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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[90]山本作兵衛原画展を見に来たふたり


『反天皇制運動Alert』第17号(通巻399号、2017年11月7日発行)掲載

数年前のことだった。東京タワーの展示室で「山本作兵衛原画展」が開かれた。筑豊の炭鉱で自らが従事した鉱山労働の様子や、労働を終えた後の一時のくつろぎの仕方までを絵筆をふるって描き、深い印象を残す人物である。筑豊は谷川雁、上野英信、森崎和江などの忘れ難い物書き(関連して、後述する水俣の石牟礼道子も)を生んだ土地であり、私はそれらの人びとへの関心の延長上で作兵衛の作品にも画集では出会っていた。

原画にはやはり独特の趣があって、来てよかったと思った。原画展の会場を去る時、ひとりの友人とすれ違った。その彼女が深夜になってメールをくれた。あのあと会場で作品を見ていると、今日は緊急に閉場しますというアナウンスがあったので、そんなことは展覧会案内のホームページにも書いていない、まだ見終えていない、と抗議していると、どこからともなくわらわらと大勢の黒い服の男たちが現われ、見る見るうちに会場を制圧した。そしてその奥から、天皇・皇后の姿が現われた……と。

作兵衛画の鑑賞を突然断ち切られた友人の怒りは当然として、同時に、作兵衛展を見に行くとは、皇后もなかなかやるな――と私は思った。この展覧会の少し前に、ユネスコは作兵衛の作品を世界記憶遺産に指定していた。この年には、チェ・ゲバラが遺した文書(日記、旅行記、ゲリラ戦記など)も、キューバ・ボリビア両政府からの申請で同じ遺産に指定されており、それぞれの国では自国に縁のある文物が記憶遺産に指定されることに〈自民族至上主義的に〉大騒ぎする。日本社会も、描いている主題からして日頃はさして注目もしていない山本作兵衛の作品が、世界的な認知を受けたといって盛り上がっていたとはいえ、このような社会的「底辺」に関わる表現にまで目配りするとは、さすが皇后、と思ったのである。(この展覧会に来るという「見識」を持ち得るのは天皇ではなく皇后だろうという判断には、大方の賛同が得られよう。)

こんなことを思い出したのは、去る10月20日、83歳の誕生日を迎えた皇后の文書が公表されたからである。2ヵ月早く今年の回顧を行なった感のある同文書を読むと、神羅万象に関わる皇后の関心の広さ(あるいは、目配りのよさ)がわかる。震災の被災者や原爆の被害者への言及を見て、「弱者に寄り添う」という表現もメディア上では定番化した。今回は特に、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞したことにも触れており、これには明らかに、核廃絶への取り組みに熱心ではない安倍政権への批判が込められているとの解釈もネット上では散見された。学生時代の彼女は(1934年生まれの世代には珍しいことではないが)、ソ連の詩人、マヤコフスキーやエセーニンの作品を愛読していたという挿話もあって、〈個人としては〉時代精神の優れた体現者なのだろう。

だが、ひとりの人間として――というためには、他の人びととの在り方と隔絶された特権を制度的に享受する立場に立たない、という絶対条件が課せられよう。作兵衛展に出かけるにしても、一般人の鑑賞時間を突然に蹴散らしてでも自分たちの来場が保証されるという特権性に、彼女が聡明で優れた感度の持ち主であれば、気づかぬはずはない。自分たちが外出すれば、厳格極まりない警備体制によって「一般人」が被る多大な迷惑を何千回も現認しているだろうことも、言うを俟たない。「弱者」に対していかに「慈愛に満ちた」言葉を吐こうとも、己の日常は、このように、前者には叶うはずもない、そして人間間の対等・平等な関係性に心を砕くならば自ら持ちたいとも思わないはずの特権に彩られている。その特権は「国家」権力によって担保されている。この「特権」と、自らが放つ温情主義的な「言葉」の落差に、気が狂れるほどの矛盾を感じない秘密を、どう解くか。

凶暴なる国家意志から、まるで切り離されてでもいるかのように浮遊している「慈愛」があるとすれば、それには独特の「役割」が与えられていよう。彼女が幾度も失語症に陥りながらも、皇太子妃と皇后の座を降りようとしなかったのは、自らの特権的な在り方が「日本国家」と「日本民族」に必要だという確信の現われであろう。

高山文彦に『ふたり』と題した著書がある(講談社、2015年)。副題は「皇后美智子と石牟礼道子」である。そのふるまいと「言霊」の力に拠って、後者の「みちこ」及び水俣病患者をして心理的にねじ伏せてしまう、前者の「みちこ」のしたたかさをこそ読み取らなければならない、と私は思った。「国民」の自発的隷従(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)こそが、〈寄生〉階級たる古今東西の君主制が依拠してきている存立根拠に違いない。

(11月4日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[89]「一日だけの主権者」と「日常生活」批判


『反天皇制運動Alert』第16号(通巻398号、2017年10月10日発行)掲載

テレビのニュース番組を観なくなって久しいことは何度か触れてきた。もともとテレビを買ったのは1983年のことだったから、きわめて遅い。この年の10月、米帝国がカリブ海の島国、グレナダに海兵隊を侵攻させた。社会主義政権の誕生で彼の地の社会情勢が「不穏」となり、在留米国人の「安否」が気遣われたという口実での、海兵隊の侵攻だった。ひどい話だが、「建国」以来の米国史ではありふれたことではあった。悔しいのは、グレナダという国について何のイメージも浮かばないことだった。長崎県の福江島に等しい程度の広さの国だというが、どんな人が住んでいるのだろう、主な生業は何だろう、10万人の人口で成り立つ「国」とはどんなものだろう。そんな小さな国で、米国をして不安に陥れる社会的・政治的情勢とは、どんなものだろう――百科事典でわかることもあったが、土地とひとに関わる映像的なイメージがどうしても必要だと思った。

