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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[25]「海上の道」をたどる軍事力の展開――70年前の史実と、現在と


反天皇制運動『モンスター』27号(2012年4月10日発行)掲載

オーストラリア連邦北部ノーザンテリトリ準州にダーウィンという町がある。ティモール海に面し、オーストラリアのなかではもっともアジアに近い町だ。真珠湾奇襲攻撃から2ヵ月後の1942年2月、日本軍はこの町を空襲した。日本軍がオランダ領東インド諸島(その後のインドネシア)を占領したことに対して、連合国側がオーストラリア北部にある基地から反撃に出ることを封じるための先制攻撃である。日本軍占領によって追われた植民者・オランダ人の一部がオーストラリアへ逃げ、日本軍は続けてティモールをも占領した史実を重ね合せると、確かにオーストラリア北部はアジア多島海の延長上に位置する地勢上の要件を備えていることがわかる。

このダーウィンに、去る4月3日、米海兵隊の第一陣二百人が本拠地ハワイから到着した。昨年11月、豪州を訪問した米国大統領は、豪首相との会談で、ダーウィン近郊の豪軍施設を利用して米海兵隊を駐留させることで合意した。五年後の2017年(ロシア革命百周年! と書いても、虚しくも意味ないか)には2千5百人規模にする計画である。70年前の日本軍の海洋展開を頭に描きながら、中国の「海洋進出」を警戒して仕組まれた米豪軍事協力体制が確立したのである。米国はさらに、豪西部パースの海軍基地の利用拡大や、インド洋の豪領ココス諸島を無人機基地として利用する可能性も検討しているという情報もある(4月5日付しんぶん赤旗)。世界規模での米軍再編は、豪州地域で先行的に展開されている。去る2月の米豪軍事共同訓練には日本の航空自衛隊が初めて参加しており、さらに経済面では日本はオーストラリアにとっての最大の貿易相手国であることを考え合わせると、私たちが日常感覚として持つ「オーストラリアの遠さ」は、為政者たちが取り仕切る政治・経済・軍事の領域での実態とはかけ離れているのであろう。

ここから、二つの問題を考えておきたい。一つ目は「米軍の世界展開」の現状である。昨年末時点での米国防総省の統計に基づいた数字がある(3月25日付朝日新聞)。米国内の基地と領海には122万人の兵士がいる。国外には30万人の兵士が駐留している。合計152万人の兵士を抱え、年間軍事支出は50兆円に上る。特徴的なことを挙げてみる。

一、ドイツに5万3526人、イタリアに1万817人、日本に3万6708人の米兵士が駐留している。欧州とアジア太平洋の枠組みでそれぞれを見ると、いずれも突出した数字である。第2次大戦の敗戦国への「仕打ち」が60年有余以後の今なお継続している。帝国主義間戦争とはいえ、日独伊がファシズム国家であったことから、連合国側は道義的な「優位性」を保持し得たが、その「成果」を米国が独り占めして現在に至っている。

二、アフガニスタンには9万1千人の兵士が駐留している。イラクからは完全撤退したが、クウェートなど周辺地域には4万人程度を残していることからわかるように、原油確保とイランに向けた戦略は十分に担保されている。

三、中南米・カナダの駐留数は1970人とされている。中南米は、かつてなら「裏庭」意識で思うがままに利用してきた地域だが、政権レベルでも民衆レベルでも対米従属を絶ち、自立的な動きが高まった結果と見るべきだろう。東アジア、日本にとって、もって他山の石となすべき教訓だと言える。

二つ目は「北朝鮮が打ち上げる『衛星』に対する破壊措置令」の意図である。部品落下の可能性に向けての措置としては、きわめて異常な警戒態勢が準備されている。沖縄本島、宮古島、石垣島へ地上発射型迎撃ミサイルPAC3を配備したことは、2010年の「防衛計画の大綱」が言及した、中国を意識しての「南西防衛」構想の具体化のための一里塚であろう。日米軍事同盟の下にある限り、この構想は「海上の道」をたどって、冒頭で見た米豪軍事協力体制とも結びつくだろう。

どの国の為政者も、隣国の軍事的脅威を言い募っては、自国の軍事力強化の口実としている。東アジアのこの悪循環を断ち切るために「他山の石」から知恵を得たい。切に、そう思う。(4月7日記)

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

「環」(Trans-)という概念から考えるTPP問題 ――「環日本海」と「環太平洋」


『環』45号(2011年Spring、藤原書店)掲載

「環日本海」

「環」(Trans-)は、本来なら、豊かな可能性に満ちた地理的概念になり得ると思われる。私がもっとも好ましいと考えている「環」概念は、富山県が作成した「環日本海諸国図」と称する350万分の1の地図に見られる(複数の民族・国家に囲まれている公共財としての海に、特定の国家名称である「日本」を冠していることが、他者との共存を阻害する排他性を示していることに、日本社会は徹底して無自覚である。これは重大な問題だが、テーマを異にするので、ここではこれ以上は触れない)。私たちは、日ごろから、「北」を常に上位におく方位イデオロギーに貫かれた平面地図を見慣れたものとしているが、この環日本海諸国図を見ると、今まで当然と思っていた平衡感覚が揺らぐ。日本列島は、太平洋を上にして、北から南へと(南から北へ、という表現も可能である)横たわっている。海を挟んで下方には、サハリン、ロシア東端部、中国東北部、朝鮮民主主義人民共和国、韓国と続き、さらには遼東半島を経て北京・上海・香港へと至る中国大陸が広がっている。日本海は、明らかに、これらの諸国・諸地域によって囲まれた〈内海〉であることが、自然に感じとられる地図である。

