連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (その49)

「偽の友」マスコミ商売人批判 4.
パレスチナ問題に限らず「寸鉄人を刺す」核心を避ける商売とは?

2000.12.3

随時追加「編集長日記風」木村愛二の生活と意見
2000年12月22日から

 パレスチナ問題に関する11.12(日)集会を契機とする「偽の友」マスコミ商売人批判は、今回の4.でシリーズ終了にする。今回は、パネラーのマスコミ業界の商売人に対してよりも、それらのイカサマ商売を成立させている経済的な基盤の「買い手」、または「受け手」と、その中間の商売人としての「組織運動中毒患者」への批判に、力点を置く。人類史を紐解き直せば明らかなように、個々の天才的人物の出現すらも、その当時までの人類全体の知的水準の地平線上にしか生じないのだからである。

「奇を以て勝つ」気のない支援運動は怠け者の詐欺商法

「組織運動中毒患者」への批判の視点は、彼ら自身が掲げるパレスチナ解放の大義を基本とする。自らが掲げる大義、パレスチナ問題で、本当に勝つ気があるのかないのか、または、真相を見抜く気があるのかないのか、という姿勢の点検にある。さらには、その構えがない運動の問題点を、厳しく指摘することにある。

 私の考えでは、最も重要で決定的かつ核心的な問題点を避ける議論は、無意味、いや、むしろ、結果的には利敵行為であり、無責任である。ただし、自分では「世のため人のため」と信じて、この種の組織運動に参加している市民運動家にとって、このような観点に基づく批判は、まさに晴天の霹靂であろうし、彼らは、私に向けて激しい怒りを覚えるかもしれない。いや、ほとんど、そうなるに違いない。しかし、私は、敢えて言う。あえて挑発する。胸を貸してやるから掛かってこい、と大声で叫ぶ。

 もしも、その市民運動家が、本当にパレスチナの解放に尽くしたいのであれば、極右政治的シオニストに勝たなくてはならない。すでに私は、謀略を見破り、それを打ち砕くことの重要性を、何度も指摘した。つぎには、勝てる布陣の築き方を、検討しなければならない。

 戦争に関する議論ともなれば、孫子、クラウゼヴィッツ、ナポレオン、その他諸々の戦略家の意見を拝聴すべきであろう。私は、自分の争議中に、不十分ながらも戦略論を学んだ。その時、最も強く胸に響いたのは、どの戦略家も、簡単に言うと、「皆が賛成する意見は採用しない」と言う主旨の意見を述べていることであった。この点についての私なりの理解を、これまた簡単に述べると、「皆が賛成する意見」は、いわゆる無難な、締まりのない、在り来たりの戦法なのであって、それでは勝てないのである。むしろ逆に、敵に見透かされたりして、付け込まれる場合すらあるのである。孫子は、「正を以て合し奇を以て勝つ」と述べた。正攻法でも対等に渡り合い、奇襲によって勝つのである。奇襲を掛けるためには、敵の弱点を発見して、そこに総力を注ぐ体制を作らなくてはならない。

 私は、相手が極右政治的シオニストの場合には、この「弱点」と謀略とが同じものだと考えている。だからこそ、なおさら、「ガス室の嘘」と「ナチ協力の極右」という決定的な問題点を避ける「偽の友」は、許し難いのである。およそ、中東問題の研究者で、この2つの問題を全く知らないなどということは、有り得ないのである。知っていて避けるのは裏切りである。よく分からないのなら、阿呆なのだから、黙って、すっこんでいればいいのである。でなければ、無知な大衆を騙す売文業者、または言論詐欺師となる。

 さらには、「寸鉄人を刺す」、または「寸鉄人を殺す」という格言の意味を噛み締めるべきである。この格言は現在、風刺の鋭さの比喩になっているが、一寸の刃物でも人を殺すことができるからこそ、この格言が生まれたのである。名刀ではなくとも、怪力の持ち主ではなくとも、急所に刃物を刺せば、人を殺せるのである。