あれほど拘って「拒否」してきたテレビを買ったのは、その時だった。買ってみてわかったことだが、グレナダのような小さな国の出来事なぞ、何が起ころうと日本のテレビ局は何の関心も示さない。新聞は読んできたのだからわかりそうなものだったが、マスメディアにおける、「世界」から打ち捨てられた地域・国々の扱い方はそういうものなのだ、という当然の、興ざめした結論を改めて得ることとなった。だが、ニュースのほかにもさまざまなテレビ番組に触れるにつれ、現代人の心のありように及ぼすテレビの影響力の決定的な大きさを心底痛感することとなった。

そのことを実感する個人的な経験も1997年にあった。前年末に起こって長引いていた在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件をめぐって、某テレビのニュース番組に二度出演した。生放送ではない、録画撮りで、放映時間はそれぞれわずか一分程度のものだった。私としては、日本人人質の安否報道に純化している日ごろの番組ではまったく聞かれない意見を話したつもりだった。翌夕、事務所近くのラーメン屋へ行くと、顔見知りの兄さんが「夕べ、テレビに出ていましたね」と言って、何か小皿料理をサービスしてくれた。郵便局の局員も、見ましたよと言って、それがさも大変なことであるような話ぶりだった。話したことの内容ではなく、テレビに出たこと自体が、私に対する彼らの視線を変えたもののようだった。恐ろしい媒体だ、と心から思った。

1983年にテレビを買い、その後20年間ほどは、時間さえあれば、ニュース番組以外にもいろいろと観た。とりわけ2002年9月以降の半年くらいの間はテレビに浸った。日朝首脳会談以降の拉致問題報道によって社会がどのようにつくり変えられていくのか。それを見極めなくてはならない。そう考えたからだ。外にいたり電車に乗っていたりするときも、ワイドショー番組での人びとの発言を携帯ラジオの音声モードで聞いていた。恐るべき速度と深度で、この社会が民族排外主義と自己責任免罪主義によって席捲されていく様子が、手に取るように分かった。ワイドショーこそは諸悪の根源、と確信した。この作業を終えて以降、テレビ・ニュースを観ることをほぼ止めた。世界各国の最新のニュース番組を同時通訳で紹介するNHK・BSの「ワールド・ニュース」だけは観る。60年安保のころ、中国文学者・竹内好が「日本の新聞だけを読んでいても、何もわからない。英字新聞を読まなければ」と語った記憶が蘇える。今、テレビに関して、竹内に似た思いを抱く。

国会解散・総選挙・相次ぐ新党結成などの動きが打ち続くなかで、「禁」を破ってテレビのニュース番組やワイドショーをいくつか観た。テレビを重要な媒体だと考えている人びとの脳髄に日々染み渡ってゆく言論がどのような水準のものであるかを、司会者・コメンテーターの言動と番組全体の枠組みを検討して、理解した。15年前との比較においてすら、劣化は著しい。加えて、選挙制度は小選挙区制である。さらに加えて、極右が支配する「自民」「希望」は論外としても、これに対決しているかに見える新党「立憲民主党」の先頭に立つのは、震災・原発事故の際の〈為政者〉としての印象も生々しい政治家たちである。あっちを向いても地獄、こっちを向いても〈小〉地獄。選挙の一定の重要性は否定しないが、「一日だけの主権者」への埋没がこの事態を出来させたと考えれば、私たちが真に大切にしなければならないことは何かが見えてくる。それは、テレビ・ニュースに象徴される、己が「日常生活」への批判なのだ。(10月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[88]過去・現在の世界的な文脈の中に東アジア危機を置く


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第15号(通巻397号、2017年9月12日発行)掲載

米韓及び日米合同軍事演習と朝鮮国の核・ミサイル開発をめぐって、朝鮮と米国の政治指導者間で激烈な言葉が飛び交っている。日本の首相や官房長官も、緊張状態を煽るような硬直した言葉のみを発している。

いくつもの過去と現在の事例が頭を過ぎる。1962年10月、キューバに配備されたソ連のミサイル基地をめぐって、米ソ関係が緊張した。若かった私も、新聞を読みながら、核戦争の「現実性」に恐れ戦いた。その時点での妥協は成ったが、それから30年近く経ったころ、米・ソ(のちに露)・キューバの当事者が一堂に会し、当時の問題点を互いに検証し合った。モスクワ再検討会議(1989年)、ハバナ再検討会議(1992年、2002年)である。二度に及ぶハバナ会議には、フィデル・カストロも出席している。当時の米国防長官マクナマラも、三度の会議すべてに出席した。二度目のハバナ会議の時はすでに「反テロ戦争」の真っただ中であり、ブッシュ大統領が主張していたイラクへの先制攻撃論をマクナマラが批判していたことは、思い起こすに値しよう。カストロも「ソ連のミサイル配備の過ち」を認めた。キューバ・ミサイル危機では、「敵」の出方を誤読して、まさに核戦争寸前の事態にまで立ち至っていたことが明らかになった。それが回避されたのは、僥倖に近い偶然の賜物だった。

マクナマラは、ベトナム戦争の一時期の国防長官でもあって、彼は後年のベトナムとの、ベトナム戦争検証会議にも出席している。そこでも彼は、米国の政策の過ちに言及している(『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社、 1997年)。対キューバ政策にせよ、ベトナム戦争にせよ、あれほどの大きな過ちだったのだから、「現役」の時にそれと気づけばよかったものを、そうはいかないらしい。「目覚め」はいつも遅れてやってくるもののようだ。

