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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ映画集団の軌跡―-先住民族の復権に向けて


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

一時期の世界有数の映画史家ジョルジュ・サドゥールは、映画が製作さえされているならどんな小さな国の映画事情にも触れながら、『世界映画史』を著した(みすず書房)。だが、彼は1967年に亡くなっているから、記述は1964~5年段階までで終わる。ボリビアに関してはわずか7行で、一つの作品も観る機会を持たないままに映画館事情などに触れただけだ。ちょうどその頃、ボリビア映画界の先駆的作家となるホルヘ・サンヒネス(1936~)は、短篇2作をもって登場していた。キューバ革命(1959年)の熱気が、ラテンアメリカ全域を覆い尽くしている時期であった。チリの大学で映画技術を学んだ彼は故国へ戻り、ありのままの映像・音楽・音を用いて、搾取と貧窮に喘ぐ民衆の現実を第1作目の短篇『革命』(1962年)で描いた。続けて、ボリビアに多い、企業が掘り尽くしたと考えて見捨てた鉱山で採掘仕事を単独で行なう労働者の現実を『落盤』(1964年)で描いた。

ボリビアの人口の圧倒的多数を占める底辺の民衆によってこそ受け止められてほしいと作家が願った2作品は、中産階級の一部の良心派の心は衝撃と共に捉えた。だが、貧窮の現実を日々生きている人びとの反応は違った。自分たちのありのままの現実を今さらスクリーンで眺めたところで、どうなるわけでもない。そんな結果をではなく、なぜこうなるのかという原因をこそ知りたい――この反応を知ったサンヒネスは、初の長篇『ウカマウ』(1966年)に新たな気持ちで取り組んだ。妻の暴行・殺害犯であるメスティソの仲買人に対する復讐を長い時間をかけて実現する若い先住民農民の物語である。ティティカカ湖上にある太陽の島を舞台にした物語は、先住民とメスティソのそれぞれの日常生活のあり方を丹念に描くことで、両者の人間関係・自然との関わり方・価値観などを対照的に際立たせた。この社会を分断している人種ごとの「文化」の違いを的確に浮かび上がらせたのである。

ボリビア史上初の長編映画は大評判となり、多くの観客に恵まれた。人びとは、街なかでサンヒネスを見かけると、映画のタイトルそのままに「ウカマウ」と声をかけるようになった。ウカマウとはアイマラ語で、映画の中で何度か使われる台詞だが、「そんなものよ」をといった感じの意味である。監督がひとり際立つ映画作りではなく集団制作を企図していたサンヒネスらは、「ウカマウ」を集団名とすることにした。

長篇第2作『コンドルの血』(1969年)と第3作『人民の勇気』(1971年)は、当時の社会・政治状況を分析したウカマウが、第三世界が強いられている従属構造は国内支配階級とその背後にいる帝国主義によってつくり出されていると考え、それをテーマにした作品である。前者は、米国が後進国援助の名の下で行なっている医療活動において、人口爆発・食糧不足を危惧する医療チームがアンデスの先住民女性に対して本人の同意もなしに強制的な不妊手術を行なっている事実を告発した。後者は、1967年ボリビアでたたかっていたゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する行動を計画していた鉱山労働者や都市の活動家の動きが、それを察知した政府軍によって未然のうちに鎮圧される過程を、生存者の証言に基づいて、セミ・ドキュメンタリー風に描いた。演じるのは常に、素人の農民や鉱山労働者だ。こう書くと、単なるプロパガンダ映画のように響くかもしれないが、物語の構成やカメラワークその他の映画的要素がそれに堕すことを防いだ。現実の社会では最下層に位置づけられている先住民族が、スクリーン上で自らの母語で語り、物語の主役として登場する姿も、先住民族差別が制度されているにひとしい社会の中にあって画期的なことだった。ウカマウ映画は、国の内外でその存在感を高めるようになった。

1971年クーデタで軍事政権が成立し、従来のような表現は許されない時代に入った。今までの作品の上映は不可能になり、ウカマウのフィルムを所持していること自体が罪とされた。サンヒネスは活動の場を、アジェンデ社会主義政権が成立したチリに移した。70年代を通して続く亡命時代の始まりである。1973年、チリでも軍事クーデタが起こり、逮捕を免れたサンヒネスは辛うじてペルーへ逃れた。ペルーでは『第一の敵』(1974年)を、次に亡命地エクアドルでは『ここから出ていけ!』(1997年)を制作した。アンデス諸国に共通の先住民族の母語、ケチュア語による作品である。前者では、ゲリラとアンデス農民の反地主共同闘争の行方が描かれた。60年代のペルーで実際にたたかわれたゲリラ闘争の指導者が獄中で書いた総括の書に基づいた脚本であったが、それはボリビアで1967年に敗北したチェ・ゲバラたちの闘争を彷彿させる内容だった。後者では、資源開発を狙う多国籍企業の尖兵となった宗教集団がアンデスの先住民農民社会に食い込み内部崩壊を導く過程と、それへの抵抗運動の芽生えを描いた。いずれも、現地の農民・映画関係者・大学などから、国境を超えた協力が得られてこそ可能になった作品だった。ウカマウが企図する「先住民族の復権」という思想が「集団的創造」を通して実現した、最も典型的な例として、サンヒネス自身が回顧する二作品である。

1980年代初頭、ボリビアでは民主化を求める民衆運動が高揚する一方、軍部も繰り返しクーデタを試み、混沌たる情勢となった。サンヒネスらは出入国を繰り返して、この過程をドキュメンタリーとして描いた。『ただひとつの拳のごとく』(1983年)はこうして生まれた。十数年ぶりにボリビアに落ち着いて、制作・上映活動ができる時代となった。内外の「敵」を真正面から捉えて行なってきた60~70年代の制作活動をふり返り、新たな時代に向き合う方法を探る過程で生まれたのが『地下の民』(1989年)である。都市で働く一アイマラ青年の半生をたどりながら、先住民としてのアイデンティティの危機という問題を、現実の重層的な社会構造とアンデス先住民の神話的な世界もまじえて描いた、広がりのある作品である。それまでの作品も、各種国際映画祭で高い評価を得てきたが、『地下の民』は89年度サン・セバスティアン国際映画祭でグランプリを受賞した。

文字通り、ウカマウ集団=ホルヘ・サンヒネスの代表作というべき作品となった。

その後も、『鳥の歌』(1995年)、『最後の庭の息子たち』(2003年)などの作品を通じて、過去を内省的にふり返り、あるいは新たに生まれてくる情勢をいかに捉えるかという必然的なテーマをめぐっての模索が続いている。この間、ボリビアには先住民大統領が誕生した。デジタル機材の浸透によって、映画を取り巻く技術的な環境も激変している。ウカマウ集団は今後どこへ向かうか。興味は尽きない。

◎参考文献

ホルヘ・サンヒネス+ウカマウ集団=著『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』(三一書房、太田昌国訳、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『第一の敵――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『ただひとつの拳のごとく――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1985年)