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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[80]何よりも肝要なことは「アジアとの和解」だ


『反天皇制運動 Alert』第7号(通巻389号、2017年1月10日発行)掲載

2012年に再登場して以降の安倍政権の官邸周辺には、よほどの知恵者がブレーンとしているように思える。世論なるものの気まぐれな動きを、蓄積された経験智に基づいて的確に察知でき、これに対処する方法に長け、同時にマスメディア対策もゆめゆめ怠ることなく、効果的に行ない得る複数の人物が……。このように言う場合、もちろん、働きかけられる「世論」と「メディア」の側にも、「自発的に隷従して」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)それを受け入れるという意味での、哀しい〈相互作用〉が生まれているのだという事実を大急ぎで付け加えておかなければならない。

2016年12月、ロシア大統領をわざわざ首相の地元の温泉に招いて会談するという宣伝がなされていた時期には、「北方諸島」の帰属問題で日本に有利な結果が生まれそうだとの観測がしきりになされた。例えば「二島返還」という具体的な形で。その「成果」の余勢を駆って、首相は年末あるいは年始の衆議院解散に踏み切るのでは、との予測すらなされていた。その前段において、この展望は甘かったという感触が得られてすぐ、日露首脳会談の展望をめぐる首相の口は、重くかつ慎重になった。間もなく、首相はロシア大統領との会談を終えた半月後の年末ギリギリにハワイの真珠湾を米国大統領ともども訪れるというニュースが大々的に報道された。官邸ブレーンは、「見事な」までの、首相スケジュール調整機能を発揮した。

世論とメディアは、首脳会談なるものにも弱い、あるいは、甘い。会談の無内容さは、世界の二大超大国、ロシアと米国の大統領と次々と渉り合っている「われらが宰相」――というパフォーマンス効果によって打ち消される。16年5月の米国大統領の広島訪問を思い起せばよい。主眼は、大統領が広島訪問の直前に行なった岩国の米軍海兵隊基地での兵士激励であり、その付け足しのように行なわれた、一時間にも満たない広島行きではなかった。せめても、岩国米軍基地と広島への訪問が「セット」で行なわれた事実の意味を問う報道や発言がもっと多くなされるべきだったが、それは極端に少なかった。にもかかわらず、大統領の広島訪問とあの空疎なメッセージは、大きな効果を発揮した。日本国首相にとっても。大統領が苦心して折った折り鶴を持参して原爆資料館に贈呈したなどという無意味な行為が、感傷的に報道されたりもした。8年間の任期中にこの大統領が、核廃絶のために行なった具体的な政策の質と総量が同時に検証報道されたなら、広島行きのパフォーマンスの偽善性が明らかになっただろう。この点に関しては、在日の米国詩人アーサー・ビナードも、峠三吉『原爆詩集』(岩波文庫、2016年)に付された解説で的確に論じている。

16年末、真珠湾を訪れた日本の首相も、「不戦の誓い」と「日米の和解の力」を強調する演説を行なった。これを大々的に報道した主要メディアの中には、訪問を一定評価しつつも、「アジアへの視点」の欠如を指摘するものもあった。だが、「不戦の誓い」は、この政権が続けている諸政策と沖縄への態度に照らせば、化けの皮がすぐに剝れる性質のものであり、「日米和解」に至っては、戦後日本の米国への「自発的隷従」が続けられたことで夙に実現しているというのが、冷めた一般的な見方であろう。したがって、後者の「アジアへの視点」の欠如こそが強調されなければならなかった。例えば、12月8日(日本時間)真珠湾攻撃の一時間前には、日本陸軍がマレー半島への上陸作戦を開始していた、という史実への言及がなされるだけで、「日米戦争」という狭い枠組みは崩れ、短く見ても1931年の日本軍の中国侵略に始まるアジア・太平洋戦争の全体像に迫る視点が生まれるだろう。中国侵略戦争が行き詰まることで、日本はフランス、英国、オランダなどの植民地が居並ぶ東南アジアへの侵攻を国策の中心に据えていたのだから、真珠湾攻撃に先立って行なわれたマレー侵攻の意図は、明らかなのだ。アジアと向き合うことを、歴史的にも現在的にも無視する常習犯=現日本国首相は、にもかかわらず「地球儀を俯瞰する外交」などとしたり顔で語っている。首相の真珠湾訪問と同じ日、韓国は釜山の日本総領事館前に「慰安婦」を象徴する少女像が設置されたことは(これには論ずべき多様な問題が孕まれているとはいえ)、日本がもっとも肝要な「アジアとの和解」を実現できていないことを示している。この事実を改めて心に刻んで、一年を送りたい。(1月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[78]コロンビアの和平合意の一時的挫折が示唆するもの


『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載

国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。

キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。

私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。

中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。

サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。

教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。

日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)

「9・11」に考える映画『チリの闘い』の意義


【以下は、2016年9月11日、ユーロスペースでの『チリの闘い』上映後に、私が話したことの大要です。事前に用意したレジュメに基づいて文章化しましたが、最小限の加筆・訂正を施していることをお断りします。】