それにしても、人類の歴史を顧みると、同じ過ちを性懲りもなく繰り返している事実に嫌気がさすが、この種の「検証会議」はその中にあってか細い希望の証しのように思える。かつては真っ向から敵対していた者同士が、「時の経過」に助けられて一堂に会し、過ぎ去った危機の時代を検証し合うからである。そこからは、次代のための貴重な知恵が湧き出ている。それを生かすも殺すも、その証言を知り得ている時代を生きる者の責任だ。

南米コロンビアの現在進行中の例も挙げよう。キューバ革命に刺激を受けて1960年代初頭から武装闘争を続けていたFARC(コロンビア革命軍)が、昨年実現した政府との和平合意に基づいて武器を捨て、合法政党に移行した。略称はFARCのままだが、「人民革命代替勢力」と名を変えた。同党は自動的に、議会に10の議席を得た。彼らが初心を失い、後年は麻薬取引や無暗な暴力行為に走っていたことを思えば、この「妥協的」な条件には驚く。政治風土も違うのだろうが、困難な事態を解決するための、関係者の決然たる意志が感じられる。50年以上に及んだ内戦の経緯を思えば、この「和解・合意」の在り方が示唆するところは深い。朝鮮危機が報じられた9月1日の朝日新聞には「戦争は対話で解決できる/ポピュリズムは差別生む」と題されたコロンビアのサントス大統領との会見記が載っている。「ゲリラに譲歩し過ぎだ」との世論の批判を押し切ったブルジョワ政治家・サントスの思いは強靭だ。「双方の意志で対話し、明確な目標を持てば、武力紛争や戦争は終わらせることができる」。内戦で苦しんだ地方の人びとの多くが和平に賛成し、内戦の被害が少なかった都市部の住民が和平に否定的だったという文言にも頷く。当事者性が希薄な人が、妥協なき強硬路線を主張して、事態をいっそう紛糾させてしまうということは、人間社会にありふれた現象だからだ。

さて、以上の振り返りはすべて、今日の東アジア危機を乗り越えるための参照項として行なってきた。導くべき答は明快なのだが、惜しむらくは、朝鮮を見ても、米国を見ても、日本を見ても、政治・外交を司る者たちの思想と言動の愚かさを思えば、事態は予断を許さない。こんな者たちに政治を委ねてしまっている私たちは、渦中の「検証会議」を想像力で行なって、この状況下で「当事者」として行なうべき言動の質を見極めなければならぬ。

(9月8日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[87]「一帯一路」構想と「古代文明フォーラム」


反天皇制運動連絡会機関誌『Alert』第14号(通巻396号、2017年8月8日発行)掲載

去る5月、北京で「一帯一路国際協力サミットフォーラム」が開催された。およそ130ヵ国の政府代表団が出席する大規模な国際会議だった。元来は、中国の習近平総書記が2013年に行なったふたつの演説で(カザフスタンのナザルバエフ大学とインドネシア議会)明らかにした構想の延長上で開かれた国際会議である。この構想で目論見られている世界地図は、当時の新聞でたびたび報道されて、私も注目していた。南北の中央部には、中国大陸がどっしりと構えている。その北に広がる「シルクロード経済ベルト」(=一帯)は、中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパに至るが、シベリアを含めた広大なロシアの全領土を覆い尽くしている。南に位置する「21世紀海上シルクロード」(=一路)は、中国沿岸部から東南アジア、インド亜大陸、アラビア半島を経て、アフリカ東海岸部へと至るものである。このふたつの地域で、インフラストラクチャー整備、貿易および資金の往来を促進しようとする計画である。習近平は、ふたつの演説地を周到に選んだと言うべきだろう。

ここに描かれる世界地図では、何事につけても口出しをする欧米諸国の影は薄い。だが、EUは「一帯一路」構想の支持を表明しており、日米両国も北京会議には閣僚級の代表団を派遣した。いずれも、構想が「オープンかつ公正、透明に」実施されるなら、積極的に協力する意思を表明している。

中国が交通インフラ整備の要としているのは高速鉄道網の建設だという。日本の新幹線の派生技術として始まった中国の高速鉄道は、国産技術の水準を急速に高め、自信をつけている。このことをひとつ取ってみても、「一帯一路」事業が孕み得る経済的な可能性(利潤の獲得、とはっきり言っておこう)を思えば、どの国の経済界もこれに参画することを欲して政府に働きかけたであろうことは疑うべくもない。

歴史論・文明論としての魅力は備えているかに見える「一帯一路」構想は、経済合理性に基づいて実施されるしかないから、世界各地の「近代化」が歴史に刻んだ負性を帯びざるを得ない。各国を支配するのが、強権政治を事も無げに行なう連中である限り(東アジアだけを見ても、中国・朝鮮・日本を例に挙げればわかる。新政権が誕生したばかりの韓国は、その行方を今しばらく見守るとしても)、「政経分離」による協力体制がもたらす未来像は、決して明るくはない。経済発展のために常に「フロンティア(辺境)」を必要としている資本主義体制にとって、今後2度とないビッグ・チャンスとすら言えよう。広大な各地に住まう「辺境の民」を蹴散らし、それはまさに、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」といった態をなすだろう。

もうひとつ、去る4月に、中国が主導し、ギリシャと語らってアテネで開催した閣僚級の国際会議にも注目したい。「古代文明フォーラム」である。参加国は、上記の両国に加えて、エジプト、イラン、イラク、イタリア、インド、メキシコ、ペルー、ボリビアの計10ヵ国である。古典的な「世界4大文明圏」に、5世紀有余前に世界史に「登場」した南北アメリカ大陸の、アステカ、マヤ、インカの古代文明圏を組み入れた国際会議であることが、見てとれる。描かれる世界地図からは、ここでも、従来はあまり見たこともない世界史像が浮かび上がってきて、その魅力がないではない。たかだか250年足らずの歴史をしか刻んでいない米国は、姿・形も見えない。ギリシャとイタリアを除くヨーロッパ諸地域も、古代にあっては「辺境」の地であったから、同じことだ。

