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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

死刑囚が描いた絵をみたことがありますか


『週刊金曜日』2014年9月19日号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が運営する死刑囚表現展の試みは、今年10年目を迎えた。現在、日本には130人ほどの死刑確定囚がいる。未決だが、審理のいずれかの段階で死刑判決を受けている人も十数人いる。外部との交通権を大幅に制限され、人間が生きていくうえで不可欠な〈社会性〉を制度的に剥奪されている死刑囚が、その心の奥底にあるものを、文章や絵画を通して表現する機会をつくりたい――それが、この試みを始めた私たちの初心である。

死刑囚が選択する表現は、大きくふたつに分かれる。絵画と、俳句・短歌・詩・フィクション・ノンフィクション・エッセイなどの文章作品である。すぐれた文章作品は本にして刊行できる場合もあるが、絵画作品を一定の期間展示する機会は簡単にはつくれない。それでも、各地の人びとが手づくりの展示会を企画して、それぞれ少なくない反響を呼んできた。日本では、死刑制度の実態も死刑囚の存在も水面下に隠されており、いわんやそれらの人びとによる「表現」に市井の人が接する機会は、簡単には得られない。展示会に訪れる人はどこでも老若男女多様で、アンケート用紙には、その表現に接して感じた驚き・哀しみ・怖れ、罪と罰をめぐる思い、冤罪を訴える作品の迫力……などに関してさまざまな思いが書かれている。死刑制度の存否をめぐってなされる中央官庁の世論調査とは異なる位相で、人びとは落ち着いて、この制度とも死刑囚の表現とも向き合っていることが感じられる。

獄中で絵画を描くには、拘置所ごとに厳しい制限が課せられている。画材を自由に使えるわけではない。用紙の大きさと種類にも制約がある。表現展の試みがなされてきたこの10年間を通して見ると、応募者はこれらの限界をさまざまな工夫を施して突破してきた。コミュニケーションの手段を大きく奪われた獄中者の思いと、外部の私たちからの批評が、〈反発〉も含めて一定の相互作用を及ぼしてきたとの手応えも感じる。外部から運営・選考に当たったり、展示会に足を運んだりする人びとが、一方的な〈観察者〉なのではない。相互に変化する過程なのだ。社会の表層を流れる過剰な情報に私たちが否応なく翻弄されているいま、目に見えぬ地下で模索されている切実な表現に接する機会にしていただきたい。

(9月10日記)

付記:なお、記事では、12人の方々の絵が、残念ながらカラーではありませんが、紹介されています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[48]3月31日は、消費税引き上げ前夜だけではなかった


『反天皇制運動カーニバル』13号(通巻356号、2014年4月8日発行)掲載

この日のTVニュースは見ておこうと思った。3月31日――翌日からの消費税引き上げを前に、メディアには「売らんかな」の姿勢も顕わな売り手側と買いだめに走る消費者側の姿を、ここまでやるかと思えるほどに詳しく伝えた。ほんとうの怒りと苦しみはよそにしかないだろうと思うしかない、弛んだインタビューが続いた。私も身の丈に合った買い物はしたが、何かにつけて煽る売り手とそれに乗るメディアの術策に関しては、いつものように、冷ややかに見る視線を失いたくないものだと思った。NHKの場合には、今回の税率引き上げによって予想されている増収5兆円が、あたかもすべて社会保障費の充実に充てられるかのような、意図的な説明がなされた。首相の生の発言を挟み込みながら。政府発表に基づいてすら、その「充実」なるものに充てられるのは1割でしかないという事実が明らかになっているというのに。得がたい味方を、政府はNHKのニュース編成局に配置している。

同時に、私は、この同じ3月31日に期せずしてなされた3つの司法上の出来事に注目した。それは、まるで、年度末のドサクサを利用したかのように、「駆け込み」でなされた。

まず、あるかなきかのような報道しかなされなかったのは、強制送還死訴訟で国が控訴したという一件である。2010年、日本での在留期限が切れたガーナ人男性が、成田空港から強制送還される際に急死したのは、入国管理局職員の過剰な「制圧行為」が原因だとする遺族の訴えに関して、東京地裁が「違法な制圧行為による窒息死」であったことを認め、国に500万円の支払いを命じる判決が3月19日にあった。これを不服として、3月31日、国は東京高裁に控訴したのである。

私は新聞でしか見ていないが、判決のニュースはしかるべき質量でなされた(特に、朝日新聞3月19日夕刊及び20日朝刊)。在留期限を超えた人の入管施設での長期収容や、子どもや配偶者と切り離しての強制送還措置など、入管当局が日ごろから実施している行政措置の非人道性と人権意識の欠如が国際的にも問題視されている事実も伝え、今回の事態もその一環をなすことが読者には伝わった。ガーナ人男性は「暴れたために」機内で手足を手錠で拘束され口はタイルで猿ぐつわのようにして塞がれたうえで、前かがみに深く押さえつけられて、動かなくなった。「動きは完全に制圧され、格闘技の技が決まったときのようだった」とは、警備員の柔道経験に言及しながら、判決文が述べた文言である。地検は警備員をすでに不起訴処分にしていたが、遺族側の弁護士は「捜査対象が、検察と同じ法務省傘下の入管職員でなければ、すぐに起訴された事例」と述べたことは頷ける。だが問題は、現場職員の違法行為に留まることはない。ガーナ人男性は日本人女性と結婚しており、地裁は「夫婦関係が成立している」として強制退去命令を取り消したにもかかわらず、高裁が「子がおらず、妻も独立して仕事をしている。必ずしも夫を必要としない」という理由で退去命令を下したのである。その結果としての、成田空港での出来事であった。高裁の決定の言葉には、身が凍りつく。否、その人間観の貧しさに絶句する。司法上層部の言葉と下部現場職員のふるまいは、狭隘な同族意識の中で外国人を犯罪者扱いしている点で、両者が一体化した価値意識の持ち主であることを明かしている。

3月31日に行なわれた、残るふたつの出来事は、福岡地裁が飯塚事件の再審請求を棄却したこと、そして静岡地裁による袴田事件再審決定の取り消しを求めて静岡地検が即時抗告を行なったこと、である。いずれも、死刑問題に関わる重大な案件であるが、この事件の経緯と司法判断の在り方を少しでも調べたり、死刑囚の身を強いられたふたりの手紙や手記を読んだりすれば、誰もが、事態の「真実」に近い、合理的な判断に至るだろうと私には思える。それほどまでに、この2つの案件に関して「死刑を確定させた」司法の最終的な判断は、危うい。

私たちは、劣化するばかりの政治=政治家の在り方に、言葉も失うような日々を送っている。3月31日の3つの出来事は、司法もまた、救いがたい状況にあることを改めて示した。これが、ありのままの現実であること――そこが私たちの、避けることのできない「再」出発点である。