チリの映画監督パトリシオ・グスマンは、1941年生まれで、いま75歳です。チリやラテンアメリカはもとより、世界的にもかなり高名な映画監督です。なぜか、日本での作品公開は非常に遅れ、昨年秋、山形国際ドキュメンタリー映画祭で『チリの闘い』が、次いで岩波ホールで、『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』という最新作が相次いで公開されました。それから一年も経たずして、いま、『チリの闘い』のロードショウを迎えているのです。これらすべてをご覧になった方がおられるとして、全作品を通して共通するのは、1973年のチリ軍事クーデタへの強烈な関心です。なぜなのでしょう? 監督がチリ人であることからくる、一国的な特殊な事情があるのでしょうか? それとも、異邦に住む私たちにも関連してくる、世界的な普遍性があるのでしょうか? 今日は、この問題を考えてみます。

1、1970年選挙――社会主義政権の成立

映画が語るように、1970年に選挙が行なわれ、1930年代から社会主義者として政治活動を行なってきたサルバドル・アジェンデが大統領に当選します。選挙を通して社会主義政権が成立したのは、世界史上これが初めてです。アジェンデは「武器なき革命チリの道」を模索します。とはいっても、演説でもお聞きのように、社会主義への強い確信を持つ人です。「社会主義革命」は、いかに平和的なものであったとしても、現行秩序を壊さずにはおれないのです。

国内的に見てみましょう。当時のチリのように、貧富の格差がはなはだしい社会で現行秩序を壊そうと思ったら、経済的に公平で、格差をなくす社会になるような、社会福祉政策に重点をおくことになります。ほんの数例を挙げます。主要食糧品の物価を凍結しました。15歳以下の子どもに、一日0.5リットルの牛乳を無償で供給しました。農民が自らの土地を耕し、そこから収穫物を得ることができるように大土地所有制を解体しました。

対外関係を見てみましょう。チリが世界でも有数の銅資源を持つことは、映画が語っています。これを産出する銅鉱山は米国企業の手中にありました。他にも、銀行などの金融資本、国際電信電話事業も米国企業に支配されていました。ここから生み出される富を、チリの民衆は享受できなかったのです。これを接収し、国有化しました。経済の自律性を持とうとしたのです。

また、革命は、政治・経済過程の変革にのみ留まっていることはできません。その只中を生きる人びとは、旧社会の中で身をつけた価値観、日常意識、人生観を持ち続けています。必要ならばそれをも転倒する文化批判、文化革命が求められるのです。メディア、学校教育、社会教育など、批判の俎上に乗せるべき対象はたくさんあります。映画はどうか。ハリウッド映画が市場を独占しています。ハリウッド映画がどんな価値観に基づいて物語を組み立て、それを映像的に表現するものであるか。表面的には「無垢な」キャラクターが活躍するディズニー映画や漫画は、どんな価値観を子どもの脳髄に埋め込もうとしているのか。テレビはどうか。日本のアニメも評判を得つつある時代でしたが、米国製の番組の花盛りです。女性誌はどうか。これらの雑誌は、それぞれの年代の女性たちをどんな未来へ誘導しようとしているのか。このような問題意識に基づいて、社会に広く浸透している文化のあり方に対する批判活動が、チリ革命の中では行なわれました。これは、他の社会革命と対比しても特徴的なことであったと思います。

1970年に始まるチリ革命は、このような形で、平等・対等な社会関係に向けて、今ある秩序・現行秩序の変革に取り組んだのです。この改革が進めば、当然にも、既得権益を奪われる勢力が存在します。旧来の秩序の中での特権層です。だから、彼らは、進行する革命を妨害します。あわよくば、これを覆そうとします。映画『チリの闘い』が描いているのは、この階級闘争の過程なのです。小国が自主・自立を目指す試行錯誤は、どんな国内的・国際的な環境の下で行なわれたのか。これを知ることは、世界普遍的な意味をもつのです。

2、1973年9月11日に至る過程に見るべきもの

では、その過程から何が見えるか、ということを考えてみます。映画を見て真っ先に気づくのは、チリの人びとを切り裂く「階級差」です。現在の日本のように、新たな貧困問題に直面しているはものの、高度な産業社会・消費社会になると、階級差というものはそう簡単には見てとることができません。その点、当時のチリは違います。人びとの顔つき、表情、服装、言葉遣いから、その人がどんな「階級」に属しているかが、はっきりとわかります。集会やデモに出ている民衆の顔つきと服装を思い出してみてください。それと比較して、たとえば、立派な軍服で身を固めた高級軍人たちの姿を思い起こしましょう。多くが白人エリート層であることは歴然としています。暗殺された仲間を悼む集まりなのに、あの余裕のある、自信にあふれた表情の男たち。カメラを持つ人は、クーデタ必至の政治状況の中で、この男たちはいったいどんな立場を取ろうとしているのか、何を企んでいるのかを記録しておかなければならない、と思い詰めてでもいるかのように、執拗に、舐めるように、高級軍人たちの顔を映し出していきます。加えて、いかにも「ブルジョワの奥様」然とした、一群の女性たちの姿も思い浮かべることができます。

