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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(10) 山口昌男氏の『第一の敵』評のこと


上映会を前にして、ぜひ観てほしい10数人の作家、詩人、研究者にチラシを送った。ほとんどは面識もない人たちだ。私のほうでは、顔を知っているからわかったが、けっこう多くの方が来てくれた。文化人類学者の、故・山口昌男氏もその一人だった。氏とは、見終わった後のロビーで言葉を交わした。読売新聞1980年7月16日付け夕刊文化欄に、氏は「中南米革命映画の広がりと厚み」と題して『第一の敵』評を書いてくれた。数年前ニューヨークの小劇場でも観た映画だが、東京の方は観客も多く、よかった、という言葉もあれば、アンデスの農民たちのコスモロジーの中軸である大地母神「パチャママ」に、ゲリラたちが酒を供えた時に、「彼らと農民たちが共有する世界は一挙に広がりと厚みを得た。この点を描くことによって作品は単線的な物語の水平性から派生する垂直構造を獲得する。知識人が製作する民衆映画で、このような類型的ではない出遭いが描かれたのは稀ではなかろうか」という評言もあった。総じて、好意的な評だった。ところが、末尾に次のような文章があった。「しかしながら、ゲリラが農民達に、世界帝国主義の重圧がアンデスの小さな村にまで直接及ぶような時代であると説明するときに使われる言葉に日本帝国主義というのがあったように記憶しているが、日本語字幕には現われなかったのはどういうわけだったのか。当否は別としてこの一語は作品の中におけるアンデスの農民と日本の観客の唯一のきずなであったはずなのに」。

山口氏がどのシーンのことを言っているかは、すぐに分かった。ゲリラと先住民農民が討論するシーンだ。ゲリラが、imperialismo hatun (強大な帝国主義/第一の帝国主義)という言葉を使って、説明する個所がある。ケチュア語に「帝国主義」という用語はないからスペイン語から借用し、それにhatun (強大な/第一の)というケチュア語をつけている。このhatun (ハトゥン)を山口氏は スペイン語のJapón(日本、発音はハポン)と聞き違えて、「日本帝国主義」という語が字幕に出なかった、と書いたのだ。ロビーで言葉も交わしているのだし、氏は私たちに電話の一本でもくれれば、こんな間違いを犯さずに済んだはずなのに。

当時は、私も若かった。山口氏の仕事を敬愛しているからこそ、上映会の案内も送ったのだが、こともあろうに「語られたはずの日本帝国主義という語が字幕に出なかった」と書かれては、黙ってはいられない。読売新聞は反論の掲載を認めず、小さな訂正記事だけを出した。そこで、日本読書新聞という書評紙に山口氏への公開質問状を書いた(1980年8月4日付け)。多言語使用者がその才に溺れると、どんな結果が生じるか――とまでは書かなかったが、「才気あふれる軽率さ」は指摘した。「保守的な」読売新聞に、『第一の敵』などという「政治的に」強烈な映画をめぐって基本的には好意あふれる評論を書いたのに、たったひとつの事実誤認を針小棒大に言挙げするとは――と、山口氏は思ったかもしれぬ。だが、「日本帝国主義の語が字幕になかった」とは、私たちにとって、小さな針ではなかった。すでに触れたように、ホルヘ・サンヒネスの「映像による帝国主義論」の試みへの共感から私たちは出発しているのだから、それは心外で、あまりに重大な、誤った指摘だった。2000人の観客に対する説明責任もある。その誤解は解かなければならなかった。批判の文章は、勢い、厳しい調子を帯びた。山口氏は翌週の同紙に弁明文を書いた。私の中で、一件は落着した。その後も、山口氏の著作は大事に読み続けて、すでに氏が亡くなった現在にまで至る。