(4月5日記)

第3回死刑映画週間を終えて


死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90ニュース「地球が決めた死刑廃止」134号

(2014年3月27日発行)掲載

第3回目を迎えた今年の「死刑映画週間」は2月15日(土)から21日(金)までの一週間、例年のとおり、渋谷のユーロスペースで開かれた。2年連続してこの催しものを開催してきた「成果」が今年の取り組み方には現われた。映画会に来場したことをきっかけにフォーラム90の定例会議その他の活動に参加している人が、数人いる。上映作品の選定やトークゲストの人選などで、その人たちからの意見も出て、最終的なプログラムにはそれが生かされている。アンケートで具体的な作品を推薦して下さった人の意見も取り入れられている。このことが、活動の〈広がり〉となっていることが実感されるのだ。

今回上映したのは8作品で、もちろん、それぞれの見所があるのだが、アンケートでもスタッフが耳にした直接的な感想でも、『軍旗はためく下に』と『さらばわが友 実録大物死刑囚たち』の評価がきわだってよかった。深作欽二と中島貞夫の作品はほとんど観ているはずなのに、なぜ、これは見過ごしていたのだろうと語る人は、ひとりやふたりではなかった。前者は1972年の作品だが、日本帝国軍が展開したニューギニア戦線で敵前逃亡の咎で処刑された軍人をめぐるこの物語では、毎年8月15日に執り行われる全国戦没者慰霊式典の虚しさや昭和天皇の戦争責任への言及がなされていることで、今回の惹句であった「国家は人を殺す」という事態の本質が浮かび上がってくる思いがした。あの時代には、こんなにも緊迫感のある作品を創る映画人たちがいたのだ、翻って、今の時代はどうだろう?――そんな思いを再確認された方が多かったのではないだろうか。

『さらばわが友~』は敗戦直後の時代に起こった事件で、その後死刑囚となった「有名な」人たちが登場する。フィクション仕立てではあるが、考証に基づいて再現されている、当時の獄中の情況などを見ると、厳格な制限と絞めつけばかりが目立つ最近の獄中処遇の異様さが際立ってくる。敗戦後の混乱期をすでに抜け出た1961年の事件である名張毒ぶどう酒事件を描く『約束』は、何代にも及ぶ取材陣が撮りためていた映像や実写映像も織り交ぜることで、警察・検察・裁判所の捜査・立件・判断に孕まれる嘘を明示的に突き出す。この社会で死刑制度を廃絶するために、人びとは、実に遠い道を歩んできていることを思わせる。諦めで、いうのではない。冤罪の犠牲者の立場から見れば、その道はあまりに遠すぎるのだ。2年連続の上映となった『ヘヴンズストーリ』の人気は高い。多面的な見方が可能な映画がもつ、独特の魅力なのだろう。

劇場公開は初めてであった韓国映画の『執行者』は、韓国の現実を背景に、制度は存続していても10年間以上も死刑執行がなされないと、人びとの意識がいかに変わるかを浮かび上がらせていて、示唆的だった。残りの3本『最初の人間』『声をかくす人』『塀の中のジュリアス・シーザー』は、いずれも最近公開されたばかりの作品である。国と時代を異にしながら、「罪と罰」をめぐる人類の試行錯誤の様子が普遍性をもって伝わってくる。映画は偉大だ。映画を通して死刑制度に向き合うよう、人びとを誘う「死刑映画週間」を、この日本では、まだ絶やしてはならない――と言ってみたくなる。

この「週間」は、いつも土曜日に始まり、翌週の金曜日で終わる。土曜・日曜に当たる初日と2日めで、総観客数の4割近くが来場される。それが過去2年間の実績だった。今年の初日、東京はその前夜から大雪に見舞われた(雪国の方よ、あの程度で「大雪」と表現することを許されよ)。劇場のある渋谷へ繋がる一鉄道路線は、その影響で終日運転不能になった。翌日曜日も、足元がおぼつかない、滑りやすい道路があった。初日と2日めの出足が阻まれて、今年は例年に比して3割強ほど来場者数が少なかった。当然にも、赤字は増えた。だが、再起不能なほどではない。

来年も「第4回め」を実施します。「フォーラム90」の総意です。読者の皆さんからの、さまざまな提案を歓迎いたします。スローガンは決まっています。今年は雪に負けたのだから、来年は「雪辱戦」です。死刑と冤罪の世界には、そういえば、「雪冤」という言葉もあるのです。

第3回死刑映画週間「国家は人を殺す」開催に当たって


「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」主催「第3回死刑映画週間」のためのパンフレット(2014年2月15日発行)掲載

いまからもう17年も前のことになるか、「この国は危ない/何度でも同じあやまちを繰り返すのだろう/平和を望むと言いながらも/日本と名のついていないものにならば/いくらだって冷たくなれるのだろう」とうたった歌手がいた。1997年4月23日、在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件が、当時のフジモリ大統領の武力発動によって「決着」をみたのだが、その軍事作戦で人質1名、攻撃した兵士2名、ゲリラ14名が死んだ後のことである。救出された人質が乗ったバスの出入り口に立ったフジモリ大統領が、満面の笑みを浮かべながらペルー国旗をうちふる姿を覚えている方もおられよう。それを、日本のメディアは「日本人(人質)が助けられた」と嬉しそうに絶叫するばかりで、他国の死者(この歌では、「救出作戦に当たった兵士2名の死」のことを言っている)には何の関心も示さない形で報道した。歌は、そのことへの危機感の表明であった。この軍事作戦が実施された日付に因んで「4.2.3」と題されているこの曲の作り手も歌い手も、中島みゆきである(曲は『私の子供になりなさい』、ポニーキャニオンPCCA-01191、に入っている)。

言葉を変えるなら、人間の生死に関わることがらを、「日本国民」という内部と「非日本人」という外部に〈ごく自然に〉分け隔てて喜怒哀楽を表現してしまうという、この社会に根深く沁みついている心性の在り方に、歌手は深い危惧を抱いたのである。

私は最近、この歌を幾度となく思い起こす。それは、おそらく、次の二つの理由からきている。ひとつには、現首相や政権与党指導部によって煽動され、草の根の一定の「民意」にまで根を下ろしている偏狭なナショナリズムが、上に触れた17年前のあり方とぴたりと重なり合う傾向を示しているからである。否、ぴたりと重なり合うという表現に留めるのは、正確ではない。「外部」にあるものをひたすら憎み侮蔑し、国の「内部」に凝り固まるこの現象は、いわゆる「ヘイト・スピーチ」に見られるように、醜悪なまでに増長しているのが現実なのである。