次に、集会やデモ、隠匿されていた日常品を摘発し、みんなで分配するシーンに、それぞれ、どんな年齢層の人びとが、男女のどちらの性の姿が、多く見られるかという問題です。鉱山労働者の集まりが男たちだけになるのは、労働の質からいって、当然です。ただし、日本で石炭産業が栄えていた時には、また世界のどこであっても鉱山地帯では、妻たちが鉱山主婦会を組織して、活発に活動していました。そんな姿が映し出されれば、異なる視点が得られたかもしれません。民衆や左派の集会やデモでは、どうだったでしょうか。やはり、男、それも若い男の顔が目立ったのではないでしょうか。20世紀型の社会運動にあっては、ある意味で日常的な生活の「束縛」から解き放たれて、自由にふるまうことができる者が活躍した時代でした。家族をもつ男の場合は、相手との関係でそのようにふるまう条件をつくってしまう。いわば、若く、体力があり、時間的にも自由が利く者が、運動に「専従」したのです。それによって生み出される、運動の活力もあったでしょうが、同時に、運動に「歪み」も生じただろう。このような観点から振り返るのが、現代的な視点だと思います。日常必需品の仕分けの場には、やはり、女の姿が目立った。重いものを仕分けるので、男の姿もありましたが、圧倒的多数は女だった。「役割分担」は、現実的には否応なく出てくるのですが、そこにどんな問題が孕まれるかは、考え続けなければならず、「歪み」があれば解決しなければならない。

反アジェンデ派、右派、ナショナリストたちの集会やデモでは、どうだったか。エリート校であるカトリック大学での、反アジェンデ集会では、いかにも裕福な家庭の出身だろう女子学生の姿が目立ちました。カトリック教会が保守の牙城であり、キリスト教民主党が有力政党である現実から見ても、富裕層や中産階級上に属する社会層は、それなりに分厚かったことがわかります。そんな人びとの集まりでは、先ほども使った言葉ですが、「ブルジョワの奥様方」が、けっこう楽し気にふるまっていたのが印象的でした。

次に、軍隊の問題を考えます。それまでの20世紀の社会革命では、ロシアでも中国でも、キューバでもアルジェリアでもベトナムでも、武装革命として勝利しました。人民軍、解放ゲリラ部隊、赤軍、人民解放軍などを組織して、国軍、政府軍と武力抗争を行ない、これを打ち破って革命の勝利が実現したのです。解放軍はその後の社会では国軍=政府軍となるのですから、そこで新たな、深刻な問題が派生することもありますが、それは、きょう考えるべき課題からは逸れます。

さて、アジェンデは、あくまでも平和革命路線を追求しました。それまで歴代政権の下にあった軍隊は、いわばブルジョワの軍隊という性格を色濃く持ち続けています。だが、アジェンデは軍隊には手をつけなかった。古今東西の歴史が教えるところでは、国軍としての軍隊は、国内的に一旦火急あれば戒厳令の下で民衆鎮圧活動を躊躇うことはありません。時の政府が好戦的であれば、「自衛」の名の下で他国に侵略戦争を仕掛けます。軍隊とは、そういうことが可能な、武装部隊なのです。事実、チリにおいて、右翼と米国CIAは、選挙を通してアジェンデを敗北させることに失敗すると、軍隊を利用したのです。他方、民衆は武装解除されており、銃ひとつ持つわけでもありません。日本でも、来年度の防衛費は5兆円を超え、自衛隊は25万人の兵力を抱えています。国家予算によって保証されているこのような武装部隊が、その武力を背景に政治の前面に出てきたら、どうなるか。チリの軍事クーデタが物語るのは、この問題です。それは、対岸の火事ではないのです。

非武装の民衆と、時の支配層の意思ひとつでいかようにも動かすことができる国軍という対比において、軍隊が本質的に持つ問題性を考えるべき時期がきています。

マスメディアの問題もあります。「世論」形成に重要な役割を果たす巨大メディアが、どんな立場に立って、何を報道し、何を報道しないか。その選択基準は何によって左右されているのか。日本の現状に照らしても、見逃すことのできない問題がここにはあります。

3、1973年

さて、こうして見てきたチリ階級闘争においては、右翼が軍事クーデタという非常手段によって勝利しました。アジェンデの平和革命路線は挫折したのです。軍事政権下で、いかなる時代が始まったか。新自由主義の世界制覇の時代は、ここを先駆けに始まったのです。経済運営に無知なチリの軍事体制を支えるために、米国はシカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンに学んだ者たちを派遣した。彼らが指南した経済政策は、いわゆる「小さな政府」論です。国家予算によってカバーすべき分野を極力少なくする。そのぶん、民間企業間の競争原理に委ねるとよい。規制緩和、国営企業の私企業化、市場経済化、金融自由化、行財政改革、教育バウチャー(利用権)制度の導入などの政策です。私たちの耳目も、この間十分に慣れ親しんだ言葉ですね。

チリ軍事クーデタから7,8年を経た1980年前後には、イギリスにサッチャー、米国にレーガン、日本に中曽根などの政権が確立し、新自由主義経済政策は世界全体に波及するようになります。日本社会に生きる私たちも、この政策が採用されて数十年経ったのですから、これがどれほどまでに社会のあり方を荒廃させるものであるかを、身をもって経験しています。経済格差の顕在化、非正規労働の増大に象徴される労働事情の激変、社会福祉政策の後退、総じて弱肉強食の価値観と現実が社会に浸透したのです。

米国は、チリ軍事クーデタを画策した以上、東西冷戦下でチリ国を「発展モデル」にするために「責任をもって」新自由主義の「実験場」にしました。それは、ソ連体制を崩壊に追い込んだ現代資本主義を全面開花させるまでに至ったのです。チリの経験は、こうして、世界的な普遍性をもつに至りました。

