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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団と日本からの協働――歴史観と世界観を共有して


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

ボリビアの映画作家、ホルヘ・サンヒネスらが形成する「ウカマウ集団」の作品は、1980年以降、そのすべてが日本で公開されている。基本的には、非商業レベルの自主上映形式である。国際的には一定の知名度をもつ映画集団であり監督ではあるが、小さな国の映画集団であることを思えば、あまり例を見ないことである。ここでは、そこへ至る過程を述べるものとする。

ラテンアメリカの歴史と文化、実際に行なわれているさまざまな文化表現に関心を持つ唐澤秀子と私・太田昌国が、ラテンアメリカ遍歴の道程でエクアドルに滞在していたのは1975年のことである。ある日、キトの街を散策していると、街頭の壁に貼られた一枚のポスターに気づいた。切羽詰った表情をしたひとりの先住民青年が銃を手に構えている。エクアドルではすでに何万人が観たとか、いくつかの惹句が添えられた『コンドルの血』というボリビア映画の宣伝ポスターであった。この地域を理解する鍵のひとつは、先住民に関わる諸問題だと痛感していた私たちは、その足で会場へ向かった。

衝撃的な作品であった。アンデス先住民の農民がスクリーンで話しているのはケチュア語で、まったく理解はできない。都会の人間が話すスペイン語や米国人の英語の一部が聞き取れるだけだ。だが、物語の筋は十分に見える。とあるアンデスの寒村が舞台だ。結婚したカップルが幾組もあるのに、村ではここ数年子どもの誕生がない。なぜだろう、と訝しく思った首長は、数年前から米国の医療チームが低開発国援助の名の下で診療活動をしている診療所をのぞく。そこでは、地元の若い女性に対して、本人の同意を得ない不妊手術がなされていた。真相を突き止めた村人たちは怒り、医療チームの住み家を襲うが……と物語は展開する。

米国の平和部隊が何らかの理由でボリビアやペルーから追放された1970年前後の出来事は、日本にいた頃に知っていた。明かされた事実の衝撃性もさることながら、見慣れた日本や欧米の映画とは異なるカメラワークなどの映画作法も新鮮だった。会場にはチラシも何もない。係に乞うと、それはないが、映画の監督がいま亡命者としてキトにいるという。私たちの連絡先をおいて、その日は去ったが、翌日逗留先のホテルに現れたのが監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスだった。私たちは映画の感想を語り、広くさまざまなテーマについて語り合った。歴史観や世界観に著しい近さを感じる人たちであった。

その後、亡命先を転々とする彼らと、旅を続ける私たちは、幾度となく会う機会をつくった。コロンビアで、メキシコで。その間に、今までの作品をすべて見せてもらった。ウカマウの作品群は、単にアンデス地域に限定されることのない、広く帝国―第三世界の諸問題を、歴史的・芸術的に提起している優れたものであるとの確信を得た。帰国する私たちに、彼らは一本の16ミリ・フィルムを託した――『第一の敵』。日本での上映の可能性を探ること。それが双方の約束事であった。

1970年代後半、その頃、小国の無名作家の映画を商業公開する可能性はまったくないことが、すぐわかった。自主上映する方針を決め、字幕用の翻訳をはじめとする多くの作業を自力でやることにした。不足する資金は、友人たちから借りた。1980年6月、2週連続の週末4日間、定員400名ほどの会場で6回の上映を行なった。入場者総数2000人。驚くべき数であった。ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死から十数年、まだその記憶が鮮明な時代であった。初公開されるボリビア映画は、ゲリラと先住民貧農の共同闘争をテーマとしているとの情宣を行なったので、それが効いたのかもしれぬ。

東京上映成功の報を聞いて、全国各地から上映計画が寄せられた。名古屋・京都・大阪・那覇・広島・札幌・神戸・仙台・博多・水俣・佐世保――わずか一本の16ミリ・フィルムが全国を旅し始めた。生業を別にもつ私たちは、上映収入から最小限の必要経費(フィルム代・字幕入れ代・チラシ印刷費・会場代など)を落とした残りはすべてウカマウに還元するという方法を原則とした。当時ボリビアは民主化の過程を迎えており、長い間亡命していたサンヒネスらはそのたたかいの過程を記録している時だった。日本からなされる送金が次回作の制作資金の一部となるという、当初からの構想が具体化し始めた。その後数年のうちに、既存の作品はすべて輸入して、次々と上映会を行なった。送金額も順調に増え続けた。5年後の1985一年、次回作を共同制作しないかという提案がウカマウからきて、あらすじも送られてきた。力不足を自覚しつつも同意し、シナリオの検討、資金の調達などに力を尽くした。上映時には入場券となる前売り券を多くの人びとが買って、支えてくれた。数人のスタッフが撮影現場に参加する計画も立てたが、現地の政情不安定ゆえにロケ日程が確定できず、これは不可能だった。

その作品は四年後『地下の民』となって完成をみた。サン・セバスティアン映画祭でグランプリを獲得するほどの優れた作品だった。東京・渋谷の仮設小屋でのお披露目公開では、連日長い行列ができた。その次の作品『鳥の歌』でも一定の共同作業を行なった。シナリオ段階で意見を出し、ほぼ完成状態で送られてきた作品の、一部のストーリー展開や音楽の用いられ方に異見を出した。それらは採用され、手直しされたものが最終的には送られてきた。

サンヒネスは、2000年、私たちの招待で来日した。東京・木曽・名古屋・大阪で「上映と討論」の夕べを開いた。20年間、ウカマウ映画を見続けてきたフアン層の厚みを実感できる集まりとなった。

ウカマウと私たちとの協働作業は、30数年を経た今も続いている。激動の現代史の展開の中にあって、出会いの当初感じた歴史観と世界観の共通性を双方がぶれることなく持続してきたからこその関係性であった、と私たちは考えている。

◎参考文献

太田昌国=編『アンデスで先住民の映画を撮る――ウカマウの実践40年と日本からの協働20年』(現代企画室、2000年)

ドミティーラ『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人びとの物語』(現代企画室、唐澤秀子訳、1994年)

ベアトリス・パラシオス『「悪なき大地」への途上にて』(編集室インディアス、唐澤秀子訳、2009年)

ウカマウ映画集団の軌跡―-先住民族の復権に向けて


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

一時期の世界有数の映画史家ジョルジュ・サドゥールは、映画が製作さえされているならどんな小さな国の映画事情にも触れながら、『世界映画史』を著した(みすず書房)。だが、彼は1967年に亡くなっているから、記述は1964~5年段階までで終わる。ボリビアに関してはわずか7行で、一つの作品も観る機会を持たないままに映画館事情などに触れただけだ。ちょうどその頃、ボリビア映画界の先駆的作家となるホルヘ・サンヒネス(1936~)は、短篇2作をもって登場していた。キューバ革命(1959年)の熱気が、ラテンアメリカ全域を覆い尽くしている時期であった。チリの大学で映画技術を学んだ彼は故国へ戻り、ありのままの映像・音楽・音を用いて、搾取と貧窮に喘ぐ民衆の現実を第1作目の短篇『革命』(1962年)で描いた。続けて、ボリビアに多い、企業が掘り尽くしたと考えて見捨てた鉱山で採掘仕事を単独で行なう労働者の現実を『落盤』(1964年)で描いた。