ふたつ目は、この国家のあり方と切っても切れない関係にある「死刑」問題の現況からくる。与党幹事長は、上の趨勢を推し進める過程で、「(国防軍)が成立した暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と語った。また、現法相は昨年4回にわたって死刑執行を命じて、計8人の人びとの命を奪った。凶悪犯罪を犯して「死刑囚」になった者と犯罪とは無縁な「一般人」の間に高い垣根をつくって、これを暗黙の裡に認める「民意」がこれを後押ししている。

「国」の内部に固まって、恐るべき言葉を「外部」に投げつける人びと。「死刑囚」や「犯罪者」を遠巻きにして、悪罵の石を投げつける人びと――自らは決して傷つくことのない安全地帯をおいて行なわれているこの行為は、国家が安んじて「人を殺す」基盤を形成する。戦争を通して、そして死刑制度を通して。この社会は、ほんとうに、きわどい地点にまできた。今回上映される8本の映画を通して、この状況を客観視する縁にしたい。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[44]特定秘密保護法案を批判する視点


『反天皇制運動カーニバル』第9号(通巻352号、2013年12月10日発行)掲載

特定秘密保護法案の国会審議が大詰めを迎えていたころ、某大学で「帝銀事件と平沢死刑囚」について語る機会があった。NHKのディレクターであった故・片島紀男に関しては、「埴谷雄高・独白『死霊』の世界」(1995年)や「吉本隆明がいま語る 炎の人・三好十郎」(2001年)などの作品を観て、私は注目していた。だが、氏は、私があまりテレビを観る習慣のなかった時期に、「昭和」史や戦後史に関わる番組も多数制作していた。「獄窓の画家 平沢貞通~帝銀事件元死刑囚の光と影」(2000年)もそのひとつである。この番組を学生と一緒に観てから、上記のテーマについて語るという企画である。

私は死刑廃止運動の場で、晩年の片島氏と知り合う機会があり、獄死した死刑囚の再審請求に賭ける氏の熱意を知っていた。講義の前夜、新聞に小さな記事が載った(12月3日)。12人が毒殺された1948年の帝銀事件で、東京高裁は、獄中死した平沢元死刑囚の養子で再審請求人の武彦さんが死亡したために、再審請求の手続きが「終了した」、というものである。裁判の場で、冤罪の死刑囚であった平沢氏の無念を晴らす道は閉ざされたことになる。

65年前の事件について20歳前後の若者に語るに際して、「国家」を司る者たちの恣意性を自覚してほしいと私は希った。占領下で起きた帝銀事件の場合、それはふたつの形で現われる。①同事件の実行犯捜査は、犯行現場での毒物の手慣れた扱いから見て、旧関東軍満州第731部隊所属の軍人に絞られた。だが彼らは、対ソ連戦に備えて同部隊員の技量を活用しようとする米軍の庇護下にあり、その戦争犯罪は免責されていた。GHQ(連合国総司令部)は警視庁と新聞に圧力をかけ、捜査方針を変更させた。②代わりに生け贄にされた平沢氏は、杜撰な取り調べと裁判で死刑が確定した。確定から32年間を獄中に暮し、95歳で獄死した。その間に就任した法相は35人、ひとりとして執行命令書に署名しなかった。高検検事長も認めたように「判決の事実認定に問題があった」ためである。①からは、占領国の横暴・傲慢さが透けて見える。②からは、死刑制度を維持する国の冷酷さが浮かび上がる。そして双方に共通するのは、国家は「機密」を好み、いったん「機密」にされた事柄は、民衆に知らせないことを通して、他ならぬ民衆を縛り上げるという事実である。占領下の「昔話」が、現下の特定秘密保護法案の本質に連なってくるというリアリティを、若者たちには感じ取ってほしかった。

この日の講義では触れる時間がなかったが、私が同法案を批判する際に強調してきたのは、国際的な視点である。近代国民国家の枠組みを尊重しつつも、人権にかかわる問題に関しては国際的なネットワークを作り上げて、各国の意識・自覚の向上を図る努力が目立ち始めたのは1960年代以降である。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966年)に代表されるように。その後も、女性の地位、先住民族の権利、子どもの権利、監獄制度や死刑制度などの問題をめぐって、国際的な基準を設定する試みがなされてきた。

今回の法案に関しては、「ツワネ原則」を想起せよ、との声が批判派から上がり、私もその声を聴いて初めて知った。「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」が正式名称である。安全保障上の理由から国家が多様な情報の秘密指定を恣意的に行ない、市民の知る権利とのバランスが崩れている現状を危惧した国連などの国際機関職員と専門家五百人以上が、南アフリカのツワネで2年間議論を続け、今年6月に公表されたものである。【因みに、アパルトヘイト(人種隔離政策)を廃絶した南アフリカが、2001年にダーバンで開かれた人種差別に関する国際会議に続いて、人権問題を討議する場になっていることは象徴的で、意義深い】。このツワネ原則を読めば、各国政府が、知る権利や人権を侵すような暴走を防ぐ手立てが一定は規定されており、特定秘密保護法はその対極にあることが明らかになる。法案は成立したが、私たちは、たたかい続ける手立てのすべてを失ったわけではない。過度の悲観論に陥ることなく、なすべき日常的な課題にじっくりと取り組み続けたい。

(国会前の抗議行動から帰った翌朝の、12月7日記)

9年目を迎え、社会に徐々に浸透し始めている死刑囚の表現――第9回「大道寺幸子基金・死刑囚表現展」を終えて


『出版ニュース』2013年11月下旬号(2013年11月21日発行)掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が主催する「死刑囚表現展」は、10年の時限を設けて2005年に発足した。今年は、残すところあと1年となる、9回目を迎えた。文章部門には12人、絵画部門には13人からの応募があった。両部門に応募したのは3人であったから、22人が参加したことになる。死刑確定者と、審理のいずれかの段階で死刑の求刑か判決を受けて係争中の人を合わせると、この間は150人ほどである。応募できる人びとのうち15パーセント程度の人が参加していることになる。新顔の応募があったのはうれしいし、逆に、今年は作品が届かなかったなあと思う名前も、幾人か思い浮かぶ。ユニークな発想で、物語性のある絵柄に加えて、描き方をさまざまに工夫した作品を毎年送ってくれた松田康敏氏の絵が、今年はなかった。2-12年3月29日に小川敏夫法相の命で処刑されたのだ。このように9年目ともなると、作品を通して見知った名前の人たちが、その間に幾人も刑死するか獄中死している。彼らが遺した、脳裏に印象深く刻まれていた文章や、目に鮮やかだった絵が、あらためて蘇ってくる。「死刑囚表現展」とは、そんな緊張感に満ちた場で続けられてきている、ひとつの試みである。