発表されたアテネ宣言によれば 排外主義やテロなど不寛容な精神の広がりを防ぐために文明間の対話を進め、歴史の知恵を生かすことを唱っている。異論は、ない。だが、「古代文明フォーラム」にも、私は疑念をもつ。古代史研究は、自民族の文化と国家の起源を、「ヨリ古く」「ヨリ大きい」ものにすることに価値を置く方向ではたらくことがある。それが高じれば、異なる文明間に、「発展段階」による優劣をつける歴史観に流されてゆく。

習近平が次々と繰り出す外交方針は、人目を惹く。魅力もある。だが、「中華」の悠久の歴史を思う存分活用しようとするその方針には、検証と批判が不可欠だろう。(8月5日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[86]「現在は二〇年前の過去の裡にある」「過去は現在と重なっている」


『反天皇制運動 Alert 』第13号(通関395号、2017年7月6日発行)掲載

今からちょうど20年前の1997年12月、一冊の「歴史書」が刊行された。『歴史教科書への疑問』という(展転社)。編者は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」と名乗った。煩を厭わず、目次を掲げておきたい。

はじめに(中川昭一)

1 検定教科書の現状と問題点(高橋史朗、遠藤昭雄、高塩至)

2 教科書作成の問題点と採択の現状について(高塩至、丁子淳、漆原利男、長谷川潤)

3 いわゆる従軍慰安婦問題とその経緯(平林博、虎島和夫、武部勤、西岡力、東良信)

4 「慰安婦記述」をめぐって(吉見義明、藤岡信勝)

5 日韓両国にとっての真のパートナー・シップとは何か(呉善花)

6 河野官房長官談話に至る背景(石原信雄)

7 歴史教科書はいかに書かれるべきか(坂本多加雄)

8 我が国の戦後処理と慰安婦問題(鶴岡公二)

9 なぜ「官房長官談話」を発表したか(河野洋平)

当時わたしは『派兵チェック』誌に「チョー右派言論を読む」という連載をもっていて、『正論』(産経新聞社)や『諸君!』(文藝春秋)などの月刊誌を「愛読」していた。当時から見て一昔前なら、泡沫的な極右言論が集う場であったそれらの雑誌は、記述の中身をますます劣化させながら、にもかかわらず社会の前面に躍り出てくる感じがあった。「劣化ぶり」とは、まっとうな歴史的検証に堪えられず、論理としても倫理としても明らかに破綻した文章が「堂々と」掲載されているという意味である。右翼言論のあまりの劣化ぶりを「慨嘆」しながら、それでいてかつてない勢力を誇示しながらそれが露出しつつあることの「不気味さ」を、天野恵一と語り合った記憶が蘇える。この「歴史書」の執筆者には、それらの雑誌で馴染みの名も散見されるとはいえ、そうでもない名も多かった。右派言論界の「厚み」を感じたものである。

「若手議員の会」なるものの発足の経緯にも触れておこう。これは「1997年2月27日、中学校歴史教科書に従軍慰安婦の記述が載ることに疑問をもつ戦後世代を中心とした若手議員が集まり、日本の前途について考え、かつ、健全な青少年育成のため、歴史教育のあり方について真剣に研究・検討すると共に国民的議論を起こし、行動することを目的として設立」された。1997年に先立つ前史を振り返れば、彼らがもった「危機意識」が「理解」できる。以下、年表風に記述してみる。

1991年 元日本軍「慰安婦」金学順さん、その被害に関して日本政府を提訴。

1992年 全社の小学校教科書に「南京大虐殺」が記述される。/訪韓した宮澤首相、「慰安婦」問題でお詫びと反省。

1993年 河野洋平官房長官談話、「慰安婦」問題での強制性を認め、謝罪。/細川護煕首相「先の戦争は侵略戦争」と発言。

1994年 全社の高校日本史教科書に「従軍慰安婦」が記述される。

1995年 村山富市首相、侵略と植民地支配を謝罪する戦後50年談話発表。

これが、1990年代前半の一連の動きだが、これに危機感をもった「若手議員の会」の役員構成は次のようなものだった。代表=中川昭一/座長=白見庄三郎/幹事長=衛藤晟一/事務局長=安倍晋三。そして、衆議院議員84名、参議院議員23名で発足した。中川と安倍は自他ともに許す「盟友」だったが、両者の動きは2001年1月に顕著なものとなった。NHKの「戦争をどう裁くか」第2回「問われる戦時性暴力」の内容を、なぜか事前に知った中川・安倍の両議員がNHK幹部に圧力をかけて番組内容を改変させたからである。NHK側の当事者であった永田浩三の『NHK、鉄の沈黙はだれのために』(柏書房、2010年)などを読むと、NHK幹部は『歴史教科書への疑問』をかざしながら、この連中が圧力をかけてきているといいながら右往左往していた様子が描かれている。

1997年には、日本会議と「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成されている。振り返ってみて、この年が、日本社会の「現在」を作る原点的な意味を持つことが知れよう。最後に、「若手議員の会」の役員以外の主なメンバーを一瞥しておこう。下村博文、菅義偉、高市早苗、中山成彬、平沢勝栄、森田健作、八代英太などの名前が見える。森田は、もちろん、現千葉県知事である。何よりも冒頭のふたりの名前に注目すれば、「現在は20年前の過去の裡にあり」「過去は現在と重なっている」ことがわかる。(7月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[85]PKO法成立から25年目の機会に


