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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[69]朝鮮の「水爆実験」と「慰安婦」問題での日韓政府間合意


『反天皇制運動カーニバル』第34号(通巻377号、2016年1月12日発行)掲載

国連の安保理事会構成国である五大国が独占してきた核兵器を、他の国が(しかも小国が!)持つことは許さないとするのが、核不拡散条約の本質である。この条約の制定とそれ以降の過程を詳述する紙幅は、今はない。また、イスラエル、インド、パキスタンなどの「小国」も核を保有するに至った現実を、ときどきの国際情勢の下にあって「容認」するか否か、あるいは確認せぬままに目を瞑るかなどの駆け引きも、これを機に利を得ようとする大国がマリオネットの操り師になって、誰の目にも明らかな形で行なわれてきた。したがって、国際政治における「核不拡散」なるスローガンの欺瞞性を批判することは重要だ。国際政治では、つまるところ、「力」を誇示したものが勝つのさ――身も蓋もない「教訓」をそこから得て、核開発に膨大な国家予算を費やしてしまう、「敵」に包囲された貧しい国の若年の国家指導者がいたところで、「軍事を通した政治」に関して同等のレベルで物事を考え、ふるまっているひとつ穴の貉が、どうして、それを嗤い、非難することできようか。

また、自らは核を持たずとも、安保条約なる軍事同盟によって「米国の核の傘」の下にあることを積極的に選んでいるこの国で、そしてその米国はといえば、1953年以来、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)との間で結んでいるのは休戦協定でしかなく、韓米両軍は朝鮮に対する挑発的な合同軍事演習を一貫して行なっている事実を思えば、ここでも自らを省みずに他国を非難するだけでは、事態を根本的に解決する道筋は見えてこないと指摘しなければならない。

1月6日、朝鮮が行なった「水爆実験」に関して、各国政府やマスメディアが組織する一方的な朝鮮非難の合唱隊に加わらず、せめてこの程度の相対的な視点をもって、事態を見つめることは重要なことだ。彼の国の科学技術水準に軽侮の表情を浮かべながら「水爆開発はまだ不可能」と(おそらくは)正確に事態を捉えていながら、「今、ここにある危機」を演出する政府とメディアの宣伝攻勢も鵜呑みにはせずに、冷静な分析を心がけることも重要だ。そうすれば、多くの専門家が言うように「朝鮮の核開発の段階は実用化には程遠く、実戦用の核兵器の小型化に努めている時期だろう」との判断も生まれよう。事態の把握の仕方は、対処すべき方法を規定することに繋がるのだから、大事なことだ。

さて、これらのことは自明の前提としたうえで、同時に、次のことも言わなければならないと私は思う。朝鮮が行なった「水爆実験」は、疑いもなく、東アジアおよび世界各地に生まれるかもしれない戦争の火種を一所懸命に探し求め、あわよくばそこへ戦争当事国として参加しようと企てている安倍政権にとって、この上ない、新春のプレゼントとなった、と。戦争法の施行を目前に控えているいま、この「水爆実験」は安倍の背なかを押すものとなった、と。

朝鮮の「水爆実験」に理があるものなら、私はこのような批判はしない。「安重根による伊藤博文暗殺が、日本が朝鮮を併合するのに有利な環境を作り出した」という俗論を、日本は当時すでに十数年をかけて朝鮮植民地化の準備を積み重ねていたという歴史的な事実に反するがゆえに、かつ時代状況的には安重根に「理」があったと思うがゆえに、私は受け入れないように。だが、朝鮮の核実験には理がない。若い指導者がしがみついているのであろう「核抑止論」は、どの国の誰が主張しようと、深刻な過ちであると考えるからである。

今回の事態を、昨年末に日韓政府間レベルだけでの急転直下の「解決」をみた「慰安婦」問題と併せて総体的に分析する視点が必要だと思われる。昨年12月16日、「慰安婦」問題を話し合っていた日韓局長協議は結論に至らず越年する、との発表があった。その9日後の25日には、28日の日韓外相会談が公式に発表された。この間に何があったのか。米国政府からの圧力があったことを仄めかす記事は散見される。米国の外交政策を仕切るといわれる外交問題評議会(CFR)が12月20日に出した討議資料 ”Managing Japan-South Korea Tensions” (日韓の緊張を何とか切り抜ける)もネット上には出回り始めた。

慌ただしい年末ギリギリの三国政府間の「圧力」と「談合」の実態を見極め、朝鮮半島全体で何が進行しているのか、その中で日本はどこに位置しているのか、を探る必要がある――敗戦後70年めの昨年にも「最終的かつ不可逆的に解決」されることのなかった課題が、私たちの眼前に広がっている。

(1月9日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[68]「魂の飢餓感」と「耐用年数二〇〇年」という言葉


『反天皇制運動カーニバル』第33号(通巻376号、2015年12月8日発行)掲載

翁長雄志沖縄県知事が発するメッセージには、じっくりと受け止めるべき論点が多い。権力中枢の東京では、論議を回避してひたすら思うがままに暴走する極右政治が跋扈する一方、本来の保守層の中から、それに抵抗する粘り腰の考えと行動が随所で生まれていることに注目したい。なかでも、辺野古問題をめぐる翁長知事の揺るぎない姿勢が際立つ。翁長知事は、日米安保体制そのものは「是」とする立場であることをたびたび表明しているが、この人となら私のような日米安保解消論者も、その「是非」をめぐって、まっとうな討論ができるような気がする。辺野古に限らず、高江のヘリコプター着陸帯計画や宮古島への陸上自衛隊配備構想なども含めて、日米両国の支配層が琉球諸島全域において共同であるいは個別に行ないつつある軍事的な再編の捉え方に関しても。

12月2日、辺野古の新基地建設計画に伴う埋め立て承認取り消し処分を違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟の第一回口頭弁論において、知事は10分間の意見陳述を行なった。訴訟で問われているのは、(大日本帝国憲法下で制定された)公有水面埋立法に基づく判断だが、その枠内での法律論は県側が提出した準備書面で十全に展開されている。そこでは、1999年の地方自治法改訂によって国と地方が対等な立場になったことをはじめ、憲法の規定に基づく人格権、環境権、地方自治の意義などをめぐる議論が主軸をなしている。そのためもあろうか、知事の陳述自体は法律論を離れて、過重な基地負担を強いられてきている沖縄の歴史と現状を語ることで、地方自治と民主主義の精神に照らして見た場合、沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常なのかと社会全体に問いかけた。とりわけ、2つの箇所が印象に残った。「(沖縄県民が)歴史的にも現在においても、自由・平等・平等・自己決定権を蔑ろにされてきた」ことを「魂の飢餓感」と表現している箇所である。この表現を知事は過去においても何度か口にしている。私には、どんなに厳しいヤマト批判の言葉よりもこの表現が堪える。1960年の日米安保条約改定を契機にしてこそ、ヤマトの米軍基地は減少し始め、逆に沖縄では増大する一方であった事実に無自覚なまま、私たちの多くは「60年安保闘争」を戦後最大の大衆闘争として語り続けてきた。それだけに、「魂の飢餓感」という言葉は、沖縄とヤマトの関係性の本質を言い表すものとして、支配層のみならず私たちをも撃つのである。

