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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(5)――チリで


アルゼンチン南部のネウケン経由で国境を超えると、テムコというチリの町に着く。1976年の2月のことだから、1973年9月11日の軍事クーデタから数えて2年半ほど過ぎたころである。ブエノスアイレスで親しく付き合った若夫婦の、妻のほうがチリ人だった。紹介された親戚の家を、テムコで訪ねた。軍事クーデタから10日後の1973年9月23日、その状況に絶望するかのようにして「憤死」した詩人、パブロ・ネルーダの縁者の家だった。ネルーダの自宅がそうされたように、この家もクーデタ直後に家宅捜査され、書物はほとんど焼かれてしまったと家人は言った。焼け残った書物が、わずかにあった。

秦の始皇帝による「焚書抗儒」以来、古今東西、時の権力者が気にくわぬ書物を焼き捨てるという所業のことは数多く聞いてきたが、ヘスス・ララの本のことといい、ここチリでの出来事といい、焼け残った現物を目にすると、いわく言い難い、不快な思いがこみ上げてきた。加えて言うと、「抗儒」にひとしい所業もまた、軍事政権下のあの時代には、ラテンアメリカのどこでも行なわれていて、ウカマウはのちに『地下の民』において、官憲に逮捕された反体制活動家が、自分が埋められることになる穴を自ら掘るよう強制されるシーンを挿入している。現実に起こった出来事から採った、痛ましい挿話だったのだろう。

テムコのその家では、夜、縁者がみんな集まってくると、みんなは声を潜めて、抵抗歌を歌った。「ベンセレーモス」はじめ、ビクトル・ハラなどが歌っていたそれらの歌は、私たちもよく知っていたので、その密かな声に唱和した。

*         *        *

これから書くことは、ホルヘ・サンヒネスたちとのつき合いが深まってから知ったことである。ホルヘは、ラパスの大学で哲学を学んでいたころ、チリのコンセプシオンという町の大学の夏季講座を受講した。政治・社会的な意味での進取性と戦闘性においてよく知られた町だという。1950年代半ばから後半にかけての、いずれかの年のことだったであろう。講義科目の中に、映画講座があった。ホルヘと同国人の建築技師、リシマコ・グティエレス(愛称マコ)が、一本の映画も撮ったこともないのに、ただ映画好きだというだけの理由で映画講座を担当していた。ホルヘのなかでの、映画への関心も、社会的な関心も、このマコとのつき合いによって生まれた、と彼は述懐している。付き合っている時には知らなかったが、彼は実は、チェ・ゲバラやインティ・ペレードと同じくボリビアのELN(民族解放軍)に属していて、その後ボリビアの官憲に殺害されている、という。

その講座では台本コンクールがあって、一番になるとその台本に基づいた映画を作るという特典が得られる。ホルヘがそれに当たった。そこで「たった二分間の映画を作った」。ホルヘは言う。

映画ではたった一分間でも多くのことが表現できる、とマコは言っていたけれど、実にそのとおりだった。その二分間で、ひとつの物語を作り上げた。一人の浮浪児が、禁止の立札だらけの公園を歩き回っている。「さわるべからず」「踏むべからず」「寝そべるべからず」「すわるべからず」。その子はしばらく前から何も食べていない。物乞いをするにも誰もくれはしないから、もう疲れた。新聞にくるまって門口で寝るのも、もう飽きた。公園の花を見るが、飾りとか自然の詩としてそれを見ることができない。彼にとっては、花さえもが、生きるか死ぬかの鍵を握っている。彼は何本かの花をもぎ取って逃げる。公園の管理人が追いかける。逃げおおせて、花を売る。それで得た金でパンを買い、小路に座って食べようとする。ところが、一部始終を見ていた二人の乞食がパンを奪って逃げる。子どもはまた公園へ戻って花を見つめる。さまざまな角度から撮ったその子の顔、花、立札、見張りの管理人が並置される。涙あふれる子どもの顔………これでおしまい。

ホルヘ・サンヒネス『革命映画の創造』(太田昌国訳、三一書房、1981年)

8ミリで作ったというこの小品で音楽を担当したのは、当時コンセプシオンに住んでいたビオレッタ・パラだった。彼女もマコらの仲間で、後年ほど有名ではなかったが、彼女に宿る、歌の天賦の才能は誰もが知るところだった。「彼女のギターから生まれたその曲を」ホルヘはとても気に入っていたが、事故のためにそのフィルムは失われて、今は存在しない、ということだ。【因みに、帰国してのち、唐澤は詩人の水野るり子さんお願いして、ビオレッタ・パラの『人生よ ありがとう――十行詩による自伝』を編集・刊行した(現代企画室、1987年)。この本に付した付録に、ホルヘ・サンヒネスは「ビオレッタの思い出」という文章を寄せてくれた。】

これが、ホルヘの映画的な出発点だった。チリは、したがって、彼にとって忘れがたい土地だった。チリはその後も、ホルヘにとって重要な土地となる。キトで初めて出会ったとき、1971年以後の亡命による「放浪」か「流浪」の旅のことを語った時、彼はペルー、エクアドルの前にはチリにいた、と語った。アジェンデ社会主義政権の成立は1970年だった。それ以降、軍事クーデタでそれが倒される73年9月までの3年間、軍事体制から逃れたラテンアメリカ各国の革命家と反体制活動家が、数多くチリに庇護を求めた。ホルヘもそのひとりであった。ホルヘだけではない、知り合ったラテンアメリカの知識人、作家、映画人などの証言によると、アジェンデ政権下の文化活動はこれらの亡命者の参加なくしては考えられないくらいに重要な役割を担ったという。広い意味で考えても、私も従来から強調してきたように、チリ革命の重要な性格のひとつとして、その文化革命的な要素を挙げることができる。アリエル・ドルフマンらが学生の協力を得て行なった、ディズニー漫画に見られる支配的な表現に対する批判(『ドナルド・ダックを読む』、晶文社、1984年)や、いわゆる女性雑誌が読者に植え付ける常識的な価値観と固定観念(それこそが、読者から批判的な主体性を奪い、支配的な文化に奉仕するものとなる)についての批判的な分析など、見るべき成果があった。その仕事を囲い込むように、チリに亡命していた大勢の文化活動家たちの働きがあったのだろう。

キトでは多くを語らなかったが、ホルヘはその活動が目立った人物のひとりだったのかもしれない。73年9月11日のクーデタの直後、実権を握った軍事体制は多数の外国人亡命者の逮捕命令を下した。ホルヘもそのひとりだった。彼の場合は「見つけ次第、射殺するも可」との命令が下されたようだ。クーデタの準備は時間をかけて企てられていて、その間に「要注意人物」リストも出来上がっていたのであろう。「アンデス越えをした」とホルヘは語った。あまりに生々しい体験だろうから、その詳細を聞き出す「勇気」が、その時の私たちには、なかった。

「アンデスを越えて」73年末か74年初頭にペルーに行き着いた彼は、その74年にペルーで『第一の敵』を撮影・制作するのである。

(2014年3月19日記)