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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ペルシャ湾岸への掃海艇派遣(1991年)から集団的自衛権容認(2014年)への道


『インパクション』誌196号(2014年8月29日発行)掲載

いわゆる集団的自衛権の行使なるものを閣議決定で容認するという動きが山場を迎えた6月30日夜、私は首相官邸前に立ち尽くしていた。仕事を終えて現場に着いたのは18時過ぎだったが、それから23時近くまでのほぼ5時間、立っていた。暑いさなか迂闊にも飲み水も持たず、空腹と疲れをまぎらす甘味も持っていなかった。だが、渇きも飢えも疲れも感じることもなく、立ち尽くした。私がいた官邸前から、六本木坂へ下る坂の両側の舗道には人があふれ、一時は、双方の人びとが警官隊の壁を越えて合流する寸前にまでいった。それは、原発事故後の2012年6月某日の同じ現場で、膨れ上がった人の勢いが警備の警官隊も警備車両も押し出して、両側の歩道と車道全体を抗議する人びとが占拠したあの事態を再現できるか、という寸前までいった。2年前の夜にしても、その後なにか劇的な事態の展開があったわけではない。さらに首相官邸に近づこうとする動きも一部にはあったが、20時を過ぎるとともに「予定の時間がきたので、今夜は解散しましょう」という「主催者」の言葉がマイクを通して響きわたったのだった。主催者がそう言っています、という警備の警察側からの慇懃無礼な呼び掛けの言葉が、それに続いた。解散に不満を持つ者も、身動きもままならない人びとの渦の中で、その大きな流れに身をゆだねるしかなかった。それでも、人びとには、ある目的をもって「広場」を占拠したときにおぼえる「感動」が心身にしっかりと刻み込まれたであろうと、私の個人的な体験に基づいて推定しても、それほど突飛なことではないだろう。その心身の記憶が、いつか「時を捉えた」機会にこそ、役立つのだ。世界史上で見ても、「広場」に集まった万余の群衆が、我/彼の間に通常は広がる実力の差を乗り越えて、歴史の大いなる転換点を画する行動を生み出した例は少なくない。

2年後のその夜、集団的自衛権行使容認策動に反対して集まっていた人の数は、2年前の反原発行動の夜と比較すると、決定的に少なかった。歩道の左右両翼から人びとが合流する寸前に、警官隊が規制に入ると、それを押し返すだけの力はなかった。生活があり、仕事もあるから、人びとは誰もがいつでも、国会前や首相官邸前に詰めかけるわけにもいかない。私とて同じだ。それにしても、迫りくる事態の決定的な節目の日であることを思えば、集まった人の「少なさ」の理由には正面から向き合いたいと思った。現場で幾人もの友人、知人に会った。そのひとりが言った。いま国会前で、ぼくの友人に会ったら、20年ほど前のPKO反対闘争のとき、宣伝カーの上から太田さんがやった演説を思い出すね、と言っていましたよ、と。

私もちょうど、この夜の首相官邸前の人の数の「少なさ」を、1992年の国連平和維持作戦(PKO)法案反対闘争のときの「少なさ」と比較したらどんなものだろうか、と考えていた。22年前の5月から6月にかけて法案審議の最終段階を迎えて、私たちは連日のように、議員面会所に通っては、共産党や(その時はまだ存在していた)社会党の議員から審議の状況報告を聞いていた。議会内抵抗勢力の数も脆弱になってはいたが、反戦・平和を求める外の大衆運動に人びとが大勢集まる時代ではなくなっていた。内では学生運動は壊滅状態になって久しく、戦後の一時期政治闘争にも取り組んだ総評は解体されていた。外では、東欧・ソ連の社会主義圏が次々と体制崩壊に至り、多少なりとも反体制運動の軸となっていた社会主義の理念は、少なくとも客観的には、地に堕ちていた。そこに起こったフセインのイラクによるクェート侵攻から湾岸戦争へと至る過程の中では、世界各国が挙げて「独裁国」への戦争を行っているとき、これに参加すべきであるという「国際貢献論」がこの社会では台頭していた。その結果、前年の1991年に、ペルシャ湾岸の機雷除去を名目として海上自衛隊の掃海艇が派遣されていた。さまざまな理由が重なり合って、民衆運動の活力は目に見えて衰えていた。

6月4日、いつものように国会に向かおうとする、さして大勢でもない私たちは、立ち塞がる機動隊に押しまくられて日比谷公園までの後退を余儀なくされた。三々五々、社会党本部のある社会文化会館に再結集した私たちは、そこで抗議集会を開いた。某氏の発案で、発言を要請された私は、ハッタリに満ちた国会議員の挨拶や、「PKO反対闘争は60年安保闘争を越えた」という労組幹部の発言や、デモの隊列のそこここでいまだに叫ばれている「護憲」や「平和憲法を守れ」というシュプレヒコールへの違和感も顕わに、要旨次のように述べた。――掃海艇の派遣に続けて、さらに自衛隊の海外派兵を公然化するPKO法案によって憲法9条が決壊しようとしているこの時に、護憲派の人びとにせよ、「平和憲法を守れ」などとは口が裂けても言えない私たちにせよ、合わせてもこれほどのまでの少数派になって、ここにいる。ここに至る過程と、今回顕わになっている事態が何を意味するかを考え抜いて、今後の共同闘争の可能性と不可能性を考えたい。