いまひとつは、「海上での銃剣とブルドーザーを彷彿させる行為」で辺野古の海を埋め立て、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わって機能強化される予定の新基地は「耐用年数200年ともいわれている」と述べた箇所である。耐用年数200年と聞いて、私が直ちに思い浮かべるのは、キューバにあるグアンタナモ米軍基地である。米国がこの海軍基地を建設したのは1903年だった。現在から見て112年前のことである。その後60年近く続いた米国支配が終わり革命が成っても(1959年)、米国がキューバの新政権を嫌い軍事侵攻(初期において)や経済封鎖(一貫して)を行なってきた半世紀以上もの間にも、米国はグアンタナモ基地を手離すことはなかった。革命後のキューバ政府がどんなに返還を求めても、である。現在進行中の両国間の国交正常化の交渉過程においても、米国にグアンタナモ返還の意志は微塵も見られない。

一世紀以上も前に行われた米国のキューバ支配の意志は、当時の支配層の戦略の中に位置づけられていた。南北戦争(1861年~65年)、ウーンディッドニーでのインディアン大虐殺(1890年)などの国内事情に加えて、モンロー宣言(1823年)、対メキシコ戦争とカリフォルニアなどメキシコ領土の併合(1848年)、ペリー艦隊の日本来航(1853年)、キューバとフィリピンにおける対スペイン独立戦争の高揚を機に軍事的陰謀を計らって、局面を米西戦争に転化(1898年)して以降カリブ海域支配を拡大、ハワイ併合(1898年)、コロンビアからのパナマ分離独立の画策(1903年)とパナマ運河建設(1914年)など、米国が当時展開していた対カリブ海・太平洋地域戦略を総合的に捉えると、グアンタナモを含めてそれぞれの「獲得物」が、世界支配を目論む米国にとっていかに重要かが、地図的にも見えてくる。戦後70年を迎えている沖縄をも、あの国は、いま生ある者がもはや誰一人として生きてもいない1世紀先や2世紀先の自国の利害を賭けて、その軍事・経済戦略地図に描き込んでいるのである。それに喜々として同伴するばかりの日本政府のあり方も見据えて発せられている「耐用年数200年」という翁長知事の発言に、現在はもとより未来の世代の時代への痛切な責任意識を感受する。

(12月5日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[64]国際的な認知を得ている、沖縄の自己決定権の論理


『反天皇制運動カーニバル』第29号(通巻372号、2015年8月4日発行)掲載

7月21日付け『沖縄タイムス』の「戦後70年」特集の中には、共同通信の配信ではあるが、「米軍、異例の長期駐留」と題する大型記事がある。米国国防省のデータを基に、15年3月31日現在「各地に駐留・展開する米軍の兵力数」と題された地図を参照すると、以下の数字が浮かび上がる。日本(4万9千人)ドイツ(3万8千人)韓国(2万9千人)英国(9千人)イタリア(1万1千人)米領グアム(5千人)ハワイ(5万1千人)イラク(3千人)アフガニスタン(1万人)――詳しく挙げると、米軍駐留世界地図はいっそう複雑化しようが、これだけ見ても、アジア・太平洋戦争の終結→占領統治→東西冷戦→冷戦終結後の「反テロ」戦争と続く現代史70年を貫く、〈世界を俯瞰した〉米国の軍事支配戦略の意図が顕わになる。

記事は、沖縄米軍は「世界の歴史でも異例の外国への長期駐留」となっているという米国国務省当局者の発言を記しているが、同時に、1972年に実現した沖縄返還交渉に米側から参加した国務省スタッフから次の言質も取っている。「日本政府が返還後に沖縄の基地を戦争で使用することは一切認めないと言い出さないか、米軍内の懸念が強かった。米軍が可能な限り沖縄の基地の自由使用を続けられるようにすることが目標の一つだった」。加えて、こうも言う。「(1972年当時は)10年以内に撤退すると思っていた」。

従来から明らかになっていたことで再確認の意味でしかないが、ここから二つの問題を取り出すことができる。一つには、駐留米軍世界分布図は、米国が最強の軍事力を誇示して世界を制覇しているかに見えるが、それは同時に、そのために米国が〈切れ目のない〉戦争の時代を生き続けていること、すなわち〈戦後〉なき歴史を刻み続けているという事実である。第二次世界大戦終了後70年目の今日もなお(!)。こんな国が行なっている戦争に〈積極的に〉馳せ参じて集団的自衛権なるものを発動しようとする国の未来図もまた、見え易い。二つ目には、日本の歴代政権も外務・防衛官僚も、軍事基地の負担に喘ぐ地域住民の現実と意思を全面的に無視した地点で、米国の世界戦略に従属してきただけだという現実である。もちろん、その背後には、「日米安保と憲法9条」が一体化してこそ維持されてきたヤマト的秩序に安住してきている「民意」が存在していることを見抜かなければならない。

日米両政府と日本の「民意」の、このような不当な態度に我慢がならず、「国家」と「国民」の制約を超えた地点で問題提起しているのが、国際人権法と国際立憲主義に基づいて沖縄の自己決定権を主張する論理である。政治学専攻の島袋純は「自己決定権とはどういう権利か」(沖縄タイムス7月20日~22日、全3回)において、その論点を整理している。思い返せば、1986年、当時の首相・中曽根の「日本=単一民族国家」発言がなされて以降、アイヌ民族は国内的にはこれを徹底的に批判しつつも、同時に、国連の人権理事会などの国際的な場において、日本社会の人権状況を広く訴える活動を展開してきた。国連の組織編成のあり方や、そこで採用される随時の決議や方針に、いかなる問題が孕まれていようとも、こと少数者の権利を確立し擁護する点において、国連が一定の肯定的な役割を果してきていることに疑いはない。国連や国際法の概念でいう「先住民族」論に依拠して自己決定権を主張するのである。数年前からだったか、ここへ沖縄の人びとも参加して、琉球地域の先住民族としての権利が、日米両政府の軍事政策によって侵害されている実情を訴える姿に私は注目してきた。その努力は実を結び、沖縄の人びとは、先住民族の権利に関わる国連宣言(2007年総会決議)やILO169号条約に基づくなら、主権国家建設の際に住民の意思に背き強制的に併合された集団であることが、国連および国際社会においてはすでに確認されている。国連人権(自由権規約)委員会は2008年に、先住民族である以上「琉球・沖縄の人びとは特別な権利や保護を受ける資格」を持ち、「彼らの土地についての権利を認めるべきである」ことを日本政府に勧告している。2010年には人種差別撤廃委員会が、「不均衡な軍事基地の集中が(沖縄の)住民の経済的、社会的、文化的権利の享受を妨げている」事実を指摘している。

現政権による異常なまでの「法」の破壊状況を目撃しつつあるいま、国際社会においては、理に叶った「法の支配」が進んでいる側面もあることを確認できることは、ひとつの救いである。(8月1日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく [63]「グローバリゼーション」と「反テロ戦争」がもたらした一つの現実


『反天皇制運動カーニバル』第28号(通巻371号、201577日発行)掲載

最近のテレビ・ニュース番組は、報道すべきニュースの選択でもその内容でも、あまりにひどいので久しく見ていないというと、共感する人が多い。BSの「ワールド・ニュース」を見ているほうがよほど世界のことがわかる、という人もいる。私も、時間の許す限り、このニュース番組は見ている。6月中旬のある日、「フランス・ドゥ」が伝えたニュースには、不意を突かれる思いがした。