ボリビアの人口の圧倒的多数を占める底辺の民衆によってこそ受け止められてほしいと作家が願った2作品は、中産階級の一部の良心派の心は衝撃と共に捉えた。だが、貧窮の現実を日々生きている人びとの反応は違った。自分たちのありのままの現実を今さらスクリーンで眺めたところで、どうなるわけでもない。そんな結果をではなく、なぜこうなるのかという原因をこそ知りたい――この反応を知ったサンヒネスは、初の長篇『ウカマウ』(1966年)に新たな気持ちで取り組んだ。妻の暴行・殺害犯であるメスティソの仲買人に対する復讐を長い時間をかけて実現する若い先住民農民の物語である。ティティカカ湖上にある太陽の島を舞台にした物語は、先住民とメスティソのそれぞれの日常生活のあり方を丹念に描くことで、両者の人間関係・自然との関わり方・価値観などを対照的に際立たせた。この社会を分断している人種ごとの「文化」の違いを的確に浮かび上がらせたのである。

ボリビア史上初の長編映画は大評判となり、多くの観客に恵まれた。人びとは、街なかでサンヒネスを見かけると、映画のタイトルそのままに「ウカマウ」と声をかけるようになった。ウカマウとはアイマラ語で、映画の中で何度か使われる台詞だが、「そんなものよ」をといった感じの意味である。監督がひとり際立つ映画作りではなく集団制作を企図していたサンヒネスらは、「ウカマウ」を集団名とすることにした。

長篇第2作『コンドルの血』(1969年)と第3作『人民の勇気』(1971年)は、当時の社会・政治状況を分析したウカマウが、第三世界が強いられている従属構造は国内支配階級とその背後にいる帝国主義によってつくり出されていると考え、それをテーマにした作品である。前者は、米国が後進国援助の名の下で行なっている医療活動において、人口爆発・食糧不足を危惧する医療チームがアンデスの先住民女性に対して本人の同意もなしに強制的な不妊手術を行なっている事実を告発した。後者は、1967年ボリビアでたたかっていたゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する行動を計画していた鉱山労働者や都市の活動家の動きが、それを察知した政府軍によって未然のうちに鎮圧される過程を、生存者の証言に基づいて、セミ・ドキュメンタリー風に描いた。演じるのは常に、素人の農民や鉱山労働者だ。こう書くと、単なるプロパガンダ映画のように響くかもしれないが、物語の構成やカメラワークその他の映画的要素がそれに堕すことを防いだ。現実の社会では最下層に位置づけられている先住民族が、スクリーン上で自らの母語で語り、物語の主役として登場する姿も、先住民族差別が制度されているにひとしい社会の中にあって画期的なことだった。ウカマウ映画は、国の内外でその存在感を高めるようになった。

1971年クーデタで軍事政権が成立し、従来のような表現は許されない時代に入った。今までの作品の上映は不可能になり、ウカマウのフィルムを所持していること自体が罪とされた。サンヒネスは活動の場を、アジェンデ社会主義政権が成立したチリに移した。70年代を通して続く亡命時代の始まりである。1973年、チリでも軍事クーデタが起こり、逮捕を免れたサンヒネスは辛うじてペルーへ逃れた。ペルーでは『第一の敵』(1974年)を、次に亡命地エクアドルでは『ここから出ていけ!』(1997年)を制作した。アンデス諸国に共通の先住民族の母語、ケチュア語による作品である。前者では、ゲリラとアンデス農民の反地主共同闘争の行方が描かれた。60年代のペルーで実際にたたかわれたゲリラ闘争の指導者が獄中で書いた総括の書に基づいた脚本であったが、それはボリビアで1967年に敗北したチェ・ゲバラたちの闘争を彷彿させる内容だった。後者では、資源開発を狙う多国籍企業の尖兵となった宗教集団がアンデスの先住民農民社会に食い込み内部崩壊を導く過程と、それへの抵抗運動の芽生えを描いた。いずれも、現地の農民・映画関係者・大学などから、国境を超えた協力が得られてこそ可能になった作品だった。ウカマウが企図する「先住民族の復権」という思想が「集団的創造」を通して実現した、最も典型的な例として、サンヒネス自身が回顧する二作品である。

1980年代初頭、ボリビアでは民主化を求める民衆運動が高揚する一方、軍部も繰り返しクーデタを試み、混沌たる情勢となった。サンヒネスらは出入国を繰り返して、この過程をドキュメンタリーとして描いた。『ただひとつの拳のごとく』(1983年)はこうして生まれた。十数年ぶりにボリビアに落ち着いて、制作・上映活動ができる時代となった。内外の「敵」を真正面から捉えて行なってきた60~70年代の制作活動をふり返り、新たな時代に向き合う方法を探る過程で生まれたのが『地下の民』(1989年)である。都市で働く一アイマラ青年の半生をたどりながら、先住民としてのアイデンティティの危機という問題を、現実の重層的な社会構造とアンデス先住民の神話的な世界もまじえて描いた、広がりのある作品である。それまでの作品も、各種国際映画祭で高い評価を得てきたが、『地下の民』は89年度サン・セバスティアン国際映画祭でグランプリを受賞した。

文字通り、ウカマウ集団=ホルヘ・サンヒネスの代表作というべき作品となった。

その後も、『鳥の歌』(1995年)、『最後の庭の息子たち』(2003年)などの作品を通じて、過去を内省的にふり返り、あるいは新たに生まれてくる情勢をいかに捉えるかという必然的なテーマをめぐっての模索が続いている。この間、ボリビアには先住民大統領が誕生した。デジタル機材の浸透によって、映画を取り巻く技術的な環境も激変している。ウカマウ集団は今後どこへ向かうか。興味は尽きない。

◎参考文献

ホルヘ・サンヒネス+ウカマウ集団=著『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』(三一書房、太田昌国訳、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『第一の敵――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『ただひとつの拳のごとく――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1985年)

太田昌国の夢は夜ひらく[34]銃を「内面化」した社会と、銃の放棄を展望する運動


『反天皇制運動モンスター』第35号(2013年1月15日発行)掲載

昨年の暮れも押し詰まった12月14日、米国東部コネティカット州の小学校を現場にした銃の乱射事件は26人の犠牲者を生んだ。その多くは子どもであった。そのため「クリスマスを目の前にして」という情緒的な反応も含めて、日本でも大きく報道された。オバマ大統領も直ちに記者会見を行なったが、途中で声を詰まらせ涙を浮かべる様子も、事細かに報じられた。大統領は、銃規制の方針を打ち出しているが、もちろん、これに反対する銃ロビー団体=全米ライフル協会(NRA)の動きもあって、前途は予断を許さない。

それにしても、この光景を何度見てきたことだろうか。私の世代なら、60~70年代にベトナムの戦場に派遣されていた帰還兵が、次々と引き起こした乱射事件を思い起こす。生まれついての軍人ではなかったどこにでもいる若者が、兵士になってアジアの人間に対する人種差別意識に基づいた殺人訓練を受けたのちの数年間を戦場で過ごし、やがて帰国できたとしても、彼はもはや、かつて市井に生きていたころの彼ではない。彼は、自らが他国の戦場にいて揮った無制限の暴力を自国へ持ち帰るほかないのである。そのことを、ダグラス・ラミスは「戦争が帰ってくる」と、的確にも名づけた。