4、「9・11」

きょうは、9月11日です。「9・11」といえば、15年前の出来事を思い起こすのがふつうです。すなわち、ハイジャック機がニューヨークのワールド・トレイド・センター・ビルやペンタゴンに自爆攻撃を仕掛けた事件です。昨夜からのテレビ・新聞は、15年目の「9・11」を回顧するニュースにあふれかえっています。ところで、私たちが考えてきたチリ軍事クーデタの日付も、9月11日です。1973年の「9・11」。今から43年前の出来事です。

15年前の「9・11」事件の時から、チリやラテンアメリカからは、このもうひとつの「9・11」を忘れるな、というメッセージが発せられました。なぜなら、15年前の米国はこの攻撃を受けて3000人有余の犠牲者を生み出したこともあって、まるで「世界一の悲劇を被った」国であるかのようにふるまい、「反テロ戦争」に踏み出そうとしていたのです。しかし、政治的・経済的・軍事的に身勝手なふるまいを行ない、近現代史において他国に多大な犠牲者を生み出すきっかけをつくってきたのは、他ならぬ米国ではないか。1973年のチリ軍事クーデタは、まさに、その一つの例証なのだ。それなのに、いまさら、被害者ぶるのは許せない――そのような思いが、溢れ出たのです。

私も、15年前の「9・11」のときに、同じように考えました。これは、米国が自らの従来の外交政策を内省し、政策変更を大胆に行なう絶好の機会であり、「反テロ戦争」などという報復に乗り出すことがあっては、絶対にならない。だが、米国は、国を挙げて戦争に突入しました。そして、15年後の現在、世界は「反テロ戦争」と「テロ」の、終わりなき応酬の時代を迎えているのです。この悲劇を生み出した大国・米国の責任は重大です。ですから、「9・11」は、メディアが報道するような、ひとり米国の「悲劇」としてではなく、無数の「9・11」を思い起こす機会にすべきなのです。

5、グスマンのフィルム?

さて、最後です。この映画の撮影中に軍事クーデタがおこり、グスマン自身も逮捕されてしまいます。撮りためてあったフィルムは、どうやって、生き永らえることができたのでしょう? この謎解きは、劇場用パンフレットでも明かされているので、ここで触れてもよいでしょう。映画が問わず語りに明かしているように、グスマンらは、軍事クーデタが早晩起こるのは必至との思いを抱きながらカメラを回していたことでしょう。事前に手を打っておかなければならない。グスマンには、ひとりのおじさんがおりました。ピアニストで、政治には無関係に生きている人なので、ここまでは弾圧の手が延びないだろうと考え、撮りためた16ミリ・フィルムを彼に託しました。まもなく、サンティアゴのスウェーデン大使館のスタッフがフィルムを取りに来ました。軍事クーデタに対するこの時期のスウェーデン政府の断固たる立場を明かすものでしょう。このあと、スウェーデンはチリから、大勢の亡命者を受け入れることになります。70年代後半から80年代にかけて、私は、それら亡命者が発行する機関誌“Combate”(闘い)を購読していました。

さて、フィルムがたどった「運命」に戻ります。スウェーデン大使館のスタッフは、バルパライソの港から、大量のフィルムを本国へ送ろうとします。軍や税関は、怪しいものとみて、これを阻止しようとします。しかし、特別取り扱いが必要な外交貨物です。手を付けるわけにはいきません。無事、フィルムはバルパライソの港を出ました。この港町の名をご記憶ですか。チリ有数の港湾都市であり、したがって、海軍の地盤でもあります。反アジェンデの軍隊反乱も最初ここで起こったのでしたが、これとの闘いを描いたフィルムも、この港を出る貨物船に乗せられたのです。

拘留が短期間で済んで釈放されたグスマンは、スウェーデンへ飛び、フィルムと対面します。いざ、編集にかかりたいが、資金が工面できません。自己資金はなく、スポンサーも見つからない。そこへ、キューバの映画芸術産業庁が協力を申し出ます。そこで、グスマンはキューバへ行き、そこの映画人の全面的な協力を得て、75年の第1部、77年に第2部、79年に第3部を完成させて、世界に流通させることができたのです。もちろん、軍事政権下のチリでは無理でした。数奇なフィルムの運命です。生き永らえたのは奇跡的、とも言えます。フィルムよ、ありがとう、と言いたい気持ちです。

以上が、私たちがようやくめぐり合えている映画『チリの闘い』について、30分以内で語りたいことのすべてです。終わります。ありがとうございました。

――天皇「生前退位」を考える|「主権」も、民主主義もない|もう、たくさんだ!


『週刊金曜日』2016年7月29日号掲載

知る人ぞ知る、敗戦直後の年代記から始めよう。

1946年4月29日 東條英機らA級戦犯容疑者二八人起訴

1946年5月3日 連合国による極東国際軍事裁判開廷。

1946年11月3日 新しい「日本国憲法」公布。

1947年5月3日 日本国憲法および新皇室典範施行。

1948年12月23日 東條英機ら七人の死刑執行。

敗戦国・日本の占領統治の主導権を握ろうとした米国は、1945年8月30日マッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に降り立ってから、翌年46年4月5日に第一回連合国対日理事会が開かれるまでの7ヵ月有余の間に、日本国支配のための「暦的な」イメージをほぼ固めていたと思われる。たかが暦、という勿れ。上に挙げた事項の月日が何に符合しているかを見れば、米国の意図は明快だ。戦犯としての訴追は辛くも免れ得た昭和天皇はもちろん、48年当時は15歳でしかなかった皇太子・明仁にも、父親の「戦争責任」を一生涯意識させ続けるという、米国の揺るぎない意思が、これらの日付の選択からは窺われる。