ハンガリーがセルビアからの難民・移民の流入を防ぐために、全長175キロに及ぶ対セルビア国境に、高さ4メートルの鉄条網を「壁」として建設するというニュースである。ハンガリーに入国した難民・移民は、2012年には2000人だったが、2015年は前半期だけで5万4000人に達しており、この数字は人口比で見ると、欧州ではスウェーデンに次ぐ難民受け入れ国になっているようだ。シリア、イラク、アフガニスタンから戦禍を逃れた人びとが多い、という。ハンガリー政府の言い分によれば、財政的な負担に堪えられない以上やむを得ぬ対処方法であり、この緊急措置はいかなる国際条約にも抵触するものではなく、時間は切迫しており、早く建設しなければならない、という。

このニュースからは、ふたつの問題を引き出すことができる。1989年、ハンガリーこそは東欧民主化革命の先駆けであった。諸改革を進めていた当時の政権は、同年5月、オーストリアとの国境線に敷かれていた鉄条網の撤去に着手した。6月には複数政党制による自由選挙が行われた。東ドイツ市民は、夏を迎えて、ハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへの脱出が可能だと考え、ハンガリーに出国し、それがあの国境を越えて流れ出る人の波となったのである。それからわずか5ヵ月後には「ベルリンの壁」倒壊にまで至った東欧激動の同時代史を、私たちはまざまざと思いだすことができる。そんな歴史的な役割を果たし得たハンガリーが、4半世紀後のいまは、世界情勢の激変に翻弄され、改めて国境の「壁」の建設に着手している。

マグレブ地域から地中海を超えてスペイン、フランス、イタリアなどに殺到するアフリカ難民については、難民船が定員をはるかに超える人びとを乗せていて起こる悲劇も含めていくつもの報道に接してきたが、今回のハンガリーに関する報道を見て、欧州が(旧東ヨーロッパ圏も含めて)総体として直面している難民問題の重層性が見えてきたという意味で、「不意を突かれた」というのである。「歴史は繰り返す」とか「あのハンガリーが、逆説的にはいま……」とかの、手垢にまみれた言い方ではない言葉で〈現在〉を表現したいとは思うが、適切な言葉が、今の私からは出てこない。もちろん、難民・移民とは、新自由主義的原理に基づいて世界の再編成を行なっている「グローバリゼーション」(=現代資本主義)の趨勢が、〈労働力移動〉という形で必然的に生み出したものであると捉えることは前提ではあるが。

ふたつ目の問題は、ハンガリーに殺到している難民の出身国から導かれる。アフガニスタン、イラク、シリア……と聞けば、(シリアには異なる要素もあるが)そこはいずれも、21世紀初頭以降、外部世界から発動された「反テロ戦争」の戦場そのものであり、無人機を含めた爆撃機からの空爆に怯える人びとが、大量に脱出を図っている国々である。「因果」の関係ははっきりしている。「反テロ戦争」こそが、アフガニスタン、イラク、シリアの人びとはもとより、その「余波」を受けているハンガリーなどの諸国の「苦悶」を生み出しているのである。

この日の「フランス・ドゥ」にしても、前者の問題には触れる。グローバリゼーションの波及力には言及せずして、「25年前には東欧共産圏にあって率先して鉄条網を撤去したハンガリーが、皮肉にも今度は……」風なもの言いで。だが、後者の問題にはまったく触れない。「因果の関係」については、結局、メディア報道の読者であり視聴者である私たちが「自発的受動者」たる位置を離れて、自力で極めていくほかはない。その点は、ギリシャ情勢についても、戦争法案をめぐる攻防についても、辺野古に象徴される沖縄の状況に関しても、同じことだ。(7月4日記)

太田昌国の、再び夢は夜ひらく[62]相手の腐蝕はわが魂に及び……とならぬために


残す任期が少なくなってきた米国大統領オバマについては、歴史に名を残す「レガシー(遺産)づくり」のニュースが絶えることはない。革命直後からの半世紀以上にわたって敵視してきたキューバとの国交正常化は具体化の途上にある。他方、オバマの任期中に、黒人奴隷の末裔たちに賠償金が支払われるのではないかという「噂」も根強い。奴隷労働「最盛期」にその労働に従事させられていた人の数、1日の労働時間、現在の最低時給額、結局は支払われなかった賃金の、100年以上に及ぶ未払い期間の金利を複利計算して、それらを総合し、奴隷の子孫が請求できる対価を59兆2千億ドル(約7100兆円)とする計算もある。現在4千万人である黒人でこれを分配すると、1人当たり148万ドル(約1億7760万円)になる。米国の2015年度歳出額が3兆9千億ドル(約468兆円)であることを見ても、実現不可能な数字であることは明白だ(4月26日付け東京新聞)。賠償が実現するか否かはいまだ不明だが、第2次大戦中に強制収容した日系人に対する賠償金の支払いが実施された例もあり、突飛なことではない。ともかく、歴史的過去をめぐるふりかえりが、このような水準でも行なわれている米国の社会状況の一端は見えてくる。

フランス大統領オランドは、去る5月のキューバ訪問の際に、その隣国で、旧植民地であるハイチも訪れた。遥か昔の1804年、世界初の黒人共和国としてハイチが独立したとき、フランスは「独立承認の条件」(!)として多額の賠償金をハイチに支払わせた。今回、オランドはその事実を十分に意識しながら、「過去は変えられないが、未来は変えられる」と演説し、5年間で1億3千万ユーロ(約175億円)の援助表明も行なった(5月13日付けサンパウロ=時事)。

対外政策だけを見てみても、オバマは無人機爆撃も活用しながら世界各地で侵略的な軍事路線を遂行しており、オランドもまたアフリカやアラブ地域に対する戦争政策を憚ることなく展開している。私から見て、決して信頼しうる政治家ではない。それでいてなお、右の2つのエピソードから私は微かなりとも「歴史の鼓動」を聞き取っているのだが、それはとりもなおさず、自分が住まう社会=日本の政治からは、それが決して響いてこない種類のものだからである。

5月27日と28日の両日、衆議院安保法制特別員会において共産党の志位委員長が行なった質問と首相らの答弁の全容を、新聞の6面全体を割いて詳報する「しんぶん赤旗」の同月30~31日号で読んだ。国会中継は見る時間がない。仄聞だが、首相らが窮地に立つ場面はカットされる、最近とみに恣意的な編集が目立つというニュース番組は、隔靴掻痒であるうえ、「(下劣な政治家は)顔も見たくない」というのが本音だから、ほぼ見ない。一般紙が報じる質疑内容は、あまりに簡略化されていて、よくわからない。たまに、こうして、質疑応答の全容を伝える記事を読むと、現在の国会論議の水準がよくわかる。水準はわかるが、首相らの答弁の意味はほとんど理解不能だ。志位は苛立ち、質問にだけ答えよ、と繰り返すが、首相らは聞く耳を持たぬ。質問にはまともに答えないままに、長々と持論を展開する……。とりわけ、日本政府がいう「後方支援」なるものは、国際的には「兵站」といい、「兵站こそ武力行使と一体不可分であり、戦争行為の不可欠の一部だ」と追及されても、「兵站は安全が確保されている場所で行なう」としか答弁しないのだから、討論そのものが成立しないのである。