今回事件を引き起こした人物は元軍人ではないようだ。だが、3億丁の銃がひしめくと言われる米国社会である。「銃の所有は開拓以来の自主独立精神の象徴だ」とするNRAの主張が、むごい乱射事件が起きたときだけ「銃規制派」に中途半端に転向するオバマ的な人物を含めた広範な人びとの支持をふだんは受けているからこそ、この現実が生まれていると解釈すべきであろう。オバマは、確かに、城内秩序を乱した実行者には怒りを見せ、いたいけな犠牲者を悼んでみせた。同時にオバマは、この同じ銃を、否、殺人能力にはるかに長けたミサイルや無人爆撃機を、「反テロ戦争」の名の下にアフガニスタンやパキスタンやイエメンのような城外では使うことをきょうも指令し続けているのである(つい先日まではイラクでも)。銃を何の疑問も持たずに使用することは、あの社会の人びとの中で、価値として「内面化」しているのだ。「内」で起こった殺人事件に涙を流したその日にも、「外」に向けては殺戮指令を出す人物の偽善性は、そんな社会にあっては、経済合理性に基づいた主張を持つ銃規制反対勢力の現実性を前に、膝を屈するしかない。

その米国と国境を接して南に位置するメキシコからの、二つのニュースに注目したい。ここ数年は麻薬をめぐる暴力事件が絶えることはない。麻薬の最大の消費国=米国があってこそ、それに付け入ったマフィアが、コロンビア、ペルー、ボリビア、パナマなどを原産国および経由国として利用してきたのだが、昨今はその最前線がメキシコに移動したようだ。けだし、米国の暴力性は軍事面にのみ現れるのではない。経済的な消費=供給構造を規定する力にも如実に現われる。だが、ここではメキシコ南東部に目を移して、そこからのメッセージに注目したい。マヤ歴に基づいて「世界終末の日」と騒がれた12月21日、高度消費社会の人間たちが好奇心に駆られて、「過去」としてのいくつものマヤ遺跡の周辺に群がった。同じ日、チアパス州で「現在」を生きるマヤの末裔たちは、4万人から5万人とも言われる老若男女の塊となって、主要五都市の中心広場を沈黙の裡に占拠した。全員が黒の目出し帽を被っていた。19年前に、グローバリゼーションの趨勢に異議申し立てを行ない、武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)の自主管理区に住まう人びとの群れであった。沈黙の広場占拠と行進によって、19年間に及ぶ持久的なたたかいの現状を表現する象徴的な行為であった。武器は捨てて、政治=生活=文化の全領域でこそたたかいを継続したいというその路線を端的に表現したものであった。マルコス副指令の短いメッセージは言う。「関連するひとびとへ 聞こえただろうか? これは君たちの世界が崩壊する音だ。我らの世界が復興する音だ。その日はかつて日中でも夜であった。そして、夜という日は、いつか日が明けるのだ。民主主義! 自由! 正義!」。いかにもサパティスタらしい修辞ではある。

銃の意味を徹底して考えることを放棄している米国社会。武装蜂起はしたが、当初から武器と戦争のない未来社会の夢想を公言していたサパティスタ――去る12月中旬の二つの対照的なニュースは、いずれも深く示唆的であった。(1月12日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[29] 都市ゲリラであった大統領のリオ演説の波紋


反天皇制運動『モンスター』31号(2012年8月7日発行)掲載

テレビはあまり見なくなったが、7月末のある日、どこかのチャンネルが、雨宮処凛と毛利嘉孝をスタジオに招いて、首相官邸前の原発再稼働反対デモをめぐる討論番組を放映することを知って、何気なく点けたままにしておいた。当世の番組だから、観ている誰でも、ツイッターで意見を寄せることができる視聴者参加型番組である。官邸前デモについては、いずれ触れる機会もあるだろう。きょうの話題は別だ。主要なテーマが終わって、「今週ツイッターでもっとも注目度が高かったテーマ一覧」というパネルが出て、一位から十位までのテーマが並んだ。他のテーマはひとつも頭に残っていないが、八位の「ムヒカ大統領演説」という文字だけが、私の目に跳びこんできた。その後の番組の流れの中では、1位か2位のテーマについての説明がなされたが、テーマも中身も覚えていない。

私は1年前からツイッターにはまっているが、その数日前に、私の「フォロワー」が紹介していたムヒカ演説を読んで、それを日本語で読むことができるウェブサイトを紹介し、ムヒカなる人物についての簡潔な情報を伝えたばかりであった。日本のマスメディアではまったく報道されていないムヒカ演説が、ツイッターの世界では次々と転送されて、テレビ番組が放映する「週間ベストテン」に入っていること–―そのことへの、新鮮な驚きが私にはあった。メディア状況は、それほどまでに、劇的な変化を遂げつつあることをあらためて実感したのである。

ムヒカとは、ホセ・アルベルト・ムヒカ・ゴルダノ(1935~)、南米ウルグアイの大統領である。2009年の選挙で当選し、2年有余前の2010年3月、大統領に就任した。話題となっている演説は、6月末にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」で行なわれた。翻訳は、ラテンアメリカに住む日系青年たちが運営するNikkei Youth Network のサイトにアップされたのだが、この原稿を書いている時点では接続不能なので、それをフォローした以下を挙げておく(ユーチューブで、生演説も視聴可能)→http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/archives/1706023.html

(これも接続不能な場合は、「ムヒカ演説」で検索できよう)。

演説内容は、しごく簡明――リオ会議は「持続可能な発展と世界の貧困をなくす」ことを目的とした会議だが、無限の消費と発展を求めてきたのが私たちであることを顧みるなら、残酷な競争によって成り立つ消費資本主義社会が孕む問題を放置したまま、共存共栄の論理を語ることは不可能。問題の本質は、環境危機ではなく、問題の本質に向き合わない政治危機なのだ、と要約できよう。

この演説がネット上で熱い共感を呼んでいるのは、昨今の首相や大統領には珍しい「論理」と「倫理」を兼ね備えた内容が、ここにあるからだろう。私がツイッター上で付け加えたのは、ムヒカの「前歴」である。1960年代から70年代初頭にかけて、ウルグアイでは反体制都市ゲリラ「トゥパマロス」が活発に行動していた。トゥパマロスは、その政治的倫理の高さと作戦活動のめざましさで、一時代を画した。ムヒカはそのメンバーで、何度も逮捕された。しかし、彼は二度も脱獄した。獄外の仲間が、刑務所に近い家屋の床下から牢獄へ向けてトンネルを開通させ、それを伝って脱走したのである。1972年の軍事クーデタ後に徹底した弾圧を受けた。辛うじて生き延びたメンバーの一部が、民主化の過程以降、政党を結成し、政治の世界に進出した。そのような人物を、およそ40年を経て一般選挙で大統領に当選させるウルグアイ民衆の政治的・社会的「成熟ぶり」が眩しい。ある時代に、信念に基づいて法を犯した者が、刑期を終えてのち、社会的に復権することを保証している人びとの「寛大さ」に打たれるのである。その人物が77歳のいま、40年の時間を超えて持続していたゲリラ時代の初志を大統領として国際会議で披歴し、その演説を貫く理想主義に、およそ政治家なるものへは不信感しか持たない他地域の人びとが感銘を受けている。