戦中から敗戦直後にかけての時期を奥日光や小金井で過ごし、父親の処刑と占領軍による自らの拘束および米国への強制埒という「悪夢」をさえ幻視したであろう皇太子(現天皇)が生きた苛烈な戦後史を思う。82歳の現在、「疲れた」でもあろう。米国が仕掛けた「罠」にも無自覚に、戦争責任を忘失したまま皇室への崇拝を止めないありがたい「国民」は、同時に、現憲法からの脱却を謳う極右政権を支えていることに、もしかしたら、天皇は「危うさ」も感じているかもしれぬ。だが、天皇という地位に留まったままで、彼が何を言おうと何をしようと、それは、真の民主主義に悖る天皇制を護持し延命させるための口実としてしか機能しない。「生前退位」の意向とて、その例外ではない。

何事にせよ、ある問題をどう考えるか――選択肢は多様にあろう。だが、マスメディアでそれが取り上げられる時、本来なら10件あるかもしれない可能性の回答例は、往々にして、3つか4つに絞られて、提起される。しあも、巧妙に排除される選択肢がある。天皇制に関わる問題は、その最たる一例である。天皇制廃絶という意見と立場があり得ること――この選択肢はあらかじめ除外されて、メディア上での議論は踊る。

しかも情報は確たるものでもないのに、錯綜している。そもそも、生前退位の「意向」が、いつ、誰に、どのような形で伝えられたのか、それが、まずNHK を通して報道されてよいとしたのは誰か。皇室報道につきものの「情報源のあいまいさ」が消えないままに、あれこれの言動が飛び交っている。私はいやだ。民主主義の根幹に関わる天皇制をめぐる問題なのに、情報源が不明なまま、解釈や論議を強いられることが。この状況を創り出している張本人が、極右の首相との対比で「善意のひと」と見なされる風潮が。

外に向かっては、この国は米国に首根っこを掴まされたままだ。皇族も、政治家、官僚も、ウチナンチュー以外の「国民」も、その支配からの離脱など夢見ることすらせずに、日米「同盟」にしがみついている。内にあっても、この体たらくだ。「主権」もない、民主主義もない。もう、たくさんだ! と叫びたい。(7月25日記)

太田昌国の、みたび、夢は夜ひらく[74]グローバリゼーションの時代の只中での、英国のEU 離脱


『反天皇制運動 Alert』1号(通巻383号、2016年7月12日発行)掲載

1991年12月、ソ連体制が崩壊した時、理念としての社会主義とその現実形態の一つとしてのソ連に対する思いとは別に、たいへんな激動の時代を生きているものだ、と思った。そして、この政治・社会の激動と併行して進行していた技術革新の重大な意味に突き動かされて、この分野には決して明るくはない私でさえもが身を投じたのが、それから数年後に急速に普及したインターネットの世界だった。メキシコ南東部の叛乱者たち=サパティスタが、自分たちがいるチアパスの山深い密林ではインターネットが使えないのに、媒介者さえいるなら、彼ら/彼女らが発したメッセージがその日のうちにでも世界中で受信されてしまうという事実に、心底、驚いた。この驚きが、大げさのようだが、私を変えた。1997年以降の私の発言の多くは(おそらく90パーセント近くは)、いつでもインターネット空間で読むことが可能だ。同時に、この言論がそこに、いつまで「浮遊」し続けるのか? と思うと、実のところ、こころ穏やかではない。

この新しい時代を意味づけている決定的な要素は、新自由主義的グローバリゼーションである。それが始まった契機に関しては、ソ連崩壊に2年先立つ、1989年11月のベルリンの壁の崩壊も付け加えたほうがよいだろう。私は、人類史の中で「地理上の発見」や「植民地化」の史実に、異なる地域に住まう人間同士の関係性を歪める画期的な意味を読みこんできたが、いま私たちを取り巻いている「グローバリゼーション」という状況も、それに匹敵する意味を持たざるを得ないだろうと考えてきた。いずれの現象もが、もっとも重要な要素としてもっているのは、異世界の「征服」という動機である。かつてなら、それを主導したのは国家であった。領土の拡大という、明快な目標もあった。今回のそれを主導するのは国家ではなく、米国・ヨーロッパ・日本の三極に根拠をもつ多国籍企業、複合企業、金融グループである(もちろん、そのなかでも米国が圧倒的なシェアを誇っている)。征服する側が国家ではないと同じく、征服される側も国家単位ではない。いわば、地球そのものである。技術革新が、生命操作のための遺伝子工学の分野でも驚くべき展開を遂げていることを見ても、「征服」の対象は、生命体としての人間そのものであり、それを取り巻く自然環境にまで及んでいることがわかる。

日本国の現首相は、「企業がもっとも活動しやすい国にする」と世界に向けて常々アピールしている。彼の本音には常に、内向きの偏狭な国家主義があるが、その一方、国民国家・主権・国境・独立・民主主義など、「国家」が成り立つにあたって根源をなしているはずの諸「価値」を、大企業や大金融資本の利益の前になら惜し気もなく差し出すことを公言し、それを実行しているのである。グローバリゼーションの時代とは、こんな風に引き裂かれた人間を悲喜劇的にも生み出してしまうのだが、「引き裂かれた」とはいっても、国家主義的なポーズは国内基盤を固めるのに役立ち、後者の開国主義は、グローバリゼーションを推進する勢力によって歓迎されているのだから、本人は自己矛盾も感じることなく、心は安らいでいるのかもしれぬ。