美術に通じている友人が、言ったことがある――2流、3流の絵画ばかりを見ていると、目が腐ります。

私の考えでは、B級映画にもB級グルメにも得難いものはあるが、美術の世界は違うかもしれぬ。素人なりに納得する意見である。

日本の政治状況を眺めながら、友人の言葉をよく思い出す。論争する相手がその人なりの論理をきちんともち、あっぱれな倫理性の持ち主でもあり、賛同はできぬまでも、持てる政治哲学や歴史認識の方法にも一家言ある人ならば、それに対峙する私たちも切磋琢磨しなければならず、自分なりの高みを目指しての努力を続けることはできる。そうではない人間たちを相手にしなければならないとすれば……? こんなのを相手にしていると、自分自身が腐蝕していくような気がする。相手の腐敗・腐蝕はわが魂に及び、とでもいうか。とめどなく奈落の底にでも落ちていくような。心底、疲れる。この無論理と非倫理をもって、あいつらは私たちを疲れさせようとしているのだろうか? それが、あいつらの狙い目なのだろうか? (6月5日記)

『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話』(2014年10月19日、成蹊大学)における発言


以下は、2014年10月19日、東京の成蹊大学で開かれた同大アジア太平洋研究センター主催の『越境・表現・アイデンティティ――アラブ文学との対話●ラウィ・ハージ/モナ・プリンス/サミュエル・シモン氏を迎えて』において、コメンテーターを務めた私が行なった発言の大要である。

司会は、同センターの田浪亜央江さん、アラブ世界からの3人の話を享けてコメントしたのは、アラブ文学研究者の山本薫さん、作家の小野正嗣さん、それに私であった。ここに紹介できるのは、もちろん、私の発言部分のみである。

■太田:太田です。よろしくお願いします。冒頭に田浪さんが今日の集まりの由来を話されて、韓国の仁川で2010年からアジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議が開かれていたということを聞いて、なつかしい思いに浸りました。実は僕は1980年頃、当時日本に日本・アジア・アメリカ作家会議というのがあってですね、それを運営している作家や評論家と知り合ったんですが、いっしょにやらないかと言われたんです。作家というのは狭義の小説家という意味ではなくて、文化活動家であったり、表現に関わっている者の総称だから太田でも大丈夫だからということで、日本・アジア・アメリカ作家会議をしばらく一緒にやりました。東京でも川崎でも国際会議を開きましたし、旧ソ連の中央アジアの民族共和国の首都のフルンゼ[現ビシュケク]とかタシュケントの国際会議にも行きました。僕が出た最後は86年、チュニジアのチュニス、PLOがベイルートを追われてチュニスに本部が置かれた頃の会議だと思います。回を重ねたこのような折りにアラブ・パレスチナの外交団とも、[マフムード・]ダルウィーシュ含めてお会いしているんですね。そんな記憶が甦ったり。そこで感じたことは後で触れます。

韓国といえば、日本での会議のときは、韓国の人では白楽晴(ペクナクチョン)などを招いたような気がするんですけれども、国際会議でお会いしたことはなくて、むしろ朝鮮民主主義人民共和国の作家代表団と会いましたね。チュニスで会ったときには世界文学のあれも読めない、これも読めない、ってタイトルをいろいろ挙げられて(笑)。僕もなんとかしてあげたいけれども、しかしなあ…、と問答に詰まったことを思い起こします。80年から86年というのは、韓国はまだ軍事政権下ですから、なかなか表現について厳しい時代であった。ただ、僕はもう当時出版に関わっていたので、僕が出す第三世界の思想・文学の本なんかは、しょっちゅう韓国に行く在日朝鮮人の文学者に渡して「創作と批評」社に届けてもらった。そうすると間もなく、『創作と批評』なり、それから『第三世界思想』という雑誌なども軍事政権下で出ていたと思いますが、そこに解放の神学についての文章が載ったりとか、アパルトヘイトについての文章が載ったりしまして。僕らが送っている本がそれなりに生かされているなあと感じて、それはそれで嬉しく思ったということがありました。

それはともかく、今日の3人の方のお話を聞いて考えたことをお話したいと思います。僕自身は約30年間、現代企画室という小さな出版社で哲学、思想、文学、芸術、さまざまな人文書の企画・編集をやってきたんですけれども、そこで思想的な基軸としてこだわってきたのは、我々が生きている日本社会にどういう問題があるかということを考えたときに、それはやはり日本民族中心主義というぬぐいがたい思想傾向だと思うんです。これは明治国家がヨーロッパを先進国のモデルとして富国強兵政策を取り始めたときに定められて、その後なかなか、敗戦後70年経とうとしているいまもぬぐいきれない、重大な一つの傾向だと思うんです。その傾向がここ数年間、極右政権の成立とともに社会全体に浸透して、とんでもない状況になっているというのは、皆さんご存知のとおりです。

このような日本民族を中心に据えてしか思想や文学のことを語り得ないこの社会の中にあって、いったいどういうふうにこれを打破していくのか。それはもちろん一つとは限らない、さまざまな方法があると思うんですが、やはりその一つの有効な方法は、他民族、異民族の歴史や文化に対するさまざまな窓口をどのように開いておくか。それが人々の心の中に、時間をかけてですが訴えかけていく、その可能性にかけるしかないだろうというふうに思ったんです。ヨーロッパであれば、ヨーロッパ中心主義に対して批判提起をしている哲学思想が軸でしょうし、あるいは、ヨーロッパを模倣して日本が近代化を遂げて、アジアで唯一の植民地帝国になったということは、いわゆる第三世界に対する偏見とか、そうしたものがこの社会の中に根付いているということになる。だから第三世界の文化、思想、文学、そうしたものに対する窓口をどの程度作ることができるのか。それが中心的な課題でした。

僕自身は、まあ今も関心が続いているんですが、わりあい集中的にラテンアメリカのことを学んできたこともあったので、出版に関わることになったときに、まずラテンアメリカの文学・思想をどのように紹介するのかということを一つの課題にしました。最初に言いましたように今の出版活動に30年くらい関わってきたと思いますが、僕らのような小さな出版社でも狭い意味でのラテンアメリカ文学はもう50冊くらい出してきたと思うんですね。文学以外も含めると100冊くらいでしょうか。まあもちろん日本には新潮社とか集英社とか岩波書店とか、僕のところとは比べものにならない大出版社がありまして、それはそれぞれラテンアメリカ文学に力を入れてきている時期がありましたが、全部合わせるとおそらく200冊とか…。あんまり並べて数えたことはありませんけれども、全部の出版社を合わせると現代文学の紹介はそれぐらい進んでいるという状況だと思うんです。

それだけ皆さんもお読みになった方も多いだろうし、今年亡くなったガルシア=マルケスを筆頭として、1920年代や30年代に生まれて、今70代になり、80代になっている現代作家たちが非常に旺盛な創造性を発揮して次から次へと問題作を発表してきた。そういうことになる。どうしてそれが可能になったのかということも少し多面的に考えなければならないんですが、今日は話の進行上、一つの理由だけに触れたいと思うんですね。それは1959年のキューバ革命の勝利ということがラテンアメリカの現代作家に与えた決定的な影響力だったと思うんです。キューバ革命はもう半世紀以上経って、50年以上の歴史を刻んだので、その後さまざまな矛盾や問題を抱えています。それは僕のように、政治的にはキューバ革命への共感から青春時代が始まった人間においても、今考えると…。最初期の10年くらいは、やっぱり光り輝いているんですよ、それは僕が若かったということもあるかもしれないけれども。しかし10年経ち、20年経ち、30年経ち、ましてや半世紀経つと、キューバ革命がどれほど深刻な問題を抱えていたかというのは、僕なりに見えてきているわけです。