ツイッターを含めたネット世界での「精神的交通」、侮るべからず。そう、思った。

(8月4日記)

キューバの「週刊ニュース」の現代的な意義


「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」カタログに掲載

私が小中学校の子どもの頃――1950年代前半から後半にかけて――映画を観にいくと、本編に先だって必ずニュース映画が上映された。そのころ住んでいたのは北海道東部だったが、札幌のような都会へ行くと、ニュース映画専門の映画館があった。一時間足らずの時間のうちに、数週間分のニュース映画を上映するのである。時間潰しにも役立ったが、テレビが普及していない頃のことだから、ラジオと新聞でしか知らない国外と国内の出来事に映像と共に接することができることは、大変な魅力であった。生まれた時には当たり前のようにテレビがあり、いまやパソコンや携帯によっても映像ニュースに接することができる若い世代の人びとには、当時の私たちが持っていた、ニュース映画に対する焼けつくような飢餓感など、想像もつかないかもしれない。

私はその後1970年代半ばの数年間をラテンアメリカで過ごした。東西冷戦真っ只中の時代で、社会主義国キューバを包囲・封鎖するために、米国が支援して多くの国は軍事政権下にあったから、どの国も政治的許容度は厳しかった。私が一番長く滞在したメキシコは、相対的には自由で、多様な書物・映画・演劇・コンサート・講演会などに接することができた。キューバ映画をよく観た。『低開発の記憶』や『ルシア』なども忘れ難いが、ドキュメンタリー作品が強く印象に残った。革命勝利の年(1959年)の直後から、キューバでは20世紀初頭から半世紀以上に及んだ米国による政治的・経済的支配を断ち切るための諸政策が次々と実施された。濡れ手で粟の利権から排除された米国は反撃に出た。革命をつぶすための武力侵攻さえ試みられた――私はこれらの事実を文字面では知っていたが、キューバのドキュメンタリー作品を観ると、映像を伴っているわけだから情報量が格段に増えた。刺激的であった。

社会革命が成就した直後には、価値観の変革や新しい型の人間と才能の開花が見られ、それが文化面での活性化をもたらすことは、ロシア革命後のロシア・アヴァンギャルドの動きを通して知っていた。キューバの映画事情に詳しくはなかったが、革命が勝利した1959年まではハリウッド映画が市場を独占し、自前の映画人が輩出できる可能性がきわめて少なかったであろうことは容易に推察できた。だから、革命直後の1960 年や61 年の事態を、的確なカメラワークで撮影し、訴求力のある一つの作品としてまとめ上げる力に――しかも、それは1、2の作品に留まるものではなかったから、心底感心したのだった。

調べてみれば、革命後のキューバ映画を牽引することになる監督トマス・グティエレス・アレアとフリオ・ガルシア・エシピノサは、アルゼンチンのフェルナンド・ビリーやコロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスと共に、1950年代半ばにローマの映画実験センター(チェントロ)に学んだこと、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は革命勝利からわずか2ヵ月後の1959年3月に設立されたこと――などが分かってきて、キューバにおいて新しい映画表現が生まれてくる根拠も、それを制度的に保証する態勢も、確固として見えてきたのだった。

今回山形映画祭でその一部の上映が予定されているNoticiero ICAIC Latinoamericanos (字義どおりの訳では「ICAICラテンアメリカ・ニュース」だが、週ごとに制作されたので、以下では「週刊ニュース」と略記する)もそのときメキシコで観たかと問われると、覚束ない。35年以上も前のことで、記憶があいまいなのだ。しかし、その後ドキュメンタリー作品――例えば『革命』『ヒロン』『モンカダはなぜ?』――としてまとめられた作品を観ると、確かにメキシコでの既視感のある印象的なシーンがいくつか使われているように思われたから、ある程度は観たのかもしれない。

ある程度――と書いて、ふと立ち止まる。「週刊ニュース」は、1960年から1990年までの30年間にわたって、1493本も制作されているのである。平均時間は10分である。You Tubeからダウンロードされた23本と、関わったスタッフが「週刊ニュース」作りを回顧しているDVDなども鑑賞したが、総量から見れば、私が観ることができた作品はきわめて少ない。したがって、以下において「週刊ニュース」の意義を論じることには限界があるが、本文末尾に記す文献資料なども参考にしながら、できる限りのことを試みてみる。

先に触れたように、ICAICが創設されたのは革命の年=1959年であった。映画は「もっとも強力で示唆的な芸術表現の手段であり、教育のためのもっとも直接的な牽引車である」と位置づけられていた。「週間ニュース」が制作され始めたのは翌年からだが、世界的には家庭へのテレビの普及によって、ニュース映画が役割を終えていく時代と重なっていた。革命直後のキューバではテレビは庶民には高嶺の花であったことに加え、何よりも欧米メディアに独占されてきたニュース報道に代えて、自前の媒体を持つ必要性を革命指導部は感じたのだろう。制作された「週刊ニュース」は60本のコピーが作られた。それは全国500の常設館と、400の移動映画館で上映された。『はじめて映画を観た日』(オクタビオ・コルタサル監督、1967年、10分)を思い起こしてみても、とりわけ自家発電機を備えた上映グループが辺鄙な村に訪れて映画を上映したときの、子どもたちや大人の驚きや喜びの深さには、想像がつくというものだろう。

「週刊ニュース」の作品リストを眺めると、監督サンティアゴ・アルバレスの名が圧倒的に目立つ。この記録の、文字通りの創始者であるが、彼は医学・哲学・文学・心理学などを大学で修めた知的人物ではあったが、映像表現の訓練はまったく積んでいなかった。にもかかわらず、40歳のときに「週刊ニュース」の監督を引き受けた。周囲のスタッフにも、経験者はひとりもいなかった。だが、映画批評家ドレック・マルコムによれば、サンティアゴ・アルバレスの仕事ぶりは「迅速で、機材も、ふつうの映画人なら時代遅れだといって拒否するような代物だった。にもかかわらず彼は、ニュース映画としても、宣伝媒体としても、輝かしい即興的な映像表現としても、いまだに乗り越えられることのない一連のフィルムを60年代から70年代にかけて制作したのである」。