この〈内海〉を、それぞれの歴史的段階において民族間・国家間の争いと侵略と戦争の場にしたのは誰か、という問いが私たちの裡に必然的に生まれるとともに、東西冷戦構造が消滅して20年近くを経た今なお、地球上で唯一なぜこの地域には冷戦構造が維持されているのかという内省へも、私たちは行きつかざるを得ない。地方自治体や非政府組織が軸になって、環境問題などをめぐって国境を超えて「環日本海」の協働関係をつくろうとする努力は続けられてきているが、国家のレベルでは、残念ながら、そうではない。「環」を形成する諸国が、対等・平等な関係性の中で、対立/抗争の〈内海〉を、いかに、平和のそれに転化できるかが、今こそ問われている。

「環太平洋」の歴史的文脈――「黒船」の意味

さてここでの問題は、Trans-Pacific という概念である。「環太平洋」なる概念はとてつもなく広い。南米の最南端チリから、中米・北米諸国をたどり、ロシアのシベリア地域を通って東アジア諸地域、東南アジア多島海地域、オーストラリア、ニュージーランへと至り、またそれらに囲まれた南太平洋の島嶼国も含まれる。30ヵ国以上にも上るかと思われる該当国の中にあって、ひときわ異彩を放つのは米国である。なぜなら、この国は、東海岸を通してTrans-Atlantic(環大西洋)に繋がり、アメリカ大陸に位置することによってラテンアメリカ・カリブ海域と一体化した汎米州(パン・アメリカン)共同体的なふるまいを行ない、西海岸を通してTrans-Pacific(環太平洋)諸国の一員であるという顔つきもできるという、世界でも唯一の地理的「特権性」を享受しているからである。さらに、この国は、政治・経済・軍事の分野ではもとより、文化的影響力の大きさにおいても、かつてほどではないにしても現在なお、他の諸国に比して群を抜いており、加えて国際的な関係を他国と結ぶうえで、この国が対等・平等であることを心がけたことなどは一度もないからである。

米国が、環太平洋への出口を獲得したのは19世紀半ばであった。

3世紀に及ぶスペインによる植民地支配からメキシコが独立したのは1821年だったが、当時はメキシコ領であった現テキサス地域が1836年に分離したのは、「西部開拓時代」の只中にあって「西へ、西へ」と向かう米国の干渉によるものだった。これに奏功した米国は1846年にはメキシコに戦争を仕かけ、これに勝利した戦利品として、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアという、現メキシコの2倍以上もの資源豊かな領土を奪い取った。1823年のモンロー宣言によって、アメリカ大陸からヨーロッパ列強の影響力を排除することを企図した米国は、今度は太平洋への出口を獲得したのである。米国の、環太平洋への進出の動きは素早かった。対メキシコ戦争に参戦したペリー総督は、艦隊を率いてインド洋に展開していたが、彼がその黒船を率いて、当時鎖国中であった日本の浦賀沖に現われて、砲艦外交によって開国を迫ったのは1853年のことである。19世紀前半の、この30年間有余に凝縮している米国の「拡張史」からは、「帝国」形成期における海外侵略のエネルギーの強靭さが見て取れる。

米国はさらにインディアン殲滅戦争を続行するが、これにほぼ奏功して国内統治を完璧なものにした19世紀末、その意識では「裏庭」と捉えているカリブ海域、および太平洋を横断し(trans-)、遠く東アジア地域への進出を果たした。そしてキューバとフィリピンの民衆の反植民地闘争がスペインからの独立を目前にしていた段階で、米国は陰謀的な手段で介入し、局面を米国・スペイン戦争に変えてしまったのである(1898年)。勝利した米国は、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから奪い、キューバをも実質的な支配下に置いた。

TPPの歴史的文脈――中南米での教訓

米国は、19世紀の前半から後半にかけて確立したこのような地理的優位性を基盤に、20世紀における世界支配を実現してきた。1917年から91年までは、ソ連型社会主義との熾烈な競争・闘争もあったが、そのソ連が無惨な崩壊を遂げたときには、資本主義が絶対的な価値をおく「市場原理」の勝利を謳歌した。それ以降の20年間、新自由主義(ネオリベラリズム)とグローバリゼーションの掛け声の下に、地球(globe)全体を丸ごと支配する方策を模索してきているが、自由貿易はそのもっとも重要な軸であった。1994年、米国はまずカナダ、メキシコとの間で「北米自由貿易協定」(NAFTA)を実現した。関税障壁を15年間かけて撤廃したこの協定は、3億6千万人を包括する自由貿易協定として全面的に実施されている。世界最強の大国と第三世界の国が同じ自由貿易圏に入ると、いかなる結果がもたらされるか。農産物を例にとれば、メキシコの米国に対する輸入依存率は、協定前の5~10%から40~45%に高まった。農民の4割に相当する250万人が離農し、多くは職を求めて米国へ渡った(註1)。農地の一部は多国籍企業の手に渡り、先進国の食肉需要を満たすための牧草地とされた。