労組や党派の人びとが集っている塊のあたりから、激しいブーイングが起こった、と記憶している。思い返せば、この時点こそが、戦後史が大転換を迎えたときであった。「国際貢献論」なるものは、次のような「論理」を展開した――侵略者フセインの暴挙を前に、国連安保理決議に基づいて多国籍軍が編成され、各国の軍隊が汗を流し血も流して、「悪の権化」たる独裁者と戦っている時に、憲法9条の存在を理由に日本は自衛隊を現地に派遣できなかった。その代わりに、せめて米国の戦費負担を行なって、130億ドルを供出はした。だが、これではまるで、現金自動支払機の役割を果たしたに過ぎず、国際政治の現場からすれば、卑怯者と見做されるような屈辱的な事態である。ソ連なき時代の「国際貢献」の在り方に関して、大胆な発想の展観が必要である。

これは、主として、対米交渉の矢面に立っていた外務官僚の口から発せられたと記憶している。この「湾岸戦争トラウマ」を抱えた外務官僚たちが、今回の集団的自衛権行使容認なる決定を、閣議決定のレベルで行なうという暴挙の背後にいたことは想像に難くない(例えば、7月7日付け『東京新聞』の「こちら特報部」を参照)。彼らからすれば、「戦争ができる国」が「ふつうの国」であり、すでに触れた「1991年/掃海艇をペルシャ湾岸に派遣」「1992年/成立した国際平和協力法に基づいて、陸上自衛隊施設部隊をカンボジアに派兵」を実現した後は、「ふつうの国」になるために、次の「略年表」に見られるような動きを着実に積み重ねてきたのである。(新聞各紙及び『週刊金曜日』6月13日号などを参照)

1999年/周辺事態法成立→戦争を発動した米軍を日本が「後方支援」できるよう法制化。

2001年/テロ特措法成立→インド洋に派遣された海自艦船が、米英などの艦船に洋上給油を行ない、実質的に参戦。

2004年/イラク特措法成立→〈人道復興支援〉の名目の下、イラクに9600人の陸海空自衛隊員を投入。

2005年/「日米同盟:未来のための変革と再編」発表→日米安保条約に基づいて米軍が在日の基地を利用できるのは「極東」における事態に対して、と限定してきた枠を取り払い「世界における課題に効果的に対処する上で」と改編。「極東」が「世界」に拡大したのだ。

2007年/自衛隊法改訂→「専守防衛」路線が実質的に放棄され、自衛隊の性格は根本的に変化した。

2009年/海賊対処法成立→ソマリア沖での「海賊対処のための海上警備」の口実の下で海自護衛艦を同沖に派遣。ソマリアの隣国=ジプチには、戦後初の自衛隊海外基地が建設された。

こうしてみると、集団的自衛権の行使容認に向けた策動を、現政権の特異な性格にのみ帰して理解することは、これまでの経緯と異なることがわかる。米国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダなど「G7」を日本と共に構成している国々は、例外なく「戦争ができる国」としてふるまってきており、それと同じレベルに並ぶことに価値を見出す者(勢力)たちは、長い時間をかけて、「現在」に向けた努力を積み重ねてきたのである。この経緯の中では、見逃すことのできない重大な変化が、民心内部に起こっている。それは、海外資産が年間予算を凌駕するようになった日々でもあり、米国に倣うように、海外の権益を守るためには軍隊の力に頼るしかないという意識が、人びとの中に浸透したということである。冷戦構造が今なお続いているかのような東アジアの緊張に満ちた政治・軍事状況も、人びとの「国防意識」に火をつけた。自らを省みることのない夜郎自大なナショナリズムに席捲された社会状況になっている以上、これに対する歯止めは利かない。

集団的自衛権行使容認が閣議決定されるという7月1日、その前夜の出来事に学んだ警備当局は、官邸前の坂道の片側の歩道を「立ち入り禁止地域」とした。抗議のために集まった人びとは、総理府を囲む四方の歩道に封じ込められ、「広場」に集まったときの一体感を持てないままに、「個」に孤立化させられた。

どこを見ても、楽観的な展望を語り得る状況ではない。私たちに求められることは、歴史的な経緯の中で事態を捉えることだ。現在の事態の依って来る由縁にたどり着くことがない限り、適切な対処法が見つかるはずもないのだから。(2014年8月3日記)