すでに触れたように、「週刊ニュース」はキューバ革命初期の記録映像として、きわめて重要であり、優れてもいた。米国系企業の国有化、銀行国有化、反革命軍のヒロン湾侵攻とこれの撃退戦、米国によるキューバ産砂糖買い付け量の削減と、これに対する米国市民の抗議デモ、ミサイル危機――リストからは、このようなテーマが取り上げられたことを知ることができる。もちろん、国内ニュースだけに特化していたわけではない。サンティアゴ・アルバレスらのチームは30年間に90ヵ国以上の国々を歴訪し、68年パリ五月革命、68年プラハの春、米軍のグレナダ侵攻などの歴史的な記録も撮影した。とりわけ、ベトナム報道には並々ならぬ力を入れたから、米国の侵略に抵抗したベトナム民衆が勝利した決定的な瞬間を撮影するなど、世界的にみても貴重な映像もある。また、コンゴ解放闘争への参与を企図してコンゴに滞在していた時期のチェ・ゲバラ(1965・4~11)の映像もあるようだが、現代史の価値ある証言記録であろう。加えて、ラオスやイエーメンのような知られざる小国の取材も重視した。これは、小国キューバの映画人であるという自覚なしには生まれ得なかったような視点であったのかもしれない。

私が視聴できた「週刊ニュース」のなかには、キューバの庶民の生活事情に関わるテーマもある。食料品などの物不足、住宅不足、ゴミ処理問題など、庶民にとっては切実で、身近な問題である。従来の社会主義社会では、指導部批判に繋がる表現が厳しい制約を受けるのが常であった。生活にまつわる諸問題は、直接的には「政治」や「イデオロギー」に関わる地点までは射程が届かない場合がある。仕事を迅速に進めないとか、たらい回しにするなどの官僚制の問題が見えてくる程度である。したがって、観た限りでは率直な取材や問題提起がなされているように思える。だが、キューバ革命の内実をいくらか詳しく知る者にとっては、革命当初から、ソ連型社会主義の諸方式をキューバへ持ちこもうとする内外の勢力と、ある段階以降のチェ・ゲバラのようにそれに疑問と批判を持つ人びともいて、両者の間では激しい論争も展開されていたわけだし、1967~68年の大転換期(ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死、カストロがソ連軍のチェコ侵攻を支持する演説を行なったことに象徴される)以降はソ連一辺倒の路線が定着してもいた。文学者の、革命から「逸脱」した表現が弾圧されることもあった。カストロは当初から、「革命の中ならすべてOK、外ならだめだ」と語ってきた。それを判断するのは誰なのか、についての説明はなかった。直接的に「政治」や「イデオロギー」の領域に関わるこれらの問題に関して、「週刊ニュース」の制作者たちは、体制に無批判的に寄り添うことなくどこまで切り込むことができたのかということは、今後の解明を待つ課題として残ることになる。

「週刊ニュース」が1990年で断ち切られたのは、キューバの経済事情によるものであった。あらゆる物資不足が目立つようになり、電力事情も悪化した。停電が繰り返された。人びとの生活を維持するための優先課題とは言えない映画制作は、ニュース映画も含めて、予算を切られた。ICAICにしてみれば、新作制作どころか、貴重なフィルムを良好な状態で保存すること自体が危機にさらされた。電力不足は、フィルム保存に重要な貯蔵庫の温度管理・湿度管理を不可能にし、複製・修理・修復などの作業をも麻痺させたからである。

この時期を見計らうかのように、「週刊ニュース」は、2009年、ユネスコの世界記憶遺産に認定された。記憶遺産といえば、今年、日本からも初めての認定を受けたものがあったが、それは、筑豊に生きた炭鉱夫画家・山本作兵衛(1892~1984)が描き遺した千点以上にも上る作品群であった。鉱夫たちが従事する鉱山労働の様子や日常生活のあり方をつぶさに描いた、無名と言っていい画家を取り上げたことを知って、私はユネスコもなかなかやるものだ、と思った。その後、この原稿を準備する過程で、キューバの「週刊ニュース」もすでに世界記憶遺産に認定していたことを知って、その見識のほどをいっそう再認識したのである。

キューバは革命後の半世紀有余の間、その人口数と国土面積の小ささからすれば信じがたいほどの存在感を世界に示してきた。K・S・カロルの言葉を引けば、キューバは「世界を引き裂いている危機や矛盾を集中的に体現」しており、「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかなる小さな動揺に対しても、まだどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」(K・S・カロル『カストロの道』、読売新聞社、1972年)。映画「週刊ニュース」は、まぎれもなく、20世紀後半の、キューバと世界の鼓動を、このような位置から伝える映像メディアであった。それは、「低開発」を強いられる小国が担う事業としては、奇跡的なまでの達成度を示したことを、中立的機関=ユネスコも認めざるを得なかったのである。

【参考文献】

Jorge Fraga, “Cuba’s Latin American Weekly Newsreel :Cinematic Language and Political Effectiveness”, in The SOCIAL DOCUMENTARY in LATIN AMERICA, ed. Julianne Burton, University of Pittsburgh Press, 1990.

Memory of the World Register: Original Negatives of the Noticiero ICAIC Latinoamericano ( Cuba), Ref No 2008-41, UNESCO

【追記】キューバ映画については、「NFC(東京国立近代美術館フィルムセンター)ニュースレター」2004年4~5月号にも、「ラテンアメリカ現代史の中のキューバ映画」を寄稿している。→http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2004/lcuba.html

映画『光、ノスタルジア』を観るために――チリ近現代史素描


『光、ノスタルジア』プレス資料+山形映画祭カタログなどに掲載

チリは、他のラテンアメリカ諸国と同様に19世紀初頭にスペインから独立した。小麦などの農産物に加えて銅と硝石の鉱山物資源が豊富で、いずれも19世紀末にかけての主力の輸出品となった。したがって、地主、大鉱山主、大商人などが力を蓄えた。ただし、銅と硝石の主要な産地は、映画『光、ノスタルジア』の舞台でもあるアタカマ砂漠地域なのだが、そこは、スペインからの独立の過程にあってはタラパカ地域がペルー領、アントファガスタ地域はボリビア領となっていたこと、チリがそのいずれに対しても領有権を主張し、そのために太平洋戦争(1879~83)を引き起こしたこと、それに勝利することでチリが新たに獲得したのがアタカマ砂漠一帯であることは、頭に入れておきたい。その後の19世紀末に世界的な硝石ブームが起こり、多くは英国資本の手にあったとはいえ、チリも莫大な収入を得たのである。

輸出によって経済力を蓄えた階級に加えて、支配階級に加わった社会層がふたつあった。ひとつは、国境紛争戦争を戦い抜き、植民地時代から支配層への執拗な抵抗を止めない先住民族=マプーチェ人への掃討作戦にも従事した軍部である。もうひとつは、国教としてのカトリック教会である。これらが一体となって、強力な少数支配階級を形成した。表面的には物質的繁栄を謳歌しながらも、貧農や都市貧民、鉱山労働者、先住民族は打ち捨てられていたから、貧富の差は激しかった。

主要産業が鉱業であるということは、鉱山労働者による労働運動が強力に展開されることをも意味した。前世紀末以来の硝石ブームに沸く1907年、劣悪な労働条件に苦しみ続けてきた北部の鉱山労働者たちは大規模なストライキに訴え、イキーケのサンタ・マリーア学校に寝泊まりしていた。これを鎮圧するために軍隊が派遣され、発砲によって3600人の労働者が虐殺された。これは「イキーケのサンタ・マリーアの虐殺」事件と呼ばれ、チリ社会の癒しがたい記憶となって、後世にまで語り継がれるものとなった。

