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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(4)


ボリビアの書店へ行ってボリビア関係の書物を見ていると、Editorial “Los Amigos del Libro” (本の友社)という名前の出版社のものが目立った。Enciclopedia Bolivianaと総称して、ボリビアに関するさまざまなテーマの書物を出版していた。いくつもの本を束ねて、「ボリビア百科事典」的な叢書になることを目指しているのだろう、と思えた。ケチュア語やアイマラ語の辞書もあって、当然にもラパスで購入した。これらも、のちにウカマウ映画の字幕翻訳作業を行なう際には大いに役立つことになる。その後、コチャバンバという都市へ行く機会があった。(因みに、永井龍男に「コチャバンバ行き」という短篇がある。1972年の作品だが、行く前に読んだのか帰国してから読んだのか、今となっては定かではない。)それはともかく、コチャバンバには「本の友社」の本社がおかれていることを思い出し、寄ってみた。社長自ら応対してくれた。Werner Guttentag T. という、ドイツ系移民の末裔だった。南米各国にはドイツ系移民がけっこう多い。

いろいろと話しているうちに、すでに幾冊かの本を購入していた作家、ヘスス・ララ(Jesús Lara)の話題になった。メキシコに滞在していた時に、”Guerrillero Inti Peredo”(『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』)と題する彼の本を読んでいた。インティとココのペレード兄弟は、チェ・ゲバラ指揮下のELN(ボリビア民族解放軍)に属していた。インティは、1967年ゲバラ隊が壊滅されたときにも生き延びて、その後「われわれは山へ帰る」と題する声明を発表したこともあったが、1969年にラパス市内の隠れ家で見つかって、結局は殺されてしまった。ヘスス・ララはインティの義父に当たるが、コチャバンバに住んでいるという。グーテンターク氏は、その場で作家に電話して、日本からの旅人が会いたがっているよ、と伝えてくれた。すぐ訪ねてみた。ここでも話はずいぶんと弾んだが、作家は、官憲の手入れのあとで焚書された自分の本、『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』の焼け焦がれた残骸写真を見せてくれたうえで、焼増しを一枚贈ってくれた。その写真は、前回触れたドミティーラの『私にも話させて』を刊行する際、関連する記述があったので収録した(焼かれたのは、他ならぬ「本の友社」版である。私がメキシコで読んだ版は、メキシコの出版社から出ているものであった)。

その後、帰途ペルーのリマに滞在していた時、ヘスス・ララ原作の演劇『アタワルパ』がリマ郊外で上演されるというニュースを新聞で知った。アタワルパは、スペイン人征服者によって処刑された、実質的なインカ帝国最後の皇帝である。その夜、リマ郊外へ出て山あいに入ると、両側のかがり火が迎えてくれる。野外という雰囲気も手伝ったのだろうが、内容的にもなかなかに感動的な舞台であった。コチャバンバの作家に、舞台を観た感想を書き送った。彼も、自作が上演される機会に私たちが偶然にも居合わせたことを心から喜んでくれた。ホルヘたちに再会した時、このことも話題にした。彼らも作家とは知り合いのようだが、長引いている亡命生活の中で音信も途絶えていたので、私たちから氏の元気な様子を聞いてうれしいようだった。こうして、これもまた、どこかでウカマウに繋がっていく物語ではある。

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ボリビアの南の端と国境を接する国のひとつはアルゼンチンである。そこへ移った。白人国と呼ばれることが多い。さまざまな先住民族が住まう土地に、征服者としてヨーロッパ人が侵入し、そこを植民地化し、植民地経営のために西アフリカから膨大な数の黒人奴隷を強制連行し、しかもこれらの諸民族の血が複雑に交じり合い――という過程を経たのだから、現在あるラテンアメリカの国々は、複合的な多民族社会を形成している場合が多い。ウカマウ集団の出身国であるボリビアは、2006年のエボ・モラレス大統領誕生を契機に行なわれてきた改革政策のなかで、国名も「ボリビア多民族共和国」と改めた。それでも、国によって、その民族構成には大きな差が見られるから、人口構成に占める白人の率によっては「白人社会」という呼称が成立してしまうのである。そうであれば、ウカマウに即して先住民族の存在を重視するという観点から見るなら、アルゼンチンには見るべきことはないのか。

日本を出る前、この地域に関する多くの書物を読んだ。中でも印象的な1冊は、ダーウィンの『ビーグル号航海記』だった。チャールズ・ダーウィンは、1831年から5年間、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗って、南米大陸沿岸からガラパゴス島へ、さらに南太平洋地域をめぐりながら、航海記を記録する。記述されるのは主として地質や動植物の観察記録だが、時代はまさしくラテンアメリカ各国がスペインからの独立を遂げた直後のこと、陸地内部の社会・政治状況に触れる個所もないではない。独立直後のアルゼンチンが、ローサス将軍の下、先住民族の徹底的な「殲滅作戦」を展開したことは、当時日本でも読める一般的な歴史書でも書かれていたから、まさしくそれと同時代にアルゼンチン沿岸を通ったダーウィンの反応を知りたかったのだ。

記述によれば、ダーウィンはローサス将軍にいちど出会っている。率いる軍隊が「下等な、強盗のような」本質をもつことに気がつきつつ、将軍の、非凡で熱情あふれる性格を肯定的に述べている。過酷な運命を強いられる先住民への「同情」を示す記述もあるが、その「掃討戦」は無理からぬことというのが、彼が行き着いている結論である。ひとつ関心を引くエピソードがある。先住民「殲滅戦争」に参加したスペイン人から、その戦いぶりを聞いたダーウィンは、その非人道性に抗議する。答えは、次のようなものだった。「でも止むを得ません。どんどん産みますからね」。これこそ、まさしく、本連載1回目で触れたウカマウ集団の作品『コンドルの血』に登場する、20世紀米国の「後進国開発援助」グループの意識でもあった。

さて、アルゼンチンの先住民人口は、総人口の0.5%を占めるにすぎないが、そこにも「動き」はあった。首都ブエノスアイレスにいたとき、新聞で知ったのだろう、先住民の集まりがあるという告知があり、そこへ出かけた。会場はバスク会館といった。スペインのバスク地方からの移住者たちが独自に持っている会館なのだろう。その集まりがどんなものであったかは、もはや覚えてはいない。それでも、そこでの出会いから始まって、対権力との関係上から公にはできない集まりへも誘われた。それは、なんと、ウカマウの『コンドルの血』の上映会であった。どこからともなく現われた50人近くの、主として先住民系の人びとが、スクリーンに見入った。

ボリビアは、米国「平和部隊」の恣意的な「援助計画」に翻弄された当事国だった。対象とされた先住民人口も総人口の過半を占めており、問題はあまりに深刻で、政府も「平和部隊」の追放まで行なうだけの、社会的・政治的基盤はあった。翻って、きわめて少数の先住民人口しかいないアルゼンチンにおいては、先住民は、また別な困難さに直面しているのだろうと、私は考えていた。

(2014年3月19日記)