米国は、この余勢を駆って、クリントン、ブッシュ(子)の二代の大統領の任期を通じて、キューバを除外した米州自由貿易圏(FTAA)の実現に全力を挙げた。ガットなきあとの世界貿易機関(WTO)が思うようには機能できず、「内外無差別な投資の自由」を推進しようとした「多国間投資協定」(MAI)も、欧米のNGOを中心とした強力な反対運動によって頓挫を余儀なくされたために、世界全体に自由貿易を強要する企図を早期に実現する見通しを失った。そこで、二国間、あるいは地域限定の自由貿易体制をつくることで、突破口を切り開こうとしたのである。

2005年11月、アルゼンチンで第四回米州サミットが開かれた。ブッシュ大統領は、人口8億5千万人、GDP約13兆ドルの世界最大の市場を包括する米州自由貿易圏構想をここで一挙に実現しようとしていた。だが、1970年代半ば以降、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けていて、それによって荒廃した社会状況の辛酸をなめていたこの地域には、政府レベルでも、民衆運動レベルでも、新しい力が育っていた。新自由主義とグローバリゼーションに異議を唱え、それとは正反対の価値観、すなわち、連帯・共同・相互扶助の精神によって、地域共同体をつくろうとする大きな動きである。ブッシュ構想は、そのような各国政府から激しい批判を受けた。構想に抗議する五万人の民衆が会場を包囲した。ブッシュ構想は、あえなく潰えた。

世界貿易機関の「円滑な」運営や多国間投資協定および米州自由貿易圏を挫折させたのは、少数の大国が思うがままに作り上げてきた貿易秩序に「否!」を唱え、富裕国と貧困国の間に、公正で対等な経済秩序を打ち立てようとする民衆運動の力である。残念ながら、日本では実感できないその力が、世界的には、放埓な新自由主義とグローバリゼーションの跳梁を現実に阻止してきた。

2006年に、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの四ヵ国が発効させたTPPは、いわば「小国のFTA(自由貿易協定)」であった。米国のオバマ大統領が2009年にこれへの参加を表明し、それは「帝国のFTA」に豹変した(註2)。19世紀以降、米国が一貫して追求してきた自国利害優先の世界戦略にひとつの自己懐疑もおぼえたことのない米国は、「環」の理念を身勝手に利用して、19世紀半ばの帝国主義時代の価値観に基づいて、「太平洋地域」への介入を試みているのである。

世界史を顧みると、植民地支配や侵略戦争など「人道への犯罪」を積み重ねてきた欧米諸国と日本が、現在に至るまで政治・経済・軍事の世界秩序を主導的に形成してきている。

それは「もう、たくさんだ!」と拒否するところで、上に見た多様な抵抗の言論と活動が展開されている。このような歴史過程のなかに、TPPをめぐる攻防を据えること。それによって私たちは、「現在」だけに視野を拘束されない歴史的な奥行きと深みの中で、TPPの背後に広がる事態の本質を掴むことができる。

対米追従の歴史的文脈――「環日本海」と「環太平洋」

日本では2009年に民主党政権が発足した。鳩山首相は、最初の演説で「東アジア共同体」に触れたり、沖縄に集中している在日米軍基地に関しても、歴代の自民党系列の為政者からは聞かれなかった方針を明示したりして、戦後60年有余の澱んだ政治に何らかの新しい光景が開かれていくか、と思わせるものがないではなかった。

だが、いまとなっては、その後の顛末を振り返ることすら虚しい結末となって、鳩山時代は終わった。継承したのは、市民運動出身を標榜する菅直人首相である。菅氏は野党時代には「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示することを約束する」(民主党幹事長時代の、那覇市での選挙演説、2001年7月21日)とか、「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(民主党代表代行時代、2006年6月1日)などと語っていた。ところが、首相就任直後の2010年6月には「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」(衆院本会議、2010年6月14日)と答弁し、また「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」とオバマ大統領との電話会談で語りかけた(2010年6月6日)。菅氏がこのような開き直りの口実に使った出来事はあった。尖閣諸島をめぐる中国との角逐、竹島(独島)の占有権をめぐる韓国との争い、そして北朝鮮の軍事優先主義を示すいくつかの行動である。

菅氏は、環(trans-)日本海地域が直面している困難な事態を歴史的な責任を賭けて切り開く道を選ぶのではなく、むしろアジア近隣諸国との正常ならざる関係を奇貨として、はるか太平洋の向こうにある(trans-)米国との軍事同盟に日本の命運を託すという方針を、問わず語りに明かしたのである。「環」の論理が孕む豊かな可能性をなきものにし、逆に、身勝手な自己流の論理の中に「環」が有する地理的関係性を巻き込んでしまったのである。