その後、1917年ロシア革命の刺激などもあって、労働立法の制定をめぐっては、歴代政府と労働組合の間で、熾烈な攻防があった。20年代から30年代にかけては、他の諸国と同様に、共産党、社会党なども結成され、30年代後半には両党も参加して人民戦線政権が成立したことすらあった。

第二次世界大戦を経て1950年代も末になると、チリ社会には三大政治勢力が成立した。地主と大資本グループから成る旧来からの保守的支配層を基盤とする保守党・自由党。中小資本の経営者や公務員などの中間層に支えられ、修正資本主義を主張するキリスト教民主党。社会主義を志向する労働者や農民を支持基盤とする共産党・社会党――それぞれ、保守・中道・左翼を代表する3大勢力である。左翼の台頭を警戒して、保守・中道は連携する機会が多かったが、60年代にはキリスト教民主党政権が成立した。しかし、農地改革に手を付けて保守党の反発を買い、経済政策の失敗で左翼から厳しい批判を受けた。

1970年の大統領選挙は、チリ史上で見ても、世界的な意味からいっても、画期的な結果となった。50年代から何度も左翼統一候補として大統領選に立候補してきた社会党のサルバドール・アジェンデが当選した。世界史上はじめて、選挙によって社会主義政権が成立したのである。それはまた、1959年革命以来米国による一貫した孤立化策動にさらされてきたキューバが、ラテンアメリカという同一域内に友邦国を得たことを意味した。米国から見れば、米国の支配に抵抗する「第2のキューバ」の登場を阻止し得なかったのである。

アジェンデ政権は、銅産業の完全国有化、農地改革、銀行の国家管理、大企業への国家の介入などの改革政策を実施した。保守層と中間層は激しく反発した。銅企業を無償接収された米国もこれに報復し、援助を停止した。反対勢力に膨大な資金を与え、「不安定化」工作を煽った。1973年9月11日、陸海空三軍が軍事クーデタを起した。アジェンデ社会主義政権は、3年間で終わった。新たに成立したピノチェト政権はアジェンデ派を徹底的に弾圧した。映画『光、ノスタルジア』が描くアタカマ砂漠の強制収容所はその象徴である。他方、米国のテコ入れで新自由主義経済政策を全面的に採用した。それは貧富の格差を放置したまま、外国資本と国内特権層の利益を尊重する道であった。ピノチェトによる治世は1990年まで続いた。いま「ピノチェト以後」の時代を生きるチリの人びとは、「恐怖」が支配した軍事政権時代が遺した負の遺産を克服し、新自由主義路線によって混乱の極致におかれていた経済社会のあり方を変革する途上にあると言えよう。

(9月9日記)

アンデス史の広がりと深みに迫る作品 ――ペルー映画『悲しみのミルク』について


あいち国際女性映画祭2011パンフレットに掲載

主人公の女性ファウスタの母親は、住まいのある山岳農村部が、政府と反政府ゲリラが激しい暴力で応酬し合う中心地になったとき、何者かに凌辱された。殺された夫のペニスを口に突っ込まれるほどの辱めも受けた。これは、5世紀前ヨーロッパ人がやってきて、集団的な強姦を含めた暴力によってこの地が征服されたという、先住民族にとっての癒しがたい記憶に繋がるものでもある。苦しみと哀しみを歌にして、母は死んだ。娘は、母が体験した苦しみが母乳を通して娘に伝わると信じるアンデス山岳民である。男たちからわが身を守るために、膣にジャガイモを埋め込んでいる。ジャガイモは生きていて、花が咲き、葉が茂る。ときどき、それを切り落とさなければならない。それは、下劣な男からわが身を守る盾であり、社会に対してわが身を閉ざす蓋でもある。

ファウスタはいま、叔父一家を頼りに首都郊外のスラムに住む。農村を離れざるを得なかった人びとが、首都の片隅でひっそりと、だが楽しげに送る日常生活の描写には見どころが多い。物語の背後には、いくつもの大事な要素がちりばめられている――母と娘が話す先住民族の母語=ケチュア語。その母語を話す庭師にはおずおずながら心を半ば開くがスペイン語の発語が容易にはできないファウスタの心のわだかまり。山岳民の土着的な信念。原産地であることからジャガイモが彼女たちの食と生活の中で果たしている重要で象徴的な役割。エリート的な都市住民を象徴する白人ピアニストの利用主義と裏切り。

これらの背景を読み取ることができれば、この映画の広がりと深みが並々ならぬものであることが理解できよう。可憐な花をつけたジャガイモの苗が、庭師から贈り届けられる最後のシーンからは、これから主人公が歩みだすであろう方向への想像も及ぼう。

『悲しみのミルク』とは意訳で、原題に忠実に訳すと『怯えた乳房』とでもなるだろう。

追記:映画祭は、2011年9月7日~11日 会場ウィルあいち

『悲しみのミルク』上映は、9月8日(木)午前10時から、大会議室。

問い合わせは専用電話 052-962-2512

歴史の中のシモン・ボリバル


静岡芸術劇場2011年7月公演パンフレット掲載

静岡芸術劇場に通う演劇フアンにはおなじみのオマール・ポラスが演出・出演する「シモン・ボリバル、夢の断片」は、元来は、ポラスの故国コロンビアの建国200周年を記念して、2010年に制作された作品だ。今回の静岡公演は、やむを得ない事情から、初回公演とは構成が変更されるが、シモン・ボリバル (1783~1830年) という歴史上の人物が物語の軸をなすことに変わりはない。ここでは、「建国200周年」という用語からわかる、2世紀前のコロンビアを初めとするラテンアメリカ諸国独立の過程、そこでシモン・ボリバルが果たした役割、そしてボリバルの「夢」が奇しくも実現しつつあるかにも思える形でラテンアメリカ地域に展開されている同時代の動きを簡潔にスケッチしてみよう。

1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、以後「征服」の時代が始まる。コロンブスの航海を経済的に支えたのはスペイン女王だったが、そのスペインは、ポルトガルが征服したブラジル以外の、現在ラテンアメリカと呼ばれる地域のほぼ全域を植民地化したのである。植民地時代は、ほぼ3世紀もの長きにわたって続いた。その間、ピラミッド型の人種別社会階層構造が強固に形成された。最上位からいうと、スペインから来た白人 (ペニンスラーレス)、アメリカ大陸生まれの白人 (クリオーリョ)、白人と先住民の混血 (メスティーソ)、先住民族 (インディオ)、そしてアフリカから奴隷として強制連行された黒人という序列構造である。

3世紀という時間幅は長い。植民地権力は腐朽する。イギリス、フランス、オランダなどの後発のヨーロッパ列強が台頭して、膨大な利益が得られる植民地貿易に参入したり、領土争奪戦に加わったりする。ピラミッド型社会構造の最下層で徹底した抑圧と差別の下に苦しんできた先住民族と黒人が反乱を起こす。それらが顕著な動きになったのが、18世紀末から19世紀初頭にかけてだ。1780年、現ペルーの一角で、先住民族による反植民地主義反乱「トゥパック・アマルの反乱」が起こった。1804年、フランス領になっていたカリブ海の島でも黒人反乱が起こり、鎮圧のために派遣されたナポレオンの軍隊を打ち破って、そこは世界初の黒人共和国=ハイチとして独立した。指導者の名をとって「トゥサン=ルーヴェルチュールの反乱」として知られるこの黒人蜂起は、1789年のフランス革命と無関係に起きたのではない。フランス革命の精神を伝える書物や、ルソー、ヴォルテールなどの啓蒙思想の著作も、厳しい検閲を逃れながら、スペイン領アメリカに入ってくる。