では、今年度の作品から、注目した諸点に、まずは文章部門、次に絵画部門の順で触れてみよう。

昨年、現代的な感覚に満ちた言葉を駆使した短歌と俳句作品を応募してきたのは、音音(ねおん、筆名)氏であった。

キャーママとゲリラ豪雨にはしゃぐ声すぐそこ遥か結界の外

裁判へ出廷する度育ってた空木(スカイツリー)が今日開花

AKB聞いてるここは東拘B

昨年の選考委員会は、この人の言語感覚に沸いた。選考会(毎年9月、非公開で開催)の討議内容も、10月の死刑廃止集会で行なう公開の講評も、すべて文字に起こして応募者に差し入れしているから、音音氏にもその雰囲気が十分に伝わったのだろう。今年、氏は、傍目には思いがけない表現方法を見い出した。「(表現展)運営会のみなさんへ」と題した作品で、昨年の選考会における各選考委員の発言を引用しながら、そこへ自らが介入するのである。選考委員の言葉のひとつひとつに、「そうなんです」とか「こうなんです」と言って実作者が介入すると、まるでそこに対話が成立しているような感じが醸し出される。選考する側からすれば、自分の読み方の「浅さ」があぶり出されるような思いも、ないではない。不思議な雰囲気を湛えた作品で、好評を得た。見方を変えると、獄中の死刑囚が、いかに他者との対話を欲しているかをも示していて、切ない思いがする。

響野湾子(こと庄子幸一)氏は、「紫の息(一)」「紫の息(二)」と題して短歌を555首、「赤き器」と題して俳句を200句、応募してきた。例年通りの、旺盛な創作力である。今年も、自らが犯した行為をめぐる贖罪の歌が多い。贖罪に贖罪を重ねても、それが他者からは認められぬもどかしさ。その思いは反転し、仲間の刑死や、来るべき将来に自らが「吊るされる」情景を描写する歌が続き、読む側は息苦しい。そこへ稀に、いささかユーモラスな趣きを湛えた、自己批評的な歌が立ち現れる。

希望なき死刑囚の身に配らるる 食事アンケート真剣に悩めり

処刑死を思ひつつ食ふ夕食の 生きんが為の苦瓜の汁

次のような歌にも注目した。

刑場で殺されるなら放射能 浴びて廃炉の石になりたし

終息を聞かぬ原子炉我が手にて 一命賭けたし殺されるなら

歌の巧拙を問題とするなら、採るべき歌ではないかもしれない。だが、ここにもまた、社会との接点を激しく求める死刑囚の真情があふれ出ていると感受しないわけにはいかないのだ。

文章部門では、音音氏が「新波(ニューウェーヴ)賞」、響野湾子氏が「努力賞」と決まった。「新波賞」という命名は、音音氏の軽妙な言語感覚にせめても応答したい気持ちの表われなのだが、ご本人はどう思われるだろうか。

他の応募者の作品についても、ひとこと述べておきたい。檜あすなろ(筆名)氏の「自分史」は、肝心の「自分史」に関わる箇所は、これまでの同氏の作品がすべてそうであったように、まだ自分に正面から向き合えていないために読み手にははぐらかされた思いが残った。だが、獄中の死刑囚がおかれている状況を詳しく述べている箇所に注目した。秘匿されている現実が明らかにされない限り、死刑制度の本質を見極めることは難しいからだ。露雲宇留布(筆名)氏の「霊」は昨年同様の長編フィクションだが、書きためていた原稿なのか、昨年の選考委員の批評がまったく生かされていないことが残念だ。死んだ人間が誰かに乗り移るといったプロットだけが先行し、登場人物のひとりひとりが描けていない点がむなしい。氷室蓮司(筆名)氏の「沈黙と曙光の向こうがわ」は未完のまま提出されているので、完成時に触れたい。何力氏の「司法界の怪」は、自分の裁判の実態を通して日本の司法の在り方を問うのだが、表現方法にいま一つの工夫がほしいと思った。

最後に、短詩型で印象に残った作品をひとつづつ。

人間のいくさ始まる呱呱(ココ)の声(石川恵子)

人類がなかなか絶つことのできない「いくさ」の始まりを、「おぎゃあ」という誕生の声に求めた意外性が印象に残る。

大学を終えて娘は東京へ 女優目指して日々励みおり(西山省三)

この歌は、同じ作者による数年前の忘れがたい歌「16年ぶりに会う18の娘 何で殺したんと嗚咽する」に繋がる。作者と娘との交流は続いており、娘は自立した道をしっかりと歩み始めている様子がうかがわれて、どこか、ほっとするものを感じる。作者が死刑囚と知っていてはじめて生まれる思いなのだが、「死刑囚表現展」とは、このような感慨をもたらす場でもあるだろう。

秋風に背中おされて猛抗議(渕上幸春)

別句「鰯雲見ていただけで怒鳴られた」とともに、獄中処遇の厳しさを伝える。日本の行刑制度にあっては、教育刑か応報刑かの議論が依然として必要なのか。獄中で孤立無援の作者は、さわやかな「秋風」にも励ましを受けるのである。

わが罪を消せる手段(てだて)があるならば さがしに戻らん母のふところ(大橋健治)

悪人と呼ばれし我も人の子で 病いにかかり涙も流す(加賀山領治)

薫ちゃん母のもとえと抹殺死(林眞須美)

この方たちも、もっとたくさんの歌や句を詠み続けていただきたい。石川恵子さんの歌に「ひとたびは身辺整理なしたるに改めて買う原稿用紙」というのがあった。皆さんが、いちど手にした「表現」の場を失ってほしくない、放棄してほしくない、と切に思う。

次に、絵画部門へ移ろう。13人から合計39点の作品の応募があった。絵画は、直接的に観る者の目に飛び込んでくるだけに、それぞれの作者の個性が際立ってわかる。そのことは、風間博子さんと林眞須美さんのふたりのなかで、対照的に立ち現れてくる。あらかじめ言っておけば、私の考えでは、ふたりとも冤罪である。粗雑極まりない捜査と裁判の結果、彼女らは取り返しのつかない運命を強いられている。だから、ふたりはたたかう。どのようにして? 風間さんは、正攻法で冤罪を訴えることによって。「幽閉の森、脱出の扉」は、例年の作品と同じく、自らが閉じ込められている暗い閉鎖空間と、外部から差し込んでくる光とが描かれている。状況は厳しいが、ここから脱出できるという希望を捨ててはいないという強い意志が横溢している。いわば、直截的なメッセージ絵画と言えようか。したがって、観る者にとっても、作者の意図は伝わりやすい。