戦後60年有余、パックス・アメリカーナ(米国による、米国のための平和)の傘の下に置かれた日本が、自らの意思に基づいて、政治・経済・日米同盟などについての指針を持つことがなかった事実については、批判派からの提起が何度もなされてきた。菅氏の前述の諸発言を思うと、根はもっと、歴史的に深いところにあるように思える。冒頭で触れたペリー来航からわずか5年目の1858年には、日米修好通商条約が締結された。周知のように、これは、日本が関税自主権を放棄し、片務的最恵国待遇を保証した不平等条約であった。米国が「修好」の名の下に、この種の二国間条約の締結を相手の「小国」に強要する例は、その後も枚挙にいとまがないままに、21世紀の現在にまで続いている。近代から現代にかけての日本は、もっとも愚劣な方法で米国に対抗した真珠湾攻撃(1941年)から敗戦に至るまでのわずかな期間を除いて、戦前も前後も、米国のこのような論理にまともに討論を挑み、抗議し、関係の是正のために尽力することを怠った。被害者意識だけを募らせたその果てに、明治維新後の1875年、近代日本は朝鮮に対して江華島事件を引き起こすことで、4隻の黒船から受けた砲艦外交と同じことをアジア諸地域に対して行ない始めた。1869年の蝦夷地併合(北海道と改称)を契機として、すでに植民地帝国としての近代日本の歩みは始まっていたが、その6年後には、もっとも近隣の国に対する露骨な介入を開始したのである。

菅氏は、この「第一の開国」が孕む問題性を自覚しているのだろうか、無自覚なのだろうか。2010年11月、突然のように、TPPへの参加の意思表示を行ない、もって「平成の開国」と呼び始めた(註3)。「第三の開国」とも称しているが、これは、アジア太平洋戦争における敗戦を、なぜか「第二の開国」と数えているからである。

このような菅氏の歴史認識のあり方は、大いに疑わしい。一部の人びとが抱いたであろう(私とて、一部の政策分野に関しては、そうであった)民主党政権に対する淡い期待は、急速に冷めつつある。その対米従属ぶりは自民党政権時代よりひどいというのが、多くの人びとの実感であろう。思い起こせば、しかし、「労働党」を名乗るイギリスのブレアも、「9・11」以後、ブッシュ路線への驚くべき追随路線を実践してみせた。議会制民主主義国における二大政党制なるものは、所詮、微小な差異を示すものでしかない、あるいはほぼ同根の価値観を持つものでしかないと腹をくくった地点で、事態を捉えなくてはならないのであろう。

TPPが包括するさまざまな産業分野に即して、また日本の現状に照らして、これに反対する論理を展開することは必要であるが、それはすでに多くの方々によって有効な形で行なわれている。TPPは、現在の構想で実現されるなら、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりか、貿易保険、知的財産権、投資、労働、環境、人の移動などにも関わる包括的な協定である。

ナショナリズムによらないTPP批判を

このように人間生活のあらゆる分野を包み込むものであるから、「食」と「農」だけが特別視されるべきものではない。だが、TPP反対論を総体として眺め、「ナショナリズム」の匂いが鼻につくのは、ひとが「食」と「農」について語るときであることが多い。私は、TPP反対の論理にナショナリズム――それは、「国家主義」とも「民族主義」とも解釈されうる。あるいは、言葉遣いによっては「日本至上主義」というべき言動も、ないではない――が入り込む余地をなくすべきだと考えている。

去る2月26日、370人の参加を得て東京で開かれた「TPPでは生きられない! 座談会」(「TPPに反対する人々の運動」主催)での多様な人びとの発言に耳を傾けてみても、反TPPの多様な声のなかには、「国産品を買おう」という声も混じる。「水田耕作を守ることは日本文化の基本」と叫ぶひともいる。それは、私が受ける印象では、東日本大震災以降、「国難」論に基づいて、事態(とりわけ、原発危機)の責任者を名指しすることもなく煽られている「国を挙げての復興キャンペーン」にも似た「国民運動」の呼びかけとも重なってくる。

ひとは、「国産品だから」安心して、買い求め、食するのだろうか。私たちが、どんなにささやかであろうとそれぞれ可能な形で、有機農産物の産地=消費地提携活動や地域内循環(地産地消)に関わっているのは、それはいきなり「国産品」とか「日本製品」を尊重する意識に飛んでいるのではなく、限定的な地域(ローカル)で貌が見える関係性のなかで培われた双方の信頼感を基にしているからである。あの米国においてでさえ、大都市近郊には「地域支援型農業」(CSA=Community Supported Agriculture)が広がり、連帯経済の新しい形態として注目を集めているという(註4)。「国産か否か」が問題なのではなく、「有機か否か」を問うことがここでの問題だろう。直接交流しているわけでもない世界のどこにあっても、同じ志の仲間がいると思うとき、「国産品なら良い」とする意識も言葉も、自然に消えていくだろう。

水田も、日本だけの稲作形態ではない。中国にも、インドにも、パキスタンにも、それは多く見られる。ラテンアメリカ、北米、アフリカ、南ヨーロッパにもそれは見られる。私の世代なら、シルヴァーナ・マンガーノの美しさが忘れられない戦後のイタリア映画『苦い米』を脳裏に浮かべて、あの時代のイタリアにも水田耕作が行なわれていた地域があったのだと思うこともできる。自らが営む水田の光景の美しさや産米の美味しさを言いたいなら、その地元の名や、新潟や宮城の地域名で(ローカルに)表現すればよい。国家名である日本がそこに登場する必然性は、まったく、ない。「日本の水田」の美しさや文化性が、ことさらに強調される謂れは、ない。世界じゅうのそれぞれの地域での生産様式と調理方法・食べ方を等価で表現できる境地へ、私たちの意識が流れていけばよい。