『反天皇制運動 Alert』第12号(通巻394号、2017年6月13日発行)掲載

1992年6月、PKO(国連平和維持作戦)法案が成立した。今から、ちょうど、25年前のことである。法案審議が大詰めを迎えた攻防の日々には、ほぼ連日、国会の議員面会所なるところへみんなで出かけていた。野党議員の報告を聞き、「激励」するのである。私は、ソ連の体制崩壊と同時期に進行したペルシャ湾岸戦争(1990~91年)の過程でこの社会に台頭した「国際貢献論」(クウェートに軍事侵攻したイラクの独裁者フセインに対して、世界が挙げて戦おうとしている時に、この地域で産出する石油への依存度が高い日本が憲法9条に縛られて軍事的に国際貢献ができないのはおかしい、とする考え方)を批判的に検討しながら、戦後期は新しい時期に入りつつあると実感した。「反戦・平和」の意識を強固にもつ人は少数派になった、と思わざるを得なかったのである。

自衛隊の「海外派兵」の時代を迎えて、これを監視し、包囲するメディアとして『派兵チェック』が創刊されたのは1992年10月だった(2009年12月、200号目が終刊号となった)。このかん実施されたPKOへの自衛隊の参加実態は以下の通りである。

カンボジア(92年9月~93年9月)

モザンビーク(93年5月~95年1月)

ゴラン高原(96年2月~13年1月)

東ティモール(02年3月^04年6月)

ネパール(07年3月~11年1月)

スーダン(08年10月~11年9月)

ハイチ(10年2月~13年1月)

東ティモール(10年9月~12年9月)

南スーダン(12年1月~17年5月)

去る5月27日、南スーダンに派遣されていた陸自施設部隊第11次隊40人が帰国した。国連南スーダン派遣団司令部への派遣は来年2月末まで続けられるが、部隊派遣は現状ではゼロとなった。当初は、自衛隊が軍事紛争に関与することなく「中立性」を保つための5原則が定められた。「紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者のPKO受け入れ同意、中立性の維持、上記の減速が満たされない場合の撤収、武器の使用は必要最小限度」である。前記年表からわかるように、南スーダン派兵が開始されたのは、民主党・野田政権時代である。民主党も海外派兵の流れに乗るだけだという政治状況を示しているのだが、当時はまだしも、道路建設などに従事し、紛争当事者間の停戦合意が成立した治安情勢が安定している国であることが、派兵の前提になっていた。だが、まもなく、安倍晋三が政権に復帰した。2015年9月に制定された安保法制=戦争法によって、自衛隊は任務遂行のためには武器使用が可能となって、「交戦主体」へと変貌した。

陸自の「日報隠し」にもかかわらず、南スーダン派遣部隊の任地=ジュバでは、2016年7月、「対戦車ヘリが旋回」したり、「150人の死者が発生」したりする事態が生まれていた。この時の状況を詳しく検証したNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」(5月28日放映)によれば、次のことがわかっている。(1)政府軍と反政府勢力との銃撃戦は自衛隊宿営地を挟んで行なわれた。砲撃の衝撃波で自衛隊員はパニックに陥り、「今日が私の命日になるかもしれない」と手帳に記した者もいた。(2)近くの宿営地のルワンダ軍は銃撃戦からの避難民を受け入れた。政府軍はそこを砲撃し、バングラデシュ軍が応戦した。避難民は自衛隊宿営地にも流れ込み、警備隊員には「身を守るために必要なら撃て」との指示が下されていた。帰国した派遣隊員の言葉を通して、「宿営地内のコンテナ型シェルターに何度も避難した」こと、「平穏になっても1ヵ月以上も宿営地外で活動しなかった」ことがわかる。

安倍政権は、南スーダン派遣部隊が「現地の住民生活の向上」に寄与した、とその成果を誇っている。だが、昨年11月、南スーダン自衛隊部隊は、戦争法に基づいて、「宿営地の共同防衛」や「駆け付け警護」(救助のために武器をもって現場に駆け付ける)任務を付与されていた。これが実際には行なわれなかったことは、上に見た状況からいって、「不幸中の幸い」でしかなかった。

「反戦・平和」派が一見して少数派になっているとしても、軍隊(国軍)の存在と戦争(国家テロ)の発動に馴致されないこと――そこを揺るぎない場所に定めたい。 (6月2日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[84] 韓国大統領選挙を背景にした東アジアの情勢について


『反天皇制運動 Alert 』第11号(通巻393号、2017年5月9日発行)掲載

選挙は水物だ。下手に結果を予測しても、それが覆される可能性は常にある。しかし、現在の韓国大統領選挙の状況を複数のメディア報道を通してみる限り、「共に民主党」の文在寅の優位は動かないように思える。対立候補から「親北左派」とレッテル貼りされている文在寅が大統領になれば、現在の東アジアの政治状況は「劇的に」とまでは言わないが、ゆっくりとした変化を遂げていく可能性がある。朝鮮をめぐる日米中露首脳の言動が相次いで行なわれているいま、その文脈の中に「可能性としての文在寅大統領」の位置を定めてみる作業には、(慎重にも付言するなら、万一それが実現しなかった場合にも、東アジアの政治状況に関わる思考訓練として)何かしらの意味があるだろう。

文在寅は、廬武鉉大統領の側近として太陽政策を推進した経験をもつ。具体化したのは金剛山観光、開城工業団地、京義線と東海線の鉄道・道路連結、離散家族再会などの事業であった。それは、「無謀極まりない北」への融和策として、対立者からの厳しい批判にさらされてきた。あらためて大統領候補として名乗りを上げた文在寅は、ヨリ「現実的」になって、韓国軍の軍事力の強化を図ること、つまり、朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からの一定の離脱志向を伴っているということである。1950年代の朝鮮戦争以来、韓国軍の指揮は在韓米軍が掌握してきた。平時の指揮権こそ1994年に韓国政府に委譲されたものの、2012年に予定されていた有事の指揮権移譲は何度も延期されたまま、現在に至っている。

