現代企画室

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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(1)――出会い


私たちが、ボリビアの映画制作集団ウカマウの作品の自主上映を始めたのは1980年のことだった。早や34年が経っている。上映に加えて、その作品のシナリオ集や映画理論書も刊行してきたし、幾人もの論者によってウカマウ論もずいぶんと書かれてきた。だが、34年と言えば、その間には幾世代もの移り変わりがある。2014年5月、全作品回顧上映を企画している機会に、主としてウカマウを知らない若い世代に向けて、ウカマウの映画のことや私たちの活動のことをあらためて書いておこうと思う。

いまから40年近く前の1975年、私たち(私と唐澤秀子)はエクアドルの首都キトにいた。メキシコを皮切りにラテンアメリカの歴史と文化、現在の状況を知るための現地での生活はすでに3年目に入っていた。人びととの交流こそがいちばん大事とはいえ、新聞や本を読み、ラジオを聞き、映画・芝居・音楽・講演などの催し物に足を運ぶことも、重要なことだ。キトに着いて間もなく、その魅力的な街を散歩していた。とある街角で壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。映画上映の告知のようだ。銃を握りしめたインディオの一青年の切羽詰った表情がポスター全体を覆っている。Yawar Mallku という、私たちにとっては未知の言語でタイトルが書かれている。近寄ってみると、Sangre de Condor というスペイン語でのタイトルも付されている。『コンドルの血』という意味だ。ボリビア映画であること、エクアドルではすでに何十万もの人びとが観たことなども書かれてある。見るからに先住民の顔立ちの人が映画の前面に出ているようだ。そんなことなど、あり得ない時代だった。加えて、アンデス先住民にとってコンドルが象徴する世界は深くて、広い。これこそ、メキシコで名のみ聞いていた、あのグループの映画ではないのか。どうしても観なければ、と思った。たまたま、その日が上映日だ。

会場はキト中央大学講堂だった。70分間、私はスクリーンに釘づけになった。話されている言語はスペイン語、ケチュア語、英語。ケチュア語はまったく理解できないが、演技者の表情を伴って話されるし、物語の展開を追うのにそれほど障害にはならない。物語はこうだ――とあるアンデスの先住民村。若いカップルの結婚が続いたのに、なぜか、子どもが生まれない。そのことに不審を抱いた村長(むらおさ)は、数年前から「低開発国援助」の名目で村に来て、診療所を開設している米国人グループがいることを思い出す。ある日、診療所の壁の隙間から内部を覗くと、村の若い女性に対する手術が行われているのだが……。それは、本人の同意を得ないで行なわれている強制的な不妊手術であることを知った先住民たちは米国の青年たちの住まいに押しかけて告発する――。他にもいくつもの伏線が張られている物語は、内容的に豊かに展開するが、説明はこれくらいに留めておこう。

それにしても、「強制的な不妊手術」とは穏やかではないが、この主題には既視感があった。1970年前後の日本において、ボリビアやペルーなどのアンデス諸国から、米国が派遣している「平和部隊」が追放されたというニュースが報道されていたからである。「産児制限をしないことによる人口爆発→来るべき食糧危機」という図式を唱える学者が「先進国」にはいて、その考えを信じた平和部隊員が『コンドルの血』に描かれたような行為に及んだのである。また、この「平和部隊」は、1959年のキューバ革命の勝利に驚いた当時の米国大統領ケネディが、それまでは等閑視してきた「後進国」の貧困問題などを解決するための援助政策として立案したものであった。ラテンアメリカでは、それは「進歩のための同盟政策」と呼ばれた。それが、一面ではこんな実態をもつのが現実だったのだ。

描かれている事実もさることながら、欧米と日本の映画文法に慣れ親しんできた者としては、カメラワークをはじめとする映画技法が新鮮だった。スクリーン上にケチュア語がとびかうことも刺激的だった。厳然と存在する差別ゆえに、インディオは公の場では自らの母語を話すことさえ憚られるという証言を、この時代のそれとしていくつも読んできたからである。

上映会場には、チラシ一枚すらなかった。単に上映が行なわれ、観客はそのまま帰って行った。制作者や監督のことを知りたいと思った私たちは、大学の事務局によって、この映画のチラシを一枚でも欲しいと言った。監督はいまキトにいるよ、あなたたちのことを伝えておくよ。

翌日、監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスが私たちの宿泊しているホテルへ訪ねてきた。ふたりは、ボリビアに軍事政権が成立した1971年以来国外へ亡命し、チリ、ペルーなどを経て、エクアドルに来ているということだった。ロビーで長いこと話し合った。この映画に詰め込まれているたくさんのことどもから派生して、いつしか世界観や歴史観をめぐる話となったが、物の見方や考え方において共通なものを随分と感じた。ホルヘたちもそうだったであろう。「先進国」から先住民を見る視線にも、ほかならぬボリビア内部で多数派住民である先住民を見る視線にも、拭いがたい構造的な差別がある。左翼ですら、この弊を免れている者は少ないんだということを、いくつかの実例を挙げながらホルヘは説明してくれた。

彼らの作品は初期から、カンヌ映画祭などで夙に注目されていたようだが(ゴダールが『コンドルの血』を評して「人びとを行動に動員する要因になり得るもの」と言ったことは、ずっと後になって知った)、とある映画祭で出会ったフランス映画社の柴田駿氏からは、この種の映画は日本では商業公開は無理ですと断られたとも言っていた。映画の内容から配給事情まで、初対面での話題は広範に広がった。

亡命の身であるが、エクアドルでは新作制作の企画もあり、彼らのエクアドル滞在はしばらく続く、という。私たちは、このあとさらに南へ向かい、アルゼンチンとチリまで行き着いてから再度陸路で北へ戻る。連絡を取り合っていれば、ふたたび落ち合うことはできよう。その時には、いままで作ってきたウカマウの作品をすべて観る機会をつくろう、とホルヘたちは言った(1975年のその段階では、『ウカマウ』『コンドルの血』『人民の勇気』『第一の敵』の4作品があった)。

そんな約束を交わして、私たちはキトでいったん別れた。最少限の記録は残っているが、それにしてももはや40年近くも前のこと――おぼろげになった記憶も少なくないなかで、いまも消え去ることなく鮮明な「出会い」の一つが、これである。

(3月10日記)