の「同意」を得ることもないままに「解放の戦略」を提示し続けてきたことに対する、抜きがたい不信を抱いている。彼女も資本主義とグローバリゼーションに終止符を打つことには賛成だが、ウォール街で立ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するばかりで、植民地主義に関する自らの「共犯性と責任」に無自覚であることに(しかも、それがあまりにも長いあいだ続いていることに)苛立っている。

これは、ウォール街での新たな胎動に冷水を浴びせる言動ではない。歴史的な過去の累積の上に現在がある以上、そこで不可避的に生まれた異なる民族同士の、支配・被支配の関係性に目を瞑るな、という呼びかけである。「継続する植民地主義」という問題意識がそこから生まれるのである。(10月8日記)