他方、林さんの作品は、私が共感した選考委員・北川フラム氏の表現を借りると、「他人に理解されたいとか、コミュニケーションの可能性をすべて断ち切っている」地点で成立している。画面の中央に描かれている黄色い月や花や赤曲線や四角形を取り囲むのは、常に、昏い黒と青の地色である。内部の明るい色を四方から包囲する地色は、地域で一風変わった生活を送っていたがゆえに事件発生後に自分を真犯人に仕立て上げていったメディア、警察、検察、裁判所、そして社会全体の象徴だろうか。内部に四つの明るい色があれば、それは来るべき将来に獄中から解放された母親の帰宅を待つ四人の子どもたちだろうか。傍目なりに勝手な想像を膨らませることはできるが、それが、作者が込めた深い暗喩にたどり着くことは難しいのかもしれない。しかし、林さんの作品は、観る者を捕えて、放さない。事実、各地の展示会場では彼女の作品をじっと凝視する人の姿が目立つ。メディアが作り上げた「真犯人」像と作品との間に横たわる、深い溝を覗き込むような思いからだろうか。だとすれば、彼女の作品は、その高度な抽象性において訴求力を持っているのだと言える。

8点を応募した宮前一明氏の作品が語りかけるところも多い。多様なテーマを多彩な方法で描き分ける作品自体が興味深いのは当然で、人目を惹いた。氏からは、9月の選考会議が終わった後で、作品と画材についての説明書が届いた。そこには、購入も差し入れもできない和紙(しかも、サイズが大きい)をいかにして入手したか、直径二・五ミリの極細筆ペンしか使えないのに、どんな描法を工夫して太い線を描いたかなどに関して、詳しく説明されていた。それを可能にした努力は尊いと思えるほどに、徹底したものであった。差し入れ物に関しては、もちろん、獄外の協力者の存在があり、両者のコミュニケーションの好ましいあり方が、作品の背後から浮かび上がってくるような感じがした。

藤井政安氏の「年越し菓子」の精緻な細工には頭を垂れる。北村孝紘氏の「トリックアート」をはじめとする6点も作品群もそれぞれ個性的で、才能の乱反射といった趣がある。金川一、高尾康司、高橋和利氏ら常連も、他の誰でもない己が道を歩んでいる。謝依悌氏の作品が例年の迫力を欠いたことはさびしかった。Ike(通称)、伊藤和史、何力氏らも、今後の展開を期待したい。檜あすなろ氏は、紙で作る小物入れの設計図を応募してきた。外部の協力者がそれを基に工作した。立体が登場したのだ。獄中者には何かと厳しく、理不尽な制限が課せられている中で、「表現」上の工夫は新たな一段階を画した。

以上を概観した結果、絵画部門の受賞者は、藤井政安氏に「優秀賞」、林眞須美さんに「独歩賞」、風間博子さんに「技能賞」、宮前一明氏の「オノマトペの詩」に「新波賞」――と決まった。

最後に、「死刑囚表現展」の9年目を迎えた今年は、画期的な動きがあったことを報告しておきたい。文章作品の過去の優秀作は、すでに3冊ほど単行本化されている。例年話題となる響野湾子氏の俳句と短歌も、最近出版されたばかりの『年報・死刑廃止2013』の「極限の表現 死刑囚が描く」(インパクト出版会、2013年)にかなりの数の作品が掲載された。他方、絵画作品に関しては、毎年一〇月東京で開かれる死刑廃止集会当日に会場ロビーに展示する以外では、いくつかの地域で小さな展示会が積み重ねられてきた。昨2012年9月、広島で開かれたのも、そのような小さな展示会の一つであった。そこへ、制度化された枠から外れた表現への関心が深い評論家・都築響一氏が訪れ、死刑囚の表現のすごさをインターネット上で発信した。氏のブログを読んでいる読者は全国各地に多数散在しており、次々と人が詰めかけた。その中に、広島県福山市鞆の浦にあるアール・ブリュット専門のミュージアム、鞆の津ミュージアムの学芸員・櫛野展正氏もいた。氏もまた、死刑囚の絵画表現に衝撃を受け、自分が働くミュージアムで絵画展を開きたいとの打診が私たちにあったのは昨秋のことである。年末には東京へ来られて8年間の全応募作品を見て、展覧会のイメージを固められたようだ。準備は着々と進み、4月20日には「極限芸術–死刑囚の絵画展」が開幕した。「表現展」8年間の応募作品およそ300点が展示された。私も開幕日を含めて二度足を運んだ。築150年の醤油蔵だった建物は、天井も高く、落ち着いた雰囲気をもっている。プロの学芸員の仕事だから、額装も照明も作品の配置も、十分に練り上げられている。壁に掛けない作品は、作者ごとにファイリングされていて、見やすい。

福山駅からバスで30分、瀬戸内海に向かって細長くのびる街を歩くと、あちこちに極限芸術展のチラシやポスターを見かける。スーパー、喫茶店、食堂、船着き場、郷土館――「異形な者」をあらかじめ排除する空気が、ない。それもあってだろうか、人びとは詰めかけた。新聞各紙、「FLASH」や「週刊実話」のような週刊誌、タレントや俳優も来て、出演しているテレビやラジオの番組で広報が行なわれた。複数の美術評論家による評も、新聞各紙や美術誌に掲載された。会期中には、都築響一、北川フラム、田口ランディ、茂木健一郎氏らによる講演会も開かれた。会期は2ヵ月の予定だったが、1ヵ月間延長され、7月20日に終わった。ほぼすべての都道府県から5122名の人びとが来場したという。終了後、鞆の津ミュージアムからは、媒体掲載記事一覧と入場者のアンケートが送られてきた。熱心に鑑賞した様子が伝わってくる。知られざる世界を知ることの重要性がひしひしと感じられる。

もうひとつ付け加えることがある。基金の名称となっている大道寺幸子さんの息子、大道寺将司氏は昨年『棺一基』と題した句集を刊行したが、それが2013年度、第6回目の「日本一行詩大賞」を受賞した。角川春樹氏の肝いりで始まった試みである。選者は、角川氏以外に、福島泰樹、辻原登、辻井喬の4氏である。過去の受賞者を見ても、俳句・短歌・詩の分野での重要な仕事が選ばれている。

「死刑囚表現展」を初めて9年目――事態は、ここまで「動いた」と、あえて言ってもよいだろう。政治・社会の表層を見れば、私たちが目標としてきた「死刑制度廃止」を近い将来に展望することは難しい。個人や集団に許されない殺人の権限を、従来の国家は、戦争と死刑という手段で独占してきた。戦争を未だ廃絶し得ない国家も、人権意識の発揚によって死刑は廃止する――それが全国家の3分の2を超える140ヵ国を占めるまでになった。人類史の、たゆみない歩みの成果である。現在の日本国家は、死刑を廃止するどころか、戦後は辛くも封印してきた「戦争によって他国の死者を招く」戦争行為まで可能な体制作りに邁進している。戦争と死刑を認めることは、「他者の死」を欲する/喜ぶ精神に繋がる。それがどれほどまでに社会の荒廃を招くか。その「手本」は太平洋の向こう側の大国にある。この趨勢を、社会の基層から変えるにはどうするのか。