この社会では、「日本文化特殊論」が、ある誇りをもって強調されてきた。それが、排他的な自民族中心主義に容易に収斂していった苦い歴史も、私たちは経験してきた。「日本海」という呼称と同じく、きわめて排他的で、「井の中の蛙」的な論理に落ち込む隙を、私は排除したいと思う。

(註1)メキシコ全国農業生産取引業連合のビクトル・スアレス執行理事の談話(「しんぶん赤旗」2010年12月6日付け、メキシコ駐在・菅原啓記者)

(註2)田代洋一「TPP批判の政治経済学」(農文協編『TPP反対の大義』所収、農文協、2010年)

(註3)この問題性に関しては、宇沢弘文もさまざまな機会に指摘している(「TPPは社会的共通資本を破壊する」内橋克人との対談、『世界』2011年4月号、岩波書店)

(註4)北野収「脱成長と食料・農村」(『人民新聞』2011年1月5日付け)。他に、「地域支援型農業 CSA」で検索すると、インターネット上でいくつもの有意義なサイトを参照することができる。

(2011年4月1日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[10]冷戦終焉から20年、世界のどこかしこで、軍事が露出して……


反天皇制運動機関誌『モンスター』第11号(2010年12月7日発行)掲載

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が有する暴力装置=朝鮮人民軍が、11月23日、海岸砲なる武器を使って韓国支配下にある延坪島に砲撃を加えた。兵士と基地労働者4人が死亡した。これに対して韓国は、自らが持てる暴力装置=韓国軍による反撃を行なって、北朝鮮領内に砲弾を打ち込んだ。被害の規模を北朝鮮側は明らかにしていない。誰にも明らかなように、東アジア地域には、世界の他の地域と比較して稀なことに、ソ連崩壊(1991年)によって消滅したはずの東西冷戦構造が今なお頑として生き残っている。それは、日本国政府・社会の、歴史問題をめぐる無反省ぶりと、政治・軍事の現実のあり方に起因するところが少なくないことを自覚する私たちにとって、無念と恥辱の根拠であり続けている。その冷戦が、あわや「熱戦」の端緒にまで至ったのである。

日本の政府もメディアも世論も、北朝鮮はやはり「何をしでかすかわからない、不気味な国」だとの確信を深め、自国防衛力増強の道を嬉々として選択しようとしている。11月28日からは、「母港」横須賀から出撃した米原子力空母ジョージ・ワシントンも参加した米韓共同軍事演習が黄海で行なわれた。それを報じるNHKニュースは、「敵に対する」という言葉遣いで、この共同演習の動きを伝えた。イギリス軍も参戦した2001年アフガニスタン戦争の実態を報道するに際して、BBCは「テロリズム」ではなく「攻撃」を、「わが軍」ではなく「英国軍」なる用語を使うことでせめても事態を客観視し、視聴者の「愛国主義的」情動をいたづらにかき立てることを避ける原則を立てた。NHKの中枢には、この程度のジャーナリスト精神にも欠ける者たちが居座っているようだ。

少数だが例外的な意見もあって、北朝鮮軍による砲撃の前日から韓国軍は「2010護国演習」と称する大規模な軍事演習を延坪島周辺を含めて行なっていたこと、それを知った北朝鮮側は繰り返し演習の中止を要求していたこと――などを根拠に、韓国側による「挑発」行為の重大性を指摘しているものもある(12月1日付「日韓民衆連帯全国ネットワーク」声明など)。

全体像を把握したうえで事態の本質を見極めるためには、これは重要な指摘だと思うが、ここでは、もう少し先のことを考えたい。砲撃を行なった朝鮮人民軍は、金正日独裁体制を支える要である。人権抑圧に加えて飢餓に苦しむ民衆の上に君臨している特権的な存在である。持てるその武器を、北朝鮮の民衆に対しても躊躇うことなく向けるように教育されている「人民軍」である。韓国軍の挑発を指摘する論理が、この朝鮮人民軍の軍事的冒険主義を免罪する道に迷い込むような隙を見せてはならない、と私は自戒する。

事態は、思いのほか錯綜している。米韓共同軍事演習を伝えた12月3日の中国中央テレビ(それは、もちろん、中国政府の官許放送である)は、空母ジョージ・ワシントンの動きに焦点を当てた。中国近海の黄海における今回の演習への参加についてもとりたてて批判的な取り上げ方はせず、むしろ今夏に同空母が行なったべトナム、タイなどへの訪問の「友好・親善」的な性格を伝えたのだった。事実、米軍はベトナム軍との間で(!)合同軍事演習すら行なったのである。中国は、米国の砲艦外交を批判するのではなく、むしろそれを手本とする軍事大国への道を歩みだしている。それは、時同じくして、米国が単独では担いきれなくなった「世界の警察」になる新戦略を打ち出したNATO(北大西洋条約機構)の愚かな方針とも重なり合う。

自衛隊を正しくも「暴力装置」と呼んだ官房長官は、マックス・ウェーバーの定義にも無知な保守政治家に攻め立てられて、発言を撤回した。日本軍は、世界でもっとも凶暴な「暴力装置」としての米軍と共に、いま、九州と周辺海域での共同統合実働演習を行なっている。それは、若き日に「暴力装置」の解体か廃絶をこそ望んだであろう現官房長官も加担して推進している「防衛政策」の一環である。