したがって、山口氏の言辞をこれ以上云々することはないのだが、『第一の敵』製作時点での日本帝国主義の〈存在感〉については、もう少しふり返っておきたい。アジアでのそれは、すでに大きい時代であった。その経済的な進出の規模は拡大の一途をたどり、資源の収奪や労働条件の問題、水俣病などが大きな社会問題となり公害規制が厳しくなった日本を逃れて東南アジア諸国に向けて行なわれるようになった「公害輸出」などをめぐって反対運動が起こり、それは時に「反日暴動」の形を取る事態さえ起こっていた。だが、ラテンアメリカにおけるそれは、まだまだ影が薄い段階だった。アンデスの先住民村で、反体制ゲリラが政治・経済状況を説明する際に、日本帝国主義の浸透に触れなければならない状況ではなかった。一方、北アメリカ帝国主義の、経済的・軍事的・政治的・文化影響力的な〈存在感〉は圧倒的だ。まさに〈第一の敵〉なのだ。そこに映画『第一の敵』が、すでに説明したような内容をもって登場する必然性が生まれていたのだ。

他方で、次のことにも触れておかなければならない。『第一の敵』製作時の74年から数えてわずか4年後の1978年、中米エルサルバドルの反体制ゲリラ「民族抵抗軍」(Fuerzas Armadas de Resistencia Nacional)は、東レ、三井銀行、蝶理、岐染などが出資して同国で企業活動を行なっている日系繊維企業インシンカ社の社長を誘拐し、日本帝国主義が現地の独裁政権と癒着しこれを支援している現実を告発する声明文を公表した。このコミュニケは、当時、日本経済新聞の紙面2頁全部を埋めて掲載された。ゲリラが取引の条件として、それを求めたのだ。だから私はそれを熟読し翻訳もしたが、きわめて透徹した論理で、現地政権と帝国主義の相互癒着関係を分析していたことが印象に残っている。インシンカ社は、上記の日本企業4社が1967年に50・1%の出資比率をもって(残りの49・9%は現地の公営産業開発公社)設立した繊維織物の合弁会社であった。合繊の紡績、綿布、染色を行ない、中米各国に製品を輸出する同社は、首都郊外の工場に1200人前後の労働者を擁し、同国でも最大規模の企業であった。日本経済に占める対エルサルバドル貿易の比率は小さいが、後者のような経済規模の国にとっては、同国最大の2工場が日系であり、主要輸出品である綿花のほとんどを日本が買い付けているという関係は重大である。これに注目したゲリラは、それが日本に対する過度の経済的従属化を招いている、と分析したのであろう。ここからは、すでに進出している日本企業が、相手国の経済規模の中で占める比率の多寡によっては、現地の人びとが日本帝国主義の〈存在感〉を感じとる時代状況へと入りつつあったと言えるのだろう。

さらに付け加えるなら、私は当時、ニカラグアとエルサルバドルで高揚する中米解放闘争の行方に大いなる関心を抱いていた。ニカラグアには闘争に関わっている友人も多く、1979年に同地の解放勢力=サンディニスタ民族解放線戦線は勝利していた。それに勢いを得て、隣国エルサルバドルにおける解放闘争の高揚が見られた。『第一の敵』上映開始後2年目の1982年、私はメキシコへ行く機会に恵まれたが、そのとき Zero a la Izquierda (不要の人間集団)を名乗るエルサルバドルの映画グループのGuillermo Escalón (ギレェルモ・エスカロン)と知り合いになった。解放勢力は当時モラサン州を解放区として維持していたが、そこでの住民の日常生活を描いた『モラサン』(80年)と『勝利への決意』(81年)は、よい出来だった。ウカマウと同じく「連帯方式」での日本上映を取り決めた。これらふたつの作品は、ウカマウの『人民の勇気』を初上映した1983年夏に、同時に公開することになる。

エルサルバドルの2本の16ミリ・フィルムもまた、ウカマウのそれと同じように、前の上映場所から戻るとすぐに次の会場に送るという日々が続いた。未知の土地から届けられた映像作品が持つ力を、私たちはますます実感しつつあった。(4月30日記)