今日はこの問題ではなくて、例えば最初の5年間、10年間、そのときラテンアメリカの作家たちにとって、あるいはラテンアメリカの一般の民衆にとってキューバ革命がどれほど希望の星であったのかという、その影響力を考えなければならないと思うんですね。やっぱりラテンアメリカという地域は、それまではスペインに、あるいはポルトガルに征服されて成り立ってきて、19世紀の前半、大半はなんとか独立を遂げるわけですけれども、その後は、今度は北アメリカという同じ大陸に存在する超大国が政治的、文化的、経済的、そして20世紀に入ってからは軍事的に浸透し、支配して、完全にその支配の下に置かれるわけです。キューバもそうでした。19世紀末、フィリピンと共に何とかスペインから独立する直前まで行きながら、その独立闘争に荷担して軍事的な策略を講じたアメリカ帝国によって独立がかなわず、ほぼ半植民地下に置かれてしまう。そういう半世紀以上をすごしたキューバが、1959年にキューバ革命を成就し、社会主義革命であると名乗った。そしてそれまでの独裁政権とは違う国家予算の使い方をするわけですから、教育とか医療とか福祉とか、そうしたものが第三世界の貧しい国としては飛躍的に向上するわけです。イデオロギー的にもなかなかユニークな、当時のソ連の社会主義が持っていた重苦しさ、抑圧感、それとは違う新しい価値観を切り拓こうとしているかに見えた。

それまでのラテンアメリカの作家たちはみんな国境の、それぞれの国の中に閉ざされていた。意識としても。作品を互いに知り合うことはなかったし、単行本として作品が刊行されても、それが他の国に流通するというシステムを持たなかった。キューバ革命は、その勝利した土地に、カサ・デ・ラス・アメリカス、「アメリカの家」という文化団体を作ります。アラブの世界ではどうかわかりませんが、日本ではアメリカというとUSAをしか指さない場合があるんですが、ラテンアメリカの人にとってはアメリカというのはあの大陸全土を指す、そういう名称として使われているので、「アメリカの家」という文化機関を作ったんです。

ここでサミュエル・シモンさんの『Banipal』とつながる話になっていくのですけれど、「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関で、大陸の文化活動に関わる人々の様々な表現がそこに集まってシンポジウムが行われたり、個展が行われたり。雑誌が出て、その雑誌でいろんな文学者の作品が紹介されるようになった。あそこはスペイン語圏が一番多いけれども、ポルトガル語があり、フランス語があり、オランダ語があり、英語があり、たくさんのヨーロッパ植民地帝国の痕跡が残っているから、言語が多様なわけですね。そしてもちろん、無文字社会の先住民言語がある。そのような作品が雑誌や単行本のかたちでどんどんキューバで刊行されることになっていきます。それで文学賞や、映画祭も開かれるようになって、ハバナやサンティアゴ・デ・クーバにどんどん作家たちや文化活動家が集まってくるわけです。毎年一回、いろんな機会に。そこでお互いの顔を知るようになり、どんな作品を作っているかということをお互いが知るようになった。だから一つの地域の中で、国境の垣根を取っ払って、精神的にも開かれた作家たちが交流し合うと、それはもちろん大きな刺激になるわけです。コロンビアのガルシア=マルケスはこんな作品を書いていた、バルガス・リョサはこんな作品をと。それぞれが本当に知り合う。しかも、少なくとも1960年代というのは、まだまだキューバ革命への共感が一体化していた時代だったので、そこで一気に文学が活発化していく。もちろん映画も活発化しますし、さまざまな表現活動が花咲いていくわけです。

もちろんキューバには表現弾圧という時代がありました。別の立場から見ればそんな活況を呈しているところばかり見ても…、という批判も当然ありうるかもしれませんけれども、当時の状況の大きな流れとしては、そういうふうに説明してもいいだろうと思います。

僕は今回の機会を田浪さんからいただいたときに、『Banipal』という雑誌をインターネットサイトで検索してみました。こういう定期的な刊行物を出して、世界に開かれていく機会を提供することがどんなに重要になるかということを、僕がラテンアメリカの文化状況を見ながらずっと思っていたものですから、この『Banipal』は今までもそうであったろうし、これからもアラブ文学が世界に紹介されていく上で、ひじょうに大きな意味を持つものではないだろうかと、たいへん共感を持ちながらインターネットサイトを見ておりました。今日実際にその話を伺って、ひじょうに嬉しいと思います。

次にモナ・プリンスさんのお話ですが、先程僕は、旧ソ連やチュニスで、あるいは日本で、当時のアジア・アフリカ作家会議の国際会議に何度か出たというふうに言いました。アラブ・パレスチナ代表団にお会いしましたら、記憶がかなり薄れているところがあるけれども、ほとんどの代表団のメンバーは男性であったのです。まあ、80年代当時です。今日、モナ・プリンスさんのお話が僕にとって大事だったのは、女性の作家としての立場、今のエジプト文学の中で、あるいはアラブ圏の文学の中で、そのような立場をご自分がはっきりと立ててものを言われている。部分的に知った作品の中でもはっきりとそのような問題提起をされているということが、僕にとっては一つの大きな意味を持ちました。ごらんの通り僕は男ですが(笑)、大きく言えば人類史がここまで混迷してだめになっているのは、男性原理の価値観を貫いて国家が運営され、社会が展開してきたからだというふうに思っているんです、実は。(笑)

笑われてしまいましたけど、アラブ社会の方々は特に困難な時期を生きておられると思いますが、現在世界がここまで、戦乱が絶えず起きて、人類が戦争というものと今に至るも切ることのできない、そういう事態をもたらしているのは、やはり男性原理的な価値観。国家の支配層はもちろんそうだけれども、社会の一般に生きる民衆の中にまでそういう価値観が浸透してこれを覆すことができないからだと。断固としてそういうふうに、この立場でものを考えるようにしているので、今日のモナ・プリンスさんのお話はそういう意味でひじょうに勇気を得られ、ありがたく感じました(笑)。

■モナ:ありがとう。(笑)

■太田:そしてラウィ・ハージさん。『デニーロ・ゲーム』(白水社)を読みました。…なんというか、本当に悲痛な物語で、このような作品を読むと言葉を失うんですけれども、この作品にも描かれているし、今日ラウィ・ハージさんご自身が言われたように、ベイルートからパリへの移動、それからニューヨークへの移動、そしてカナダで最終的に居住権を取られる。そういう移動につぐ移動の人生を送られてきているわけですよね。僕のような日本に定住している人間がこういうことを客観的に言うのはちょっと奇異なのかもしれませんけれども、現代世界にとって移動というのは避けられないものになってきていると、客観的には見えます。それは一つには、ネオリベラリズムが経済的にここまで世界を制覇した時代になってきて、そのネオリベラリズムの力によって、たとえば第三世界の農業はほとんど崩壊するわけです。農民はいままで農地であった田舎を捨てて、自分の国の首都に出なければいけない。その首都でもあぶれると、今度はメトロポリスの、日本のような社会の大都市に出てそこでなんとか生きていかなければならない。そういう労働力の国際移動というのは当たり前のようになった。それはもちろんたくさんの悲劇をもたらす。背景にあるさまざまな問題というのは悲劇を否応なく持つんですけれども、しかしネオリベラリズムの力が、グローバリゼーションの力がここまで強く世界を制覇している以上、ある意味で避けがたい状況になってしまっている。