 私は、殺人よりも言論で勝負を付けたい。言論で勝負が決まらない問題を暴力で解決すれば、報復の歴史が繰り返されるから、言論の勝負を選ぶ。その立場から言うと、「ガス室の嘘」と「ナチ協力の極右」という急所を知り、そこを突く鋭い「ホロコースト見直し論」を身に付け、この言論の武器に磨きを掛け続けることなしには、パレスチナ解放運動の真の勝利は不可能である。その努力を怠れば、これまでの人類史の変動期の数多の死屍累々の有様を、またもや繰り返す結果になるであろう。

 最大の問題は、この種の核心的な問題点を避ける組織の運動が、実は、単なる小利口な怠け者の商売でしかないということなのである。

「ガス室の嘘」「ナチ協力の極右」どころか神殿考古学も抹殺

 さて、特にメモする気も起きなかったので不正確なまま、12.15.頃として置くが、市民運動「パレスチナ子供のキャンペーン」から、分厚い封筒が届いた。前回紹介したカンパ要請などの数枚の印刷物と一緒に、『サラーム』と題する機関紙の51号が入っていた。右肩に小さく「サラーム=平和」の説明が付いている。B4判で16頁の小綺麗なリーフレットである。これも、この種の市民運動では経済的な成功の部類に属する証拠である。11.12(日)の同会主催の「パネル・ディスカッション」における司会とパネラーの発言についての記事は、4頁分に要約されていた。

 だが、これまた私の予測通りのことであったが、上記の要約には、私が発した「リクードは極右ではないか」との質問と、それに対する回答が入っていない。この部分の発言は、会場の皆の前で公開されていたのである。この部分だけの取り扱い方については、参加者との質疑応答だから割愛し、パネラーの発言を優先したという弁明も成り立つであろう。しかし、式次第として明記され、質問に答えてパネラーが追加の意見を述べているのであるから、卑しくも市民運動を名乗る団体の仕事としては、やはり、講師に対してだけではなくて、わざわざ参加した市民に対しても、失礼に当たると言うべきであろう。しかも、同じく公開されていた部分、最年長のパネラー、板垣雄三による非常に興味深い「神殿」の考古学に関する発言も、やはり、入っていなかったのである。

 ともかく、偶然というよりも必然的な結果として、このシリーズで、これまでに私が重視し、それ故に特記した2つの部分が、完全に抹殺されていたのである。双方ともに、平山健太郎と立山良司の2人の「偽の友人」の化けの皮を剥がすためにも、決定的場面だったのである。もしも、私が、この機関紙の要約記事だけを読んだのだとしたら、面白くも何ともない時間潰しの薄味談義としか、理解できなかったであろう。

 ところが、それでも、この機関紙は、「パレスチナ子供のキャンペーン」の目的には叶っているのである。この他の記事には、「気の毒な」パレスチナの子供の状態が溢れている。宗教で言えば、篤志家からのお布施を誘うための慈善三昧境の仕掛けは、まさに盛り沢山である。有り難い教会・神社・仏閣、賛美歌・祝詞・お経の方が重要なのであって、こ難しい議論は不要なのである。古代ユダヤ教の神殿の場所が違うなどという疑問が出てきては、座が白けてしまって、かえって困るのである。

 ましてや、「ガス室の嘘」とか「ナチ協力の極右」とか、などともなれば、苦労して準備した宗教的、慈善的な三昧境の雰囲気が、ぶち壊しになる。場所柄を考えて、ご遠慮下さいということである。簡単に言えば、「微温的な運動」ともう言えるのであるが、実は、そう簡単な現象ではないから、いささか厄介なのである。

半気違い暴力主義者の日本赤軍も不勉強を露呈

「類は友を呼ぶ」と言うが、もう一つ、「パレスチナ子供のキャンペーン」の集会参加者について、奇妙と言えば奇妙、当然と言えば当然の特徴がある。これは同種のNGO(非政府組織)とか、NPO(特定非営利活動)とかを名乗る組織の多くにも共通する現象なのであるが、いわゆる新左翼に属する連中が、周囲を徘徊しているのである。