英国のEU(欧州連合)離脱をめぐる国民投票の結果を見つめながら、グローバリゼーションの暴力的な力に翻弄されて〈ゆらぐ〉人びとの心に触れた思いがした。ここでいう「人びと」とは、もちろん、ロンドン金融街の「シティ」で活躍している人びとを指してはいない。労働党が明確に「残留」方針を示したにもかかわらず、その支持層の相当部分が離脱に投票したという報道に接して、たとえばケン・ローチが好んで描く普通の、あるいは下層の労働者が現実にはどんな選択をしたのか、と気にかかったのである。2015年度の英国の移民純増数は33万人、その半数以上が、英国で労働ビザを取得することなく就業できるEU加盟国出身者だ。とりわけ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなどからの新規移民に対して、英国人の雇用を奪うとか公共サービスを圧迫するなどという警戒心が広がっている現在、この生活保守主義的な傾向が、あの階級社会に生きるふつうの労働者や家族の間でどう機能したのか。一定の「理」がないではない生活保守への傾斜を、極右・排外主義と結合させない担保をどこに求めるのか。問題は、鋭角的に提起されている。

ドーバー海峡のむこうの「島国」でのみ燃え盛っている対岸の火事ではない。フランスでも、ドイツでも、米国でも、そしてこの日本でも――グローバリゼーションの時代を生きる地球上のすべての者が逃れることのできない問いに対して、英国人が最初の回答を出したのだ、と捉える視点が必要だ。(7月9日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[72]米大統領のキューバ訪問から見える世界状況


『反天皇制運動カーニバル』37号(通巻390号、2016年4月5日発行)掲載

私が鶴見俊輔の仕事に初めて触れたのは、高校生のころに翻訳書を通してだった。米国の社会学者、ライト・ミルズの『キューバの声』の翻訳者が鶴見だった(みすず書房、1961年)。表紙カバーには、原題 “Listen , Yankee” (『聴け、ヤンキー』)の文字が浮かび上がっていた。1960年夏まで(ということは、キューバ革命が勝利した1959年1月からおよそ1年半の間は)ミルズはキューバについて考えたこともなかった、という。だが60年8月、キューバの声は「空腹民族ブロックを代表する」(原語はどうだったのか、「空腹民族」とは言い得て妙な、「面白い」表現だ)ひとつの声だと悟ったミルズは、急遽キューバを訪れ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラはもとより市井の多くの人びとと会って話を聞き、それを「代弁」するような書物を直ちにまとめた。米国は「空腹世界のどのひとつの声にも耳をかたむけることをしないということが許されないほどに強大で」あることに気づいたからである。原書は60年末までに刊行されたのであろうが、61年3月には日本語版が発行されている。改訂日米安保条約強行採決に抗議して東工大教官を辞したばかりの翻訳者・鶴見をも巻き込んでいた「時代」の熱気を感じる。

オバマ米大統領のキューバ訪問についての報道を見聞きしながら思い出したことのひとつは、ミルズのような米国人も存在していたのだということである。当時のケネディ大統領も含めた米国の歴代為政者が、もしミルズのような見識(他民族・他国の独自の歩み方を尊重し、米国がこの国に揮ってきた政治・経済の強大な支配力を反省する)の持ち主であったならば、半世紀以上にもわたって両国間の関係が断絶することはなかったであろう。軍事侵攻によってキューバ革命の圧殺を図った過去を持つ米国の大統領としてキューバを訪れたオバマは、人権問題をめぐってキューバに懸念を示す前に、言うべき謝罪の言葉があったであろう。キューバが深刻な人権侵害問題を抱えているというのは、私の観点からしても、事実だと思う。だが、自国の過誤には言及せず、サウジアラビアやイスラエルによる人権侵害状況にも目を瞑り、むしろこれを強力に支えている米国が、選択的に他国の人権問題を批判することは、二重基準である。米韓合同軍事演習は、通常の何気ない言葉で表現し、朝鮮が行なう核実験やミサイル発射のみを「挑発」というのと同じように――大国とメディアが好んで行なうこの言語操作が、いつまでも(本当に、いつまでも!)人びとの心を幻惑しているという事実に嘆息する。

1903年以来米国がキューバに持つグアンタナモ海軍基地を返還するとオバマが語ってはじめて、キューバと米国は対等の立場に立つ。グアンタナモとは、裁判もなく米軍に囚われて虐待されているアルカイーダやタリバーンなどの捕虜の収容所だけなのではない。1世紀以上の長きにわたって、米軍に占領されているキューバの土地なのだ。他国にこんな不平等な関係を強いて恥じない大国の傲慢さを徹底して疑い、批判するまでに、世界の倫理基準は高まらなければならない。