ラウィ・ハージさんのように自分の生まれ育った国が絶えず戦火に明け暮れていて、なかなかそこでの静かな生活が望めない、そこで移動していくという、それにももちろん背景にひじょうな悲劇や苦労が伴っているわけですけれども。しかしそれを…、ごめんなさい、これは客観的な言い方で申し訳ないんですが、そういう人生を強いられる中で、それを梃子にしながら生み出されている、必然的な表現のように思います。ですから移住とか移動というのは、確かに資本の強制力が働いてはいるんですけれども、現代社会がこのような展開を遂げている以上、それから簡単に脱することはできないかもしれない。そうすると、移住や移動を梃子にして、なんらかの別な、自分が生まれ育った国では実現できなかったことを、庶民は庶民なりに、表現者は表現者なりに、その新しい生を切り拓いていかなければならない。そういう時代が来ているんだろうというふうに思います。

そういう移動は悲劇も伴うけれど、平和的な移動である。軍人や宣教師や貿易商人がむりやり他の国を侵していって、軍事的、宗教的に無茶なことをやる、貿易商人が恥知らずな商売をしてしまう、そういうあり方がこれまでは移動の中心であった。最終的に移動した先で権力をとって世界を支配していく力になっていった。しかし普通の旅人の移動というのは、そこを支配する意図を持たないわけです。その移動を梃子にして、なんらかの新しい生を新しい土地で切り拓こうとするわけですから、やはり現代の移動というのはそういう意味で一つの希望の根拠なのです。そういうふうに僕は考えているので、これはラウィ・ハージさんの、ある意味で強いられた生に対する、ちょっと勝手な意味付与かもしれませんが、僕自身としてはそのような感じで捉えております。

以上です。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[58]〈野蛮な〉斬首による死と〈文明的な〉無人機爆撃による死


『反天皇制運動カーニバル』23号(通巻366号、2015年2月10日発行)掲載

前号では、フランスの風刺漫画新聞社襲撃事件に触れて、人類史には時に、「狂気」を孕む熱狂に支配されてしまう時期が訪れることがあることを語った。この衝撃的な事件から二週間も経たないうちに、イスラーム国による日本人人質殺害予告がインターネット上で行なわれ、その後の事態は、誰もが知るような経過をたどって現在に至っている。「2015年1月」を、私たちは、いくつもの「狂気」によって織りなされた月として、永く記憶するだろう。

同時に、「狂気」は彼岸にのみあるのではない、という単純な事実を何度でも確認したい。今回の場合で言えば、在日のイスラーム信徒やヨルダンなどアラブ諸国のイスラーム世界の人びとが、大要「ほんとうのイスラームは、こんなものではない。真逆だ」と語る姿がよく報道された。それ自体は、必要な情報ではあった。だが、まだ、足りない。イスラーム国が、世界から貼り付けられた「悪のレッテル」を逆手にとって、自爆テロ・公開処刑・斬首などを行なっている〈残虐ぶり〉に目を覆うなら、同じ比重で、それと因果の関係にある米国主導の「反テロ戦争」を想起しなければならない。ブッシュ政権下のネオコンが実践した「衝撃と畏怖」作戦が、世界をどこまで壊し、人心をどれほど荒廃させたかを思い起こすことなく、現在の事態を捉えることはできない。〈野蛮な〉斬首による死と、〈文明的な〉無人機爆撃による死との間に、垣根を設けてはならない。

私は、今回の事態の渦中に、映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』(フローリアン・ガレンベルガー監督、独中仏合作、2009年)を観たこともあって、この作品に描かれていることをすべて史実として捉える立場には立たないにしても、あの戦争の過程で発揮された日本兵の〈残虐ぶり〉をあらためて思わないではいられなかった。〈残虐さ〉は、特定の国家や民族に根差して現われるものではなく、ある時期の政治的為政者とその時代に支配的な社会的雰囲気によっては、どの国家においても、どの民族においても、立ち現れてしまう〈狂気〉の一発現形態なのだという思いを深くした。

イスラーム国が、捕虜・人質の生死を自在に操って恐怖を振りまいているとの評言も目立つが、戦争を戦っているどの国家・どの民族といえども、〈敵〉を欺くために謀略をめぐらせ情報戦も仕掛けて騙まし討ちし、これに恐怖を与える作戦をことさらに展開し、国内の民衆の口も残忍な手口で封じこめるものだ――という一例を、哀しいかな、ふたたび目撃しつつある、と私なら考えるだろう。

総じて、「テロ」と「戦争」には因果の相関関係があり、〈残虐性〉を特定の民族・国家に固有な属性としてはならないとするこの考え方は、冷静な分析と議論を欠く状況下では、「テロリストに加担するのか」という反応を招きやすい。たとえば、この国の首相A・Sは、人質が存在している只中に行なわれた自らの中東訪問とそこでの演説内容の妥当性を国会での質疑で問われて、「イスラーム国を批判してはならないのか。それはまさにテロに屈することになる」と気色ばんで答えている。そして今回の事態を奇貨に、武官と日本人施設の警備員増員、在外邦人救出のための自衛隊の駆けつけ警護と武器使用の可能性にすぐさま言及するような発言を行なっている。平和のために「積極的に」努力するのではなく、「戦時」を想定すると勢いづく彼の本性が、隠しようもなく現われている。だが、その言動のすべてを「軍事」一色で塗りこめてしまうわけにもいかない。その点で、イスラーム政治思想史研究者・池内恵が『「イスラーム国」は日本の支援が「非軍事的」であることを明確に認識している』と題する2月3日付けの文章は示唆的だった(池内恵サイト「中東・イスラーム学の風姿花伝」)。私は、池内が、首相の今回の中東歴訪が従来の対中東政策の変更をもたらしたものではないと断言したり、「イスラエル訪問がテロをもたらした」とする考え方は無自覚的な「村八分」感覚で、反ユダヤ主義だと言ったりする(1月20日付け同サイト)のは、大いなる錯誤だと思う。何を意図しての「政治的なふるまい」なのか、と疑念も抱く。「反テロ戦争」以降の「国策」に無批判などころか、これを無限肯定する姿勢も、従来から批判してきた。だが、このすぐれている(と私が思う)専門研究者が、ファクト(事実)に即して行なう分析のすべてに目を塞ぐわけにもいかない。そこに、私たちの論議の弱点が浮かび上がることもある、と大急ぎで言っておきたい。(2月7日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[57]「戦争」と「テロ」を差別化する論理が覆い隠す本質