私たち、「基金」運営会はまもなく、最終年度10年目の展望を討議しなければならない。

当初設定していた時限が来たからといって、止められるか。「11年目以降」を視野に入れなければならないのではないか――だとすれば、そのための条件づくりも含めて、討議はきびしいものになりそうだ。

太田昌国の夢は夜ふたたび開く[40]死刑囚の表現が社会にあふれ出て、表現者も社会も変わる


『反天皇制運動カーニバル』第5号(通巻348号、2013年8月6日発行)掲載

広島県福山市にあるアール・ブリュット専門の鞆の津ミュージアムで、去る4月から7月にかけての3ヵ月間にわたって、死刑囚が描いた絵画の展示会「極限芸術」が開催された。当初は2ヵ月間の予定だったが、好評であったために途中で会期が1ヵ月間延長された。総入場者数は5221人になった。ミュージアムのある鞆の浦は、北前船や朝鮮通信使の寄港地であったことでも名高く、歴史の逸話にあふれた町だが、福山駅からバスに乗って30分ほどかかる場所にある。今回の入場者には、町の外部から来た人が多かったようだが、その意味では、アクセスが容易だとは言えない。そのうえでの数字だから、いささかならず驚く。

展示された300点有余の作品を提供したのは、私も関わっている「死刑廃止のための大道寺幸子基金」死刑囚表現展運営会である。2005年に発足して以降、毎年「表現展」を実施してきたので、昨年までの8年間でそのくらいの絵画作品が応募されたのである(別途、詩・俳句・短歌・フィクション・ノンフィクションなどの文章作品の分野もある)。絵画作品全点の展示会は初めての試みだったが、これは当該ミュージアムのイニシアティブによるものである。会期中に、都築響一、北川フラム、茂木健一郎、田口ランディ各氏の講演会も開かれた。特に都築氏は精力的なネットユーザーで、発信力が高い。その伝播力は大きかったと推測される。

メディアの敏感な反応が目立った。「死刑囚の絵画」という、いわば「閉ざされた空間」への関心からか、テレビ・ラジオ・週刊誌などで芸能人や評論家が観に行ったと語り、やがて複数の美術批評家も「作品の衝撃性」を一般紙に書いた。私は2回訪れたが、今回の展示会を通して考えたことは、次のことである。

一、言わずもがなのことではあるが、「表現」の重要性を再確認した。死刑囚は、いわば、表現を奪われた存在である。社会的に、そして制度的に。その「表現」が社会化される(=社会との接点を持つ)と、これほどまでの反響が起こる。国家によって秘密のベールに覆われている死刑制度が孕む諸問題が、どんな契機によってでも明らかにされること。それが大事である。1997年に処刑された「連続射殺犯」永山則夫氏は、自らの再生のために「表現」に拘った人だが、氏の遺言を生かすためのコンサートは、今年10回目を迎えた。死刑制度廃止を掲げているEUは東京事務所で氏の遺品の展示会を開いて、日本の死刑制度の実態を周知させようとしている。俳句を詠み始めて17年ほどになる確定死刑囚・大道寺将司氏は昨年出版した句集『棺一基』(太田出版)で、今年の「日本一行詩大賞」を受賞することが、去る7月31日に決まった。どの例をみても、死刑囚自らが、自分の行為をふり返った、あるいは己が行為から離れた想像力の世界を「表現」したからこそ持ち得た社会との繋がりである。それによって死刑囚も変わるが、社会も変わるのである。

二、死刑囚の絵画を「作品」として尊重するミュージアム学芸員の仕事であったからこそ、今回の展示会は「成功」した。額装、展示方法、ライティング、築150年の伝統ある蔵を改造したミュージアムそのもののたたずまい――すべてが、それを示していた。

三、「地方」と言われる場合の多い「地域」社会のあり方について。死刑囚の絵画とは、一般社会からすれば、「異形」の存在である。鞆の浦の船着き場、歴史記念館などの公共施設にも、スーパー、喫茶店などの民間店舗にも、この展示会のポスターやチラシが貼られたり、置かれたりしていた。それは、この町の人びとの「懐の深さ」を思わせるに十分であった。特異な地勢の町だが、行きずりの旅行者の観察でしかないとはいえ、寂れているという感じはなかった。私は今年、山陽と道東の市町村をいくつか歩いたが、新自由主義的改革によって地域社会の疲弊が極限にまで行き着いている現実を見るにつけても、その中にあってなお活気を保っている町の例があるとすれば、その違いはどこからくるのだろうという課題として考えたいと思った。

(8月3日記)

第2回死刑映画週間を終えて


死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90機関誌『FORUM90』128号

(2013年3月30日発行)掲載

昨年初めて「死刑映画週間」の開催を試みたが、それに手応えを感じた私たちは、去る2月2日から8日までの7日間、昨年と同じ東京渋谷・ユーロスペースで、第2回目を開催した。存在する死刑制度の実際に即して考え、問題提起を行ない、討論を深めることは、もちろん大事だ。同時に、ひとに備わっている想像力を駆使した映画・文学などの芸術表現は、ひとの心に意外なまでの作用を及ぼすことがあるから、その力を借りて、問題の領域を広げたり深めたりすることができる。昨年は、犯罪と死刑をテーマにした10本の映画を上映してみて、この思いをさらに深めることができた。だから、第2回目を開催することは当然の選択だった。

「死刑映画」と一口にいっても、上映可能な作品が次から次へと湧き出てくるわけではない。10本前後の作品を上映するとなると、借出し料金も相当な額に上る。加えて、旧い作品の場合、配給会社が消えていることもあるし、もはや上映権が切れている場合も多い。新作でも、制作側はロードショーを終えてしまうとDVDソフトの販売に力を入れるから、劇場でのスクリーン上映にはあまり拘らないケースが昨今は出てきているようだ。昨年来、この映画をぜひ、という推薦をくださった方もいる。「この作品をこそ」と多くの人が思う作品で、昨年と今年のリストに上がっていない作品があれば、そんなケースに該当するだろう。したがって、「犯罪」は扱われているが「死刑」そのものが必ずしも主題とはいえない作品も(もちろん、それが「犯罪映画」として、また「時代と人間」の描き方としてすぐれた作品であることを前提として)上映リストに入れることになる。今年の場合、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』がそれである。

