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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[11]遠くアンデスの塩湖に眠るリチウム資源をめぐって


反天皇制運動機関誌『モンスター』第12 号(2011年1月11日発行)掲載

昨年12月、ボリビアのエボ・モラレス大統領が日本政府の招待で来日した。朝日と日経の二紙が経済面の大きな紙面を割いて、この訪問を報じた。同国には、東京都の6倍の面積を持つウユニ塩湖があり、その地底には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムが眠っている。携帯電話、パソコン、デジカメ、電気自動車、ハイブリッド車など現代文明の象徴というべき製品を動かす電池に、リチウムは欠かせない。その共同開発について協議するための来日である。

2006年に大統領に就任して以来、モラレスは国内にあっては「互恵と連帯を基盤にした共同体社会主義」を掲げて、諸施策を実行してきた。対外的には、帝国主義と植民主義を排して石油と天然ガスを国有化し、そこで得られた収益を子どもと老人に優先的に還元する福祉政策も実施した。リチウム開発に関しても、外国の技術を必要とはしているが、それがかつての銀や錫のように国内への経済的還元もないままに外国に持ち出されるだけだという不平等交易にならぬよう、細心の方針を立てることができるだろうか。中国、韓国、イラン、フランス、日本など、リチウムを求めてボリビアと密接な関係を結ぶ熱意を示している各国の側にも、対等・平等な交易関係樹立に向けての姿勢が問われるところである。因みに、昨夏訪韓したモラレス大統領は、「韓国とボリビアはともに植民地支配される痛みを経験していることで、信頼し合える」という趣旨の発言をしている。資本主義の獰猛な本質に、敢えて目を瞑ったリップサービスだったのだろうか?

近代化が困難な環境問題を伴うことは、今や自明のことだ。マルクスも注目した16世紀に始まるポトシ鉱山からの富の収奪構造に長いこと縛られてきたボリビアは、現政権の下で「母なる大地の権利法」を定めたばかりだ。国際社会に環境債務の存在を認めることを求め、母なる大地の権利と共存しうるかつ有効な形での環境技術の提供や資金供与を求めること/2カ国間・域内諸国間・また多国籍機関において、母なる大地の権利の承認と擁護を進めること/母なる大地を対象物としてではなく、公益の集団的主体としての性格を認めること――などを定めている。これが、開発に参与するであろう外資の、資本主義的衝動の放埓さをよく制御し得るか、が問題である。

前世紀末以降のここ十数年来は、反グローバリズムの最前線に立つラテンアメリカ地域だが、新自由主義が猛威をふるっていた頃この地域に浸透したモンサント社などの多国籍企業が行なってきた事業の結果は、今でこそ、恐るべきものとして現出している。遺伝子組み換え大豆の栽培と枯葉剤の散布によって、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイなどで不妊・流産・癌・出生異常などのケースが急増していることがアルゼンチンの科学者によって明らかになった(11年1月6日「日刊ベリタ」www.nikkanberita.com)。ウユニ塩湖で、今後なされるリチウム開発の行方が、国際的に監視されるべき理由である。

日本資本主義の意向を反映せざるを得ない大メディアが、ボリビアのような「小国」のニュ-スを取り上げるのは自国経済の浮沈に関わる限りでしかないことは、ありふれた風景だ。だから、この情報封鎖の壁を破って、ボリビアが右の「権利法」の精神を国際社会に根づかせるための努力を行なっていることを、私たちは知っておくことが必要だ。

紙幅の都合でひとつだけ挙げよう。国連気候変動枠組み条約締結国会議は、09年にはコペンハーゲンで(COP15)、10年にはメキシコ・カンクンで(COP16)開催された。コペンハーゲン合意の水準に危機感を抱いたボリビア政府は、同国NGOとも組んで、10年4月、同国の都市コチャバンバで「気候変動および母なる大地の権利に関する世界民衆会議」を開いた。世界中から数万人が集まった会議では、国家指導者が集まる国際会議とは異なり、貧者の意思を体現した「合意文書」が発表された(現在、編集・翻訳中)。

危惧もある。モラレス政権は、イランの協力を得て原子力発電所建設を検討している。ボリビアとイランに共通する「抗米」の意思表示としての意味はともかく、電力不足解消の名目があるにしても「母なる大地」は原発に耐えられるかという問い直しが、近代主義的マルクス主義の超克をめざしていると思われるモラレスだけに、ほしい。(1月7日記)

書評:本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店、2010年11月刊、2500円+税)


2011年1月上旬、「共同通信」から全国各紙に配信

著者はこの20年来、大阪の日雇い労働者の街・釜ケ崎でカトリックの神父をしている。神父であると名乗るよりは、「釜ケ崎反失業連絡会」などでの社会活動に重点を置いている。三代続くキリスト教徒の家に生まれ、生後二ヵ月で幼児洗礼を受けた著者は四代目となる。70年近い人生のほぼ全体をキリスト者として生きてきた。著者の述懐によれば、長いこと、聖書の翻訳文にしても神学者たちの聖書解釈にしても、伝統的なものを疑うことはなかった。

釜ヶ崎にあるアパートの二畳間に居を移し、日雇い労働者と日々接するようになってから、キリスト者としての著者の確信は揺らいだ。そこは、仕事も住む家も持たず、路上生活を強いられる「小さくされている人たち」がおおぜいいる街だ。憐れみや施しの感情を接点にして、食べ物や寒さしのぎの毛布を配布して、著者が満足感を覚えた時期はやがて終わる。難民というべき労働者が耐え忍んでいる受苦の本質とも、自立したいという彼らの熱望とも、自分の行為は噛み合っていない事実に気づいたからだ。

そこで、著者は労働者とともに聖書を読み直し、その神髄を「発見」する。その過程を行きつ戻りつたどったのが本書だ。信仰者ではない私でも知っているような、聖書の中の有名な表現が、原語に基づく著者の再解釈によって読み直されていく。そこにこそ、本書の読みでがある。伝統的な訳業および解釈と、著者のそれとは、価値観において真っ向から対立する。だからこそ、同じキリスト者の名において、一方では十字軍や米大陸の征服のような無慈悲な事業がなされ、現代にもブッシュのような好戦主義者もいれば、他方に解放神学者や著者のような理念と生き方も生まれる。

無神論者の私にも、その宗教的理念と生き方が大切だと思う宗教の開祖や信仰者は幾人かいる。著者は、私にとってそのような人となった。