オバマはキューバからアルゼンチンへ向かった。後者には、十数年ぶりに右派政権が成立したからである。各国が軒並み軍事独裁政権であった時代に、米国主導の新自由主義経済政策によって社会に大混乱をもたらされたラテンアメリカ諸国には、20世紀末から次々と、米国の全的支配に抵抗する政権が生まれた。二十数年間続いてきたこの流れは、この間、一定の逆流に見舞われている。だが、全体を見渡すと、この地域に、いま戦乱はない。軍事的緊張もない。1962年のキューバ・ミサイル危機を思い起こせば、感慨は深い。東アジア、アラブ、ヨーロッパ、北部アフリカなどの地域と比較すると、それがよくわかる。かつてと違って、米国の軍事的・経済的・政治的なプレゼンス(存在)が影をひそめたことによって、社会の安定性が高まったからである。巨大麻薬市場=米国と、悲劇的にも国境を接するメキシコが、10万人にも上る死者を生み出した麻薬戦争の只中にある事実を除けば。

米国の「反テロ戦争」を発端とするアラブ世界の戦乱が北アフリカ地域にも飛び火している、悲しむべき状況を見よ。60年以上も続く、朝鮮との休戦協定を平和協定に変える意思を米国が示さぬために、米韓合同軍事演習と朝鮮の「先軍路線」の狭間で、「(金正恩の)斬首作戦」とか「ソウルを火の海にする」とか、熱戦寸前の言葉が飛びかう東アジア情勢を見よ。

米国の「存在」と「非在」が世界各地の状況をこれほどまでに左右すること自体が不条理なことだが、その影響力を減じさせると、当該の地域には「平和」が訪れるという事実に、私たちはもっと自覚的でありたい。(4月1日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[71]「世界戦争」の現状をどう捉えるか


『反天皇制運動カーニバル』第36号(通巻379号、2016年3月8日発行)掲載

アラブ地域の現情勢を指して、「世界戦争」とか「第三次世界大戦の始まり」と呼ぶ人びとが目立つようになった。いわゆるイスラーム国には、欧米を含む世界各地から数多くの義勇兵が駆けつけている。シリアに対する空襲は、国連安保理常任理事国を構成する5ヵ国のうち中国を除く米英仏露の4ヵ国によってなされている。この構図を見るにつけても、「世界戦争」という呼称は、あながち、大げさとは思えなくなる。その社会的・政治的メッセージの鮮烈さにおいて群を抜く現ローマ教皇フランシスコは、2015年11月13日パリで起きた同時多発攻撃事件を指して「まとまりを欠く第三次世界大戦の一部である」と表現した。国家単位の戦闘集団ではないイスラーム国が、世界各地に自在に軍事作戦を拡大する一方、これに対して「反テロ戦争」の名目で諸大国が(あくまでも表面的には)「連携している」という意味で、第一次とも第二次とも決定的に異なる、現下の「世界戦争」の性格を巧みに言い当てているように思われる。

この「世界戦争」という構図の枠外に位置しているかのように見える、残りの安保理常任理事国=中国も自らの版図内に、北京政府から見れば「獅子身中の虫」たる新疆ウイグル自治区を抱えている。多数のイスラーム信徒が住まうこの自治区は、世界的な「反テロ戦争」のはるか以前から、中国内部に極限された「反テロ戦争」の中心地であった。北京政府の強権的な政策(ウイグル人の土地の強制収用、漢民族の大量移住計画、ウイグル人に対する漢民族への徹底した同化政策、信仰の自由に対する抑圧など)に反対する人びとによる爆弾闘争が散発的に繰り返され、これに対する弾圧も厳しかったからである。圧政を逃れて、トルコなどへ亡命しているウイグル人も多い。その人びとの心の奥底に、イスラーム国に馳せ参じる若者たちに共通の心情が流れていても、おかしくはない。事実、2013年10月には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ車で天安門に突入し自爆する事件も起こっている。北京政府を標的にした軍事攻撃は、イスラーム国のそれにも似て、すでにして辺境=新疆ウイグルに留まることなく、首都中枢にまで拡散しているのだといえる。

私は、今年1月に行なわれた中国の習近平主席のサウジアラビア、エジプト、イラン訪問に(訪問先の選び方も含めて)注目したが、各紙報道にも見られたように、これは明らかに、ユーラシアをシルクロードで結ぶ「一帯一路」の経済圏構想を具体化するための布石であった。これを実現するためには、新疆ウイグル自治区の「安定」が不可欠である。だが、同時に、習近平は知っていよう――新疆ウイグル自治区は、イスラーム国の浸透が顕著なカザフスタン、キルギス、タジクなどのイスラーム圏共和国と天山山脈を境にして接する同一文化圏にあることを。中国政府は、現在、チベットや新疆ウイグル自治区に対する政策を人権侵害だとする欧米諸国からの批判は「二重基準(ダブル・スタンダード)」だとして反発している。だが、この地域での蠢動を続けるイスラーム国の軍事攻撃が、さらに国境を超えていくならば、現在は別個に行なわれている欧米諸国と中国の「反テロ戦争」が、共通の「敵」を見出して合体するときがくるかもしれない。そのとき、ローマ教皇がすでに始まっているとみなしている「第三次世界大戦」はいっそうの「世界性」を帯びざるを得ない。

他方、中国は、中央アジアを離れて、東アジア地域においても重要な位置をもっている。去る3月2日、国連安保理事会は、朝鮮民主主義人民共和国が行なった核実験と「衛星打ち上げ」に対して、同国に出入りするすべての貨物の検査を国連加盟国に義務づけ、同国への航空燃料の輸入禁止を含む大幅な制裁決議を採択した。制裁強化を躊躇っていた中国も、最終的にはこれに賛成した。中国の四大国有商業銀行は、従来は米ドルに限っていた朝鮮国への送金停止措置を、人民元にまで拡大している。

