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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[85]PKO法成立から25年目の機会に


『反天皇制運動 Alert』第12号(通巻394号、2017年6月13日発行)掲載

1992年6月、PKO(国連平和維持作戦)法案が成立した。今から、ちょうど、25年前のことである。法案審議が大詰めを迎えた攻防の日々には、ほぼ連日、国会の議員面会所なるところへみんなで出かけていた。野党議員の報告を聞き、「激励」するのである。私は、ソ連の体制崩壊と同時期に進行したペルシャ湾岸戦争(1990~91年)の過程でこの社会に台頭した「国際貢献論」(クウェートに軍事侵攻したイラクの独裁者フセインに対して、世界が挙げて戦おうとしている時に、この地域で産出する石油への依存度が高い日本が憲法9条に縛られて軍事的に国際貢献ができないのはおかしい、とする考え方)を批判的に検討しながら、戦後期は新しい時期に入りつつあると実感した。「反戦・平和」の意識を強固にもつ人は少数派になった、と思わざるを得なかったのである。

自衛隊の「海外派兵」の時代を迎えて、これを監視し、包囲するメディアとして『派兵チェック』が創刊されたのは1992年10月だった(2009年12月、200号目が終刊号となった)。このかん実施されたPKOへの自衛隊の参加実態は以下の通りである。

カンボジア(92年9月~93年9月)

モザンビーク(93年5月~95年1月)

ゴラン高原(96年2月~13年1月)

東ティモール(02年3月^04年6月)

ネパール(07年3月~11年1月)

スーダン(08年10月~11年9月)

ハイチ(10年2月~13年1月)

東ティモール(10年9月~12年9月)

南スーダン(12年1月~17年5月)

去る5月27日、南スーダンに派遣されていた陸自施設部隊第11次隊40人が帰国した。国連南スーダン派遣団司令部への派遣は来年2月末まで続けられるが、部隊派遣は現状ではゼロとなった。当初は、自衛隊が軍事紛争に関与することなく「中立性」を保つための5原則が定められた。「紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者のPKO受け入れ同意、中立性の維持、上記の減速が満たされない場合の撤収、武器の使用は必要最小限度」である。前記年表からわかるように、南スーダン派兵が開始されたのは、民主党・野田政権時代である。民主党も海外派兵の流れに乗るだけだという政治状況を示しているのだが、当時はまだしも、道路建設などに従事し、紛争当事者間の停戦合意が成立した治安情勢が安定している国であることが、派兵の前提になっていた。だが、まもなく、安倍晋三が政権に復帰した。2015年9月に制定された安保法制=戦争法によって、自衛隊は任務遂行のためには武器使用が可能となって、「交戦主体」へと変貌した。

陸自の「日報隠し」にもかかわらず、南スーダン派遣部隊の任地=ジュバでは、2016年7月、「対戦車ヘリが旋回」したり、「150人の死者が発生」したりする事態が生まれていた。この時の状況を詳しく検証したNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」(5月28日放映)によれば、次のことがわかっている。(1)政府軍と反政府勢力との銃撃戦は自衛隊宿営地を挟んで行なわれた。砲撃の衝撃波で自衛隊員はパニックに陥り、「今日が私の命日になるかもしれない」と手帳に記した者もいた。(2)近くの宿営地のルワンダ軍は銃撃戦からの避難民を受け入れた。政府軍はそこを砲撃し、バングラデシュ軍が応戦した。避難民は自衛隊宿営地にも流れ込み、警備隊員には「身を守るために必要なら撃て」との指示が下されていた。帰国した派遣隊員の言葉を通して、「宿営地内のコンテナ型シェルターに何度も避難した」こと、「平穏になっても1ヵ月以上も宿営地外で活動しなかった」ことがわかる。

安倍政権は、南スーダン派遣部隊が「現地の住民生活の向上」に寄与した、とその成果を誇っている。だが、昨年11月、南スーダン自衛隊部隊は、戦争法に基づいて、「宿営地の共同防衛」や「駆け付け警護」(救助のために武器をもって現場に駆け付ける)任務を付与されていた。これが実際には行なわれなかったことは、上に見た状況からいって、「不幸中の幸い」でしかなかった。

「反戦・平和」派が一見して少数派になっているとしても、軍隊(国軍)の存在と戦争(国家テロ)の発動に馴致されないこと――そこを揺るぎない場所に定めたい。 (6月2日記)