そんなさなかの1783年、シモン・ボリバルは、現ベネズエラのカラカスに生まれた。クリオーリョの富裕な、屈指の「名家」の出身である。軍人だった父親も、教育熱心だった母親も早くに亡くしたボリバルは、叔父のもとで育ったが、家庭教師として就いた自由主義者、シモン・ロドリゲスの影響は、後年のボリバルが形成されるうえで決定的だった。植民地政府への反抗心を持つロドリゲスから、自由、平等、共和国などについての基本的な概念を学び取る機会となったからである。16歳で本国スペインへの旅に出た。貴族の娘と出会い結婚してカラカスへ戻ったが、翌年妻は他界した。名家に生まれた経済的特権を享受しながら、早々に両親と妻を失うという個人的な不幸が、ボリバルのその後の運命を定めた。

ヨーロッパ列強の角逐が続くなか、1805年、スペイン・フランスの連合艦隊はイギリス海軍に大敗した。イギリスに取り入ろうとするスペインの動きを見て、1807年ナポレオンはスペインを侵略した。本国スペインの弱体化の機会を捉えて、ラテンアメリカ各地では独立運動が活発になった。1810年コロンビアの独立宣言、1811年ベネズエラの独立宣言は、その端緒をなした動きである。だが、スペインとの独立戦争はこの後でこそ激化する。ベネズエラ解放軍司令官となったボリバルの活躍は、ここから目覚ましい。一時的敗北やジャマイカへの亡命も経験しながら、1819年コロンビアを解放、同年ベネズエラ、コロンビア、エクアドルから成るグラン・コロンビア共和国形成、1821年コロンビア、エクアドルの全面解放、1824年ペルー解放などの戦いで主導的な役割を果たした。1825年に解放されたアルト・ペルー地域は、南米諸地域の独立戦争におけるボリバルの戦功に因んで、国名をボリビアとしたほどである。現在のメキシコ、およびアルゼンチン、ウルグアイ、チリなどの諸地域でも、同じ時期に独立戦争が戦われて、その目的が成就された。

ボリバルが抱いていた夢は、北はメキシコから、南はアルゼンチンやチリまで、独立したラテンアメリカ諸国が単一の共和国連合として統合されることであった。グラン・コロンビアはその萌芽として構想された。メキシコの北に存在する米国がモンロー宣言を発して (1823年)、ヨーロッパ列強をアメリカ大陸から排除した米国中心の勢力圏構想を打ち出していただけに、ヨーロッパから自立し、同時に米国とも対抗しうるボリバル構想の意義は小さくはなかった。だが、その内部ではやがて、理想からはかけ離れた権力欲に根差す対立が深まるばかりだった。構想は瓦解し、部下の裏切りもあって、ボリバルは失意のうちに47年間の生を終えた。

ベネズエラ独立運動の担い手が独立後も奴隷制の維持を目指すような人びとであることを知った黒人は反乱を起こしたが、そのときボリバルは「非人間的で凶暴な人間たちである……黒人の革命」と表現するような価値観の持ち主だった。ペルー解放直後にボリバルが、農地所有制度の再編や先住民族保護の名目で発した法令は、クリオーリョ支配層の既得権を奪うものではなく、したがって、先住民族は相変わらず過酷な搾取にさらされることとなった。その意味では、ボリバルが主導した独立革命はあくまでも白人=クリオーリョ主体であって、その恩恵に浴することのなかった膨大な社会層が取り残されたことは見ておく必要があるだろう。

それが、今からおよそ200年前のラテンアメリカ独立をめぐる状況であった。ボリバルの単一共和国構想が実現しなかったラテンアメリカ地域は、急速に大帝国となっていく米国のさまざまな影響下におかれることとなった。それは、20世紀現代史でも貫かれた。とりわけ、キューバ革命が勝利した1959年以降は、ソ連圏対米国圏という東西冷戦構造に巻き込まれることになった。しかし、キューバを敵対的に包囲していた軍事政権体制が全域で崩壊し、ここを席巻していた新自由主義経済秩序による負の遺産を克服しようとする政権と民衆運動が広範に登場している現在、状況は大きく変わった。米国の影響力を排除したうえで、各国間の相互扶助・連帯・協働による自主的な地域連合を形成し、貧困削減・天然資源擁護をめざそうとする動きが具体化している。そこでは、ときに、ボリバルの構想との繋がりが強調されている。200年前のボリバルの未完の企図を、現在に生かそうとする人びとが存在しているのである。

オマール・ポラスと同郷の優れた作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスは『迷宮の将軍』(新潮社)においてボリバルを描いた。「解放者」(リベルタドール)として溌溂たる行動に従事している時期ではなく、失意の晩年を主軸に据えた作品だった。この人物の偉大さも、卑小さも浮かび上がる秀作だ。マルケスのこの作品を知らぬはずはないオマール・ポラスが、どんなボリバル像を打ち出すのか。その日の舞台を待ち望むばかりである。

太田昌国の夢は夜ひらく[11]遠くアンデスの塩湖に眠るリチウム資源をめぐって


反天皇制運動機関誌『モンスター』第12 号(2011年1月11日発行)掲載

昨年12月、ボリビアのエボ・モラレス大統領が日本政府の招待で来日した。朝日と日経の二紙が経済面の大きな紙面を割いて、この訪問を報じた。同国には、東京都の6倍の面積を持つウユニ塩湖があり、その地底には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムが眠っている。携帯電話、パソコン、デジカメ、電気自動車、ハイブリッド車など現代文明の象徴というべき製品を動かす電池に、リチウムは欠かせない。その共同開発について協議するための来日である。

2006年に大統領に就任して以来、モラレスは国内にあっては「互恵と連帯を基盤にした共同体社会主義」を掲げて、諸施策を実行してきた。対外的には、帝国主義と植民主義を排して石油と天然ガスを国有化し、そこで得られた収益を子どもと老人に優先的に還元する福祉政策も実施した。リチウム開発に関しても、外国の技術を必要とはしているが、それがかつての銀や錫のように国内への経済的還元もないままに外国に持ち出されるだけだという不平等交易にならぬよう、細心の方針を立てることができるだろうか。中国、韓国、イラン、フランス、日本など、リチウムを求めてボリビアと密接な関係を結ぶ熱意を示している各国の側にも、対等・平等な交易関係樹立に向けての姿勢が問われるところである。因みに、昨夏訪韓したモラレス大統領は、「韓国とボリビアはともに植民地支配される痛みを経験していることで、信頼し合える」という趣旨の発言をしている。資本主義の獰猛な本質に、敢えて目を瞑ったリップサービスだったのだろうか?