東西冷戦の基本構造が消滅したことは悪いことではなかった。だが、その廃墟の上では、世界のどこかしこで、「思想」も「倫理」も投げ捨てた者たちが、古い時代の無惨な「冷戦音頭」に踊り惚けている。(12月4日記)

韓国哨戒艦沈没事件を読む


『反改憲運動通信』第6期No.2掲載

(以下の文章においては、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と表記している。)  3月26日、韓国の西側にあって、南北朝鮮の領海を隔てている黄海上の周辺海域で、韓国海軍の哨戒鑑「天安」が沈没し、乗員104名のうち46名が死亡・行方不明となった。

韓国における当初の報道を思い起こすと、北朝鮮による攻撃の可能性を示唆するものは少なく、内部的なミスに起因するという見方が有力だった。

軍は、爆発時間の説明を二転三転させ、沈没前後の交信記録の情報公開にも消極的だった。

世論形成に影響力を持つ韓国メディアが、4月に入って「北朝鮮関与説」を報道し始めた。

李明博政権は、国際軍民合同調査団なるものを設置し、韓国一国の利害を離れた地点での「国際的で、客観的な調査」に判断を委ねる態度を取った。

事故からおよそ2ヵ月近く経った5月20日、調査団は「北朝鮮の小型艦・艇から発射された魚雷による水中爆発」によって事件は起こったと断定した。

北朝鮮の国防委員会報道官は、同日、調査団報告は「でっち上げだ」とする声明を発表し、韓国が制裁措置を講じるなら「全面戦争を含む強行措置」を取ると主張した。

この段階での、日本社会での受けとめ方を考えてみる。普天間問題で苦慮していた前首相はこの事件を奇貨として、北東アジア情勢の不安定性を強調し、在沖縄米海兵隊が持つという「抑止力」なるものへの信仰を突然のように語り始めた。

それは、6月2日、首相辞任を表明した民主党議員総会での発言に至るまで続いた。

大方のメディアも、ほぼ同じ論調に依拠している。韓国哨戒艦沈没事件という悲劇は、日本の前首相や日米安保信奉者に向かっての「追い風」となったのである。

まこと、軍事の論理は輪廻する。その車輪の中で生きようとする者すべてを、他者の死を前提とした、終わりのない/極まりのない戦時の世界へと導くのである。

問題は、民衆レベルでの受け止め方であろうが、「あの国なら、やりかねない」という捉え方があっても、反駁する方法はなかなかに難しい。そのことが悩ましい。

私個人の問題として書いてみる。国際社会への復帰を試みている北朝鮮が、いまさらこんな軍事冒険主義に走るはずはないとするのが、解釈する側にあり得べき理性的な判断である。

この理性的な判断の下では、あえて過去は問わない。大韓航空機爆破も、拉致も、不審船も、工作船も、“もはや”過去のことだ、と考えよう。

その程度の信頼感をもって、相手との付き合い方を考えよう――と、そこでは思うのである。

同時にまた、こうも考える。軍事路線を優先し、軍事の力によって大国の譲歩を引き出し、貧しい社会の中で軍人層を手厚く処遇する先軍政治を、この国の指導部は放棄してはいない。

責任逃れの論理を使って金日成・金正日父子がよく言った(言う)ことばを使えば、今回の魚雷発射事件が「私のあずかり知らないところで、英雄主義に駆られた一部機関の者が仕出かしてしまった」可能性を、全面的に排除することもできない。

しかも、伝えられる経済危機は深刻だ。「やりかねない」。ここが、私が佇むジレンマの地点である。

だが、後者の可能性を考えるとき、私は問題を普遍化して、特殊に北朝鮮だけを名指しして言うのではないと考えて、辛うじて「理性」を保つ。

日本、韓国、中国、ソ連、ロシア、米国、イスラエル……およそ、人類史上に存在してきた〈国家〉なるものが、ある所与の時代に、所与の条件の下でなら「やりかねない」非行として、この種の出来事を捉えるのである。

〈国家〉の「非理性」を、〈国家〉を担うと自惚れている政治家や、軍人や、官僚たちの、そして付け加えるなら、時にそこへ哀しくも巻き込まれてしまう大衆の「非理性」を、その程度には「確信して」いる。

その意味では、古今・東西・左右のいかなる〈国家〉も、「非理性的であること」において等価である。

イスラエル国家が、封鎖されているパレスチナ自治区ガザへ救援物資を届けようとしていた非武装の船舶を攻撃したように。

北アメリカ国家が、自らは傷つかない無人爆撃機できょうもアフガニスタンやイラクの民衆の上に爆撃を加えているように。

革命後の中国国家が、チベットや新彊ウィグル自治区などで、恐るべき強圧的なふるまいを続けてきたように。

そして、日本国家が……(読者よ、皆さんの見識に基づいて、このあとを続けてください)。 したがって、仮に北朝鮮を疑う目をもつとして、その目は他国へも及ぶ。

前述の調査団報告が出た同じ日に、40近くの韓国民主運動団体が連名で、「調査内容、調査過程と方向、調査主体など、あらゆる側面から調査の科学性と客観性、透明性と公正性を認めることはできない」との声明を発表している。