 これまた、旧左翼の数多の誤謬と魅力のなさが生み出した現象でもあるのだが、日本赤軍の重信房子の逮捕を知って、「懐かしい」などと呟くような薄汚い半気違いの阿呆な連中が、お上品な奥様方のカンパを当てにする市民運動に加わるという、一見、理屈に合わないと思える現象が、そこここで生じているのである。しかし、実は、「金の切れ目が縁の切れ目」とか。逆に言えば、「地獄の沙汰も金次第」。経済的に成功する運動の周辺には、常に群がる連中、いわゆる左翼政治ゴロが増えるであり、理屈に合っているのである。

 私は、すでに、この種の右だか左だか分からない「類は友を呼ぶ」現象の参加者について、「組織運動中毒患者」という分類を提唱している。半分は気違い、または、半分は狂信者のことである。そのほとんどは、いわゆる思考停止型である。「思考停止」という言葉を私が最初に知ったのは、戦前の陸軍士官学校の教育を「思考停止教育」と批判する文章によってである。復唱の強制による丸暗記の叩き込みである。若い頃に、この種の教育を受けると、独自の思考能力が失われて、叩き込まれた教典の通りに突っ走るようになる。

 パレスチナ「解放」の題目を、テンツク、テンツク、姦しく唱えながら、「ガス室の嘘」や政治的シオニストが「ナチ協力の極右」だったことなどを理解しようとしない自称左翼は、ほとんど「思考停止」型である。特に、「ガス室の嘘」に関しては、旧左翼の代表の日本共産党と、「反日共」の最たる日本赤軍が、同程度に「思考停止」なのだから、最早、これ以上、何をか言わんや、である。

 重信房子は、日本国内に潜みながら、「中東レポート」を『人民新聞』に寄稿していた。2000.10.25.発行の通巻1058号、つまりは、いまだに続くパレスチナ内戦の最中に発行された号に、10月17日に記したという日付入りのトップ記事が載っている。高校生程度の実に稚拙な寄せ集めの材料による文章であるが、細部の批判までする気はない。私が、「ナチ協力の極右」の系統と指摘する挑発者、アリエル・シャロンについては、「極右」の形容をせず、単に「リクード党のシャロン党首」と呼び、「難民キャンプ虐殺の指揮官」と記している。単に「指揮官」とするのは、少なくとも読者誤導になる。正確には、レバノン侵略の当時の国防大臣であり、総指揮官であり、「難民キャンプ虐殺」を実行した傀儡軍に、武器を供給した責任者として、「偽」イスラエルにおいても非難されたのだった。その後も、すでに私が、この日記風で、拙訳『偽イスラエル政治神話』の一部を紹介したが、違法占領地への入植地拡大の先頭に立っていたのである。このいうな薄味報道は「偽の友」の特徴である。

真相の究明と基本的な問題点を避ける商売は宗教の後継

 以上のように、一見、ホンンワカ・ムードの奥様方相手の市民運動と、半気違いの暴力主義者の集団との間に、薄味報道を含む共通点があるのだが、これらをすべて人類史上から達観すると、要するに、阿片としての宗教の継続の商売であるが故の共通点なのである。ビート・タケシが、一時、「10人に1人騙せれば新興宗教は成り立つ」との主旨の発言をして、大騒ぎになったが、その通りなのである。いや、むしろ、その100分の1の1000人に1人でも騙せれば、日本では信者が13万人の巨大集団になるのである。

 大義を掲げて集団を形成し、運動を広げると称して薄味化を繰り返し、いわゆる経営問題の迂回作戦と称して、綻びを縫っては縫っては、ごまかし続け、ついには矛盾だらけとなり、当初の売り込みはどこへやら、右顧左眄、右や左の旦那様、乞食根性で堕落し果てる有り様の自称革新政党などは、その典型である。

「科学的」などと称しながら、結局は、阿片としての宗教の後釜を狙っただけのことである。「科学的」とは何かと言えば、ニーチェの「神は死んだ」の哲学を悪用し、頭蓋骨の計測装置まで発明したナチなどにも共通する近代神話の用語でもあったのである。言葉に騙されてはならない。実態を調べ尽くすことが肝要なのであるが、この問題は、「科学の世紀」でもあった20世紀の締めとして、別途、詳しく論じたい。

以上で「偽の友は公然の敵より悪い」シリーズは全部終り。
以上で(その49)終り。(その50)に続く。