近代化が困難な環境問題を伴うことは、今や自明のことだ。マルクスも注目した16世紀に始まるポトシ鉱山からの富の収奪構造に長いこと縛られてきたボリビアは、現政権の下で「母なる大地の権利法」を定めたばかりだ。国際社会に環境債務の存在を認めることを求め、母なる大地の権利と共存しうるかつ有効な形での環境技術の提供や資金供与を求めること/2カ国間・域内諸国間・また多国籍機関において、母なる大地の権利の承認と擁護を進めること/母なる大地を対象物としてではなく、公益の集団的主体としての性格を認めること――などを定めている。これが、開発に参与するであろう外資の、資本主義的衝動の放埓さをよく制御し得るか、が問題である。

前世紀末以降のここ十数年来は、反グローバリズムの最前線に立つラテンアメリカ地域だが、新自由主義が猛威をふるっていた頃この地域に浸透したモンサント社などの多国籍企業が行なってきた事業の結果は、今でこそ、恐るべきものとして現出している。遺伝子組み換え大豆の栽培と枯葉剤の散布によって、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイなどで不妊・流産・癌・出生異常などのケースが急増していることがアルゼンチンの科学者によって明らかになった(11年1月6日「日刊ベリタ」www.nikkanberita.com)。ウユニ塩湖で、今後なされるリチウム開発の行方が、国際的に監視されるべき理由である。

日本資本主義の意向を反映せざるを得ない大メディアが、ボリビアのような「小国」のニュ-スを取り上げるのは自国経済の浮沈に関わる限りでしかないことは、ありふれた風景だ。だから、この情報封鎖の壁を破って、ボリビアが右の「権利法」の精神を国際社会に根づかせるための努力を行なっていることを、私たちは知っておくことが必要だ。

紙幅の都合でひとつだけ挙げよう。国連気候変動枠組み条約締結国会議は、09年にはコペンハーゲンで(COP15)、10年にはメキシコ・カンクンで(COP16)開催された。コペンハーゲン合意の水準に危機感を抱いたボリビア政府は、同国NGOとも組んで、10年4月、同国の都市コチャバンバで「気候変動および母なる大地の権利に関する世界民衆会議」を開いた。世界中から数万人が集まった会議では、国家指導者が集まる国際会議とは異なり、貧者の意思を体現した「合意文書」が発表された(現在、編集・翻訳中)。

危惧もある。モラレス政権は、イランの協力を得て原子力発電所建設を検討している。ボリビアとイランに共通する「抗米」の意思表示としての意味はともかく、電力不足解消の名目があるにしても「母なる大地」は原発に耐えられるかという問い直しが、近代主義的マルクス主義の超克をめざしていると思われるモラレスだけに、ほしい。(1月7日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[9]メディア挙げての「チリ・地底からの生還劇」が描かなかったこと


反天皇制運動機関誌『モンスター』第10号(2010年11月9日発行)掲載

チリ・コピアポの鉱山で生き埋めになった鉱山労働者33人の救出作業は、テレビ的に言えば「絵になる」こともあって、世界じゅうで大きく報道された。

地底で極限状況におかれた人びとがそれにいかに耐えたか、外部の人間たちが彼らの救出のためにどんなに必死の努力をしたか。それは、どこから見ても、人びとの関心を呼び覚まさずにはおかない一大事件ではあった。

メディアの特性からいって、報道されることの少なかった(すべてを見聞できたわけではないから「皆無だった」と断言する条件はないが、気分としては、そう言いたい)問題に触れておきたい。

メディアが感動的な救出劇としてこの事件を演出すればするほど、北海道に生まれ育った私は、子どもの頃から地元の炭鉱でたびたび起きた坑内事故と多数の死者の報道に接していたことを思っていた。

九州・筑豊の人びとも同じだっただろう。事故が起こるたびに、危険を伴なう坑内労働の安全性について会社側がどれほどの注意をはらい、対策を講じてきたのか、が問われた。

鉱山労働者の証言を聞くと、身震いするほど恐ろしい条件の下での労働であることがわかったりもした。

一九六〇年――「60年安保」の年は、石炭から石油へのエネルギー転換の年でもあった。九州でも北海道でも閉山が続いたが、「優良鉱」だけはいくつか残された。

当時の世界の最先端をゆくと言われていた「ハイテク炭鉱」北炭夕張新炭鉱で、今も記憶に鮮明な事故が起こったのは一九八一年十月であった。

坑内火災を鎮火するための注水作業が行なわれたのは、59人の安否不明者を残したままの段階であった。

「お命を頂戴したい」――北炭の社長は、生き埋めになっているかもしれない労働者の家族の家々を回り、こういう言葉で注水への同意を得ようとした。「オマエも一緒に入れ!」と叫んだ人がいた。

結局亡くなったのは93人だった。翌年、夕張新鉱は閉山した。他の炭鉱も次々と閉山して、炭鉱を失った夕張市が財政破綻したのは四年前のことである。私の目に触れた限りでは、10月14日付東京新聞コラム「筆洗」がこれに言及した。

遠いチリの「美談」の陰から、 近代日本がその「発展」の過程で経験したいくつもの鉱山での人災を引きずり出せたなら、すなわち、一人の絵描き・山本作兵衛か、一人の物書き・上野英信の感性を持つ者が現代メディアにいたならば、問題を抉る視点はもっと確かなものになっただろう。

チリ現地からの報道では、救出される労働者をカメラ映りの良い場所で迎える大統領セバスティアン・ピニェラについての分析が甘く、「演出が鼻につく」程度の表現に終始した。

現代チリについて想起すべきは、まず一九七〇年に世界史上初めて選挙による社会主義政権が成立したこと、新政権下での銅山企業国有化などによってそれまで貪ってきた利益を剥奪された米国政府・資本がこれを転覆するために全力を挙げたこと、その「甲斐あって」一九七三年に軍事クーデタを成功させ社会主義政権を打倒したこと、の三点である。

さらに、21世紀的現代との関連では、軍政下のチリがいち早く、いま世界じゅうを席捲している新自由主義経済政策の「実験場」とされたことを思い起こそう。

貧富の格差が際立つチリ社会にあって、社会主義政権下と違って、社会的公正さを優先した経済政策が採用されたのではない。

外資が投入されて見せかけの繁栄が演出された。経済秩序は、雇用形態・労働条件・企業経営形態などすべての面において、チリに暮らす民衆の必要に応じてではなく、米国や国際金融機関が描く第3世界戦略に沿って組み立てられたのである。

現大統領ピニェラの兄、ホセ・ピニェラは、軍政下で労働相を務め、鉱業の私企業化と労働組合の解体に力を揮った。

新自由主義経済政策は国外からの投資家に加えて、国内の極少の経済層を富ませるが、ピニェラ一族はまさに、世界に先駆けてチリで実践された新自由主義的政策によって富を蓄積し、鉱業・エネルギー事業・小売業・メディア事業などに進出できたのだった。

もちろん、そこでは、労働者の安定雇用・労働現場の安全性を含めた労働条件の整備などが軽視されていることは、日本の現状に照らして、確認できよう。

救出された労働者を笑みを浮かべて迎えた大統領の裏面を知れば、チリの今回の事態も違った見え方がしてこよう。

(11月5日記)