『反天皇制運動カーニバル』22号(通巻365号、2015年1月13日発行)掲載

宗教上の信仰が、ある種の「狂気」を帯びて表現されることがあることは、歴史上たびたび見られることである。スペイン王の資金援助で行われたコロンブスの大航海に始まる「征服」は、キリスト教を錦の御旗に立てて行なわれたが、それがどれほどの残忍な先住民の虐殺と奴隷化を伴っていたかは、よく知られている。いきなり現代に跳んで、オウム真理教に集う一部の人びとが確信をもって行なったいくつもの殺人行為も挙げることができる。最近でいえば、「イスラム国」なりイスラム教徒が絡んでいると伝えられる「テロリズム」行為が頻繁に起こっている。若いころをふりかえれば、それが宗教的な局面に限らずとも、我が身のことでもあったと思う人は少なからずいるだろうが、自らが信奉する理念に過剰な意味付与をして、自分の客観的な姿を見失い、その道をまっすぐに突き進む人びとは、絶えることはないのである。

去る1月7日パリで起きたばかりの新聞社襲撃事件も、むごい事件ではあった。事態の真相は今後の解明を待つしかないが、12人の中に風刺漫画家のシャルブことステファヌ・シャルボニエが含まれていることに、小さくはない衝撃を受けた。フランスのLCR(革命的共産主義者同盟)の創始者のひとりで、NPA(反資本主義新党)の創立にも参加したダニエル・ベンサイド(1946~2010年)に、ひたすら護教的であることの制約から解放された、いかにも現代的なマルクス入門書『マルクス〔取扱説明書〕』がある(つげ書房新社、2013年)。シャルブはこの書に、幾枚もの挿絵を寄せているが、その絵は、翻訳者もいうように「諧謔に満ちた痛烈な」もので、描き手が柔軟な精神の持ち主であることを思わせる。今回新聞社を襲撃した者たちは「預言者(ムハンマド)の復讐だ」と叫んだと伝えられているが、シャルブおよび週刊紙「シャルリー・エブド」がこれまでムハンマドを(というよりは、風刺画としては、ムハンマドを護教的に崇拝する者たちの在り方をこそ描いていたのではないか、と推測するのだが)どのように描いてきたのか、その「風刺性」がどんな水準で成立していたのか、大いなる関心を掻き立てられる。

今回の報道を見ながら、もうひとつ指摘しなければならないことがある。フランスのオランド大統領を含めて、口をきわめて「テロを非難」する各国の政治家たちの言動とメディアの報道の在り方に関して、である。「イスラム国」の現実やイスラムを標榜して行なわれている「テロリズム」が、仮にどんな非難に値するものであったとしても、それらが生まれてきた背景には、時間的に短く見ても、2001年の「9・11」事件以降、米国が主体となりNATO(北大西洋条約機構)加盟の各国などが加担してきたアフガニスタンおよびイラクにおける「反テロ戦争」があることに疑いはない。それが、どんな虚構に満ちた「戦争の論理」であるかということを、私たちは当初から批判してきた。この政策を推進した前ブッシュ政権で国防長官を務めたラムズフェルドも、国務副長官であったアーミテージも、今になって「歴史や文化が違う他国に、自分の国の統治システムを強いることができるとは思わない」とか「イラク侵攻は最悪の誤り」などと語っている(2014年12月30日付毎日新聞)。

彼らの常套手段は、国家が発動する「戦争」と個人か小集団が行なう「テロ」の間に万里の長城を築いて、差別化を図ることである。国家が行なう行為である以上、彼らの考えでは、「戦争」は非難を免れ得る。逆に「テロ」は国家という正統なるものを背後にもたないがゆえに、無条件に非難の対象となるのである。「戦争」とは「国家テロ」にほかならないのではないか、という疑念が彼らの頭の片隅をよぎることすらない。

昨今、オバマ大統領は、パキスタン、イエメン、アフガニスタン、イラク、イスラム国などで無人機爆撃を展開しているが、その結果地上にどんな惨劇が生じているかが、せめて今回のパリ事件のように大きく報道されるならば、「戦争」と「テロ」が相関関係にある現実が、人びとにくっきりと印象づけられるだろう。今回のパリの死者の場合、私が触れたシャルブのように12人のうち少なくとも5人の風刺漫画家は、写真とともに名前が明示された。アラブ世界のどこかできょうも、米国の無人機からの爆撃を受けて死んでゆく人びとの場合は、名前どころか死者の正確な数が報道されることすら稀だ。この「非対称性」こそが、問題の根源にあることを忘れるわけにはいかない。

(1月10日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[55]四、五世紀の時間を越えて語りかけてくる、小さな本


『反天皇制運動カーニバル』第20号(通巻363号、2014年11月11日発行)掲載

現在のように、あまりに虚偽に満ちた言説が大手を振って罷り通る時代には、これを批判するためには目を背けたくなる言動とも付き合わなければならない。「慰安婦」問題はその最たるものだ。だが、それだけでは心が塞がれる。いしいひさいちの『存在と無知』『フラダンスの犬』『老人と梅』『麦と変態』『垢と風呂』(挙げていくと、きりがない)などの漫画本で気を晴らしたりもするが、気晴らしではない小さな文庫本を幾冊も手元に置いて、落ち着いて読みたくなる。そのうちの数冊からは、拾い読みでも、この耐え難い「現在」を生き抜くうえでの智慧と力を与えられる。歴史の見通し方を教えられる。いずれも幾世紀も前に書かれ、本文だけなら文庫本で百頁にも満たないか、せいぜい200頁程度の小さな書物だ。誰でもそんな本をお持ちだろうが、最近の私の場合について書いてみる。

1冊目は、今までも何回も触れてきた書だが、スペインのカトリック僧、ラス・カサス(1484~1566)の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著は1552年刊、岩波文庫。A5版の単行本だが現代企画室版もある)である。彼はコロンブスの米大陸到達後に行なわれ始めた「征服」の事業に参加し、その行賞で先住民の「分配」にも与かった人物だが、やがて同胞が行なう先住民虐殺や奴隷化の実態に気づき、先住民が強いられている悲惨きわまりない状況を目撃することで、「征服」の批判と告発に晩年を捧げた。ヨーロッパの植民地主義を内部から批判した古典的な書物である。1960年代、米軍がベトナムで繰り広げる虐殺を見ながら、ドイツの作家、エンツェンスベルガーはラス・カサスのこの書を想起した。私たちも刊行から460年近くを経たいま、アフガニスタンやイラク、そして無人爆撃機による攻撃に晒される土地と人びとの現実と二重写しにしながら本書を読むことができる。強者にとっては、昔も今も「植民地は美味しい」のだ。

2冊目は、フランスの思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530~63)の『自発的隷従論』(執筆は1546年あるいは48年と推定、ちくま文庫)である。モンテーニュの友人として知られるラ・ボエシは、16歳か18歳のころの著作と言われる本書で、いつ、どこの世にも圧政がはびこるのに、その下で生きる人びとが忍従に甘んじているのかなぜか、と問い、人間の集団的心理がもたらす倒錯をするどく考察する。これまた、現代日本社会を活写しているかのような生々しい印象を受ける。翻訳版で特筆すべきは、ラ・ボエシの著作に深い示唆を受けていた思想家、シモーヌ・ヴェイユと、南米パラグアイの先住民族社会の在り方を深く研究した政治人類学者、ピエール・クラストル(『国家に抗する社会』水声社、『グアヤキ年代記』現代企画室などの翻訳がある)の掌編が収められていることである。いずれも30歳代の若さで生涯を終えた3人の論考の前に頭を垂れる。

