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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

追悼・小田原紀雄さん


『救援』第546号(救援連絡センター、2014年10月10日発行)掲載

私が小田原紀雄さんともっともよく付き合ったのは、1980年代から90年代にかけての時期だったろうか。たとえば、1987年、東アジア反日武装戦線のメンバーに最高裁で死刑確定判決が出ることは必至と思われた時機を選んで、ひとりの仲間が抗議のハンガー・ストライキを行なおうとした。街角や公園を使っての行動が厳しく制限されている日本では、訴えを行なう適切な場所を見つけることが、なかなかに難しい。小田原さんが智慧を出したのだろう、外部にはあまり目立たない場所だが、西早稲田のキリスト教団内の敷地を使ってはどうか、ということになった。それがきっかけになってのことだったか、それまでは千駄ヶ谷、代々木上原、代々木八幡などの公共施設の会議室を取っては行なっていた、私が参加していたさまざまな運動体の会議は、ほとんどが教団施設を使うようになった。小田原さんがメンバーのひとりとして担っていたキリスト教団社会問題委員会の計らいである。

時代状況はその後すぐ、天皇代替わり、PKO(国連平和維持作戦)法案、それに基づいた自衛隊の海外派兵などへの抗議・反対の連続行動の時期へと移っていく。いくつもの課題に関わっていると、夜になると週に何度も教団通いをするという破目に陥っていた。私(たち)はキリスト者でもないのに、である。小田原さんともひっきりなしに会っていたのは、その頃からである。1993年からは、さらにもう一つの要件が加わった。首都圏に住むアイヌの人びとが、自分たちが自由気ままに集い、使うことのできるたまり場をつくりたいが、それには料理店がよいと思うので、それを設立するのを手伝ってくれないか、と私が依頼された。数年前から、先住民族としてのアイヌの権利を確立するためのいくつかの動きを私たちは展開していた。その枠を軸に、周辺で同じ問題意識を持つと思われる人たちに声をかけて、「アイヌ料理店をつくる会」を創設したのだが、そこでも協働することになった小田原さんの発案で、煩雑な事務作業をこなさなければならない事務局を教団においた。短期日の間に全国各地からカンパが素早く寄せられ、設立準備期間は一年足らずで終えたが、領収書発送などの事務作業は大変だったと思う。

そのアイヌ料理店「レラ・チセ」は、1994年5月に、キリスト教団の建物から近くの地下鉄駅に向かう途中の場所で開店した。すぐにお客がつくのは難しいかもしれないから、せめて諸々の市民運動団体がひっきりなしに会議で使う教団近くに立地を求め、会議から流れた客を迎えよう、つまりは自分たち自身が客になろうという考えだった。敗戦50年に当たる翌年1995年に向けての活動も始まったから、その当時は、週の過半の夜を小田原さんともどもそこで過ごした。「レラ・チセ」の運営は、お店で働くアイヌの人びとに私たち和人(シャモ)も加わって、行なった。仕入れ、献立、料金体系、スタッフの勤務時間割、待遇、全体的な収支をはじめ、複雑な人間関係などもすべて、その運営会議で討論した。私はいちおう代表者のようにふるまわなければならなかったので、難しい局面になると、小田原さんの低い声での発言に助けられた。

このような社会運動での現場とは別に、小田原さん独自の世界をもっている人でもあった。近隣の中高年の女性と日本古典の読書会をしているということを、楽しげに話す場面に何度か居合わせた。古典の読み方をめぐっての爆笑物のエピソードもあったように思うが、その中身は忘れてしまった。講師をしている塾の子どもたちに同行するサマー・キャンプの様子も楽しげに、よく語っていた。そんな異質な世界から得られたに違いないエネルギーを、小田原さんは社会運動に返していたのかもしれない。加えて言うなら、小田原さんが話す「キリスト業界」の内輪話も、その世界には無縁な私には面白かった。

21世紀に入って以降、活動する場が違い過ぎて、小田原さんと顔を合わせることはほとんどなくなった。2001年「9・11」以後は、私が行なう発言への「違和感」を他人を介して伝えてくるようになった。「9・11」の実行行為者たちが追い込まれていた、切羽詰った状況を客観的に理解できたとしても、「解放」の理念を逸脱しているその行為は肯定できないとした私に対して、小田原さんは、「帝国」内に生きる自分たちに、追い込まれた第三世界の人間の行為を批判できるものか、との思いを秘めているものらしかった。私にとっては、東アジア反日武装戦線の三菱重工ビル爆破の「過ち」を、行為者たちと共に克服していく作業の途上で必然的に行き着いた道だったが、小田原さんが感じたらしい、私への「違和感」をめぐって討論する機会は、彼の早すぎる死によって、永遠に断ち切られてしまった。

かくなるうえは、小田原さんとの〈想像上の〉対話を続けていくしか、ない――2014年8月23日、小田原さんの訃報を、「信原孝子さんを偲ぶ会」を終えた直後に聴いて、私は、そう、こころに誓った。

(9月25日記)