それは、「反北」の感情を煽ることに利益を見出す政権と軍の拙速な論理だと批判して、慎重な対応を求めている。6月2日の韓国統一地方選挙において、与党ハンナラ党が敗北したのは、民衆レベルで広く同じ感情があることの証左なのだろう。

北朝鮮による哨戒艦撃沈説が、そのまま、反北ナショナリズムに行き着いてはいない点は、健全だと言える。

韓国では、この事件をめぐって別な情報も報道されているから、判断のための選択肢が広いのだろう。

たとえば、事件と同時刻に、同じ海域で訓練していた米軍潜水艦が沈没したが、事件は密かに処理されたという報道があった。

仮にこの事件と哨戒艦沈没事件に関わりがあったとして、米国がこれを隠蔽することは過去の歴史からみて「やりかねない」。

また前述の調査団員として「座礁・沈没」説を主張した委員が、その後公安当局の捜査を受けているという報道もある。

これまた、現韓国政権の性格からみて「やりかねない」。

総合すると、真実はまだ「藪の中」だと言える。問題は、またしても、日本社会での受け止め方である。多様な情報に接することもないままに、調査団報告を聞いてすぐ対北制裁強化を率先して主張した人物が、新首相になるようだから。(6月4日朝記す)

太田昌国の夢は夜ひらく[2]脱北者を描く映画のリアリティが暗示していること


『反天皇制運動モンスター』第4号(2010年5月11日発行)掲載

韓国映画『クロッシング』を観た(キム・テギュン監督、二〇〇八年、カラー、35ミリ、 一〇七分)。

いわゆる脱北者の物語だ。北朝鮮のとある炭鉱町に住む一一歳の男の子ジュニは、父母との三人暮らしだ。つましい生活だが、日々のどんなことにも楽しみは見出せる。

父は元サッカー選手で、よくサッカーボールで遊んでくれる。巧みにボールを捌く父の足は、ジュニの憧れだ。母が肺結核で倒れた。薬は簡単に手に入らない。父は薬を求めて、危険を冒して中国へ密入国する。

働いて少しの金は得られても、脱北者であることがわかれば強制送還だ。北の実情を話せば大金が入るという話を信じてついていくと、行く先は韓国だった。

手を尽くして、北朝鮮に残した家族の安否を知る。妻は死んでいた。父と息子は何とかして連絡をつけ、危険な中国ではなくモンゴルで再会する手はずを整えた。

だが、翌日には父と再会できるはずだったジュニは、人っ子ひとりにも会えない広大なモンゴルの砂漠で、満天の星降る夜に死んでいった……。

「クロッシング crossing 」とは「横断、交差(点)、踏切り、十字路、十字を切ること、妨害」の意味だ、と同映画のパンフレットにはある。

さまざまな含意が込められていて、観客は任意にどれかを選べばよい、ということか。

私は、山のようにある脱北者の証言をよく読んできているので(図入りの本が、けっこう多いこともあって)、北朝鮮社会について、ある程度のイメージを描くことができると思っていた。

当然にも、そんな程度のイメージは破砕された。北朝鮮に住んでいた人に言わせると、庶民の住まいと食事の内容、市場・闇市の様子などがとりわけよく「現実に近く」描かれているという。

国境警備隊員のふるまいも、捕まった人びとが入れられる「鍛錬隊」なる強制労働キャンプの様子も、経験者の証言に基づいてセット造りや演技指導がなされている以上、相当な「現実性」をもっているのだろう。

私は、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、韓国文化院にときどき通っては、まだ一般映画館では上映される機会のなかった韓国映画を観ていた。

日本文化の「浸透」を禁じていた軍事政権時代のナショナリズムに依拠して、当時の韓国映画における「日帝本国人」の描き方は徹底して一面的だった。

敵対している北朝鮮の描き方も、画一的だった。止むを得ないなと思いつつも、心打たれるところは少なかった。

多くの場合は権力者による圧力で、また場合によっては表現者の自己規制や怠惰で、どんな国でも、「表現」がそうなってしまう、あるいはそうしかできない時代状況というものは、あるだろう。

韓国映画が、総体として、特に「民主化」以降の過程で、そんな制約を乗り越えてきたことは、この間公開されてきたいくつもの秀作を通して知ることができる。

脱北者家族の軌跡を描いて、『クロッシング』は単純な「反北」映画に堕すことはなかった。むしろ、つましく暮らす北朝鮮庶民の姿を、淡々と、切なく描いて、深い印象を与えるものとなった。子役を含めた演技者の功績も大きいだろう。

感情過多の、安易な演技に流れていないことが、貴重に[思えた。それだけに、腹をすかせた労働者や子どもたちのそばを、赤旗を掲げながら「首領さま」に忠誠を誓うスローガンを唱和しながら行軍していく者たちの姿の意味が、かえって、浮かび上がってきたりもする。

キム・テギュン監督は一〇年前、道端に落ちているウドンを拾って汚いどぶ水ですすいで食べる北朝鮮の子の実写映像を観て衝撃をうけ、その時の自分の「恥ずかしさ」を原動力としてこの優れた映画を完成させた。