文在寅は、大統領に就任したならば早急に有事指揮権の韓国政府への委譲を実現すると表明した。それは対米交渉を伴うだろうが、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプには、世界のどこにあっても米国が軍事的・政治的・経済的に君臨し続けることへの執着がない。韓国の軍事力の強化を代償として、在韓米軍の撤収への道が開かれる可能性が生まれる。それは、朝鮮国指導部が要求していることと重なってくる。

朝鮮国・韓国の両国間では激烈な言葉が飛び交っている。とりわけ、朝鮮国からは、あの強固な独裁体制下での下部の人びとの「忠誠心競争」の表われであろう、ヨリ激しい言葉を競い合うような表現が繰り出されている。それでも、底流では、戦火勃発に至らせないための、「国家の面子」を賭けた駆け引きが行なわれていると見るべきだろう。

朝鮮半島をめぐって同時的に進行しているいくつかの事態も整理してみよう。4月27日に行なわれたプーチン+安倍晋三会談において、前者は「少しでも早く6者協議を再開させることだ」と強調した。後者は記者会見で「さらなる挑発行為を自制するよう(北に)働きかけていくことで一致した」ことに重点をおいて、語った。

4月29日、朝鮮は弾道ミサイルの発射実験を行なったが、失敗したと伝えられた。ロンドンにいた安倍首相は「対話のための対話は何の解決にもつながらない」、「挑発行動を繰り返し、非核化に向けた真摯な意思や具体的な行動を全く示していない現状に鑑みれば、(6者協議を)直ちに再開できる状況にない」と断言した。

4月30日、トランプは「若くして父親を亡くし権力を引き継いだ金正恩委員長は、かなりタフな相手とやり取りしながら、やってのけた。頭の切れる人物に違いない」と語った。翌5月1日にも「適切な条件の下でなら、金委員長に会う。名誉なことだ」とまで言った。

さて、5月3日付けの「夕刊フジ」ゴールデンウィーク特別号に載った首相インタビュー記事での発言は次のようなものだ。「トランプの北朝鮮への覚悟は本物か」と問われて「間違いない。すべての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ大統領の姿勢を高く評価する」。「軍事的対応もテーブルの上にあるか」との問いには「まさにすべての選択肢がテーブルの上にある。高度な警戒・監視行動を維持する」と答えている。その「成果」が、ミサイル発射時の東京メトロの一時運行停止や、内閣官房ポータルサイトに「核爆発時の対応の仕方」を注意事項として掲げることなのだろう。

これ以上わたしの言葉を詳しく重ねる必要はないだろう。当事国も超大国も、駆け引きはあっても、朝鮮半島の和平に向けて「暴発」や「偶発的衝突」を回避するための姿勢を一定は示している。その中にあって、平和に向けての姿勢をいっさい示さず、むしろ緊張を煽りたてているのは、2020年の改憲を公言した日本国首相ひとりである。 (5月5日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[83]現政権支持率の「高さ」の背景に、何があるのか


『反天皇制運動 Alert』第10号(通巻392号、2017年4月4日発行)掲載

私としたことが、少なからず驚いた。3月末に行なわれた世論調査の結果に対して、である。ふだんから、その結果に大幅に依拠した発言は控えてはいる。設問の仕方が明快ではなく、信頼に足る調査結果が果たして生まれるものなのか、との疑念が消えないからである。だが、例えば、内閣支持率の場合には、ある程度の「現実」がそこには反映されていて、時の政権も「20%を割ったら、もたない」などといってその数字を気にかけていることが、過去の事例からわかる。

現政権の支持率の「高さ」は、私の〈狭い〉人間関係の中での周辺を思えば不可思議で、同時に、後述するこの四半世紀の社会・政治状況を思えば、心ならずも得心が行くところはあった。しかし、今回は違うだろう。去る3月23日、いわゆる森友学園問題をめぐって、衆参両院の予算委員会で籠池学園理事長の証人喚問が行なわれたが、そこで発せられた証言を見聞きした直後の世論調査では、いくらなんでも、内閣支持率は急激に落ちるだろう。確かに「敵失」によってではあっても、この最悪の首相を早晩辞任に追い込む一里塚になるかもしれない――そんな思いが、ないではなかった。

もちろん事が終わったわけではなく継続中だから諦めるわけではないとしても、その段階での私の見立ては間違った。甘い読みだった。共同通信が、籠池証言の2日後に行なった世論調査での内閣支持率は確かに下がったが、それでもなお50%前後を維持している。森友学園問題についての首相の答弁が十分ではないと考えている人びとの率が70~80%であっても、内閣支持率になると「復調」するのだ。一昨年の戦争法案の時も同じだった。この政権に限っては、なぜ、このような現象が起こるのだろう? その人格・識見において「敵ながらあっぱれ」と思わせるどころか、歴代の保守政治家と並べてみても劣悪極まりない人物なのに。

世代交代によって自民党が変質したとか、民主党政権「失敗」の印象が強く代わり得る受け皿がないなどの意見を筆頭として、さまざまな見解が飛びかっている。それぞれ一理はあろうが、ここでは改めて、自分たちの足元に戻りたい。私たちが、戦後民主主義者であれ、リベラルであれ、左翼であれ、社会の在り方を変革しようとする、総体としての「私たち」の敗北状況のゆえにこそ「現在」があるのだという事実を噛み締めるために。