今年は、9本の作品を27回上映した(『ヘヴンズストーリー』が長尺なので、2回枠を使った)。観客総数は1308人だった。昨年より数十人少なかった。当日券の観客が6割を占めて、前売り券を持った人より多いのは昨年と同じ傾向だった。私たちがふだんは接していない人がけっこう多く来場していることの証左だろう。

総じていえば、『少年死刑囚』や『真昼の暗黒』のように、観る機会が少ない、旧い日本映画への関心が深いことがうかがわれた。実際にあったことを素材にしている作品の場合は、それを通して、自分が知らない過去の出来事、時代背景、警察・検察・裁判所のあり方、人びとの暮らしの様子、さらには名のみ知る過去の名優たち(その多くは、いわゆるバイプレイヤーである)の姿などを知るという魅力がある。『略称・連続射殺魔』は、永山則夫が生まれ育ち生活した場所や、彼が見たであろう風景をひたすら写し撮るだけで、登場人物も物語もあるわけではない。こんな喩えは監督の足立正生氏には申し訳ないが、私は、グーグルの「ストリート・ビュー」の先駆けのように思える瞬間があった。ともかく、そこにはまぎれもなく「1969年」の日本各地の風景があって、知る者には懐かしく、知らない者には新鮮だ。戸惑いを感じた人もいたようだが、制作当時「風景論」なる熱心な論議を巻き起こしたこの作品から、ある出来事(犯罪)の背後に広がる「風景」を知ることが、どれほど大事なことかを実感できた人が多かったという印象を受けた。

『ヘヴンズストーリー』は、本来なら、この作品だけを論じる機会を得たいほどの長編力作で、4時間38分のあいだ立ちっぱなしの人が10人以上も出るほどの盛況だった(椅子席は92席)。実際に起きた事件をモデルにして描かれてはいるが、それに土俗性も重層的な物語性も注ぎ込まれているので、豊かな膨らみを持つ作品となった。犯罪と被害、被害者遺族が辿らなければならない後半生の生き方、報復、暴力の「連鎖」――などの諸問題をめぐって深いところで考えるよう、観客を誘う作品だった。テレビ・新聞の事件報道では、複数の視線が絡み合うことなく〈単一の〉同調主義的な視点が作り出されてしまうが、この映画は違った。その違いが際立ってもいた。その意味でも「罪と罰と赦しと」という今年の副題にもっともよく見合った内容だった。

観客数という意味で苦戦したのは、韓国の『ハーモニー』と中国の『再生の朝に』だった。収支はトントンにしたいし、上映する以上はできるだけ多くの人に観てもらいたいから、「数」はこだわりの対象である。なぜだったのか、作品論(これが大事だ、ということを私たちは自覚している)を含めて、今後の私たちの検討課題としたい。韓国は、死刑が連発された軍事政権時代とうって変って、この15年間死刑が執行されず、実質的な死刑廃止国となっている。中国は、日本・北朝鮮と並び、国内統治の重要な手段として死刑制度を利用し続けている東アジアの一国である。どちらの国の経験も、いまだに死刑制度を廃絶できていない日本の私たちに示唆を与えよう。東アジアには、なぜか、世界的には20数年前に消滅したはずの「東西冷戦構造」が継続しており、国内矛盾を隠蔽しながら対外的に強硬路線を取る支配層が存在する。ここに生きる私たちは、他のどこよりもまず日本社会のあり方の問題として、このことを分析しなければならない。自らを省みることのない排外的なナショナリズムの煽動において、国内の厳格な刑罰制度としての「死刑」はどんな役割を果たしているのか。両者の間には関係があるのか、無関係なのか。死刑制度廃止が加盟条件になっているEU諸国の場合には、あり得ない課題の設定である。「死刑映画週間」もまた、この社会に強まる「見ず知らずして、隣国に対する理由なき嫌悪感」が現われる一例にならないこと――そのことを私たちは心がけたい。

今年は来場者にアンケートへの記入をお願いした。予想以上に多くの方が寄せてくれた。希望上映作品も、幾人かの方が挙げてくれた。前述のような理由で、すべての希望を叶えることはできないが、今後も示唆と助言はいただきたい。上映期間の延長を希望される方もいるが、現状の私たちの力量では一週間がギリギリの限度である。資金面とスタッフの仕事量の双方の意味から考えて。さらに作品の内容に関して、また死刑制度に関して、ご自分の見解を披歴するいくつもの意見をいただいた。糧としたい。

さて、スタッフは、来春の第3回の実現に向けて準備に入っている。今回来場された方が下さったDVDで候補作品を観たり、各劇場を回ってめぼしい作品を観たりしている。どんなプログラムができるかはまったくの未知数だが、どうか、今後とも批判的なご支援をいただきたい。

第2回死刑映画週間「罪と罰と赦しと」開催に当たって


『死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90』機関誌第127号

(2013年1月25日発行)掲載

昨年開催した死刑映画週間『「死刑の映画」は「命の映画」だ』から、私たちは確かな手応えを感じた。一見したところ「暗さ」と「重さ」を感じさせる催し物だが、にもかかわらず大勢の人びとが詰めかけてくれたから、ということも理由の一つだ。映画を観たり、ゲストの話を聞いたりした人から、死刑制度についての自分の誤解や無知をめぐって、また犯された罪と死刑囚をめぐる思い込みをめぐって、冷静にふり返る声をいくつも聞いた、ということもある。その後、私たちが開く集会や会議に新たに参加している若い世代の人びととは、この映画週間を通して出会った、というのも大きな理由だ。もとより、私たちとは逆に、死刑制度は維持されなければならないと考えている人びとも、この催し物に参加していたに違いない。それも、私たちが望んだことだ。情報公開が極端に制限され、秘められている部分があまりにも大きい社会制度については、賛否いずれの立場に立つ誰であっても、まず、その制度のことを「もっと知る」ことが必要だと思うからだ。

制度のことは、法律や歴史の中でそれが果たしてきた役割を通して、外形的には理解が届く。分からないのは、この制度の下に生きざるを得ないひとの心だ。あるいは、この制度を何らかの理由で廃止した社会に生きるひとの心に、どんな変化が起こるのか、ということだ。その意味では、開催した私たち自身が、10本の作品をあらためて(あるいは初めて)観て、それぞれ深く思うところがあった。生きた時代も場所も異にする多くの人びと――フィクションとドキュメンタリーでは、犯罪が想像上のものか実際に起こったものかの違いはあるが、いずれも、罪を犯した者あるいは冤罪者・被害者・遺族・周辺の人びと、そして脚本家・監督・俳優など映画に関わるすべての人びと――が、「死刑」という、人類が生み出した制度をめぐって、肯定しあるいは否定し、怒り、悲しみ、あれこれ戸惑い、迷い、断言し、苦悩する姿が、そこにはあった。この重層的な複数の思いを、ひとつの固定的な線の上に手際よく整理することはできない。そうしようと焦るのではなく、そこで揺らぐひとの(自分の)心のありようを、じっくりと見つめることが必要だ、と私たちは考える。