3冊目は、対馬藩で対朝鮮外交に携わった雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』(執筆は1728年と推定。平凡社東洋文庫)である。私は先年、芳洲の故郷=琵琶湖北東岸の町・高月で記念館を訪れた時に、私家版で出ていた本書を入手し読んでいたが、平凡社版は「解読編(読み下し文)」「原文編」及び長文の「解説」から成っていて、読み応えがある。二度にわたる秀吉の朝鮮侵略の傷跡深い17世紀から18世紀にかけて、対朝鮮外交(=交隣)の先頭に立った芳洲が、どんな考えに基づいて何を行なったか、が明らかにされている。芳洲の考えの真髄は、「誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」とする点にある。日朝ともに、ことさらに相手側の非を鳴らすことなく、互いの実態をよく知ったうえで交わるべきだとの論理だが、主観的な国内向けの論理を振り回すのではなく、客観的な国際常識に則った行動をと訴える主要な相手は、もちろん、藩主であり対馬藩全体の人びとだ。朝鮮通信使の受け入れをめぐって起こる困難な事態にもいくつも触れている。秀吉の戦役の際に切り取った朝鮮人の耳鼻を収めた耳塚を「日本の武威を示す」ために通信使に見せようとする役人を厳しく批判する。現在、対韓・対朝外交に当たる者にこの識見あらば! とつくづく思う。

重厚な大著にも大河小説にも、もちろん、よいものはあるが、掌編と言うべきこの3冊の小さな文庫本に漲る歴史意識・論理・倫理に、目を瞠る。(11月8日記)

【追記】エンツェンスベルガ―論文は「ラス・カサス あるいは未来への回顧」といい、現代企画室版『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳=訳)に、田中克彦訳で収められている。

ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』はこちらで。

クラストルの翻訳には、もうひとつ『大いなる誇り』(松籟社刊)がある。「グアラニーの神話と聖歌」についての著作で、私は刊行直後の1997年4月に書評をしているが、このブログに記録されているのは同年後半以降に書いたものなので、ネット上では読めない。『日本ナショナリズム解体新書』(現代企画室、2000年)には収録されている。

ベトナムをめぐって、過去と現在を往還する旅


映画『石川文洋を旅する』公式パンフレット(大宮映像製作所+東風、2014年6月21日発行)掲載

1965年に米国が北ベトナム爆撃を開始してから、来年2015年で50年目になる。半世紀が経つということである。その65年から、解放勢力が占領米軍をサイゴン(現ホーチミン)をはじめ全ベトナム領土からの撤兵にまで追い込んだ75年までの10年間、私はほぼ20歳代の人生を送っていた。当時の私から見て、世界はベトナムを軸に動いているかのようだった。超大国=米国の巨大な軍事力を相手に、貧しい小国=ベトナムのたたかいぶりは際立っていた。南米ボリビアの山岳部で、反帝国主義のゲリラ戦の展開を図っていたチェ・ゲバラは「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」とのメッセージを発した。米国の侵略とたたかうベトナムは、これを支援すべき中国とソ連の対立で悲劇的に孤立しているが、世界各地の民衆が「ベトナムのように」たたかうならば、敵=帝国主義の力は分散され、われわれの勝利の時が近づくのだ、というのがこのメッセージの趣旨だった。世界各地では、ベトナム反戦闘争が激しくたたかわれていた。米ソの対立によって規定された東西代理戦争の枠組でベトナム戦争を意味づける考え方もあったが、それは、第三世界解放闘争の主体性を無視した暴論だと、私には思えた。私は、不可避的なたたかいのさ中にあるベトナムの民衆が軍事的に勝利することを心から願い、祈っていた。75年4月30日、ベトナムは勝利した。蟻が巨象を前に立ちはだかった事実に、世界じゅうが沸き立った。

それから40年が経とうとしている。残酷な時間の流れの中で、65~75年当時には想像もつかなかったことが、ベトナムをめぐって起こった。また、当時のベトナムのたたかい方をめぐって新たな解釈が現われた。いくつかを任意に挙げてみる。米国に対して「盟友国」としてたたかった隣国カンボジアに、ベトナムは軍事侵攻した。同じく「同盟国」中国と、ベトナムは戦火を交わした。それは、2014年のいまなお、西沙および南沙諸島をめぐる領有権争いとして続いている。65~75年当時のベトナムと米国の政治・軍事指導者たちは、1995年からベトナム戦争をめぐる総括会議を開き、互いの政策路線や軍事戦略を検討し合った。これに参加した、当時の米国国防長官、マクナマラは「ベトナム戦争は誤りだった」と『マクラマナ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』(1997、共同通信社)に記した。単一支配政党であるベトナム労働党大会では、党幹部や政府幹部の汚職や職権乱用をいかに食い止めるかが、もっとも重要な議題となって久しい。

磯田光一という文芸批評家は、ベトナムの解放勢力が米国と妥協点を見出し、米国の「占領政策を通じてベトナムの復興を意図したほうが、勝つにさえ値しない戦争に勝つよりも、はるかに賢明だったのでは」と論じた。300万人に及んだ「あの膨大な死者たち」を背景に置きながら。ベトナム戦争の真っ只中で、日本の「国民的な」作家・司馬遼太郎はここまで書いた――戦争は補給如何がその趨勢を決するが、自前で武器を製造できないベトナムは、他国から際限もなく無料で送られている兵器で戦っている。大国は確かによくないが、この「環境に自分を追いこんでしまったベトナム人自身」こそ「それ以上によくない」として、世界中の人類が「鞭を打たなければどう仕様もない」。北ベトナム軍の兵士としてたたかった経験をもつバオ・ニンは、その後作家となり、『戦争の悲しみ』(1997、めるくまーる。現在は河出書房新社)と題する作品を書いた。そこでは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が、戦闘時にとったふるまいのなかには、戦争に疲れ慣れきってしまったがゆえに、他者のことを気遣ったり同情したりする余裕もないままに自暴自棄の行動に走る場合もあったことが、実録風に明かされている。

昨年10月、元ベトナム人民軍ボー・グェン・ザップ将軍の死の報に接した。ディエンビエンフーのたたかいの指揮ぶりや『人民の戦争・人民の軍隊――ベトナム解放戦争の戦略・戦術』(1965年、弘文堂新社、現在は中公文庫)という著作で、忘れがたい印象を残す人物だった。1911~2013年の生涯で、102歳という長命だった。この年号を見てふと思いつき、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユの生没年を調べた。1909~1943年であった。ザップとヴェーユは、少なくとも前半生は同時代人だった。早逝したヴェーユは、最後まで社会革命に心を寄せ、その実現を願いながら、恒久的な軍隊・警察・官僚組織が革命の名の下に永続することへの批判と警戒を怠らない人であった。このふたりの生涯と思想を、同一の視野の中に収め、今後の課題を考えることが重要だと思える。

すぐれた「戦場カメラマン」である「石川文洋」を「旅する」とは、ベトナム戦争がたたかわれていた65年から75年にかけての、この狭い時間軸の中に彼を閉じこめてしまっては、できることではない。映画が描いているように、石川はいまもなお、ベトナムへの旅を続けている。「ベトナムから遠く離れている」私たちも、過去と現在を往還するそれぞれの旅を、万感の思いを込めてなお続けなければならない。