現首相の支持母体であり、森友学園問題の背後に見え隠れする「日本会議」についてこのかん刊行された複数の書物を読むと、彼らは周到な準備期間を経て、自らの潮流をこの社会の中に根づかせてきたことが知れる。結成されたのは1997年だが、これが胎動し始めた決定的な起点は、それを遡ること6~7年目の1990年前後だと振り返ることができよう。1989年から1991年にかけて、東欧・ソ連の社会主義圏一党独裁体制が次々と崩壊した。実感をもって思い起こすことができるが、あの時代、公然とあるいは暗黙の裡に、左翼からの転向現象が相次いだ。書店の棚からはマルクス主義の書物が、大学からはマルクス経済学の講座が消えた。ソ連圏の実態については、はるか以前から数多くの批判が、外部および内部から積み重ねられてきていたが、共産党が独占してきた非公開文書の流出によって、社会主義の悲惨な内実がいっそう明らかになった。「ナチズムは断罪されるのに、なぜ共産主義はされないのか」――この言葉が、端的に、時代状況を言い表していた。共産主義が掲げていた「理想主義」も「夢」も地に堕ちた。「反左翼」が「時代の潮流」となった。日本会議は、この「時を掴んだ」のだ。

この時期の東アジアの状況は特異だ。韓国では軍事独裁体制が倒れ、言論の自由を獲得した人びとの声が溢れ出たが、その一つは、日本帝国のかつての植民地支配が遺したままの傷跡を告発することに向かった。北朝鮮と中国からも、日本の植民地主義と侵略戦争をめぐる告発が次々と発せられた。これこそ、歴史修正主義潮流である日本会議の路線に真っ向から対立するものだった。日本ナショナリストたちの反応は捻じれたものとなった。「いつまで過去のことを言い募るのか」「左翼が負けたと思ったら、今度は植民地問題か」――この「気分」は、状況的にいって社会に広く浸透していた。「難癖をつける」隣国に負けるな、強く当たれ! それを政治面で表象するのが安倍晋三である。

安倍の時代は早晩終わるにしても、社会にはこの「気分」が根づいたままだ。いったん根を張ってしまったこれとのたたかいが現在進行中であり、今後も長く続くのだ。

(4月1日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[82]スキャンダルの背後で進行する事態に目を凝らす


『反天皇制運動 Alert』第9号(通巻391号、2017年3月7日発行)掲載

「ことばが壊れた」とか、「崩れゆくことば」などという表現を私が使ったのは、 21世紀に入って間もないころだった。世界的には、「9・11」に続く「反テロ戦争」の正当化を図る米国政府の言動の支離滅裂さと、にも拘わらず各国政府や主要メディアがこれに追随する状況が念頭にあった。国内的には、いわゆる「小泉語」の問題があった。首相に就任した小泉純一郎が、従来の保守政治家とまったく異質の断定口調の〈爽快さ〉によって支持率を上げてゆく事態が進行していた。論理に基づく説明はいっさいなく、その意味では支離滅裂さの極みというべきものが「小泉語」の本質には、あった。

それから十数年が経った。今や、政治の世界では「ポスト真実」などということばが大手を振って罷り通っている。「事実に基づかない政治」「政策路線や客観的な事実より個人的な感情に根差した政治家の物言いが重視され、それによって世論が形成される」時代を指しているのだという。「小泉語」はその典型ではないか、私たちはすでにそんな時代を体験してきたのだ、と言っておきたい思いがする。世界的に見て、この状況が加速されたのではあろう。インターネット上に「贋情報」や「贋ニュース」が蔓延し、それがひとつの「世論」を形成する場合もある現代の〈病〉が浮かび上がってくる用語である。

この状況をもっとも象徴的に代表し得る為政者として、世界に先駆けて二国間会談を行なった米日両国首脳を挙げることができよう。彼方米国では、さらに、「オルタナ・ファクト(もうひとつの事実)」なることばすら使われている。誰の目から見ても明らかな嘘を言い、それを指摘されると、「嘘じゃない、オルタナ・ファクトだ」と強弁するのである。裸の「王」ひとりが言うのではなく周りの者たちも直ちに唱和していく点に、〈政治〉の世界の恐ろしさが見られる。

だが、スキャンダラスなこの種の話題にのみ集中して、米国で進行する新旧支配層の闘争を見逃すわけにはいかない。2月下旬、米国と北朝鮮は、中国の協力を得て、核問題をめぐる非公式会談を行なう準備を進めていた。北朝鮮のミサイル発射、金正男殺害事件(その真相はまだ不明だ)によっても、会談のための準備は中絶されなかった。だが、最終段階で、米国は朝鮮代表団へのビザ発給を見送った。米朝対話から和平へと進むことを快く思わない軍産複合体が米国には存在する。政権内部の抗争があったのだろう。トランプ「人気」は、既存秩序の象徴たるオバマやヒラリー・クリントン(それらを支える軍産複合体も含まれている)と対決しているかに見える点にある。水面下で進行する両者のせめぎ合いにこそ注目すべきだと思う。権力政治家は、スキャンダルの一つや二つで消え去りゆくほどやわな者ではないことは、長年心ならずも自民党政治を見てきた私たちには自明のことだ。

さて、此方にも、米朝対話の挫折を喜ぶ者たちがいる。安倍政権が現在の対米軍協力強化・軍拡・武器輸出推進などの路線を追求するためには、北朝鮮とは恒久的に対立していることが望ましい。事実、対立関係が見た目に高まれば高まるほどに、時の政権の支持率も増す。「拉致問題の解決こそ自らの使命だ」と高言してきた安倍が、被害者家族会がようやくにして苛立ちを示すほどにその努力を怠ってきたことには、彼なりの理由がある。

