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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(9) 『第一の敵』への反響


『第一の敵』を上映した全電通ホールのキャパは490人くらいだったと記憶する。そこで、全6回の上映を行ない、入場者は2000人に上った。68%の稼働率だから、以て瞑すべし、というべきだったろう。私の勝手な思い込みでは、もっと入るものかな、と思っていた。その道の人が言うには、自主上映でこんなに入るのは「奇跡」に近いことのようだった。私もその後経験を重ねることで、初回上映時の観客数のすごさを思うようになった。

当時わたしは30歳代後半だったが、来場者の過半は私と同じ世代か、もう少し上の世代の人びとだったと記憶している。何度も書くように「ボリビアにおけるゲバラの死」の記憶がはっきりと残っている世代である。アンデスの民俗音楽「フォルクローレ」の愛好者が多かったことも印象的だった。映画を公開するときには、スタッフとキャストをチラシに明記するのが当たり前のことだが、当時のウカマウはその種のデータにあまり頓着せず、私たちもそれを追求しなかった。だから、最初のチラシには「製作=ウカマウ集団、監督=ホルヘ・サンヒネス」と記してあるだけだ。だが、フォルクローレの愛好者は、映画で使われている曲がどの楽団の演奏なのか、すぐに理解できたようだった。中学生か高校生の制服姿も、ちらほら目についた。そのうちのひとりは、のちにわかったことからすれば、兒島峰さんだった。アンデス音楽に関心のあった彼女は当時中学生だったが、『第一の敵』上映の報がうまくアンテナに引っかかったようだ。その後も上映のたびにウカマウ作品を見続けたという。34年後のいまは、アンデス文化の研究者になっている【→『アンデスの都市祭礼――口承・無形文化財「オルロのカーニバル」の学際的研究』(明石書店、2014年)】。

東京上映が終わって、いくつかの問題が残った。まずは、ウカマウとの連絡である。上映報告を行なうべき80年7月、ボリビアでは凶暴なファシスト体制によるクーデタの時期と重なった。ウカマウとの連絡は途絶えた。死者1000人、逮捕者2000人……との報道が続いた。彼らからの返事がないまま、焦慮の時が半年に及んだ。私は、メキシコの出版社シグロ・ベインティウノ(21世紀出版社)を主宰するアルナルド・オルフィーラ・レイナルとホルヘが親密な友人であることを思い出し、前者にホルヘたちの安否を尋ねる手紙を送った【横道に逸れるが、チェ・ゲバラは1955年にメキシコで、亡命アルゼンチン人であったオルフィーラに出会っている。当時はフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカという出版社を主宰していたが、彼はその後前記の新しい出版社を興した。ラテンアメリカ全体を見渡して見ても、彼の出版事業が果たし得た役割は大きい。私たちが現地で買い求めた書物には、オルフィーラが時代を違えて関わったこの二つの出版社のものが多い。この点に関しては、チェ・ゲバラ=著『チェ・ゲバラ第2回AMERICA 放浪日記――ふたたび旅へ』(現代企画室、2004年)の「日本語版解題」に詳しく書いた。翌年の81年、私たちは、ホルヘがオルフィーラの出版社から刊行した本 ”Teoría y práctica de un cine junto al pueblo” の日本語版を出版することにもなる】。

オルフィーラが媒介してくれて、ホルヘから手紙が届いたのは80年12月も末日近くだった。クーデタ後の半年間、彼らは。逮捕・射殺命令・家宅捜査・検閲の重包囲下で潜行を余儀なくされていたのであった。彼らが再び国外へ場を移したことで、私たちは連絡網を回復できた。半年間にわたって蓄積されていた、日本における上映運動の精神的・物質的支援は直ちに彼らに送り届けられた。日本地図を描き、いつ、どこで上映会が開かれたか、その土地はどんな特徴をもつ町か、来場者数、上映収入などを記した。「日本の同志たちにこれほど熱心に観てもらって、われわれは、自らの映画をもって、民衆の解放にささやかなりとも寄与する決意を新たにしている」と、彼らは書き送ってきた。

「東京上映以降の半年間」と、ホルヘたちが潜行していたために連絡が取れなかった時期は重なっていた。その半年間は、私たちにとっても、めまぐるしいほどに忙しかった。東京上映の「評判」は全国各地に急速に広がった。名古屋、仙台、札幌、京都、大阪、広島、福岡などの自主上映団体から、上映したいとの申し出があった。9月、名古屋シネアスト主催の名古屋上映を終えた後の80年秋、私は『第一の敵』のフィルムを背に、1ヵ月間の行脚の旅に出た。京都と大阪で試写会を行ない、秋以降の本上映の可能性を探った。

アカデミーにラテンアメリカ専門の研究者が多い京都では、試写会でのいくつかの反応が、奇妙なものとして記憶に残っている。「われわれ専門的な研究者が怠っているから、素人が(と、言いたげだった)こんな動きをしている」という某氏の言葉は、自らの「怠惰」を鞭打つものであったのかもしれないが、「専門家」の防衛意識が感じられた。その「専門家意識」を打倒するためにこそ1960年代後半のたたかいはあったのだと確信している私には、異様なものに響いた。あの時代の闘争からまだ10年程度しか経っていないのに、同世代の、しかも自己認識としてはおそらく「左翼」を自認しているであろう人の口から、こんな言葉が出てきたことに私は驚いた。

「僕が知っているアンデスのインディオはこんなおしゃべりじゃないな。連中は黙りこくっていて、何も喋らんよ。この映画は作りものだね」と言い放った専門家もいた。アンデスの先住民の村で、フィールドワークを積み重ねている人のようだった。「専門知」に安住する人びとが陥りやすいこの陥穽について、私は1989年に「支配しない〈知〉のほうへ――ウカマウ映画論」を書いた(太田=編『アンデスで先住民の映画を撮る』、現代企画室、2000年に所収)。しかし、その後の34年間、こうした「専門知」の側からの「排他的な」言葉を聞くことは、幸いにしてきわめて少なかったことには触れておきたい。上映運動初期における、ごく稀な反応だったのだろう。

大阪試写会を終えて、沖縄へ飛んだ。那覇市はもちろん、金武湾、沖縄市など各地で上映会を開いた。その後も長く続くことになる、人との得難い出会いがいくつもあった。現地の上映スタッフのひとりの娘さんは、当時は5歳と幼かったが、その後彫刻と版画を専攻しスペインで学んでいた。彼女は2008年、彼の地でやまいを得て急逝した。32歳だった。遺作は、彼女の才能が並々ならぬものであることを示していた。作品集『すべてのもののつながり――下地秋緒作品集』(現代企画室、2011年)を刊行し、東京でも遺作展を開いた。こうして、ウカマウ集団を媒介にして、さまざまな方向へ「補助線」が伸びていくというのが、私たちの実感である。

沖縄から長崎へ飛び、その後、長崎、佐世保、水俣、福岡、小郡などで上映会を開いている。それは、資料として残っているチラシ類から確認できるのだが、短期日でのスケジュール調整をどうやって、こうもうまく出来たのか――は、今となっては、まったく思い出すことができない。いずれにせよ、各地の人びとの働きと協力で、『第一の敵』自主上映運動が、半年間で急速に広がりと厚みを獲得し始めていた時に、ウカマウ集団との連絡を再開できたのだった。

(4月29日記)