現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

書評:萱野稔人『死刑 その哲学的考察』 


『出版ニュース』2017年12月中旬号掲載

国家や暴力に関わって刺激的な問題提起を行なってきている哲学者による死刑論である。

最初に目次を紹介しておくことが重要な意味を持つ本だと思う。死刑について考える道筋をつけながら、議論が核心に迫っていく方法を、著者が自覚的に選び取っているからである。第1章「死刑は日本の文化だとどこまでいえるか?」、第2章「死刑の限界をめぐって」、第3章「道徳の根源へ」、第4章「政治哲学的に考える」、第5章「処罰感情と死刑」。

第1章は、2002年、欧州評議会主催の国際会合に出席した当時の森山法相が、「死んでお詫びをする」という日本の慣用句を引きながら「死刑は日本の文化である」と発言し、死刑制度の存置に批判的な欧州各国で大きな波紋を呼んだ事実の指摘から始まる。EU(欧州連合)は、死刑制度を廃止していることを加盟条件としているほどだから、この死刑擁護論への驚きは大きかっただろう。著者によれば、問題はこの発言の当否そのものにあるのではなく、死刑に関わる考え方は、森山発言のような文化相対主義を脱し、普遍的なロジックに基づいて披歴されなければならない。

第2章のタイトルは、「自分の人生を幕引きするための道連れ」として大量殺人を行なう、つまり死刑になるために凶悪犯罪に走った実際の事件を前に、死刑の「限界」を論じるところから来ている。死刑になることを望んでいる加害者を死刑にしたところで、刑罰としてどんな意味があるのか、という問いである。「一生刑務所から出られない刑罰」としての終身刑の導入(論理的には、これには死刑の廃止が前提となる)が論じられるのは、このあとである。「死ぬつもりなら何をしてもよい」という挑戦を前に、道徳的な歯止めをいかにかけるか。次に来るのは、この問いである。

第3章は、「人を殺してはいけない」という究極的で根本的な道徳をめぐっての論議である。死刑とは、処罰のためとはいえ人の命を奪うことであり、前記の道徳に反する。それでも多くの人が死刑を肯定しているのは、「人を殺してはいけない」という道徳が、多くの人にとって絶対的なものではないことを明かしている。ここでは、道徳を絶対的で普遍的なものだと捉えた哲学者のカントが死刑を肯定した論理構造を詳しく論じながら、しかし、道徳的には死刑の是非を確定することができないという結論が導かれていく。

犯罪による死と応報としての刑死における死の「執行者」はまったく異なるのだから――後者には、国家(権力)が貌を出すのだから――、それに触れないままに応報論に多くの頁を割いた第3章の議論に苛立ちを覚えた評者を待ち受けたのは、第4章である。ここでは、死刑を執行する公権力の在り方が論じられている。「合法/違法を決定する権力が、処罰のために人の命を奪う権限を保持している」死刑制度の本質が分析される。公権力の存在を望ましいと考える著者は、「国家なき社会」や「政府なき世界」を夢想する知識人を批判したうえで、公権力が過剰に行使されて起こる冤罪の問題を次に論じる。「冤罪の可能性は、公権力が犯罪を取り締まり、刑罰をくだすという活動そのもののなかに構造的に含まれて」おり、「権力的なもの」に由来すると考える著者は、道徳的な議論では死刑の是非に決着をつけることはできない以上、冤罪こそが、その是非を考える上で最重要な論点だと強調する。死刑に反対する人でも、冤罪の危険性を廃止論の核にここまで据える場合は稀なだけに、この議論の展開方法に、私は注目した。

最後の第5章で著者が改めて論じるのは、「凶悪犯罪は厳しく罰するべきだ」とする人びとの処罰感情の強さが死刑肯定論を支えている現実について、である。冤罪による刑死を生み出す危険性をいかに声高に訴えたところで、広い関心は持たれない。凶悪犯罪の被害者家族の処罰感情は別として、社会を構成する圧倒的多数としての第三者の人びとが抱く処罰感情は、現在の日本にあっては、メディア(とりわけテレビ)の無責任な悪扇動によるところが大きいと評者は考えるが、それにしても、この処罰感情に応えることなくして、死刑廃止の目途は立たない。著者はここで、処罰感情を「無条件な赦し」(デリダ)によって、つまり寛容さで克服しようとする死刑廃止論の無力さを衝きつつ、哲学の歴史において初めて死刑反対論を展開した18世紀イタリアの法哲学者、チェ-ザレ・ベッカリーアを引用する。刑罰としての効果が薄い死刑に代えて、終身刑を課すほうが望ましいという考え方を、である。著者は、処罰感情に正面から向き合ってなお死刑否定論の根拠を形成し得る議論として、ベッカリーアの考え方に可能性を見出して、叙述を終える。

社会を構成する個人や集団には許されない「殺人」という権限が、ひとり国家という公権力のみに許されるという在り方は、死刑制度と戦争の発動を通して象徴的に炙り出されると評者は考えている。敗戦後の日本で新憲法が公布された当時、戦争を放棄した以上、人を殺すことを合法化する死刑も当然廃止すべきだという議論が沸き起こったという証言もあるように。その関連でいうと、第1章が触れる欧州の国々の中には、死刑の廃止は実現したが、現在も「反テロ戦争」には参戦していることで、戦争における「殺人」は容認している場合があることが見えてくる。日本の公権力は、現在、死刑制度を維持する一方、「放棄」したはずの戦争をも辞さない野心も秘めているようで、世界的にも特殊な位置にあろう。「公権力」の問題をそこまで拡張して論じてほしかったとするのは、無いのもねだりか。

死刑問題の核心に向き合おうとしない死刑廃止運動の言動に対する著者の苛立ちが、随所に見られる。当事者のひとりとして、その批判には大いに学ぶものがあった。