その安倍も、いま、森友学園をめぐるスキャンダルに見舞われている。政治家と官僚、さらには日本会議に巣食う連中の本質が透けて見えてくる「醜聞」ではある。国有地売買の背景には、民主党鳩山政権から菅政権への移行期に財務省官僚が立案した『「新成長戦略」における国有財産の有効活用』(2010年6月18日、財務省)と『新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~』(同日、閣議決定)がある。新自由主義的な価値観に貫かれたこの官僚路線は、反官僚の姿勢をむき出しにした民主党政権の「失敗」を経て、2012年に第2次安倍政権が復活した段階で、利害の合致する政治家を見出したというべきだろう。この問題からは、どこから見ても、現代日本をまるごと象徴する腐臭が漂う。徹底した追及がなされるべきだが、同時に、私は思う。秘密保護法、戦争法案、南スーダンへの自衛隊の派兵などの政治路線における攻防で「勝利」できなかった私たちの現実を忘れまい、と。誰であろうとスキャンダルによる「窮地」や「失墜」は、いわばオウンゴールだ。そこで、私たちの力が、本質的に、増すわけではない。(3月4日記)

【追記】文中で触れた「成長戦略」文書のことは、ATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)のメーリングリストに投稿されたIさんの文章から教えてもらった。末尾に、リンク先を記します。

なお、ATTACのHPは以下です。

http://www.jca.apc.org/attac-jp/japanese/

◎「新成長戦略」における国有財産の有効活用

平成22年6月18日 財務省

http://www.mof.go.jp/national_property/topics/arikata/

◎新成長戦略~「元気な日本」復活のシナリオ~(平成22年6月18日)

http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[81]トランプ政権下の米国の「階級闘争」の行方


『反天皇制運動 Alert 』第8号(通巻390号、2017年2月7日発行)掲載

就任式から2週間、米国新大統領トランプが繰り出す矢継ぎ早の新たな政策路線に、世界じゅうの関心が集中している。この超大国の、経済・軍事・外交政策がどう展開されるかによって、世界の各地域は確かに大きな影響を受けざるを得ない側面を持つのだから、関心と賛否の論議が集中するのは、必然的とも言える。個人的には、私は、(とりわけ)米日首脳がまき散らす言葉に一喜一憂することなく、自らがなすべきことを日々こなしていきたいと思う者だが、それでも一定の注意は払わざるを得ない。

トランプは、米国の外に工場が流出したことで「取り残された米国人労働者」や「貧困の中に閉じ込められた母子たち」とは対照的に、ひとり栄えるものの象徴として「首都=ワシントン」を挙げた。そこに巣食う小さなエリート集団のみが政府からの恩恵にあずかっているとし、それを「既得権層」と呼んだ。就任演説を貫くトーンから判断するなら、現代資本主義の権化たる「不動産王」=トランプは、まるで、労働者階級のために身を粉にして働くと言っているかのようである。叩き上げの「新興成金」が、伝統的な支配構造に一矢を報いているかに見えるからこそ、この状況が生まれているという側面を念頭におかなければならないと思える。

具体的な政策をみてみよう。米国労働者第一主義(ファースト)の立場からすると、労働力コストなどが廉価であることからメキシコに製造業の生産拠点を奪われ、国内雇用を激減させる要因となった北米自由貿易協定(NAFTA、スペイン語略称TLC)も、トランプにとっては攻撃の的となる。協定相手国であるメキシコとカナダとの間での、離脱のための再交渉の日程も上がっている。思い起こしてもみよう。メキシコ南東部の先住民族解放組織=サパティスタ民族解放軍は、この協定は3国間の関税障壁をなくすことで、大規模集約農業で生産される米国産の農作物にメキシコ市場が席捲され、耕すべき土地も外資の意のままに切り売りされると主張して、その発効に抵抗・抗議する武装蜂起を、1994年1月1日に行なった。発効後15年目の2008年には3国間の関税が全面的に撤廃され、予想通りにメキシコ市場には米国産農産物が押し寄せ、メキシコ農業は荒廃し、農で生きる手立てを失った農民は、仕事があり得る首都メキシコ市へ、そこでもだめならリオ・グランデ河を超えて、米国へと「流れゆく」ほかはなくなった。

グローバリズムを批判し、これに反対するという意味では、トランプとサパティスタは、奇妙にも、一致点を持つかに見える。だが、子細に見るなら、他国の民衆をねじ伏せる経済力を持つ米国の利益第一主義を掲げるトランプと、一般的にいって多国籍企業の利益に基づいてこそ自由貿易協定の推進が企図され、それは経済的な弱小国に大きな不利益をもたらすという、事態の本質に注目したサパティスタとは、立脚点が根本的に異なっていると言わなければならない。

トランプの反グローバリズムの主張を色濃く彩る排外主義的本質は、メキシコとの国境線をすべて壁で塞ぐという方針にも如実に表れている。総距離3150キロ、うち1050キロにはすでにフェンスがつくられている。1000万人を超えるというメキシコからの「不法」移民に「米国人労働者の職が奪われて」おり、彼らは「犯罪者」や「麻薬密売人」だから国境を閉鎖して「不法」侵入を防ぐというトランプの方針は、米国白人が持つ排外主義的な感情を巧みにくすぐっている。今はご都合主義的にも反グローバリズムの立場に立つとはいえ、資本制社会の申し子というべきトランプは、米社会に麻薬の最大需要があるからこそ供給がなされているという「市場原理」を忘却して、メキシコにすべての罪をなすりつけようとしている。

歴史的経緯や論理を無視して「アメリカ・ファースト」という感情に基づく発想でよしとするトランプは、今後も「100日行動計画」を次々と打ち出してくるだろう。「予測が不能な」その路線如何では、世界は〈自滅〉の崖っぷちを歩むことになるのかもしれぬ。私は、米国の外交路線は「トランプ以前」とて決してよいものではなかったという立場から、新旧支配層の対立・矛盾が深まるであろう米国の「階級闘争」の行方を注視したい。

(2月5日記)