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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[51]「自発的服従」の雰囲気の中で


『反天皇制運動カーニバル』第16号(通巻359号、2014年7月8日発行)掲載

新聞を読むのが怖くて、見たくないものを見るように、そうっと開く。「集団的自衛権の行使容認を閣議決定する」動きに抗議するために人びとが詰めかけた首相官邸前で、久しぶりに会った友が、そう言った。この一年間くらいか、私も同じ気持ちで日々を送ってきたし、親しい友人・知人の口から同じ台詞を聞いていたこともあって、一も二もなく共感した。新聞を丹念に読む習慣と熱意が薄れた。論理なき/倫理なき政治家の言動に、目も潰れる思いがするからだ。社会の基層に、これに対する抵抗力・批判力があるなら、まだしも、よい。それもまた儚いものであることが、メディアの在り方からも、社会の雰囲気からも察知できる。私たちは、そんな奇妙で、不気味な時代を生きている。

1990年代、私は『正論』や『諸君!』の誌面を占領していた右派言論を読んでは、これを批判する課題を自分に課した。右派言論は、ソ連型社会主義の敗北に乗じて、舞い上がっていた。彼らは、人類史がたどってきた歴史過程それ自体の内省的なふり返りを拒絶し、「勝利した」と彼らが豪語する資本主義が生み出している諸矛盾に対しても、目を瞑った。とはいうものの、私は同時に、広い意味で「社会主義的未来に加担してきた者」が、その敗北と向き合い、その克服のために努力しなければ、この困難な状況を突破することはできないことも、確信していた。誌面には、ほら、あいつは棄教して総括もしないまま逃げ去った、こっちの奴は失語症に陥っている、との揶揄が溢れた。元左翼が沈黙する間隙をぬって、自らの国が行なった近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争の史実を微塵も反省しない、かえって、そこに居直り正当化する議論ばかりが展開されていた。

当時その声は確かに大きくなりつつはあったが、まだ社会の片隅だけで語られていた。いまや、多様な変形が凝らされているとはいえ、その声は首相A・Sの声に重なり、各閣僚たちの声にも、政権党員はもとより多数の野党党員の声にも重なる。鶴橋や新大久保の街を震わす声も、その一亜種である。少なくないメディアも、その種の声に占領されている。その点が20年前との決定的な差である。

小泉政権時代に何度も書いたが、論理も倫理も媒介していない議論が横行すると、ひとは疲れる。小泉純一郎はその先駆をなした。それでいて、大衆的な「人気」はあった。多くの人びとがその道を選んだのである。現首相A・Sの場合もそうである。官邸前で会った友や私が罹っている「(新聞やテレビを)見聞きしたくない」病は、その疲れのせいだと思われる。理性は、別な道を歩めと囁くが、そんなものやってられるかという感情が勝る。街にあふれ出て「マルスの歌」を高唱する者たちには、当然にも、目を覆い耳を塞ぎたくなるのだ。

こころに鞭打って、「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」全文と首相の会見要旨を読む。紙面の一頁を覆い尽くしている。突っ込みどころは、あちらこちらにある。すでに多くの人びとがそれぞれに的確な批判をしている。だが、〈対話〉や〈討論〉の意味も知らず、論理も倫理も持たない人間だからこそ、A・Sはあの空虚な言葉を羅列することができた。恬として恥じることもなく。だから、どんな批判も通じることはない。

せめて〈討論〉に持ち込めるなら、A・Sの論理的な破綻はすぐに露呈する。議会がしかるべき野党を欠くことで〈討論〉の機能を失っていることは重大な欠陥だが、今後国会に提出される自衛隊法や周辺事態法などの「改正」案の討議の過程で、あるいは質問時間が極端に制限された記者会見の場で、A・Sの発する言葉がどんな事態を招き得るか――その可能性をあらかじめ放棄することもない。彼は自分のこの「欠如」を自覚しているからこそ、〈討論〉を避けるのだから。

正直な気持ちを言えば、小泉政権の時代もそうだったが、こんな水準の首相を相手に物言うことは虚しい。なぜか、こちらが恥ずかしくなってしまいさえする。だが、いまこの社会を支配するのは、このような大嘘を弄ぶ人間に対して「自発的に服従」(ラ・ボエシ)するかのような社会的な雰囲気である。私たちは、安倍一族批判を行なうことで、社会的に実在するこの雰囲気との〈討論〉を行なっているのである。ならば、それは、もちろん、むだなことではあり得ない。

(7月5日記)