3月7日には、朝鮮が激しく反発している米韓合同軍事演習が始まる。朝鮮半島は、残念なことに、「第三次世界大戦」の一翼を担う潜在的な可能性をもち続けている。

ここでは、否定的な現実ばかりを述べたように見える。もちろん、たゆまぬ反戦・非戦の活動を続ける人びとが世界的に実在している(いた)からこそ、世界はこの程度でもち堪えている(きた)ことを、私たちは忘れたくない。(3月5日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[69]朝鮮の「水爆実験」と「慰安婦」問題での日韓政府間合意


『反天皇制運動カーニバル』第34号(通巻377号、2016年1月12日発行)掲載

国連の安保理事会構成国である五大国が独占してきた核兵器を、他の国が(しかも小国が!)持つことは許さないとするのが、核不拡散条約の本質である。この条約の制定とそれ以降の過程を詳述する紙幅は、今はない。また、イスラエル、インド、パキスタンなどの「小国」も核を保有するに至った現実を、ときどきの国際情勢の下にあって「容認」するか否か、あるいは確認せぬままに目を瞑るかなどの駆け引きも、これを機に利を得ようとする大国がマリオネットの操り師になって、誰の目にも明らかな形で行なわれてきた。したがって、国際政治における「核不拡散」なるスローガンの欺瞞性を批判することは重要だ。国際政治では、つまるところ、「力」を誇示したものが勝つのさ――身も蓋もない「教訓」をそこから得て、核開発に膨大な国家予算を費やしてしまう、「敵」に包囲された貧しい国の若年の国家指導者がいたところで、「軍事を通した政治」に関して同等のレベルで物事を考え、ふるまっているひとつ穴の貉が、どうして、それを嗤い、非難することできようか。

また、自らは核を持たずとも、安保条約なる軍事同盟によって「米国の核の傘」の下にあることを積極的に選んでいるこの国で、そしてその米国はといえば、1953年以来、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)との間で結んでいるのは休戦協定でしかなく、韓米両軍は朝鮮に対する挑発的な合同軍事演習を一貫して行なっている事実を思えば、ここでも自らを省みずに他国を非難するだけでは、事態を根本的に解決する道筋は見えてこないと指摘しなければならない。

1月6日、朝鮮が行なった「水爆実験」に関して、各国政府やマスメディアが組織する一方的な朝鮮非難の合唱隊に加わらず、せめてこの程度の相対的な視点をもって、事態を見つめることは重要なことだ。彼の国の科学技術水準に軽侮の表情を浮かべながら「水爆開発はまだ不可能」と(おそらくは)正確に事態を捉えていながら、「今、ここにある危機」を演出する政府とメディアの宣伝攻勢も鵜呑みにはせずに、冷静な分析を心がけることも重要だ。そうすれば、多くの専門家が言うように「朝鮮の核開発の段階は実用化には程遠く、実戦用の核兵器の小型化に努めている時期だろう」との判断も生まれよう。事態の把握の仕方は、対処すべき方法を規定することに繋がるのだから、大事なことだ。

さて、これらのことは自明の前提としたうえで、同時に、次のことも言わなければならないと私は思う。朝鮮が行なった「水爆実験」は、疑いもなく、東アジアおよび世界各地に生まれるかもしれない戦争の火種を一所懸命に探し求め、あわよくばそこへ戦争当事国として参加しようと企てている安倍政権にとって、この上ない、新春のプレゼントとなった、と。戦争法の施行を目前に控えているいま、この「水爆実験」は安倍の背なかを押すものとなった、と。

朝鮮の「水爆実験」に理があるものなら、私はこのような批判はしない。「安重根による伊藤博文暗殺が、日本が朝鮮を併合するのに有利な環境を作り出した」という俗論を、日本は当時すでに十数年をかけて朝鮮植民地化の準備を積み重ねていたという歴史的な事実に反するがゆえに、かつ時代状況的には安重根に「理」があったと思うがゆえに、私は受け入れないように。だが、朝鮮の核実験には理がない。若い指導者がしがみついているのであろう「核抑止論」は、どの国の誰が主張しようと、深刻な過ちであると考えるからである。

今回の事態を、昨年末に日韓政府間レベルだけでの急転直下の「解決」をみた「慰安婦」問題と併せて総体的に分析する視点が必要だと思われる。昨年12月16日、「慰安婦」問題を話し合っていた日韓局長協議は結論に至らず越年する、との発表があった。その9日後の25日には、28日の日韓外相会談が公式に発表された。この間に何があったのか。米国政府からの圧力があったことを仄めかす記事は散見される。米国の外交政策を仕切るといわれる外交問題評議会(CFR)が12月20日に出した討議資料 ”Managing Japan-South Korea Tensions” (日韓の緊張を何とか切り抜ける)もネット上には出回り始めた。

慌ただしい年末ギリギリの三国政府間の「圧力」と「談合」の実態を見極め、朝鮮半島全体で何が進行しているのか、その中で日本はどこに位置しているのか、を探る必要がある――敗戦後70年めの昨年にも「最終的かつ不可逆的に解決」されることのなかった課題が、私たちの眼前に広がっている。

(1月9日記)