今回選んだ9作品から、大まかに言って「罪と罰と赦しと」という共通のテーマを私たちは取り出した。そこから微妙に外れ、別な課題を取り出すべき作品もある。いずれにせよ、ひとを殺めた「罪」を犯した者がいて、それに対する「罰」として国家あるいは或る権力の下で処刑する行為が行なわれるという、明快な因果の関係だけで、事が済むわけでない。済ませてはならない。罪ある者の「償い」と、長い苦悩を経たうえでの当事者の「赦し」の可能性を排除することなく、制度としての死刑の問題を捉えたい、それはひとが持つ人間観と価値観に関わることだ、と私たちは主張したいのである。(2013年1月10日記)

【追記】詳しい上映情報については、会場となるユーロスペースのHPをご覧ください。

最近の死刑関連図書から


『出版ニュース』2012年2月中旬号掲載

死刑とは、人の心をかき乱す制度だ。悲劇的な事件が起きた時と、死刑判決が確定する時点では大きく報道されて、否応なく社会的関心が高まる。だが、被害者や加害者の家族でもない限り、関心はそこで止まる。第三者の一時は激昂した心も、死刑確定者のその後・執行の実態などには何の関心も示さない。それだけに、ひとりの死刑確定者が処刑されて、何が終わったのか、何が始まろうとしているのか――それを問う作業は貴重だ。書物であれ、映画・テレビ番組であれ、人びとが冷静な気持ちを取り戻して、事件とそれに関わった人びと・その心の揺れ動き・処罰のあり方などについて思いをめぐらす機会を提供してくれるからだ。最近の書物の中から、その意味でとくに印象に残る二冊を紹介したい。

堀川惠子『裁かれた命――死刑囚から届いた手紙』(講談社、2011年)は「意外性」に満ちた本だ。本書を生み出したのは、著者自身がディレクターを勤めたテレビ番組であった。検事としてかつて一人の青年に死刑を求刑した人物が抱え込んだ苦悩に迫って、それは見応えのある番組であった。元検事はメディアで発言を求められる場合も多く、それを見聞きしていると、確信を持った死刑肯定論者だと人は思っていただろう。元最高検察庁検事、土本武司氏である。著者は別の死刑事件の取材で、土本氏との面談を続けていた。雑談のときに、土本氏は意外にも、死刑判決について従来の印象とは違う抑制的な発言をすることに著者は驚く。おそらく、数ヵ月の時間をかけて取材する側とされる側には、信頼感が生まれていたのだろう。土本氏は、捨てるに捨てられずにきたある死刑囚の9通の手紙の存在を明らかにし、それらを著者に示したのである。

はるか40数年前の事件、その5年後には死刑が執行されている。長い歳月を経て続いてきた土本氏のこだわりに著者も心が騒ぐ。9通の手紙と事件当時の新聞記事のみを手がかりに、処刑された人物・Hの人生をたどる著者の旅は始まる。か細い糸が、過去にHと交友のあった人びとや周辺事情に結びついていくさまを描いたのが本書なのだが、それもまた、意外なまでの展開を遂げていく。前著『死刑の基準――「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社、2009年)でも顕著であった著者の取材力の賜物であろう。

本書の展開は二本の糸によって繋がれている。一本は、土本氏と、控訴審以降の国選弁護人家族が持ち続けていたH関連の手紙や資料、そして家族にすら忘れ難い印象を遺していた、Hに寄せる弁護人の深い思いのこもった数々の言の葉である。もう一本は、Hの勤め先だった小企業主の夫婦、小学校時代の旧友、奇跡的に繋がっていく遠い縁者・近い縁者たちから伸びてくる糸である。二本の糸が結び合わさった終章で、著者は言う。「裁判は法廷の中だけで判断を迫られる」が、「法廷に現れる資料は万全では」ない。「限られた材料で判断を下さなくてはならないという裁判の大前提、そして人が人を裁くことの不完全さを、裁く側は頭に入れておかなくてはならない」。

著者の執念は最後に、群馬県にひっそりと埋葬されているHの墓にたどり着く。それを聞いた元捜査検事はすぐにその墓を訪れた。大輪の百合を手向け、線香に火をつけ、目を閉じて手を合わせた――問題の根源を照らし出す、静かな末尾である。「被害者とご遺族については多くを触れていない」が、「44年前の悲劇を掘り越して遺族にぶつけることは、取材者の範囲を超える」との判断も示されている。「それでもあえて触れるのならば」「もう一冊分の重く深い内容になることを胸において取材した」。著者が、事件の全体像を視野に入れて仕事を進めたことを、この言葉は物語っている。

取り上げたいもう一冊は、『年報・死刑廃止2011 震災と死刑――生命を見つめなおす』(インパクト出版会、2011年)である。この「年報」は15号目を数えるに至った。一年間をふり返って、その年の重要な出来事をめぐる諸論文や座談会に加えて、「死刑をめぐる状況」を照らし出すさまざまな角度からの情報が毎号載っている。巻末には、死刑判決を受けた人びとのリストがあって、刑死したり獄死したりした人の枠は、薄くアミカケされているから、毎年この頁を繰るたびに、私は名状しがたい気持ちになる。ともかく、この15冊には、前世紀末から今世紀初頭にかけて「国家の名の下に殺人が行なわれる死刑という制度」と、この社会がどう向き合ってきたか、あるいは向き合うことを忌避してきたか、の痕跡が印されている。

最新の「年報」は、3・11の事態を受けて、ジャーナリストや弁護士が「震災と死刑」をめぐって語り合う座談会が巻頭におかれている。そこには、被災地の刑務所での避難指示に触れた箇所があって、宮城刑務所のいわき拘置支所の受刑者が全員東京拘置所に移送された事実が明かされている。建物の破損がひどく、原発にも近いからである。すると、刑場を持つ施設が原発事故汚染区域内にあったならば、死刑確定者も「安全な」場所に移送するのか、という問いが生まれる。最終的には死刑を執行するために「安全な」場所へ移す? これは、死刑という制度をめぐる本質的な問いかけに繋がっていく。また、或る死刑囚は、事故を起こした原発内での仕事に従事することを申し出たという。それは「人道に反するから」許されなかった。このようなエピソードが語られるというのも、この「年報」ならではのことである。多様な視線が交錯して、事態を見つめる目が豊かになっていく。ある事柄の現実に届くためには複数の視線が必要であること――それは死刑をめぐっても、そうなのだ。

(1月30日記)