私がこの映画を観終わって数日後、北の社会の絶対的な権力者が、さまざまな支援を求めて中国へ向かった。人と時間と金をふんだんに使っての、相変わらずの秘密行動だった。

公開性のない、このような隠密行動が、国内・国際基準の双方でいまなお許されると考えているところが、この独裁者の度し難い点だ。映画『クロッシング』は、北朝鮮国内と(たとえば韓国のような)外国とのあいだでの携帯電話での交通が現実化している様子を、実話に基づいて伝えている。

権力者が企図する情報の封鎖、それでも流れ出る情報――北朝鮮の状況の帰趨は、ここに焦点が絞られてきたように思える。 (2010年5月7日執筆)

太田昌国の夢は夜ひらく[1]横断的世界史を創造している地域と、それを阻んでいる地域


反天皇制運動「モンスター」2号(2010年3月9日発行)掲載

東欧近現代史の研究者・南塚信吾が「注目集める横断的世界史」という文章を書いている(朝日新聞2月20日付け夕刊)。

従来の国別・地域別の歴史を並列することでは、同時代を生きる国々・諸地域が相互に関連し接続している現実を見失い、全体としての世界の歴史を再構成することにはならないという反省からきているという。

トリニダード・トバゴの首相も務めたエリック・ウィリアズムの『コロンブスからカストロまで』のように、カリブ海域史を世界史との繋がりの中で書き切った優れた先例は、夙に一九七〇年に生まれているが、確かに、日本の歴史書を観ても、20世紀末以降、そのような問題意識に基づく書物が増えている。また、国境を超えた協働作業で地域史を綴る試みも目立ってきた。

この歴史意識の変化は、一九七〇年代後半以降急速に進んだグローバリゼーション(全球化)によってもたらされている一面もあるだろうが、世界的な趨勢として確立されている以上、今後は現実に先駆け、いわば「未来からの目」として機能することもあるだろう。この観点から、二つの地域の昨今の動きをふり返ってみよう。

一つ目は、ラテンアメリカ地域である。去る2月、中南米・カリブ海統一首脳会議が開かれ、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」(仮称)を来年7月に発足させることを決めた。

51年に発足した米州機構には米国とカナダも加盟しており、59年のキューバ革命以後はキューバを孤立化させる役割を担ってきたが、今回の共同体は、逆に米国とカナダを除外し、クーデタによって生まれた政権の支配下にあるホンジュラス以外の32ヵ国が参加した。

一昨年、コロンビア軍がエクアドルに越境攻撃を行なったが、この事態を収拾するために動いたのがこの地域の諸国だった。

それが今回の、米国抜きの新機構設立に繋がった。参加国政府の対米姿勢には違いがある。

設立条約作成・分担金確定なども今後の課題であり、前途にはさまざまな困難があるだろう。

しかし、地域紛争を解決するための具体的な努力の過程を経てここに至ったこと、自己利害を賭けて常に紛争を拡大する火種である米国を排除していること、それが従来は米国の圧倒的な影響下におかれてきた地域で起きていること――その意義は深く、大きい。

世界銀行やIMF(国際通貨基金)は、世界に先駆けてこの地域に新自由主義経済政策を押し付けてきた張本人だが、最近、世銀の担当者は、「経済の多様化と富の再分配を通して貧困層を支援する」政策を採用している南米諸国のあり方を高く評価したという。

3月1日にウルグアイの大統領に就任した元都市ゲリラ=ホセ・ムヒカが年俸の(月給ではない)87%相当の一万二千ドル(約一二三万円)を住宅供給のための住宅基金に寄付したというニュースも、政治的・社会的状況の変革のなかで、政治家が身につけたモラルの高さを示している。

彼の地の人びとは、横断的地域史・世界史の創造が、日々の理論的・実践的な課題である時代を生きている。

二つ目は東アジアである。この国では、「平時」を「戦時」にするための努力が、新政権の閣僚と首相によってなされている。

鳩山政権が実施しようとする「高校無償化」をめぐって朝鮮学校をここから外そうとする動きがあるからである。

最初に言ったのは中井拉致担当相だが、彼が識見も政治哲学も欠く人物であることは、就任会見時からわかっていた。

今回の発言に怒りと哀しみと恥ずかしさはあるが、驚きはない。

その発言に、首相が乗った。「国交のない国だから、教科内容の調べようもないから」と。

日朝首脳会談以降の日本の社会・思想状況が、自らを顧みることなくして排外主義に走っている点でこれほどの惨状を呈しているのは、横断的な地域史・世界史の視点を社会全体が欠いているからである。

未だに「国史」の枠内に身を置いて恥じない地点から、中井や鳩山のような発言が飛び出してくる。

「未来からの目」どころの話ではない。首相の言う「東アジア共同体」が、彼のなかで現実感を伴っていないことも、よくわかる。したがって、と言うべきか、私たちには、この現状を変えるという課題が目前にある。まだ国会審議は続いている。

(3月6日記)

追記:生活と仕事の時間からくる制約上、原稿は深夜に書く。夜更けて、25時26時27時と、机に向かう。だいたいは、とりとめもない妄想が、そして時には、夢が、ひらいてくる。故に、ご覧のような連載タイトルとなった。乞う、ご寛容、および同志的な批判。